창작과 비평

[新年コラム]第2期キャンドル政府と第22代国会議員選挙 / 白楽晴 [2023.12.29]

 


白楽晴テレビ視聴者の皆さん、「チャンビ週刊論評」読者の皆さん、こんにちは。新年を迎えるにあたり、皆さんのご健康とご多幸をお祈りいたします。


今回の新年コラムのタイトルを「第2期キャンドル政府と第22代国会議員選挙〔今年4月、以下では総選〕」としました。“第2期キャンドル政府”を先にしたのは、その成立が総選の前なのか、後なのか、あるいは同時なのかがわからない状況で、両者の前後関係を予断するのではなく、いずれにせよ、私たちが集中すべき課題が第2期キャンドル政府であることを強調するためです。

昨年の新年コラムを、私は「今は国の体をなしていません」という言葉で始めました。1年が経った今、国の体はより惨憺たるものになったと言わざるを得ません。その第一の責任は無能かつ無道な政権の暴走にあるでしょうが、分断体制の属性も一緒に考えてみる必要があります。つまり、この怪物のような分断体制を退治する作業が滞った時、国の体はさらに奇怪になり、私たち各自の心の中に巣くう怪物の威力もまた一層強まるのです。

時局が揺れ動いています。こうした時期に諦め萎れて暮らす代わりに、世の中を揺り動かすことこそ、わが国民の体質であり伝統です。とはいえ、正確な診断をしてそれに適した処方を提示するのは確かに難しいことです。そうであるほど、私たちはよくわかりもしない政治工学的なディテールに拘泥せず、健全な常識をもった市民が納得できる基準を立て、それに忠実であるべきだと信じます。

 

基準は第2期キャンドル政府の樹立

私たちが最優先すべき当面課題は“第2期キャンドル政府”の樹立であり、他の時局問題もその基準に照らして判断すべきだと私は主張してきました。現行憲法によれば、政権交代は2027年に起こることになっています。しかし、その時まで我慢できないとか、いや一日たりとも我慢できないと政権退陣を叫ぶ市民がキャンドル・デモを続けています。私自身は、退陣がいつ実現するかと予言するより、2023年にできなければ、総選の局面へと差しかかる2024年はさらに難しくなるだろうと診断しました(2023年新年コラム「今まで通りの生き方は止めましょう」「白楽晴テレビ」2022年12月30日)。まさにその2024年を、退陣が実現できないまま迎えることになりました。

その反面で総選の論議は、政界はもちろん、マスコミや学界でも殊の外早く始まり、言説の大半を席巻している形勢です。大衆の退陣運動が早くから起きただけに、「選挙」という手慣れたフレイムに論議を押し込めようという試みだったのかもしれません。それでも、退陣言説は静まりもせず、市民によるキャンドル行動の熱気も冷めずにいます。

総選が重要な政治日程であることは厳然たる事実です。また、議員になることを夢みる人々が総選の準備に没頭するのを責める理由はありません。問題は、第2期キャンドル政府の建設を基準にして総選に接近するのかという点です。基準をそのように定めれば、2024年総選で与党と李俊錫新党などの議席の合計が過半数を超える事態はキャンドル革命に致命的だが、だからといって、野党の総選の勝利だけでキャンドル革命が再出発するだろうという保障はどこにもありません。2020年に「共に民主党」が総選の勝利にオールインして180議席の大勝をとげた結果がどうなりましたか。また、2022年大統領選挙も第2期キャンドル政府よりも第4期民主党政府の樹立を優先目標に掲げた結果、「政権交代」フレイムに押されて敗北したではないですか。


基準を忘却した総選言説

第4期民主党政府の樹立の試みが失敗したのは、キャンドル革命の進行という時代の流れに対応できなかったためです。民主党の総選勝利がすぐにキャンドル政府の成功へつながるだろうという幻想もまた、時代の主要な戦線が両大政党の間ではなく、キャンドル対反キャンドルの間に、言いかえれば、民主党の内部にも引かれているという事実を見逃した過ちでした。

第2期キャンドル政府の樹立という基準から逸脱した野党の総選言説には様々な種類があります。最も低劣なタイプは、検察独裁の本質から目を背けたまま総選勝利のために「司法リスク」がある李在明代表を交代させるべきだという主張です。このでたらめな主張に、ここで長々しく反駁する考えはありません。私が強調したいのは、反駁する論理もまた総選を至上課題と見なす限りは、同じフレイムの中での言い争いを重ねることになり、結局は「司法府の判断」だけを虚しく待つという身の上になるでしょう。

