창작과 비평

[論壇]韓・日・米関係で見た『転換時代の論理』

創作と批評 206号(2024年 冬号) 目次

論壇


韓・日・米関係で見た『転換時代の論理』


南基正(ソウル大学教授、日本研究所長)

著書は『日本政治の構造変動と保守化』『基地国家の誕生』、訳書は

『和田春樹の北朝鮮現代史』などがある。

profnam@snu.ac.kr





*『転換時代の論理』半世紀と日本


 李泳禧(1929~2010年)の次の文章で、本稿を始めたいと思う。


  この国の責任を担う指導者がすでに公言したし、国民も自己保存の一種の本能のようなものの衝動により、日本との軍事的な提携、または軍事同盟を考えているように思われる。いわゆる「韓・米・日安保体制」というものである。さらに一歩進んで、「韓・日軍事同盟」構想も時折聞こえてくる。


 文章内の現実があまりに生々しく、いつしか今、どこかで読んだものではないかという錯覚に陥る。だがこれは、李泳禧が「米軍の軍縮と韓・日安保関係の展望」というタイトルで、『政経研究』1970年8月号に発表した文章の一部である。『転換時代の論理』[1]に収録されて一般の読者に知られるようになり、今日でも版を重ねて読まれる文章である。いつでもどこかで生きている本を古典というなら、『転換時代の論理』は引用した文章だけでも優に古典である。韓日国交正常化から5年にして李泳禧が見た現実が、国交正常化60周年を1年後に控える2024年の現実と判を押したように似ている。李泳禧が『転換時代の論理』という“知的ダイナマイト”[2]を掲げて維新時代の真ん中に亀裂を生んで半世紀過ぎた今、「韓日米安保体制」と「韓日軍事同盟」を扱うことにした理由である。

 本稿は、李泳禧の“知的ダイナマイト”でも破壊できなかったし、今も朝鮮半島に強固に存在している「安保と同盟」の現実を、1974年に刊行された『転換時代の論理』に込められた問題意識を指針にして、50年の間隙を挟んだ韓日関係から確認したいと思う。


*李泳禧と日本、「分断」と「親日」

 李泳禧の著作には日本に関する言及が少なくない。彼の著作の中の日本はベトナム戦争と中国問題に隠された、だがそれに劣らず重要な第3のテーマであった。彼は1960年代末から1970年代にかけて、朝鮮半島と全世界で起きている巨大な変化を理解するための端緒として、日本と親日派問題をベトナム戦争と中国革命に匹敵する比重で設定した。これは、韓日関係が分断問題の地盤として存在するという問題意識に端を発する。

 李泳禧には、2つの“偶像”を打破することが至上課題だった。2つの偶像とは、「反共主義という“偶像”、その次に韓米関係が血盟という“偶像”」だったが、「この二つの偶像を壊すべきだ」という問題意識から韓日関係という課題を発見したのである。「私たちが反共路線を固守する限り、日本に隷属する国家にならざるを得ない。私たちが反共路線に固執すれば固執するほど、韓・米・日のシステム内で運身の幅が狭くなる」[3]という李泳禧の考えが、これを端的に示す。さらに、分断の固着と“親日”の問題があった。李泳禧は、分断克服という問題意識の延長で「ベトナム戦争についてまず取りあげ、次いで中国の革命について取りあげ、その次に日本と親日派の問題を取りあげた」[4]

 李泳禧は、韓日米の位階的な安保協力―分担構造が、「韓国動乱(朝鮮戦争)の発生直後に締結された日米講和条約に」(249頁)起源をもち、韓日国交回復で完成されたと見た。日米講和条約は韓日米安保協力体制の起源であり、歴史問題の起源でもあった。李泳禧は、「米国が日本の賠償方法を修正することで侵略的な植民地国家だった加害者の日本を助けようとしたのか、帝国主義の被害者であるアジア弱小国家の人民を助けようとしたのか」(297頁)という質問を投じた。その答は、もちろん前者だった。一方、「光復した国家」として「国家生存の様々な基本的な土台を磨く、最も重要で第一になすべき作業は植民地的な遺制と残滓を徹底してきれいに清掃すること」だった。これを李泳禧は、「否定を“否定”する作業」と称した[5]。だが、これは日米講和条約により未完に留まり、韓日国交正常化により“1965年体制”と呼ばれる秩序が確定した。李泳禧にとって韓日国交回復は日米講和と不可分に絡まる事件として、その後の私たちに日本は“親日”の問題として存在するようになった。また、それは朝鮮半島と東アジア分断の起源でもあった。東北アジアの冷戦の展開の中で、「日本に米国が軍事基地を維持しようとするのは、朝鮮半島の紛争に備えた後方基地の役割を第1次的な目的にしており」(544頁)、「中共に対する長期政策の重要な要素として、米国は中・ソ提携体制に対抗する米国と日本の共同戦略体制に着手した」(502頁)。米国の東北アジア戦略の中で、日本は朝鮮半島の停戦体制の後方基地であり、ソ連を封鎖する役割だったし、東北アジア冷戦体制では中国に対抗する前衛だった。その日本が中国と国交を正常化する「1970年代に」「極東政治で“アジアの主役”になるために現状打破を願う国家として登場した」(528頁)。

