창작과 비평

不確実な生のなかで芽生える新軍事主義

2014年 秋号(通卷165号)

 

 

金エルリ:梨花女子大学リーダーシップ開発院特任教授、韓国移住女性センター共同代表、平和を作る女性の会共同代表を歴任。主要論文に「超男性空間において女性が軍人になる経験」「同盟のジェンダー政治学」などがある。

 

 

1.新軍事主義

 

一般的に軍事主義とは、軍事的価値を称揚し志向する理念を指す。それは、戦争と戦争準備を当然視し、正常な社会活動とみなす態度であり行為であり、これを持続させる制度である 。[ref]軍事主義の概念については拙稿「軍事化と性の政治」(『民主法学』第25号、2004年)を参照。軍事的価値あるいは軍事主義的属性としては、好戦性、物理的暴力性、軍気、敵と味方を区分する集団の境界性と征服の追求などが挙げられる。[/ref] 軍事主義という用語は曖昧で学者ごとに使い方が異なる。それは軍・産・学の風剛体のような社会システムを意味しもするし、象徴とイメージによる文化現象でもあり、また、政治集団の統治技術でもある。シンシア・エンロー(Cynthia Enloe)の語法にしたがえば、誰であれ軍事的価値を受け入れ、軍事的な解決方法を非常に効率的だと考え、弱肉強食の世界で軍事的態度ほど確実なことは無いと信じれば、軍事化されたと考えられる。[ref]Cynthia Enloe, Globalization and Militarism, Rowman and Littlefield 2007, pp.3-6.[/ref] 軍事主義は社会が特定の方向に流れる傾向性、あるいは人々の行為や思考を特定の方向に導く社会的エートスだと言えるだろう。

韓国の軍事主義は歴史のなかで構成され継承される過程にある。被植民、分断、朝鮮戦争〔韓国戦争――〕、韓米同盟、南北朝鮮〔南北韓〕の長期の軍事的対峙などを経て、軍事主義は生成されてきたし持続してきた。韓国〔南韓〕の人々は分断体制のもとで南北朝鮮の軍事的対峙を60年間も経験し、特定のかたちで組織された戦争の恐怖のなかで、そして国民ではなく左翼として排除されうるという不安感のなかで、ナショナルアイデンティティを構成してきた。この感情は一時的な波ではなく、長い間、歴史的・政治的混乱のなかでつくられた一種の慣性である。軍事主義はこの慣性に深く染み込んでいる。

ポスト冷戦時代を拓き文民政府が誕生した1990年代の後にも、軍事主義は批判と省察の対象とされてきた。非民主的社会、権威主義的官僚社会、暴力的社会、性差別社会をつくった構成要素としての軍事文化は、解消されるべき社会的障害であると指摘されてきた。軍事主義は単に政権をとった集団の統治方式なのではなく、私たちの社会に蔓延している現象であり規律であるという自己反省的議論も盛んになされた。大きな物語のなかでは表象されない政治的言語の不在を指摘し、日常的な生において経験する軍事主義が論じられもした。そのなかで軍事主義は、暴力と抑圧の政治を意味していた。しかしながらこんにち、軍事主義は全体主義の決然さとは違って事案別にそのあり方を異にし、時に「楽しさ」を随伴させるという点で、その性格を見直す必要に迫られている。1960~80年代の軍事主義は、準戦時体制に類似した軍事組織を基盤として国民を国家次元で動員するというかたちで現れていたが、2000年代以降は自由民主主義の政治体制を傷つけずに自己啓発という新自由主義的統治性のなかで作動している。最近、軍隊の話がメディアをつうじて楽しさと思い出の一幕というように消費され、疑似軍事訓練が克己体験に借用されることで、軍事的価値は個人の生の非常に近い所で関わりをもつようになった。インターネットやSNSで宣伝動画を簡単に広めることができるようになると、軍は早々と女性アイドル歌手などタレントを広報大使にして軍事文化と兵営生活を非常に親密なものとして感じさせようとした。数年前の俳優のヒョン・ビンの海兵隊入隊はそれ自体として絶大な宣伝効果を醸し、軍隊に行ってこそ――なんなら海兵隊に行ってこそ――本物になるという「真の男」のファンタジーを強化した。

