[特集]「人間解放の論理」を具現するK文化 / 朴麗仙
特集
「人間解放の論理」を具現するK文化
朴麗仙
英文学者、ソウル大学学部大学講義教授。
論文「ポストデジタル時代におけるデジタル・メディア叙事を活用した英文学教育―教室におけるジェンダー葛藤解消に向けた可能性」、評論「主観的な感情の再現と普遍性」などがある。kirillo7@snu.ac.kr
世界的に「韓国的なもの」が影響力を増している。いわゆる韓流は、1990年代後半にドラマを中心に浮上した「韓流1.0」の時代から、Kポップの台頭とともにアジアのファンダムが形成された「韓流2.0」を経て、OTTプラットフォームの登場によって始まった「韓流3.0」以降、アジアを超えてアメリカ・ヨーロッパ・アフリカなど世界各地へと広がった1。コンテンツの範囲も、Kポップや映画・ドラマにとどまらず、文学、舞台芸術、ゲーム、食文化など文化領域全体へと拡大している。韓国の伝統文化に対する関心も爆発的に高まり、世界的な大規模博物館と比べればそれほど大きくない国立中央博物館の観覧者数(2025年650万人)が、ルーヴル美術館などに続いて世界3~4位圏に入ったとも言われている。まさに世界中で「韓国熱」が高まっていると言えるだろう。では、「K」は世界に何を発信しているのだろうか。
第二次世界大戦の終結によって解放された直後の1947年、白凡金九2は「私の願い」(都珍淳編著『金九・呂運亨:合作と統一、時代との不和』韓国思想選21、創批 2026、以下同書から引用時はページ数のみ表示)において、世界の人類が必要としているものは「新しい生活原理の発見と実践」であり、「それこそがわが民族が担う天職」(107頁)であると述べながら、将来、わが民族が高い水準の文化を築き、世界の舞台で主役として登場することを予見した。それから80余年を経て、多くの韓国人は彼の願いが現実になりつつあることに驚いている。植民地支配、戦争、軍事独裁の時代を経験してきた私たちが、世界の流れに照らして自らの現在を測るという時代は、もはや疑うことなく過去のものとなった。さらに現在は、限界に直面した資本主義体制や気候危機、西欧民主主義の混乱と極右の台頭の中で、「世界が私たち自らの位置を測り、進む距離を測る基準点」として働くどころか、むしろ私たちが「前に出て支えなければならない壊れゆく何か」として映る状況にさえある。このような文脈において、K文化の台頭は単なる誇りを超えた「重い責任」を課す3。懸命に走り抜けてきた道のりの果てに、いつの間にか新たな世界の創造を導く位置に立つことになった私たちは、いまや真剣な態度でこの現実を受け止め、金九が語った「新しい生活原理」を思惟し、創造する使命を担うことになった。それを世界が熱狂する韓流文化の中に盛り込むことが、私たちの宿命的な課題となったのである。
文化を通じて到達すべき境地
白凡金九がはるか以前に提示したビジョンは、現在私たちが直面している現実に非常に適切であるため、今あらためて彼が表明した願いの内容を細心に検討することには大きな意味がある。「私の願い」の全文を読むと、彼の思想がいかに先駆的で、すでに世界的であったかに驚かされる。当時、アメリカの民主主義さえも最終的に完成された政治制度ではないと判断していた金九は、真の民主主義とは人民が主権者になることであり、そのためには文化と教育が重要であると考えた。彼は韓国が生きていくのに十分な軍事力や経済力、自然科学の力を備えるべきだとしながらも、「他国を模倣する国」ではなく、「高く新しい文化の源となり、目標となり、模範となること」(113頁)を願った。さらに彼は「最高の文化を建設する使命を達成する民族とは、一言で言えば国民すべてを聖人にするところにある」(114頁)と強調した。
これは、私たちが到達すべき文化がどのような文化であるべきかを定義すると同時に、多くの考えを呼び起こす言葉である。まず、たとえ韓国が世界の舞台の中心に立つという夢のような信念が実現したとしても、平凡な全ての人を聖人に変える文化とは、あまりにも行き過ぎた表現のようにも聞こえる。もちろんここで言う「聖人」とは、神秘的な境地に達した宗教的聖人というより、道徳的・人格的に完成された人間を意味すると解釈できるが、大多数の大衆がこのような完成の境地に到達した文化とは、想像しがたいのが実情である。しかし、真の民主主義の完成がその国の国民性だけでなく信仰と哲学にかかっていると見る白凡(ペクボム)の言葉を考慮すれば、これは単なる理想主義的幻想ではなく、むしろ「高く新しい文化の根源」の必要十分条件なのかもしれない。