新種のオールイン論もあるようです。李在明代表を中心に総選を行なうにせよ、一議席でも多くを獲得する以外のことは考えるなという調子です。そうなると、とにかく「中道勢力」をもっと獲得しなければならないのに、ひょっとしたら誰かがキャンドル革命を掲げて退陣をあげつらうなどの「強硬発言」をして「中道票」を逃すんじゃないかという心配症に陥ります。もし李在明代表までがそうした気配を見せるなら、総選に勝ったとしても第2期キャンドル政府からはむしろ遠ざかるという「小事に固執して大勢を失う」結果になる公算が高いのです。

いわゆる反李在明勢力だけでなく李代表に友好的な相当数の人士の中にも、選挙制度の問題で民主党が「小事に固執して大勢を失う」可能性を懸念します。2019年に民主党を含む、いわゆる4+連合に合意してつくった「準連動型比例代表制」を今度は必ず実行すべきだというのです。私はこの場合にも、第2期キャンドル政府の樹立を基準と見なす論議が関鍵だと考えます。

実際、私はこの基準に沿った最善の戦略が何かを提示する能力はありません。2020年総選を前にして「巨大両党の衛星政党遊び」を明白に批判しました(「4・15総選、誰をどのように審判するか」、チャンビ週刊論評、2020年4月1日)。しかし今は、当時の立場をそのまま繰り返しにくい事情もなくはありません。まず、2020年のような「衛星政党遊び」が再現される可能性は高くないと思われます。「国民の力(当時の未来統合党)」党は初めから選挙法の改定に反対したため、その当時も今も衛星政党づくりを躊躇しないのに反して、民主党はそうした小細工を繰り返すのは自滅に近いと自らわかっているでしょう。「比例連合政党」論議もありますが、結局は準連動型を甘受せざるを得ないなら、並立型に近い制度をつくろうとするようです。そういう場合、キャンドル市民がどれほど強く糾弾すべきか、あるいは理解する姿勢をとるべきか、その判断は難しいです。

4年間に変化した事情も少なくないからです。民主党は選挙法の改定に協力した仲間の政党を裏切った後、2022年大統領選挙での敗北という代価を払ったのです。薄氷の争いで正義党の協調を引き出すために選挙の途中で、李在明候補が「反省」を口にし、小細工は繰り返さないと約束しましたが、沈相汀候補から冷たく無視されました。正義党のその後の没落がそのためだったかはわかりませんが、いわゆる「第3地帯」で正義党の存在感はほぼ消え去り、準連動型の施行による主な受恵者は李俊錫や李洛淵の党になる可能性が高まりました。

議席数に執着して約束を軽く見なすことはキャンドル政府樹立の努力を傷つけるはずです。その反面、無条件で約束を守れという催促も、総選依存の判断であり助けになりません。立法府の比例性の強化は、「国民の力」党が話も出せないようにする議員定数の増大なしには不可能なことでした。キャンドル革命の進展を通してこそ実現できる課題なのです。こうした複雑な事案に、道徳的な判断を過度に持ちこむのは無理な言説になるでしょう。連動型比例制が「原則的に」より優れた選挙制度だという主張も総選優先論の「上品な」バージョン、または総選・大統領選挙に対する現実的関心よりも何が理論的に最上の制度なのかを教えるのに熱中する態度になりがちです。

李在明代表がどのような決定を下すにせよ、単なる第一野党の代表ではなく第2期キャンドル政府を見通す国家的指導者として、どうすれば時代的課題に対応する最善の道なのかを国民に説得できなければなりません。「恰好よく負けたからって何になる?」は答ではありません。民主党がキャンドル政府に対する確固たる目的意識を持つ限り、国民は決して総選を負けさせないだろうという信頼と感謝の心をもち、「しかし、今回こそは勝つにしても大勝しなければならない」という事情を丁重に説明しなければなりません。さらに、そうした支持を受ける資格がある政党であり、指導者であることを実行により示さなければならないでしょう。


既得権勢力に対する正確な評価に基づく戦略を

2022年大統領選挙を前に拙書(『近代の二重課題と韓半島式国づくり』、チャンビ、2021年)を刊行し、私はキャンドルと反キャンドル勢力間の「乾坤一擲の大会戦」を語りました(18頁)。予断を自制しましたが、内心でキャンドル勢力の勝利を予想もしました。私の現実診断が不適切で、何よりも韓国社会の既得権勢力の力を過小評価していたのです。新年には退陣運動であれ、総選戦略であれ、そうした過ちを繰り返してはなりません。