しかし他方で、政治的には維新体制の回帰が論じられるほどに理念攻勢が展開される状況において、伝統的意味での軍事主義のあり方もまざまざと息を吹き返している。南北の軍事対立が今なお私たちの生を規定していることを実感させてくれる。国外をみても、アメリカが「アジア回帰(Pivot to Asia)」政策を強化したことでアジアの軍事化が進み、日本が再武装を試みていることで東北アジアの情勢も緊張している。このような周辺国の軍事戦略は、韓国にとっては安保と軍事主義を強化する根拠となる。

今、軍事主義は無鉄砲にではなく、一層巧妙に作動している。軍事主義は今なお分断体制下において恒常的な敵を想定することによって、戦うべき対象が明らかでその対象への敵対感を呼び起こす、ポスト冷戦時代の冷戦状況の持続性というコンテクストを露わにする。しかし同時に、日常の生においては新自由主義と結びついて、単に自己犠牲ではなく自己利益に適うやりかたで作動する。先述したように反共規律社会において軍事主義は国民にたいして訓育的動員の次元で現れるが、新自由主義の統治社会では、それは自己啓発の個人的成就と化す。本稿ではこのような現象を新軍事主義と表現する。新軍事主義という用語は「軍事的成長主義」と「軍事化された近代性」[ref]ホン・ソンテは軍事的成長主義という用語で「日帝〔日本帝国主義〕の軍事主義を基盤として政治的目的のために外形的成長を追求する朴正熙型の近代化路線」を強調する。軍事的成長主義は外形的成果を短期間に出すよう効率性を追求するが、90年代以降は聖水大橋や三豊百貨店の崩落事故でその杜撰さが浮き彫りになった(ホン・ソンテ「軍事的成長主義と聖水大橋の崩壊」『20世紀韓国の野蛮』2巻、イ・ビョンチョン/イ・グァンイル編、イルピッ、2001年)。ムン・スンスクは軍事主義を社会システムと捉えて軍事化された近代性を概念化したが、国家が自らを反共国家と定義し、国家構成員を忠誠な国民にし、徴兵制を産業経済組織へと統合した点をその特性として挙げている(ムン・スンスク『軍事主義に閉じ込められた近代』イ・ヒョンジョン訳、もう一つの文化、2007年)。[/ref]  から射程を広げて、新自由主義の統治のコンテクストで作動する軍事主義を捉えるための試みである。

新自由主義の統治原理は、社会的なるものを経済的なるものに置換し、市場原理あるいは戦争原理へと転換することと、市場原理に合わせて自身の生を管理する自己マネージメントの主体を形成し、その主体形成モデルに適合しない個人を社会の外側に放擲することである。[ref]  サトウ・ヨシユキ『新自由主義と権力』キム・サンウン訳、フマニタス、2014年。〔日本語:佐藤嘉幸『新自由主義と権力――フーコーから現在性の哲学へ』人文書院、2009年〕[/ref] 格差社会とそのなかでの不安定な生は、不安感を高める。この不安定さを「安全社会」によって解決せんとする国家権力と右翼保守主義者たちは、軍事主義的秩序を再生させる。よってポスト冷戦と冷戦の連続線上にある韓国社会において反共規律権力は、新自由主義によって消滅するのではなく、統治管理と相互補完しつつ現れる。ゆえに新軍事主義は時代錯誤的な要素と現時代の特性の双方を併せ持つ。

ここであえて新軍事主義という用語を使うのは、軍事主義がさらに強化されたのか、弱化されたのかを見定めるためではなく、昨今の軍事主義の作動の仕方が、新自由主義のプロットに沿って流動的に変貌するという点を語るためである。本稿の趣旨は、軍事主義は単に暴力と抑圧の形態であるとか、ナショナルアイデンティティの内部でのみ作動するのではなく、軍事主義が自己利益を拡張する地点と交わる、そのコンテクストを考慮するところにある。

 

2.消費と体験へ

 

韓国資本主義がこのかん推進してきた新自由主義化は、単なる訓育ではなく、進んで自らを啓発する主体を生産した。[ref]ソ・ドンジン『自由の意志、自己開発の意志』トルベゲ、2009年。[/ref] ここでの自己は、主観的な存在として自律性を追求し、様々な選択肢のなかで自ら選択し自身の生をつくっていくことによって存在意義を見出すだけでなく、その生の現実とプロセスを個人の責任と見做す。自己を啓発する主体は自身の生を一つの企業と見做し、自らを企業者として主体化する。個人の選択は自由で自律的に見えるが、実は市場規範に合わせて自身を調整し、専門家の権威に依存し、あらゆるものごとは個人の能力に左右されるという言説で自身を構成するようになる。[ref]Nikolas Rose, Inventing Our Selves, Cambridge University Press, pp.151-57.[/ref] しかし、誰しも努力すれば成功できるという信念は、社会・経済の構造の問題を顧みない神話に過ぎない。もし失敗すれば自分の間違った経営のせいである。したがって、雇用は不安定となり福祉も縮小されるなかで、個人の不安感は強まっていく。

