창작과 비평

[論壇]変革的中道により見直す三均主義

創作と批評 209号(2025年 夏号) 目次

論壇


変革的中道により見直す三均主義

白永瑞(『創作と批評』顧問)


延世大学名誉教授、細橋研究所理事長。著書として、
『中国現代大学文化研究』『東アジアの帰還』『核心現場で東アジアを再考する』『社会人文学の道』『中国現代史を創った3つの事件』『東アジア言説の系譜と未来』など。



1.はじめに

 今、私たちが直面する大転換の局面で新たな生き方を構想し、実践する課業に忠実であろうとすれば、これにエネルギーを提供する思惟と生の経験を再活性化することを怠ってはならない。そこで、本稿では優先的に韓国史で積み重ねてきた思想資源を重視する。これに関して様々な論議が行なわれてきたが、その中で韓国思想が実践性を重視しながら、次元を高める普遍的なビジョンを強力に志向してきたという認識は、とりわけ注目に値する1)。東アジアさらには世界史の矛盾が凝縮された場所である“核心現場”の一つが韓[朝鮮]半島であるから可能なことだが、この点を早々に例証した事例が趙素昻(本名は鏞殷、1887~1958年)の思想であると思う。

 独立運動家であり、三均主義の創始者として知られる素昻は、大韓帝国の成均館で修学して官費留学生に選抜され、1904年日本に渡って明治大学で法学を専攻した。在学中に韓国が日本に強制併合されるという恥辱を経て、煩悶と彷徨を重ねながら宗教救国の道を模索した。統合的な普遍宗教として一神教と大同宗教思想を開創したのは、そうした縁からだった。彼は1913年から中国で亡命生活を送り、韓国臨時政府と韓国独立党のために三均主義を提唱し、独立と建国の過程で左右派を統合する理念志向を提示した。臨時政府の外交部長として満州居住の韓人の生存権を確保するため、また中国の支援を得ながら韓国の国際的な地位を高めるために努め、特に韓国がカイロ宣言(1943年)とポツダム宣言(1945年)を通じて独立が保障されるのに大きな役割を果たした。解放直後に帰国して、左右合作を動力にして分断を防ぎ、国家を建設するために尽力した。

 朝鮮戦争が勃発するとすぐに北に拉致され、一時期評価を受けられなかった素昻が韓国社会で新たに照明されたのは1980年代の初めである。南北統一のための思想資源として彼の思惟と実践が注目を集め、今日は韓国民族運動の理念を体系化した理論家であり、政策立案者として認識されるに至った2)

 このように、時代の変化の中で根強く現在の参照点として召喚される彼の思想を、当時と現在の脈絡とともにいまだに実現されない潜在性を探求する作業が本稿の目的である。筆者は素昻の思想が、20世紀以来の韓国史で続いてきた“変革的中道主義”3)系列の協業の成果であり、彼の独創的な思惟の結実でもあることを特に強調したいと思う。素昻の思想は、近代韓国の民族宗教の教理の融合に基礎を置きながらも、東西の思想潮流の境界を乗りこえる特性に負うものである。筆者は以前の文章で、「彼の境界を乗りこえる融合的な思考は、地理的な境界を横断した彼の異彩な行跡――日本・中国およびヨーロッパを広く巡って新潮流と接触するかと思えば、解放後の分断された祖国では南・北が共に生きるべきだと語った特異な履歴――の所産であると同時に、韓国思想史を貫通する儒・仏・仙融合の思想構造を内面化した結果」と整理したことがある4)

 さらに補充すれば、彼は「世の中づくりと国づくり、心づくり」の好循環5)に早くから関心をもった独特な事例に属する。何よりも、彼自身の宗教世界に基づく個人・国家・世界レベルで、すべて“完全な平等社会の実現”を達成しようとした三均主義のおかげである。素昻の宗教観に対する今日の評価は分かれているが、筆者はそれが単に個人の救援にとどまったのではなく、社会変革と結合した面貌である点に注目する。彼の生き方の軌跡や思想的な全貌に対する研究は長文を要するので、ここでは三均主義の理論構造と現在性に集中しようと思う。