2018年の南北・米朝首脳会談の成果が、2019年ハノイ米朝会談の失敗によって進展できなかったことに関して、南側当局の小心さや北側当局の核兵器への執着のせいだと言います。もちろん、全く外れた解釈ではありません。だが根本原因は、南であれ北であれ、米国の根深い対北敵対路線と朝鮮半島に対する分割統治戦略を変えうる実力が不足していたためだったと認めるべきです。また、北側政権の対米自主性を評価はしても、彼らもまた分断体制内で自分の生存を最優先する集団であることを認識すべきでしょう。その点で北が、核問題の外交的解決をひとまず差し控え、統一の代わりに「国家対国家」の関係を優先する態度へ転換したことにより私たちの視野を整理してくれた面があります。否、「わが民族同士が自主的に」統一しようという、この間の北側の主張が現実的な方案になりえなかっただけに、「大韓民国」という国号を使用すること自体は南北連合に向けた一歩前進と見ることができるでしょう。

何よりも韓国国民の場合は、対米・対北関係の主要な戦線がまさに国内に引かれているという事実を肝に銘じる必要があります。文在寅政権になった後も、民主党が国会で圧倒的な多数議席を占めた後も、分断体制の既得権勢力が行政府と立法府を含めた社会のあちこちに、どれほど頑強に巣くっているかをもっと熱心に検討して把握すべきです。

こうした形勢で、第1期キャンドル政府の成立自体が、保守勢力一部との協同があって可能だったという事実も記憶する必要があります。もちろん、キャンドル群衆の威力に押された分裂でしたが、国会の弾劾決議だけみても朴槿恵大統領が生き残れば自分たちはみんな死ぬという危機意識が相当数の与党議員の離脱を生んだし、キャンドル・デモへの既得権マスコミの控え目な応援も無視はできません。百万、二百万の群衆が再び集まれば尹錫悦の弾劾が達成できるだろうという希望的な期待は禁物です。2016~17年の大抗争のような奇跡的な事件が、歴史上そのまま繰り返されることは見つけがたいだけでなく、弾劾により一度滅びかけた守旧勢力の対策もまた同じでないのは明らかです。総選に関しても、大統領室や「国民の力」党よりもはるかに長期的かつ戦略的に思考する集団は、与党の勝利にすべてを賭けるよりも選挙後の政界改編とか、与野党を網羅した既得権勢力が合作する内閣制改憲のような多様な対策を考慮中と見るのが正しいようです。

国際的な環境も決してキャンドルに友好的とは言えません。パレスチナのガザ地域で、世界民衆の声に耳を閉ざしたまま、米国の支持下で横行している民間人の大量虐殺を見ても、人類全体の生存を脅かす気候危機に対する資本の狡猾な回避策を見ても、世の中の強者はわが社会の変革を喜ぶはずがないのは当然です。しかし、韓国内に引かれた分断体制の主要な戦線中の一つを私たち国民が突破するのを外国が力で妨げることはできません。


「後天開闢」の過程内での第2期キャンドル政府

6年前のキャンドル大抗争は、明らかに国民の巨大な憤怒が爆発した事件でした。同時にそれは、参加した大多数の群衆が「ああ、こういう世の中もあるなあ」という実感を初めて味わう歓喜の体験でもありました。いわば、申東曄詩人の表現通り、「天を見た」のです(2019年新年コラム「天を見た後に何をすべきか」、チャンビ週刊論評、2018年12月27日)。

大衆の憤怒と言えば、今日のそれは当時より大きいのであり、決して小さくはありません。ただ、弾劾であれ、「自意半、他意半」の辞任であれ、今回は広場のキャンドルだけで成就するのは難しいということです。今は一つの広場にみんなが集まるよりはあちこちで同時多発的に怒りが噴出しているという状態です。執権勢力の内部葛藤もむしろより深刻化したのではないかと思われます。ただ、「玉磨かざれば器をなさず」という諺があるように、こうした力をうまく結集する大衆の知恵と有能な政治的リーダーシップが関鍵です。「第2期キャンドル政府」の樹立は、もう一つの歩んだことのない道を行く、それこそ開闢次元の巨大な歴史的課題なのです。

