気候変動の地政学と韓国社会
李必烈(イ・ピルリョル) prlee@energyvision.org
韓国放送通信大教授、科学史・化学。市民團體エネルギー轉換代表。著書に『エネルギー代案を探して』『石油時代、いつまで続くのか』『エネルギー転換の現場を訪ねて』 などがある。
1. 人類最大の関心事になった気候変動
気候変動は世界を語る上で最も重要なキーワードとなっている。今、世界のあちこちで気候変動をめぐって数多の言葉が生み出されており、幾多の論争が展開されている。国連の創設以来、世界各国で数千を超える人々が、十数年のあいだ、一年に最低一度は1ヶ所に集まり議論のネタにしたものは、気候変動を置いてほかにない気候変動会議(The United Nations Climate Change Conference of Parties)は1995年ベルリンで第1次会議が開かれた後、毎年開催されている。バリ会議は13回目で、参加者数は政府代表と民間団体代表を合わせて1万人に達した。京都議定書の内容は1997年に日本の京都で開かれた第3次会議で通過したものである。。核戦争の恐怖が全世界を覆いつくした時も、それほど多くの人が定期的に集まることはなかった。気候変動は核戦争よりはるかに大きなキーワードの地位をもっているのだ。
何故に気候変動がそんなに多くの人を動かすことができたかは明らかではない。気候変動の結果が他の何よりも深刻だということを、人々がはじめから知っていたわけではない。これまで、気候変動と同じく全地球を破局に追いこむであろうと思われた環境問題がなかったわけではない。オゾン層の穴、酸性雨、核廃棄物、環境ホルモンなどは、このかん、人類社会を幾度となく揺るがしてきた。しかしこれらは、持続的に人々の関心を引くことのないまま影を薄くしていった。
気候変動は、その原因や結果をみる時、酸性雨やオゾン層破壊より不明な点がはるかに多かったし、今なお多いままだ。20年前でさえ、それが人間の活動によるものだと言うには勇気が必要だった。1995年になってからようやく人間によって地球の気温が上昇したことを示す証拠があるという判定がなされ、2000年にもその可能性は66%程度(likely)と考えられた。ほとんど確実に(very likely、90%以上)人間によって起きたものだという判定は、わずか一年前に下ろされたにすぎないIPCC『気候変動報告書』(2000、2007)。1990年の初の報告書では、自然による気候変動の原因についての論議の方が多くなされていた。2000年にアメリカのブッシュ大統領が京都議定書を批准しないと言った時に提示した根拠のうちの一つがまさに、気候変動を人間の活動によるものだとする証拠が確かではないというものだった。。にもかかわらず、このかんの気候変動言説は持続的に自らの場を広げてきたし、その論議機構である「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)がノーベル賞まで受賞したことで、20年近い全世界的論争を経て、ついに確固たる人類の核心的関心事になった。
地球全体の問題、特に地球の生態系の未来にかかわるテーマに対しては非常に反応の遅い韓国でも、今や気候変動についての議論を聞くことは日常になったように思われる。気候変動を疑ったりその結果の深刻さに疑問を提起する言葉はほとんど消えた。メディア、政治家、知識人そして普通の人々までも、自ら気候変動を深刻に受けとめているという2007年環境部〔部は省に該当〕の調査では、国民の90%以上が気候変動を深刻に受けとめているという結果が出た。。主流メディアでも2007年のIPCC報告書が出てからは、以前は異なり、少なくともあからさまにビョルン・ロンボルグ(Bjoern Lomborg)のような気候変動懐疑論者を称賛したり、南太平洋島諸国が海に沈むという環境論者たちの警告をコメディーだと揶揄することはない。利潤追求にのみ没頭して社会的廉恥には無関心な企業らさえ、気候変動の話にはうなずいて見せる雰囲気が広がっていっている。
2. 気候変動の抑制--不可能な企画
気候変動がかなり確実に人間の活動によるものだという合意がなされ、人類にとって最大のキーワードになった時点を前後して、逆説的にもこれから力を合わせて破局を防ごうという声より、すでに時遅しという声の方が大きくなっていった。遅いという主張の主な内容は、温室ガス排出量を今すぐ半分以下に減らせるならわからないが、それができないのなら破局を防ぐのは不可能だというものである。この種の主張の最も急進的な代弁者のうちの一人にジェイムズ・ラブロック(James Lovelock)がいる。彼は、気候変動はすでに取り返しのつかない地点(tipping point)を超えており、人類に与えられた今後の課題は、摂氏8度上昇した「気候の地獄(hell of a climate)」のなかでいかに生き残るかを思案する事だとする。