창작과 비평

東アジア論と 近代適応・近代克服の二重課題

特集│韓半島における近代と脱近代

 

 
 

白永瑞 (ペク・ヨンソ) baik2385@hanmail.net

延世大史学科教授, 中国史. 著書に『東アジアの帰還』 『東アジアの地域秩序』(共著),編著に『東アジア人の「東洋」認識:19∼20世紀』などがある。

 

 

1. 韓国発の東アジア論を振り返る

韓国と日本では言うまでもなく、東アジア的な視覚に欠けていると批判されてきた中国大陸でさえ、この頃、東アジア談論が活気を帯びている。孫歌の言葉を借りると、「今までに見られなかったようなアジア論の豊作時代」孫歌 「なぜ‘ポスト’東アジアなのか」, 孫歌・白永瑞・陳光興 編 『ポスト‘東アジア’』, 作品社 2006, 119~20頁. 韓国語訳は、孫歌 「ポスト東アジア叙述の可能性」, 翰林大アジア文化研究所編 『東アジア経済文化ネットワーク』, 太學社 2007, 71頁.に生きているわけである。 特に韓国では今、「東アジア談論」が盛んになって、「韓国社会の主流談論である民族談論と統一談論に並ぶ、新しい知的公論として談論権力を得ている」と評価されるほどである。張寅性 (チャン・インソン) 「韓国の東アジア論と東アジアのアイデンティティ」, 『世界政治』 第26輯 2号, 2005, 4頁.

筆者は1990年代の初めから東アジア的な視覚の重要性を唱えながら、東アジア談論の拡散に一役を担ってきたが、その理論的・実践的作業は韓国を始め、東アジアの知識人社会で一定の注目を浴びた。筆者の東アジア論は、個人の作業であると同時に(季刊『創作と批評』の談論の一つとして見なされるように)、集団作業の所産でもある。これを詳しく分析した最近の研究としては、朴明圭 「韓国における東アジア談論の知識社会学的理解」, 金時業(キム・シオプ)ほか編『東アジア学の模索と志向』, 成均館大学校出版部 2005; 張寅性, 前掲論文; 高成彬(コ・ソンビン) 「韓国と中国の‘東アジア談論’: 相互連関性と争点の比較および評価」, 『国際地域研究』 第16巻 第3号, 2007; 任佑卿(イム・ウキョン) 「批判的地域主義としての、韓国の東アジア論の展開」, 『中国現代文学』 第40号, 2007.  そしてこれまでの作業に対して「マルクス主義と民族主義に対する反省」から出た「変革理論としての東アジア」とか、「民族主義と民族談論、統一運動の後続物として出現した省察的東アジア論」「実践課題としての東アジア」「批判的地域主義」または「穏健な色の東アジア」というふうに評価されたりもした。引用の順番に沿って、河世鳳(ハ・セボン) 『東アジア歴史学の生産と流通』, 亜細亜文化社 2001, 18頁; 張寅性, 前掲論文 9頁; 馬場公彦 「ポスト冷戰期東アジア論の地坪」, 『アソシエ』 No. 11, 2003, 51~52頁; 任佑卿イム・ウキョン, 前掲論文; 朴露子 『私たちが知らなかった東アジア』, ハンギョレ出版 2007, 13頁.

ところで孫歌は、流行の風潮に巻き込まれて常套化しやすい観念的東アジア論を内在的に「否定」しようとする意図で「ポスト東アジア」という用語を提起しながら、「歴史の流動性において生きている東アジアをスケッチする」ことを提案したことがある。孫歌, 前掲論文, 韓国語訳は77頁, 日本語本は123頁. また、米谷匡史は東アジアの連帯と解放という名のもと行われた暴力に対する、徹底した自己省察なしに国家と資本によって試みられる東アジア地域秩序の統合を批判しながら、新しい連帯の関係性を開くために「ポスト東アジア」を掲げる。 米谷匡史 「ポスト東アジア: 新たな連帶の條件」, 『現代思想』 2006年8月号. 彼女の問題提起、そして筆者の作業に対する様々な論評に含まれている批判を読みながら、筆者の東アジア論を顧みる必要性を感じていたところである。そこで本稿を以って東アジア談論の主要争点を中心に、筆者の問題意識を整えてみたいと思う。

まず、ここで強調したことは、人文学と社会科学を統合した接近方式である。振り返ると、1990年代の初め、韓国で最初東アジア的な視覚を重んじた人々は主に人文学者であった。彼らは1989年以後変化した国内外の状況、つまり国内の民主化進展と世界的な脱冷戦の状況に合わせて新しい理念を模索する過程で事実上、「東アジア」を発見し、そこから新しい理念と文明的可能性を見出そうとした。勿論、90年代の初めから一部の社会科学者たちが東アジアの新興発展国家(NICs)を説明するために、「発展国家」(developmental state)論を援用し儒教資本主義論を持ち込んで東アジア談論の一つの流れを形成した。その後、アジアが経済危機を経て1997年「ASEAN+3」の体制が出現すると、より多くの社会科学研究者たちがこのテーマに飛びついて、政治・経済領域で国家間協力体を構築することに関心を持ち始め、東アジア談論はより一層具体化し豊かとなった。

