창작과 비평

ジャンルの境界と今日の韓国文学

特集 1    ジャンル文学と韓国文学

 

 
 
柳熙錫 (ユ・ヒソク) jatw19@moiza.chonnam.ac.kr

文学評論家. 全南大學校 英語敎育科 敎授. 著書として『近代克復の里程標ら』(2007)があり、 譯書として 『批評の技能』(1991) 『近代化の蜃氣樓』(2001) 『知識の不確實性』(2007)があり、 主要な評論として 「リアリズム•モダニズム 論爭について」 「金少珍と1990年代」などがある。

 

 

 

1. はじめに

 
ジャンル文学が我が文壇で話題となっている。特にゲームや映画に取り換えられやすいファンタジーとSF、ファクション(faction)の声価が高まっている。その声価は実際、文学出版市場の販売指数に反映されている。今やジャンル文学こそ、21世紀の文化コンテンツの根幹をなす、創意力と想像力の宝庫という主張も度々提起される。これは文化研究に偏った論者たちの、比較的、一致された立場のようである。

もう一方、中間文学、または第4文学とも言われるジャンル文学に対する論壇の評価は、非常に紛々としている。国内の議論は『文学と社会』2004年秋号の特集「ジャンル文学の現在と未来」; 『文芸中央』2007年冬号の特集「第4の文学のために」; 『作家世界』2008年春号の企画特集「ジャンル文学またはライトノベル」などを参照。「本格文学」との関係設定においては、時に張り詰めた緊張が感じられたりもする。

文学におけるジャンルは創作様式を規定する範疇を指す。創作の分岐を指すジャンルは、近代以前にまで遡る悠久な伝統があるが、技法や形式、語調、内容、分量などがジャンルの境界を画定する要素である。このジャンルの概念とは違って、ジャンル文学そのものは近代の文化的産物である。ジャンル文学は市場の需要・供給の原則に相対的に緊密に照応する特定の読者層を主に持っている。このようなジャンル文学を定義するとしたら、特定の叙事的コードを活用して叙事の主題と範囲を集中化・専門化することで出版市場でそれなりの占有率を確保した「企画商品」と言えよう。主なお客はジャンル文学の慣習的物語の内容を繰り返して消費する過程で形成されるが、彼らがつまり、マニア読者である。

一方でジャンルの叙事と大衆文化の関係をまとめるやり方は相当、様々である。その中では後者を推理やホラー小説、SFなどを包括する概念として用いる論者もいる。すなわち、大衆文学を複数のジャンル文学「ら」を指し示す用語として位置づけるのである。もちろん概念設定はやり方次第であろうが、本格または純粋文学の場合、大衆文学との関係設定が言い争いの種になったりもする。ジャンル文学を脱近代の開放的叙事として規定しながら、その開放的意義を高く評価する論者なら、最初から本格文学と大衆文学の境界も問題視するであろうことは十分、予想できることである。ジャンル文学、大衆文学、本格文学を分別したり序列化すること自体を高踏的な文学主義として見なすであろうことは言うまでもない。

一応、序列化が抱えている問題は、ジャンル文学の近代的伝統が豊かな西洋文学を通じても提起できる。例えば、貴族と平民を一箇所に集めて公演されたシェークスピアのドラマや、字がわからない大衆も聞き楽しめる朗誦の時代を開いた--シェークスピアの戯曲を小説で受け継いだと評価される--チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)の作品が大衆文学であるか本格文学であるか聞かれると、両方ともだと言わざるを得ない。もちろんこの際、それがどんな次元の大衆文学で本格文学なのかという分別の問題が完全に解消されるわけではない。ファンタジーやSF、推理文学、探偵小説のような新しい大衆ジャンルを開いた先駆者たちであるホフマン(E. T. A. Hoffmann)やポー(E. A. Poe)も、ジャンル文学と本格文学の関係を論じる際、決して容易くない争点を提起するだけでなく、実際と虚構を行き来しながらアメリカの歴史的現実を穿鑿したホーソン(N.Hawthorne)の「ロマンス小説」はジャンル変容の一つの鑑でもある筆者はその中でホーソンのロマンス様式については、比較的、詳細に論じたことがある。「虫腹の想像力と歴史意識:ホーソンのロマンス論」、『近代克復の里程標ら』、創批2007、300~33頁。ホーソンをホフマンおよびポーと比較した件は322~23頁参照。。

この作家たちに対する文学史的評価は各々であろうが、彼らの存在そのものは本格文学や大衆文学が独自的ではなく、その二分法的構図もまた、歴史的に作られたことを気付かせる。その歴史的構成に留意すると、ジャンル文学に対しても根本主義的な接近は禁物である。西洋でもディケンズを輩出した19世紀のイギリスの場合のように、多様な下位ジャンルの物語方式を創意的に総合・活用することで長編小説の全盛期を開いた歴史的な事例が厳然たるものである。ただ、根本主義的な文学主義を警戒することで、肝心な、「非主流ジャンル文学」との緊張を通じて成し遂げられた文学の創意的な成就から目を背くことがあってはならないが、そのためにもジャンル文学で視野をすっかり開くと共に「本格文学的な地平」に対するまじめな問いを堅持することが重要である。