 中国が台頭した2010年代、日本は再び日米同盟の強化を通じて東北アジアの国際政治で“アジアの主役”として秩序形成の指導者を自任しはじめた。第二次安倍晋三内閣が登場した2012年が転換点だった。そうした日本の立場で、朝鮮半島の平和プロセスは東北アジアの秩序形成の主導権を韓国に明け渡すことだったし、従って朝鮮半島平和プロセスで日本の位置をどのように設定するかは日本の成敗を左右することだった。安倍外交に妨害されて失敗した朝鮮半島の平和プロセスは、逆説的に、李泳禧の問題意識を証明したわけである。


*分断問題の地盤、日本の反北・歴史修正主義

 韓国の分断・親日問題のもう一つの地盤として、日本の反北・歴史修正主義が存在する。日本における反韓・反北の活動家西岡力の活動から、“分断・親日は反北・歴史修正主義”という日韓関係を発見できる。1956年生まれの西岡は、日本の麗澤大学客員教授として「北朝鮮に拉致された日本人を救うための全国協議会」(救う会)の活動で知られた人物である。韓国に留学した経験があり、『現代コリア』という雑誌に朝鮮半島情勢と関連した文章を発表していた彼が、世間に名を知られ始めたのは1990年9月、日本の自民党・社会党の共同訪北団が金日成主席と会談し、朝鮮労働党と三党共同宣言を出した後である。この事件を契機にして、西岡は日朝交渉を非難する著作活動を開始する。1990年10月、韓国の女性団体が日本軍「慰安婦」問題に関連して日本政府の責任を追及すると、西岡は『現代コリア』を舞台にして「慰安婦」問題を否定する核心的な存在として浮上した[6]

 西岡が本格的に著作活動を展開したのは、金大中政権が太陽政策という名で対北和解・協力を推進した頃で、彼の文章が韓国に紹介され始めたのも、やはりこの頃である。南北首脳会談が開かれた2000年、韓国と日本の両国で彼の著書『金日成と金大中:南北の和解に騙されるな』が出版されたが[7]、この書で西岡は、2000年6月南北首脳会談により「金正日による大韓民国の破壊工作」が始まったし、「慰安婦」問題はこのために捏造されたものだと主張した[8]。同書は韓国と日本で金大中の平和路線に反対する人々が企画・刊行したもので、朝鮮半島の平和に対抗する反北・歴史修正主義者の日韓連帯が西岡をはじめ、この時期に出現した。

 彼の主張は盧武鉉政権下でさらに過激になり、韓国で「親北左派」と「韓日米三角同盟」派間の「内戦」が勃発したという認識へと発展した[9]。西岡の主張の中で、特に重要なのは歴史問題で葛藤する日韓関係の基底に安保問題があるという認識である。つまり、韓国の反日には「韓日米同盟の骨格を維持して強化していく立場の反日」と「韓日米同盟自体を否定的に見る立場」の反日があり、後者の「親北左派勢力は日本内の左派自虐勢力と連帯してお」り、「この勢力と韓国の韓日米同盟派との戦いは他人事ではない」[10]というのだ。西岡が提示した代案は「日韓保守派の対話」である。「日韓米という南方三角同盟の団結と協力を通じ、金正日政権の核武装を完全に放棄させ、拉致問題をきれいに解決することが最善」[11]であり、そうした意味で、韓国の保守派は「愛国者であり、民族主義者」なので、金正日を敵とみなすという脈絡を共有することで日韓同盟が可能というのである。『反日種族主義』(李栄薫他著、未来社、2019年)の刊行は、西岡が「日韓保守派の対話」を提案した後、長い時間をかけて達成した「成果」であった。