ところが、両者の議論は大体、平行線を走りながらたまに交差するだけであった。人文学者たちは主に文化や価値領域に関心を注いだり、東アジア共同体について語るとしてもそれを東アジア市民が自ら推し進める人格的紐帯・結合のユートピアとして想像し、その実践の道を模索する傾向にあった。人格的な個々人の自発的結合体である共同体(community)は前近代の時期に小規模の形で存在したが、それが解体された近代社会でも共同体的人間関係の再構築を追い求める動きのなかからしばしば再解釈される。共同体の理念を国家を超えた地域のレベルで具現しようとするのが広い意味での、また人文学的意味での東アジア共同体といえよう。これに対して、社会科学者たちは狭い意味の、または政策学的な意味での東アジア共同体に注目する。彼らは国家や資本が主導し政治・経済領域で日増しに緊密に相互依存する地域的現実(つまり地域化)と、それに基づいた地域協力体制の制度化(地域主義)を分析するに偏る傾向がある。従って、これからの東アジア談論はこのような分岐現象を止揚した統合的な視覚を堅持すべきであろう。それこそ、地域化と地域主義の具体的現実に効果的に介入しながら、それが人間らしさをより充実に具現する地域的共生社会、すなわち真の意味での東アジア共同体へと向かっているか批判的に点検することも、まともに成し遂げれるのではないかと思われる。このような筆者の立場は、人文学者と社会科学者との、相反する批判に対する対応である。中文学者の李政勳は、筆者の東アジア論が「80年代風の批判談論に対する自己批判」から始まったが、今は中心が移って「現実に深く介入しようとする実践的努力とナショナリズムおよび国家への「帰還」あるいは「傾倒」の間の微妙な分かれ道に立ってい」ると評価する。「批判的知識談論の自己批判と東アジア論」, 『中国現代文学』 第41号, 2007, 9頁. 一方、政治学者の高成彬(コ・ソンビン)は「単に知的な想像での規範的で思弁的な研究を超えて、現存する具体的な政治経済、社会的問題と関わり合わせる」方向へと進むべきだと注文する。高成彬, 前掲論文 62頁. 筆者は人文学的接近と社会科学的接近が、相互対照と相互浸透を経て統合の方向へ進むべきだと思う。

これと共に、この論考を貫くいまひとつの問題意識は「近代適応と近代克服の二重課題論」(以下、二重課題論)と東アジア論を繋げることである。90年代の初め、崔元植(チェ・ウォンシク)が「盲目的近代追求と浪漫的近代否定」を共に乗り越えるために、東アジア的視覚を提起したことがあるように、 近代に対する抜本的な問題提起は最初から東アジア論の核心をなす。それは7,80年代の民族民衆文化論が自己反省と新しい模索を図る最中、民衆の立場で当面した課題が取りも直さず全世界の課題であることを悟る、第3世界的視覚白樂晴(ペク・ナクチョン)の次の言及が第3世界的意識の核心を克明に示してくれる。「民衆の立場から見る際――例えば、韓国民衆の立場から見る際――自らが第3世界の一員だという話は、何よりも彼らの当面した問題がつまり全世界・全人類の問題だという言葉で重要性を帯びるものである。すなわち、世界を三つに分けておく話だというより、むしろ一つに括って見ることにその真意があるのである。」 白樂晴 「第3世界と民衆文学」, 『創作と批評』 1979年秋号 50頁. 同じ問題意識は、崔元植 「民族文学論の反省と展望」, 『民族文学の論理』, 創批 1988からも見られる。崔元植は特に「第3世界論の東アジア的様式を創造する時こそ、われわれの民族文学論も豊かな現実性と真の先進性が獲得できるはず」と力説した。(368頁) と出会ってこそできたことである。

二重課題論は今、わが論壇で少しずつ共感を呼び起こす最中である。『文化科学』 2000年夏号の特集が「近代・脱近代の争点」で飾られた。また、金聖甫(キム・ソンボ)は近代の「適応と克服」と区別して「拡張と止揚」という表現を使っている。金聖甫 「脱中心の世界史認識と韓国の近現代史省察」, 『歴史批評』 2007年秋号, 245頁. しかし、近代適応と近代克服が二つの性格の単一課題であることを明確にした二重課題論二重課題論の進化過程は、白楽晴 「朝鮮半島における植民性の問題と近代韓国の二重課題」, 『創作と批評』 1999年秋号; 「21世紀韓国と朝鮮半島の発展戦略のために」, 『韓半島風の統一、現在進行形』, 創批 2006参照. 二重課題論が台頭した意義について、宋承哲 (ソン・ソンチョル)は「学界の見解が一方では近代論と脱近代論に硬直して両分され、もう一方では民主化達成の道程で重視された経験と価値が急に古いものと見なされる状況下で、脱近代的な新しさは、新しいものとして認めながらも民主化のために戦った時代の価値を全地球化の状況のなかで発展させようとしたところ」と指摘する。宋承哲 「市民文学論から近代克服論まで」, 薛俊圭(ソル・ジュンギュ)・金明煥(キム・ミョンファン)編 『地球化時代の英文学』, 創批 2004, 248頁. は、近代と脱近代の単なる二分法を超えて、両者を同時的な課題にしようとする問題意識に留まるものではなく、世界史的近代に対する冷静な認識と分断体制の克服という実践的志向が結び付けられた、より複合的な思考だといえる。

筆者は二重課題論が抱えているように見える二律背反性や抽象性の問題を乗り越えていくためには、時空間に対する多層的な認識が求められることを強調したいと思う。つまり、地球的規模の長期的な時間帯に渡った議論と、中・小規模の地域、中・短期の課題を同時に思考しながら、一貫した実践で結び付ける作業がそれである。ここで東アジア論と二重課題論が出会い、これを通じて地域主義的でありながらも世界史的な次元の普遍的志向を堅持することができる。

 

