창작과 비평

[巻頭言] 新たな体制をひらく切実な思い / 白英瓊

創作と批評 208号(2025年 夏号) 目次

巻頭言


新たな体制をひらく切実な思い


白英瓊


暗く長く感じられた冬が過ぎた。春が来るような、来ないような、かなり遅くまで続き焦らされた花冷えの寒さのように、醜悪な権力者を追い出すことは思ったより容易ではなかった。長い冬の寒さの中でも広場を守り抜いた市民たちの力で、私たちはようやく春を迎え、いつの間にか夏に近づいている。しかし、ようやく生き甲斐が感じられると言うには、まだ現実があまりに危うい。山火事で黒く焼けた国土や、崩壊した生の現場で生計を脅かされる人々、繰り返される災害事故、依然として高所で籠城を続ける労働者たち、定期的な産業災害の中で命を落とす人々、また拙速な介入で崩壊した医療の現場や、国家機関が積極的にヘイトを醸成するあいだに回復不可能なダメージを受けた人々。非常識が日常化したこの数年間は、私たちの生を明らかに崩壊させたが、尹錫悦政権の退陣だけで問題が解決すると信じる人はいない。しかし今、私たちに再開の機会が与えられたことは明らかである。

振り返ってみると「これが国と言えるのか」と叫んだ歴史は長い。民が主人となる国を建てようとする努力は、遠くは1894年の東学農民運動や1919年の3・1運動、近くは1960年の4・19学生革命や1980年の5・18光州民衆抗争、また1987年の6月抗争と、韓国の歴史のあちこちに刻まれている。最も鮮やかな記憶は2014年のセウォル号惨事以降のことである。当時市民たちは「これが国と言えるのか」という絶叫とともに、国らしい国を作るべきと誓いながら、広場に集まってろうそくを手に取った。ただ、その切実さは、現実の壁の前できちんと実現できなかった。壁に面した希望は挫折や憤怒となり、変化への渇望は再び広場を埋めた。しかし、以前の経験が示すように、憤怒だけでは現実は変わらない。

政権交代を越えて、生の方式において実質的な変化を生み出し、またそのように変化した姿を守るためには、言葉にする以上の連帯も必要であり、古い課題を整理する実力も必要であり、これを推し進める知恵や忍耐も必要である。何よりも以前の誓いが反故にされた点を把握し、私たちの熱望を屈服させた力がどのようなものだったかに対する反省も必要である。人的清算だけで問題は解決できないという事実も記憶すべきである。特定の個人や集団の交代ではなく、社会全体の構造的変化が必要な時である。今、私たちの目の前にあるのは、気持ちを集めて現実をきちんとしたものに変える、いま一度の機会である。

現実における「切実さ」の内容が、それぞれ異なり得ることも記憶しておく必要がある。誰もが民主主義を熱望しても、誰かにとっては最も緊急な課題が安全な職場、生活の問題、死の前のケアでもあり得るし、また他の人にとっては、差別やヘイトのない世界や、公平で平等な機会というものでもある。よりよき世界への渇望を共有しても、年金改革、労働政策、不動産問題などの具体的な事案になると、市民の間で利害関係が交錯することも多い。みな新たな世界を夢見るとしても、それぞれ希望する国の姿は異なり得るのである。だが、この差異や葛藤も、国らしい国を作るためには直面することになり、実際に向き合うべき課題であることは明らかである。

真の中道とは、中途半端な妥協や穏健の追求ではなく、単に数的に多数を規制していく道でもない。より多くの人々がよりよき変化を成し遂げるためにともに歩むことである。それは熱い情熱を抱くものの希望を失うことなく、早急に進めずに実際的な結果を生み出す着実な過程である。そのためには、希望の時代であるといっても、その希望が誰にとっても均等にやってくるわけではないという事実を忘れてはならない。みなにとって暗澹たる時代よりも、希望が少しずつ見える時代の方が、むしろ疎外感をより大きくすることもある。だから、いかなる問題も軽い判断で重要度を決めたり、解決を後退させようとしてはいけない。もちろん内乱事態の責任を問い、民生と平和をまず顧みる大きな原則は必要である。しかし同時に、それほど重要ではなく見える問題が、全体を解くカギになる可能性もある。何よりも希望は、ともにいる人々が多くなるほど、その力が強くなるのではないだろうか。