でなければ今世紀が過ぎる前に、数十億人が死亡し、気候条件が最も良くなる今の極地で数百万人のみが生きながらえることになるだろうと憂慮している。しかしながら彼は未だ希望を捨ててはいないのか、全一的な(holistic)ガイア理論の創始者らしからず、時に還元論的な技術的処方を提示する韓国にはラブロックがガイア理論を廃棄したといううわさが流れているが、筆者はどこをみてもそれを確認することができなかった。ラブロックは2006年に『ガイアの復讐』(Revenge of Gaia)という本を執筆しており、ここでもガイア理論に立脚して気候変動が取り返しのつかない地点を通過したと主張している。。その処方は、20年以内に数千個の核発電所を建設するとか、深海樹を海面に引き上げて大気中の二酸化炭素を吸収させ、その後また海底に返すことで二酸化炭素を減らすといったものだ。
ラブロックと同じくその名が知られている気候研究者のうち、最高の権威をもつと評価されるジェームス・ハンセン(James Hansen)も悲観論者に属する。彼はNASA所属ゴダード研究所の責任者だが、たびたび公の場で気候変動に対する警告を発し、米政府を批判する。ハンセンは、今のような速度で大気中の温室ガスが増加すれば、2015年頃に地球の気候は取り返しのつかない地点に至るであろうしビル・マッキベン(Bill McKibben)「地球温暖化の破局はどれほど近づいているか?」(How Close to Catastrophe?)、『創作と批評』2006年冬号、381ページ参照。、海水面は5メートル以上上昇すると予測する。彼はラブロックと違って特別な処方を提示しない。しかし、地球の気温を、2000年を基準に摂氏1度以上上昇させてはならず、そのためには大気中の二酸化炭素濃度を300~350ppmに抑制しなければならないとする2000年現在の摂氏1度は産業化以前を基準にすれば摂氏約1.6度である。。ところが2007年の時点ですでに二酸化炭素濃度は380ppmを超えた。彼の主張が当たっているならば、非常に画期的な対策がない限り、地球の気候はすぐさま取り返しのつかない地点に到逹するのである。
ハンセンは、大多数の気候研究者たちが明言しないだけで、自分の見解との間に大きな違いはないと考えているJames Hansen,“Huge Sea Level Rises Are Coming―Unless We Act Now,” NewScientist.com News Service, 25 July, 2007.。しかし彼の研究は、IPCC報告書のなかでも最も深刻な内容だとされる第4次報告書にもあまり反映されなかった。二酸化炭素排出量の約70%の削減を前提とするIPCCの最善のシナリオで提示された二酸化炭素濃度は、ハンセンの目標値の最大値である350ppmより50ppmも高い400ppmで、現在の状態が延長された場合の最悪のシナリオでは、その数値が440ppmか、それより高い790ppmだ。海面は最悪のシナリオでさえ最大59cmしか上昇しないとされている。報告書は依然として気候変動を抑制できるとの前提のもと、抑制のための各種処方を提示しているさらに深刻な内容はアメリカと中国の反対によって報告書に含まれなかったという。。しかし、いや、そのためか、2007年にバリで開かれた気候変動会議の主要議題のうちの一つは、気候変動に対する適応(adaptation)だった。
適応が突然主要議題として浮上した理由は、時すでに遅しという考えがますます大きな力を得ているところにあるのかもしれない。もちろん会議では、気候変動を緩和することが不可能だとは誰も言わなかった。時間があまり残されていないので2013年から適用される新しい気候変動減縮枠組みを作って、この枠組みによって温室ガス排出を減らしていこうという総論に反対する者は誰もいなかった。そして各論を作るために数多の会議が開かれ、言葉が交わされた。結論はまだ出ていない。しかし、2013年からなら、いくら立派な枠組みを適用するとしても、ハンセンの目標値350ppmはもちろんのこと、気温上昇摂氏2度という目標も達成することはできないだろう。
摂氏2度は気候変動抑制言説のなかで最も頻繁に登場する数字だ。それは、気候変動による破局を阻止することのできる上限線とみなされている。2100年頃に地球の平均気温上昇幅が産業化の前と比べて摂氏2度を超えると気候破綻が到来するという説に、気候研究者の多くが同意するからだ。そういうわけで、破綻を防ぐなら、地球の平均気温が摂氏2度以上上がらないようにしなければならないのである。もちろん、気温の上昇を摂氏2度以内に抑制したとして、被害が発生しないということではない。摂氏 0.7度ほど上昇した今も、気候変動による影響は全世界で肌身に感じるほど強い。にもかかわらず摂氏1度ではなく摂氏2度について語るのは、先進国、とりわけヨーロッパ連合が、その程度の被害と対処のための経済的負担なら、人類がどうにかして処理できると考えているためである。最初に気候変動抑制の経済的費用を分析したものとして知られる『スターン・レビュー』(The Stern Review)が算定するように、気温上昇を摂氏2度に抑制するために、毎年全世界のGDPの1%を投入することは負担に値するというのだNicholas Stern,“The Economics of Climate Change,” The Stern Review , London: HM Treasury 2006.。気候変動の抑制に最も積極的なヨーロッパ連合で、気温上昇摂氏2度抑制を政策目標としてはっきりと設定されたのもまた、そのためである。
