[寸評]遺作として残った文明交流学の体系
寸評
遺作として残った文明交流学の体系
車炳直(チャ・ビョンジク)/弁護士、法律新聞編集者
chabyungjik@gmail.com
ウィリアム・ダラント(Will Durant)は「文明とは文化創造を促進する社会的秩序」だと述べた。独特な文化を創造する原動力を意味するだろうが、逆に創造された文化の体系も文明であろう。文明は「混乱と不安定が終わる地点」から始まるとも述べる(『文明物語1-1』、民音社、2011)。恐れを克服する時、好奇心と建設精神が自由に発散され、さらに生まれつきの本能的衝動を超えて生を理解し、素敵に整えようと努力することになるという意味である。だが、これもまた、逆に理解することができる。人間は不安と混乱のなかでそれを克服する過程において新しいものを作り出したりもする。このように文明とは複合的で複雑であり、われわれはその結果だけを知って、過程は推測するのみである。不確実な過程を推測するに動員される想像力も、文明の本質的エネルギーで間違いない。
鄭守一(ジョン・スイル、1934~2025)は文明を「人間の肉体的および精神的努力を通じて創出された(…)開化的結果物の総体」と新たに定義する(85頁)。一見、目に見えない思想や文化に欠けたような感じを与えるが、再びかみこなしてみると、そうではない。文明とは単なる結果物ではなく、開化的結果物、つまり人間の知恵が作り出す発展的な思想と風俗、そして物質の体系だという意味である。彼がこのように文明の定義を新たに試みた訳は、文明交流学を新しい分科学問として確立しようとする目標のためであった。
一時、鄭守一は特異な経歴のため好奇心と感嘆の対象であったが、今はシルクロード学、または文明交流学の大家としてわれわれに認識される。過去の名と数多くの逸話は付随的であり、学者としてのイメージが圧倒する。一、二冊の本を出して檀国大学歴史学科の教授として在職する時は、制度圏の学者としての道を歩んでいたが、1996年、国家保安法違反で逮捕されながら経歴は断たれた。しかし、驚くべきことにその断絶の期間はひと月もならなかった。すべてのことを明かし、過去を片付けると同時に、すぐその場で新たに出発した。普通の人ならば何もできぬはずの狭い監獄で勉強と翻訳と著述を著しながら、自分の学問の実践目標を立てた。
鄭守一は自分の学問のなかで理論と実践との結合を図った。文明交流論の構築、古代・中世・近現代を繋ぐ世界と韓国の文明交流史研究が理論的作業であったならば、その理論の実行軌跡を広い意味での「シルクロード」でもって確認した。シルクロードの過去と現在に対する実践的現場研究が続いたわけだ。その結果、『シルクロード事典』(創批、2013)、『シルクロード図録』(陸路編・海路編・草原路編の全3巻、創批、2014~19)、大陸別文明探検記などが誕生した。『イブン・バットゥータ旅行記』(全2巻、創批、2001)を始め、昔の探検家たちの代表的旅行記の翻訳まで付け加えた。最後にすべてを総括する最終完結版として企画したものが、つまりこの本『文明交流学』である。
彼は彼自身の体系を「研究総覧図」という題目の図表として作成したが、全部で29種の本として要約される。以後、そのなかで高麗交流史、朝鮮交流史などを除いて23種を順番に出版した。翻訳書の『中国へ行く道』(ヘンリー・ユール、アンリ・コルディエ著、サグェジョル、2002)と代表著書の『シルクロード学』(創批、2001)は監獄で脱稿し、残りは出所した2000年8月15日の翌日から書いていった。博士学位と教授職をはく奪されたまま、周りの助けで設立した韓国文明交流研究所を導きながら、在野の学者として講演と執筆を続けた。さらに研究総覧図にない本も何冊か出版した。踏査旅行も毎年、一、二回行った。だが、鋼鉄のようだった彼の体力も90歳に近づきながら確然と変わった。病院に入院する回数が増えながら、何か予感がしたのか何冊かの宿題と執筆中であった原稿を延ばして、最後の目標であった『文明交流学』の執筆にとりかかった。
どのような条件においても原稿締め切りの約束を破ったことはない。寝る時間を減らして書く鉄則に従って、2024年1月に数千枚の原稿を出版社創批に渡した。もともと『文明交流学』も総論と各論に分けて分厚い二冊の分量だったが、編集者たちと意見を交わした末、既存の著書との重複などを割愛して一冊にまとめることに合意した。その決定をしてから、あたかもすべてのことをやり終えたかのように、去る2月24日の夜、永眠した。鄭守一研究総覧図の頂点に位置したこの本は遺作となった。
