창작과 비평

「社会人文学する」のはるかな旅程

2015年 春号(通卷167号)

 

 

金玟煥 / ソウル大学アジア研究所・専任研究員。共著として『境界の島、沖縄』、『沖縄へ行く道』などがある。

 

 

1.はじめに

大学外で人文学を講義しているところが多いということを知ってはいたが、アール・ショーリス(Earl Shorris)『人文学は自由だ』の付録として整理された目録を見た瞬間、私は驚かざるを得なかった。地方自治体が企画した講義や「自己啓発書」関連の講義が抜けているにもかかわらず、10余頁が人文学講義関連の団体名で埋めつくされていたからだ。大学内では長年「人文学の危機」が人口に膾炙されている反面、大学外では人文学の講義が隆盛である現象について色々な話を聞いていたが、この目録から受けた具体的な衝撃は強烈だった。

私があらためて、韓国の人文学が直面している様々な状況とその状況を突破しようとする試みについて考察する必要を感じたのは、まさにこの衝撃のためだった。人文学が大学外へと「押し出された」この状況を、どのように省察すべきだろうか。4冊の本に対する論評を通じて、この問題をもう少し多重的に考察することが本稿の意図である。[ref]本稿で取り上げる本は、人文学の危機を診断して対案的人文学の方向を提示する白永瑞『社会人文学の道:制度としての学問、運動としての学問』(チャンビ、2014年)と呉昶銀『切望の人文学:半制度批評家の人文学現場報告書』(イマジン、2013年)、大学外の人文学を実践したアール・ショーリス『人文学は自由だ:生の際で出会った希望の人文学授業』(朴ウジョン訳、玄岩社、2013年)、大学での人文教養教育の問題を論ずる徐京植、ノーマ・フィールド、加藤周一共著『教養、あらゆるものの始まり:わが時代に人文教養はなぜ必要か』(李穆訳、ノマドブックス、2007年)である。引用個所は著者名と頁数のみで表記した。[/ref]

 

2.人文学の「内的危機」と対案的人文学の方向

白永瑞と呉昶銀(オ・チャンウン)は既存の「制度圏内の人文学」に対し、「『人間になること』についての学問ではなく、『人間』を分析する学問」(呉、35頁)へと変わってしまい、このため「生と知の分離」(白、29頁)を助長する傾向があるという共通認識をもっているように思われる。19世紀以来、人文学はそれぞれの分科学問へと細かく分かれ、専門化される方向で制度化したため、「普遍的価値を志向するという人文学も自然科学のように自らの専攻領域を逸脱すると対話にならない方言の学問」(呉、35頁)になってしまったというのだ。こうした共通認識から出発するために、二人が提案する「対案的人文学」の方向も大枠では一致する。対案的人文学は人文学の統合学問としての性格を蘇らせねばならず、何よりも「知と生の共同体」(白、48頁)あるいは「知と生の連帯」(呉、46頁)を志向すべきだというのである。

こうした対案的人文学を、白永瑞は「社会人文学」と呼ぼうと提案する。「社会人文学は単に人文学と社会科学の結合を図るものではない。私たちが追求する人文学は、学問の分化が深刻な現実に向きあい、断片的な知識を総合して生(または人間の多様な可能性)に対する総体的理解と感覚を養い、現在の『生に対する批評』の役割をきちんと行う総体性人文学、つまり学問それ自体」(白、35頁)なのである。この名称自体に呉昶銀が同意するかはわからないが、白永瑞は呉昶銀の作業を間違いなく「社会人文学」の重要な成果と認めるだろう。特に、呉昶銀が第4部で行っている様々な「批評」作業は、白永瑞が「『生に対する批評』であり、『生による批評』を兼ねる『生の批評』」(白、65頁)と呼ぶものの模範になりうると思う。

