[特集]ようやく始まる過去:舎北を語る心/ 鄭珠娥
特集/過去が今日を問う方式
1. 1980年、「あの年の春」の舎北
流れていった時間は過去になると言われる。だとしたら、流れ得なかった時間は何になるか。あたかも小川の狭い角が通過できず、元の場所をぐるぐる回る木の葉のように、最小限の存在秩序である時間の流れさえ避けていったところに残留する人々の時間がある。もしかしたら叙事とはこのように時間のなかで道に迷い、暗闇に閉じ込められた存在のための時間旅行の形式であるかもしれない。もともと叙事は時間の前で無気力でしかない人間が、その限界を克服するために工夫した産物であるからだ。過ぎ去ったことを現在の時点へ召喚して、目の当たりに広げて当時は状況に閉じ込められて見られなかった事件の脈絡を、あれこれ繰り返して考えてみる。なので叙事が過去を取り扱うということは、無定形の時間に意味と秩序を与える作業になりもする。時間の流れに乗れず、澱んでいるしこりを引き上げて、時間の出口に導いて現実に手頃に位置づけさせてあげること、そうしてようやく過去と呼ばれそうな連続の線を作り出すことなのである。
例えば、『小人が打ち上げた小さなボール』(1978)の作家、趙世熙(チョ・セヒ)もそのようなしこりを目撃した場合に当たる。彼は1984年、一種の負債意識を抱えて「4年前のあの年の春」に時間が止まったそこへ行く汽車に乗った。そこの何かが自分を捕まえて放してくれなかったと言いながら、汽車で4時間余りの距離を4年ぶりに訪れる自分を責めた。そこで彼はどうしても小説的虚構ではかぶせがたい風景に圧倒されたようだ。取材をも兼ねた旅行であったにも関わらず、小説が書けなかったから。その代わりに彼は、あたかも視野が遮られた競走馬のように輸出増産の目標だけを追う韓国社会で、最も苦しく貧しい生を耐え忍ぶ人々、なのでそれほど希望が必要な人々の存在を知らせるために写真を撮った。
後日、『沈黙の根』(1985)というタイトルで括られたこの写真エッセイ集の舞台は、江原道旌善郡舎北邑である。舎北は韓国最大の民営炭鉱である東原炭座舎北鉱業所が運営されていたところであると共に、全斗煥(ジョン・ドゥファン)の軍事反乱の直後、最初に労働争議が起こったところである。趙世熙の文章と写真はこのような舎北の地域的特性を反映した二つの感情を表している。まずは炭鉱労働者の生命を担保にして数千万の人口と産業を生かしながらも、炭鉱地帯の劣悪な労働条件と低賃金を放置する状況に対する悲しみである。この悲しみは恐れを孕んだものである。趙世熙によると、あの略奪的労働はもうこれ以上西欧列強や収奪者の日本のような、人のせいにだけできない、われわれが犯し、われわれが責任を取るべき自明な罪悪であった。1
同時にこのテクストは作者が抱いた負債意識の告白でもあった。新軍部の非常戒厳令のなか、1980年4月、舎北で繰り広げられた労働争議は、地域住民たちに向かった公権力の暴力へと繋がった。現場の採証写真に撮られた人々を、一応連行して過酷に拷問することで国家は絶対服従のみせしめを作ろうとした。離れたところで舎北を眺めながらも作者はそこに行くことも、そのことについて語ることもできなかった。このような情況は「あの年の春」、つまり80年5月の光州を思い出させる。実際にその年の5月に光州に投入された第11空輸特戦旅団は、ひと月前に舎北鉱業所の労働争議を鎮圧する目的で原州で待機していた。舎北の場合、一触即発の対峙状況で光州のような惨劇は避けただけである。もちろんその暴力はしばらく猶予されたのみで公権力の報復に繋がったし、徐々に、だが間違いなく被害者たちの体と心を壊し、生の活気を奪った。家庭を破壊し、隣人との関係を破壊した。坑道の労働に似合う賃金を求める貧しい人々の要求が、暴力的軍部統治の無慈悲なるいけにえになったわけである。だからあの年の春、光州と舎北はその出発は異なったが、類似な国家暴力を経験したわけだ。
2. 舎北事件と澱んでいる時間
