韓国戦争の記憶と脱冷戦 : 韓国戦争写真集を中心に

論壇と現場 | 連続企画・韓国史100年をもう一度見る①

 
 
鄭根埴  ksjung@snu.ac.kr
ソウル大学校社会学科教授。著書には、『抗争の記憶と文化的再現』『地域伝統とアイデンティティの文化政治』『8・15の記憶と東アジア的地平』(共編)などがある。
 
 
 

1.60年という年月

2010年は、韓国戦争が勃発してから60周年となる年である。今から10年前、すなわち、韓国戦争の50周年の年であった2000年に、南北首脳会談で南北間の和解が成し遂げてから、逆説的に戦争の記憶をめぐって多くの論争があったことを思い出すのであれば、最近浮上している韓半島の平和体制論も、戦争記憶の問題を重要な社会的争点とさせる可能性がある。韓国戦争に対する記憶は、ただ韓国だけの問題ではなく、東アジアの共通の問題でもある。今日、東アジアの国家観の協力は、主に社会・文化的次元と経済的次元において行われていた初期段階から脱し、政治・軍事的問題を取り上げる中間段階へ突入しているが、EUのようなよりレベル高い共同体的地域構想のためには、東アジアの地域構成員の歴史的記憶、とりわけ、韓国戦争の問題を考えるべきである。普通、戦争が終わると平和が来ると考えるが、東アジアにおいては、「戦後体制」は、そんなに単純ではなかった。ヨーロッパと異なり、東アジアにおいては、第2次世界大戦後、平和が訪れたわけではなく、中国の内戦と韓国戦争が続き、以後も「冷戦」という言葉が意味を持てないほど激しい「戦争でも平和でもない」状態が長らく持続された。

脱植民と国家形成、戦争が重なる東アジア的移行期を経て形成されたのが、南韓/北韓及び中国/台湾という二つの分断国家、そして米軍の沖縄占領を中心とする「東アジア分断体制」である。この東アジアの冷戦―分断体制は、1971年の米中会談、1972年日中国交と沖縄の日本返還、1979年米中国交で第1次解体を経て、1990~92年の韓露、韓中国交で第2次解体局面に進んでいったが、相変わらず米朝及び日朝間における葛藤は持続されており、2回にわたる首脳会談があったにもかかわらず、南北間の平和は、未だに実現されていない。解体が延ばされている東アジアの冷戦体制の核心には、韓国戦争の経験と記憶が存在する。

東アジアの韓国戦争の記憶は、交戦当事者としての経験と戦争当時の国家主義的な観点、そして、戦争以後、約40年間持続された相互競争と対立の観点により、再生産されてきた。これをどのように未来に向けての相互疎通と理解の観点として導くことができるか。東アジアの平和と共同繁栄のための未来的観点は、国民国家次元の相互理解のみならず、市民的次元の相互疎通を拡張していくことで可能であるが、その具体的な方案を整えることはそんなに簡単ではない。韓国戦争に対する記憶の実態を正確に認識し、記憶を再生産、再構成する社会的装置に対する深度ある分析が行われるとき、漸くこれに関する応答が可能となると思われる。

戦争記憶は、社会制度や日常生活の中で作動する各種の文字媒体と視覚媒体、または、物質的な再現を通じて行われる。文学作品や、映画、記念物と記念館、記念儀礼などは、過去の記憶を再生産する核心的な措置である。しかし、記憶の真正性という側面からみると、写真集とドキュメンタリーの映像は、「あるがまま」をみせてくれることとして認識されるために、他の媒体よりも優越な地位にあると言える。本稿は、こうした脈絡で、韓国戦争を取り上げている写真集を中心に、韓国戦争の記憶がどのように構成され、どのように変化されたかを検討する。

 