*2012年日本の転換、「国是」になった反北・歴史修正主義

 戦後日本を時期区分する場合、安倍が再起して首相に復帰した2012年は決定的な意味があるが、その後の長い時期を含めて戦後日本は2012年を基準にして安倍以前の歴史と以後の歴史に分けられるだろう。これを朝鮮戦争期の吉田茂の時代と安倍晋三の時代と呼びかえることもできる。前期を支配した吉田ドクトリンが実用的で低姿勢の外交・安保政策、節制的な防衛政策と日米同盟に対する低い依存、これを補完する周辺国との経済的な絆などを特徴としていた。これに対し、後期を支配する安倍ドクトリンは理念的・高姿勢の外交・安保政策、積極的な防衛政策を通じた日米安保利益の一体化、それによる価値志向の偏った外交などを特徴とする[12]。外圧に受動的に反応する国家から積極的・先制的に行動する国家への変化が前・後期を区分する基準になる[13]。安倍の死後、「安倍時代」が急速に幕を下ろすように見えるが、安倍ドクトリンによる外交・安保政策はその後の内閣に継承され、今後も長く持続するようだ。吉田ドクトリンという用語が吉田の死後に広く受容されたように、安倍ドクトリンも安倍死後の長期間を支配するだろう。実際、安倍ドクトリンを完成させたのは安倍国葬を決定し、これをとり行なった岸田文雄だった。強固な憲法改正論者の石破茂が首相になりえたのは、安倍ドクトリンの時代だから可能だったという逆説が成立する。

 吉田ドクトリンが第二次世界大戦で敗北した後、日本の対外膨張路線に対する反省から出てきたなら、安倍ドクトリンは福島での原発事故が起きた後、日本社会を覆っていた憂鬱から出てきた。2010年中国が日本のGDPを追い越すや、「喪失の時代」は20年で終わらないという絶望感が日本社会に立ちこめていて、2011年3月東日本大震災が発生すると決定打を受けて社会の隅々に深い閉塞感が広がっていた。さらに2012年2月、日本の半導体企業エルピーダメモリが破産して半導体市場の覇権を三星に明け渡すと[14]、製造業強国・日本の自尊心は落ちるところまで落ちた。

 日本の国民は強力な指導者を願っていた。2012年の自民党総裁選挙で石破を下して選出された安倍は、そうした日本国民の気分に積極的に便乗した。総裁選挙の過程ですでに河野談話の再検討を主張して「歴史戦争」を開始した。2002年小泉首相の訪北を契機に噴出した日本人拉致問題で対北強硬策を主張し、政治家としての立地を固めた人物が安倍だったので、彼に「反北」と「歴史修正主義」が一つに混ざったのは自然な手順だった。2022年、反北・歴史修正主義の路線の破綻を象徴するように安倍狙撃事件が発生した。彼の在任から死亡までの10年間は、自民党と統一教会が結びつく時期だった。2012年総裁選を前に、安倍は石破の大衆的な人気に対抗する組織的な動員力を必要とし、統一教会は文鮮明死後を準備して新たな体制への転換のために堅固な背後を必要とした。お互いの必要を満たすように、2012年に安倍と統一教会は自然に結びついた。統一教会は、安倍の外祖父・岸信介、父・安倍晋太郎とも分厚い関係を結んでいた。2011年12月2日に自民党本部は、文鮮明の孫娘婿でロイヤル・ファミリーの一員の大塚洪孝と安倍の会見を推進した[15]。大塚洪孝は統一教会のエリート家門の出身で、日本の統一教会と国際勝共連合の会長を歴任した大塚克己の息子である。二人の会同後、日本・統一教会の外郭組織である世界戦略総合研究所は安倍のためのイベントを何度も開催した。また別の外郭組織である国際勝共連合の機関誌『世界思想』は安倍の政治スローガンをつけた特集を組みもした[16]。これらの団体は反北・歴史修正主義の根拠地になり、西岡などがこうした団体との接点で活躍した。これを背景に「反北」は安倍内閣の国是たる地位を固めた。