実際、我々の伝統を代表する三つの思想体系である儒仏仙(儒教・仏教・道教)では、あらゆる平凡な人間が聖人となる可能性を基本とする。誰であれ修養と実践を通じて内的な悟りに至り、社会的・倫理的な完成を成し遂げ、宇宙万物との霊的な合一に達することができるとする思想が、東アジアの儒仏仙伝統の根本である。こうした我々の伝統の文脈において「全ての人を聖人にする」文化の意味を測ってみるならば、これは信仰的・哲学的次元において文化を通じて到達すべきある種の「人間解放」の境地を意味する言葉として理解できる。「高い文化の国」という軸で世界的普遍に参加するビジョンを示したことはもちろん白凡の卓越した面であるが、制度的民主主義のみならず実質的人間解放を追求し、我々の民族解放を普遍的世界解放の地平と接合して達成することを強調したのは島山安昌浩と趙素昻など植民地時期の解放運動指導者たちが共有した視点でもあった4。それが戦争と分断体制の成立によって危機に直面したとはいえ、途絶えることなく生き続けていたこと、また一段階深化していたことを、私たちは白楽晴の人間解放論において確認することができる。
白楽晴は1979年に刊行した『人間解放の論理を求めて』(改訂合本版『民族文学と世界文学 1/人間解放の論理を求めて』創批 2011、以下本書からの引用時は書名及び頁数のみ表記)において、民族の特殊な文脈と世界的普遍性を結びつけながら、すべての人間の解放を実現できる総合的世界観を描き出す。彼にとって真の人間解放の論理とは、学者や知識人が提示する理論ではなく、生産する労働を遂行する民衆の生活論理、すなわち生活の中の真理と結びついたものである。難しく厄介なものではなく、多数大衆の生活の中で発現される「平易さと生々しい実感」を持つ論理である(「巻頭言」431頁)。しかし、主権者であり歴史の主人である民衆は、「天の知恵」と接していると同時に、生活上の欲求や良く生きようとする欲望に振り回されることもあり、少なくない場合「人間の知恵」にも及ばない愚かな大衆として理解されることもある(「民衆とは誰か」563頁)。それにもかかわらず、白楽晴は、民衆と大衆が異なるものではないことを知ることが、まさに現実的で科学的な認識であり、この認識に基づいて実践する人間解放運動は、社会的・政治的運動であるだけでなく、文化的・生活的・霊的運動でなければならないと考える。彼が特に人間解放の意味には「霊性解放」まで含まれると強調するのは5、時代と文化の根本的属性に対する深い洞察と関連している。
彼は資本主義と技術文明が深化した現代社会において、人間解放の問題は「仏教の真理とも一致し得る新たな次元の思想と行動なしには担いきれない境地に達した」と診断し、人間を抑圧する「あらゆる文物と本質的に異なる関係へと人間を解放しなければならない」と主張する(「人間解放と民族文化運動」552頁)。この言葉は、「悟り」が文化となる程度の社会でなければ物質中心主義の時代を耐え難いという主張と同義である。ただしこれは、悟りを通じて物質文明を単純に排斥したり制圧しようという意味ではなく、物質文明を追求するにせよ、私たちが物質と関わる方式こそが真理に到達する一つの方法でもあるという点を認識すべきだという点にある。彼が頻繁に引用する円仏教の開教標語「物質は開闢される、精神を開闢しよう」を借りて表現するなら、悟りを通じて物質開闢の時代を生き抜く方法によってのみ、この文明を克服できる。言い換えれば、信仰的・哲学的な儒仏禅の伝統も、その伝統に対する批判的・革新的な継承である東学でさえ、現代技術文明と創造的な関係構築を達成できなければ、人間解放に実質的に貢献できないものとなる。精神開闢が物質開闢と分離した実践ではないからである。このような人間解放の境地を包含することを文化の究極的目標と見るならば、今日のK文化はその地平をどのような方法で開いていっているのか。最近のK文化熱狂を主導しているアニメ『K-POPガールズ! デーモン・ハンターズ(K-POP Demon Hunters)』と創作ミュージカル『もしかしたらハッピーエンド(Maybe Happy Ending)』を通じて考察してみたい。
