穴が開いた社会と免疫というコモンズ/白英瓊[2020.3.11]
新型コロナ(コロナ19)感染症の新たな陽性患者数が数日間100人台を維持し、コロナ事態が鎮静局面に入ったという楽観論が台頭し始めた途端、去る10日ソウル市九老区コール・センターの感染集団(クラスター)例が知られると、不安と恐怖がまた広がっている。コール・センター関連の陽性患者数はすでに100人に近づき、今後もっと増えるだろうという予測が出て、11日0時基準で全国の新たな陽性患者数も再び200人を超えてしまった。その上、大衆交通ネットワークが発達して人口密度が高いソウル・首都圏地域で発生したという点で、従来の「新天地事態」とはまた異なる衝撃を与えている。首都圏の療養院や病院などの集団施設で感染が広がる可能性に対する警告はすでにあったが、いざソウル駅近くのビル内における感染集団が現実に生じると、今回の新型コロナ事態が思ったより長期化する場合もあるという不安が高まっている。
中国、日本、アメリカ、イタリアなどの新型コロナへの対処方式は各国の事情と特徴をよく表している。伝染病の広がりと対応をめぐる韓国の状況も、韓国社会の特殊性を余すところなく反映している様相である。海外のマスコミも指摘するように、韓国は情報公開の透明さでMERS(中東呼吸器症候群)時の権威主義政権とはハッキリ異なる政府の存在感を示し、早くて効果的な診断検査を通じて医療技術の先進性を示してきた。診断キットがなくて検査できないとか、検査を受けても数百万ウォン相当を自費で支出する他国に比べると、政府が浴びる非難にもかかわらず、韓国の防疫と医療体系は非難されるべきレベルでは決してない。もちろん学校も閉鎖しており、職場では在宅勤務を勧めるさなかに、マスクを買うために長蛇の列をなして並ぶ姿を見ると、マスクの需給管理でもう少しマシな方法がなかったのかという思いが生じるのは当然だ。とはいえ、新しい伝染病の流行は、それ自体で初有の事態であるだけに、ある程度の混乱は不可避といえるだろう。それでもマスクが不足していると喚きたてる一方、私よりも必要な人のために譲歩し、配慮する市民の集団の数が増えていく姿に感動を覚えたりもする。
反面で、感染集団が広がっていく経路もまた韓国的と言わざるをえない。韓国より先に新型コロナ事態を経験した中国の研究結果によれば、男性が女性より今回のウイルスに弱いという。韓国の場合も、致命率は男性が女性よりも高く表れている。だが、陽性患者数では女性、中でも20代が特に多いのが韓国で著しい特徴である。感染集団が確認された宗教施設、体育施設、療養施設、勤労女性向けの賃貸マンションはどこも女性の活動が際立つ空間である。療養施設の介護労働やコール・センターの労働条件が劣悪という事実はすでに知られていたが、その他にも仕事の特性上、対面での接触や集団的な勤務を避けがたい労働領域内では、女性労働者の比重が圧倒的に高い。住居福祉の死角地帯にあるケースが多いので、感染集団例はやはり女性に集中する。「新天地教」に没入した20代女性が多いという事実もまた、若い女性が置かれた現実と無縁ではないだろう。韓国の多くの女性が置かれている劣悪な生活条件は、結局、防疫の穴となってはね返ってきている。
他方で、感染者の動線が居住民はもちろん、地域を通過する人にまで警報音とともに、携帯の災害メッセージとして伝達される状況もまた、よかれあしかれ、IT強国である韓国でなければ可能ではないだろう。感染者の性別と年齢まで特定して分単位の動線が公開され、感染者本人はもちろん、家族の身上まで知らせて行き先に対する批判まで忍ばねばならなかった。そうしてみると、新型コロナにかかることより陽性確定後の動線の公開がもっと恐ろしいと思う人が多くなり、慌てて国家人権委員会でも陽性患者の詳しい動線公開には人権侵害の素地があるという意見を提出した。詳しい行き先の公開は、誰であれ、意に反する苦痛を与えうるが、少数者はより恐ろしく感じざるをえないものだ。あるテレビニュースは、ホームレスの多い地域で陽性患者が出ると何が起こるかわからないので、念入りに手を洗うあるホームレスの姿を放映した。いい意図で紹介した事例だが、ホームレスでなく誰でも新型コロナにかかりうる現実を勘案すれば、発病した場合に加えられる非難とレッテルを恐れるホームレスの姿は、韓国の少数者が置かれている状況を示すようで、いい気持ちがしなかった。動線の公開を恐れる少数者は感染が疑われる状況では診療を避けるので、これまた差別と嫌悪が防疫の弱点になりうることを示す。