新自由主義が標榜した自由および小さな政府というスローガンは、実際には安全システムを提供できないまま個人に選択を任せ、責任を負わせる。ある者はこの不安感を個人年金と施設警備によって解消しようとする。個人の安全な生は民営化された商品によって確保され、個人は公論の場で社会的実践をおこなう市民というよりは消費者に成り下がる。自分に投資し自分を管理し啓発する行為は、特定の製品を選択・消費する行為に結びつく。

さらには兵営体験さえも自身を管理し啓発する体験的消費の一つとして定着している。男性のみが兵役の義務を負う社会で、軍隊でサッカーをしただとか最前線でお化けを捕まえたとかいうエピソードは、女性にとっては聞き飽きた英雄談だったが、今や軍は好奇心とチャレンジ精神を刺激する場、だから一回くらいは覗いてみようという場となった。覗いたついでに軍人を職業選択の一つとして考えるようになる女性も非常に多い。軍は自分の限界を確認できるし、男性との平等を思い描いくことのできる場となった。この男性中心組織のなかで適応し生きのびることができれば、どこに行ってもできないことはないという実験場になったのである。「男」という性別自体が就職に有利な「スペック」となっている競争社会で、女性は「男性と同じような位置で評価される」[ref]キム・クァンジン「兵営キャンプが就職用スペックに? 女性参加者増加」『韓国日報』2013年8月14日。[/ref] という期待を胸に兵営キャンプの克己体験に志願する。

ここで目をひくのは、軍と女性そして体験的スペックという、なんともちぐはぐな組み合わせである。女性は兵役義務がないので安保教育の対象に位置づけられるが、最近の熱気は異様である。巷では女性の視聴率が高かったMBCのバラエティ番組「真の男」が影響していると噂されてもいる。もちろんバラエティ番組で関心が高まったという効果も大いにあっただろうが、女性の軍事活動への登場の仕方がより果敢になった。軍隊に行く息子を理解するためではなく、自分を啓発するための直接的体験として軍事活動を認識するようになってきたのである。

女性の兵営体験が性的平等というコンテクストで言説化される一方、学生の場合は創意力のための教育訓練として論じられる。忍耐力と精神力、集団性を育みリーダーシップと創意力を高めるために、複数の教育機関が体験学習として海兵隊キャンプを活用している。教育科学技術部〔日本の文部科学省に相当〕は2009年の教科課程の一つとして創意的体験活動を導入したが、その体験学習が兵営体験キャンプで行なわれるケースが多々ある。ある民間業者が提供する海兵隊キャンプの顧客の約20%が企業で、学生は80%を占めるというほど、[ref]パク・ヒョンジョン「兵営体験の名前は‘創意力キャンプ’」『ハンギョレ21』2013年7月29日(第972号)。[/ref] 兵営キャンプは教育課程として定着している。正義党の鄭鎭珝議員の発表によれば、2009年から最近の五年間で兵営体験キャンプに参加した学生は207,434人で、単一年度で見れば2012年度には2009年度の4倍に増加した。[ref]参加学校は2009年度から2013年度までの5年間で1375校に達する。2009年と比べると2012年度は6.1倍に増加した。小学校の参加率が最も急増したが、同期間の学校数は11.7倍、学生参加は10.6倍に増えた(チョン・ジヌ議員室発表資料、2013年7月31日)。[/ref] この急増の裏では組織的動員と持続的な協力体制が作動している。各市・道の教育庁は各学校に通達を送り、学生や教師の参加を勧めている。一部の市教育長は軍の部隊や海兵隊戦友会と協力約定を結び、軍・学・官の協力体制をもって兵営体験プログラムをおこなっている。プログラムには遊撃訓練、行軍訓練、各個戦闘〔個々人が銃剣術で戦う〕、化生放〔化学・生物・放射能を用いた武器〕、水上訓練といった軍事訓練が含まれている。このような状況で2013年7月18日、海兵隊キャンプ教育中に高校生5人が溺死するという事件が起こった。軍と軍事業者の安保教育も、一般受けするようにとプログラムの娯楽性を高めている。体験的消費は楽しさを感じられる一方で、自己イメージを作って自分を表現する場でもある。特定の製品の消費をつうじてその製品がもつ象徴的意味を自己イメージとして専有するのである。よって兵営体験は新自由主義の競争社会においてスペックとなる「能力証明書」になる。女性だけでなく軟弱そうに見える男性会社員も兵営キャンプに行って来れば強いリーダーシップを身に付けた人であることが証明され、高校生にとっては共同体意識と忍耐力、リーダーシップを身に付けたという記録が生活記録簿〔内申書のようなもの〕に記載され、大学入試のときに参照される。