最近、パク・ボンナム監督のドキュメンタリー「1980舎北」(2025)が公開された。タイトルが示しているように、彼は1980年舎北の民間人無断連行および拷問事件を原点から解き明かしていく。今年4月は事件発生の46周年になる年であったにも関わらず、ドキュメンタリーは相変わらず舎北事件を最初のところから辿っていく。前へ進められず原点をぐるぐる回る舎北事件の情況を理解するためには、まずこの事件を巡った視角の偏差を見てみなければならない。『沈黙の根』を始め、事件日誌を含んだ資料が相当数存在するにも関わらず、これまでこの事件は「舎北暴動」と「舎北抗争」という、互いに異なる命名に含まれた間隙を縮めることが難しかった。そのわけを荒っぽく要約すると、次のようである。
賃金引上げと処遇改善を要求する鉱夫たちがおり、御用労組を利用して彼らの要求を拒否する会社側がある。鉱夫たちの気流を監視していた警察が逃げる途中、自分たちをふさぐ鉱夫に傷害を加えた。興奮した鉱夫たちが鉱業所を占拠し、会社側の関連者を探して回る。消えた御用労組支部長の代わりに、彼の妻を虜にして集団リンチを加えた。警察兵力が鎮圧命令を受けて出動するが、投石戦で対応した鉱夫たちによって警察側に死亡者が発生して一応後退する。戒厳時局で軍部隊の投入が決定される。軍兵力の投入直前、道知事の粘り強い説得で労使協議が成し遂げられる。状況が終了し、住民たちは日常に復帰する。ここまでが1980年4月21日から24日まで進められた労働争議の全貌である。しかし、舎北事件はここで終わらなかった。5月初め、突然警察が村に押し寄せる。住民たちを不法連行して残酷に拷問し、陳述を捏造して「アカのやから」を作り出す。女性たちにはセクハラもしでかした。それから多数の住民を軍法会議2に回付する。要するに舎北事件の本質は労働争議に対し、国家が公権力を動員して民間人に報復した「国家暴力」事件である。だが、それと共にこの事件には憤った群衆によって触発された「内部暴力」の情況が混ざっている。戒厳令の下、報道が統制されたので、当時言論を通じて世間に知られたことは後者の情況である。そのため舎北事件は長い間「暴動」という烙印が押されたまま、拷問被害者たちの人生とともに暗闇のなかへ静まったわけだ。
しばらくの間大衆から忘れ去られていた舎北事件を、公の場で取り上げたのは、イ・ミヨン監督のドキュメンタリー「ほこり、舎北を問う」3であった。このドキュメンタリーは舎北事件の核心が鉱夫たちとその家族に対する国家暴力および人権蹂躙にあり、その実体が隠蔽されてきたことを照明した。新軍部政権の厳酷さの下で舎北に行けなく、いざ舎北に行っては劣悪な鉱山労働の現場の前で叙事が作り出せなかった趙世熙の負債意識を超えて、はじめて舎北事件を巡った巨大な沈黙に挑んだ初の事例だと見なしてもよかろう。
国家暴力の観点で「ほこり、舎北を問う」を貫く問題意識は、大きく分けて二つほどにまとめることができよう。一つ目は被害と加害の構図に基づいた質問である。なぜ犠牲となった人はいるのに、責任をとる人はいないのか。ドキュメンタリーは被害を抱えた住民たちの暮らしを盛り込もうとした。東原炭座の幹部や当時鎮圧を命令した幹部警察たちをインタビューし、たとえ出会いは成し遂げられなかったが、舎北住民たちの記憶に共通的に残っていた拷問警察を訪ねたりもした。住民たちが被害者であることはあまりにも明白であった。拷問で虚偽容疑が作られ、共犯および加担者が引き続き作られた。取り調べ内容や拷問の事実については沈黙を強いられた。拷問の後遺症を患う人々、苦痛に耐え切れず隣人の名を言って罪責感情を背負った人々、誣告に逮捕されて拷問を受けた後、隣人に恨みを抱く人々が生じた。住民たちは事件を胸に納めたまま、沈黙する間病気になったり、あるいは「舎北事態」前科者という烙印が押されたまま、就職と解雇を繰り返しながら外地を転々しなければならなかった。