今世紀末までに気温上昇を摂氏2度以下に抑制しようとするなら、2050年までに全世界の二酸化炭素排出量を半分以下に減らさねばならず、温室ガス濃度を450ppmで安定させねばならないということに、ほとんど異論はないM. Meinshausen, “What Does a 2℃ Target Mean for Greenhouse Gas Concentrations? A Brief Analysis Based on Multi-Gas Emission Pathways and Several Climate Sensitivity Uncertainty Estimates,” H. Schellnhuber et al., eds., Avoiding Dangerous Climate Change , Cambridge Univ. Press 2006, pp.265-280. ここで450ppmは二酸化炭素濃度だけではなく他の温室ガス濃度を二酸化炭素濃度に換算してすべて加えた数値だ。450ppmに対して異論が全くないわけではない。『スターン・レビュー』では550ppmも許容されるとみなしているが、この場合、地球の気温が摂氏2度以上上昇する確率は63~99%である。しかしながら2005年の二酸化炭素濃度は379ppm、温室ガス全体濃度は約430ppmだった。。だからこそヨーロッパ連合国家のイギリスやドイツは、低炭素経済白書やエネルギー転換シナリオを出して、2050年までに二酸化炭素排出量を60~80%ほど減らすとしている。これらの国では、このようにして、産業国家が2050年までに二酸化炭素排出量を半分以上削減し、低開発国では排出量を少しずつ増やしていけば、気温上昇を摂氏2度に抑制することができると考えられている。そのようになりさえすれば、破局はどうにか免れることができるだろう。
ヨーロッパ連合と同じく、世界の環境活動家の代表格であるグリーンピースも、破局を防ぐことのできる時間は残っていると考えているようだ。IPCC議長の序文がついた、グリーンピースの気候変動抑制のための『エネルギー革命』(Energy Revolution)という報告書には、再生可能なエネルギーと効率的なエネルギー技術を広く活用すれば、2050年までに二酸化炭素排出量を2000年頃の半分以下に落とすことができると書かれている。もちろんグリーンピースも、現状が続くなら2050年の二酸化炭素排出量は2000年頃の二倍に増加するとの見解を示しているこの報告書でグリーンピースは、2050年に世界の人口が90億に増加すると報告、現在の趨勢が続く場合、一人当たりの二酸化炭素排出量は2003年の3.7トンから5.1トンに増加すると予測する。一方、エネルギー革命のシナリオによれば、2050年の一人当たりの二酸化炭素排出量は1.3トンに減少する。地域別では、ヨーロッパが7.4トンから2.3トン、北米が15.6トンから3.0トン、韓・日・オーストラリアが9.4トンから3.8トン、中国が 2.5トンから2.3トン、南米が1.8トンから0.7トン、南アジアが0.8トンから0.5トン、アフリカが 0.9トンから0.6トン、中東が5.5トンから1.4トン、ロシアなどが7.8トンから2.5トンに減る。このように、中国まで含む全世界の二酸化炭素排出量が減ればこそ、二酸化炭素排出量が50年の間で半分に減少するのである。ここで注目すべき点は、全世界の人口の一人当たり排出量が3分の1に減るところだ。。報告書には、世界各地域に対する詳細な分析とシナリオが記されているが、これによればすべての地域で二酸化炭素排出量が減り、全世界の人類一人当たりの二酸化炭素排出量は、2003年の3分の1 ほどに減る。化石燃料の使用と二酸化炭素排出量が最も早く増加する中国でさえ、エネルギーの総消費量は増えるが、二酸化炭素排出は少しも増加しない。一人当たりの排出量はむしろ若干減少する。インドのシナリオはさらに楽観的だ。現在のままでいくと、エネルギー消費が約2.5倍増えて二酸化炭素排出量は4倍に増加するが、効率的なエネルギー技術と再生可能エネルギーを積極的に活用すれば、エネルギー消費は50%しか増えず、一人当たりの二酸化炭素排出量は 60%も減る。