こうして軍事活動は軍隊という特定の空間のなかだけでなされるものではなく、社会的に自己啓発の一環へと拡張される。人々は軍事訓練プログラムに参加して自らを管理する。自己啓発は消費と体験をつうじて体で感じる感情を伴う。兵営キャンプは苦痛と恐怖、不慣れさがあるが、これを乗り越えることで「やり遂げた」という自分への信頼を抱くようになる。競争で遅れをとれば失敗するという日常的な恐怖と不安は、この「やり遂げた」感が自信になって瞬時に解消される。やりがいや快感は、自分を変え、励ます気持を高めてくれる。何より「ともに乗り越えた」人々の間に生じる集団的サポートと同士愛は、個人化された社会で感じる居場所のなさを集団性によって克服するかのような心強さをくれる。

無限競争のなかで居場所を失い、不安感を抱いていた個人は、兵営キャンプをつうじて共同体性に似た感覚を覚えることで癒される。体をぶつけ、一緒に作業をすることで得る協同心と団結性のなかで安定感を覚える。しかし体験的消費は一瞬の感情である。体験社会はポスト近代社会の個人が主観的に生きがいや楽しさを見出すための生活様式 [ref]ウテ・フォルクマン「美しい生のプロジェクト」『現代社会を診断する』パク・クメほか訳、ノニョン、2010年、92頁。[/ref]であるが、不安な生の条件を根底から変化させることはない。むしろ個別の身体は従順な身体となり、国家や企業が調律する可能性を押し広げるかもしれない。

 

3.安全社会が安保国家に

 

個人の自由と選択、自己利益、能力主義といった特徴をもつ新自由主義は、国家機能を衰退させ、個人性を強調する面で軍事主義と対立するように見える。しかし新自由主義は市場競争を活性化するための条件をつくり、市場の権力を強化するためにむしろ国家を必要とする。とりわけ個人主義がまん延したカオス状態を秩序だったものにし直すために国家の強制力が要求される。ハーヴェイ(D. Harvey)は新保守主義者たちが個人的利害関係のカオス状態を解決する方法として、軍事主義を強化しつつ内部・外部において国家の統合性と安全性を脅かす状況を強調すると主張する。[ref]デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』チェ・ビョンドゥ訳、2007年、108頁。[/ref]

朴槿惠政府は国民の不安感を解消し、創造経済をつうじて雇用を創出することで国民の生命と財産を守る安全社会の具現を政府の運営課題に掲げた。そして四代社会悪〔学校暴力・性暴力・家庭暴力・不良食品〕の根絶に取り組むとしたが、まさにこれは逸脱的で犯罪的な次元に縮小することで問題を単純化しただけでなく、安全な社会を守るという名分のもとで国家の官僚主義的執行権を強化した。

さらに安全社会は安保国家に置換される。国家機能のほとんどあらゆる分野が民営化されて企業に移転され、国民は消費者として位置づけられた。このような状況で国家の統治性は安保を強調することに依存する。[ref]キム・ヒョンミ「梨花女子大リーダーシップ開発院NGO女性活動家リーダーシップ教育講義」(2014年4月16日)。[/ref] 国家が福祉機能をまともに遂行できないと、統治の正当性を確保する手段として安保言説を強めるのである。これは個人の「人間の安保」が保障されないシステムにおいて、個人の不安感を国家の軍事安保へと収れんする効果をもつ。個人は安全に暮らせないことからくる不安感を、国家政策やシステムによって解消するのではなく、国家の法や軍事力に依存し、特定の政治性に還元する。