 

 

 2. ゲットー(Ghetto)化されたジャンル文学を超えて

 

実際、私たちの同時代の状況へと目を配っても、ジャンル文学の叙事的資産を活用して優れた作品を書き上げた作家は少なくない。その中でもアリエル・ドルフマン(Ariel Dorfman)はジャンルの境界問題を論じる上で手頃な示唆点を提供する。筆者は2007年に韓国を訪れたドルフマンの講演をオンライン紙面を通じて読者に紹介したことがある拙稿「ドルフマンの境界越えと韓国文学」、『創批週間論評』(weekly.changbi.com) 2007.7.24.。そこで次のような彼の問いを引用した。すなわち、「政治的であるが、政治パンフレットとは異なる言語を如何に探し出すか。大衆的でありながら曖昧な物語、多数の聴衆が理解するが、様式上の実験がなされており、また神秘めいているが、同時に皮膚で実感できる人間存在に関する物語を如何に成し遂げれるのか」(「死と少女」(Death and the Maiden) 作者後記) それに次いで筆者はこう書いた。

 

『我が家に火事が起こった』(My House Is on Fire)を始め、ドルフマンの多彩な小説もそのような問いに対するそれなりの熱情的な探求の結果である。要するに、「死と少女」を読んで見る読者・観客はそこからより多くの消費者たちの心を惹きつけようとする大衆文化の誘惑的な形式、すなわち、サスペンス、スリラーや探偵小説的な妙味を味わうが、その一方でそのような形式を全く異なる脈絡で借用し、転覆して常套的な図式に自足できぬ新しい方式の真実模索へと変える作家を見い出すのである。

 

  推理小説の妙味を叙述の変化を通して絶妙に生かしたドルフマンの『マスカラ』(Mascara,1998)でも、つまりそのような次元における真実の模索が確認できる。この軽長編でも確認されるところは、ジャンルの境界と範囲を創意的に拡張したり、変容しながら常套性に挑む文学にならない限り、ジャンル文学の可能性もその分、制限されるしかないということである。そのような脈絡で一つの作品が作品らしい境地に達するとき、ジャンル間の「交渉」がなされながら慣習的な叙事装置も解体されるはずだとしたら、次のような一つの命題が成り立つ。すなわち、ジャンル文学固有の成就はゲットー化されたジャンル文学そのものの克服にほかならない。だからといって、「ゲットー」にでも花が咲けるし、さらに文化的解放口としてのゲットーこそ、文学本然の創造性が発話される地点という主張そのものを否定しようとするわけではない。要は、互いに異なる叙事的構造と慣習を内蔵した個別ジャンルの統合的進化が「作品」として現れる現象に対する探求がジャンル文学論でも核心だということである。

そのような探求が切実に求められるのは、排他的な叙事の形式と慣習を創出することによって、マニア読者を確保するジャンル文学が我が文壇で意味深長な進化の様相を呈しているからである。顧みると、推理、ロマンス、ホラー、武侠、SF、ファンタジーなど、特定の叙事的コードを専門的な方式で加工・特化するジャンル文学が「上位文学」の領域を食い込んでいるという風聞が流れ始めたのは、1990年代ではないかと思われる。それはあくまでも実体の不確かな、大げさな風聞ではあったが、ポストモダンの思潮が急に押し寄せた世紀末では体制および反体制文化全体に浸透した80年代の(硬直された)考え方を否定する傾向が際立ったということも事実である。その過程で伝統的なジャンルの序列と位階はもとより、その文化的区分も薄れてきたし、2000年代に入ってはマニアを確保したジャンル文学がこれまで本格文学として見なされた領域との接点を広めている。

それはそうとしても、大衆文化の活力に負う古典的な作品を創出してきた西欧文学に比べ、韓国のジャンル文学の伝統は未だ日が浅いというべきであろう。これからが始まりだといっても過言ではなかろうが、大体2000年代初め頃まで続いたリアリズム・モダニズムの論争に自分なりに加わってきた筆者は、本格文学とジャンル文学の境界が薄れながら--それと同時に各々の文学に対する疑問が大きくなるにつれ--新しい形の形式実験が活発になっていることは非常に鼓舞的な現象だと思う。しかし、ジャンル文学の可能性に注目する立場であればあるほど、特定の年齢や性、階級に集中された読者層の成功的な確保が、かえってゲットー化に繋がって、ジャンル文学の地平を矮小化することには批判的な距離を置くべきだと思っている。顧みると、例えば1980年代当時の民族文学談論でもそのような隔たりは基本となっていた。もちろん様々な事情で基本が碌に守られなかった事例も少なくなかった。その点を認めるなら、素材主義に陥没した労働小説を否定的な意味でのジャンル化現象として判断し、それに対して公定の距離を維持しようとしたことも事実である。「作品」に重みを置いた民族文学がそのような現象をジャンル文学としての限界以前の、「よい文学」の基準に達していない例として判断したことは明らかである。

