5・18民衆抗争の現在性―極端な政治の克服と民主主義の進展のために / 崔晶基 [26.05.12]
崔晶基(チェ・ジョンギ)
全南大学名誉教授、5・18国際研究院院長
*以下の記事は、元々2026年5月12日に『創批週刊論評』にて韓国語で掲載されたものです。
“5・18記憶戦争”は、抗争が踏みにじられた、すぐその瞬間から始まった。1980年5月27日未明の光州、侵入する戒厳軍を避けて全南道庁とYМCAから飛び出した学生や青年は、そのあわただしい瞬間にも抗争期間に獅子吼して起ちあがった市民の声明書や宣言文をかき集めた。抗争期間をそのまま伝える国内外の写真記者らはフィルムを奪われないように気をもみ焦心した。彼らが苦痛に耐えた理由は唯一つ、5・18の真相を後の世代に知らせ(たとえ1980年当時は敗北しても)歴史的に勝利しようとしたのだ。こうして5・18記憶戦争は“5月運動”になった。
5・18記憶戦争の動力、5月運動のエトス(ethos)は生き残った者たちの恥ずかしさだった。国家テロに直面した人々の胸中には恐怖と憤怒、そして同時に“恥ずかしさ”が蘇えった。抵抗できずに身を避けた人々が感じる恥ずかしさだった。抗争に参加したが、死から免れた人々が“死んだ者たち”にもつ恥ずかしさであり、5・18を知らなかった人々に、次第にその真相を知らせながら生じる恥ずかしさだった。後に、人々は5月運動への参加を通じて恥ずかしさという借りを減らそうとした。
だが、5月運動の頂点といえる1987年6月民主抗争後、私たちの社会には“過去の整理”あるいは“過去清算”という言葉がよく使われた。2000年前後には“移行期の正義”(国家権力による暴力問題の清算を扱う幅広い過程と原則)という概念が広まった。もちろん、用語の登場は5・18が5月運動として再評価されると同時に、過去の国家テロ事件まで争点化されることを意味する肯定的な現象である。だが過去の整理、移行期の正義のような言葉は、まるで国家テロ事件が現在とは関連のない過去の事であり、加害者―被害者関係の個人的な事件と見なされうる。
5・18国家テロと民衆抗争は歴史的・構造的な事件としてわが国の現代性がもつ問題が表出したものである。従って、“変革的正義”の立場から長期的に形成された不平等と不正義の原因を究明し、共同体中心の持続的な変化を模索すべきである。5・18の場合、過去清算のための“制度づくり”に止まらず、5月運動という“歴史づくり”概念で接近すべきなのである。
過去の整理に限定すれば、5月運動は多くのことを実現したと思われる。5・18は民主化運動と規定されたし、被害者には経済的な補償と名誉回復が与えられた。望月洞墓域の国立墓地化、かつての道庁と営倉の復元など各種の記念事業が進められたし、5・18記録物はユネスコの世界記録遺産に登録された。また、「成功したクーデターは処罰できない」という検察の奇々怪々な論理をぶち壊す特別法が制定され、全斗煥はじめ5・18国家テロの主犯14人は実刑を受けた。
だが、盧泰愚政権はもちろん金泳三政権さえも、さらに金大中政権までも過去整理の最も重要な土台である真相究明と責任者処罰は省略したまま、補償と記念事業だけで5・18を整理しようとした。その過程で、全斗煥など加害勢力は地域感情の解消と国民和合を名分に、いかなる真相究明の手続や懺悔もなく、収監されて2年余りで赦免された。
他方、5月運動勢力にとってこの過程は、反共・分断・独裁体制を構成した巨大な支配勢力との対決および闘争の連続だった。1993年2月、光州地域社会運動勢力と5月団体は“5・18解決5原則”(真相究明・責任者処罰・名誉回復・賠償・記念事業)に合意した。また彼らは、国家儀礼や報勲業務とは無関係に“5・18精神”を継承する5月運動が必要だと考えた。そこで、数百名の被害者が集めた補償金の一部と市民募金を基金にして5・18記念財団を設立した。5・18記念財団は今日まで有形無形の記念事業を推進してきたし、それなりの変化を導いている。
しかし、5・18過去事の整理を歴史づくりレベルでは接近せず、補償と記念事業中心の清算概念で見た結果、多様な問題が露呈した。第一に、5月運動内で当事者主義が強化され、5・18の記憶さえも遺族・負傷者・拘束者中心に構成された。第二に、5・18関連の特定記憶や記念施設を物神化する傾向があり、記念の過剰や厳粛主義が表れている。
真相究明のない、そして徹底できなかった責任者処罰の結果、2000年を前後して守旧勢力の5・18歪曲および誹謗も現われた。彼らが執拗に5・18を歪曲し、“5・18北朝鮮介入説”を騒ぎ立てる理由は2つである。彼らは、5・18の記憶を全斗煥時代に逆戻しするのが、いわゆる従北・左翼勢力を暴き出す近道だと考える。そして、ユーチューブや集会などを通じて活発に活動し、かなりの経済的利潤を得るためである
5・18は、1980年当時はもちろん、今日に至るまで国家テロに対する反作用を超え、それ自体が民主主義と人権に向かう能動的な力である。とはいえ、5月運動は次第に制度化された。5月18日は国家記念日になったし、被害者は国家遺功者になった。それなら、今や5・18の歴史づくり、その寿命が尽きたのか?この問いに答えるために、5・18は非組織的な民衆抗争だったという事実を直視する必要がある。市民収拾委員会と学生収拾委員会、そして自生的な市民軍が抗争の主役だったのは明白である。だが、おにぎりを握った市場のおばさん、献血の隊列と決起大会に参加した市民たち、抗争に必要な物品や労働力を提供した人々、家で息を殺して街頭に出た人々の生死を心配した市民たち、すべてが抗争の主役である。
5・18を記憶して記念する行為もまた同様である。政府や一部の集団が主導する制度や有形の施設とは別途に、あるいはそれらとともに民草が現場で作りだしていく多様な動きを含めるべきだ。2024年12月3日の内乱を克服する過程で、私たちは5月運動が依然として歴史づくりの力だという事実を確認できる。今日の新たな世代が過去の国家テロと民主抗争の現場を訪問し、自分たちなりのやり方で記憶し、記念する行為もまた5月運動を構成する重要な要素である。
2024~25年の南泰嶺と光化門のペンライト集会は、たとえ形態は違っても、1980年光州地域の民衆抗争と道庁前広場の決起大会、そして光州市に押しよせた全南各地域のデモ隊と脈をともにする。5・18は一つの形状ではなく、それ自体が複合的な全体である。それは大衆の抵抗の流れが現実的な条件を飛びこえて独裁および国家テロに抵抗した歴史的経験という点で、そしてその過程で形式的な民主主義では充足できない数多くの課題を提起したという点で、今後も民主主義の進展のために重要なエトスを提供できるだろう。
(訳:青柳純一)