微妙なのは、ポスト冷戦時代に冷戦の残余が未だ「感情」の首根っこを掴みつつ安保言説の核心をなしている点である。時にアメリカの「テロとの戦争」戦略とは背反し韓米同盟にコンフリクトを引き起こすかもしれなくとも、韓国は北朝鮮との軍事的対蹠点を握っている。反共主義はまずもって北朝鮮を狙ったもののようであるが、実は内部の敵を作ったうえで選別する政治的道具であり、「国民」としての総和団結の緊張感を自動的に誘発する回路版として、すなわち既存の秩序を持続させる効果的な言述として作動する。[ref]クォン・ヒョッポム『民族主義と発展の幻想』ソル、2000年、137-74頁。[/ref] 興味深いのは、反共主義が保守主義者とキリスト教原理主義者との出会いによってボルテージを上げ、民間の極右集団の活動の軸となっていることである。これはヘンリー・ジル(Henry A. Giroux)が記述するアメリカの状況とも似ている。ジルによれば、新自由主義はアメリカ政府の推進する政治アジェンダと合わない場合には非寛容と憎悪をあおりたて、軍事主義とキリスト教原理主義、愛国主義をつうじて権威官僚主義を育てるという。国家は企業、新保守主義のビジョン、キリスト教原理主義と同盟を結んで国家安保を理由にしたテロルの文化をつくりだすことで市民社会を再組織するのである。[ref]Henry A. Giroux “Cultural Studies in Dark Times: Public Pedagogy and the Challenge of Neoliberalism,” Fast Capitalism, pp.2-3, 6-7.(http://www.uta.edu/huma/agger/fastcapitalism).[/ref]

『月刊朝鮮』前代表の趙甲濟〔チョ・ガプチェ〕は、あるキリスト教関連の集まりで、右翼保守主義と教会の共通点が反共主義であることを指摘し、教会の人的資源と物的資源が反共主義のための力とならねばならないと講演して熱烈な拍手喝采を浴びた。[ref]キム・チバン『政治教会』教養人、2007年、64-65頁。[/ref] この講演が媒介になったとは必ずしも言えないが、これを前後してキリスト教界は韓国保守主義運動の活動力となった。[ref]イ・スンフンはキリスト教保守主義運動の登場要因を、民主化後に政府権力への影響力を失った保守教会の剥奪感と被害意識、保守と進歩勢力のコンフリクトの隙間にできた政治領域の力の空白を自分たちが埋められるとする優越感、そしていわゆる従北-進歩勢力に対する道徳的憤怒に見出している。イ・スンフン「社会運動と感情――韓国キリスト教保守主義の運動の事例」『韓国社会の社会運動』タサン出版社、2013年、167-86頁。[/ref] キリスト教原理主義はメディア法、私立学校法、差別禁止法等の法改正運動と、クィア・フェスティバルへの激烈な反対運動を展開し、保守主義極右派として台頭している 。ここで一つ指摘しておきたいのは、キリスト教原理主義者たちの枠組みは十字軍戦争のようなもので、軍事主義の特性を帯びていることである。善と悪という二元化されたシステムをもとに反キリスト教勢力、いわば左翼陣営を悪と規定して征服しようというスピリチュアルな戦争をおこなっているのである。彼らは進歩的勢力によって社会混乱が起こり、共産主義に利益をもたらす結果になるだろうという不安と恐怖を喧伝するが、彼らが強調する善と悪、敵、敵対感、攻撃、粉砕といった言語や論理は、軍事的価値と深く響き合っている。

このようにキリスト教保守主義者や「イルベ」(日刊ベストという巨大オンライン掲示板)のような民間極右グループは、国家情報院や検察そしてメディアに決して劣らないほどの朴槿惠政府の権力装置である。政府が外部の敵たる北朝鮮だけでなく一連の政治的スキャンダル[ref]直近の事例として歴史教科書論争、統合進歩党の解散、全教組法外労組化、市民団体強制解散法の推進などが挙げられる。[/ref]
をつうじて右翼と左翼を分け、国民内部の敵をつくりだすことで国家主義を行使するとき、彼らは社会的管理の担い手となる。不安という感情を高めることで戦争の危機意識を助長するのであるが、この時の不安は危険の対象が明確ではなく、不確実な状況で呼び起こされる感情であって、個人的な心理現象というよりは社会的に構成され共有された集団的感情である。これは混乱、無秩序、分裂に対する恐怖の別名であって、政府と右翼保守主義者はこの不安感を解消することを名分に軍事主義を呼び起こす。反共主義はこうして軍気を正そうとする軍事主義的秩序観を再生させる。ここで軍事主義は右翼保守主義者の思考システムであり、統治技術である。

