창작과 비평

[卷頭言] 再び闇を明るくする心で / 白英瓊

 

創作と批評 194号(2021年 冬)目次

 

再び闇を明るくする心で

 

 

白英瓊

済州大学教授

 

 

済州島のハルラ山についでソウルでも足早に初雪が降った。まだ紅葉の季節であるはずなのに、すでに冬が重々しく近づいてきた感じがする。変化する節季を感じとり、ある人は気候危機の深化とそれへの対処を懸念し、また他の誰かはウィズ・コロナが定着して防疫や生計に今も奮闘中の市民にとってこの冬が苛酷でないことを願うだろう。このように、いくらも残っていないこの一年への思いは人によって様々だろうが、来年の大統領選挙を目前にした今、ぐんと冷え込んで暗くなった夕方の街を眺めれば、どうしても5年前の今頃を思い出す。週末ごとに開かれる大規模集会の合間に様々な行事が行われたあの年の冬、街全体が生きていたという記憶が残っている。

 

四大河川事業が進んでセウォル号の惨事まで経験した李明博・朴槿恵政権の間、何よりも惨憺たる思いは、「これが国か」というほど滅茶苦茶になっていく体制とともに、その時間を生きる私たちも少しずつ壊れていき、そこから私自身も抜け出しがたいという恐怖だった。密陽の送電塔建設に反対していた住民が命を絶ち、雙龍自動車の解雇事件の後に死者が続いても焼香所を設ける程度で、応分の礼儀すら保てない時間だった。断食中の遺族の前で「暴食闘争」というものが勝手に行われ、とんでもないデタラメが蔓延していた頃、もしかしたら政権が変わる前に世の中が滅ぶのではないかという恐れを抱かせるのに十分だった。後ろめたくて息苦しく、恥ずかしかった

 

キャンドルはそうした閉塞感を一瞬にして変える流れだった。政権退陣の要求から始まったが、それ以上に新しい世の中を求める叫びは溌溂として、昨日の集会での葛藤は激論を経て、翌日の集会での守るべき新しい心得として登場するという柔軟さがあった。その1年前の冬、デモ現場で農民を狙いうちして放水攻撃を行うほど勢いがあった警察の態度も、そうした大勢の変化とともに変わった。何があっても非暴力に徹するべきかをめぐる論争もあったが、私たちがこの程度進んだら、朴槿恵の退陣レベルは当然のこと、世の中はすでに変わりつつあるという自信と期待に満ちた時間だった。芯に火を点けて灯すロウソクからLEDのキャンドルまで、暗闇の中でともに灯の明かりを分かちあい、確認しあう行為には、それだけ特別な何かがあった。

 

5年の歳月が流れた今はどうだろうか。時代の流れを変えた灯りを認めるとしても、キャンドルの名を簡単には口に出せない。キャンドルとともに登場した新しい流れの多くの部分で、この間に生じた隔たりが気にかからざるをえない。キャンドル後の韓国社会の随所で噴き出した問題と葛藤はキャンドルがつくった問題というより、キャンドルのおかげで可視化してきたものと言えるが、問題を提起した当事者は失望を越え、時には絶望に陥ったのも事実である。前回の大統領選挙の時、文在寅候補は性的マイノリティの人権に関して「後で」と叫ぶ聴衆の中にあわてて退場したことを弁解した。だが、盧武鉉政権の時に初めて発議された差別禁止法は今も制定されていないだけでなく、最近では法制定を求める国民動議請願の期限を2024年に延期し、制定の意思自体を疑わせている。

 

気候変化に対する政府の対応もまた、切迫する危機に照らせばのろく、依然として成長主義から脱皮できない姿を示す場合が多く、産業災害の事故が絶えないのを見ると、この政府は果たして誰の側に立っているのかという根本的懐疑まで生じる時がある。しかし、キャンドル後もすぐに変えられない、実現できないという、いわば当然の事実に失望して「こんな風になりたくてキャンドルを掲げたわけじゃない」という疑念に陥りやすい心をふり返る必要もある。合法的な手続にそって達成した大統領の弾劾がいかに重大事だったとはいえ、それは始まりにすぎず、私たち自身がその一部でもある古い世の中を変えることはもっと息長い、混乱と苦痛に満ちた過程にならざるをえないからである。

 

5年前のあの冬にも、次の選挙で政権を審判すればいいとただ待つだけとか、目に見える政治的な解法だけを図っていたならば、おそらく社会全体の感覚を変える事件としてのキャンドルは起こらなかっただろう。前が見えない闇の中で、切実に灯を照らそうとする心、次がどうなるかはわからなくても、まず自分から動いて大きな変化の一部になろうとして共に行動した、あの夜の街の記憶を思い浮かべることが必要な時点なのだ。