なので二つ目の問題は被害者たちが沈黙している状況であった。そこで監督は当事者たちを訪ねて粘り強く証言を要請する。当初、インタビューの要請を拒み、怒っていた彼らはドキュメンタリーの撮影が終わる頃になってやっと固い沈黙を破って互いに連絡をとり、話し合い始める。その結果、住民たちは2001年、名誉回復のための記者会見を開き、拷問および虐待の情況の再演に乗り出した。監督はわざわざ公開を先延ばしまでしながら、彼らの変化をカメラに盛り込んだ。被害者のなかで一部は民主化運動名誉回復および補償の申し込みを始め、2008年、真実・和解のための過去事整理委員会(以下、真和委)で国家暴力の事例を証言した。こうして始まった名誉回復の手続きが相次いで「舎北炭座デモ」の核心関係者であるイ・ウォンガプ、シン・ギョン、カン・ユンホなどは、軍法裁判結果に再審を申請して無罪判決を受けるに至る。
ここまでだけ見ると、「ほこり、舎北を問う」の問題意識は政治的に明白であったし、そのため答案もまた明瞭であったかに見える。しかし、このドキュメンタリーの後半部には、もしかしたら偶然投げかけられた、だがなかなか答えが出てこなくてより注目される一つの質問が登場する。ドキュメンタリーの企画者であり、監督で語り手でもあるイ・ミヨンは直接マイクを持って住民たちに問う。「舎北事件は民主化運動ですか。」ためらいながら答える住民たちの顔を照らすカメラは、その複雑な心情を盛り込む。そしてこの質問はやっと沈黙を破って証言を始めたものの、まだまとまらない一種のしこりが住民たちの心のなかに存在するということを示している。後で明らかになることだが、このしこりは後日「1980舎北」が再び事件の原点から語り始めなければならなかった理由となる。
だとしたら、住民たちの心の中に居座ったしこりとは何か。まずは舎北鉱業所を死守する過程で、戦闘警察の一人が石に打たれて死亡したことである。舎北に警察が投入されていた1980年4月22日、鉱業所へ進入する道の要所であったアンギョンダリで繰り広げられた投石戦で、70余名の警察側の死傷者ができた。舎北事件を「暴徒たちの乱暴」へと追い立てていく当局や言論の政治的フレームとは別に、この事態は住民たちの心に傷として残っただろう。降り注ぐ石ころのなかで警察が感じたはずの死の恐怖はもちろんのこと、その石ころに打たれて死傷者が発生したのは、明白な事実だからだ。もちろん警察の死亡を巡った情況と意味を、論理的に抗弁することはできた。ドキュメンタリーは当時舎北に滞在していた一人の聖職者の証言を見せている。彼は警察の死亡に衝撃を受けたが、自分は何も言えなかったと証言する。炭鉱業に従事する数多くの鉱夫たちが死んでいく中で、どうして警察一人の死亡がより照明されるべきかという住民たちの抗議、つまり世の中により尊い、より尊くない死があるかという住民たちの反問に返す言葉がなかったというわけだ。だが、論理と心が違う。住民たちが投げた石に打たれて命を失った誰かが確かにいる。
そしてもう一人、興奮した舎北住民たちに集団リンチを加えられた労組支部長の妻がいる。群衆が一人の女性を電柱に縛り付けたまま取り囲んだ写真は、当時日刊紙1面に載せられながら「舎北暴動」を代表するイメージとなった。当時の鉱山村の劣悪な作業条件や御用労組の不正腐敗――例えば、労組幹部たちが労組活動費を拠出しながらも会社の利益のみを代弁したり、消費組合を立たせて粗悪な物品を高い価格で供給しながら、中間管理者として利益を着服したりという具体的情況――をいくら訴えても、直接的利害関係がない女性を人質にして殴打し、肌が晒されたままで万人の前で展示したことは、言い訳の余地がない野蛮的暴力である。
「舎北事件は民主化運動ですか。」という問いに住民たちの答えは一貫している。否、そのことはあくまでも賃金紛争、賃金暴動であって「大学生たちのように」そのようなことをしたわけではないという。住民たちは労組と鉱夫との間における衝突は何よりも金と生計の問題、つまり賃金を引き上げしてくれという世俗的要求でしかなく、そのことにいかなる大義名分はなかったといっているようだ。もしかしたら、この地点は「ほこり、舎北を問う」によって表に出てきた舎北の時間において、最も暗い混沌を示しているかも知れない。そのために拷問と烙印で破壊された生を耐え続き、やっと無念さと憤りを世の中に晴らし始めた時点においても住民たちは「あのこと」は賃金紛争でしかなかったと語る。