2. 国民的記憶と戦争写真集

写真は、実際に過去にどんなことがあったかをみせてくれる特性のため、社会的記憶の形成や再構成において、もっとも重要な位置を示す。どんな媒体よりも対象を直接的に見せてくれることで、その中に含まれている場面が真実であると信じさせる力が強い。しかし、いつも、あるがままの現実を表すことではない。写真は、いつも特定の視覚から眺めていること、全体の現実の中で、ある一つの部分を選択したことのみをみせてくれる。写真は、現実をみせてくれながら同時に他の現実は見せてくれていない性格を持つ。そうした点において、写真はいつも現実を変形させる効果を持つ。とりわけ、戦争写真は、それを撮る主体の位置が戦線により制約されるために、視覚と死角が構造的に決定されているが、日常的にこうした限界は、隠されていたり看過されやすかったりする。戦争写真は、多くの場合、報道写真として活動されるために、写真家の「視覚」は、「我々の視覚」に、写真家の「死角」は、「彼等の視覚」へと発展し、戦争をみる二つの視覚として決定される傾向がある。他方、戦争写真は、心理戦の手段としても活動されるために、たびたび、意図的に捏造されることもある。写真の捏造は、意図的な演出、本来の写真に含まれている人物や背景の一部の削除、他の写真と合成するなどを通じて行われる。

写真は、普通、一枚ずつ存在することではなく、他の写真とともに、連続的に配置されることで、特定な政治的メッセージを生産する。戦争を行う集団や国家は、自身の立場を盛り込んだ一連の写真を、大衆に提示し、特定は政治的立場を内面化させるように導く。これで、国家は、自身の支配領域に入った人々の曖昧な記憶を鮮明にさせ、異質的な記憶を同質化させ、自発的に国家と自身の運命を一致させる「国民」を作り出す。国民形成に重要な課題が意思疎通の可能な標準語を作り出し、同質化された歴史的・地理的感覚を培養することで、特別展や写真集発刊、常設展示館の建立などは、こうした課題を行う重要な手段となる。実際に、戦争を主題とした写真集がよく出版されることは、それの国民形成効果が大きいことを示してくれる。

個別の写真に対する分析が、それを生産した当時の写真の主体の視覚と、社会的脈絡に焦点を合わせるのであれば、写真集に関する研究は、過去の写真をみる編集者の視覚と社会的脈絡に焦点を合わせる。写真集は、大半の場合、個別写真を特定な秩序により配置し、各々に説明を追加することで、新しい物語を作り出す。同一の写真も、どんな脈絡におかれるかによって、他の意味を示すようになる。

戦争写真に関する研究は、宣伝機能や、集合的アイデンティティを表現し再生産する役割に注目する。Lewinskiは、戦争写真の歴史を説明しながら、戦争写真家らが、「遠い所の目撃者」(1848~1912)、「客観的観察舎」(第1次世界大戦~スペイン内戦)、「入隊した軍人」(第2次世界大戦)、「親密なる友」(韓国戦争~北アイルランド戦争)、「偉大なる探検家」(ベトナム戦争)へ次第に変化したと考えた。   J. Lewinski, The Camera at War: A History of War Photography from 1848 to the Present Day, NY: Simon and Schuster 1978. 韓国戦争は、写真家らが戦闘する軍人とともに活動しながら写真を撮るようになった重要なきっかけとなったという。

近来、韓国戦争をもう一度注目させる写真集が多数出版された。特に、個人的記録写真は、韓国戦争が終わってから40年が過ぎた1990年代後半から個人写真集として出版されている状況である。また、戦争直後、外国で出版された写真集が翻訳され、アメリカの国立文書記録保管庁(NARA)が所蔵した戦争写真も再発見され、新たに出版されている。

戦後分断体制下において、戦争記憶は、南北間に持続された心理戦と国家保安法体制、そして、「特別国民ら」に対する統制として管理された。韓国戦争の写真もこうした巨視的管理体制下におかれていたが、2000年以後、急増する韓国戦争の写真集出版は、既存の戦争記憶に対する国家主義的管理体制の亀裂を表す指標であり、脱国民国家的観点を確保しようとする市民主義的現象に接近できる。

 

3.  「我々が見た」韓国戦争

韓国戦争後の社会体制は、戦争記憶を特定な方式に再構成する要因であり条件として作用した。冷戦とは、物理的戦闘と殺戮がなく、また、地理的戦線の変化がない代わり、心理戦が持続され、戦争可能性をいつも強調しながら、「敵対」と「体制競争」が維持される状態を言う。   Ron T. Robin, The Making of the Cold War Enemy, Princeton University Press 2001.    戦争が総力戦に変わったように、冷戦体制も総力戦の様相を帯びた。    K. Osgood, Total Cold War: Eisenhower? Secret Propaganda Battle at Home and Abroad, University of Kansas Press 2006.   韓国の場合、「連戦」は「分断」を同伴するもので、その強度や性格が、他国とはかなり異なった。憲法制定以後、6か月ぶりに作られた国家保安法とそれとともに出てきた様々な法律は、「分断」という例外状況を前提にさせ、韓国戦争の勃発とともに宣布された「特別措置令」は、こうした例外状態を法制化した。戦争が「終戦」ではなく、「休戦」となり、以後持続された分断状況において、韓国市民らは、「戒厳令と非常事態」によく露出された。長期間の分断/冷戦下において(G. Agamben)が言う「例外状態」は、例外ではなく、むしろ正常状態となった。


