戒厳を阻止できなかったら迫った残酷な世界史 / 南基正 [2024.12.24]
12月3日の非常戒厳令の宣布が内乱だったことは、戒厳令の宣布条件を「戦時・事変またはこれに準ずる国家非常事態」と定義した憲法第77条第1項に違反したためが大きい。だが、万一「戦時・事変、これに準ずる国家非常事態」が起きていたならば、非常戒厳令は正当性を確保しただろう。内乱が失敗した後、関連者に対する調査過程で国軍の一部が実際にこれを試みたという情況が露呈している。平壌上空への無人機の出撃、汚物風船に対する原点打撃の対応、NLL(非武装地帯)での北からの攻撃誘導など、いわゆる「北風」工作である。
だが、これに劣らず、「西風」工作を試みたと思う。北朝鮮軍のウクライナ参戦説である。北朝鮮軍がウクライナ戦線へ大挙移動しており、すぐに参戦するだろうという報道がメディアを通じて流れ出てきたのは10月初めだった。主に、ウクライナ情報当局を情報源としていた。米国の持続的な支援が切実だったウクライナ側の情報操作である可能性があった。それでも、わが国家情報院がこれに素早く反応したのは10月18日であった。
その後、何度か北朝鮮軍のウクライナ参戦が事実であるように発表されたが、少なくとも12月3日の非常戒厳令の宣布以前には、確実な証拠としては立証されなかった。米国の国務省と国防省が北朝鮮軍の交戦と死亡者の発生を事実として認めたのは12月16日だったが、これさえもまだ十分な証拠を提示できないでいた。結果的に、「西風」も起こらなかった。
内乱が失敗した後、注目すべき事実が表れている。特に注目すべきは、ホン・ジャンウォン前国家情報院第一次長が国会に提出したメモが、ウクライナ安保当局と関連しているという事実である。これはより深いところで、今回の戒厳令の宣布とウクライナが結びついていたことを暗示する。国家情報院がロシア語に通じる者をHID要員として募集し、彼らに北朝鮮軍の服装を着せてウクライナへ派遣しようという計画を立てた情況があった、という分析も軽く見るべきではない。
ところで、韓国の戒厳令宣布の報に対し、日本の改憲論者らが反応したという事実はあまり知られていない。12月4日未明、日本維新の会の馬場伸幸前代表は、「韓国で起きたことは日本でも起こりうる」し、「憲法改定で緊急事態条項を整備すべきだ」という文章をXに投稿したのである。これに対して批判の声が高まり、むしろ憲法改定論の立地は狭くなったが、韓国の憲法に戒厳令の解除規定があったので事態が鎮定されたし、緊急事態条項と関連した憲法改定論議が必要であるという主張も提起された。
起こらなかった「西風」、失敗した内乱の試み、そして逆風にあった憲法改定論の組合せは、北朝鮮軍のウクライナ参戦工作が戒厳令の宣布に正当性を与え、次いで日本の憲法改定論に火をつける発火点になりえたという事実を露見させ、提示している。ここで、記憶の底辺に消えた、1970年代の日韓癒着を主導した国際勝共連合の黒い影が蘇えろうとした点に言及せざるを得ない。
1970年9月、日本で世界勝共大会が開催された。世界反共連盟のリーダーは、ヤロスラブ・ステツコ(Yaroslave Stetsko)で、彼はナチを支持してユダヤ人虐殺を主導したステファン・バンデラ(Stepan Bandera)とともにウクライナ民族主義者の組織(OUN)を率いた。もう一人記憶される名前がミコラ・レベッド(Mykola Lebed)である。バンデラの側近だった彼は、戦後は米国のCIAに採用され、内戦の前衛で活躍した。
脱冷戦期に、人々の記憶からほぼ消えた彼らが歴史の前面に再び登場するのは、2013年冬から2014年春までキーウで起きた反ヤヌコビッチ運動の渦中であった。2016年には、ネオ・ナチと見なされたアゾフ大隊の政党組織である国民軍団()が創設された。この事実は、2022年以後のウクライナ戦争を背景にして展開される日韓関係の一断面を説明するのに重要な意味をもつ。
最近(2024年10月)日本人に帰化したアンドレイ・ナザレンコ(Andrii Nazarenko)は、ウクライナの戦争と日本の憲法改定をつなぐ環である。彼は自らが国民軍団の一員として活動しているという事実を隠さない。国民軍団が創設されたのは2016年だが、彼が日本に留学生として入国したのは2014年である。この間に彼がどういう経緯で国民軍団の一員になったのか、日本でどういう活動をしているかについては公開的に知られていない。
国民軍団が創設された2016年、ナザレンコが日本で名前を知られることが起こった。同年の8月15日に靖国神社で開かれた行事で、ウクライナ留学生の身分で演説したのが注目を集めた。日本の戦争を美化して靖国参拝を正当化する内容だった。その後の彼は右翼メディアを中心に憲法改定の必要性と反韓、反中的な主張を忌憚なく表明し、歴史否定主義と論調を同じくする言論活動を展開した。特にウクライナで戦争が勃発した後はウクライナ支援を要請して活発な活動を展開した。その主な舞台が代表的な右翼集団である日本会議であり、統一教会系の国際勝共連合や勝共ユナイトが開設したチャンネルがアップ・ロードしているのが確認できる。
また別のウクライナ人、アンドレイ・グレンコ(Andrii Gurenko)は2016年、日本での右翼運動の中心の1つであるアパ(APA)日本再興財団が実施する第9回「“真の近現代史観”懸賞論文」に応募し、学生部門の優秀賞を受賞したのを契機に日本社会に名を知られ始めた。それはアンドレイ・ナザレンコが大衆に顔を知られるようになったのと同じ年で、国民軍団が創設されたのも同じ2016年だったという事実は偶然なのか、某種の背後が企画したものかはわからない。
グレンコは、2022年ウクライナ戦争が勃発した後はウクライナ支援を訴える一方、憲法改定を通じた日本の安保強化を訴える講演会を全国的に展開した。彼が活動する舞台も、主に日本会議がつくってくれていた。最近、彼は北朝鮮のウクライナ参戦説にも積極的に意見を開陳していた。北朝鮮の参戦は時間の問題だと早くからこの問題に関心を表明し、「北朝鮮の侵略行為」に対する「正しい対応」はウクライナに対する武器支援の拡大とロシア国内への攻撃制限を撤廃することだという主張を展開していた。
この二人の動きを追跡すると出会った組織がポスト―ロシア自由国家フォーラム(Free Nations of Post-Russia Forum)である。このフォーラムはロシアの反政府活動家と分離主義者など、ロシアの崩壊を主張するグループの会議体で、ウクライナ戦争の勃発後は極めて精力的な活動を展開している。大会は次第に拡大しており、この間にブリュッセルの欧州議会議事堂やフィラデルフィア市庁舎などで開催された上に、昨年は東京で第7回大会が開催された。この時、二人のアンドレイ、ナザレンコとグレンコが参席した。今年9月に開かれた第12回大会でも、アンドレイ・グレンコが参加して講演した。今日、彼の活動範囲はポスト―ロシア自由国家フォーラムという国際的な組織に加わり、台湾にまで及びはじめた。
このように見ると2024年12月3日、国会前で、国会内で韓国の国民と国会議員が阻止したのは戒厳令だけではなかった。「北風」と「西風」を阻止し、日本での改憲の流れを阻止し、日韓同盟化の流れを阻止したのだった。だが、その流れは執拗である。戒厳令を世界史的な事件として注目すべき理由である。
訳 : 青柳純一