Kコンテンツがグローバル世界と出会う方法:「K-POPガールズ! デーモン・ハンターズ」のリアリズム
Netflixオリジナルアニメ映画「K-POPガールズ! デーモン・ハンターズ」(以下「ケデハン」)は、2025年6月の公開からわずか2ヶ月でNetflix史上最多視聴アニメとなり、Netflixコンテンツとして初めて3億回再生(2025年9月時点)を突破し、現在も歴代再生回数1位の座を守り続けている。人気の勢いに乗って全米批評家協会とゴールデングローブで最優秀アニメーション作品賞をはじめとする各種賞を総なめにし、アカデミー賞にも2部門でノミネートされている。サウンドトラックはビルボード・ホット100チャートで「トップ10」に同時に4曲がランクインする前例のない記録を樹立したかと思えば、つい先日挿入曲「Golden」がK-POPとして初めてグラミー賞を受賞した。本作は徹底的な考証に基づき、巫俗・国楽(韓国伝統音楽)・韓服(韓国伝統衣装)・韓屋(韓国伝統家屋)・民画など韓国の伝統文化的要素と現代韓国の都市的生活感覚をK-POPという枠組みの中で洗練された形で組み合わせ、ローカルとグローバルが調和した新たな文化的統合の地平を開いたと評価されている。視覚的愉悦をもたらす伝統文化の再解釈とソウルの日常感覚をリアルに再現したリアリズムは、これまで米国資本ベースのグローバルアニメーションが「異国的な視覚要素のみを混合して非現実的なアジアイメージ」を作り出してきた「オリエンタリズム的再現」の限界から脱却した成果として高く評価されている6。一方で、韓国系制作陣と米国資本、グローバルプラットフォームが結合して成し遂げた成果であるため、「韓流」コンテンツではあるが「韓国」コンテンツではないという逆説的な状況を指摘しつつ7、作品が具現化する「韓国的なもの」、さらにはKが指し示す「韓国性」とは何かについて、数多くの問答が噴出している。
例えば、大衆文化批評家のユン・グァンウンは、「ケデハン」の達成が韓国文化を「外部者の目」でも見ることができた「二重の位置」のバランスのおかげであると強調しつつ、文化の「純粋性」や「国籍性」への執着を先制的に警戒もする。さらに彼は「世界の中心部になれない地域文化が普遍性を獲得する道は、自己固有性を解体しながら外部に収奪されることだけ」であり、「ケデハン」が現実化したこの展望を継承するには、Kという記号の拡張を見据える新たな視点を育むべきだと主張する8。 記号Kと連動した「韓国性」を「一つの固定された本質ではなく、複数的で関係的な構成物」9と見るべきだとか、韓流を「脱中心的な構造の中で機能する文化生態系」10として理解すべきだという見解もある。評論家たちは口を揃えて「ケデハン」が具現化した韓国性を、グローバルとローカルの間の緊張の中で理想的に実現された「混種性」の価値として提示する11。しかしここで我々は、金九と白楽晴の民族-普遍の構図がローカル-グローバル構図へと変化する過程で、むしろ緊張関係が空虚化したのではないか、と問い直してみるべきだろう。ローカルとグローバルの間で動的に作用する関係的で多重的かつ非本質的な混種性は、その内部で実質的に機能する関係と構造に関しては何ら説明を与えず、修辞に終わりがちである。単なる寄せ集めと真の混種の実現は、どう区別されるのか。「自己固有性を解体しながら外部に収奪されること」に抵抗すれば純粋民族主義に固執することになるのか。金九と白楽晴が提示した民族-普遍の緊張構図を再考する時が来たようである。普遍性を得るために自己固有性を解体するよりも、むしろ自己となり得る最高の境地に達した時に普遍にも到達するのではないか、という問いを提起する必要がある。
筆者が見るに、「ケデハン」の文化的成果は、混種の理想的実現やローカルとグローバルの融合というよりも、監督マギー・カン(Maggie Kang)の現実理解に基づくリアリズムにある。この作品は単に韓国的な要素を事実的に再現するにとどまらず、K-POPが今ここで韓国人と世界の人々にどのような意味を持ち、どのような役割を果たしうるかを、最も韓国的な文脈の起源に遡って探求する。この点で「ケデハン」の最初の場面は非常に重要である。数百年前、悪鬼たちが人々の魂を奪い世界を暗黒に陥れた時、三人の巫女が歌いながら現れ、彼らを退治し「魂門」を立てて悪鬼を世界から遮断する。