グリーンピースの報告書は非常に希望的な言説を並べているが、気候変動の抑制が不可能であることを分析的に総合したがゆえのものとも考えられる。中国とインドが2050年までにエネルギー消費の約40%を再生可能エネルギーに代替することは果たして可能だろうか? また、2030年までに石炭消費を3倍近く増やし、それによっておびただしい量の二酸化炭素を排出すると予想される中国で、その後二酸化炭素排出量を減らすために残る20年の間で数百カ所の石炭発電所を急に閉鎖するような冒険をするだろうか? イギリスやスウェーデンまたはドイツといった国家では、再生可能エネルギーの割合を大きく増やすことで、グリーンピースやEU諸国が希望するように、二酸化炭素排出量を1990年の20~30%に減らすことができる。 これらの国家は意志と技術と国民的呼応のすべてが揃っているからだ。スウェーデンでは2020年までに石油ゼロ達成が語られ、ドイツでは二酸化炭素排出量を2020年に40%、2050年に80%減らしていくと発表しているのは、このような土台があってこそである。しかし中国とインドでエネルギー消費増加率が大きく鈍化し、そして消費が減少しはじめて、石炭発電もほとんど増加しない状況で、再生可能エネルギーが他のどんなエネルギー源よりも多く利用されるだろうということは、希望的観測でおわるだろう。
グリーンピースの報告書は核発電の利用を完全に排除している。気候変動を防ぐために核発電所を早急に数千個も建設しようというラブロックとは正反対である。ラブロックの提案は危険に満ちており、持続可能なものでも決してない。しかし、グリーンピースの報告書と比べるならば、現存する「汚くて」危ない技術を良い目的のために使おうというその提案のほうが、より現実的で正直なものかもしれない。彼の提案はあまり真剣に受け入れられないが、地球に降り注ぐ太陽光を減らすために2000万トンの硫黄を成層圏に振りまくとか、数十億個の鏡を地球の周囲の宇宙空間に浮かべるとか、石炭発電所から出る二酸化炭素をためて地中に埋めようというような、多くの科学者や工学者たちの提案よりは現実的だともいえる。核発電は、その気になれば活用可能な、すでに大部分検証された技術だからだ。その危険性も、先の地質工学(geoengineering)技術よりも大きいとは言い切れない。成層圏を満たした硫黄はオゾン層を深刻に破壊するであろうし、地球の周囲の数十億個の鏡は、きちんと調節しなければ地球の気候をどこに連れて行くかわからない。石炭発電所から出る二酸化炭素を集めて地中に埋める技術も、現実性をもつにはまだ数十年がかかるだろう。しかも、それは非常に高度な技術だ。ところが、こんなに奇抜で立派な提案が出され、どれがいいだろうかと論争が起こっている間に、温室ガス濃度はずっと上がり続けている。2007年の時点ですでにその濃度は440ppm近くになり、人類が現在の状態のままでいるなら、今世紀末には1000ppmに上がる。だとすれば、温室ガス濃度を450ppmで安定させて気温上昇を2度に抑制することは不可能だとするほうが、はるかに現実的な判断だ。 500ppmを最大上限線にするとしても、2020年頃にはその線も超えてしまう現在、大気中の二酸化炭素の濃度は毎年2ppm近く増加している。。
3. 気候変動の不平等--誘発者と被害者
世界のエネルギー消費は、これまでそうだったように、今後数十年の間も急速な増加をみせるだろう。それとともに、二酸化炭素排出量も急速に増加するだろう。1バレル当たり150ドルを超えて200ドルにのぼろうとしている石油価格も、エネルギー消費そのものを減らす役には立たないだろう。むしろ人類のエネルギーの渇きを満たすために、安い石炭の使用量が大きく増加することによって、短期的には二酸化炭素排出量が以前よりも早く増加すると考えられる。アメリカと中国で、去る数年間の石炭消費は、他のエネルギー源よりはるかに大きく増加した。だとすると、結論は明らかだ。気温上昇を摂氏2度に縛りつけることで人類がそれにあわせて気候変動を抑制するのは不可能である。
今後もバリとバンコクの後続会議で、気候変動緩和のための話し合いは継続されるだろう。政府代表者たちは、京都議定書の次の枠組みをつくるために会議を重ねるであろうし、環境団体は各国政府に気候変動を抑制するための、より強力な行動を促すだろう。気候変動適応説も四方から出てくるだろう。しかし、これらすべてが言葉の饗宴以上にならないだろう。京都議定書は、事実上、失敗した協約だ。言葉のみが量産され、何の成果ももたらすことができなかったからである。京都議定書で削減義務を課された数十カ国のうち、2012年までに目標を果たすことができるのは10カ国しかない。そのうち、ロシアをはじめとする旧社会主義諸国を除けば、純粋に温室ガス削減に成功した国はイギリス、スウェーデン、ドイツ、フランス、フィンランドの5ヶ国である。残りの国では、二酸化炭素排出量が減らないどころかむしろ増加した。1990年に比べて2005年の増加率は、カナダとオーストラリアで25%以上、アメリカと日本もそれぞれ16%、6.5%になった。気候変動の抑制に最も積極的だったヨーロッパ連合15ヶ国でも、温室ガス排出量はほとんど減らなかった。削減義務のない国家も合わせた全世界の二酸化炭素排出量は、1990年以来20%も増加した国連気候変動枠組条約(UNFCCC)ホームページ(www.unfccc.int)。。京都議定書も結局のところ言葉の饗宴で終わったのである。