呉昶銀の本の第4部で、私が興味深く思ったのは、彼が文章を書く際、「歴史的接近」をするという点である。呉昶銀は現在の特徴を際立たせるために、過去との違いに注目する。例えば、2000年代以後、新聞社の新春文芸を通して登壇した新人の文学評論家の人口学的な特徴を考察するために、1990年代以前のそれと比較している。2000年代以後の新人文学評論家の絶対多数は、以前の時期と比べた場合、比較的高学歴で、年配の国語国文学専攻者である。彼らのこうした人口学的な特徴から、呉昶銀は「文学評論が国語国文学の専攻者の領域とみなされており、あわせて評論的な作文が豊かな人文学と世界文学的な素養よりは、国文学史に立脚した伝統の強化へと進む現実」(呉、334頁)を見るのである。もちろん、その中で彼は、1965年の白楽晴と朴景利の論争と、2007年の評論家・金壽伊と金宣佑詩人の間で起きた衝突の類似した構造、すなわち評論家の言語と芸術家の言語の普遍的な違いにかなり関心があるようだが、私は文学評論が国文学という分科学問体系に閉じ込められていく歴史的過程に対する説明の方がより印象的だった。つまり呉昶銀は、歴史的接近により専門化されて疎通不可能な現在の制度圏内の人文学の問題点を浮き彫りにする戦術をとっているわけだが、実際これは、白永瑞が韓国の「東洋史学」と「中国学」に対して学術史的に接近するのと同じ戦術である。白永瑞は、学術史に関心をもつ理由を「既存の学術制度と理念に対する省察が必要なため」と明かし、「こうした作業をする人々が登場する現象は、各自が遂行する学術慣行に対し、大なり小なり、ある程度の危機意識を持っており、その対案を模索しているという証拠であろう」(白、199頁)と主張する。要するに、白永瑞と呉昶銀は同一の地平に立っているのである。

白永瑞と呉昶銀は歴史的接近以外にも、対案的人文学の方法論と関連しても共鳴する部分が極めて多い。呉昶銀は自ら方法論を特に提示していないが、白永瑞が新たな人文学の方法論として提示した「共感と批評」あるいは「疎通的普遍性」、そして「二重的周辺の視角」などの内容を込めた文章を、呉昶銀の本でたやすく発見することができる。白永瑞が提示した社会人文学の新たな方法論の核心は、「他人の苦痛に共感」するところから始まる。しかし、これはそう簡単ではない。誰かの苦痛は決して他人とは共有できない「固有」のものでもあるからだ。だから、自らが全的に共有できない、他の苦痛をもつ存在と対面して彼らの苦痛に共感しようとする「努力」自体が社会人文学の方法論なのである。これは人文学者が自らの存在をかけて人文学を行うことであり、自ら「弱小な者」になることである。

 

3.人文学と大学という制度の内外

白永瑞と呉昶銀が出発点または問題意識、志向点などで類似する部分が多いとはいえ、強調する部分で相違点もまた少なくない。私が発見した違いの中で、最も際立っているのは「実践人文学」を論ずる部分に現れる。実践人文学とは、大学の外で刑務所の受刑者、ホームレス、都市貧民など「疎外階層をはじめとする大衆を探しに出た大学講壇外の人文学の実験」(白、30頁)を言う。白永瑞はこうした実験に対し、「そうした形の対案的人文学の実験は知識の再生産という面で不安定なのも事実である。(中略)知識の生産よりは伝播、つまり社会教育に重きを置くあまり、市民との出会いが逆に、知識の生産過程にどのように作用して具体的な成果を挙げられるか、きちんと示すことができないでいる」と憂慮する。彼は、「そうした成果が教育のみならず、研究の領域でも少しずつ蓄積されていくと同時に、そうしたエネルギーが局地的な活動にとどまらず、大学内の人文学の核心にまで影響を及ぼしうることを」(白、31頁)希望するのである。一方呉昶銀は、こうした憂慮を十分に承知しながらも[ref]呉昶銀は、「人文学研究は大学の枠内で実現せざるを得ない特性」があるため、「大学外の人文学は人文学の大衆的な享受であり、人文学研究の大衆化とは思えない」という尹志寛の指摘を紹介しながら、こうした批判の重要性を認める(呉、29~30頁)。[/ref]、大学外へ出ていく、あるいは出ていかざるをえない実践人文学の意義を繰り返し強調する。それのみならず、自らが実践人文学的な実験に参加し、その内容も記録している。結局、白永瑞は主に大学という制度を活用して人文学的知識の「新しい生産」(社会人文学の定立)という側面に焦点を当てる反面、呉昶銀はそれが大学という制度内では難しいという点を強調するのである。