彼女たちが歌う歌は韓国語のパンソリで、「独り闇を照らそう/我ら歌を歌おう/この堅固な声で/この世界を正そう」というメッセージを伝える。続く場面では、韓国大衆音楽史における女性3人グループの系譜を描くかのように、米軍政期の女性トリオから1990年代後半のアイドルグループ、そして現代のK-POPスターを彷彿とさせる彼女たちの姿を次々と提示する。わずか1分にも満たないこの場面を通じて、映画は韓民族の歴史の中にK-POPの起源を新たに確立する。奪い搾取する力から守り抜いてきた歴史、クッ(굿:韓国伝統の霊祭-訳者)と歌で恨みを癒してきた歴史、広く人間を利そうとした歴史こそが、見えないところでK-POPを支えてきた起源なのである。
あるインタビューでマギー・カン監督は「クッが最初のコンサートだ」と述べたことがある12。これは、韓国のクッの本質的性格である公演性に対する正確な理解を示している。巫女は単に鬼神を退ける存在ではなく、退魔は韓国的情緒とは本質的に距離がある。韓国的情緒の核心は「災いの原因が怨霊そのものにあるのではなく、怨霊が抱く恨みにある」という認識にあり、したがって鬼神の怨みを解き、当然行くべき場所へ帰れるよう助けることにある。さらにクッは「社会的・文化的願望」を反映し、共同体的な葛藤を解消する儀礼でもある。それゆえクッの現場では、巫女と参加する大衆との情緒的共鳴が何よりも重要である。クッの本質は結局、あらゆる存在が神明に満ちて調和する祭典にあるのであり13、映画における魂門の力もまた、まさにその祭典に参加した大衆が感じる神明から生じる。
「ケデハン」の主要な物語は、黄金の魂門を完成させなければ悪霊を永久に追い出せないという信念に縛られていた主人公「ルミ」がその二元論的枠組みから解放される過程と、恥辱と悲惨さが凝り固まった恨みを400年間抱えてきた「ジヌ」がついに恨みを解く過程である。「ケデハン」のソウルを現代の標準化された資本主義的生活の隠喩と見なすならば、「鬼魔」は資本主義が人々の内に作り出した心の地獄を象徴し、豊かに生きたいという思いから家族を捨てたジヌの恥辱と恨みは、資本主義社会を生きる平凡な大衆の怨念を代弁しているとも言える。ルミが自身の内なる闇と和解し、半人半魔という境界人のアイデンティティを受け入れると、ジヌもまたルミのために内に潜んでいた魂を発現させ、二人はついに「嫌悪の感情だけでは決して打ち負かすことのできなかった」鬼魔を共に退治することができるようになる。この最後のクライマックスシーンで歌が担う役割は極めて重要であり、それは単にルミの内面的覚醒を表現する以上の役割を果たしている。
マギー・カン監督は、伝統的にミュージカルでは歌が人物の感情を表現するために主に使用されるが、「ケデハン」では歌が物語をより深層的にする役割を果たすように意図したことを明らかにしている14。ルミが所属するグループ「ハントリックス」がクライマックスシーンで歌う「What It Sounds Like」は、作品内で起こる事態の「真実」を明らかにする核心的な装置として機能する。また、クッパン(巫術の儀式)で巫女の声が個人の怨念を解き放つと同時に共同体に向けた公的な響きを持つように、この歌は「私」から始まり「私たち」へと拡張される15。一人で歌っていた歌がハントリックスのメンバーとファンが共に歌う歌として共鳴し、共同体全体の神明(霊的な高揚)へと広がり、崩れ落ちた魂の門は虹色に蘇る。ここで解放と連帯の主体こそがファン大衆である。怨念のクッパンで自然に湧き上がった歓喜の気運が美学的に高揚した状態の中で、神明と繋がった人々は、単独では照らし出せない闇を共に照らし出し、世界を修復していくことができるようになるのである。
「ケデハン」の挿入曲が実際のK-POPのトレンドや水準に合わせて、現実のアイドルソングと比べても遜色なく制作された理由は、これらの曲が現実においてK-POP生態系の一員となることを願ったからである16。実際に挿入された楽曲が大人気を博したことはもちろん、観客が映画を鑑賞しながら大声で歌えるよう特別制作された「K-POP DEMON HUNTERS SINGALONG」(2025)は、韓国をはじめ北米・南米・欧州・オーストラリア、ニュージーランドにまで広がった。さらに、ファンたちが集まって力強い歌声で闇を照らし、世界を変えるという作品内の儀式が、現実のファンたちによって実際に実践されている。