 

本号の特集は「文学、政治、民主主義」というテーマの下に、私たちの文学がこれまで担ってきた、今後も模索していかねばならない政治性に対する幅広い論議をくり広げる。黄静雅は、文学の政治性に対する要求と実践が当然のように受け入れられれば受けいれられるほど、むしろその政治性に対する探究と問いかけが弱まることを警戒しながら、今日の文学の場で作動し発現される政治性を考察する。済州の4・3抗争に絡んだトラウマの伝承という、決して簡単ではない課題を扱った韓江の最近作と、世代を超えて継承される女性の年代記を描いた崔恩栄の長編小説を中心に、これらの作品が「政治的・倫理的な正しさ」という要求とどのように調和し、葛藤しているかを綿密に検討している。文学が疎外された者たちへの共感からもう一歩進み出て、共同領域の場の中で「ともに痛み、ともに癒す」次元に至るべきだ、という強靭な問題意識が説得力をもって伝わってくる。

 

呉姸鏡は、キャンドルとコロナ・パンデミックが他者および非人間存在とのつながりを顕著に実感させてくれた事件という認識の下、文学の民主主義は客体との細やかなネットワークを露わにする運動であるべきだと語る。そして、私たちの詩壇がその課題をどのように遂行し、新たな思惟へと突破していけるか、張慧玲、金祥赫、朴笑蘭、鄭多娟、安姫燕の詩を通じて多彩に考察する。「地球生活者」というつながりの感覚の中で、政治的なものを再配置しようとする文学的実践を鋭く、能動的な視線でとらえた文章である。

 

姜敬錫は、2000年代の“私”の解体を論じた脱叙情の言説から女性、ケア、動物、機械などへ焦点を拡げ、新たな主体を発見しようとした最近の試みまで、文学的自我をめぐる一連の流れに注目する。しかし、自我に対する解体主義的な熱望が、むしろ“私”への絶えざる集中と挙名を煽っていて、今は自我自体よりもそれの存在条件――民主主義および資本主義――との関係を見つめることが糸口になりうると提案する。李章旭、金草葉、呉善映の小説を通じて文学において民主主義と資本主義が自我にどのように作用し、それがどういう制約あるいは代案の可能性として現れるかを分析的に指摘する。

 

政治性の拡大に対する要求が文学だけではなく芸術全般にわたって躍動する今日、女性映画の異彩な試みと模索を検討した李ナラの文章も興味深い。李ナラは、観客の幅広い支持を得てきた女性の成長映画に現れる観照と凝視の視線が、女性、子ども、被害者に対する常套的な観念を踏襲し、強化しているか否かと疑問を投げかける。その上で、真実とウソ、解釈の可能性と不可能性の間を振れる多層的な再現はいかにして可能か。映画「トヒヤ」と「声もなく」を通じて注目に値する試みに光をあてる。

 

 2022年大統領選挙を前に、韓国社会の大転換の課題を論じあう連続企画である「対話」の三番目のテーマは“不平等”である。不平等は大多数の市民に熱を帯びた話頭として受け入れられるが、それに接近する視角と観点は各自異なり、解決策を提出する道も簡単ではない。李南周の司会で進行した今回の対話では、ジェンダー研究者の金ソラ、経済学者の朱丙起、労働者コラムニストの千鉉宇が各自の位置から目にする不平等の現実と問題点を指摘し、現政権の努力を評価すると同時に次期政権が遂行すべき課題を幅広く論じる。不平等問題の解決は、経済だけでなくジェンダー、地域、教育、労働、腐敗に至るまで全方位的な接近が必要であり、この「対話」が今後活発な討論の契機になることを期待する。

 

論壇では、重要なテーマの多様な文章を掲載した。まず文学評論家の鄭址昶の文章は、前号に掲載された特別座談会「再び東学を探し、今日の道を問う」に対する感想とともに、今も東学の勉強に精進する筆者の経験と見方を共有する。筆者は、座談会に参加したトウル金容沃、朴孟洙、白楽晴を“開闢派”と指称し、特に近代・近代性に対する論議と、東学からキャンドル革命までつながる開闢の流れを指摘した座談会の意義を高く評価する。さらに、東学思想と関連して考察に値する文学史的な作品を紹介し、東学の勉強にまた別の契機をつくりだした。言論学者の鄭俊煕は論争になった言論仲裁法の改定論議を一目瞭然と振り返ると同時に、今後の行方を推し量る。賛反の双方が誇張した「懲罰的な損害賠償制」の枠にとらわれた経緯を考察し、真の言論改革のために遂行されるべき長期的な課題と、“包括的ガバナンス”を構築する必要性を提示する。国際政治学者の徐載晶は、米国バイデン政権の外交安保戦略に対する多角的な分析の枠組を提供する。バイデン政権の価値外交は、事実上過去の米国が行ってきた現実主義的な国際主義および自由主義的な制度主義への復帰とも相応している。その戦略は終戦宣言をはじめ朝鮮半島問題とも関連するだけに注目を要する文章である。