 具体的な政策は日本人拉致と関連する「安倍三原則」として表れた。「拉致問題が日本外交の最重要な課題」という第1原則、「拉致問題の解決なしに国交正常化はない」は第2原則、そして「拉致問題の解決とは被害者全員の即時生還」という第3原則。日本に帰還した5人以外の拉致日本人は全員死亡したというのが北の公式的説明であることを考慮すれば、日本政府が公認した拉致日本人の即時生還を目標に設定した第3原則は、北との交渉を拒否する態度である。安倍三原則を前提にする限り、日朝間に意味のある交渉はあり得なかった[17]。「反北」を国是とすることにした安倍の日本にとり、北との和解・協力を推進する文在寅政権はまともな対話の相手にはなりえなかった。日本が反北イデオロギーを放棄するか、韓国が朝鮮半島の平和プロセスを放棄するか、これをめぐるチキン・ゲームが日本軍「慰安婦」問題と韓国最高裁の判決をめぐる歴史戦争として展開された。日本の反北イデオロギーに妨害されて朝鮮半島の平和プロセスが中断された状況から評価する場合、安倍内閣と文在寅政権が繰り広げた歴史戦争は安倍の勝利で終わった。尹錫悦政権の誕生後、日韓関係の「正常化」を最優先の課題にし、歴史問題を封印する姿は安倍の勝利を確定させた。


*韓日米安保協力体制の起源、「極東1905年」

 韓国で政権交代が起こるや、日本では「極東1905年体制」という用語が登場した。日本の防衛研究所の研究員である千々和泰明が尹錫悦政権の成立とほぼ同時に刊行した本で、東アジア地域秩序の歴史的な起源を明らかにし、これにつけた名前である[18]

 千々和は極東の地域秩序をめぐる戦前と戦後の連続性に注目しながら、「日米・米韓両同盟」の存在が現実の秩序であり、その起源として日露戦争の結果として締結されたポーツマス条約を挙げる。彼は、朝鮮と台湾に対する植民地支配が正しかったとは言えないが、一方で大国の事情により小国の犠牲の上に国際秩序が形成されるのが当時の国際秩序では冷厳な現実だったとし、日本の植民地支配を正当化した。「極東1905年体制」とは「力による平和」の別名である。

 さらに、3・6政府解法(徴用工問題に関する韓国政府の解決案)が提示され、韓日米安保協力の緊密化が可視化すると、朝鮮半島有事時に日本は米韓連合司令部の意思決定の過程に行為者として参加すべきだという主張が出てきた。米国のハドソン研究所の村野将研究員は、バイデン政権が2022年10月に発表した「核態勢検討報告書」(Nuclear Posture Review, NPR)で、現在の日米両国間の協議体制を日米韓3国の協力体制へと拡大する可能性を公式に言及した点を高く評価して、朝鮮半島有事時の指揮統制機構の再設計を課題として提示する。米軍の支援拠点である日本が、北朝鮮の攻撃対象になる可能性を考慮し、日本が被る被害と責任に従って有事時に日本の役割をつくるべきだというのである。

 これは、『Voice』2023年3月号に掲載された第1期トランプ政権の国家安保補佐官ハーバート・マクマスター(Herbert McMaster)との対談で、マクマスターが日米間の新たな多国間司令部または統合運用司令部の必要性を主張したことに対して答えながらでてきた主張でもある。村野は、米韓連合司令部が朝鮮半島で独立的な作戦指揮権限を確保している反面、駐日米軍司令部はインド太平洋軍のような作戦指揮権限を持ちえていない現実を指摘し、インド太平洋軍や駐韓米軍との間で効果的な戦力配分と作戦指揮を実現させる必要があると主張した。これに対してマクマスターは、駐日米軍の再編、国連軍後方司令部の改編、日本の新たな統合司令機構との一体化(統合)などの必要性に言及して応えた。さらに村野は、これを長期的な課題として設定し、まずは日米拡張抑止協議に韓国をオブザーバーとして招請し、韓米拡張抑止協議体に日本の専門家を招請する形式で、トラック1.5協議を始める方法があるという提案までした[19]