2013年から発効する新しい気候変動の枠組みも、京都議定書以上の成果はおさめることはできないだろう。言い換えれば、大部分の国が限界に達するまで現在のやり方を変えようとしないであろうし、この状況で新しい議定書が発効しても、温室ガス排出はむしろより増加するというのである。IPCCのシナリオによれば、現在の状態が続く場合、地球の気温は2100年に摂氏5度以上も上がる。結果は気候災害だ。このように、抑制が可能などころか災害が不可避であるならば、適応または準備について話し合うほうがずっと現実的だ。実際、地球の気温が上昇中であるということは、数十年前から否定できない現象だった。その影響によって、ここ20年間、以前よりも大きな気象災害が起きるようになったということも否定できない。史上初のハリケーン・カトリーナに続いて史上初のサイクロン・ナルギスが発生するというかたちで災害は続いた。このことは、気温上昇の原因が人間であるかないかにかかわらず、すでにその時から適応について話し合っていたほうが正しいアプローチだったことを示しているのかもしれない。15年以上もの間多くの論議がなされ、結論--気候変動の原因が人間である可能性は90%だ--に達したとはいえ、その間にも、結論にはお構いなしに気候は変化しつづけたからである。
昨年のバリ気候変動会議で扱われたもう一つの主要議題は、気候不平等(不公正)だったclimate injustice または climate inequityを翻訳したものである。。不平等(不公正)は、気候会議のたびに必ずあがる主題だった。バリ以前の会議では、低開発諸国の二酸化炭素排出権利も産業国家と同じく保障されるべきだということが、不平等論議の中心にあった。低開発諸国は、産業化過程で化石燃料を大量に用いて気候変動を誘発した先進国が、化石燃料の使用を控えるべきだと主張することに対して、不公正な抑圧行為だと攻撃した。ところがバリ会議以降、産業諸国の行為によって発生した被害が、地域別・国家別に非常に不平等に帰されることが不公正の主要な内容として浮上した。これまでもそうだったが、今後も気候変動による災害は、誘発者ではなく、そこからは程遠い国家や地域に甚大な被害をもたらすだろう。非常に不公正であまりに皮肉なことだが、誘発者たちは気候変動によって、被害ではなくむしろ利得を得ることもありうる。
気候変動の論議でヨーロッパ先進諸国がより多くの温室ガス削減を自発的に約束することは、道徳的優位に立つことによって主導権を握るという意味もあるが、その背後には経済的な計算がある。これらが提示する気候変動抑制のための実践案の中心は、エネルギーを効率的に利用する技術と再生可能のネルギー使用を拡大することだ。ところが、この技術を最もよく活用し普及できる国がまさにヨーロッパ先進国である。これらの計画どおり気候変動抑制のためにこのような技術が普及すれば、彼らが経済的利益を得ることは明らかだ。気候変動はこれらの国家の天気だけを暖めるのではなく、ある意味、国際舞台での地位と経済も暖めてくれもする「喜ばしい」現象なのである。
ヨーロッパ先進国は、このように地球の生態系に対する憂慮だけではなく、国際政治的・経済的計算もしているがゆえに、まだ少しの時間は残されているから早く一緒に実践の道に進もうという。同じくそのような計算の上で、低開発国で増加する被害への対処や気候変動への適応に対しても、積極的に責任を負おうとする態度を示す。バリ会議などで、今後増えるであろう被害の復旧のための基金を作って事前対処しようという提案がなされたが、これもこのような背景から出されたものだ。気候変動によって発生する国際政治的問題に対する憂慮と対処方法を扱う文書も、アメリカを除けば大部分がこれらの国家から出されている。
4. 紛争と戦争の激化