だとしたら、ジャンル文学を特定の審美眼で固まった「文学主義」の物差しで裁断することは避けるべきであるが、だからといって、作品の作品らしさを厳密に捉える批評的な姿勢を諦めてもならないだろう。その点を喚起しながら強調したいことは、地球化時代に応じる創意的な形式実験を積極的に求めた、嘗ての民族文学の問題意識ジャンル文学の観点から見ても考えるべきことが多い、そのような形式実験を求めた作品批評の事例を一つ挙げるとしたら、ベク・ナクチョン「『離れ部屋』が問うことと成したこと」、『創作と批評』1997年秋号参照。が現在、活発に創作されるジャンル文学を通じて深化・拡張されうる--逆にジャンル文学の地平が現実参与的な民族文学の資産を活用することによって豊かになれる--可能性である。ただしこの場合、われわれの作家たちが敢行する多様なジャンル実験も2000年代後半の、変わった現実の脈絡で見てみる必要があろう。

特定の形式と内容を内蔵した、書くこととしての文学ジャンルも、同時代の歴史的現実との拮抗関係の中で胎動し、発展してきたことを示す例は西欧文学でも無数にある。われわれの場合、民衆の生命力を創意的に受容したジャンル文学の伝統が貧弱だと先述したが、だからこそ励ましが求められる実情でもある。われわれの現実に介入する近来のジャンル叙事を考えてみると、一層そうである。例えば、近年、頓に活発に書かれる「ペクス(文無しののらくら)文学」は1997年のIMF事態以後、深化した両極化の現実とかけ離れない。もう一方、イ・ホン(李虹)の『ガールフレンド』(2007)、(それよりもっと溌剌とした)ジョン・イヒョン(鄭梨賢)の『浪漫的愛と社会』(2003)や『甘い私の都市』(2006)、(前作より意味深長なジャンル的な発展様相を示す)『今日の嘘』(2007)は言わば、韓国版のチックリット(chick lit)に当たるのではないかと思われる。専門職の未婚女性が急に増えた韓国の大衆社会の実体はここから確認できる。これとは対照的に、「シルバー文学」として分類できるバク・ワンソ(朴婉緖)の『余りにも寂しいあなた』(1998)や『優しいボクヒさん』(2007)は、急増する老人たちの日常に基づいて形成された作品である。それからキム・サグァの『ミナ』(2008)やイ・ミョンラン(李明娘)の『ナルラリ on the pink』(2008)は、青少年たちが当面した抑圧的な制度権教育と疲弊した現実を胎盤にして生まれた物語である。特定の年齢や階層、または性を中心に叙事が形成されるこのような作品らが一つの独自的なジャンルを形成していくかは--形成過程で他のジャンルとの重なる範囲を創意的に広め得るかは--見守ることだが、「ジャンルの政治学」と言えそうな兆しが我が文壇でも幅広く見られていることだけは確かである。

このような脈絡で一定の様式で書くことが一つの文学的ジャンルとして成り立つ現象を、文学自体の自立性に因ることとしてにだけ解釈することも文学主義の痼疾である。ジャンル文学のジャンル的特性を、それが生産される現実の脈絡で捉えようとする努力が大事であるが、より積極的に歴史的状況に対する、ある実践的対応としての「ジャンル文学」を想定してみることもできよう。せっかくだから外国文学でSFジャンルを創造的に活用した事例でありながら、われわれの作家たちにも刺激になれそうな作品を紹介するのが適切であろう。

 

 

3. ジャンル文学の境界解体と現実参与: 『第5屠殺場』

 

去年、死去して国内でも活発に紹介されているヴォネガット(Kurt Vonnegut)の代表作とされる『第5屠殺場』(Slaughterhouse-Five,1969)はジャンル文学の現実参与を考える際作家がどのような姿勢で創作に臨んだかは『プレイボーイ』誌とのインタビューからも確認できる。「なぜ書くか」というインタビュアーの質問に彼はこう答えた。「私の動機は政治的です。私は作家たちが自分の社会に服務すべきだといったスターリン、ヒトラーそしてムッソリーニに同意します。(しかし--引用者) 私は作家たちがどのように服務すべきかについては独裁者たちと考えを異にしますね。主に私は彼らが変化の主体(agent)になるべきだ--生物学的にそのような主体になるべきだ--と考えます。希望するによりよい変化のことですね。」“Playboy Interview,” Kurt Vonnegut: Wampeters, Foma & Granfalloons (Delta Book 1999) 237頁, 強調は原文。、示唆に富んでいる。この作品は第2次世界大戦当時、ドイツの由緒深い都市、ドレスデンを「石器時代」に戻したアメリカの火炎大爆撃から生き残った一人の人間の生涯に関する物語である。ポストモダニズム文学でよく借用されるメタ的形式を帯びるこの小説は、最初の章で作家であり話者でもある「私」が『第5屠殺場』を書くようになった多難な経緯を記述する引用のテキストは、Kurt Vonnegut, Slaughterhouse-Five,or The Children’s Crusade (Delta Book 1969)である。以下、引用はこの本に基づいて筆者が翻訳したもので、最近、ハングル翻訳本としては『第5屠殺場』(アイフィールド2005)がある。。残りの章の主人公は、作家が戦争捕虜としての体験を反映した虚構の人物、ビリー・フィルグリム(Billy Pilgrim)である。従って架空の分身を前面に出した自伝的小説なのである。特異なのはビリーの生が反映される様相である。ヴォネガットが1章の終わりで宣言するように、ビリーの戦争体験は「聞いて:ビリー・フィルグリム が時間から解放された」という言葉で始まり、鳥の囀り「ちゅうちゅう?」で終わる。ビリーは文字通り、随時、時間跳躍をする主人公である。作品は写実主義小説の文法とは全く合わないプロットと事件で点綴している。その中で最もとんでもないのは、1967年にUFOがビリーをトラパルマドアという外界人惑星に連れて行った事件であろう。彼はトラパルマドアの動物園でポルノスターのモンタナ・ワイルドハックと同居しながら「外界の福音」(The Gospel from Outer Space)に接する。