だとしたら、冷戦下において韓国戦争の写真は、どのように取り扱うようになったか。韓国戦争の写真集に対する体系的研究は、最近にきて行われてきた。金亨坤は、韓国戦争に関する公式記憶の変化を追跡するために、1950年代の後半から2004年まで発行された8冊の写真集を選択し、その変化様相を分析した。それによると、冷戦時期に韓国戦争の写真集は、主に反共闘争としての記憶、記念対象としての戦争、そして受難者としてのアイデンティティを表現した。  キム・ヒョンゴン『韓国戦争の記憶と写真』韓国学術情報、2007  1980年代以後、こうした傾向は南北韓の住民すべてが経験した戦争の苦痛を強調するように変化している。


韓国戦争に関する最初の公式記録は、戦争中であった1952年に陸軍本部戦史監質が編纂した『陸軍戦史』第1巻である。解放後から韓国戦争勃発の前までに、北韓と南韓の状況、特に、軍の準備体制を叙述したこの本は、「軍事極秘」として管理された。その中で、1巻は、「洛東江から鴨綠江まで」という題目で出版されるが、中の表紙にUN旗とともに韓国の国旗を始め、17カ国の国旗が一緒に掲載され、戦争当時の「われわれ」の範疇を表しているたけでなく、1963年までにこうした「陣営」意識が、そのまま再生産されたことを見せてくれる。この本の著者は、米軍所属の戦史官であった(R. E. Appleman)であった。

1950~1970年代に出版された大半の韓国戦争の写真は、戦争自体に集中することではなく、現代史の一部として韓国戦争を扱っている特徴を持つ。その中で、韓国戦争を集中的に扱った写真集の1つが、1970年、フィムン出版社編集局が発行した『目で見る韓国戦争』である。戦史編纂委員長の推薦詞が掲載されているこの写真集は、冷戦期の韓国戦争記憶の1つのモデルを提示する。韓国戦争20周年を記念して、編集・出版されたこの写真集は、「北の極悪無道で野蛮な行為に険悪し、祖国の命脈と自由を守護しようとする十字軍のたくましい姿に厳粛」となるという序文を付けた。

以後、韓国戦争の写真のみを取り上げた写真集は、1985年に出版された『写真でみる受難の民族史』である。この時期になって、戦争後、一世代という時間の経過とともに、「記憶の退色」が語り始めて、「受難史」としての韓国戦争観が浮上されるようになった。こうした範疇の写真集としては、1987年の韓国言論人同好会から発行した『写真でみる韓国戦争の実相』がある。また、韓国戦争40周年になった1990年、KBSは、莫大な資料調査を通して、ドキュメンタリー「韓国戦争」を放映し、この時に、収集された写真を集め、翌年に『ドキュメンタリー韓国戦争』を出版した。ここには、総846枚の写真が掲載されたが、「分断/南と北」「米・ソ軍撤収と38戦衝突」「暴風」「北進」「もう一つ戦争」「交渉の悲話」「後方戦争」「休戦」「エピローグ(反省)」など、9つの部分で構成された。この本で、最初に北韓の後方地域の住民の生活や中国側で撮った写真が紹介され、アメリカの国立文書保管庁の資料が含まれており、金日成の若い頃の写真も掲載されている。南北すべてが、戦争の被害者という視覚が強調され、捕虜の第3国行や捕虜収容所内部の中国軍人の生活も紹介されている。戦争の傷と離散家族の姿もある。この写真集は、南と北を敵対関係を見ることで、少しずつ変化しているが、この時期が世界的に冷戦解体期であった点において、時間的感覚の差異を綿密に評価すべきである。