 また2022年6月、アジア安保会議(シャングリラ会合)の基調講演で、岸田首相は日本が「規則に基づく国際秩序の中で平和と繁栄を継続できるのか、あるいは力による一方的な現状変更が起きる中で……弱肉強食の世界へ戻っていくのか」の選択肢に直面していると強調した。ロシア―ウクライナ戦争が勃発した状況であったし、韓国では政権交代が起こった直後であった。ロシアーウクライナ戦争は日本の「極東1905年体制」という昔の名前の「新しい地政学」構想に正当性を付与し、韓国の政権交代はその現実化の可能性を担保することだと思われた。日本の安保論者は、「国際法を無視した先制的攻撃の開始という明らかな“悪”と、これに抵抗する明白な“善”の対立」がロシアーウクライナの戦争の特徴とみて、そうした状況下で日本は「戦争できない国」であってはならないと強調した[20]


*日本と韓国の安保三文書、そしてキャンプ・デービッド三文書

 文在寅政権時に日本が発表した地政学的な構想を見れば、韓国は排除、または無視されていたのに反し、尹錫悦政権の成立とほぼ同時に刊行された千々和の安保構想などでは、韓国は日本の安保体制に固く縛られている。千々和泰明と村野将など日本の安保専門家の構想は急速に政策化され、2022年12月『国家安全保障戦略』、『国家防衛戦略』『防衛力整備計画』など日本の防衛省の安保関連戦略文書に反映された。日本の安保政策の大転換を確定する文書として、メディアでは主に「GDP2%の防衛予算措置」や「反撃能力の導入」に関心が集中した。だがより重要な点は、これを契機に日本の防衛力が作用する「地理的空間」が大幅に拡大されたという点、そして日米同盟の伝統的な結合様式である「槍と盾」の役割が変化したという点である。すなわち、日本の安保に直結すると判断される広い地理的な範囲、少なくとも台湾と朝鮮半島で日本が「槍」の役割を果たしうる点を確認したことに注目する必要がある。

 その中で、日本の安保において韓国がもつ戦略的な地位が格上げされた。これは明らかに尹錫悦政権の登場による変化として、韓日米関係を重視する韓国が再び戦略的な価値をもつに至ったことを証明する。具体的な協力内容は『国家防衛戦略』に提示され、韓国は同志国(like-minded countriesの日本語表現)と範疇化された協力対象国家中の1つとして多角的な防衛協力の対象であり、相互接近協定(RAA)、相互軍需支援協定(ACSA)、防衛装備・技術移転協定という制度的な整備を推進する対象になった。同じ時期に韓国の安保政策も大転換を遂げた。2022年12月、韓国外務省は『自由、平和、繁栄のインド太平洋戦略』を発表したのを起点に、2023年3月には国防省が『国防戦略書』を、2023年6月には大統領国家安保室が『国家安保戦略書』を発表した。韓国は日米主導のインド太平洋戦略に安保政策を同調化させるというのだ。その過程で、日韓関係の最大の難関だった強制動員の被害賠償問題は「大きな石」[21]を片づけるように「第三者代位弁済」で処理し、対日外交の課題リストから削除され、その後は韓日、韓日米の安保協力が急発進するように加速した。3月と5月、二度の日韓首脳会談、4月の日米首脳会談と韓米首脳会談、5月の広島G7サミットを経て、8月18日キャンプ・デービッドに至って韓日米三角同盟がついに輪郭を現わした。「歴史戦争」で日韓同盟派の連合が勝利した結果である。こうした過程で、韓国の安保三文書は日本の安保三文書と結合し、対中包囲網の前衛に韓国が立つという形がつくられた。また、この過程で韓米の核協議グループに日本の参加を開けておこうという発言があったし、韓日米連合訓練の定例化の論議では、韓米連合司令部を韓日米連合司令部へと改編する可能性を探索していた。

 去る2024年2月、日本の外務省傘下の日本国際問題研究所が発表した『戦略年次報告2023』に具体的な内容が掲載されている[22]。この報告書は、尹錫悦大統領の任期後半の政局の不安定性を指摘し、現政権との間に重要な安保上の合意の枠を着実に具体化すべきだと強調する。尹錫悦政権後の「進歩派政権の誕生」の可能性も念頭に置き、超党派の対話を通じて実現すべきことも提案している。特に具体的な課題として提示したのは、「日韓2+2」の設置と日韓相互軍需支援協定(日韓ACSA)の締結で、キャンプ・デービッド会談の成果に実効性を付与する日米韓の指揮統制協力の深化を模索する点に注目すべきである。報告書は、日本の自衛隊の米国側の相手がインド太平洋軍であるのに比べて、韓国軍の相手が駐韓米軍という現実が日米韓の三国協力に障害要因であると指摘し、これを克服するためにまず韓米連合司令部や国連軍司令部に自衛隊の連絡官を派遣することから始められると主張する。