2. 竹內好の「近代超克」論から救い出せるもの

二重課題について究める際、まず参照できそうな東アジアの思想的資源の目録に、日本の「近代超克」論がある。90年代の初め頃、崔元植は東アジア的視覚を提起しながら近代超克論に注目して戦争イデオロギーに転落した面と同時に、「西欧的近代を越える新しい世界形成の原理を模索しようとした問題意識」の両面性を読み取ったことがある。崔元植 「脱冷戦時代と東アジア的視覚の模索」 414~15頁.竹內好(1910~77)は、近代超克論には「解つたような解らぬような曖昧なところがある」と述べた。彼の言った「その曖昧さの発揮する魔術的効力」竹內好, 徐光德(ソ・クァンドク)ほか訳 『日本とアジア』, ソミョン出版 2004, 87頁.(以下竹內好の日本語原文引用は『日本とアジア』、ちくま學藝文庫, 2007による。)から、果たして今の私たちは何を得ることができようか。

「近代の超克」はもともと1942年、雑誌『文學界』の9-10月号に載せられたシンポジウムの問題意識を指すものであるが、広い意味では同じ時期、いわゆる京都学派によって『中央公論』で繰り広げられた三回の座談(1941~42)の「世界史の哲学」までをも含める。それは具体的な思想としての体系を備えられなかったまま、大きな問題意識を示したところで留まった抽象的な談論であったが、敢えて要約すると日本がすでに近代化を成し遂げたと前提し、そのモデルである西欧的近代とその変種であるソ連共産主義をすべて超える新しい世界史の原理を探す理論的・実践的作業であった。議論の参加者たちは議論の過程で東洋的なもの、特に日本的なるものの中から理想形を見出し、日本的なるものを単に理想的な過去ではなく、現実の天皇制国体と同一視した特徴がある。シンポジウムの参加者である鈴木成高の次のような発言は、近代超克の内容を簡潔にまとめている。「近代の超克とは、政治では民主主義の超克、経済では資本主義の超克、思想では自由主義の超克を意味する。 (…) 日本の場合、近代の超克という課題は、世界を支配するヨーロッパの超克という特殊な課題と重なるので問題はより一層複雑である。」廣松涉, 金杭(キム・ハン)訳 『近代超克論』, 民音社 2003, 16頁. 太平洋戦争の最初、欧米に対して収めた勝利に酔い、戦争勝利後の世界経営を考えていた知識層にとって近代超克は、「世界制覇という議論の次元よりずっと高くて高尚な理念と関わる」志向性の象徴として共感を呼び起こしたので、知識人はもとより、「大衆を思想的に魅了した」という。上掲書 222頁.

敗戦直後、この議論は日本帝国主義の戦争イデオロギーとして忌避対象であった。その遺産を復権しようとした人が竹内好である。彼は近代性に対する論争である近代超克論を、「日本近代のアポリア」が太平洋戦争で一挙に問題として爆発したものだと見なした。すなわち、明治維新以来の復古と維新、尊王と洋夷、鎖国と開国、国体保存と文明開化など、解決を要する数多くの二項対立の「凝結」がアジアに対する植民地侵略戦争であり、欧米に対立する帝国主義間の戦争という二重性を持つアメリカとの戦争をつうじて現れたのである。従ってシンポジウムでの問題提起はその時期上、正当であったし、だからこそ知識人たちの関心を引き付けることもできたわけだが、アポリアそのものを正面から議論するのに失敗したことによってアポリアは恰も「雲散霧消して」、近代超克論は戦争イデオロギーへと転落したと診断した。竹内, 前掲書 136頁. 彼が試みたのは、そのシンポジウムが結果的に作り出したイデオロギーから思想を抽出する作業であった。戦争で汚染され、イデオロギーとして見なされた論争から日本の近代性に対する批判的談論を分離し出そうとすることは、戦後の思想界の潮流に照らしてみる際、危うい行為、実に「栗を拾い出すために火の中へ飛び込んだ」ことにほかならない。

彼がこのような思想史の書き直し作業を敢行した理由は、韓国戦争が示しているように戦争の危険が常に存在している1950年代と60年代初めの冷戦秩序のなかで、アメリカの影響下で近代化を加速的に推し進めていた戦後の日本を批判するためであった。特に1960年の日米安保協定締結に反対する闘争に参加しながら、戦争に対する不感症と戦争責任に無関心となっていく当時の日本を追い詰めるため根本的な問いを投げかける必要性を感じたのである。それでは近代超克論を批判的に検討するためにそのアポリアを核心的課題とした彼が、その解決策として見出した道は何だったのであろうか。その道は近代日本でアジア的な原理を志向する「伝統」(つまりアジア主義)を新たに構成することである。このように原理とか伝統が実体として現存するものではなかったので、「方法としてのアジア」という発想が現れる。アジアを実体化しなかったお蔭で、幅広く共感を得ている同じような発想として、筆者の「知的実験としての東アジア」の他に、陳光興の「アジアを方法とする」, 孫歌の「機能としての東アジア」, 子安宣邦の「方法としての東アジア」などがある。この用語と関わるくだりは次のようである。

 

西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点になっている。 (…) その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。前掲書 168~69頁, 強調は引用者.