白永瑞は最近まで延世大学国学研究院の「人文韓国」(Humanities Korea, HK)事業団を率いたトップとして、韓国研究財団のこの事業は「大学という制度内の研究所中心で推進され、既存の学問体系の革新を優先的に重視」(白、32頁)した。彼は社会人文学を定立しようとする試みを「運動としての学問」の一つと規定する。「この表現はそれが近代的な制度学問によって排除され、抑圧された知識を生産して伝播するという点を内包する。(中略)そこには二つの層が重なっている。最も広い意味の『運動』ならば脱制度、すなわち制度の圏内であれ、圏外であれ、制度圏の学問を変化させようとする流れをすべて運動としての学問に包括しうる」(白、36頁)というのだ。彼は「制度としての学問」と「運動としての学問」が対立的ではなく、統合されたものなので「運動の中で制度を思い、制度の中で運動を思う形態により、制度と運動の関係を一層ダイナミックに把握しよう」(同頁の注17)と提案する。彼にとって大学という制度は、それがもつ資源の大きさからみて依然として重要であるために決して軽く考えることができず、本質的に「脱制度的制度」である。

実践人文学への関与自体が、大学内では対案的人文学を行いがたいという呉昶銀の問題意識を表しているが、それが呉昶銀にとってより具体的な内容として現れるのは「制度の切望」(呉、第3部タイトル)を強調する部分である。特に、呉昶銀は韓国研究財団によって人文学研究が「管理」されることで発生した様々な問題点を激しく批判する。韓国研究財団の登載学術誌制度の導入が長い歴史をもった学術誌をどのように枯死させたか、またそれが学術誌の「個性」を失わせ、千篇一律の論文中心の学術誌が猛威を振るうことで大衆と人文学がどのように遊離していったか、など辛辣に批判する。これに加え、学問の後続世代が向きあわされる様々な絶望的な現実を生々しく描写することで大学において人文学をすることがどれほど難しいかを痛恨の念で提示する。彼にとって大学と韓国研究財団という制度は「壁」だったのである。

白永瑞は分科学問化しないこともありうる社会人文学のエネルギーを論じながら「恒心を守るのに適正な量の恒産に対する苦悩は昔から常にあった」とし、「だがそれとともに、(中略)社会人文学事業に参与する人的資源である研究者の研究態度の変化、つまり社会人文学的転換とそれに同調する個人や集団との可能な限り幅広い連帯からエネルギーを得ることが何よりも緊要である」(白、14頁)と主張する。だが呉昶銀は、「社会人文学的転換とそれに同調する個人や集団との幅広い連帯」のための制度的基盤自体が絶望的なまでに低いレベルだと診断した。彼は、大学という制度を規定する「上位の制度」がもたらした連帯の基盤の荒廃化という問題に悩んでいるのだ[ref]「韓国研究財団が国家レベルで学術支援システムを掌握して、むしろ大学内の学術支援システムは弱体化した。各大学の研究支援機関は韓国研究財団専門の担当部署を編成し、韓国研究財団の学術研究の支援体系にしたがって支援している実情である。学問の後続世代への支援も同様である。韓国研究財団に依存して大学の学問支援制度も再編され、各大学が自律的に運営していたオーバー・ドクター課程は廃止されたり、縮小された」(呉、218頁)という内容は記憶に値する。[/ref]。社会人文学の定立のための制度的基盤である韓国研究財団の事業が、「社会人文学する」[ref]「社会人文学する」という表現は、白永瑞の「歴史する」という語から借りたものである。この用語を通じて、彼は「公共性の歴史学」の特徴の一つを表現するが、それは専門的な訓練を受けた歴史研究集団だけが遂行するのではなく、誰でも参加できるように開かれていることを強調する。過去について語ることより、誰でも過去を基盤にして未来のために考えることが重要だという点を表現するために、「歴史する」という用語を使っている。「社会人文学する」という表現は、「社会人文学の定立」のような表現から感じる専門的な人文学知識の生産だけでなく、その知識に基づくコミュニケーションや教育なども含める動態的かつダイナミックな側面までも強調するためである。[/ref]の障害になる逆説的状況を綿密に省察することは、これ以上先送りできない課題になったようだ。ともすれば、この課題はそれ自体社会人文学固有の領域かもしれない。元来、社会人文学は「運動としての学問」を志向しているからだ。

 