2.三均主義の進化過程と国づくり構想

 三均主義は政治・経済(生活)・教育の均等を目標にして個人・国家・世界の均等を志向する思想である。1910~20年代に自らが構想した宗教救国論を否定する形式ではなく、その理想を社会主義と融合させながら、分裂と統合を重ねる民族運動の磁場の中で実践する過程で具体化させ、体系化したものと理解してこそ正しいと思う。素昻の宗教世界は、彼の“国づくり”6)構想と実行の漸進的な進化過程で動力として作動し、ついに三均主義を熟成させる酵母になったといえよう。その軌跡は、彼が執筆に深く関与した一連の“国づくり”構想の文献からより明瞭になる。

 その最初の段階は、1917年7月申圭植を始め14人の署名で公布された「大同団結宣言」である。素昻が起草したこの文献は、高宗の“主権放棄”は、「すなわちわが国民同志に対する黙示的な禅位」なので、「三宝(国民・主権・領土)を相続」うけたものだと明示することで、十分に国民主権論といえるほどの主張を「己未独立宣言」(1919年)よりも早い時期に込めている。また、独立建国を達成する最高戦略として臨時政府の樹立論も提起した。これを通じ、独立運動家の大同団結を導きうると展望したのだ。二つとも、国づくりの核心要件である。

 第二段階は「大韓独立宣言書」である。この文献は1919年3月初旬頃に完成したと推定されるが、「大同団結宣言」と同様に、独立を宣布しながら平等福利、大同平等思想を提唱した。三均主義の主要概念と用語が芽生えたのだといえよう。ほぼ同じ時期に、やはり素昻が起草した3番目の文献である「大韓民国臨時憲章」(1919年4月)も平等に基づき、人民を国の主体として掲げた民主政体の新国家を志向した。  韓半島式国づくりの原形を磨いたこの3つの文書の構想が、1930年代の三均主義へと発展するまでの過程で注目すべき変化が達成される。3つの外部的要因がここに重要な影響を及ぼし、素昻思想の変化と持続の弁証関係を編み出す。

 まずヨーロッパとソビエトの巡訪である。素昻は、ベルサイユ講和会議に参加するために1919年5月中国から出発したが、遅れて6月末になってパリに到着したために本来の目的は挫折した。だが、ヨーロッパの社会主義政党の要人と交流し、ソビエト体制が整備される混乱した現場を6カ月余り参観し、共産主義の理想と現実の距離を体感した経験は、ソ連式の共産主義に対する批判的認識をもって社会民主主義を受容する契機になった7)

 これとともに、中国の国民党と共産党が合作して推進した反帝・反封建の国民革命(1923~27年)も深い影響を及ぼした。当時、韓国の内外でも統一戦線の動きが活気を帯びていたが、その一環として国内では新幹会の設立、中国の韓人社会では民族唯一党の創党運動が推進された。日本に留学した頃から中国国民党の要人と緊密な関係を結んだ素昻であるだけに、その影響圏にいたわけであり、特に国民党と共産党の党治主義(党政一致)を受容するようになるのも自然なことだったと思う。

 その他、ヨーロッパ巡訪から戻って目撃した、臨時政府が持続的な内部分派に 苦しむという事情も重要な要因だった。臨時政府の樹立に深く関与した素昻としては、その出路を模索しようと苦闘した。臨政が混乱に陥った渦中でも、素昻は“臨政樹立論者”としての姿勢を維持した。そして、臨政を支える中心体として政党の重要性を切実に感じて韓国独立党を創党し、様々な政派が凌ぎを削る動向に対応して重ねて党を改組し、“共同の主義・政綱”をもった民族主義勢力の結合を意味する“大党(統合政党)”組織を模索する課題に没頭した。

 実は統合政党運動、つまり民族唯一党運動を追求して理論的な体系と基盤が必要という認識は、独立運動家の内部で一定共有されたものだった。安昌浩が統一戦線的な意味を帯びた大公主義を構想したのは、その一つの証拠といえよう。こうした一定の共同領域の磁場内で、三均主義が生成されたのは明らかである。