そもそも監督がどのような答えを期待してこの質問を投げかけたかは明確でない。おそらく当然労働運動であり、民主化運動だという答えが出てくることを期待していたかも知れない。あるいは民主化運動記念事業会(2001)の設立が見せているように、民主化抗争の歴史的名誉回復の気流に舎北事件も含まれることを望んだかも知れない。そうして「あの年の春」の澱んでいた時間が現在につながって流れながら、厳然たる過去として正当に編入されることを望んだかもしれない。でも、質問の意図がどうであれ、住民たちの答えは同じだった。その事件は民主化運動ではないというわけだ。
だから真の問題はこの地点にあるだろう。少なくとも2000年頃には舎北事件の関連者たち自らが自分たちの毀損された体と生を「舎北抗争」、つまり民主化運動と連結して考えはしなかったという事実である。この件にはその間民主化運動という命名に伴ってきた華々しいアウラが見え隠れする。民主化運動とはその歴史のなかで散華した純粋な魂の前で恥のないように、倫理的・道徳的に完全無欠であるべきだという信念が読み取れるのである。もちろんこのようなアウラとは別に、現実における民主化運動は力比べと忍耐を同時に要する闘争の様態として実現される。舎北事件のように、民主化運動は労働と賃金で維持される日常の条件を変えていくことと無関係ではありえない。さらにその要求の過程で発生した残酷な拷問の結果として疲弊になった体と壊れた生に責任を問うことが民主化でなければ、何が民主化なのか。「運動」は沈黙を破る時点から始まり、澱んでいた時間もまた、そこから流れ始めるのだ。
しかし、この流れから外れてまだ原点に残っているしこりがあるならば、どうするのか。舎北事件の被害者としてやっと抜け出そうとする暗い場に、「われわれ」が投げた石に打たれて幽明境を異にした警察と、障害を抱えることになった警察、一生付きまとう恥ずかしい記憶が無くせない女人がそのまま残っている状況ならば、その被害者たちの暗い時間は舎北事件の被害者として耐え忍んだ暗い時間とどれほど同じで、どれほど異なると計れるのか。加害と被害とがごっちゃになったこのしこりは、実に舎北事件が舎北抗争へ進むために直面しなければならない自己矛盾の頂点であり得る。4舎北の時間が何度も原点に戻らなければならなかった理由は、この混沌のしこりが取れないまま時間の流れを塞いでいるからである。
3. 皆の過去のための和解
事情がこうならば、「1980舎北」が労使の極限の対峙局面を正面から捉えなおしながら、共同体的和解の問題を取り出したことは、その他に別の選択肢がなかったためだと見なすべきである。監督は鉱夫が投げた石に打たれて死亡した警察と、住民たちによって凌辱された労組支部長の妻を叙事の中心に立たせる。もちろんこのような企画は作中語り手として登場する舎北の人、ファン・インウクの全面的な参与があってこそ可能だったことだ。
「1980舎北」は舎北で生まれて舎北共同体が進むべき道を苦悶するファン・インウクの視線と望みを反映する。事件の当時、彼の父親と兄たちは皆鉱夫として働いていた。彼は当時「中学校3年の年端も行かぬ子ども」だったので、舎北事件はぼんやりとだけ記憶すると回顧する。大人になった彼にとって舎北事件は、何よりも村共同体の徹底した破壊として実感されることであった。労組支部長の長男は彼の兄であるファン・インオの友達であり、ドキュメンタリーには出ないが、末の息子はファン・インウク自身の友達である。彼らは形容しがたいほどの怨恨関係となっている。集団リンチをされた労組支部長の妻は、彼にとっては村の兄、村の友達の母親であるわけだ。集団リンチに加わったという嫌疑で連行され、警察からセクハラに近い拷問を受けた女人も同じクラスの友達の母親である。その母親が釈放された後、友達の家庭は破綻同様となった。