防疫当局の勧告に従えない事例は種々様々である。今回のコール・センターでの感染集団例をめぐり、なぜマスクもせずに狭い空間で勤務したのか、なぜ在宅勤務をしなかったのか、なぜ集まってご飯を食べるのかなどの意見が多い。だが、コール・センター業務の特性上、マスクをしては働きにくく、在宅勤務も可能ではない場合が多い。大邱から来たという事実を隠して病院に入院したが、陽性患者になった人の場合、すでに大邱から来たという事実のため入院を拒否された経験があったし、検査を要請したが症状がないので拒否されたという。致し方ない話だという抗弁が生じうる状況である。「新天地」教徒である療養保護士らが勤務し続けているという非難の声も強いが、密教的な特性以外にも生計上の問題が大きいという話も聞く。現実に寄り添えば寄り添うほど、防疫は言うほど簡単ではないと痛感せざるをえない。
このように、防疫の弱点は単純に医療の問題ではなく、わが社会に既に存在していた問題が露呈して、現実を制約するために生じる。伝染病の広がりの中で、私たちは個々人がただ独立した単子ではなく、連結されている存在ということを気づかされ、いつも人間だけでない数多くの存在で構成された世界を生きているという事実を自覚せざるをえない。人間が単に環境の中で生きていくだけでなく、私たちがお互いに環境であり、その「私たち」はただ人間だけを意味しないという事実を痛感するようになるのだ。社会が伝染病に対する免疫能力を高めるためにも、連結された存在としての人間に対する自覚と、よりよい方式で連結されるための努力は必須である。『免疫に関して』(開かれた本、2016年:邦題『子どもができて考えた、ワクチンと命のこと』、柏書房、2018年)の著者であるユーラ・ビスによれば、「免疫は私たちが共有する空間」であり、「ともに手入れする庭」である。換言すれば、コモンズ(commons)ということだ。
それなら、免疫を1つのコモンズと見るというのはどういう意味か。まずそれは、国家と市場にのみ任せうるものではなく、市民と地域がともに主体にならない限り、自然には与えられないという点を指摘できる。最近、新型コロナ事態後に備えるためにも公共医療が必要であるという声が数多く聞かれる。防疫面で国家や公共機関の役割が重大だという事実自体を否認する余地はない。しかし、防疫と医療を国家が提供すべき基本サービスとのみ見なすならば、時間に追われて物理的な制約が大きい状況で、私の安全だけを主張する無責任な要求や国家に対する果てしない非難はつづくものだ。また、国家レベルだけでは耐えられない問題も多い。感染拡散の憂慮がある障がい者施設や療養施設を中心に厳重に隔離されたならば、世話する人なしに残された人々が問題になっている。
こうした場合、国家が支援すべき役割があるのも明らかだが、国家が伝染病事態を仮定して人力と資源を常時維持することもできないほど、すべてを国家に任せられない現実も認めるべきである。また、備えが比較的うまくいっている状況でも、担当公務員や医療陣の感染など、予想できない事態が起きる場合、いつも弱点は生じうるものだ。もしホームレスや一人暮らしの老人に提供していた食事や給食が感染の憂慮のために途絶える事例を考えるならば、こうした問題を国家がいちいち担ってくれると期待するのは難しく、市場に任せるのは一層想像しがたい。とはいえ、その世話を家族に任せるのもやはり不可能である。急に休学した学校や保育園のために地団太を踏む共稼ぎ家庭の事情を、敢えて例に挙げずとも、伝染病事態で家族は最も早く感染が広がる脆弱な空間である。
結局、市民が自ら主体となり、地域が単位になって主体的に穴を埋め、必要なことをしなければ維持できないのが、ある社会の免疫体系なのである。実際、各個人がそれぞれの道を追求しながら、医療を市場で購買できるもう一つのサービス商品とのみ考える社会ならば、国家の力だけで伝染病を防ぐというのは不可能なことである。気候変化の影響で、今後はもっと頻繁になる伝染病を防ごうというのは、免疫としてのコモンズをともにつくり、育てる場合にのみ、換言すれば、人間以上の存在とともに生きていく、この世界に対して責任感をもって世話する姿勢がある場合にのみ、可能であろう。
白英瓊(済州大学社会学科教授)
翻訳:青柳純一・青柳優子