[寸評]われわれの冬と春についての小さくない話
寸評
われわれの冬と春についての小さくない話
林京彬(イム・ギョンビン)/政治評論家、ユーチューブチャンネル「社長南川洞」のキャスター。
me4scope@gmail.com
「処断?」
12月3日の夜11時30分頃、私は江辺北路の上にいた。私を含めた「社長南川洞」 ユーチューブチャンネルの運営陣3名は、汝矣島にある国会議事堂へ行く途中であった。内乱首領である尹錫悦(ユン・ソクヨル)の委任を受けた戒厳司令官の朴安洙(パク・アンス)が「令状なしに逮捕」と「処断」に触れた対象のなかで、「言論」系従事者がつまり私たちであった。戒厳司令部の第一号布告令を聞いたら、今、何事が起きているかがまともに実感された。そうか、非常戒厳。
汝矣島のKBS別館の後ろ側に車を停車しておいて国会へ向かう途中、パタパタパタパタパタと轟音をあげてヘリコプターが頭の上を過ぎていった。国会の正門の前に集まってきた人々が「非常戒厳を撤廃しろ」という、2024年に聞くことになるとは想像だにしなかった掛け声を叫んでいた。非現実的な現実が相次いで目の前に繰り広げられた。その日の夜は、実に長かった。
『小さな日記』の著者である黄貞殷(ファン・ジョンウン)もその日、汝矣島に行った。その日以後の事がらを日記に書き、再び本として綴った。日記はもともと最も内密な記録であるが、同時に最も現在的な記録である。なので日記帳は法廷でしばしば強力な証拠として働く。事件が起きた当時の「現在」が生々しく記録されるからである。過去が現在を証言する力が日記にはある。
時事放送の作家であり、政治評論家である私は常に他人の現在だけ語る人であった。人の話を記録し、記憶し、それを再び反芻する仕事をやってきた。もしかしたら、人の日記を20年間書きながら生きてきたわけである。そうして出会った黄貞殷の日記の中には、内乱事態以後の、その冬と春の私がいた。「人」の日記で「私」に出会う特別なことが起こった。共同体とは構成員たちが何をどう記憶するかに対する合意の総合である。記憶は歴史となり、歴史は共同体を規定する。そういう意味で誰かの日記は個人史であるが、他の市民と共有すると社会史となる。『小さな日記』は「われわれ」が6カ月間共有した、深い侮辱感についての話である。
「あえて。」 黄貞殷はその時期の「不安と鬱憤を如何に記録すべきか」と問いながら、この言葉が堂々巡りしたと告白する。(40頁) 著者のようにクーデター勢力に向かって「あえて」と低めの憤りにおそわれた人々は、その感情の正体がわかる。遠く汝矣島にあった、YTNのようなニュースチャンネルでつまらなく並べられていた政治が、いきなり画面の外へ歩き出て自分の日常を踏みにじることができるという恐怖。内乱性うつ病と不眠症は韓国人の流行病となった。それにも生きるべき日常がある。生業が別にある「われわれ」はその反乱の季節をどう過ごしたか。みなどうして夕方ごと、週末ごと広場に出てくるのか。「この人々は仕事がないか?」と、仕事のない人のように広場に出ながら互いに考えた。ところが、実はみなただ苦労して広場に出てくるわけであった。私のように。
著者も同じである。『小さな日記』を読む間、尹錫悦の罷免の可否ほど、著者が小説の原稿を書き終えられるかが、生活者である読者の関心事となる。あの短編の原稿はいったいいつ終わるのか。数時間後、起こることは夢にも知らず、その日、「短編をつないで書い」(9頁)た著者が、戒厳事態以後、「日が明けるとまた出ていかなければならない」(17頁)から、原稿ファイルを開いて三行を書くに留まったり、「今日は本当に短編原稿に集中すべき」(88頁)だと呟く時ごと、業務をやり残して広場に向かった「夜勤者」たちが重なる。同病相憐れみである。尹錫悦が逮捕され、著者が短編原稿を書き終えた時、私もしばらく拍手を送った。ところが、短編原稿を書き終えてからは再び(おそらくこの本の草稿であろう)日記原稿、そして長編原稿が著者を待つ。そうだ、罷免は罷免であり、生業は生業である。われわれは退勤後、集会に行く韓国人、「集会をなぜ夕方にするか」と、イタリア人たちにとってはとうてい理解できないという韓国人である。そうしてわれわれは6カ月を「働きながら戦う」人々であった。
坡州に住む黄貞殷は京義線に乗って汝矣島の集会に行き、落ち着かない心を宥めるために湖公園を散歩しながらアヒルを見物した。 坡州の雲井に住む私とコースが同じであった。彼女もソリ川辺を歩きながら全琫準闘争団を応援したわけだ。私も広場であの「燃える男ジョン・デマン 」の旗に安堵していた。そうしてわれわれの日常が、同時によりよい世の中のための闘いがつながっていることを感じる。
それであまりに「公的な」日記のページをめくりながらしばしば泣いた。泣きながら慰められた。私の不安が彼の不安であったし、私の憤りと諦念もまた彼のそれと違わなかった。われわれは同じ記事を読みながら無気力となり、しばしば安心した。私一人ではなかった。カメラの前で全部知っているふり、不安でないふりをしながら視聴者を慰めた政治評論家ではなく、もう一つの日記の主人公としての安心であった。
日記を書かないようになってから30年位経ったので、この本を読み終えてから現代人の日記帳と言える携帯電話を開いた。放送作家時代の習慣のため、今もすべての通話は自動録音である。2024年12月3日の夜、汝矣島の国会に行くと決意しながら社長南川洞の生中継を終えた直後の初の通話である。嗚呼、妻より放送局のPDと先に通話をした。明日の放送はどうなるのかと聞いていた。そうして午後10時56分。妻からかかってきた電話が記録に残っていた。音声録音をテクストに変えてみた。この頃はAIがすべてをやってくれる。
「ウン、国会に寄ってから帰るよ。」
「すぐ?わかった……」
「うんうん、心配しないで」
「うん、気をつけて」
「わかった、電話するよ」
「うん」
通話時間は13秒。こんなに短かったか?妻の声に元気がない。それに反して自分の声には、先ほどの生中継中に戒厳のニュースを聞いた政治評論家としての奇妙な興奮がにじみ出ていた。スタッフたちと誰の車で移動するか決めていた真っ最中であったためか、この無神経な男は妻の声が沈んでいることも知らずにいた。もしかしたら、その13秒が最後であるかもしれなかったのに、まさに私は何もわかっていなかったなという思いがして、胸が詰まり、じいんとして涙ぐんだ。
再び2025年4月4日。「これにより裁判官全員の一致した意見で主文を宣告します。弾劾事件なので宣告の時刻を確認します。今の時刻は午前11時22分です。主文、被請求人、大統領の尹錫悦を罷免する。」
憲法裁判所の尹錫悦罷免決定を聞いたのは、約束のために汝矣島に向かっていた「あの」江辺北路の上であった。運転台を握りしめてどくどくと泣いた。その瞬間、黄貞殷も坡州の自宅の居間で憲法裁判所の前の喊声に向かって言った。
「あなたたちと同時代を生きていたおかげでこのことを見たよ、光栄です。」(166頁)
江辺道路を走る車の中で私も加わった。
「私こそ、光栄でした。」(翻訳:辛承模)