気候変動がもたらす国際政治的問題は、国家間紛争と国際紛争へと飛び火する一国内の混乱に要約できる。気候変動は人類が必要とする資源を大幅に縮小する結果をもたらす。気候変動が進むほど、利用可能な水と食糧の量は大きく減るであろうし、エネルギーへの接近も難しくなる。そしてこれと同時に、砂漠の拡大と海面上昇によって生存可能な大地も減るバングラデシュでは海面の上昇などで耕作可能な土地が毎年1%ずつ減っている。 Der Spiegel、2008年 20号。。すでに現時点で水と食糧は稀少資源となっている。世界の人口のうち、およそ10億が慢性的な飢餓に苦しんでおり、2025年にその数は12億に増えるとみられる。12億に達する人口が、圧倒的な水不足の地域で暮らしており、2025年にその数は18億まで増えると予測されているFAO,“Coping with Water Scarcity Challenge of the Twenty-first Century,” 2007, http://www.unwater.org/wwdo7/downloads/documents/escarcity.pdf。このように極度の状況悪化の原因が気候変動であることはいうまでもない。
ところが悲劇なのは、状況が大幅に悪くなるとしても、先進国はほとんど影響を受けないか、簡単に復旧の道に進むことができる一方、アフリカ、アジア、南米の低開発国はおびただしい被害を受けることになるというところだ。IPCCの第4次報告書は、気候変動によって発生する地域別の被害について詳しく報告しているが、これによればアフリカでは一般的に日照りがひどくなり、アジアは大型台風とモンスーン(monsoon)によって甚大な苦痛を受けるであろうし、中南米は強いハリケーンと日照りを経験するという。食糧と水不足が深刻になり、その結果は水を占有するための紛争と耕作地を手に入れるための競争、難民の増加としてあらわれるだろう。
気候変動による紛争はすでに始まっている。数十万の命を奪ったスーダンのダルフール内戦も、気候変動によって砂漠が南に大きく拡がり、それとともに遊牧民が南下して南部の定住農民たちと土地の占有をめぐる紛争が起こったことに触発されたものだWelzer, ibid.,pp.96-99.。最近起きたエジプト、ハイチ、フィリピンの食糧暴動や、2007年のメキシコのデモは、食糧不足がもたらす国家的混乱の一端に過ぎない。気候変動が進めば進むほど紛争は世界のあちこちで起こるだろう。ヒマラヤ周辺は水紛争が最も深刻に起きるとされる地域に数えられる。ヒマラヤは地区全体の氷河の15%が覆いかぶさっている水の貯蔵庫だ。ここから流れ出る水はインダス川、ガンガ川、メコン川、揚子江といったアジアの大きな河川に水を供給する。この水を頼りに暮らしている人口は約5億にのぼる23)“Die Klima-Kriege,” Die Zeit、2007年 19号。。しかしIPCC報告書は、気候変動の進行にしたがってヒマラヤの氷が溶けて流れ出し、2050年には完全に消えると予想している。当然、周辺地域の水不足は深刻化するであろうし、それによって中国をはじめとした周辺国家内部の混乱が増加することが予想され、インダス川を共有する二つの敵対国、パキスタンとインドの間で、どのような形であれ紛争が起こるだろう。
気候変動はこのように人類の生の条件をますます悪い方向に追い込んでいるが、これにより発生する国際政治的問題に対する関心は、依然として非常に低い水準にとどまっている。低開発国では、これに関する論議も、気候変動の誘発者である先進国の攻勢として解釈しようとしている。結局のところ、このような論議の結論も、それが大規模技術移転になろうが、援助額の増加になろうが、気候変動そのものを変えることはできないため、低開発国の不満を解消することはできない。低開発国と中国、インドの国家エリートたちの願いは先進国が享受しているのと同じ水準に到逹することであり、大多数の国民の願いは生存が可能な生を暮らすことである。ところが、気候変動がこれを不可能にするかもしれないとすれば、反発は当然のことである。
気候変動による被害は低開発国国民の生存自体をますます難しいものにしている。これらが選択できる道は、生存可能な新しい生活の場を見つけて去ることである。アフリカ、アジア、中南米でヨーロッパとアメリカなど先進国へと発つ人の数が増え続けている。アフリカでは毎年数万人が命をかけてゴムボートを利用してヨーロッパに渡る。他の方途で渡ろうとする人々の数字はずっと多い。メキシコでは2006年に110万名がアメリカに移住し、逮捕されたWelzer, ibid., pp. 20-21.。これら移住民や難民の数は、気候変動の進行速度が今より早まることによって、さらに増えつづけるであろうし、それは大きな紛争の原因として作用するであろう。これらに対して気候変動の前での平等とは、他の何物でもない。安定的な生存が可能な産業国家の一隅でも占めることができるようになることである全世界の人口のうち27億が暮らす46ヶ国家が気候変動の結果に至極脆弱で、大規模難民が発生する国家に分類されている。International Alert, A Climate of Conflict, 2007.。
5. 気候変動と韓国の選択