韓国戦争の写真は、国防部政訓局報道課の写真隊やアメリカなど、西洋方言論の依頼をうけた外国人の従軍作家が残した写真、また、中国軍所属の従軍写真家が撮った写真で区別できる。この戦争写真は、国民的記憶の創出に数多く活用されたが、それを撮った写真家や撮影日時、場所に対する質問は、別に提議されていない。写真を単純にイメージとして扱ったからである。 彼等が撮影した写真は、韓国軍の「政訓」業務のためのものであった。政訓とは、軍人に関する広報(troop information)、大民広報(public information)、軍一般教育(troop education)、心理戦を含む。   最近の韓国戦争の写真集において、特記すべきなことは、『彼等がみた韓国戦争』(全3巻)シリーズとこれと対比される『われわれがみた韓国戦争』である。 『彼等がみた韓国戦争』1巻中国人民志願軍、2・3巻アメリカとUN軍、ヌンピッ、2005;『われわれがみた韓国戦争』ヌンピッ、2008。この出版社が、最初から韓国戦争の写真を、「われわれがみた」ものと、「彼等がみた」もので区分して出版することを企画したかどうかはわからないが、韓国戦争をみる視線の差異を認識しているだけでなく、視線の交差を通じて、韓国人が持っている韓国戦争の経験やイメージを客観化しようとした努力が表れている。    「彼等が先にみて、われわれが後でみた」感じを与える順序で出版されたことが注目すべきであるが、後者は、1950年当時、国防部政訓局の写真隊の隊長である林寅植が残した写真を集めたものである。   この写真集以前に、イム・インシクの別の写真集が、1995年に出版されたこともある。イム・ジョンイ編『その時、その姿』バルオン、1995.    総123枚の写真が掲載されたこの写真集には、6月24日から10月21日までの林寅植の日記が部分的に収録されており、写真の脈絡が具体的に表れ、また、当時の政訓局の写真隊が戦線に沿って、どのように動いたかもよくわかる。戦争勃発から1950年10月の平壌奪還(占領)の時までの写真は、最戦線の姿を生々しく載せており、特に、平壌の住民動向がよく表現されている。しかし、この写真集には、1950年末期、すなわち、1・4後退で代弁される中国軍参戦以後の戦闘写真は、掲載されていない。これは、1950年から1980年代までの韓国の公式記憶を盛り込んだ写真集の共通点でもあるが、韓国戦争に関連しては、理念的な要因により、北進局面までの写真を主にみせていて、2次後退期以後の写真は省略している。

 

政訓局の報道課の写真隊は、戦争勃発以前に組織されたが、開戦直後、ほぼ解体されていた。  政訓局の写真については、キム・ユンジョン「ドキュメンタリー韓国戦争」ソウル大学考古美術史学科修士学位論文2009を参照。 後退期に韓国人写真家は、大体1、2年または数カ月間従軍作家として活動し、任務が終わった後には、また民間写真家に戻った。彼等にとって韓国戦争は、自身が住んだ生活世界の破壊であり、異国的な魅惑や戦争の恐怖を伝える客観的伝達者の立場を超えて、自身を記録し省察する作家としての立場を持つようになる。韓国の写真界において、1950年代に展開された生活主義リアリズムは、写真家が韓国戦争をきっかけに日常現実を直視するようになることを意味している。

一方、韓国戦争に関する写真を論議する時、重要な主題の1つが検閲である。韓国政府は、戦争が勃発すると、非常事態下の犯罪処罰の特別措置令を公布し、1950年7月には、全国に戒厳令と言論出版に関する特別措置令を発表した。戦争状況が急速に悪化し、政府が後退した時期には、言論検閲が正常に実施されなかった。11月、国防部政訓局報道課は、新聞や雑誌はもちろん、貼り紙、ポスターなどすべての出版物を事前検閲の対象とすると発表した。この事実から、戦争初期には、比較的自由に写真を報道したことになる。当時の新聞は、写真を掲載する時、撮影者や場所、日時などに関する情報を疎かに扱い、短く、そして公式的な匿名にする場合が多かった。1951年4月、非常戒厳が警備戒厳に変わるが、検閲は持続された。韓国政府は、1951年7月と1952年3月、既存の新聞紙法に代わる出版物法を制定しようとしたが、野党や言論の判断で失敗した。その後、1952年5月、再び非常戒厳令が宣布され、事前検閲制が復活し、軍関連記事は、すべて検閲を受けるようにした。このように、韓国戦争期に報道写真は、厳格な検閲対象であった。