事情がこうだから、ファン・インウクが作った舎北事件関連者の関係図は、それ自体で彼の隣人と親戚たちの関係図ともなる。小さい町で日常を共にした彼らが、事件以後、互いを仲たがいし、恨みを抱いたり、罪責感情のなかで沈黙する関係となった。このために「1980舎北」を支配するのは、幼年時代の舎北を記憶し、その至難な歳月を見守った舎北の人、ファン・インウクのつっけんどんな口ぶりである。彼は事件当時の大人たちに向かって愚痴をこぼす。「いったいなぜ私たちだけこんなふうに生きますか。あの人々は豊かに暮らしているのに、私たちだけ毎日いじめ合って。」
ファン・インウクの言葉には舎北事件のみでなく、鉱山村での生そのものを現実的課題として引き受けた後の世代の苦悶が盛り込まれている。大韓石炭公社法(1950)、鉱業法(1951)などが制定されて以来、鉱業は農業、漁業、畜産業などと共に国家の集中管理を受けた主な一次産業の一つであった。当時の主要産業が今や全部斜陽産業になったという事実も驚くべきだが、その中でも特に鉱業は非常に短い期間に集中育成されてから、急な消滅の道を辿った。
産業の育成および支援、産業の構造調整のような言葉は政策資料集の用語である。これらの用語はその単語によって運命が分かれる人々の叫びを表していない。鉱産業はその明確な物証である。石炭産業は1960年代、練炭が大衆燃料として幅広く使われながら成長した。特に政府は石油波動の時ごと「生産極大化」の方針を立てて採掘量増大を勧めた。5鉱業が主力産業になるにつれ、太白・三陟・旌善などの炭鉱村は1950~60年の間、人口が3倍以上増えた。太白で成長した詩人のジョン・ヨンスは当時炭鉱へ寄り集まった人々のなかには、離農した農夫はもちろんのこと、山奥に住んでいた火田民も多かったと言う。住民がが増えるにつれ国民学校(初等学校)が足りなくて二部制の授業を行ったり、全校生が4千名を超えたある国民学校は青軍・白軍・紅軍の三つのチームに分けて、二日間に渡って運動会を行ったこともあると言う。6実際、太白は炭鉱産業のおかげで市に昇格された都市である。1980年代の太白市の人口は最大12万名に達した。
このような基調に変化が生じたのは1980年代後半、「石炭産業合理化」という名の構造調整が施行されてからであった。石炭ではない石油中心にエネルギー政策の転換が成されたのだ。その風景を詩人のジョン・ヨンスは次のように述べる。
1988年、全国347個に至る炭鉱は1996年に11個に、6万2259名の炭鉱労働者は1996年末、1万725名に減少するほど、廃鉱は速い速度で進められた。炭鉱村は石炭が唯一の産業だったので、恐慌期に陥るしかなかった。(…)江原道は石炭合理化事業が始まった1989年から1996年まで7年間166ヵ所の炭鉱が廃鉱し、3万余名の炭鉱労働者が職場を失った。(…)石炭が競争力を失いながら「産業戦士」と称えられていた鉱夫は一朝にして「非合理的」な身の上に転落し、産業戦士から産業ゴミへと用度廃棄された。7
詩人がぎゅうぎゅうと書き詰めたあの鉱山の数字には、「合理化」という名分によって職場を失った鉱夫とその家族の生計がかかっていたはずだ。なので「一時産業戦士と呼ばれた彼らが、一朝にして産業ゴミへと用度廃棄」されたと語る詩人の声には、憤りと共に裏切られたという感情が滲み出ている。命を担保にした鉱夫たちの労働を利用しつくしながら、その利用価値が無くなると急に居場所を無くした国家に向かう背信感である。
先述した、舎北の前の世代に向かったファン・インウクの嘆き、「いったいなぜ私たちだけこんなふうに生きるか」という不満には、ジョン・ヨンスの文章と共鳴する鬱憤が込められている。世の中は炭鉱地帯の困窮さなんかは気にせず、鉱夫たちの犠牲で資産を設けた人々は豊かで贅沢に暮らす。舎北を成す時空間はすべて変わったのに、事件の関係者たちは傷跡のなかに閉じ込められたまま、互いに反目し葛藤する。共生しようともがいても、生きていく出口が見い出せず、いったいいつまで加害と被害の桎梏に閉じ込められなければならないのかという嘆きなのである。