したがって、政権交代以降も、市民の参加や監視、連帯が潰えないようにすべきである。共同体に対する責任意識のないエリートの専門家主義は、決して問題を解決できない。たとえば、民主主義の回復が単に法治主義の強化にのみ収斂するならば、重要な社会的判断が司法エリートの手に振り回される、昨今のような現象が繰り返されるだろう。市民が真の国の主人になるには、具体的にいかなる制度や実践、学びが必要かを絶えず考え実験していくべきである。社会が求める「正常の」生の軌道から離脱したり、一度競争から落後したら人生が終わるような不正の社会でなく、誰もがまた始めることのできる社会、機会が、持てる者の特権でなく、みなの権利であるような社会を作るべきなのももちろんである。

これまで私たちは「これくらいなら終わりだろう」と思っていた自分が恥ずかしくなることを繰り返し経験してきた。おそらく私たち自身も、問題の深刻さとその根の深さを過小評価したのかもしれない。これからは「これが国と言えるのか」という絶叫を繰り返さないように、今ここでがんばって希望を持ち、その希望が持続できるように土台をしっかり固める作業を始めるべきである。そして、誰かの切実さが再び怒りに置き換わらないように、気持ちを守る努力もみながともにするべきである。真の民主主義の回復は、誰でも、いかなる条件でも、自らの声を出すことができ、その声が尊重される社会を作ることであり、このために私たちに必要なのは、生の現場から変化を起こしていくすべての人の参加である。


今号の特集「民主主義的な感情と新たな文学」では、12・3内乱事態以来、さらに注目される私たちの「民主主義的な感情」が、いかに文学と接続し、新しさを開拓するか、その感情の物語を分析する。ファン・ジョンアは、今、この瞬間の責任、自らの「内容」に対する市民の覚醒が持つ歴史的深さを意味化するなかで、感情の役割と意味について豊かに論じる。キム・クムヒの長篇小説『大温室修理報告書』で、人間の感情と歴史を「復元」し「修理」していく過程を興味深く伝え、新たな成長物語の可能性を明らかにする。チョン・ギファは最近の韓国文学の哀悼の叙事詩が、単に喪失を労わることを越えて、読者を哀悼の場へと呼び出す積極的な役割を果たすことを示す。残された者たちの位置から喪失を振り返る文学的実践が、説得力をもって伝えられる。ファン・ギュグァンは、キム・ヘジャの詩の言語が持つ共同感情を捉え、私たちが失った他者と世界とのつながりを、詩をもっていかに蘇らせているかを論じる。キム・ヘジャの詩のなかの「おまえ」という呼びかけの方式を借りて、近代の破壊的な主体性を越えた、新たな関係を結ぶことの可能性が示唆される。

白楽晴・李南周の特別対談「2025年体制、いかに作るべきか」は、新たな体制建設のための思惟と実践方向を鮮やかに深く伝える。尹錫悦による内乱政権の画策のなかで、87年体制の時効を迎えたという認識が拡がるいま、新たな政治と新たな国を作る経路がいかなるものであるか、言説の場を開くために今後も参考になる対談である。「変革的中道」の観点から、新政府の課題や実践的方案、実効性ある改憲の方式と2025年体制作りが集中的に議論される。

「対話」は解放80周年を迎えた朝鮮半島の状況を歴史的観点から眺望する。キム・ドミン、ムン・ミラ、ホ・ウン、ホン・ソンニュルら4名の現代史研究者らが、朝鮮半島分断前後の歴史を振り返り、その意味を診断して、教養的な次元でも読み応えがある。解放直後に実現できなかった国作りの念願を今後どう実現していくのか、重要な糸口を提供する。

論壇欄でも新たな国作りの構想に資する好論文を紹介する。ハン・サンヒは最近の内乱事態および主要裁判に関連した司法部の対応の問題点の指摘からはじめて、これまで累積した司法部の問題点を体系的に示す。帝王的な大法院長体制の問題点と裁判所行政処の権力集中の現象を指摘することはもちろん、司法の民主性確保のための具体的な方案を提示し、司法改革の重要性に資する論文である。

朝鮮半島の現実に根ざした実践的な改革言説の系譜を書き換えようとする、本誌の野心的な企画「K言説を模索する」は6回目の連載を迎えた。朴正煕政権の開発至上主義の発展モデルに対抗し、民族経済論を提起した独歩的な経済学者・朴玄埰の生と思想をイ・イルヨンが深く再照明する。パルチザン経験から始まり、人民革命党事件を経て、在野経済学者として活動するまで、朴玄埰の波乱万丈の生がいかに韓国的な代替経済思想の原型になったかを追跡する。単なる回顧を越えて、彼の民族経済論が今日の韓国の経済状況において持つ意味と新たな可能性を探索し、現在の実践の地平を提示する。