 2024年2月、「両国領事当局間の協力のための了解覚書」を締結する動きがあるという報が出た後、去る9月6日退任を前にした岸田首相の訪韓にあたり、「第3国有事時の自国民の退避協力の了解覚書」が締結されたのは、このために外郭をまず固めた行動だった。日本はずっと前から朝鮮半島で緊急事態が発生すれば、在韓日本人を退避させるという「非戦闘員退避活動」(Non-Combatant Evacuation Operations, NEO)に関心を示してきた。「第3国有事時の自国民の退避協力の了解覚書」は「朝鮮半島有事時の日本人の退避協力覚書」にいつでも発展できるし、また自衛隊の韓国派遣のための制度をつくる道にもなりうる。

 相互接近協定とは、締結国家の中で一国の軍隊が他の国家を訪問して協力活動を実施する場合の手続と地位などを規定する軍事協定である。日本はオーストラリア(2022年)、英国(2023年)、フィリピン(2024年)と協定を結んでいる。日本にとってこれらの国家は準同盟国に分類されている国家である。日韓の間でACSAとRAAが締結されれば、これは同盟レベルに達するもので、日韓同盟体制が事実上完成されるはずと言える。日本側は尹錫悦政権を相手に、こうした協定を結べるようになったのは「千載一遇の戦略的な機会」と認識している[23]


*「反北・反北方」の起源、反共・歴史修正主義の日韓連帯

 まさに2024年夏、韓日米の安保協力は本格化すると同時に、ニューライトの全盛時代が訪れた。2024年6月、韓日米三国の多領域共同軍事訓練であるフリーダム・エッジ(Freedom Edge)が大々的に実施され、7月28日には韓日米の国防相会談で「安保協力フレイム・ワーク」が締結された。キャンプ・デービッド後、三国の安保協力を制度化する最初の文書だった。国防相会談の前日の7月27日、佐渡鉱山がユネスコの世界文化遺産に登録された。尹錫悦政権が対日外交で「不法な植民地支配」という歴史戦争の不退転の防御線を放棄した結果であった。これを契機にして、日本の植民地支配は「合法」だっただけでなく「恩恵」だったと主張するニューライトの歴史認識が前面に登場した。これへの批判に対して、金泰鎬大統領府国家安保室第1次長は「重要なのは日本の心」だと対応した[24]。次いで、ニューライトの真の戦線が姿を現した。8月27日、キム・ソンホ国防次官は韓日相互軍需支援協定の締結の必要性に言及したのだ。ニューライトが開始した南・南の「歴史内戦」は朝鮮半島の南部を反北・反北方大陸封鎖の前方前進基地として差し出すための前哨戦であることが露呈した。

 反北・反北方の起源に「反共」がある。日韓「1964年体制」が復活している現時点で想起すべきは、日韓国交回復の背後に日韓の反共連帯が布陣していたという事実である。1964年に日本で「原理研究会全国大学連合」が結成され、統一教会が認められたのが始まりだった。1967年7月には、文鮮明と日本の代表的な右翼人士である児玉誉志夫、笹川良一、岸信介が山梨県の本栖湖畔で会議を開き、第1回アジア反共連盟結成の準備会を組織した。翌年1月13日に韓国で、そして4月1日には日本で国際勝共連合が創設された。その年、長崎大学では右翼の学生たちが左翼学生を排除する「正常化」運動が起こり、その核心勢力は反左派闘争の「戦友」だった「生長の家」学生会全国総連合と「原理研究会」だった[25]。「生長の家」は日本会議へ、原理研究会は「World CARP Japan」、そして勝共ユナイトへと引き継がれた。全共闘は消えた歴史になったが、日韓反共連帯は反北・歴史修正主義の連帯として復活した。


*再び、李泳禧と日本:脱植民地―脱覇権―脱分断の環、日本

 ここで、李泳禧の次の文章を紹介して終えようと思う。


  米国政治が急速に反共的な性格へと変化した背景には中国の社会主義化があり、(中国の)参戦を契機に、(米国は)日本の東北アジア社会主義勢力に対する軍事および経済の基地化政策へと転換した。日本の占領・管理体制におけるソ連の実質的な排除はソ連の冷戦的な対応を引き起こした。[26]