事件以後、40余年の年月が経つ間、被害者たちは老衰し、拷問の後遺症も深くなった。「ほこり、舎北を問う」をすでに知っていた観客ならば、「1980舎北」に至って避けられなく衰弱し病気になった気配を帯びる住民たちの姿に、胸が痛む心情を感じるしかない。そこで「1980舎北」の製作陣が舎北事件の原点、つまり互いにごっちゃになった加害と被害のしこりを正面突破しようと決心したのは、単に関連者たちの名誉回復を要求する次元だけではなかろう。それよりは絡み合っている罪責感情と怨恨のしこりを解きほぐして、日常的な共同体を作り直してこそ、始めて平凡な生活が夢見られることになるという理由がより大きい。
一時「過去事清算」と称された用語は、今日「移行期正義」(transitional justice)8と呼ばれる用語となった。2008年と2024年の二回に渡って舎北事件の関連者たちに対する人権蹂躙を認め、国家の謝りおよび損害賠償が行われるべきだと認めた真和委の決定は、移行期正義が具現された事例である。このように被害者に焦点が当てられた法的・制度的真相究明および救済手続きは無論絶対的に重要である。例えば「1980舎北」に登場する被害者のカン・ユンホは、舎北事件当時、武器庫を奪取したという濡れ衣を着せられて実刑を受けた。ドキュメンタリーの一場面でカン・ユンホは自ら命を絶とうとした瞬間があったと言いながら、恨めしい表情で紐束を取り出したりもした。無念な濡れ衣に対する憤り、壊された体とバラバラになった家族に対する悲観、世の中に対する幻滅などを抱えて苦しめられていた彼は、2022年の再審で無罪判決を受けた。歩くことさえ力のいる、病気の体となったにも関わらず、無罪判決を受けたとしてももう失ったものが戻ってはこないにも関わらず、彼は子供のように晴れやかな微笑みを浮かべながら喜んだ。
しかし、被害と加害がごっちゃになった状況では、そもそも法的・制度的接近さえ不可能な地点がある。そこで「1980舎北」の監督はその混沌をありのままに隠さず晒し、関連者たち同士の謝りと和解の場を設ける。ドキュメンタリーはアンギョンダリ戦闘で死亡した警察と怪我した警察の話を、拷問被害住民たちの証言ほど重んじて扱う。誰が見ても怪我が避けられない地形の投石戦で、降り注ぐつぶての中へ命令によってやむを得ず進んでいかなければならなかった警察の困惑さを照明する。当時、投石戦で頭に大きな怪我をして倒れたある警察は、自分を病院に移送して命を救ってくれた人物が鉱夫だったと証言した。彼は自分もまた、鉱夫の息子だと言いながら、自分を救ってくれた名の知らない鉱夫に感謝を示した。
またドキュメンタリーは集団リンチされた支部長の妻を含めて、性暴力に晒された女性たちの叙事に念を入れている。群衆の前にひっぱられて凌辱された支部長の妻は事件以後、死にたかったが、子供たちを育てなければならなかったので「生き抜いた」と証言した。一方、集団リンチに加わった嫌疑で警察に連行されて惨い拷問を受けた女性は、実は支部長の妻の乱れた着こなしが気の毒でズボンを正してあげた人である。彼女もまたその時間を耐えたことは同様であった。女性として彼女たちが耐えなければならなかったのは、拷問の後遺症だけではなかった。保守的な鉱山村で男性たちにリンチされた女人は、家族内でも独りぼっちとなった。警察に連行された女性たちがセクハラと変わらない拷問を受ける姿は、すぐ隣部屋で拷問されていた村の男性たちに目撃された。釈放以後、彼らには夫婦葛藤が生じ、家庭が壊れた。それで拷問被害の女性たちは子供のために死ねず、生き抜いたと同じ証言をするわけである。
ドキュメンタリーはこのような母親たちの苦痛を見守る息子たちの立場を並んで配置する。労組支部長の息子が自分の母親に感じた感情は、警察の惨い拷問を受け、また再び夫に冷遇される母親を見守った鉱夫の息子の感情と変わらなかった。ドキュメンタリーの結末でカメラは、労組支部長の妻に謝罪の手紙を書く鉱夫のイ・ウォンガプの姿を盛り込む。「1980舎北」の公開以後設けられた公開上映会では、当時怪我した警察と鉱夫たちが会う場が設けられた。45年ぶりの出会いであるとともに、被害者たちがもう一つの被害者と会って和解する最初の場であった。