 

4.軍事化された男性性の変化と亀裂

 

分断社会において男性になるということ、女性になるということは、軍隊をめぐる言説の中で特定の考え方や行為の仕方を身につけさせる。軍隊で遊撃訓練時に教官が訓練兵に投げかけるお決まりのセリフがある。「恋人はいますか?」「いません!」「お母さんのことを呼びながら力強く進むのだ。走れ!」という文言 は、[ref]オム・オクスン『近代は女だ』地球村、1999年、65頁。2014年8月3日放映のMBC「真の男」の遊撃訓練のシーンはこの台詞をアレンジしていた。[/ref] 保護者-被保護者、安保行為者-情緒提供者というジェンダーの文法の中で反復され、その反復的遂行によって「男性」がつくられる。男性徴兵制度は男性と女性に、性別分業の枠組みに合わせて男性らしさと女性らしさを行為させる。ムン・スンスクは、男性アイデンティティが経済と軍事活動の結合の中で構成されたと分析する。経済的補償へとつながる兵役履行をつうじて、男性は経済権と家長としての権限をもつ反面、女性は家庭の主婦および母として位置づけられたのである。[ref]ムン・スンスク、前掲書。[/ref] いうなれば軍事化された近代化は、国防と産業現場における戦士のような男性と、母性として安保国家に寄与する女性を、ジェンダー化された方式で分離した。こうして兵役義務を果たした異性愛男性であり、かつ、経済力をもった生計扶養者がヘゲモニー的男性性となった。

しかしながらこうした伝統的男性性が変化している。IMFを経て男性性を支えていた経済力が弱まり、軍加算点制度が廃止されて、男性性を象徴的に保証する補償体系もなくなったことで、家長として、そして安保主体者としての男性性を構成していた物理的条件が揺らいでいる。消費資本主義が浸透するなかでタフな男性性は退潮し、恋愛や結婚を先延ばしにして自分の趣味活動に忠実な「草食男」が登場する。男性のなかでも感情を扱うのに余り慣れていない者は感情資本が不足しているせいで、創造力を発揮したり相互関係性をもとにするようなことに柔軟に対応できず、今後、脚光を浴びることは難しいであろう世の中になった。人間の顔をして涙を流す軍人の姿は「真の男たるもの涙など見せない」という通説を覆す。

今や男性も虚勢を張って男を装ったり演じたりするより、中身のある自己管理をするようになった。20代の大学生のあいだでデート代をどちらが出すのかに敏感なのも、交換原理に左右される愛の現実を示している。表面的には平等という名のもとにロマンティックラブは退潮したように見えるが、恋愛も利益を考える投資の一つである。新自由主義の市場経済が個人を無限競争のなかに放り込むことで、持続的な自己啓発をおこなわなければ不安を感じる時代において、徴兵制度は男性にとってはライフプランの断絶をもたらすと言う恨み節も聞こえるようになった。しかし男性は兵役という国民の義務について国家と交渉もできずに、兵役義務から除外された女性に向かって「男だけの」兵役義務を問題にする。兵役義務が男性としての通過儀礼と見做してきた父の時代とは違って、新世代の男性は軍服務によるライフプランの断絶を不平等という言葉で説明する。

しかし軍服務期間について愚痴をこぼすのではなく、自己啓発の時間へと変容させる者が現れるようになった。マッチョな体作りに邁進したり、外国語をマスターするなど、軍隊生活をいかに充実させたかというエピソードを軍隊生活の指針としながら、彼らは軍を新しいかたちで考えている。[ref]その例としてパク・スワン/チョン・オッチン/チェ・ジェミン『私は世界のすべてを軍隊で学んだ――充実した軍隊2年を過ごした人々』タサンライフ、2010年。[/ref] このような流れは変貌する軍の統治方式とも照応する。軍はサークル活動や外国語学習、〔大学の〕単位互換などのプログラムを用意して男性の利益になる人的啓発を図っている。国防部は知的探求と経歴開発が必要な現役兵に対して、国家の未来を率いる人材育成のために全国経済人連合会〔経団連のようなもの〕と協力して「軍の自己啓発モデル事業」を行なうとも発表している 。[ref]国防部「軍 人的資源開発事業推進計画(案)」2004年11月25日;全国経済人連合会プレスリリース「財界、軍と手を取りあい軍の人的資源開発をともに」2004年10月14日。[/ref]