写真を含む出版物一般に関する軍事検閲は、軍事秘密維持や心理戦の次元から顧慮された。当時の言論は、敵軍の残酷行為をみせる虐殺関連写真をよく掲載した。これは、逆に敵軍に対する非人間的処遇を正当化する機能を果たした。当時の国家権力は、言論を活用し、心理戦を行っていた。すなわち、戦線と後方を対比させ、後方の住民を統制し、米軍の強力な武器、つまり優勢である空軍力や海軍力をみせる写真をよく掲載して、味方には勝利に対する確信を、敵軍には恐怖感を呼び起こすようにした。従軍記者が撮った写真は、しばしば心理戦のビラにも活用された。

戦争写真は、それが盛り込んでいる現実の一部を撮ったことで、現実の反映であり、変更だけであり、力動的に動く現実その自体を再現できない。にもかかわらず、戦争写真やチラシは、強力で重要な心理戦の手段として広く活用された。この写真は、しばしば味方と敵軍をそれぞれ勇敢や卑屈、勝利と敗北、豊かと惨め、ヒューマニズムと非情さなど、二元的対比(二項対立)させることで、味方の正当性と敵軍の卑劣さを強調し、内部的弾圧と外部的攪亂という二重の目的を達成しようとした。

 

4.「彼等がみた」韓国戦争

『彼等がみた韓国戦争』の2巻と3巻は、アメリカ参戦勇士会が、1951年と1954年に刊行した写真集、そして、UN軍司令官であったメカソと彼の後任のリジウェイとクラク将軍の報告書を一つに編集して出版したものであった。第2巻は、1945年解放から1950年末、北韓地域における後退場面までを盛り込んでおり、第3巻は、1951年から1953年までの米軍とUN軍の活動を写している。この本の韓国語版の編集者は、大半の米軍写真兵と軍属写真家らが撮ったこの写真が、戦争の実際の被害者が誰なのかを訪ねていると書いた。すなわち、米軍が記録した写真を通じて、韓国人の犠牲と苦痛を読み取ろうとすることが、この写真集の再出版の目的であることがわかる。まず、米軍側の写真集を韓国で「彼等がみた」ことで分類したことに関して言及する必要がある。今日には、韓国でアメリカを「彼等」を表現することが一般的であるが、韓国戦争の当時にはそうではなかった。韓国政府は、戦争勃発とともに、UN軍が参戦すると、これを歓迎するために、1950年9月16日、UNデー(10月24日、国際連合創設日)を法定公休日として指定してから、1976年9月3日、「各種記念日などに関する規定」により法定公休日から除外した。   UNデーは、1945年10月24日、アメリカのサンフランシスコで国際連合が組織されたことを世界的に記念する日である。UNデーを、法定公休日から解除する措置が、「総力安保」を掲げたパク・ジョンヒ大統領の維新政権時期であった点が興味深いが、それが政治的な理由であったか、経済的な理由であったかは不明確である。   ベトナム戦争の結果にショックを受けたパク・ジョンヒ大統領が、「自主国防」路線を追究しながら、アメリカとの葛藤が進化された状況を反映したことであった。以後、韓国人の歴史認識では、アメリカやUNは、「我々」と「彼等」の間を行き来する存在になった。

韓国戦争において、写真を通じたイメージ形成力は、今日のテレビと比肩されるほど、大きいものであった。当時の宣伝ビラが、戦場を中心に撒かれたとしたら、写真は、新聞と雑誌を通して、もっと広く、そして国際的に影響を与えた。韓国戦争の3年間、取材に参加した西方の従軍記者は、600名に至り、175~250名程度の従軍記者が、日本の東京や韓国に常住し、平均40~60名の記者が戦線の戦況を報道した。広く知られていた写真家としては、タイム/ライフの東京支局長であったカールマイダンス、AP通信写真記者のマックスデスパーが挙げられる。

今まで、韓国戦争におけるアメリカの視覚を代弁することとして見なされてきた代表的な事例は、1951年に刊行されたD. D. Duncanの『これが戦争である』(This is War)と、彼を含む『ライフ』誌の従軍記者が撮った写真に基づいて1975年に発刊された『戦争におけるライフ』(Life at War)という写真集である。『ライフ』誌で活動したD. D. Duncanは、戦争写真の新しいジャンルを開拓したと評価される作家で、彼の写真集に掲載された米軍のイメージが以後、ワシントンD.C.国立博物館の韓国戦参戦勇士記念物のモデルとなった。マグナム所属の写真家であるワーナービショップは、巨濟島捕虜収容所の写真を多く撮っており、彼の写真も『ライフ』誌に掲載された。