4.大学外の人文学の大学的基盤

呉昶銀の文章で最も記憶に残った部分は、実践人文学に対するある演劇批評家の厳しい叱責である。この批評家は「ホームレスや刑務所の受刑者が人文学の授業を通じて感動したと言われますが、私が見るに感動した人はホームレスや受刑者じゃありません。その講義をした人文学者がナルシズムに浸って自ら感動したんじゃないですか」(呉、19頁)と批判した。呉昶銀もこの批判を深刻に受け止めているが、実際に私自身、この部分が無性に胸に突き刺さった。おそらく実践人文学の講演者に対して私が漠然と浮かべていたイメージがこれと類似したものだったようだ。こうした体験から私は、疎外階層を対象にした人文学のプログラムであるクレメントコース(Clemente course)の具体的な姿が紹介されているアール・ショーリスの文章を熱心に読むようになったようだ。

アール・ショーリス『人文学は自由だ』では、ニューヨークの重犯罪者の刑務所で出会ったヴィニス・ウォーカーという女性との対話で始まったクレメントコースがシカゴ、ウィスコンシン州メディスン、オクラホマ、マサチューセッツ、アラスカ、チャールストン、ソルトレークシティ、ワシントン州ジェファーソン郡などのアメリカ各地からスーダン、メキシコ、ブエノスアイレス、オーストラリアのシドニー、ソウルなど、全世界に広がっていく様子を温かく紹介する。各地で開かれたクレメントコースを紹介する時、そのコースを準備する際の支援者やコースに参加して人文学の力によって自らの生を変化させた人の話が具体的に提示されている。そのすべての話が感動的で、同書には尽きない面白味がある。もちろんショーリスにナルシズム的な態度は見られない。

クレメントコースの進行に伴って自らが変わっていく、講師として参加した人文学者を発見するのもとても興味深い。まず、ショーリス自身が変化していく。自らがなじみの文化圏、つまり西洋の人文学的古典以外に各地域の伝統的な古典のテキストをカリキュラムに採択する問題を論議する場面が、この本には頻繁に登場する。その過程を通じてショーリス自身の人文学的理解が広がるのである。オクラホマのカイオワ族を対象とするカイオワ・コースでヨーロッパ文化を教えるサンダース教授が、自らカイオワ族の言語と文化を学ぶのは、彼らがヨーロッパの芸術と観念を学ぶことへの対応だと思っていたが、その考えに内包している「エリート主義」と「西欧中心主義」に気づき、「平等主義の擁護者」(ショーリス、144~145頁)になった逸話は、特に印象的だった。

私がショーリスの本を読みながら最も考えた点はクレメントコースの「制度的基盤」である。ショーリスが米国の特定地域でクレメントコースを開設したい時、最初に訪ねるところはその州の人文学委員会だった。該当する地域のクレメントコースはこの組織とともに、あるいはこの組織の助けを得て、財政および講師折衝、カリキュラムの採択などの問題を解決するようだった。それで、その本の「感謝の言葉」では「州人文学委員会」と「米国国立人文学財団」が丁重に言及されている。また、バードカレッジ(Bard College)とシカゴ大学を主軸に多くの大学がクレメントコースを支援したと明らかにしている。もし私たちがクレメントコースの内容とともに、これらの機関と大学などがクレメントコースと結ぶ関係についてもより詳しくわかるようになれば、「社会人文学する」の制度的基盤を構築するのに多くの示唆が得られるだろう。

実際、クレメントコースの制度的基盤の中で最も重要なのは「教授法」である。この教授法は、「ホーチンス総長時代にシカゴ大学で実施された討論授業をモデルにしている。(中略)ホーチンスは『最高の学生のための最上の教育は私たちすべてにも最上の教育である』と言い、実際にもそう信じた。彼は大学の討論授業は正教授が教えなければならないと主張した」(ショーリス、61~62頁)。ショーリスが採択した教授法は、よくソクラテスの「対話法」と「産婆術」に基づいたものと知られているが、「自らの生を通じて『対話』する方式」[ref]高ビョンホン「ともに読み:あなただけの自由を発見できることを望んで」、アール・ショーリス『人文学は自由だ』、33頁。[/ref]
なのである。私が強調したいのは、この教授法がシカゴ大学で実施された討論授業のために開発されたモデルであるという事実だ。人文学が外に出ていくためにも、大学で進行する人文学教育を疎かにすることはできないという点がここで明らかになる。韓国社会で大学内外の人文学講座の大部分は講義中心である。一人の講師が数十人の受講生を集めて知識を「一方的に」伝達する場合が多い。講義に「参加する」ではなく、講義を「聞く」という表現は私たちのこうした事情を反映していると言える。講義を聞くだけでも多くの知識は得られる。しかし、こうしたやり方の講義を通じては、ショーリスの本に登場する人のように「存在が変わる」経験をするのは容易ではないだろう。