 

彼にとって近代克服の道である「方法としてのアジア」とは、日本が近代化する間、抑圧された民衆の実践と思想を再統合する道、つまり抵抗する主体の形成である。そのモデルがすでに中国革命で実例として現れたのである。これに比べて西欧ブルジョア社会が作り出した文化規範を不批判的に受け入れた日本の近代は「奴隷の進歩」でしかなく、これがヨーロッパと共に日本を植民地主義と侵略戦争へと駆り立てたにも関わらず、戦後も続けて圧倒的な支配力を持ち得たのである。このように彼は近代の「進歩」が抱えている支配性と暴力性は避けにくいものであることを明確に見抜いて、だからこそ「道のない道を行く」ことを覚悟しなければならないこの近代に対する抵抗だけが、日本が加害責任を受け入れる道だと認識した。

 

ある意味で、彼の作業は「消え去りつつあった日本革命を起こすための行動」であったかも知れない。しかし、その試みは、1940年代のシンポジウムの近代超克ビジョンが戦争で挫けられたように、1960年代以後、日本の高度成長によって敗れてしまった。H.D. ハルトゥー二アン(Harry D. Harootunian) 「見える談論/見えないイデオロギー」, ハルトゥーニアン(Harry D. Harootunian)・マサオ・ミヨシ(Masao Miyoshi)ほか編, クァク・ドンフン ほか訳 『ポストモダニズムと日本』, 視覚と言語 1996, 106, 115頁. ところがこの頃、全世界的に竹内好に対する積極的な評価が静かに広まっている。彼が提起した近代主義批判が近代日本の存在様式に対して根本的な質問を投げかける一つの姿勢として、日本国内で注目されるに留まらず、中国を始め東アジアと欧米でも一元的な進歩主義の近代観から切り抜けられる思想的資源として検討され始めたのである。鶴見俊輔・加々美光行 編 『無根のナショナリズムを超えて: 竹內好を再考する』, 日本評論社 2007. 2004年、ドイツで竹内に関する国際シンポジウムが開かれ、竹内選集のドイツ語翻訳版も出された(138頁). 中国の受容状況については85頁を参照. その他にカリチマン(Richard F. Calichman)が編訳した英訳本 What is Modernity?: Writings of Takeuchi Yoshimi (Columbia University Press 2005)も刊行された。台湾では『臺灣社會硏究』 66期(2007年6月)に小特集が載せられている。

わが論壇では主に人文学者たちが彼に注目している。ところで竹内を再解釈した孫歌の視覚を通じて、彼の思想に接近する傾向が窺われる。李政勳(イ・ジョンフン)が批判的知識談論を再構成するため、知識人の「自己批判」または「主体の内在的自己否定という原理」を竹内から救い出そうとしたのが、その一つの例である。李政勳, 前掲論文. このような孫歌の竹内読み直しに対して、白池雲(ペク・ジウン)は竹内が主体形成のため日本ナショナリズムとアジアの間でギリギリの曲芸をしたのに対し、孫歌は竹内の作業に現れたこの危うさの契機を飛び越したのではないかと追い詰める。孫歌が「自己否定〔掙扎〕」という魯迅のモチーフを主に活用して、竹内の思想を「脱近代的『東アジア思想』という安全地帯へ運搬」する偏向を示していると白池雲が指摘したことは、傾聴すべきくだりである。要するに竹内の思想をそのように「抽象的な歴史哲学として普遍化すること」は再考しなければならないという意味である。白池雲 「竹內好というアポリア」, 『創作と批評』 2007年夏号.竹内の文が大抵現実に直接対応して出た、状況性の強い話であることを私たちが忘れてはならない。ここで自己否定がつまり、竹内の言う「抵抗」であるが、それに媒介されたのが「相手を変革し自分も変化すること」としての「運動」竹内, 前掲書 33頁. であることが思い出される。

また竹内を読むと、筆者の東アジア論の一要素である「二重的周辺の視覚」拙稿 「周辺から東アジアを見るということ」, 『周辺から見た東アジア』, 文学と知性社 2004. も再び考え直させられる。竹内が近代克服のため「抵抗するアジア」を脱中心的主体として設定した問題意識は、脱冷戦期の状況で提起された「二重的周辺の視覚」と相互補完的であり得るのではないか。それは西欧中心の世界史展開で非主体化の道を強いられた東アジアという周辺の目と、東アジア内部の位階秩序に抑えられた周辺の目が同時に必要だという問題意識である。筆者の言う中央と周辺は、単に地理的な位置を指すものではなく、自分が周辺でありながらより一層の周辺的な部分に対しては中央となって、その周辺を差別し抑圧するといったふうに、両者が限りなく連鎖の輪を作りながら抑圧を移譲する価値論的次元の関係を意味する。この視覚から見ると、「中央と周辺の関係で差別と抑圧が無限連鎖をなしており、その中から自分の位置を発見し中央と周辺の視覚を確立することはその連鎖が無限である以上、無限の努力を求める。そういう意味で周辺の視覚を持つということは、つまり支配関係に対する永遠の挑戦であり闘争である。」前掲書 18頁.

この点で「二重的周辺の視覚」が竹内の「自己否定」とも通じるといえよう。東アジアで歴史的に形成された脱中心的(筆者の「周辺的」)主体の内在的な批判性を発掘して近代を克服する動力を確保しようとする点では、互いに一致する。ただ、周辺を特権化する危険から逃れるために中心と周辺の関係を脱歴史化しないで、歴史的脈絡(特に世界体制の位階秩序)の中に位置させて近代世界を総体的に見直すという点、そしてそれを通じて近代適応と近代克服の二重課題をなしおえようとする点で相違がある。

 

3. 東アジア共同体: 中短期的効果と長期的展望

先ほど、「二重的周辺の視覚」を提案しながら中心と周辺の関係を歴史的脈絡、特に世界体制の位階秩序の中で具体的に分析すべきであることを強調した。ところでその説明力を高めるためには、複合的で重層的な時空間に対する認識が必要である。

まず、国民国家中心の思考を克服するために、歴史的時空間の概念の有用性に注目した朴明圭(パク・ミョンギュ)の論点を検討してみよう。彼は私たちの思考を支配する国民国家的時空間を絶対化しないながらも、直ちに「長期的―地球的」時空間へ移されない中間的時空間、つまり「局面的―地域的」時空間としての東アジアの重要性を浮き彫りにする。それは「国民国家を超えた地域秩序の空間と数十年の中期的時間帯が出会う範疇」として、「複数の国民国家が独自的な地政学的・文明論的条件を共有し、互いに影響し合いながら存続してきた時空間」である。朴明圭 「21世紀韓国学の新しい時空間性と東アジア」, ソウル大学校開校60周年および奎章閣創立230周年記念韓国学国際学術会議, 2006, 422頁; 朴明圭 「複合的政治共同体と変革の論理」, 『創作と批評』 2000年春号.

