창작과 비평

耐える人生、悲しみを抱きしめた女性の綴り

2015年 春号(通卷167号)

 


-豊壤趙氏『自己録:女子、文で語る』ナウィシガン、2014年。

 

 

崔基淑(チェ・ギスク)/延世大学・国学研究院・HK教授

 

社会は、常に文化的な標準や目標、到達点、価値基準などを生成してきた。それが社会を統合し安定させることは確かであるが、それと同時に、その裏面において、人々を抑圧し拘束するメカニズムとして作用することも事実であろう。たとえば、「寿富多男子」(長生きし、豊かな生活ができ、息子も多い)、「富貴功名」のような価値観は、「福禄」を目指す伝統的な標準指標であった。これに関する思惟の前提は、公平である「天」とその基になる個人の人格修養であった。

しかし、標準をすべて成し遂げた人生というものは、事実上存在しない。それは、完成に対する一つの社会的な想像力を見せるだけであって、実際にこれをすべて揃えた人生は、存在したことがなかった。尊敬できる人格と品性を揃えた人が「富貴功名」を享受し、長寿しながら先祖代々「福禄」と品格を残してあげることは、まさに「文字化された理想」である。朝鮮時代に書かれたすべての小説において「幸せな人生」が、ひたすら結末の想像構造だけに形式化されたことと同じ道理である。

一個人の素顔の人生を覗き込んでみると、その中には「喜怒哀楽愛悪欲」に苦しむ弱い内面が潜んでおり、社会的な理想として設定された標準点に至らなかったり、明確にそれを欠落したりすることで、もしくは、時々桁外れに超過することで経験する不幸と苦痛のため、耐えられない姿と遭遇することに決まっている。しかし、不幸と苦痛を語り、人生を薄汚くさせないようにする格調のために、他人の同情を求めようとする卑屈さと距離をおいて、次の一歩に踏み出そうとする心の動きのために、他人の否定的な人生の裏側は、よく見ることができない方である。不必要な嫉妬やジェラシーを耐える苦痛を選択しても、内面を裏返して肌に露出することは、もう一つの傷を呼び起こすということをよくわかっているからである。したがって、他人の幸福だけを収集して、自身の欠乏を照らす鏡とする形態は、有害であるだけでなく愚かであり、道理にも符合しないことを、朝鮮時代に生きた人物の生涯史である『自己録』(1792)を読みながら考えるようになった。

人生を構成する力は、思惟と想像の分け前である。それも社会的な想像力の産物である。思惟がごく個人的な作業であるとしても、文字という文化記号を活用した作文として表現される時、それは、歴史と社会の文化・慣習に対する個人の習得と適応の過程を反映したためである。主体的な生のもとは、個人ではなく歴史と文化であり、内面のもとは、主体以前の社会である。思惟の前提は、想像の裏面の明確な現実である。

このような文脈で、豊壤趙氏が書いた『自己録』は、いくつかの興味深い考えを触発させてくれる。亡くなった夫とともに死ななかった女性が書いた生涯叙述とは、どのような意味を持つのか。若い女性が自らを記録する(自記)とした際に、いったい女性の「自己」を構成するものは、何だったのか。何かを書くことで女性が到達しようとしたことと、いざとなって書こうとしたが書けなかったこと、書くことができなかったこと、書こうとも考えられなかったが結局書かなければならなかったことは、何だったのか。朝鮮時代において女性は、自ら話して書くことに対しての訓練を受けられなかったり、勧められなかったりしていた。豊壤趙氏は、「福善禍淫」の道理を信じていた平凡な朝鮮時代の人であった。彼女が見るからに申し分のない、賢明で優れていた父親は、生涯にわたり官職に上がることができず、父の両親が生前していた頃に「息子を持つ」という親孝行もできなかった。「孝子」(親孝行をする息子)であった父は幸福ではあったが、「完璧」には至ることができず、悔いのある人生を過ごしたといえる。豊壤趙氏は、その父のもとで育てられた娘として、その悔いと痛嘆を受け継ぎ、その人生は耐えがたく、善良であった。