その福音の要点とはすなわち、「私がトラパルマドアで習ったことの中で最も重要なのは、人が死ぬとき彼はただ死ぬように見えるという」ことである。(23頁、強調は原文) 「彼は相変わらず、過去に住んでいるから葬式で人々が泣くのは甚だ愚かなこと」である。なので地球人たちは常に起こるように「構造化してある」(101頁)辛くて苦しいことは忘れて、現在の楽しい瞬間に生を集中すべきだということである。この福音を文字通りに解釈すると、決定論が加わった楽観主義となる。実際、作品は自由意志を否定する発言を所々で盛り込んでいる。一言でいうと、宇宙の惑星の中で自由意志を語るところは地球しかないということである。

しかし、自由意志の否定を骨子とする外界の福音を言葉通りに決定論の信奉として規定するのは、あまりにも単純な解釈である。それよりは、ビリーが主唱する楽観的決定論は、自由意志を持った人間が20世紀に犯した極悪な野蛮に対して示す、一つのアイロニーカルな反応として解釈したほうが妥当だと思われる。実際、この解釈は本稿の脚注5で提示したヴォネガットの創作信念にも符合する。その意味でもSFジャンルの慣習的物語装置に当たるトラパルマドアという惑星と外界人の存在が作品の意味地平をどれ程豊かにしてくれるかは考えるべき争点である。ヴォネガットがプロットを運営するに当たり、そのような装置を活用したことは人間中心主義に対する疑問と無関係ではない。言い換えると、ドレスデンのような都市で行われた夥しい蛮行を、単に人間を再び中心に立てておいて叙事を進めていく方式では解明する方途がないという認識が働いたのである。作家は自分の戦争体験を通常的な叙事方法ではとうてい伝えられないということを繰り返して打ち明けたりもする。

この作品は余りにも短くてあべこべで騒がしいのよ、サム。何故ならば、大虐殺については理性的ないかなることも語り得ないからでね。すべての人が死んだことになっており、いかなることを語ったり、いかなることをも決して再び望むことはできないから。大虐殺の以後はすべてがとても静かになるのよ。いつもそうだよ、鳥たちだけを除いて。ところで鳥たちは何を語る?大虐殺について語りうる言葉とは「ちゅうちゅう?」のようなことしかないよ。(17頁)

 

  原始爆弾によって人類が絶滅した空想科学的な状況は、もう『綾取り遊び』(Cat’sCradle,1963)でも登場させているが、『第5屠殺場』の、昼夜を分かたず行われる--「意識の流れ」や絢爛たる時空間伝道技法で織り成された本格モダニズム文学とも実感が懸け離れている--時間跳躍をSF物の叙事的慣習と連関づけると、次のように言えよう。すなわち、「ちゅうちゅう?」という言葉を除いては到底伝えられなさそうな主題の圧倒的な重さが叙事の通常的な形式に過負荷をかけたのであり、その過負荷を引き受ける過程で作者がSFジャンルの慣習的な叙事を借用・変容したということである。トラパルマドアという素材は人間の世界を相対化する認識上の根本的な転換--人間中心主義を解体する、言わば、宇宙的観点--を試みようとする努力と無関係ではない。

そのような脈絡で『第5屠殺場』をもう少し積極的に評価するとしたら、到底想像だにできぬ蛮行を想像し、その想像を実現した20世紀西欧の世界観に全面的に逆らう独特な「無垢」の軌跡と言える。だとしたら読者にしても『第5屠殺場』をヒューマニズム的「反戦小説」として賞賛することでさえ常套的な修辞になり得ることを警戒すべきではなかろうか。もちろん読者はこの作品を読みながら、ドレスデンという都市の歴史はもとより、第2次大戦当時のドレスデン大爆撃がどれ程残忍で非人間的であったか、またどれ程多くの人々が犠牲になり、アメリカの政治家たちがその爆撃をどのような視角から見ているか、などに関する事実次元の多くの情報に加減なく接することとなる。だからといって、作品が反戦平和を目だって掲げているのでもない。ビリーという、か弱い人間の壊れた人生と目まぐるしい夢想を通じて極悪であった過去を「忘れて」、現在の生に充実であるべきことを説破しているだけである。