 本稿の冒頭で確認したように、李泳禧が描写する現実は依然として現実と大して変わらない。米国の政治が急速に反中・反ロ的な性格へ変化した背景に中国の大国化があるという点、中国の海洋進出を契機に米国の政策が日本を中心にした対中封鎖政策へと転換したという点、ヨーロッパの安保秩序で実質的にロシアが排除され、ロシアがウクライナを侵攻したという点を考慮すれば、李泳禧の観点は現在も有効である。李泳禧が、1970年の現実と実時間で向きあい、こうした分析ができたのは、北韓大学院教授ク・ガブの指摘通り、彼が脱植民地・脱覇権・脱分断の道を模索し、「批判」と「実践」のために彼なりの国際政治理論を構築していたからである[27]。その理論の枠に立脚し、李泳禧は韓日米三角安保体制のアキレス腱だった韓日関係は、50年代の白紙状態から60年代の政治関係、70年代の経済関係、80年代の軍事関係を経て安定化段階に入り、90年代の立法化段階、つまり法的な同盟へと進んでいると診断した[28]。韓国と日本は2020年代半ばに至り、さらに法的・制度的な同盟へと進もうとしている。これに関連して李泳禧が「間違った」予測をしたとも指摘できるが[29]、理論が現実に先立った結果ともいえる。1990年代以来、開始された韓国の北方政策がこれを先送りしただけであり、世界的な脱冷戦を背景にした脱植民地・脱覇権・脱分断のために傾けた30年の努力が大失敗に帰した後、再び頭をもたげていると見れば、李泳禧の予測は30年の時間を越えて的中しはじめたし、現実が遅れて理論に追いついてきたともいえる。

 一方、李泳禧は1970年代に「韓・日軍事同盟の締結がなくても、一辺がない三角形式の韓・日・米同盟安保体制」(535頁)が構築されたとしながらも、1990年代に至ると、「東北アジアで新たな秩序を建設しようとする努力の成功如何は、ほぼ宿命的に日本の態度と政策にかかっている」[30]ことを看破した。韓日米安保体制を平和秩序へと覆す転換の論理が、李泳禧の中で日本を中心にして作られていたのである。「転換時代の論理を武器」とし、東北アジアの秩序の転換を論ずる時代へと進んでいくために、日本を引き入れることは、彼の言葉通りに宿命だったし、このためには排他的な民族主義を克服すべきだと述べた。李泳禧は、次のように告白したことがある。「日本の朝鮮侵略と併合、そして植民地問題などに対する法的・政治的な罪科については応分の、峻厳な代価があるべきだという民族的な立場をとります。(……)それでも同時に、私は韓日両国の問題を過去と歴史的事実だけを強調し、日本人または日本民族に対して一方的な非難や糾弾を常とする排他的な民族主義については共感しません」。そして、李泳禧は「個人的な処身に対する警句」であり、「わが国民と民族全体にも同じ基準」で適用する中国の故事だとして、「国が傾くのは他国が滅ぼす前に、その国の君臣が自ら国を傾けさせたため」という句節を紹介した[31]

 韓日米安保協力と、このための韓日同盟の道から離脱するために日本の態度と政策の変化が必要ならば、私たちは平和秩序を構築するパートナーとして日本と向きあう準備をすべきである。このために先行すべきは植民地支配の残滓を整理すること、つまり「否定を否定」する作業である。李泳禧にとって「否定を否定」する作業は、日本と協力するために、言い換えれば、宿命的に必要な日本の協力を引き出して韓日同盟の道を遮断し、韓日米安保体制を平和秩序へと転換するためだった。「力による平和」にしがみついて韓日米の安保協力にオールインする“武器崇拝者”[32]が、「否定」を「肯定」して朝鮮半島の時計を1970年代へと戻すために狂奔する中で、朝鮮半島に堅固に存在する「安保と同盟」の現実に亀裂を起こすために、「転換時代の論理」という“知的ダイナマイト”を再び掲げるべき時である。


*本稿は、2024年10月16日に開かれた『転換時代の論理』刊行50周年記念の討論会「再び、転換時代に向きあい」で発表した文章を修正・補完した。


<注>

[1]李泳禧『転換時代の論理』初版、創作と批評社、1974年、改訂版チャンビ、2006年。引用は改訂版249頁、以下、同書の引用は本文に改訂版の頁数のみを表記する。