 ここで、1930年代半ばに体系化された三均主義の骨子を深く考察してみよう。

 素昻は、韓民族の歴史を深く分析しながら、昔から経てきた三大不均等、つまり人民の基本権利・生活権利・教育権利の不平等を摘出し、それを解消すると同時に日帝から独立して新国家を建てることが“韓国革命”、つまり三均主義革命だと見る。これにより、全民族の幸福を得ることができるし、具体的に政治的権利の均等、生活権利の均等および学ぶ権利の均等を提唱する8)。この3つの要素を並べて重視したのは、大倧(テジョン)教の三一神論または三一哲学と呼ばれる特有の世界観から霊感を得た可能性が高い9)

 政治均等とは、国民の均等な基本権に基礎にして普通選挙制と国民皆兵制を採択した民主共和国を追求するのである。経済均等とは、土地国有と大生産機関に対する国有政策を基本原則にして国民福祉を高めるのである。その強調がしばしば異彩な教育均等とは、国費負担による義務教育の実施と教育機関の量的な拡充のような政策案を含める。

 政治・経済・教育という三方面の均等が狭義の三均論である。しかし、彼の三均思想はこれに限定されずに、個人・民族・世界の3つの次元でも均等が実践されるより広い意味に拡張される。これが広義の三均論である。狭義の三均論は、特に(広義の三均論のうち)“個人と個人の均等”を実現するための指針という意味をもつ。広義の三均論では、民族間の均等のためには民族自決権に基づき、各民族が国土と主権を光復して保衛し、固有の歴史と文化および民族意識を発揚し、平等互恵的な民族の連合を実現すべきであるという原則が鮮明になる。そして、国家間の均等のためには国家間に侵略に反対して国際道徳を尊重し、連合国機構を擁護すべきだというなどの実現方案が提示される。民族と世界を同時に思惟した例として際立っている。こうした三権の均等を基礎に掲げようという国家が新民主国、“ニュー・デモクラシーの国家”である。

 これは彼個人の構想に止まったのではなく、日帝植民地期の大韓民国臨時政府と執権党である韓国独立党の公式的な綱領としての役割を果たした。潜在的な主権国家を象徴する臨時政府として、時間上は復国(独立国家の回復)⇒建国(新民主的国家の各種の事業建設)⇒治国(自由社会の最高級形態の国家維持・発展)の三段階に分別し、一種の順序を定める現実的な実行可能性も考慮した構想である。だからといって、決して各段階を機械的に固定するのではなく、国内外の情勢に柔軟に対応し、ある段階で次の段階を事前に準備する式で相互連関を意識しながら、各段階が次第に「隣接して秩序整然と計画的な活動」を推進するように配分した10)。こうすることで、韓民族の事業とはいえ、同時に人類に寄与できるだろうと期待した。

 これを推進する核心主体は韓国独立党である。しかし、1930年代に三均主義は「少なくとも民族主義系列では共通の理念としての位置を占めたし、民族主義系列を統合する理論として作動」した11)。その結果、大韓民国臨時政府の「建国綱領」(1941年)にも継承することができた。これもまた素昻が起草し、三均主義が基礎になった。ただ、その理想が実現される過程を復国⇒建国⇒治国⇒救世(世界一家族)へと続く4段階で提示した彼の構想は、「建国綱領」では復国⇒建国の二段階に限定される変化を示した。復国の全過程と建国の第1期に該当する”過渡期”には臨時政府が、建国の第2期と第3期には臨時政府の正統性を引き継ぐ正式政府が執政する構想として、三均主義を実現する基盤をつくったわけである。さらに1944年4月、臨時政府の最終憲法として公布される「大韓民国臨時憲章」にも反映することで、「建国綱領」は臨時政府臨時憲法の基本理念として位置づけられた。

 ここで、時空間的なレベルを臨政よりも広げて三均主義の意義を検討しよう。まず「建国綱領」として継承される過程でわかるように、それは中国内の韓人独立運動家の共同領域だったのは再言する必要もない。そして、孫文の三民主義との類似性をもつという事実から推論できるように、東アジア地域レベルで実現した思想的連動の磁場内で生成されたという意味も格別である。もちろん、素昻の思想は彼が韓国人としての経験世界、特に東学以来の民族宗教の融合性に基づき、思惟体系の独自性をもって熟成したものである点を見過してはならない。