昨年、アメリカ・ニューヨーク市長選挙で「Golden」が投票促進ソングとして歌詞を変えて歌われたのである。民主党候補ゾーラン・マムダニ(Zohran Mamdani)の勝利とともに大きな反響を呼び、投票促進の「合唱」を公開したニューヨーク市ゲイ合唱団のインスタグラム(@nycgmc)には、2026年中間選挙でもこの曲を使ってほしいという数千件のコメントが寄せられた。作品と現実の境界を崩しながら「ケデハン」は仮想の「解放クッ」(鬼や悪霊、疫病などによる病を追い払い、治癒を祈願する巫俗の儀礼-訳者)を現実の解放クッへと拡張していく。最も韓国的な精神の起源を探り、それが現在においてなり得る最高の姿として呼び起こすこと、これこそがK文化がグローバルな普遍性の地位を獲得する方式と言えるだろう。
Kコンテンツが未来と出会う方法:AIロボットから学ぶ「リアル」な愛
2016年に大学路で初演された韓国の創作ミュージカル『もしかしたらハッピーエンド』は、国内の主要なミュージカル賞を受賞し、6期にわたって公演を続けるほど大衆の愛を受けた。作家朴天休と彼のニューヨーク大学時代の同窓である作曲家ウィル・アロンソン(Will Aronson)の共同創作で生まれたこの作品は、創作過程からすでに韓国語と英語で書かれ、公演の実際の制作過程も初期から両国で始まった。そしてついに2024年にブロードウェイ進出に成功した後、翌年にはブロードウェイ最高権威のトニー賞で6部門を席巻し、作品性と大衆性の両方を認められ、Kミュージカルの世界的飛躍の象徴となった。国内外を問わず有名な原作やスター俳優に頼らなければ制作が難しいミュージカル界において、純粋な創作ミュージカルが成し遂げた輝かしい成果である。アジア人俳優が主演で、ソウルと済州が舞台であり、所々にハングルが使用される作品でありながら、普遍的な物語と感動的なメッセージでニューヨーク・ブロードウェイの観客の共感を呼んだのである。
この作品は、未来のメトロポリタン・ソウルの郊外、廃れた形となって捨てられたヘルパーロボットたちが集まって生活するアパートを舞台に、ロボットたちの日常と内面生活を描く。「ヘルパーボットバージョン5」のオリバーは耐久性に優れたクラシックモデルだが機能が限定的で、バージョン6のクレアは機能は多いがはるかに不安定なシステムを持っている。オリバーは内向的で原則的だが前向きな性格であるのに対し、クレアは積極的で社交的だが冷笑的である。この性格は彼らの以前の主人である人間から影響を受けたものである。充電バッテリーが不安定なクレアは頻繁に放電し、いつ停止するかわからない危うい状況にある。劇はクレアが充電器を借りるためにオリバーのドアをノックするところから始まる。充電器を共有するうちに互いから愛を学んだ二体のロボットは、部品の供給が途絶え消滅が迫る中、残されたロボットが味わう喪失の痛みが胸を締めつけるため、互いのために愛の記憶が保存されたデータをそれぞれ削除することを決意する。
ブロードウェイ作品の演出を担当したマイケル・アーデン(Michael Arden)は、韓国作品のアメリカ版ではなく完全に新しい作品を作りたかったとされ、これを作家・作曲家と共有したという17。 結果としてブロードウェイ作品では、韓国作品の比喩的で詩的な歌詞が英語の直截的で文脈を説明する歌詞へと性格を変え、オリバーとクレアが前の飼い主たちに捨てられた理由が前史として物語に追加された。温かな感性と親密感中心の素朴な舞台は、技術的な舞台転換と視覚効果を強化した未来都市の舞台へと転換された。ジャズと叙情的なバラードを中心にロボットの内面と感情伝達に集中していた音楽も、ブロードウェイではジャズは維持しつつ拡張されたオーケストラ編成が加わりサウンドが強化された。同時にソウルや済州島など韓国の地名は維持し、オリバーの話し相手であり相棒の小道具である「植木鉢」も英語ではなく「HwaBoon」のまま韓国語を使用した18。オリバーの部屋で唯一生命を持つ植木鉢は、彼にとって唯一の友達であり、絶え間ない注意と世話が必要な存在である。ブロードウェイでは、言葉も動きもないこの小道具を作品の主要な俳優として擬人化し、プログラムブックの人物紹介欄にも掲載し、インスタグラムアカウント(@thereal_hwaboon)も作成した。これはもちろんマーケティング手段だが、一方で非人間が生きている人間のように私たちの前に現れたとき、どのように関係を築くべきかという、作品が投げかける問いかけのユーモラスな体現でもある。これを受け、「もしかしたらハッピーエンド」のファンたちは「植木鉢ミーム(meme)」を作り共有し、インスタグラム投稿にコメントを書き、植木鉢のフィギュアやファンアートを制作し、さらには植木鉢へのインタビューまで行うなど、作品を共に鑑賞し体験した「内的に繋がる感覚」を作品の外へと拡張する姿を見せている19。