他方で新自由主義の文化的枠組みのなかで成長した一部の男性たちは、常日頃の自己管理と競争はするものの、人生の展望は不確実なだけでなく、自分が剰余人間として落ちぶれていくという不安を、自発的「負け犬」の情緒として流行らせている。そのうちの一つが、ヘゲモニックな男性性の虚構性を認め、規範化された男性性とは距離を置く文化である。「負け犬文化」の事例として挙げられるマンガ『予備役ゲロロ軍曹 超マッチョ』は、軍生活の憂鬱さと軍加算点制度の廃止、女性に対する怒りを露わにする「予備役マッチョ軍曹」をつうじて「マッチョ部隊」の非合理性、男性の器の小ささや情けなさを皮肉る。標準化された男性性と自分は合わないという現実を笑いのネタにする負け犬文化に関して、男性を再定義する契機になるのではないかという見解もある。[ref]アン・サンウク「韓国社会における‘負け犬’の登場と男性性の再構成」ソウル大学大学院女性学協同課程修士論文、2011年、41-45頁。[/ref] 反面、自己啓発の主体モデルに合わせられない危機にある一部の男性は、競争原理がもたらす荷の重さと寄りどころのなさをマッチョな男性エートスで解消しようとする。彼らの被害者意識は資本と国家権力からくるものであるが、彼らは相対的剥奪感を解消するために女性、移住者、性的マイノリティ、特定の地域出身者というように攻撃対象を定めて攻撃する。たとえば、イルベは従北勢力に対抗する愛国勢力を自任する。彼らは戦争しながら政治をおこない、戦士のアイデンティティを獲得する。

男性性の変化は均質に思われた男性たちの内部の差異を露わにすることにも表れている。軍事化された男性性として十把一絡げに語られていた男性たちは、自分たちをひとまとめにしていた留め金を捻じ曲げたり解体しながら、軍事主義をめぐる紋切り型の議論に突破口を開きもした。男性性と軍事主義、新自由主義の連関を認識しつつ、自らの男性性を省察する兵役拒否者がその例である。「真の」男の虚構性を「偽の」男の姿によって暴露する彼らは、暴力的で位階秩序的な文化に飼いならされながら男性性を生産する、そういった社会システムを拒否する。彼らの兵役拒否の所見書は暴力性と権威-位階性に対する敏感さを腰ぬけとしか解読しない社会の逆説を明らかにする。[ref]オ・ジョンノクとチョ・ジョン・イミンの所見書。イム・ジェソン『飲みこむしかなかった平和の言語』グリンビー、2011年、211-12頁。[/ref]
敵と味方の分離を競争と征服で終わらせずに、弱き者たちの共生的な依存性と結び付けることで再組織しようとする彼らの存在は、規範化された男性性に亀裂をもたらす。

 

5.脱軍事化を想像すること

 

戦争準備や軍備増強のプロセスは純粋に軍事領域のなかだけで行なわれるのではなく、社会的にグローバルに構造化されている。こんにち、私たちの手が愛してやまないスマートフォンには、通信技術の進化が大きく寄与しているが、高度な技術の発祥がまさにコンピューター関連の軍事技術の開発の歴史にあることは常識である。情報通信技術はC4I[ref]指揮(command)、統制(control)、通信(communication)、コンピューター(computer)、情報(intelligence)の英語頭文字からとった名称。コンピューターと有線・無線通信によって軍の全戦力を有機的に統合し作戦を指揮・統制するシステムを指す軍事用語である。[/ref] システムを効果的に遂行するネットワーク中心の戦争を準備する基盤になり、戦略防衛構想(SDI)や戦域ミサイル防衛構想(TMDI)は軍・産・学の複合体の高度な技術の発展の産物である。