 

韓国戦争関連写真集は、また、もう一つの当事者である中国でも出版された。北韓側の写真集は、まだ知られていないが、中国においては、1959年、解放軍画報社から出版された以来、1990年には、『抗美援朝戦争画巻』というマンガが、戦争50周年であった2000年には、同名の写真集と『凝固的歴史瞬間』という写真集が出版された。韓国戦争が休戦になった後、中国人民志願軍は、すぐに帰還せずに、北韓の戦後再建事業に動員させられ、1958年になって帰ることができた。韓国戦争に参戦した中国軍の視覚は、中国解放軍画報社から1959年に発刊された『光栄である中国人民志願軍』という写真集によく表現されている。  『光栄的中国人民志願軍』中国解放軍画報社1959.国訳本『彼等がみた韓国戦争1:抗米援助―中国人民志願軍』ノ・ドンファン外訳、ヌンピッ、2005.   この本は、1950年、中国の志願軍の募集過程から韓国戦争に参加し活動している場面、休戦後、北韓再建に参加する場面、1958年、中国に帰還するまでの場面を盛り込んでいる年代期的な活動報告書の性格を持つ。ここでは、中国と北韓の友情や「血盟関係」が強調されている。彼等の友情は、国家間の関係のみならず、軍民関係を乗り越えるものであった。この本の写真の中には、中国軍が北韓との国境戦である鴨綠江をわたる前に北韓をみる視線がかなり印象的に表現されており、米軍の非人道的な戦争行為を「細菌戦」関連写真を通じて、強力に批判している。

この写真集も、中国の国民国家的視覚で構成されているために、写真を撮った主体は明らかにされていない。また、当時、中国人民志願軍として参戦し、中国への期間を拒否し、台湾に帰った捕虜に関しては、まったく言及していない。  台湾へ行った中国軍反共捕虜に関しては、周琇環編『戦後外交史料彙編:韓戦與反共義土篇1-2』台北:国史館2005.   われわれの立場において、もっと重要なことは、この写真集が、2005年に韓国語で翻訳され、多くの読者がこれを読んだことである。この写真集の韓国語版出版は、いくつかの点で重要な意味を持つ。

1つ目、この本の韓国語版の編集者は、出版過程において、写真の選定と配列、編集、写真説明などが、元の資料に充実すべきであるため、「間違うと、偏向された視覚に露出される危険性がある」と指摘し、この本が韓国で出版できることは、わが「社会がそれほど民主化され、読者がある一つの観点に一方的に揺れないほど成熟したという自信」があるためであると書いた。たとえ、民主政府としても、国家保安法が存在する状況において、戦争参加国であった中国の立場をそのまま伝えることに対する負担を編集者が感じていたことがわかる。

2つ目、東アジアの脱冷戦とそれに伴う戦争の記憶の再構成において、国民国家を超えるテキストを認め、これを通じて「過去」と「敵対的観点」に関する客観的理解を高めるようになった点である。韓国戦争の写真は、戦線に両分された地域において、相手陣営を投射する方式で生産されたために、明確に視覚と死角が区分される。認識主体面からみると、「相手に写った私」や「彼等の内部」は死角に含まれるため、正確な姿をわかりかねない。恐怖と不安が大体無知から発生するのであれば、最小限の誤解は、観点の交差として克服されると考えられる。

3つ目、こうした観点が交差を通じて、東アジアの冷戦体制の問題に対する省察が可能となる。1992年、韓中修好以後、韓国と中国の経済交流は、かなり急速で、また大規模で進行され、最近には、「戦略的同伴者関係」として発展している。戦後の東北亜の国際関係史を振替えてみると、韓中関係は、東北亜の敵対と緩和を反映するバロメータといえる。韓国戦争参加に関する中国側の研究は、大きく進展されたが、  朱建栄『毛沢東はなぜ韓国戦争に介入したのか』ソカクス訳、歴史ネット2005;沈志華『韓国戦争猲秘』香港:天地図書1995;沈志華『中蘇同盟與朝鮮戦争研究』、広西師範大学出版社1999など参照。   それに比べ、大衆的記憶は、解決しにくい領域におかれている。韓国戦争介入に関するこれまでの政治的正当化方式を自ら否定しなければならないためである。