この作品の成功をめぐっては、ローカルとグローバル、韓国的な特殊性とブロードウェイの現地化・世界化戦略について数多くの分析がなされているが、実際にはこの作品はソウルとブロードウェイの両方で成功するのが難しい多くの要素を抱えていた。一般的な大型ミュージカル作品が持つ有名な原作も、巨額資本やスター俳優、作家もいなかったばかりか、俳優の歌唱力を誇示し作品のシグネチャーとなり得る高音の歌もない。刺激的な要素のない穏やかな作品に、ロボットの恋愛物語というやや古臭く感傷的なテーマを溶かし込んだミュージカルである。おそらく作品を体験していない人は「ロボットも愛するのか」と浅はかで感傷的な話だという偏見を持つかもしれないが、この作品がまず観客の間で口コミが広がった後にチケット販売量が急増した理由はここにあるのだろう20。
それでもこの小さな作品に韓国とグローバルな大衆が熱狂する理由は何か。おそらくその理由はあまりにも常識的で改めて驚くほどだが、平易な主題の普遍性とそれを具現化した臨場感あふれる情感のリアリズムにある。この作品は資本主義物質文明の先端に達した都市的生活の裏側にある孤独、無用感、消滅の感情と、ケア、関係、愛という普遍的テーマを探求する。私たちは改めて、AIロボットもまた時間と自然の束縛を逃れられず、老いて死ぬ人間と同様に時代遅れとなって廃棄される可能性があるという事実を悟る。簡単に消耗され捨てられるロボットに、私たちの現在と未来が重なって見える。しかし「それにもかかわらず」(作品のクライマックスで流れる歌のタイトル)私たちは「なぜ愛するのか」という問いに答えるロボットの関係性物語の中で人間性を回復し、その新たな側面を発見する契機を得る。技術文明に固執すればするほど互いから遠ざかるだけでなく、自分自身からも疎外された存在として次第に生命ある生活から遊離していく私たちに、本当に大切なものが何かを改めて気づかせてくれるのである。
アメリカの評論家ルイス(C. Lewis)は、この作品を「人間になる方法を教えてくれるミュージカル」21と評したが、陳腐に聞こえる言葉ではあるものの、これこそが作品が私たちに果たす役割に対する最も正確な判断だと考えられる。あまりにも重要すぎてむしろ陳腐化してしまったテーマを、生々しい情感を通じて伝えているからである。チェ・スンヨンがこの作品の公演現場でしか起こらない「感性のリアリズム」のようなものがあると診断した言葉も的を射ているだろう22。 済州島旅行の途中で人間のふりをし、人間の愛し方を真似てみた結果、本当に恋に落ちてしまったロボットたちは、人間よりも人間らしく愛する。人間が教えるだけで実際には実行できない親切、思いやり、献身といったプログラムされた価値を極限まで実践し、消滅を目前にした現実の中で、その愛が到達し得る最高の境地を創り出すのである。互いを守ろうと各自の記憶に保存されたデータを消去すると決めた翌日、クレアが再び充電器を借りようとオリバーのアパートのドアを叩いた時、私たちは彼らが本当にデータを消去したのか、それとも最初の場面と全く同じに戻ったこの時点で「それにもかかわらず」再び愛を始めようとするのか、という問いを投げかけることが無意味だと気づく。充電なしでも満ちた生命力で光を放つ蛍の短い命のように、自らの消滅をより大きな秩序の一部として受け入れながら、短くも満ちた愛を成し遂げた二人のロボットにとって、真のハッピーエンドは、そんな輝く出来事が起こったという事実そのものにあることを、私たちはすでに理解していたからである。