朝鮮時代における両班家の女性には、夫が死亡したあとについて死に、「烈女」として「烈女伝」に名前を残すことが、その家に名誉をもたらすということが一般的であった。ところが、豊壤趙氏は、自決をやめさせる家族のおかげで生き残った。まさにそのために生き残った理由について綴ることで、生存に関する社会的な同意を得なければならなかった。趙氏は生きるべきと勧告した家族の願いと、喪中でありながらも肉と果物を勧めた父親と義理の母親のことを書く一方、病気で死亡した夫に初めて出会った時から、看病が中心となる一生と日常までをも記録することで、生き残った値を払おうと決心した。訳者(キム・キョンミ)が解題において説明しているように、『自己録』には、「自己」がいない代わり、家族と夫が存在している。それがまさに、豊壤趙氏の「自己」を構成する全景であり、実体である。

文を綴ることが胎動する瞬間、豊壤趙氏の生存は正当性を獲得するように見えた。しかし、趙氏は、すぐに喪失感と悲しみを確認する感情の経験に陥るようになる。『自己録』の核心が、まさにここにある。それは、早く亡くなった母親、「士大夫」(官吏)の理想に到達できなかった父親、病気で死んだ夫の悲しい人生に対する事実的で緻密な記録であったよりは、彼を生々しく記憶し回想することで、ようやく存在できる豊壤趙氏の自身の内面であった。記述することは過去のことであるが、過去を記述するその行為を通して、豊壤趙氏の現在が生成できる。それだけでなく、過去を悲しく回想する、まさにその感情の経験の記述を通して、趙氏の現生に対する社会的な同意と歴史的な指示が到来するようになった。そして、生き残り耐える人生に対する共感と慰めも伝えることができたといえよう。

家族を失った悲しみを記憶する力、明確な喪失感の真ん中において、それを正確にかつ正直に描写する忍耐こそ、本書が時間を遡り、読者に心の響きを伝える本当の力である。記録者は、これに対して考えられなかった。考えて計算したのであれば、理性的な嘆声を刺激したかもしれないが、心の響きまでには至らないかもしれない。それがまさに感情の丁寧な法則であろう。

豊壤趙氏は、時代の要求に合わせて家族に自己を代替し、過去で現在を再構成し、悲しみの真ん中で生き残った理由を説明しなければならない切迫なる生存者であった。趙氏には、人生の記録こそが存在の危機であり、最後に残った生存の綱であった。誰も教えてくれなかったため、ただ自身の記憶と感情の経験に頼った。生き残るために、それを掴んだ時、趙氏の時間には悲しみが溢れだした。その中には、到達しようとしたが登れなかった父親の生涯の指標、努力したが得られなかった母親の幸せ、気づかないようにしたが赤裸々に気づかれてしまった病人・夫の苦痛、そのすべてを抱きしめて生き残った涙と血で、文を綴る記憶する主体、豊壤趙氏がそのまま表われている。記録の中で、高い人生の基準点は散りばり、趙氏が抱きしめた悲しみと「恨」は、不思議な希望と慰安の光となり、空っぽの時間の中において生存の意味を刻んだ。文を綴ることは、もしかしたら他人に向けた生存の言い訳ではなく、生き残れという励ましに対するお返しだったかもしれない。

このすべてが、諺文(ハングル)で書かれた。漢文を一度も書いていないが、両班層の教養と知識が豊富に盛り込まれてある。本書が労作として、注釈され翻訳されたことで輝いた部分が、まさにそこにある。その過程において、趙氏の女性らしい繊細さ、苦難を乗り越える人格を感じられることも、文体と心情を蘇った翻訳の成果である。

女性の一生を読んでから、なぜか悲しくなった。やはり人生は振り返ることなく進んでいく時こそ、一歩でも進んでいくことができるのではないかと考えた。しかし、それは人の道ではなく、ただ前へ進んでいくという慣性の法則であり、いくら歩いても決して基準点に到達できない暗澹であるということを、本書を読む間に豊壤趙氏が私に教えてくれたかもしれない。

 

翻訳:朴貞蘭(パク・ジョンラン)