気候変動が自然災害のみを起こすのではなく、社会的・政治的にも大きな影響を及ぼすことが明らかだとすれば、それは一国家の計画と政策樹立において重要な考慮事項とされねばならない。文化的接近の主題としても、気候変動はそれ相応の扱いを受けるべきである。しかし韓国の場合、気候変変動はこれらのうちのどこにおいても、真摯な考慮対象になっていない。世論調査の結果、韓国国民の90%は気候変動が深刻であると心配しているが、これは一種の「リップサービス」に過ぎない。気候変動が深刻だという話題が四方でなされているために、これに便乗して猫も杓子も損にはならない言葉に一票を投じた結果である。韓国人たちにとって気候変動は、遠く離れた所で非常に徐々にやってくるものでしかない。去る数十年と同じく、今後とも気温が少しずつ暑くなり、雨粒がもう少し大きくなるだろうということは、現在の生や計画における主要変数になりえないのである。
しかし、気候変動によって誘発される国際政治的・社会的問題を少しでも目にすれば、韓国も大きく変化する可能性は高い。韓国人の相当数は依然として自らを発展途上国の国民だと考えているようであるが、低開発国から見れば韓国は先進国だ。多くの化石燃料を燃やし、大量の温室ガスを噴き出し、そうすることで高い生活レベルを享受する産業国のひとつなのである。それゆえこれらにとって韓国は、一方では被害誘発国であり、他方では移住対象国だ。他の先進国と同じく責任を問われるべき対象、模倣したい羨望の対象がまさに韓国である。羨望の結果はすでに現われている。東南アジアと中国などの地から来た移住労働者数は2007年に70万人に達し、結婚を目的に移住した女性も10万人を超えた国家統計ポータルホームページ http://www.kosis.kr/static/teen/teen02/1172950_1499.jsp。北朝鮮出身の移住民も1万人を超えている。外国人の割合は全人口の2%だ。韓国社会は多民族社会に変わりつつある。急速に進行している気候変動は、この社会変化に大きく拍車をかけるだろう。
このような展望の前で私たちに与えられた課題は「準備」のほかの何ものでもない。ここでいう準備の核心は、物質的・技術的なことではない。私たちがいかなる社会を志向するのかを決めることこそ、準備の基礎であると同時に核心をなす。気候変動のために東南アジアや中国から多くの難民が南韓〔韓国〕に流入するようになりうるし、北韓〔北朝鮮〕を統制不能の状態にして休戦線を有名無実化することにもなりうる。北朝鮮以外の国々から幾多の人々が寄り集まれば、韓国社会は不安定な状態に陥るほかない。こういった状態が持続すれば、潜在的な不満がふとしたきっかけで大規模暴力の形で噴出することもありうる。この間、ソウルで数千人の中国人がデモを起こして韓国人たちに暴力を振るったことは、韓国もこのような紛争に対して脆弱であることを示している。精神的・文化的準備がきちんとしていない状態では、そのような小さな暴力が大きな紛争を触発することにもなるのだ。
現在、韓国人の志向する社会は「南韓人中心の民主的経済成長社会」だ。民主化以降これまで、どの政権もこれと異なる社会を志向することはなかった。国民の政府〔金大中政府〕や参与政府〔盧武鉉政府〕もこれに違わず、この指向性は世界化〔グローバル化〕と金融危機の影響で、むしろより強化された。李明博政権はまさにこの強化された志向の当然の結果でしかない。韓国人は現在が色濃く延長された社会を願っているのである。しかし、この社会の終着点は、結局、破局である。資源の枯渇と気候変動の加速がもたらす結果に、これ以外の何があろうか。
韓国は、今、ドーピングに依存する運動選手のようだ。ドーピング中には、非常に俊足で良い成績を残すことができる。しかしドーピングが終わった後、その破壊的結果は10~20年にわたって徐々に姿を現わす。同じく、エネルギー資源という薬物投入の経済的成果はすぐにも現われるが、気候変動という破局が近づくまでの時間はとても長い。悲劇はまさにここにある。気候変動の結果がいくら破壊的だといっても、それを人間の単純な時間感覚で認知するにはあまりに長いということだ。だから、気候変動に対する準備は至難の作業にならざるをえない。いかなる社会であるべきか、に対して時間をかけてじっくり議論し、精神的・文化的な準備を進めて、実践的な作業がずっとつながればこそ、イースター島の住民のような運命を避けることができる。イースター島は15世紀頃、鬱蒼とした森で覆われていた。しかしこの森は、数百年にして完全に消え去り、それとともにイースター島の文明も終末を迎えた。イースター島の住民たちは、島の最後の木を薙ぎ払いながらも格別の感を抱かなかったであろうJared Diamond, Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed, Penguin 2005.。ただその時までそうしていたように、木切り続けていたのである。