ここで『第5屠殺場』が出版された時代を「近代文学終焉論」が横行する2000年代中後半の韓国の文壇現実と重ねてみることも興味深いことであろう。1960年代は20世紀アメリカ文学史においても相当、特異な局面として記憶されるであろう。その時代はフレドリック・ジェイムソン(Fredric Jameson)が「後期資本主義の文化的論理」と規定したポストモダニズムが本格的に勃興していた時期である。当時、一方では文壇内外の批評家と小説家たちがテレビや映画のような大衆文化媒体の勢いによる「小説の死」を公言していた反面、もう一方ではそのような大勢に逆らって既存の小説様式の革新を試みた数多くの文学的才能たちが登場した。50年代を無名作家で過ごしたヴォネガットも、そのような才能たちの一人であったことは言うまでもない。彼の作家的位相は既成のSF物を創意的に活用することで確保できたのであり、ポストモダニズムの旗手として評価されるトマス・ピンチョン(Thomas Pynchon)やジョン・バース(John Barth)などと区分される地点も、主にそこから見い出せるのではないかと思われる。

しかし、彼がポストモダニストか、そうでないかは重要でない。特にジャンル文学の可能性を念頭に置く際、焦点はやはりヴォネガットの抱いた、伝統的な小説形式に対する疑問である。例えば、彼が西欧の古典文学に対してどのような立場を取ったかは、ローズウォーター(Eliot Rosewater)という作中人物の次のような発言からもうかがえる。すなわち、「人生に対して知るべきすべてがヒョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に」あるが、「もうそれだけでは十分でない」ということである。(87頁) その延長線上で彼は人類の生存のため「素敵な新しい嘘」を発明すべき必要に触れたりもする。(87~88頁、強調は原文) もちろん激動の60年代に真摯に向き合おうとしたアメリカの作家たちの大多数がそのような必要を感じたであろう。ドレスデンで「13万5千のヘンゼルとグレーテルたちが生姜菓子人形のように火に焼かれた」のを目撃したヴォネガットは「素敵な新しい嘘」を緻密に運算してより大衆的な方式で駆使した場合に当たる。

それは基本的に「考え」を求める大衆性である。最初の作品である『自動機械ピアノ』(Player Piano,1952)の時からSFジャンルに強い政治性を吹き入れ始めたヴォネガットの、一生に渡る話頭は、一方では技術と人間、もう一方では人間と人間が結び付けれる真っ当な関係であったといっても過言ではない。しかし、そのような関係を生かしだすのに、彼の科学小説がどれ程そのジャンル特有の想像力を発揮するかを、筆者は全体的に判断できるほど読んでいない。ただ『第5屠殺場』の「素敵な新しい嘘」が持っている倫理的真実がかえって「人生に対して知るべきすべて」を聞かせてくれる19世紀西欧のリアリズム文学の現在性を確認してくれるところがあることを喚起したいと思う。少なくともその点でヴォネガット文学の、新しさに対する過度な意味付与を警戒すべきであろう。

その反面、SF物がよく表すユートピア、またはディストピアに対する耽溺と魅惑を『第5屠殺場』で見い出すのは難しい。ヴォネガットがSF物のジャンル的素材を借用しながらその傾向性、特にユートピア的ファンタジーに耽らなかったことには、科学技術が人間と世界をどのように変化させ、人間という種はどのように生きるべきかという問題意識が働いたと見なすべきであろう。そのような脈絡でそれ程破局的で自滅的な大量虐殺の現場にいた一人の人間の真実を再現する物語に、人間嫌悪が全く載せられていないという点も興味深いことである。

1960年代の時点でケネディー、マーティン・ルーサー・キングなどの暗殺を喚起することで始まった終章は、ドレスデンが破壊されてから二日が過ぎたときに戻って、ビリーが死体の山を片付ける労役に動員される場面で淡々と終わる。ビリーの「宇宙的天路歴程」を仕上げる最終発言は「ちゅうちゅう?」である。しかし、鳥の隠喩的言語と共に、最後まで読者の脳裏から離れないものは、「外界の福音」が指し示す地上の知恵、すなわち、ラインホルド・ニーバー(ReinholdNiebuhr)の祈祷文である。それはポルノスターのモンタナ・ワイルドハックのおっぱいの間にかけられたネックレスに刻まれているが、ヴォネガットはそれを終章が始まる直前に絵で表現した。祈祷文の内容は次のようである。「私が変えられないことを、受け容れる平安を/私が変えられることを、変え得る勇気を/その二つを区別できる知恵を私に承諾してくださるように。」

 

 

 4. バク・ミンギュ(朴玟奎)のジャンル実験について

 

この祈祷文をどう受け止めるであれ、その「二つを区別できる知恵」を得るためにも、大衆文化に積極的に介入しようとする努力が必要である。大衆文化はある一個人が総体的な「認識の地図」を描くのが不可能である位、膨大な一つの帝国である。今日、個別民族国家の固有の文化は事実上、アメリカが主導する大衆消費主義の前でどうしようもなく露出されているが、時にはそのような消費主義の尖兵の役割をする大衆文化に対しても作家たちのより意識的な介入を望むようになる。例えば、百貨店という消費空間で起こる人間群像の多様な欲望を解剖したソ・ユミ(徐柳美)の『ファンタスティック蟻地獄』(2007)もそのような介入の産物であると共に、ある面では21世紀の労働小説に当てはまったりもするが、「本格文学」の成就として分類されるテキストも正にその消費文化の磁場を通りながら時間に対する耐久性を獲得したことを歴史的に省察するに値するものであろう。