4つ目、韓国戦争をみる視覚において、「われわれ」と「彼等」の範疇が大きく変わった。韓国戦争をみるアメリカ人の視覚は、「われわれ」から離れ、「彼等」の一部となり、国内では接することができなかった中国人の視覚を表す写真集をみることができ、これにより、「彼等」は、互いに異質的で複合的な範疇となった。

 

5.戦争記憶の省察と再構成

2000年6月、金大中大統領が北韓を訪問し、歴史的な南北首脳会談を行うことで、韓国の脱冷戦化が本格的にスタートした。この頃、韓国戦争をみる視覚も大きく変わった。たとえば、金東椿は、韓国戦争を避難、占領、虐殺という三つのキーワードでみる視覚を提示した。  キム・ドンチュン『戦争と社会:われわれに韓国戦争は何であったのか?』ドルベゲ、2000.    こうした観点の変化は、以後の韓国戦争写真集にも表れる、これを関連されたものが、朴鍍の一連の写真集である 。   『消せないイメージ:8・15解放から韓国戦争の終戦まで』ヌンピッ、2004;『消せないイメージ2:韓国戦争に巻き込まれた人々』ヌンピッ、2006;『私を泣かせた韓国戦争100場面』ヌンピッ、2006.

朴鍍は、金九暗殺事件に関する情報を得るために、2004年アメリカの国立文書記録保管庁に行くが、韓国戦争に関する写真をみて、衝撃を受ける。そこで、480枚の写真をスキャンし帰国した後、これをインターネットのオマイニュースに公開し、2004年6月に写真集『消せないイメージ』を出版した。この本は、写真を時間の順序に並べないで、主題別・対象別に分類している。各章の小題目は、「1945~1949」「米軍とUN軍」「国防軍と人民軍」「戦火に巻き込まれた韓半島」「虐殺」「避難民と戦争孤児」「捕虜」「停戦会談と休戦」などである。以前には、みることができなかった写真も多く含まれていて、その呼応はかなり大きかった。彼は、2005年に、再びアメリカに行って、770枚の写真を収集し、2006年に後続編を出版した。この本は、小題目の区分なしで、「韓国戦争に巻き込まれた人々」というサブタイトルを付けた。これをともに、彼は、自身が収集したもっとも衝撃的な写真100枚を選んで『私を泣かせた韓国戦争100場面』という写真集も出版した。

これら写真集は、軍人よりは、一般市民の姿に大きい比重をおいて、主題別でみると、捕虜、虐殺、廃墟の中の希望などを新しい議題としている。なお、理念的分断を乗り越えて、国家暴力に自身の体を晒し出している人間の姿に注目し、「国民」よりは、「市民」もしくは「個人」を新しく注目している。したがって、この写真集は、最近、韓国社会の変化された戦争記憶を表れている指標としてみなすことができる。

2000年以後に出版された韓国戦争写真集が、新しい省察を盛り込んでいるだけではない。韓国の状況を国民国家の次元から眺め、過去の経験が希釈されていることを心配している観点も強く残っている。たとえば、吉光駿は、1600枚の写真と当時連合軍の作戦及び状況要図を集め『写真で読む韓国戦争』を出版したが、彼は、序文で、「南と北が対置している状況の中で、韓国戦争に関して語りやすくない敏感な真実」が存在し、「これを文章化するのは、まだ早いという感があるので」写真として語ると書いた。  ギル・グァンジュン『写真で読む韓国戦争』ウェヨン、2005. このように、写真集は、時には、意見と立場を表明する婉曲で間接的な手段である。