「もしかしたらハッピーエンド」の成功の主役は、何よりもこの作品が私たちに開いてくれた経験の境地を見抜いただけでなく、それゆえに積極的に作品を宣伝し、何度も繰り返し観賞しながら今日の意味を築き上げた大衆観客たちである。特に劇中、二体のロボットの愛を象徴する蛍に因んで名付けられた米国内の自発的ファンダム「ファイアフライズ」(Fireflies)は、非常に献身的でオンライン結束力の強いファンダムであり、レディット(Reddit)掲示板に投稿された記事を見るだけでも、良質な公演が光を見ずに消え去らないよう尽力する数多くのファンが存在することを知ることができる。韓国とブロードウェイ作品の違いにもかかわらず、韓国観客とブロードウェイ観客を一つの情緒共同体として統合するのは、今ここで可能な最高の方法で、平易でありながら忘れられやすい普遍的テーマを、生々しい感情に乗せて運ぶ作品のリアリズムである。これこそが真の地域-普遍の結合であり、Kミュージカルがグローバルな普遍性に到達する方法ではないだろうか。
K文化が進むべき普遍の道
AIの発達により物質生産力の最大化が目前に迫り、既存の知識社会は基盤から揺らいでいる。また世界的に不均衡なAI技術の発展度と蔓延する工学万能主義は、新たな「技術帝国主義」を招く危険さえ予兆している。こうした状況下で韓流4.0が直面する挑戦は、AIや仮想現実(VR)といった先端技術との融合に留まらず、気候・環境問題や持続可能な発展といった重大なグローバル課題にどう応えるかという問題も含む。変化する時代に機敏かつ能動的に対応することも重要だが、未来においても有効なビジョンは結局、普遍的価値に基づかなければならない23。
よくAI時代に必要なのは知識ではなく創造力だと言われる。しかし創造的な人生は、まず自分の中で「驚異的な自分」に出会えた時に初めて可能となる。これはありのままの自分を認めながら、自分が到達し得る最高の境地に立った時に感じる驚嘆である。それが知性、踊り、歌、笑いとして発現する時、私たちはこれを神明と呼ぶことができるだろう。神明の瞬間はまさに「霊性解放」の瞬間であり、この神明は単独では到達できず共にいる時に初めて爆発するという点で「協働的創造過程」24でもある。今日、人間解放の論理はますます切実にならざるを得ない。AIのように先端を走る技術文明がますます隆盛になるほど、不安な人々が増え、存在の根源と魂の安息、平穏を渇望する者たちが増えているからである。まさに悟りが文化的欲求となる時代が到来しているのである。金九が語った聖人とは、真の自己と一致し、自らの現実を創造し使命を実現する力を備えた人であろう。そして、こうした聖人を育むことのできる文化においてこそ、AIもまた本来の機能を発揮できるだろう。K文化はまさに、こうした未来の到来に貢献する潜在力を示している。伝統の革新も行うし、混種も行うし、ローカルとグローバルの融合も行う。創造と制作の円満な調和のために資本を集め制御できるビジネスモデルも採用し、現地化も行う。しかし何よりも重要なのは、文化の究極的目標が存在の根源に至る霊的な旅路であること25、すべての人間の解放へ向けた論理を探求する旅であること、それが単独ではなく連帯の道であるという点である。これこそが、K文化が世界に向けて発信している普遍の道なのである。今、ここに最も忠実な方法で。
訳:李正連
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- 沈斗輔「韓流:21世紀グローバル文化地形図の中で道を探す」沈斗輔、ペ・ギヒョン、チョン・ホジェ編『韓流101』、東国大学出版文化院、2025、56-57頁。ただし沈斗輔は、このような時代区分の限界についても指摘しており、それはあくまで分析の出発点としてのみ有効であるという留保を付している。↩
- 2026年は彼の誕生150年になる年であり、「金九先生150周年」がユネスコ記念年として公式指定された。↩
- 黄静雅「また会うべき世界」『創作と批評』2025年冬号「巻頭言」。↩
- 安昌浩思想については、姜敬錫編著『安昌浩:民族革命の里程標』(韓国思想選19、創批 2024)、 趙素昂思想については白永瑞「変革的中道からみる三均主義」(『創作と批評』2025年秋号)及び白永瑞編著『趙素昂:均等社会の新しい民主主義』(韓国思想選23、創批 2026)参照。↩
- 白楽晴&イ・ボヒョン「人間解放の論理と開闢思想」白楽晴ほか『世界的なK思想のために』創批、2024、205頁。↩
- 李旻河「K-popコンテンツの拡張と再構成『韓国エンターテイメント産業学会論文誌』19巻6号、2025、224頁。↩