そのような脈絡の中でもバク・ミンギュ(朴玟奎)は一つの「試しケース」である。今、われわれの文学で詩と小説分野を合わせて、バク・ミンギュほど大衆文化に徹底に「汚染」された作家も珍しいだろう。『三美スーパースターズの最後のファンクラブ』(2003)が発表された当時、いわゆる3S政策の一つとされていたプロ野球のような大衆スポーツのことを小説で書いて制度権の文学賞が受けれると思った人は、あまりいなかっただろう。スーパーマン、バットマン、アクアマン、ワンダーウーマンなどを全員集合して、漫画を彷彿する方式でアメリカの世界支配を風刺した『地球英雄伝説』(2003)はどうか。正にヴォネガットを凌ぐいけずうずうしい言語である。その素知らぬ振りの水位が危ういためなのか、当時にも「果たしてバク・ミンギュのこのような試みが小説史的に、そして世代論的に意味ある兆候なのか、それともただすぐ消える一時のエピソードなのか判断するにはまだ早い」という評価があったヨム・ムウン(廉武雄) 「生態的ユートピアの夢」、『創作と批評』2003年冬号、406頁。。しかし、基本的には作品の美徳と可能性を正当に評価する批評であったが、それからもう4年が経った今は、バク・ミンギュの試みが単に一時的な現象ではないという判断を下してもいいと思われる。

その一次的な証拠は小説集『カステラ』(2005)を始め、1997年のIMF事態以後、人間暮らしの内情を切なく描き出した、写実主義系列の近年の短編「昼寝」「アーチ」「黄ばんだ河、船一隻」などが挙げられよう。もう一方、新しい実験的発話も見逃せないが、SFの叙事的形式や発想を借用した『ピンポン』(2006)、「クロマン、ウン」(『文学と社会』2007年秋号)、「ギップ(深)」(『ムンハックドンネ(文学村)』2006年冬号)などと共に、武侠小説を加工した「ゾル」(『創作と批評』2008年春号)などが彼の形式実験に興味を増す作品である。

まず、これまでバク・ミンギュが広めた宇宙的想像力を正統SF物として、実感の沸くように具体化したと思われる「ギップ」を読んでみよう。内容そのものは簡単である。世紀2487年の未来の地球で、人類が地震で作られた海丘に「意志と探求という両枝の輪の付いた自らの錨を」(286頁)下ろすが、物語は肉体が消滅して心のみが残った「ディーパー」たちの「対話」で終わる。作家は写実主義的なSFと言えるほど、精巧に仮想の状況を設定し、その状況で人類が「生の意味」を開拓する冒険を浮き彫りにする。金星で採取した鉱物と深海なまこの体液を研究して、科学者たちは画期的な成果を上げたところ、人間はティモ合金の減圧服と深海生物の体液へと体を変えることによって、多くの犠牲にも関わらず海丘の底にまで辿り着く。興味深いのはやはり結末である。海丘の果てに着地した「ディーパー」たちは、其処で地上と繋がった「臍の緒」を切って、心のみが残ったままその底に開けてあるもう一つの隙間の中の深淵に向かって挑戦する。

この挑戦の「人間的余韻」こそ、ジャンル文学として「ギップ」が持つ微妙さであり独特さである。「ギップ」はSFジャンルの慣習的図式である人間対科学や、自然対人工などからすっきり脱することによって、ジャンル文学そのものでも本格文学の地平に進入できることを示す。有的存在としての人間そのものに対する問いを新たに気付かせ、そのような人間がどのような方式で自分の人間的限界を克服するかを豊かな想像力で再現することで、数百年後の未来の状況が正に今日の人間が直面した文明的危機に対する隠喩的な論評となるのである。

「ゾル」はSFの正攻法を駆使した「ギップ」とは全く異なる。武侠ジャンルである。とぼけた風刺を掌風のように飛ばす物語である。このような「ゾル」を読む時間は、かつてキム・ヒョンが批判した、武侠誌を読む「冬眠の時間」とは両立できない。「ゾル」の龍字4個は、武林の絶対高段者、すなわち、大天拳王のキム・イルヘ、青龍剣帝のチェ・イル、雲霧天馬のソン・ウジン、氷海千手のジョ・インドクを指すところ、「絶対武林の四天王、中国中原を震わせた東方四龍」が繰り広げる超絶頂の武功は、20世紀韓国現代史の明暗を武侠形式で表す。もちろん彼らの行跡は一種の擬装に過ぎない。そのような擬装の隙間に入れる仄めかし、これが本物である。

 

 ははあ、不届きな。どなたの前だと思ってお前が… 今日、三人の武神様がお集まりになると私がこまごまと言ったのに! 今にも泣き出しそうな徒弟が結局、どっとばかり泣き崩れた。四龍様が集まると何がですか… 何を… 政府でも覆すんですか? 四名様が力を合わせると、何か… サムソンに勝てますか? (193頁)

 