 

現場欄では、日ごとに実感が深まる気候危機問題および資本主義の威力に関連した緊要な文章を紹介する。労働運動家の李承哲は、脱炭素政策など気候危機への対応の必要性に対する社会全体の共感が高まっている渦中で、政府・企業が志向する「緑色」と労働界で眺める「緑色」がいかに異なるかを具体的に伝える。市場依存・親環境型の経営戦略の危険性を世界の事例と連結させて検討し、「正義ある転換」は市民のエネルギー基本権を守りうる公共中心型への転換であるべきだと力説する。政治哲学者のナンシー・フレイザーは、対談を通じて資本主義社会の経済システムとその必須的な背景・条件――例えば、主に女性が担当してきた社会的再生産領域――間の切っても切れない関係性を新しく考えるべき必要があると強調する。特に、資本主義が暮らしのすべての領域に侵犯して搾取する「食人資本主義」の浮上を懸念し、左派が当然の議題を包括しながら共通の方向に進んでいくポピュリズム政治運動を受け入れる必要があると主張する。

 

創作欄の豊かさも目を引く。金龍萬から趙庸愚まで中堅と新進を網羅した12人の詩人の新作詩とともに、金愛蘭、李珠蘭、林國栄、崔正和の誠意溢れる短編を紹介する。崔銀美の「マジュ」は深い余蘊を残してこの一年間の連載を終える。単行本へとつながる今後の話にも期待が高まる。蘇柔玎の文学評論は、最近の詩が創りだした詩的空間の特殊性に注目し、金姸徳、姜智伊、李ソホの詩に光を当てる。主体の内面に創られた空間が広場へと拡がり、“私たち”という共同体に出会う過程を現実と文学のダイナミックな連続性の上で細心に考察する。

 

作家照明では、着実な創作活動により多彩な作品を披露してきた崔真英を、同僚作家の金裕潬が訪問した。長い間抱いてきた愛情を基盤にして、作家の身振り一つから文章書き、作品世界に至るまで愛情こまやかに観察する視線が格別で、情感深い。文学焦点は、前号に次いで詩人の黄仁燦が司会を担当する。文学評論家の張恩暎、小説家の崔旻宇を招待し、今季に注目すべき詩・小説6冊について話を交わす。趙海珍、朴相映、シン・ジョンウォンの小説と、李謹華、李智鎬、張慧玲の詩集に対する率直な論評をやり取りし、作品に固有の美徳と価値を丁寧に指摘する。寸評欄では、生態、労働、不動産、学閥主義など多様な問題意識を内包した注目に値する書への心を込めた書評に出会うだろう。労苦を込めてよい文章を送ってくれた評者たちに深く感謝する。

 

最後に、第36回萬海文学賞は本賞に金勝煕の詩集が、特別賞にトウル金容沃の著書がそれぞれ選定された。また、第23回白石文学賞は安相学の詩集が選ばれた。受賞者のお三方にお祝いの挨拶を伝えて、詳しい発表文を収録する。審査が行われる間に、萬海文学賞の運営委員である文学評論家の李善栄氏が亡くなられたという痛ましい知らせを受けた。歴史と社会に目を向ける実践的な批評を強調された李先生の輝かしい思惟が、後学の者に遺産として残されると信じる。故人の冥福をお祈りする。

 

この短い序文を終えるにあたり、再びキャンドルに戻らざるをえない。キャンドルから5年がたち、そして朝鮮半島と韓国に重要な変化が出現しうる新年にあたり、省くことのできない話頭だからである。キャンドル後の5年間、私たちの周辺で楽しかったこと、悲しかったこと、怒りを感じたことがいずれもあった。これは私たちの暮らしの中でも、今後も繰り返し続くだろう。だが重要なのは、キャンドルの中で私たちが一歩踏み固めた地点は何だったのかを問い、その方向感覚を失わないために努力すべきだという事実である。これが歴史を前に進めようとする力である。読者のこうした奮闘に、チャンビの冬号が少しでも助けになることを願っている。

 

 

 

訳:青柳純一

 

 

--