2009年10月21日、李明博大統領は、ベトナムを訪問し、チエット主席と共に、韓国とベトナムがこれから戦略的な同伴者関係を結ぶことに合意した。2001年に結んだ「包括的同伴者関係」を「戦略的協力同伴者関係」に格上させるという意味であるが、これは、経済的協力を超えて、軍事的・政治的協力をすることを意味すると政府関係者は説明した。これは、韓国軍がベトナム軍を相手に戦争をしてから、一世代が過ぎた時点において、両国の関係がどのように変化していくかを表している。李大統領は、韓国とベトナムが戦った「過去史」を未来志向的に克服しようとする意味で、ベトナムの国父と呼ばれているホーチミンのお墓を参拝し献花した。韓国の大統領がホーチミンのお墓を参拝したことは、1998年金大中大統領、2004年ノ・ムヒョン大統領に続き、3回目であった。  その間、韓国では、韓国軍のベトナム参戦と戦争中に行った非人道的な行為をめぐって、謝罪及び補償をすべきであるという立場と、その必要はないという立場の間で、多くの論争があった。進歩的立場を代表していた金大中大統領は、2000年ベトナムを訪問した際に、ベトナム国民に謝罪をし、2001年8月23日ベトナムのチョンルオン国家主席が訪韓した時に、もう一度、「不幸な戦争に参加し、意志とはことなり、ベトナム国民に苦痛を与えたことに対して申し訳なく思っており、慰労の言葉を差し上げると公式に謝罪した。一部の市民団体は、それ以上の謝罪や補償を求める声もあった。これに対し、ベトナム参戦戦友会などの参戦有功団体及び有功者らの大きい反発があった。

しかし、李大統領のベトナム訪問以前に小さい騒動があった。10月12日、韓国のユ・ミョンファン外交通商部長官がベトナムを電撃訪問した。彼の急な訪問は、韓国で進行されている「国家有功者礼遇法改正案」を解明するためのことであった。この方案は、「世界平和維持に貢献したベトナム戦争有功者と枯葉剤後遺症患者」を礼遇対象に追加しようとしたことであった。ベトナム政府は、「世界平和維持に貢献したベトナム戦争」という表現を問題視した。韓国とベトナムが1992年に修好した時、韓国軍のベトナム戦参戦に関する「過去史」を問題視しないとしたが、    1992年両国修好の際、過去戦争関連の「賠償問題」は取り上げないとし、ベトナム側は、「われわれが勝戦国であるため、韓国側からは謝罪などを受ける必要はない」という立場を堅持してきた。   この方案が、その「合意精神」に違反していると解釈して講義したことであった。これにより、韓国政府は、この表現を修正することを約束しなければならなかった。

ほぼ同じ時期である2009年10月初め、北韓の核実験と関連し、中国と北韓の関係が若干、緊張された状況の中で、中国の温家宝総理が北韓を訪問した。この際、彼は、平壌に駐在する中国人とともに、約2時間の距離にある「人民志願軍烈士陵園」を訪問し、韓国戦争中死亡した中国人を想起させた。これを通じて、北韓と中国が「血盟関係」であることを誇示することで、北韓と中国の緊張関係を完全に解消させたという評価を受けた。韓国先生に参戦し、死亡した中国人は、18万3108名になるが、一部は、平南のフェチャン郡「中国人民志願郡烈士陵園」に葬られ、   この墓地は、ゲソンとピョンガンなどの他、中国の瀋陽にもある。    戦死者名簿は、遼寧省の丹東の抗美援朝記念館の「烈士の壁面」に刻まれている。     この展示館の建設及び、展示内容に関する説明は、石善福外編『抗美援朝記念館』台海出版社、2000.この記念館は、我々の戦争記念館と良い比較となる。戦争記念館編『戦争記念館』戦争記念館、2008.

この2つのエピソードは、「過去史」が現在の東アジアにおいて、どのように作用しているか、そして、過去の記憶を持つ場所が、どんな機能をしているかをよくみせてくれる。今日、韓国と中国、日本は、「1つの共同体」もしくは、自由貿易協定(FTA)締結を論議する程の関係の変化をみせているが、未だに、解決されていない過去史と共に、共同に回避している議題が残っている。

韓国戦争における記憶の問題は、ただ、国内の進歩対保守の対立と葛藤の領域のみならず、戦争に参加した国家間の間に存在する競争と葛藤の領域の中にも存在する。これまでに検討してきたように、韓国戦争の記憶は、近年大きく変わった。過去における「敵」の視覚から生産された写真をみられるようになり、これを通じて、観点の交換が行われている。観点の交換は、一方では彼等の観点を理解させるが、同時に、戦争自体を乗り越え、平和をもっと積極的に想像させる。したがって、東アジアの平和と共同的認識を強化させるためには、わが社会の内部はもちろんのこと、東アジア全体を視野に入れ、互いの戦争記憶の再生産装置を比較・検討する作業が必要である。「過去」に対する観点の交換は、学問の領域のみならず、大衆的記憶の領域においてもより進展されるべきである。
 
 

訳=朴貞蘭

季刊 創作と批評 2010年 春号(通卷147号)

2010年3月1日 発行
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