- キム・ゴンスク「〈K-POP Demon Hunters〉に具現された『コリアニズム』の様相と意義」『コンテンツと産業』7巻4号、2025、118頁。↩
- ユン・グァンウン「『K-POP Demon Hunters』、所有権を放棄したKカルチャーの世界化」メディアス 2025.8.2;「『K-POP Demon Hunters』の世界化は何が違うのか」メディアス 2025.9.13. 後者の論文でユン・グァンウンは韓国性を「混種性」と定義する。↩
- キム・ヒソン「Netflix『K-POP Demon Hunters』を通して見たK-カルチャーの地球規模的拡張とK-ヘリテージの実践的再構成」『パンソリ研究』第60集、2025、57頁。↩
- 同上59頁。これは韓流が脱中心的な構造を帯び、一時的・流動的に構成されるアッサンブラージュ形態であると見たイ・ギウンの主張を受けたものである。イ・ギウン「ポストグローバリゼーションと韓流アッサンブラージュ」、『黄海文化』2022年夏号を参照。↩
- 代表的にパク・サンワン「アニメーション<K-POP Demon Hunters>の混種的想像力に関する研究」『国際語文』第106集、2025を参照。↩
- 「テディからTWICEまでコラボレーションの舞台裏を大公開」YouTubeチャンネル「ムンスオツン」2025.6.30日。このインタビューで監督は、自身がカナダで育ったが文化的アイデンティティは韓国に置いているとも語っている。↩
- クッの意味について様々な先行研究を検討した以下の文献を参照。チョ・ウニョン「『K-POPデモンハンターズ』におけるクッの公演的特性と解怨機能の変容分析」、『人文コンテンツ』第78号、2025。↩
- 前掲のインタビューを参照。↩
- 「What It Sounds Like」(韓国語では「聞こえるままに」の意味)の流れは、「これが本当の私の声だ」から「これが本当の私たちの声だ」へと広がる。歌詞は「嘘のない私の声、これがその音だ」から「長い時を経て明らかになった真実、私たちの声が一つに融合する」へと続く。↩
- 前掲のインタビューを参照。↩
- Rebecca Alter, “Attention Must Be Paid to Hwaboon,” Vulture, 2024.12.25.↩
- チェ・スンヨン「<もしかしたらハッピーエンド>から
へ:ブロードウェイの現地化と情緒的共同体の形成」、『韓国劇芸術研究』第85号、2025; ホン・ジョンミン「『もしかしたらハッピーエンド』の成功的な受容と英米圏進出におけるK-ミュージカルの翻訳への示唆点」、『翻訳学研究』第26巻第3号、2025を参照。↩ - チェ・スンヨン、前掲書、203頁。↩
- 「パク・チョンヒュ作家とウィル・アーロンソン作家の『もしかしたらハッピーエンド』制作秘話」YouTubeチャンネル『ビッグクエスチョン』2025.11.9。↩
- Christian Lewis, “‘Maybe Happy Ending’ Review: Broadway’s Deeply Moving Robot Musical, Starring Darren Criss, Teaches Us How to Be Human,” Variety, 2024.11.12.↩
- 「なぜどうやって『もしかしたらハッピーエンド』はトニー賞脚本賞など6部門を受賞したのか?アメリカ演劇・ミュージカル界で最も権威ある賞を?友蘭文化財団を起点とした8年間の制作ヒストリー」YouTubeチャンネル『キム・ワンのイノビュー 眠れない夜の雑談ラジオ』2025.6.27。↩
- 沈斗輔、前掲書、58-65頁。↩
- 韓永仁は「イカゲーム」(2021)と「地獄」(2021)に関する卓越した批評において、韓流の可能性は「特定のコンテンツの達成を通じて実現されるのではなく、より良い世界を創り上げていく過程で韓国社会が集合的に成し遂げる協同的創造の様相にその実現の可否がかかっている」と述べ、 「私たちは『どのような人間であるべきか』を問うことも、そのような協同的創造の一部である」と述べている。韓永仁「『韓流』と協同的創造の可能性」『創作と批評』2022年春号64頁。↩
- ゲオルク・ジンメル『ゲオルク・ジンメルの文化理論』キム・ドギョン&ペ・ジョンヒ訳、図書出版ギル、2007、20頁。↩