このような「局面的―地域的」時空間の範疇を通じて筆者の東アジア論がうまく説明できると思われる。国民国家中心の時間観の限界を乗り越えるだけでなく、国民国家形成過程で周辺的な存在として無視されてきた主体を新たに見出せる空間観が可能となる。ところが、ここで注意すべき点がある。それは空間の大・中・小と時間の長・中・短が必ずしも一致するとは限らないという事実である。東アジアとは地域的範疇そのものだけでもその対象範囲を巡って、しばしば論難となるだけでなく、この地域が世界と朝鮮半島の間の中間規模に当たるが、だからといって、これを単位とする作業が朝鮮半島と世界体制レベルの課題の間で「中期的課題」としてだけ位置づけられるものでもないからである。従って私たちに本当に緊要なことは、複合的で重層的な時空間に対する分別が、その各々に沿う課題を別々に分離するのではなく、「正反対に同時に遂行すべき多様な次元の課題が短期・中期・長期にわたって、それぞれ別に成し遂げられるべき性格であることを正しく認識し弁えて、その課題を解決しようとする私たちの努力が相反しないで理論的統一性と現実的対応力を高めようとする」態度である。白樂晴 『韓半島風の統一、現在進行形』, 創批 2006, 244頁.

要するに、地球的規模の長期的な時間帯にわたった展望と、中・小規模の地域、中・短期の課題とを同時に思考しながら一貫した実践で結びつけるべきだということである。

筆者は韓・中・日の3国で現在進んでいる東アジア共同体の議論を比較しながら、「それを追い求める人々の期待通り、平和の共同体として実現されるためには、この地域を構成する国民国家の外でなされる国家間の統合過程と、国家内で構成員個々人の参加を極大化する方向への内部改革の過程が双方向的に動いているか」を基準にして各々を捕らえてみたことがあ。  以下の内容は、拙稿 「平和に対する想像力の条件と限界: 東アジア共同体論の省察」, 『市民と世界』 第10号, 2007参照. 日語訳は「平和に対する想像力の条件と限界:東アジア共同体論の省察」 『別冊世界』, 第764號, 2007.4 参照. 言わば中・小規模の地域、中・短期の課題を同時に思惟しながら一貫した実践でつなぎ合わせるという意味で試みたことであるが、事実上、この意図が十分に具体化されなかっただけでなく、地球的規模の長期的な時間帯との関連については、殆ど注意を注ぐことができなかった。以下では東アジア共同体をめぐる理論的・実践的作業のいくつかの論点を再検討したいと思う。

今、東アジアの政府が主導する(筆者が先述した)狭い意味の東アジア共同体に対する議論と実践に現れた最初の共通点は、経済統合が推進力として働くということである。今ひとつの共通点は、大抵アメリカとの関係を優先視しながらも、そのような構造的制約の中で東アジアの相対的自律性を確保するため、多者主義(multilateralism)を重んじる開かれた地域主義と重層的地域秩序を追い求めるということである。このような共通点は、東アジアが冷戦期の分裂した地域から脱して、統合された地域を自ら作り上げていくことによって平和と繁栄を成し遂げようとする努力の所産である。1990年代に入って陣営間の対立が終息するにつれて各陣営の内部結束が緩んでいる東アジアの変化した状況が、そのような方向性を許容し、求めているのである。

ところでこのような共通点の裏面には地域共同体を推し進めるに際して、各国がどんな役割を遂行するかをめぐってその違いも確かに存在する。これは政府レベルの地域統合が主導権の誘惑から自由でないが故に避けられないことかもしれない。各政府としては地域利益と国家利益が衝突する場合、国家利益の観点を選ぶ可能性が高い。さらに東アジアでは国家同士の間に大きな国力の差があるため、その分、葛藤の余地はより多く、平和の可能性はより少なくなることもあり得る。

このような東アジア共同体の進行状況を指して姜來熙(カン・ネヒ)のように、「東アジアという視野が国家とエリートによって独占されている状況下では東アジアに連帯(つまり、地域共同体―引用者)が立ち上がるとしても、解放よりは支配の効果を生む公算が高い」姜來熙 「東アジアの地域的視野と平和の条件」, 『文化科学』 2007年冬号 95頁. と、中長期的に悲観的な展望を抱くこともあり得る。しかしその見解は、「ASEAN+3」国の東アジア協力体の推進が、たとえ典型的な勢力均衡の思考方式から出たものだとしても、世界秩序における強大国の支配を牽制しようとする趣旨から始まったことを無視している。筆者は狭い意味での東アジア共同体が形成されるだけでも、中・短期的に東アジアで垂直的地域秩序が水平的地域秩序へと変わり、アメリカ覇権主義に亀裂をもたらすのに効を奏することと予想する。この点は「新冷戦秩序」が渡来していると現実を診断する日本の保守派が、東アジア共同体のような「アジアの共生」や「地域の平和」を主唱する努力を、「日米同盟」から「日米分断」へと導く「工作」だと警戒しながら「21世紀型の新しい保守勢力の連携」中西輝政 「生命線は日米韓‘保守派’の連携にあリ」, 『正論』 2007年5月号.を唱えるところから反証されるのではないか。