 世界史的なレベルで三均主義の意義は、その別称が“新民主主義”という点に求めうる。新民主主義は第一次大戦後、政党中心の地域代表制と議会政治の限界を見守りながら、これを革新すべき代案として世界各地で模索された様々な類型の試みを指す総称である。毛沢東の新民主主義もまたその一つである。したがって、素昻の三均主義に基づいた“新民主”は、当時の世界思潮と呼応する普遍性が植民地状態の“潜在的主権国家”という段階の独自性と出会って発現された構想といえよう。さらに、三均主義が今日の私たちにもつ意味は、近代適応と克服の二重課題論、そしてその下部単位である変革的中道の観点から再検討する場合、一層普遍的レベルに位置づけられる。これについては節を変えて扱おう。


3.素昻思想の現在性:情勢論と文明論

 素昻が当時の現実との苦闘の中で達成した成果は、現在私たちの生にどういう光を発しているか。その現在性を検討する時、まず韓国の固有思想・文化に対する彼の並外れた自負心と造詣は吟味してみるに値する。

 彼は朝鮮最初の国家発生の出発点である古朝鮮の国家理念を新しい国家を認識する根拠と見なし、建国紀元節を記念した。とはいえ、「昔の国家を賛美して歌う復古的な意味」を強調しようというのでは決してない。「古代最初の国 家から中世国家を経て現代国家に至るまでの発生・発展・滅亡の因果関係と国家の今後の革命に対する任務を歴史的認識に求めること」が必要だからである。一言で、「新国家建立起源の創造を促進する向上的な意味」を重視したのである12)

 素昻のわが文化に対する深い見識は、『韓国文苑』を編纂した動機によく表れる。彼がわが祖先が残した名文章を整理したのは、第一次的には「国が滅んだので文献も消えてしまうなあ」という切迫した心情で、文化が滅んだ国は本当に滅んでしまうが、精神が存在すれば国は生き残り続けるという信念の所産である13)。さらに、わが文化を探求・宣揚するために韓国語の教学法、活字史、檀君、元暁大師、広開土王陵碑文、朝鮮儒学者、李舜臣の亀甲船までを視野に収めた。

 彼の韓国文化の宣揚は――宗教世界が宗教民族主義に止まらなかったように――わが文化が東アジア文化の豊かさに寄与するという事実を立証しようとする努力と重なっている。もちろん、これは第一次的に韓国文化が中国と同じ根であることを強調し、中国の支援を得て抗日連合戦線を構成しようとする戦略的な考慮から実現した。しかし素昻は、自らの思想基盤は崔致遠の思惟だと明らかにしたように、韓国文化の主体性と普遍性を合わせて示そうとした面も極めて重要である。崔致遠が文化的な主体力量を普遍的なレベルに引き上げることを注文して提示した、東人と同文意識を融合する道を継承したのである。

 素昻の韓国文化に対する自負と、それは東アジア人が共有すべき文明資産であるという確信は、新たな国際秩序と代案的文明に対する切迫した思いが推し動かしたものである。現実と理想の境界で、彼が抱いた思想の中の変革的な潜在性は、情勢論および文明論レベルで確認することができる。

 まず、情勢論のレベルから見よう。彼は、「韓国は地理的に見て太平洋の平和の灯台になると同時に、遠東(東アジア)ないしは世界平和の平和司令台」だと看破する。こうした地政学的な認識、つまり韓[朝鮮]半島―東アジア―世界を重複した三層空間として把握する眼目は、安重根の「東洋平和論」(1910年)や「己未独立宣言」に如実にみられるように、独立運動家の間でかなり広く共有されたものだった。さらに、臨時政府の外交部長を歴任した素昻は、太平洋戦争の終結に先立つ時点で、既存の秩序を変革するためには韓半島の役割が核心的であることを極めて迫真的に提示した。例えば、「3・1節が第一次世界大戦の閉幕の声であり、第二次世界大戦の開幕の辞」であることを誰よりも明瞭に見通した14)。二度の世界大戦の根源は遡っていけば韓国の植民地化にあり、それを世界が傍観して日本が帝国主義へと突き進んで太平洋戦争を挑発し、ついに「全世界人類がすべて災禍」に陥っているという洞察に裏付けられた発言である15)