  バク・ミンギュ(朴玟奎)の寸鉄が単なる面白話に留まらないのは、今日の民衆の実感と正確に一致しながらも、そのような実感を考え直させる滑稽な風刺の現実性のお陰である。武侠誌特有の語法と表現を通して、曲がりくねったわれわれの現代史と庶民たちの生における濃い悲哀をそれとなくそそり出すバク・ミンギュのジャンル実験がこれからどう進化していくか興味深い。

『ピンポン』(2006)はそのような興味をある程度満たしながら、また一方でそそる作品でもある。ジャンル文学の観点から『ピンポン』を見る際、最も目立つ点はやはりジャンル的アイデンティティである。この軽長編は二人の中学生がひどく体験する「除け者」の悪夢を扱ったが、先述したキム・サグァの『ミナ』やイ・ミョンラン(李明娘)の『ナルラリ on the pink』のような、青少年の逸脱を掲げた社会(批判)小説にはうまく当てはまらない。卓球という身近な素材を実に奇想天外な方式で展開しながら読書の面白さを増してくれるが、『ハリー・ポッター』のようなファンタジーときっかり合うのでもない。SF的な想像力が発動しながら黙示録的雰囲気が作品を覆ってはいるが、特にSF物とも言い難い。系統が定かでない「雑種」である。

しかし、ここでも雑種対純血という構図は避けたほうがいい。先に強調したように、バク・ミンギュは他の誰よりも大衆文化の多様な素材を非慣習的な方式で活用した作家である。『カステラ』でもその点はいくらでも確認できる。その中でSFの素材を導入した事例としては、「いやいや、マンボウとは」や「コリアンスタンダーズ」が挙げられよう。この二つの短編は両方ともまだ実験的な試みに留まった感じであるが、伝統的な写実主義の文法を何構わず破壊するこのような短編をまともに分別して読むためには、読者も特定の読み方に慣れていた自分の読書習性を問題視すべきときがあるはずだ。さらに、慣性的な読みを撹乱するバク・ミンギュの作品が、別にSF的な発想を借用した短編に限るのでもない。表題作の「カステラ」にしても、事実的因果関係を軽く無視する、冷蔵庫に関わる様々な情報と連想と想像を縦横無尽に繰り広げた物語である。この短編は「いやいや、マンボウとは」や「コリアンスタンダーズ」とも区別される奇抜な発想の集約である。話者自身の両親を含めた世界の物象を冷蔵庫にきちんきちんと畳み込む荒唐無稽な物語が進みながら、冷蔵庫の中に入れておいた「世界」がふいとカステラに変わり、「その暖かくて柔らかいカステラを噛みながら/私は涙を流した」(35頁)で終わる最後のくだりに辿り着くと、読者は「一軒の工場が噴出しそうな騒音を出す」冷蔵庫を友にして暮らす人の疲れた日常を実感したりもするのである。

散文的な説明にうまく還元されない「カステラ」の、そのような実感に重みを置けば置くほど、この短編をどのジャンルの文学だと見なすべきかも結局、副次的な問題である。その点は『ピンポン』でも同じである。しかし、この時も焦点はやはり『ピンポン』の複合ジャンル的な特性が読者の読み方にも一定の影響を及ぼすであろうということである。『ピンポン』に関するこれまでの評価で興味深い逆説は、評者たちがかつての民族文学およびリアリズムで相対的に重視した写実主義の紀律に合わせて作品を読んでいるということである。『ピンポン』をもって「資本主義体制に投降した者の諦念と冷笑に留まっている」という断定もありふれているが、物語の結末における希望の不在を指摘するのもそうである。多くの論者たちが悲観と楽観の構図に『ピンポン』を無理に当てはめようとする印象が強い「諦念と冷笑」に関する部分は、グォン・ユリア「地球村失郷民」、『今日の文芸批評』2007年春号参照。楽観と悲観の構図と連関しては、それぞれチャ・ミリョン(車美怜)「幻想はいかに現実を超えるのか」、『創作と批評』2006年夏号、268頁;ジン・ジョンソク(陳正石)「社会的想像力と想像力の社会学」、『創作と批評』2006年冬号、214~15頁。。

結果的に彼らの慎重な、または中道的読みは『ピンポン』のような雑種的叙事のある一面にだけ集まる。すなわち、『ピンポン』を知らず知らずの間、写実主義小説の範疇に入れて考えながら、バク・ミンギュがあれこれの方式で「ドリブルした」現実、または文明批判に集中する(多少、生真面目な)読みなのである。先述したように、そのような批判は『ピンポン』の雑種性を構成する一つの要因に過ぎないし、その批判の意味や評価も残りの二つの要因、すなわち、ファンタジーおよびSF的な相貌と分離できぬ性質のものである。さらに楽観か悲観かを問い始めると、作品は世界がアンインストールされた後、「モッ」が目覚め、学校に登校するところで終わるのではないか。そのように学校に帰ってくるモッについて、バク・ミンギュ自身は希望を語りたかったといったが、とにかく『ピンポン』のような作品を論じる上で、評者たちが悲観と楽観の枠に拘ってはならないと思える。