勿論、姜來熙の強調しているものは、国家とエリートによる東アジアではなく、下からの東アジア、すなわち「民衆的国際連帯」による東アジアである。朴露子(バク・ノジャ)も「急進的・階級的な解決展望」に力点を置いて「下からの連帯」を提案する。筆者もまた、地域形成の行為者として、国家のみを念頭に置かず多様な民間勢力も重んじながら、特に政府レベルの国際的協力と市民社会レベルの国境横断的連帯という二つの層を、「民主的な責任」(accountability)を媒介としてつなぎ合わせることに主眼を置いてきた。拙稿 「平和に対する想像力の条件と限界」. 国家の役割を排除したまま、色んな領域で交流が積み重なったら共同体が形成されると信じる機能主義的発想や、国家は正しい役割が果たせないといって民衆連帯にだけ頼る根本主義的観点と距離を置くためである。

ここでは「民主的責任」を強調するに留まらず、共治(governance)という発想を取り入れて、真の意味での東アジア共同体を成し遂げる道を探ろうと提議したい。国家、市場、市民団体のような行為主体たちが協力的なネットワークを構成して、共同の目標を成し遂げるためパートナーシップを形成する過程とその制度化を指して言う共治という概念は、東アジア地域形成の行為主体たちに対する、より柔軟な思考を可能たらしめることと期待される。

またもう一つの論点は、真の意味での東アジア共同体の形成が地球的規模の長期的時間帯の現段階である新自由主義の時代にどんな影響を及ぼすかである。この問いと関連して、東アジア共同体のような地域単位の構想そのものに対する懐疑的な視覚も少なくない。国境のない世界を主張する新自由主義の陣営はさて置いても、反新自由主義の陣営や、脱民族主義の陣営もこの点では意見を共にする方である。全般的に前者が民衆主体を根拠に新自由主義を批判するとしたら、後者は民族・国民というコードの中に内蔵した権力のメカニズムを告発するに留まっている。柳在建(ユ・ジェゴン)は、彼らが世界体制変革の動力と主体を単純化していると批判する。その根拠は世界の地政学的な分裂に対する認識である。アメリカ・ヨーロッパ・東アジアという独自的な動力を持つ三つの地政学的分裂を通じて、統合的に作動する世界で東アジアがまだ流動的な状態にあるが、「ある種の代案的共同体をまともに形成する際持つこととなる世界体制変化の潜在力は想像以上に大きい」と彼は展望する。柳在建 「歴史的実験としての6・15時代」, 『創作と批評』 2006年春号 285頁. 東アジアがこのような創造的役割を誠実に受け持つなら、この地域で垂直的地域秩序が水平的地域秩序に変わるだけでなく、従来の典型的な追い付き型開発独裁体制の開発主義パラダイムを乗り越える、代案的パラダイムが可視化されることは明らかである。

ところでこういう議論が説得力を持つためには、先述したように東アジアを構成する国民国家間の統合と連動して、個別国家の内部改革が進まなければならない。統合過程に適応するため、個別国民国家の機能がそれぞれ革新されるべきであることはもとより、国民国家内部の多様な行為者たちの利害関係を整え、彼らの参加を保障する改革過程が順調に進めば進むほど、統合はその分、もっと促進されるからである。

このような国民国家の内外における双方向的な作用過程で、地域統合が個別住民にとっていかなる意味を持つか、日常生活で実感として悟ることとなる。一昨年(2006年)からわが社会の熱い争点となった韓米FTA問題は、私たちに正しい地域統合とは果たして何なのかを問い詰めてみる機会を提供してくれる。筆者はアメリカとの包括的なFTA締結が、韓国社会をアメリカ風の基準(すなわち、金融資本主義と市場万能主義を要諦とする新自由主義的世界化)に合わせるように強いて、不均衡な圧縮成長をもたらす急激な統合だと見て、それに反対する側である。だからといって、すべての経済統合を反対するのではなく、韓国社会の「両極化」解消と同伴成長に照応しながら、東アジア経済共同体の実現に役に立つ「韓国型開放発展のモデル」を代案として熟考する立場を支持する。ただし、ここでの論旨と関連して強調したいことは、FTAを含めた経済統合の様々な類型と段階のなかで、どれが当てはまるかを朝鮮半島全体の視覚から見てみながら、その中・短期的効果と長期的展望を同時に考慮すべきだということである。それと共に、開放水準と社会政策の水準が合致する方向へ経済統合を推し進めることも大変重要である。そこで開放と制度改革による葛藤に、調整能力を発揮できる共治モデルの確立が必要である。勿論、これは容易いことではない。しかし、私たちが事案によって時には闘争し、時には合意をなす事例を蓄積していく過程のなかでそのモデルを作っていくしか方法はないのではないか。そして、その経験が東アジアの規模として広がると、域内の共通懸案である地域内の格差と国家間の葛藤を解消し、世界化の弊害を最小化する地域レベルの共治モデルも可能となるだろう。FTAの様々な類型と段階に対する全般的な議論は、崔兌旭(チェ・テウク)編 『韓国型開放戦略: 韓米FTAと代案的発展モデル』, 創批 2007参照.