 次いで、文明論あるいは世界史的レベルのビジョンを見よう。ここで、近代の適応と克服を単一課題とする“二重課題論”に符合する彼の思惟が際立つ。

 日本留学の初期、彼は学校教育と修学旅行などの体験を通じて日本を韓国が見習うべき“模範的な文明国家”と認識した。だが、大韓帝国の高宗皇帝が強制的に退位させられた1907年を起点にして素昻の認識は大きく変わった。強制と不法などが染みこんだ“克服”の対象へと変わった。植民地の知識人として植民性の自覚を経て近代の限界を鋭く認識したのである。だが、これに止まらずに、一次元高い普遍的なビジョンを抱くようになったのは何なのかを検討しなければならない。そこで、“新民主主義”論が注目される。

 素昻が語った”新民主”は、「民衆を愚弄する“資本主義デモクラシー”でもないし、無産者独裁を標榜する社会主義デモクラシーでもない。言うまでもなく、汎韓民族を地盤にして汎韓国国民を単位にした全民的デモクラシーである」16)。彼が、「政治・経済・教育の均等化を提唱」する理由も、「国家を光復することと同時に、(…)二重革命の危険を防止・保障しよう」としたのだ17)。つまり、独立建国と階級革命を段階的に推進する二重革命を越えて「一次方程式の新建設」を追求すべきだというのだ。時には、“韓国の新社会主義”とも語った、この志向は資本主義を当初は排撃しないながらも、その克服を志向するという点で、適応と克服の二重課題論的な問題意識に近い18)。非マルクス主義的な近代克服の思惟とも見なしうる。この眼目は、世界資本主義の発達史を振り返りながら、韓半島で旧民主主義を克服しようとする認識に基づいており、一層がっちりして見える。


  現在、我々の理想の中にある民主国家は、17,8世紀に欧米で建立された、そのデモクラシー国家なのか。そうでもない。当時、彼らの成功によって建立されたデモクラシーは上昇期の資本主義を基礎にしたものだった。そうして、現在労使間の極度の葛藤と矛盾を内包した制度を産出しているのだ。それなら、我々はどういう制度を建設すべきか。本党の党理念に明々白々に規定したように、政治・経済・教育の均等に基づいた新民主国、すなわち“ニュー・デモクラシー”の国家を建設しようというのである。

           「韓国独立党の党理念の解説」(218頁、強調は引用者)

 “上昇期の資本主義”ではない植民地統治下の歪曲された奇形的な資本主義の遺産を抱かざるを得ない韓半島で、彼が「一次方程式の新建設」により成就しようとする“新民主主義”国家は、もちろんまだ世界のどこにも建てられたことがない。それでも素昻は、抱負も堂々とこのように提案した。


  前例にない新たな標本、新たな典型、新たな範疇をわが党の骨子とし、我々の再建設は以前にはなかった創作的国家を孕んでおり、人類に新たな制度を提出する丁重な動議である。このような新鮮な動脈が活躍して初めて、世界人の一部である我々の責任を遂行できるのであり、東アジアの悠久な文化的結晶の光線として、全人類の病態的な制度に対する痛快な殺菌剤となり、5千年間韓民族独自の発展途上で、新たな文明の血の花を咲かせるのだ。創作の自負心がなければ、政治結社の悠遠な生命になりえないし、祖国光復の重大な任務を踏みしめて果敢に前進するのは不可能である。

                 「告党員同志」(764頁、強調は引用者)


 日帝の植民地期に構想された素昻の新民主主義ビジョンは、解放空間で多数民衆の日常的な欲求に呼応しただけでなく、主要な政党の共通した志向でもあった。“進歩的民主主義”や“新民主主義”という用語自体は、国家のアイデンティティを表現する“時代精神”だったといえよう19)

 この点は、素昻の新民主主義を民世・安在鴻(1891~1965年)の新民主主義と比較してみれば、より一層明らかになる。ちょっと見れば、中国に亡命して臨時政府と韓国独立党を中心にして海外闘争を展開してきた素昻は、具体的な国家建設の青写真を提示し、実際に組織を活用して政策家として活躍したのに比べ、民世は国内で古朝鮮の文化を発掘・再解釈しながら政治哲学を体系化するのに没頭し、文化運動(朝鮮学運動)を展開した違いがある。しかし、植民地性を自覚して近代性を批判的に理解したから、両者は近代の二重課題論に符合して変革的中道に適合する新民主主義を提起したという共通点がある。