法的・制度的真相究明の手続きとは別に、舎北共同体の心はその間胸深く溜めてきた不便なしこりを解き放そうとする和解のおかげで、ようやく開き始めた。45年間暗闇のなかに澱んでいた時間が、やっと現在に向かった出口に抜け出して真の過去として位置づけられ始めたのである。
4. 残留する存在の目で眺めること
立ち遅れて、だが私たちよりはずっと先立って舎北に尋ねた趙世熙は、「未来は私たちが選択すべき対象」であることを忘れてはならないと言った。9未来は私たちがやむを得ず従うべきの何かであってはならない。過去を現在に正当に呼び戻そうと最善を尽くしている舎北共同体を凝視すべきわけは、つまるところその至難な道程のなかに彼らがこれから作り出していこうとする、未来に対する希望がかかっているからであろう。
舎北事件を召喚する観点は、もちろん一次的に不法連行および拷問被害者たちの身元と名誉回復を主張することに合わせられるべきだ。「1980舎北」のカメラが老いて衰弱した姿で、それでも相変わらず同じ証言を繰り返す被害者たちの声を盛り込む理由は取りも直さずこのためである。だが、これと共に今日の舎北事件は、人間の生存を後回しにしたまま、産業の転換にのみ没頭する世相に向かった警鐘としても読まれるべきである。現在の時点から顧みる際、石炭産業の消滅は必然的な手順だったとも見なしうるだろう。しかし、当時炭鉱の数字を減らしたことはエネルギー効率のためでも、気候危機の観点からよりきれいなエネルギーを追求したわけでもなかった。石炭産業の規模が大きくなるほど、増え続ける労働者の規模のためであった。10舎北事件もまた、鉱山村で起こった労働者蜂起の一つの事例であったし、それで新軍部の立場では政権掌握の初期にその芽を摘もうとしたわけである。
廃鉱地帯を背景とした韓江(ハン・ガン)の長編小説『黒い鹿』(1998)には、この突然の産業の転換に空洞化した都市の風景に触れたくだりが登場する。荒涼とした都市に初めて入ってきた人々が言い出しそうな話に対して、そこに残った人物は答えている。
「追い出される時、頼るところがなく困惑だったでしょうが、全部廃鉱となったのがよかったです。どこで何をしても坑道よりはましでしょう。事故で死に、事故でなければ肺疾患で死に……死に、死に、死ぬよりは。」
「そうですかね」
前方を注視する張の横顔は物思いに沈んでいた。彼の太い声は響きの幅が大きかった。あたかも湿気を帯びたスピーカーから流れ出ているようだ。
「あなたなら、死ぬほどこき使ってから、必要が無くなったから何の対策もなしに追い出してしまうとどうでしょうか。」11
韓江は鉱山村の消滅を見ながら、ある場所があのように突然の変化が生じると、その際、そこで暮らしていた人々はどうなるのかという質問を小説で描いた。ある場所には厳然とその場所を居場所として生きていた人々が存在する。いかなる形の生であれ、彼らが生き抜くために注いだ時間と誠意とは、あのように簡単に「清算」されるわけにはいかない。
なので舎北事件を捉えなおす視線は、単に拷問被害者の法的救命を仕上げることで終わってはならない。人生のすべてを剝奪されたかのような地点においてもとにかく生は持続されるべきだ。「1980舎北」に絡み合っている怨恨を解きほぐし、しこりのある心が互いに通じるように努める理由は、取りも直さずそのためである。事件の被害者ではなく、もうこれ以上暗闇の時間に閉じ込まれない人間として現実に立ち、未来を夢見ることもできるべきだということだ。
要するに、舎北に対する応援は暴力的な産業化を追う間、見過ごされてきた残留する存在と目線を合わせる地点から始まって当然だ。舎北住民たちの苦痛は炭鉱地域の荒廃化、それによる生計の危機、産業災害と肺疾患など、幾重にも重なった困難さのなかでより加重された。そこで廃鉱地帯の地域再生に対する制度的な支援や、鉱産業の歴史に対する大衆の関心は、被害者たちの法的な救命ほど大事だと言える。このことが葛藤と傷跡でごちゃごちゃになった時間を踏まえて、進んでいくために最善を尽くしてきたある共同体の未来を応援する道である。(翻訳:辛承模)