本の内容は大きく二つの部分に分かれる。文明という世界人類の共有性に基づいて文明の概念を理解した上で、個別文明の相異性を切っ掛けに互いに交流する関係を説明する。文明と文明の違いを東と西に分けて分析を試みるが、東と西は交流の大前提となる文明の基であり主体で、その地政学的違いと価値観の違いを比較する。引き続き著者自身の文明概念に沿って、近代的文明談論(進化論・移動論・循環論)と現代的文明談論(オリエンタリズム・文明衝突論・文明共存論)を解説する。
文明論の次は交流論である。文明交流の歴史的背景を政治史的・軍事史的・経済史的・民族史的・交通史的に分けて見てみる。軍事的事情を政治的背景と分離したことと、飛行機の出現以前の陸路と海路の経路を明らかにしたところが異彩を放っている。文明交流の展開過程を概観し、文明圏を整理したことに引き続いて具体的通路としてシルクロードが登場する。狭い意味でのシルクロードが彼の解釈を経て探検家たちによる還地球的海路として拡張される。地球のすべての空間が結局広い意味のシルクロードとなる入口まで案内する。そして、著者の民族意識を通じて議論はシルクロードと朝鮮半島の関係にまで至るが、これは世界の文明交流史において韓民族の位相を確認し、高らかに際立たせることを文明交流学の目標とすると明かした「序文」の抱負と相通ずる。最後は普遍文明論と文明交流学定立の必要性を強調する。つまり、文明交流学を体系化することは学問的整理として終わるわけではなく、未来のための努力である。理想的な未来社会の建設のために彼が掲げる道具が文明代案論であるが、文明交流論が世界問題を解決できるという根拠が文明の普遍性である。そこで著者は必要性を「切迫性」という表現で代替する。
彼が文明交流に関心を持つことになったのは、北京大学東方学部アラブ語科に入学した大学時代からであった。学問的熱情が彼をして語学にだけ留まらせはしなかった。いろんな多様な教養科目を受講し、国際関係論の授業を受けていた途中、世界交流の様相が頭のなかで絵のようによぎった。その後、彼はどこにいてもどのような状況においても生涯の目標を手放さなかった。アフリカ駐在の中国外交官、北朝鮮の大学教授、海外を転々とする秘密情報員、あるいは偽装スパイ、監獄のなかの受刑者などの地位においても、そして釈放された以後も一途に自分の学問設計図に画かれた道を歩んだ。五つの言語に通じ、さらに7個位の言語が駆使できる能力は、文明交流学者として申し分ない最上の資格であった。これまでの著述の量だけでも驚くべきだが、総括編として出されたこの本まで付け加えると言葉を失うほどである。『中国人物語』(ハンギル社、2012)の著者であるキム・ミョンホは、鄭守一を「20世紀そのもの」だと言った。彼の人生の行路が20世紀の歴史にほかならないという意味である。
彼が最後まで直接整理できなかった初稿を基にして出した本なので、もの足りないところもある。まず、著者の他の著書と重なる記述が相変わらず残った。民族主義を基にして朝鮮半島とシルクロードの関係を照明したことはいいが、文明交流学を独立した分科学問として定着させたいという意図から見ると、慧超と高仙芝を別個の章(第13章)として掲げて相当な分量を割愛したところは、客観性や普遍性の観点から見ると疑問を持つことになる。対決論に当たる文明代案論は論理的に明快でない。必要以上の難しい漢字語の使用頻度が多くて、読者にとっては容易く接近することが難しいし、何か所の感情に偏った表現は学術書には似合わない。
本稿は大学者に向かった素人読者のねだりのような読後感である。だが、悠長な人類の歴史を文明の交流という特別な場面を通じて、忍耐心を持って鑑賞することは、普通の人気長編映画を見ることより優れた点もある。もしかしたら彼はこの遺作を最終決定版だと見なさなかったかも知れない。彼の弟子たちと支持者たちが残りを完結してくれるはずだと今も期待しているだろう。文明交流学は彼が立てた体系でもっても大学のカリキュラムの一つとしては可能であり、十分である。ただ普遍的学問としての地位を得るためには、外国の学者と学生と一般の読者までが読めるべきである。生物学者のエドワード・ウィルソン(Edward O. Wilson)が地球上の生物全体の目録を作成する「生命の百科事典」(EoL.org)プロジェクトを推し進めるように、百科事典的性格の強い鄭守一の談論も大衆的オンラインの公論場で収斂され議論されるならばどうだろうか。彼が仕上げられなかった本をプレゼントする機会でもあろう。彼は文明が交流するシルクロードの上で相変わらずわれわれと共に歩んでいる。 (翻訳:辛承模)