 何度も獄苦を経験した民世に政治運動と文化運動は相互に交差した実践活動だったので、解放直後すぐに準備された国家建設論を発表することができた。資本的民主主義と共産主義という近代的双生児を止揚し、各々の長所を会通させて総合した“第三の新生理念”つまり新民主主義(一名、“タサリ[萬民共生]民主主義”)がそれである。資本主義的な近代国家を追求はするが、日帝独占資本に隷属しない小資本家と農民・労働者中心の階級連合的・社会民主主義的な経済体系を拡充する新たな国家建設の理論としての新民族主義、新民主主義思想だったと要約できる20)。両者を比較すればすぐわかるように、新民主主義は改良と革命の並進論、すなわち変革的中道と脈を共にする。

 これとともに、もう一つ確認できる共通点は、両者ともに韓国の伝統思想、特に古朝鮮を重視した点である。だが、わが国語の数字の語源解釈を通じて政治哲学の体系化に集中した民世とは異なり、素昻の場合はその思想的な基盤を朝鮮儒学[国学]の精髄、つまり「心即物の真諦であり、即理即気の妙術」に置くことで、唯物論と唯心論を超えた境地を追求した21)。民族宗教を創案したことに表れるように、宇宙の本体である真善美を体得する心の修練を経た個人を集めて集団的な政治実践と結合させる次元まで念頭に置いた点も重要である。

 もちろん、彼が臨時政府という国家機構に参与して要職を担い、韓国独立党という救国政党を主導する1920年代後半以後の行跡で、宗教的な関心が表面に現れていないのは明らかである。しかし、個人修養と社会変革を同時に遂行する課題に対する関心は続いたものと思われる。三均主義を解説しながら、その哲学的な基盤である真善美の融合を宇宙本体の合一に至る境地と把握し、それが政治的実践と連結されれば真(動機)、善(進行)、美(結果)と表現されるという式で把握する一節(たとえ未完の構想とはいえ)で、その残り香は明白である22)


4.むすびに:変革的中道の潜在力

 理論家で、政策家である彼の力量は、逆説的に解放空間で大きな試練を経る。1945年12月に帰国した素昻が直面した現実は、米国とソ連の軍政が分割統治する現実で、信託[統治]と反信託の激論で危機が高まった状況だった。彼は臨時政府を法統とみて三均主義に基づく国を建てるために米軍政と左右勢力が拮抗する解放空間で奮闘した。初めは臨時政府の合作相手を臨時政府の法統を認める左翼勢力に制限したが、左右合作という切迫した課題を具現するために、次第にその対象を広げていった。そして、国連で南だけの単独選挙を決定するや、南北協商に乗り出した。ただ、その成果は微々たるものだった。

 南北協商に参加してから素昻の政治路線は南だけの総選挙を肯定する方向へ旋回する大転換を示した。国づくりの過程で大韓民国政府が樹立され、制憲憲法に三均主義の理念である均等主義の理想は反映されたので“復国”は完成され、今は“建国”段階へ入ったと判断したわけである。そして、長年身を寄せてきた韓国独立党および金九と決別して独自に社会党を結成し、1949年7月25日民族陣営強化対策委員会を構成し、南北協商派および中間左派の人士も参加できるように開放した。次いで、1950年5月30日に施行された総選挙に社会党候補としてソウルの城北区から出馬し、全国最多得票で当選した。これにより、政府樹立後に与党となった李承晩勢力を牽制する野党勢力として現実政治に登場する動力を創りだしたのだ。

 選挙の過程で、彼は三均主義の理論家として当面の問題を診断し、解決策を提示する準備された政策家らしい面貌を如実に発揮した23)。三均主義の中・長期の展望を短期課題に溶かし込んだ政策代案だったといえよう。しかし、朝鮮戦争が勃発して素昻はソウルを脱出できずに平壌へと拉致され、三均主義の建国期を実行しようという抱負は志を実現できなくなってしまった。

 こうした歴程を振り返ると、素昻が直面した理念と現実の距離がもどかしい。彼は分断現実で韓半島南側の大韓民国を基盤にして韓半島体制の変革のために、中道勢力を幅広く拡げようとする方略で三均主義を守りながら選挙に参与して議会主義を採択した。これは政治的実践で原則と現実の調和を担うべきだという政治家の苦心に満ちた選択として、歴史的な脈絡によって二極化を排除する”正道の中間道”を追求した、変革的中道に符合する路線だといえよう24)