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- 趙世熙、『沈黙の根』、悦話堂、1985、39~41頁。↩
- 全斗煥を中心にする新軍部勢力の非常戒厳令宣布により、司法権が軍法会議に移ることになり、1980年舎北事件の関連者28人は戒厳普通軍法会議に回付された。↩
- 監督として作中語り手として登場するイ・ミヨンによると、このドキュメンタリーは1997年大学時代、たまたま旅立った炭鉱村旅行から始まったという。撮影は2000年に終了したが、一年後、舎北住民たちが名誉回復の宣言に乗り出すことにしたという連絡を受けて、当の過程まで引き続き撮影を終えた後、2002年に公開された。2026年5月現在の基準でユーチューブチャンネル「On Film」で視聴できる。(youtu.be/5y7HB9C9PFM?si=yygtNZBfaLc9MWzw) ↩
- このことは警察の死亡や労組支部長の妻に対するリンチ事件など、被害者が加害者に変わる混沌について選択的に沈黙してきた舎北事件の歴史のなかで十分類推できることである。1980年代末、炭鉱労働が小説化し始めた頃発表された金鐘星(キム・ジョンソン)の短編小説「運炭」(『炭』、未来社、1988)は、選択的沈黙の事例となる。この小説は鉱夫の息子として育った作者が体験に基づいて書いた小説で、舎北事件をモデルにして鉱夫たちのスト闘争を取り上げるが、御用労組支部長の妻に対するリンチ事件は抜けている。一方、崔銀美(チェ・ウンミ)の短編小説「キム・チュンヨン」(『創作と批評』2025年夏号)は加害と被害の構図を照明する新しい視角を示している。作者は舎北地域で酌婦として働いた女性被害者を登場させて、「鉱夫とその家族」という範疇から排除されたもう一つの被害者の領域が存在しうることを物語っている。↩
- 金アラム、「1960~1970年代における石炭産業政策と東原炭座」、『歴史問題研究』42号、2019、32頁。↩
- ジョン・ヨンス、『炭鉱村風俗物語』、ブックコリア、2010、26~29頁。 ↩
- 同書、351~354頁。↩
- 過去の不正義を正すという点で「過去事清算」と同じ意味だが、「移行期正義」は共同体の新たな始まりを強調するという点で「断絶」ではない「連続」に焦点を当てた概念である。事例によって変わりはするが、だいたい「謝罪―容赦―和解」あるいは「真実―正義―賠償―再発防止」などを主な概念にして、被害者の確定と被害補償などを法的に制度化する作業が成される。だが、最近は「移行期正義」概念が制度的な硬直性や狭小な被害者規定に閉じ込められていると見なして、構造的暴力と歴史的不平等を根本的に改革する「変革的正義」へと取って代わろうとする提案が提示されたりもする。チェ・ジョンギ、「5・18民衆抗争と歴史作り」、214次創批セギョフォーラム資料集、2026.5.8、4~5頁;チェ・ジョンギ、「5・18民衆抗争の歴史性」、創批週間論評、2026.5.12参照↩
- 『沈黙の根』、13~16頁。↩
- ティモシー・ミッチェル(Timothy Mitchell)は石炭産業から石油産業への移行を、炭鉱―鉄道―運送労働者たちへつながる集団闘争に対する国家および企業の対応として読み取る。石炭が採掘から運送・荷役に至る多くの労働力を必要とするに比べて、石油は各段階に介入する人力が著しく少なくなる。もちろん石油企業の労働者たちのストもあったが、石炭産業のように強力なネットワークを成す政治的力は出せなかったということである。ティモシー・ミッチェル、『炭素民主主義』、エネルギー気候政策研究所訳、センカクビヘン(「考えの飛行」という意味の韓国語―訳注)、2017、42~63頁。 ↩
- 韓江、『黒い鹿』、改訂版文学ドンネ、2017、230~231頁。↩