軍事活動は経済分野や学界だけでなく文化、映画などに至る多様な分野と有機的に結びついている。いわゆる軍・産・学・エンターテイメント複合体は、ホワイトハウスおよびペンタゴンと政治的関係にあるハリウッド映画産業に見いだせる。ポスト冷戦の後にアメリカ資本主義が軍需産業の再生産に依存したように、文化産業は9・11以降、テロとの戦争を遂行する過程で必要な情報流通システムをアメリカ政府に提供し、愛国心を呼び起こす好戦的な映画を制作している。また、ハリウッドの映画制作でコンピューターグラフィックによる特殊効果技術が急速に発展すると、これを土台に軍はロックヒード・マーティン、シリコン・グラフィックス、ウェスタンハウスなど軍需産業が名を連ねる研究組織から、21世紀の戦士たちが多様な状況に備えられるよう戦争シュミレーションシステムの提供を受けている。[ref]チュ・ウヌ「文化産業と軍事主義」『進歩評論』2001年、冬号。[/ref] ここでは大学と軍、政府、企業、エンターテイメントがネットワーク化して動いている。

ポスト冷戦以降、軍は専門性を高めるために民間の専門家と密接に結託している。退役軍人や防衛産業が養成した民間軍事企業が増加しており、戦争遂行に必要な分野で軍事領域と市民領域はさらに緊密になったといえる。民間の軍事企業は情報収集、軍需物資の補給、軍事訓練、作戦・戦略支援、武器管理、地雷除去など戦争に関連する専門的サービスを提供する。国家予算を削減するための方法として国家は一部の軍事活動を民間軍事企業に委託し、軍の民営化が加速した。[ref]軍の民営化に関する詳細についてはピーター・シンオ『戦争請負会社』ユ・ガンウン訳、知識の風景、2005年〔日本語:P.W.シンガー『戦争請負会社』日本放送出版協会〕;カン・ミヨン「脱冷戦資本主義――戦争も商品だ!」『親密な敵』イフ、2010年。[/ref] ストラトフォーやブラック・ウォーターなど、9・11以後の民間軍事企業の活躍はよく知られている。韓国国防部も戦闘支援業務を民間企業にアウトソーシングし、国防関連業務についても専門性を高めるとして市民と軍人の共同運営に転換することを推進している 。[ref]ウ・ジェウン/イ・ヒョッス「民間軍事企業の成長と活動方案」『週刊国防論壇』第1158号、韓国国防部研究院、2007年7月2日。[/ref]

戦争もまた金がものを言う時代にはそうであるように、軍と市民の領域が非常に密接になった状況で、新軍事主義は当然になりすぎたあまり、どこにもないか、あるいはあらゆる領域に偏在する妖怪と化した。軍事主義は国家主義と結合しもするし、新自由主義、植民地主義、経済発展主義、家父長制、ジェンダーなどと絡み合って、あるいはそれらを介して姿を現す。とりわけ軍事主義が一次的暴力や訓育ではなく、新自由主義的統治のあり方に沿って動くと、非常に見えづらくなる。だからこそ軍事的なるものに関してもう少し鋭い社会的議論が必要なのだ。敵と味方に二分化された距離を競争と戦争で征服するのではなく、多様な個人の物語が行き来する公論の場へと変える、意識的行為が求められる。「私たち」と敵との間に境界を設け、「私たち」の同一性を強調する軍事主義的性質は、他者に依存しつつも他者を否定することによって自己を構成する論理に基づいている。極右保守主義者たちの反共主義やファシズム的傾向性、マッチョな男性エートスも、この性質によって構成される。特に兵営体験を問題視するのは、他者との相互連結性を自覚しなければならない倫理的要請がゆえである。自己啓発とは、ぐっと軍気を込めて自分に打ち勝つことによってなされるのではなく、体を動かして人々と出会い、彼ら・彼女らの物語に耳を傾け、彼ら・彼女らの経験から生きる知恵を学び、自らを表現する過程でなされるものである。脱軍事主義を想像することは、二元化された思考とシステムからの逃走を企図することである。自己を構成するパラダイムを違ったかたちで構成することも、そのうちのひとつである。

1990年代はじめに平和運動でよく使われていた「死の文化を生の文化に」というスローガンの響きが懐かしい昨今である。これまで新自由主義国家の無能力と軍隊の暴力、人々の無念の死、生命の軽視などによって多くの事件が起こった。それらの事件を構成するいくつもの矛盾や葛藤など、社会的要素が複雑に絡まり合った社会システムのどこかに軍事主義が巣くっている。新軍事主義を捕える能力は、自己啓発の主体を生産するメカニズムを読み解く意志をもってこそ芽生える。そうすれば不確実な生によってもたらされる不安を国家権力がどのように組織し配置するのかという、感情の政治学が見えてくるだろう。

 

翻訳:金友子(きむうぢゃ)。立命館大学嘱託講師。