 

5.人文学の「外的危機」と大衆大学における人文学教育

「社会人文学する」に適合した教授法が大学内でだけ発展するという法はない。クレメントコースの場合とは正反対に、大学外の人文学講座で教授法が発展して大学内に伝播することもありうる。どんな場合であれ、「社会人文学する」と関連した、また別の重要な層位はまさに大学における教育問題である。これは教授法の問題を超えるものである。

人文学専攻の学生を除けば、大学で人文学教育は大概「教養」教育の形態で進行する。刊行以来、多少時間が経っているが、この教養教育の問題を前面に掲げた本が徐京植、ノーマ・フィールド、加藤周一共著『教養、あらゆるものの始まり』(原題『教養の再生のために』影書房、2005年)である。加藤は同書で、大学で人文教育を死地に追いやる理由の一つに「高等教育の拡大」を挙げる。大学で高等教育を受ける人が全人口の少数である場合のみ、大学内の教養主義が力を発揮し、反対に大学が「大衆教育」機関になれば、「暇でぜいたくな教養よりも、もっと直接職業に関係のある能力を早く直接的に学びたいという欲求が強く」(原著、36頁)なるというのだ。逆にこの言葉は、大学で人文教養教育が弱体化したのは、大学自体が大衆教育機関になってしまった現状を反映していると言える。そう思うと、韓国で同世代の年齢集団のうち大学生の比重が50%を超え始めた1990年代半ば以後の人文学は、例えば文化コンテンツ学のように「応用人文学」に転化しはじめ、人文学部各学科の統廃合をもたらした学部制が施行されて教養教育も萎縮しはじめた。「大学の教養教育で必要かと思われる実用的で、機能的な講座(化粧品学、丹田呼吸、健康な皮膚、囲碁、スノーボード、ダイエット、生活と保険など)が人文学講座に代替」(呉、17頁)したのである。そして、その頃から大学生は自らを「知識人」とは見なさなくなった。彼らは筆者の世代が大学の新入生の時、「知識人ならこの程度は読まなければ」と話題になっていた本をもう読まなかったようだ。

こう考えると、分科学問に細かく分かれ、専門化する方向へ制度化することで「生と知の分離」がもたらされた点に起因する人文学の「内的論理」に伴う危機以外に、大衆大学への変化に伴う人文学の「外的危機」にも「社会人文学する」を通じて対応しなければならない。過去のように「人文学から得られる『感興』」(白、34頁)を再び強調する「人文エリート主義」へと回帰することはできない、というのは誰もが共感するところだ。そうした状況において、人文学は何をすべきか、何ができるのか、これに対する答は前で考察した4冊の本のどこかに、それぞれ感動的な言葉で提示されている。その中で、徐京植の言葉を長く引用してみよう。

「本書は人間を『機械化』させ、『野蛮化』させようとするあらゆる教育的ドライブにブレーキをかけるためである。もちろん、このブレーキでどの程度制動がかかるかはわからない。大学を含めて大抵の教育には根本的な自己矛盾が存在する。私たちが『機械化』と『野蛮化』に抵抗するつまらなく、ささやかな試みを進めている、まさにそのすぐ脇で、同じ大学内でさえ、私たちの試みをはるかに凌駕する勢いで『機械化』と『野蛮化』を推進する教育が同時に展開されているからだ。したがって、当然にも『そうした試みは勝算なき、無意味な抵抗ではないのか』という問いが提起されるだろう。その問いには、こう答えよう。そうした質問の形式自体、すでに『機械化』、『野蛮化』されたもの、そのものだ。人間は『勝算』がある時だけ抵抗する存在ではない。そして、『勝算』なき抵抗は無意味で、役に立たないことではない。『抵抗』が目的であり、この抵抗を通じて自らを人間的により豊かにするのが目的ならば、その抵抗は決して無意味ではない。そして終局的には、そうした抵抗を通じてこそ、真の『勝算』まで見通せるのだ。何の抵抗も存在しないところには、初めから『勝算』のようなものも存在しないからである」(徐京植他の韓国語訳書、12~13頁)。「社会人文学する」は、この「勝算」を作っていく体系的かつ粘り強い、はるかな旅程を換言したものであろう。

 

翻訳: 青柳純一