こう見るとき、各国で進んでいる改革過程の実像を一つ一つ具体的に点検し、相互比較することが求められるが、ここでは朝鮮半島での統一と連携した総体的改革過程で浮き彫りにされた、新しい複合国家建設の問題を検討することに集中したいと思う。これは単に筆者の生活の拠り所が韓国だから、特に関心を注ぐというより、分断された朝鮮半島は世界レベルの覇権的支配体制の重要な現場であるこそ、ここでの複合国家の出現は世界的レベルの抑圧体制に対する攻撃でありながら資本主義世界体制の変革の触媒になれると期待しているからである。

 

4. 分断された朝鮮半島における複合国家論

複合国家について本格的に取り上げる前に、国民国家の役割に対する筆者の見解をもう少し明確にしておきたい。この頃、私たちの論壇で脱近代論が流行りながら国民国家に対する否定的な視覚が勢いを得ているようである。これに照らしてみる際、女性運動の陣営から国家の役割について次のように積極的に発言したことは引き立って見える。

 

市場が圧倒する新自由主義的秩序のなかで、それからケアをすることの全面的な破綻の状況下で、一部のフェミニストたちはケアをすることの価値を見直し、国家に対する認識を新たにしている。国家を、一方的に権力行使を行う機構ではなく、様々な行為主体たちのネットワークとして見ながら、ケアをすることを基にした国家形成に参加する準備をするのである。趙韓惠貞(チョハンヘジョン)ほか 『家族から学校へ, 学校から村へ』, もう一つの文化 2006, 33頁.

 

国民国家の役割を決して単純に認めるはずのない、脱近代的性向の強い女性運動の方でもこのように柔軟な立場をとっているが、これは共治概念を取り入れた理論的根拠と「わが社会の秩序を変えるのには普遍的な力が発揮できる政策的接近」の効用を体得した実践的経験から出たものと推し量られる。上掲書 46頁.

筆者もまた、単に国家無用論を唱えることから脱して、公的役割を遂行する伝統的国民国家の強みを生かしながら、一層民主化した国家構造の創案へと進むべきだという立場である。これは近代の克服を真摯に追い求めるためにも近代に適応すべきだという問題意識の一つの事例として、筆者は「国民国家への適応と克服」という二重的性格の単一課題を遂行すべきだといったふうに、解きほぐして説明してみたことがある。拙著 『東アジアの帰還』, 創批 2000, 32~36頁.

筆者のその構想は、四つの要素でなされる。一つ目、大国主義と小国主義の緊張という発想を堅持することによって富国強兵を求める覇権主義、つまり大国主義を解体すること、二つ目、その構想を推し進める主体として韓民族共同体の設定、三つ目、志向としての複合国家論、四つ目、これらは国家の存在様式と私たち自身の生活様式を変えていく過程なので、文明談論と連結されるべきだということである。ここでは四つの特徴を結びつける結び目に当たる複合国家論についてもう少し深く考えてみよう。

複合国家(compound state)は「単一国家ではない様々な種類の国家結合の形態、すなわち各種の国家連合(confederation)と連邦国家(federation)を包容する最も外延の広い概念」として提起されたが、上掲書 63頁. 最初、この概念は朝鮮半島の分断体制を克服する際ぶつかる主権問題を創意的に解決するための実践的提案として注目された。これについての詳しい説明は、白樂晴 『揺れる分断体制』, 創批 1998, 172~208頁参照. その概念は国民国家をなしおえながらもそれを克服する二重課題を同時に遂行する私たちの実践課程で具体化するはずであるが、これをより精巧に整える作業は、その実現を早めるだろう。

実は、国家間の結合体である複合国家そのものは、あまり新しいものではない。すでに世界史の中に連邦制と国家連合などの形で何回か登場した事例があるが、近代的な国民国家間の体制に衝撃を与えるほどの、意味あるものではなかった。一方、最近、河英善(ハ・ヨンソン)は北朝鮮まで包容した「韓国型ネットワーク知識国家」を建てようと提案しながら、それを(脱近代的な)「知識基盤複合国家」だと名づける。しかし、これは近代の適応、特に全地球的資本主義の現段階における短期的な適応に過ぎないだけで、中長期的な近代克服の志向は窺えない。河英善 「ネットワーク知識国家: 狼蜘蛛の多宝塔築き」, 河英善ほか編 『ネットワーク知識国家』, 乙酉文化社 2008.

これとは違って、筆者と類似な問題意識から提起されたのが、朴明圭の「複合的政治共同体」の議論である。朴明圭, 前掲論文.彼は国民国家の内と外の変化に負って「複合的政治共同体」が形成されることと展望する。まず、内部的変化は国民国家の結束原理である境界の固定性、権限の集中性および国民統合が揺れながら、それとは異なる代案的な原理、つまり境界の柔軟性、権限の分散性および連帯の多層性によって、新しい結合がなされることを意味する。そういう変化は一次的に既存の国民国家が民主的で慣用的な共同体へと変化するところから始まるが、政治的民主化運動や市民勢力の活性化がその動力となる。そして、その過程が順調に進むためには、地域協力を通じて平和の秩序が居座った外部的変化も成されなければならない。

実はこの主張だけではどうやら原論的な議論という印象を与えやすいが、これを「揺れる分断体制」によって南北国家間の境界が柔軟となった朝鮮半島の現実に当てはめると、実感が増すであろう。多層的な交流の網が積み重なるなかで(一時の核危機や南側政権の交替にもかかわらず)、開城工団と金剛山観光が続いていることは、複合国家に対するわれわれの想像力を引き立てる。このような南北交流が多方面へ広がり、連帯の多層性を成し遂げながら2000年6・15宣言に規定された「低い段階の連邦制」または国家連合が実現されると、権限の分散性まで現実化して朝鮮半島での複合国家の姿は相当顕になると思われる。これが漸進的な統合過程、言い換えると、過程としての統一であるはずだが、6者会談の影響が端的な例であるように、地域協力が活発になり、その制度化が加速されるなど、外部変化が伴うと複合国家への進展は一層促進される。