現場欄でホン・ソクファンは、最近の慶尚道地域をはじめ、全国各地で頻発する大型山火事の背景に、誤った森林政策の構造的問題があることを鋭く指摘する。数十年間続いてきた「森作り事業」が、むしろ山火事に脆弱な森を作ってきたという衝撃的な診断とともに、災害後に進む「復旧」がいかに被害住民を疎外させているかを具体的に示す。パク・ソクジンは、国防政策への市民参加を拡大する革新的な試みを紹介する。12・3内乱事態を経て、軍の役割と責任が一層話題になる状況で、市民の直接参加で作られた初の市民国防白書の発刊過程と意義を生き生きとした現場の記録として示す。

何が私たちを生かすのか、また自分は何のために生きていくのか、温かな希望で概観し、ケアの意味を再び思惟する散文企画「自分の生をケアすること」が第2編を迎えた。詩人アン・ヒヨンが母と祖母のそばで知ったケアの意味を、特有の暖かな筆致で散文に盛り込んだ。祖母の田舎の家の庭から、母のマンションのバルコニーへ、また詩人自身の「詩の庭園」へとつながる庭園の象徴を通じて、ケアがどう循環して生を支えるか、思慮深い思惟が伝わる。

創作欄では、12人の詩人がそれぞれの声で生の大小の悟り、時代の傷、希望を歌う。キム・ヘジン、ムン・ソイ、ムン・ジニョン、パク・ミンギュ、チェ・ウンミの精緻な新作短篇も読者を迎える。作家の照明では、評論家のキム・ナヨンが最近の小説集『春夜のすべて』を出版したペク・スリンを論じた。作家が捉えた微細な感情の気配が、いかに生を修復し、持続する力として小説の中に展開するかを繊細に追跡し、自己と他者、親の世代と子の世代、体と心の落差を直視し、その空白に触れてきた作家的な努力に光を当てる。

文学評論でハ・ヒョクジンは、これまであまり照明されていない父―娘の叙事を独創的な視点で意味化する。イ・ミサン、ソン・ヘリョンやイェ・ソヨンの小説を通じて浮上する娘の主体性に注目し、世代・ジェンダーをめぐる新たな読み方の可能性を探る。注目すべき新作を論評する文学焦点では、キム・テソンが「ソラン」と「ゴヨ」というキーワードで、コ・ソンギョンやパク・ジュンの詩集を、ミン・ソネが「破裂と接続の場にできた継ぎ目」という象徴で、ソン・ヘナ、パク・ソヌの小説を論じる。オ・ヨンギョンはハン・ギウクやユ・ヒソクの論文を通じて、批評が遂行すべき、韓国文学に対する「相続行為」の意味を振り返る。寸評は、開闢思想を通じた文明転換の可能性を考える人文書から、評伝や世界文学にいたるまで多彩な書籍を紹介する。書籍の美徳を精緻に検討し、私たちがともに悩むべき点を伝える書評に出会う。


私たちの目の前にある課題が厳しく重いものであるために、本誌がこれまでやってきたことを掲げるよりは、今後の役割により集中する時である。ただ、国らしい国への歩みを進めることに小さな力を傾け、国民の意に合わない政権は任期を埋めることは難しく、転換のその日を早めるべきという信念を持って声を出してきたという事実だけは、読者たちも理解してくれると信じたい。今後もやるべきことを深く心に刻み、この作業を続けることが本誌の役割であろう。

『創作と批評』は、切実な気持ちが集まって対話する場になることを望む。異なる考え方や立場の人々が討論し、互いの切実さを理解し、共通の方向を模索する空間になることを望む。世界と朝鮮半島の現実を綿密に検討し、2025年体制を企画していくと同時に、よりよき未来に向けた代替的ビジョンを模索する言説の場として、私たちはつづけて問い、コミュニケーションし、実践し続けるだろう。

いま一度、新たな希望から始めよう。今回は、その切実さが実現する姿をともに作っていこう。希望は自然にやって来るのではなく、今ここでともにがんばって作っていくものなのだから。


訳: 渡辺直紀