筆者は『ピンポン』が災難の「想像力に発動をかけながらも、それをわれわれが知っていると勘違いしているこの世界を尋問する方式で活用する」作品であることを強調したことがある。それから「ゾッとする核戦争に劣らない、除け者たちの受難のような「陳腐な日常」に、活気あふれる発想で献身する作家が我が文壇にもっと多くなることを」希望した拙稿「「災難の想像力」と『ピンポン』」、『創批週間論評』(weekly.changbi.com) 2006.10.17.。その文章は短いオンライン紙面に発表されたものだから、この場を借りて希望の根拠をもう少し提示しても許されるだろう。

   ジャンルの固定された境界を創意的に解体・活用して新しい形態の「物件」を作るに際しても、機械的な原理に充実したエンジニアとしての作家よりは、原理を応用し、ひいては変えたりもする「ブリコルール」(bricoleur)としての作家がより有利であろうということは確かだと思う。しかし、その場合も既存のジャンルらの有機的分散と統合を「作品」として織り成す境地が要となるだろう。その意味でも『ピンポン』は注目に値する。例えば、モッとモアイおよびチスの連中を中心に繰り広げられる、ある面では成長小説としても範疇化できる「除け者」の耐えられない生が現実逃避の衝動が漂う空想科学的な幻想としてつながるのも尤もらしいだけでなく、「放射能蛸」や「シルバースプリングのピンポンマン」のエピソードも『ピンポン』の宇宙的想像力にそれなりの「地球的意味」を与えるのに役に立っている。その過程で高度の暗示的効果を出す場面も少なくない。「スキナーのボックスで養われたネズミと鳥」が「人類の集約」としてのラインホルト・メスナーおよびマルコムXと繰り広げる無限卓球競技が正にそうである。この場面は資本の利潤搾取が絶頂に達した新自由主義的地球時代に対する抵抗的寓話として読める余地さえある。もちろん『ピンポン』の面白さが必ずしも資本主義体制に対する作家の意識的な批判から生じるのではないだろうけど。

要は、その批判も青少年の逸脱、空想科学、ファンタジー、社会批判など、多様な叙事的要素を集めたり散らかしたりする叙事実験の効果の中の一つであるという点である。ただ、その効果がそのような多様な分岐のジャンル的形式と内容を総体的に総合する--言わば、特定のジャンルに特化しにくい長編小説特有の効果に比肩するほどの--境地で発散されるものなのかはもう少し考えてみるべき余地を残す。バク・ミンギュの文学が「時間潰し」の既成の大衆小説の娯楽性とは明確に異なる発想と面白さを、挑発的に提起し感じさせるので疑問が高まると言えようが、これは『ピンポン』の「抽象性」の抱えている問題とも無関係ではなさそうである。『ピンポン』で臨機応変に駆使される卓球人や卓球界というアレゴリーよりは、われわれの生をより具体的に圧迫する精密な「写実的象徴」を読者は望んでいるのである。この願いは、大衆性と政治性をもっと精巧に結合することによって、ジャンル文学のゲットー的境界を越えなければならないという注文とも通じる。

 

 

5. むすび

 

実際、このような要求はバク・ミンギュ自身の発言に基づいたものでもある。彼の言葉のように、「去る数十年間、せめてわれわれが耕したのはリアリズムしかない」としたらイ・ギホ(李起昊) ジョン・イヒョン(鄭梨賢) バク・ミンギュ(朴玟奎) キム・エラン(金愛爛) シン・ヒョンチョル(申亨澈) 座談「韓国文学はもっと進化しなければならない」、『ムンハックドンネ(文学村)』2007年夏号、104頁。、取りも直さず、そうだからこそジャンル文学の実験においてもリアリズムの遺産を活用すべき必要が切実となる。もちろん彼が何をもって「リアリズム」というのかも気になるが、韓国文学史における「モダニズム」文学という存在がそれ程簡単に一蹴されるわけにはいかない。とにかくジャンル文学間の重なり合う範囲を広めるためにも、両文学の資産を動員すべきであろう。しかし、リアリズムであれモダニズムであれ、より重要な点は、韓国文学の遺産の、創意的相続の持つ真の意味をジャンル文学の叙事的実験という観点からも反芻してみることである。ジャンル文学固有の成就もゲットー化されたジャンル文学の克服にあるという命題をまともに受容しないでその相続の真たる意味を明らかにすることはむずかしいとするならば、もっとそうである。

ホーソンやドルフマン、ヴォネガットなど、外国の優れたジャンル実験の事例に注目して積極的に受容すべきことは、別に2000年代に限る課題ではない。ただそのような受容もこれからは単なる追い付きを超えて、2008年韓国文学の地形でバク・ミンギュと多数の作家たちが模索するジャンル文学の創意的活用可能性を具体化するところに集められるべきだということは強調に値するだろう。韓国文壇における活発なジャンル実験も外国の優れた成就を集め入れながらわれわれの現実の新しい矛盾と「文学的な戦い」を堅持するときでこそ、始めてジャンル文学の破片化が克服でき得るだろうし、そのような戦いと克服ならば、4・19以後、韓国文学を牽引した民族文学の意味ある継承として、民族文学を超えて進むことも可能であろうと信じる。

 

訳=辛承模
季刊 創作と批評 2008年 夏号(通卷140号)
2008年6月1日 発行
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