 たとえ分断の犠牲にはなったにせよ、むしろ南北が共有できる思想的資産として素昻思想の潜在力は生きている。特に、大韓民国の基盤の上における変革的中道の可能性を覚醒させる資産として貴重である。国づくりの段階的・漸進的過程に対する透徹した認識により「新たな標本」として「創作的国家」を人類史に提示しようとした三均主義は、韓国社会の伝統的な資産を活用して一層高いレベルの民主主義を創ろうとする私たちの変革的中道の系譜で重要な環である25)。彼の思想がもつ魅力と意味を、世界の他の構成員と共有し、各個人と社会を省みて自ら変革する契機を促進することはもう一つの任務である26)



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1)『創作と批評』の“K言説を模索する”連続企画の第4番目の編である対話「韓国思想とは何か」は、韓国思想を理解するのに手引になる。“経世的な問題意識”に表れる実践性に注目し、“国らしい国づくり”のための認識枠としての“経世”と“民本”に普遍的追求が凝縮されているという主張が特に関心を引く。白敏禎・林熒澤・許碩・黄静雅の対話「韓国思想とは何か」、『創作と批評』2024年冬号。

2)金仁植『趙素昻評伝』、民音社、2022年、8頁。

3)白楽晴は、近代世界体制の変革のための適応と克服の二重課題、これを韓半島レベルで実現する分断体制の克服作業、そして韓国社会における実践路線である変革的中道主義間の循環構造を強調する。その3つの環の一つである変革的中道は変革的(脱植民地体制、分断体制克服)の国づくりのために、歴史的脈絡にそって両極端を排除する“正道の中間道”を追求する理念であり、勢力連帯の方法論である運動路線である。このためには、集団的な実践とともに各個人の心の勉強が必須である。白楽晴『近代の二重課題と韓半島式国づくり』、チャンビ、2021年、259頁。

4)白永瑞「境界を横断する趙素昻と変革的中道主義」、姜敬錫他『開闢の思想史:崔済愚から金洙暎まで、文明転換期の韓国思想』、白永瑞編、チャンビ、2022年、224頁。

5)前掲の対話、黄静雅の発言、295頁。

6)彼の構想は「韓半島式国づくり」と呼ぶにふさわしい。韓半島式国づくりは、「韓半島の近代特有の歴史により極めて長い歳月にわたり、極めて複雑な経路」をへて、「段階的に進行されてきたし、今も未完の課題」であることを説明するための装置である。長い歴史の流れで、国民国家形成の複雑さを把握しながら、各段階の課題も忠実になるように導くこの観点から見れば、素昻の思想は韓半島の現実に直結した創意的な成就であることがよく表れる。白楽晴、前掲書、55頁。強調は原本。

7)1920年末から6~7カ月間の滞在した期間は、内戦による混乱がまだ解消されていない状態だった。また、上海派の高麗共産党とイルクーツク派の高麗共産党が、まさに衝突する自由市惨変(1921年6月28日)直前の状況だった。こうした現実を目撃したことが、彼が共産主義に傾かないようにした一つの要因だったと推測される。金仁植の前掲書、232頁。

8)趙素昻「韓国之現況及其革命趨勢」、『素昻先生文集(上)』、三均学会編、ヘップル社、1979年、59~67頁。(以下、『文集(上・下)』で表記)。

9)大倧教を自らの政治思想の基礎に置いた安浩相や安在鴻のような人物が提起した一民主義および新民族主義の政治理論が、政治・教育・経済の3領域で処方を出していることからも、その脈絡が確認される。

10)「韓国独立党第1次全党代表大会宣言」、『文集(上)』、276頁。

11)金仁植、前掲書、369頁。

12)「建国紀元節紀念会の意義」、『文集(上)』、260頁。

13)「韓国文苑序」、『文集(上)』349頁。

14)「極東民族解放の最初の声としての〝三一”節(“三一”節為遠東民族解放之第一声)」(1943年)、『文集(上)』、185頁。この文集の該当文章には“開幕”となっているが、『大公報』重慶版の1943年3月1日付に載った初出本に基づき、“閉幕”と訂正した。