[2]「民主主義、“若者の血”と“李泳禧の魂”を食べて育った」、ハンギョレ、2024年10月5日。

[3]金東春「分断・統一問題に対する李泳禧の考え」、高炳権他『李泳禧をともに読む』、チャンビ、2017年、68頁。

[4]徐仲錫「親日派・親韓派、日本の過去史反省」、同上書、228頁。

[5]李泳禧「光復32周年の反省」『考えて抵抗する者のために』、チャンビ、2020年、30~31頁。

[6]拙稿「ニューライトを越えて脱植民―脱冷戦―脱覇権の新たな秩序へ」『進歩政策研究』第2号、2024年。以下に続く2段落は、同論文の一部を要約、整理したもの。

[7]西岡力『金正日と金大中、南北融和に騙されるな』、PHP研究所、2000年。同訳書は西岡力『金正日と金大中、南北和解に騙されるな』、パク・ファジン訳、韓国論壇、2000年。

[8]西岡『金正日と金大中』、88~90頁、100頁、111~14頁を参照。

[9]西岡力『韓国分裂』、イ・ジュチョン訳、キパラン、2006年、6頁。

[10]同上書、7~13頁。

[11]同上書、48頁。

[12]Christopher W. Hughes, Japan‘s Foreign and Security Policy Under the “Abe Doctrine“, Palgrave Pivot 2015; 

南基正編『安倍時代、日本の政治と外交』、博文社、2022年。

[13]キム・スッキョン他『日本、“行動する国家”日本の戦略構想と実践』、国家安保戦略研究院、2022年。

[14]「デジタル家電、韓国の覇権と日本の敗北」、『東洋経済日報』、2013年5月31日。

[15]「安倍晋三が統一教会・文鮮明一族を党本部に招き入れた蜜月写真を入手」、現代ビジネス、2022年10月25日、「教祖の孫と祝福結婚した日本協会幹部の子女」、同、2022年11月1日。

[16]旧統一教会と自民党の密接な関係」『毎日新聞』、2022年9月15日。

[17]和田春樹『日朝交渉30年史』、ちくま新書、2022年。和田春樹『北日交渉30年』、キル・ユンヒョン訳、西海文集、2023年。拙稿「北日交渉の蘇生のための処方箋」『歴史批評』2024年春号。

[18]千々和泰明『戦後日本の安全保障』、中央公論新社、2022年。

[19]「世界が見習うべき『責任ある一歩』」、『Voice』2023年3月号。この対談は、政策シンクタンクPHP研究所のホームページに転載されている。

[20]鶴岡路人『欧州戦争としてのウクライナ侵攻』、新潮社、2023年、14頁。

[21]「“大きな石”を片づける韓ドクス『誤解するもの……真っすぐに入れろ』」、ハンギョレ、2023年4月4日。

[22]戦略年次報告2023』、日本国際問題研究所、2024年、20頁。

[23]阪田恭代「韓国のインド太平洋ピボット:『インド太平洋2.0』における日韓、日米韓の戦略的連携」日本国際問題研究所、2024年3月31日。

[25]「『重要なのは日本の心』という大韓民国の国家安保室」、ハンギョレ、2024年8月20日。

[25]「旧統一教会と日本会議、『野合』の運動史」『東京新聞』、2022年8月18日。

[26]李泳禧「冷戦の歴史と展開」『偶像と理性』(李泳禧著作集2)、ハンギル社、2006年、361頁。

[27]ク・ガブ「李泳禧の“批判”と“実践”としての国際政治理論」『韓国政治研究』第26巻第1号、2017年、77頁。

[28]李泳禧「韓半島の周辺情勢の質的変化」『80年代の国際情勢と韓半島』(李泳禧著作集3)、ハンギル社、2006年、279頁、281頁。ソ・ボヒョク「李泳禧の反戦・反核の平和思想」『統一と平和』第9巻第2号、2017年、135頁。

[29]ク・ガブ、前掲論文、94頁。

[30]前掲『考えて抵抗する者のために』、ハンギル社、2006年、75~76頁。

[31]李泳禧『対話』(李泳禧著作集11)、ハンギル社、2006年、562~63頁。

[32]前掲『80年代の国際情勢と韓半島』、289頁。


訳・青柳純一