実際、この地では19世紀半ばに水雲・崔済愚先生の東学を通じて新しい世の中の夢と設計が登場したのです。当時始まった後天開闢運動は1894年の甲午農民革命、1919年の三・一運動、島山・安昌浩先生などの独立運動家・革命思想家の献身、少太山・朴重彬先生の圓佛教の開教、そして分断時代になった後も、4・19と5・18、6月抗争など綿々と続きました。その流れがわが時代のキャンドル革命により大きく噴出したのです。

もちろん、こうした民衆の覚醒を抑え込む積弊の歴史も長期にわたります。儒教国家の本分を取り戻そうとする最後の身悶えだったと言うべき正祖の改革が失敗した後、勢道政治、東学革命軍の弾圧、植民地統治、分断時代などを経ながら、国は大打撃を被り、庶民の心性も疲弊しました。それでもキャンドル大抗争を実現させてキャンドル政府を成立させた私たちであるからこそ、第2期キャンドル政府の誕生を自信をもって語ることができるのです。


憲政中断の事態を早く終わらせるべき

尹錫悦政権の登場を、私はキャンドル革命の最中に起きた一種の「変則的事態」と規定したことがあります。今、この国は「憲政中断」の事態だと語ったこともあります。これは尹錫悦政権の暴走が憲法を破壊しているという非難を風変りに表現したものではありません。尹政権の憲法破壊行為の以前に、キャンドル大抗争で87年体制の寿命が尽きたし、現行の87年憲法は正常的な作動を止めたという判断を含ませた言葉です(〔白楽晴の学び道090〕白楽晴思想の一貫した急進性の根はどこにあるのか、白楽晴テレビ、2023年12月22日)。

6月抗争で新憲法が制定され、87年体制が形成されたのは、わが歴史の画期的な進展でした。だがそれは、分断体制という土台を崩せないまま守旧勢力との不安な妥協により誕生した現実だったので、それにより始まった民主化過程が一定程度進展した時、よりよき体制へ越えていくべき使命を帯びた体制でした。1998年金大中政権の成立により最初の平和的かつ水平的な政権交代が実現されたのに続き、6・15南北共同宣言が分断体制を解体する可能性を開きました。盧武鉉政権は南北の和解と協力が一層拡大される中、「特権と反則のない社会」という新しい体制へと進んでいく契機でした。

しかし、盧武鉉の改革は失敗し、李明博・朴槿恵政権が成立しました。彼らは金大中・盧武鉉直前の盧泰愚・金泳三時代を継承するのではなく、87年体制を崩して再び政権喪失の危険がない体制への移行を推進しました。南北関係でも、6・15宣言だけでなく敢えて盧泰愚政権の南北基本合意書以前の時代へ戻っていこうとしたのです。李明博が始めて朴槿恵が継承した、こうした逆転の試みを李南周教授は「漸進クーデター」と規定しましたが(李南周「守旧のロールバック戦略と市民社会の“大転換”企画」、『創作と批評』2016年春号)、この銃剣なしのクーデターを阻止して朴槿恵政権を退陣させたのが2016~17年のキャンドル大抗争だったのです。

そうして、87年体制より優れた体制の建設努力が再び始められました。この試みが順調でなかった結果、87年体制が比較的正常に作動していた時代の政権交代とは質的に異なる事態が起きたのが、尹錫悦の執権という「変則的な事件」です。李明博・朴槿恵の“漸進クーデター”ともまた別次元の暴走、朴正煕・全斗煥時代より李承晩時代の北進統一路線と盗賊政治――英語でkleptocracyという権力による公然たる略奪と不正蓄財の政治――が展開されています。否、良かれ悪しかれ、李承晩が標榜していた反日外交さえ親日献納路線へと代わりました。あの遠い大陸の後進国でもない大韓民国で、21世紀の大明天地で、こうした途方もない事態がどれだけ持続できるでしょうか。

どれだけ持続するかは、結局は天が定め、民心が定めるはずです。ともあれ、すでに生命力が尽きた87年憲法、体制の裏支えが消えた一種の“代理憲法”で定められた政治日程を私たちが固守すべき義務はありません。当面する政治局面と近づく総選では、第2期キャンドル政府の樹立に集中すべきです。それが“成功するキャンドル政府”へと帰結する場合、世界史的にも誰も歩んだことのない道を私たちが開くようになるでしょう。





白楽晴(ソウル大学名誉教授、『創作と批評』名誉編集人)

翻訳:青柳純一