15)「太平洋戦争と韓国問題」(1945年)、『文集(上)』147頁。素昻の歴史認識は、今日米国の歴史学者カミングスの次のような発現とも通じる。「20世紀は日本がロシアを撃退して全世界に徐々に頭角を現す中で始まったし、その世紀が進むほど日本は火に向かって飛び込もうとする蛾のように災いへと引き寄せられていった」。ブルース・カミングス「独特な植民地、韓国:植民地化は最も遅く、蜂起は最も早く」、白楽晴他『百年の変革:3・1からキャンドルまで』白永瑞編、チャンビ。2019年、86頁。

16)「韓国独立党党義解釈」、『文集(上)』、218頁。

17)「告党員同志」(1935年10月5日)、『朝鮮統治資料10』、金正柱編、東京・韓国史料研究所、1970年、760頁。

18)白楽晴の前掲書、67頁。素昻が「建国綱領」初稿の末尾に、“資本主義消滅”などをメモしたことの意味をめぐる論議と関連し、白楽晴は「素昻自身の立場は二重課題論に符合する」と見る。素昻が国民国家超えを展望したことも二重課題論的な問題意識と見なされる。つまり、「少数が多数を統治する搾取機械としての国家または政府を根本的に否認し、多数が多数自身を擁護する自治機能の任務を忠実に実践せざるをえない独立政府を樹立しようというのだ」(「告党員同志」)という一節にうかがえるように、近代の国民国家体制の破壊性を直視し、それを批判的に克服しうる道を三均主義により追求した。

19)解放1年後に米軍政庁世論局が施行した世論調査で、社会主義に賛成するという答弁は70%に達した。そして、解放空間の様々な政派指導者の国家建設論を比較した研究成果によれば、階級対立の条件自体をなくそうとし、非資本主義発展の道を選択し、合法・平和の方法により社会革命を推進しようとした共通点がある。金仁植『光復前後の国家建設論』、独立記念館、2008年、13頁および15~17頁。また、天道教の青友党指導部は“朝鮮的新民主主義”の国家建設を主唱し、圓佛教の二代宗師・宋奎が発表した「建国論」(1945年)に表れる中道主義もこれに類似する。

20)以上の叙述は、李智媛「1930年代安在鴻の朝鮮学研究における近代アイデンティティ叙事と茶山・丁若鏞」、『歴史教育』140号、2016年、270・291頁。

21)前掲、「告党員同志」、766頁。

22)「韓国独立党党義研究方法」205頁。「大韓独立宣言書」でも、独立が「宇宙の真善美を体現」すべきものと展望した。素昻の真善美の融合に対する認識は、彼が創った文字である(身真)と(目善)に圧縮されている。(身真)とは、生命の根源であり、身と霊が共存する場である身体の真実を意味する。(目善)は見ること、知ることに良さがあるという意味である。(身真)と(目善)が合わさったものが宇宙の本体である。これは西洋の真善美の合一とは異なる次元の認識である。また、解放空間の激動の現場で、彼が設立した三均主義学生同盟の「宣言」(1948年3月7日)で、真善美の融合および個人の鍛錬を要求した事実も注目すべき価値がある。『文集(下)』101~03頁。

23)「次期総選挙とわが政局観(次期総選挙と余の政局観)」、『文集(下)』、131~41頁。

24)金大中は、政治家ならば「書生的な問題意識と商人的な現実感覚」をともに持つべきという立場から、単独政府樹立時に大統領選挙の候補として参与する選択をしない金九を、「偉大な愛国者だったが、政治人としては成功できな」かったと評価する。延世大学校金大中図書館企画『金大中肉声回顧録』、ハンギル社、2024年、67~68頁。

25)この系譜の延長線上に金大中もいる。彼は、西欧民主主義の限界を超えうるより広くて高いレベルの民主主義、つまりグローバル民主主義を創りだしていく資源と可能性として、アジア社会の伝統的な長所を活用することを主張した。李南周「金大中思想とK民主主義」、『創作と批評』2025年春号、86~87頁。

26)筆者が素昻思想を通じて孫文のアジア認識を批評してみたのは、そうした試みに属する。白永瑞「孫文のアジア主義の軌跡と現在性:東アジア論の系譜上の位置」、『東方學志』第211集、2025年参照。