勿論、複合国家へ進んでいく過程は、南北の統合が単一した国民国家への統一ではなく、分断体制の克服に当たる統一、すなわち南北民衆の生活主導力が極大化する統一を追い求める中期的課題を遂行する道である。そして、それに至る間、朝鮮半島で進行する「南北の漸進的統合過程と連携した総体的改革」の一環である南側の改革を実践することが、短期的核心課題となる。

短期的課題としての内部改革が、ただ政府の政策レベルで施されるだけで日常生活へと居座ることができなかったら、持続的に推進できない。日常生活の惰性から脱すると同時に、日常生活に帰ってその現場で根を下ろす緊張を持ち続ける運動のみが、持続的な活力を得られるものなのだ。教育・環境・女性・人権・平和・教育など、様々な領域での民間運動はすでにわが社会の底辺で着実に成果を重ね積んでいる。韓国社会で展開される様々な領域の市民運動の活動のなかで、地域連帯レベルの成果と限界に対する量的・質的評価は、瑞南フォーラム編 『韓国の東アジア連帯運動白書』, アカネット 2006参照.

このように日常的実践でありながら全地球的な普遍性を持ち合わせた日常生活の改革が公共の争点と結び合わされることによって、国家改革にまで繋がって、分断された朝鮮半島での複合国家の形成に寄与し、さらに共生社会としての東アジア共同体の建設を促進してアメリカ覇権主義に亀裂を来たし、アメリカ的標準を乗り越える空間を確保することができれば、それ自体で資本主義世界体制から離脱はできないものの、それを長期的に変革させる触媒となるはずである。そういう時、民衆的でありながら世界史的な普遍性を獲得する可能性が開かれる。

最後に、このような多層的時空間の課題を同時に思惟しながら、一貫した実践へと結びつける作業に推進力を与える朝鮮半島の複合国家、東アジアそして世界史の相互連関について少しまとめてみたいと思う。国家間の結合体である複合国家そのものは不慣れではないが、朝鮮半島で試みられている複合国家が、そのいかなる範疇にも属さない新しいものであることはこれまでの議論で、ある程度明らかになったと思う。ここでは二つの断片的な想いを付け加えよう。

一つは、それへと向かう過程が東アジア共同体の建設に大きな波及効果をもたらしてくるという点である。韓国が南北和解を自主的に主導して「朝鮮半島に新しい可能性を創造しただけでなく、同時に東北亜の国際政治の生態をも改革している」という隣国の言論メディアの評価もあるように、「兩韓能, 兩岸爲何不能?」, 『亞洲週刊』 2007年10月14日付. 同じような論調としては、南方朔 「中国―台湾と韓国、平和の連動構造」, 『創作と批評』 2005年秋号を参照.東アジアにおける平和の連動構造が働くのに役立つ朝鮮半島の役割が、大変重要であることは言うまでもなかろう。ただ、複合国家という枠の持つ重要性は、特に注目される価値がある。その枠の中に北朝鮮を呼び入れて、体制安全を保障してあげながら「南北の漸進的な統合過程と連携した総体的改革」に北側を参加させて、変革を導き出せるし、そのお蔭で東アジア共同体を推し進める際、常に「のどに骨」を立てる北朝鮮(および朝鮮半島)問題を解決する要領となれるからである。これは台湾と中国大陸のいわゆる両岸問題や、沖縄問題を含め、日本(の国民国家論)の抱えている様々な難題を解決するに有用な参照物となるだろう。

もう一つは、東アジア共同体が「開かれた地域主義」を志向するとよく言われるが、その意味を「二重的周辺の視覚」で見直そうということである。「開かれた地域主義」は東アジアの内と外で働く中心―周辺関係の限りない抑圧の移譲に挑戦し抵抗するものであるべきだ。取りも直さず、この地点で近代克服と脱植民陳光興はファノン(F. Fanon)の「植民」概念を、すべての構造的支配権力関係にまで拡大し、それの変革をすべて脱植民(去殖民)の目標と見なすが、この際、「脱植民は永遠なる過程」になると述べる。 『帝国の目』, 創批 2003, 178頁. 中国語本は 『去帝国:亞洲作爲方法』, 台社 2006, 175頁.の問題意識は結合する。

よく「開かれた地域主義」は、東アジアの外部に対して排他的でないという意味で使われるが、問題は周辺としての東アジアにとって中心のアメリカをどう位置付けるかである。アメリカの反発で地域共同体の進展が脅かされないようにアメリカの利益を適切に満たしながら、いかにその影響力を制限するか議論が必要である。それと合わせて「開かれた地域主義」が東アジア内部の構成員の間に存在する中心―周辺関係の廃止を意味しなければならない。東アジア共同体が地域内一部の金持ち国々のクラブにならないように、北朝鮮や「国家と非国家の中間」に位置した台湾のような周辺的存在を包容する装置が求められる。このような二重的意味での開かれた地域主義を遂行する時こそ、東アジア共同体が巨大な恐竜となる危険から脱すると共に、東アジアの外の、他の周辺的地域と(間地域)連帯して世界史の変革を主導することができる。

朝鮮半島の南北が複合国家の建設を通じてこのような歴史の流れに参加するのと同じように、東アジアの人々がそれぞれ自分なりに国家改革と連動した東アジア共同体の建設の道により活発に参加することを期待してみる。

 

訳=辛承模

季刊 創作と批評 2008年 春号(通卷139号)
2008年3月1日 発行
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