気候変動に対する準備を下支えすべき中心価値は、持続可能性である。韓国では、持続可能性が跡形もなくゆがめられ、持続可能な成長、持続可能な経済という言葉が広まったが、持続可能性という時に最も重要なものとみなされるのは、生態と公正性である英語では sustainable development、sustainabilityという用語が使われるが、韓国では持続可能な発展という言葉が変形し、政治家と経済人たちの間では持続可能な(経済)成長という言葉がよく使われる。持続可能な成長という言葉は、2002年の初め盧武鉉大統領が就任辞で使ったものだ。この言葉は矛盾している。持続可能な発展という言葉は、発展をいかに定義するのかによって矛盾しないこともあるが、持続可能性と(経済)成長は両立できないからだ。限界が明らかな地球という系の中で、成長が永遠に持続することは不可能だ。よって、持続可能な成長は存在しえない。ところがこの言葉は、韓国人たちがどのような社会を志向しているのかを非常によく現わしている。持続可能を前に付けることで、一方では道徳性を示しているようだが、強調点は明らかに成長に置かれている。本稿で筆者が選択する用語は、持続可能性だ。持続可能性は経済(economy)を無視しないが、生態(ecology)と公正(equity)を大きく重視する。。このような二つの価値が最も良いかたちで実現する社会こそ、私たちが志向すべき社会だろう。生態的転換と同時代の人類および子孫に対して公正性を実現できる社会でなければならないのだ。そうしてこそ、気候変動の結果によって今後私たちに迫りくる気象災害だけではなく、北朝鮮と東南アジアから押し寄せる難民によって誘発される問題を、きちんと処理することができる。たとえば移住労働者や難民に対して、普遍的な人権の次元のみならず、私たちが気候変動に相当な責任を追っているがからこそ、彼らに私たちの中の一席を渡すこともできるという論議も、準備過程に入っていかねばならない。もしそういった準備がきちんとできていない状態で、このようなことが迫りくるなら、諦め、混乱、暴力に直面することになるだろう。
持続可能性という価値を中心に据えたうえでの気候変動に対する準備は「いかなる社会か」に関する難しい論争の道を経ねばならないが、他方で同時に「言葉」を超えた具体的実践が持続的に伴うことを要求する。準備に合わせた物質的な土台をひとつ一つ積みあげていかねばならないのであるが、これも決してたやすい事ではない。過去の成功例に対する緻密な評価をもとに新たな試みをはじめたとしても、必ず試行錯誤を経ることになるからだ。この間、バイオ燃料が石油から私たちを解放し、気候変動も緩和してくれるとして多大な期待を集めたが、すでにそれも熱帯雨林の破壊、穀物価格の急騰をもたらした厄介者だとみなされている。太陽光発電も、韓国ではいつのまにか山と野原を少しずつ削り取ることで、気候変動が進むほど減っていく食糧生産と競争的な関係になった現在、韓国で稼動中の商業用太陽光発電所は約30MW、計画中のものは300MWである。これらの発電所は、ほとんどすべて田畑や山に建設される。太陽光発電所1MWを建てるのに必要な土地の面積はおよそ15,000m²である。。この二つの例は、持続可能性に適合していると思われた技術でも、志向すべき価値に対する熾烈な論争なしに適用されるならば副作用を生む可能性があるということを示している。バイオ燃料や太陽光発電も「経済大国」という志向と合わさることで、そういう結果を生むのだ。
去る10年間、韓国社会でなされた物質的プロジェクトのうち、持続可能性の観点からみて最も評価に値するのは、ソウルの大衆交通システムの改革だった。生態と公正性という基準のもとで計算するなら、ソウルの新交通システムはかなり大きな意味をもっている。この時期の国家を運営した勢力は、いわゆる進歩陣営だった。しかし彼らからは、持続可能性に合った新しい策は何も出なかった国民の政府と参与政府では、セマングム〔干潟干拓〕事業、核発電の拡大、核廃棄場建設など持続可能性に反する企画がむしろ多かった。。国民の政府の時代、東江ダム建設計画を断念したことがあったが、望ましい方式ではなかった。逆説的だが、ソウルの新交通システムは、これらよりもっと強く「経済大国」を志向する反対陣営の念願だった。これは一方では、私たちが過去の成功例を評価する際に、政治的偏見を捨てる必要があるということを示している。しかし、ソウルの交通システムははじめからそれがどんな意味を持っているのかに対する論議なしに推進され、今はただ与えられたものとして存在するのみだ。これは他方で、持続可能性の基準に合うものを推進するにあたっても、それが価値に対する論争なしに進められるのであれば、意味を付与されることがないということを示している。それゆえ、気候変動に対する準備は、価値志向に対する論争と物質的企画をめぐる論争が熾烈に展開される中で、具体的な実践事例がひとつひとつ蓄積されるような形でなされねばならないだろう。これは、非常に難しいが避けることもできない課題である。(*)