立場から現場へ ――2015年 東アジア批判的雑誌会議参観記
金杭(きむ・はん) 延世大学校国学研究員HK教授。著書に『語る口と食べる口』『帝国日本の思想』などがある。
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植民地を意味する「colony」の語源は、ラテン語の「colere」である。この語源を共有する単語には「culture」があり、双方とも「耕作する」というのがもとの意味である。英語辞典を調べてみれば、「colony」の第一の意味は耕作する人々あるいはその人々が居住する土地となっている。この文脈でカール・シュミットは「コロニー創設(Gründungen von Kolonien)」を法の生成の「根源-行為(Ur-Akte)」たる「大地の上の場所画定」(erdgebundene Ordungen)と定義する 。[ref]Carl Schmitt, Der Nomos der Erde, Duncker & Humblot 1950, p. 15.[/ref]ここでシュミットは、法は何よりも大地を獲得することによって場所を確定する行為に根拠していると主張する。したがってフェニキア人などの海洋勢力が耕作農業地を獲得-開拓することが「colony」の源イメージであり、これは法定立の源泉(title)を形成する行為である。
しかし「colony」の訳語として現在定着している「植民」という漢字語が19世紀の日本で初めて登場したのは、1801年に出版された『鎖国論』であり、原語はオランダ語の「volkplanting」すなわち「民の利殖」であった 。[ref]『日本国語大辞典』 小学館。[/ref]この書籍は長崎のオランダ商館の通訳士だった志筑忠雄が、1609年から1692年までオランダ東インド会社の商館の医師として長崎に来ていたドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer)の著書『日本の歴史と特性(Geschichte und Beschreibung von Japan)』の巻末付録を翻訳したものである 。[ref]本書に関してはペ・クァンムン「志筑忠雄訳『鎖国論』」(『概念と疎通』14号、2014年2月)参照。[/ref]以降、別の文献では「殖民」という造語も頻繁に使われたが、「殖民地」という表現は1868年に『満國新聞紙』5月上旬号に登場したのが最初の用例である。この「殖/植民地」はcolonyの翻訳語として、海外に自国民を移民させて定住地を開拓するという意味の、西洋で確立した用法を反映したものであった。
したがって、現在、東アジアで広く使われている「植民/植民地」という用語は、「人を移住させて定住させることによって場所を確定し法を確立する」という「volkplanting」と「colony」が重層的に結合しているといえる。すなわち、「植民/植民地」あるいはもう少し抽象的な「植民化/植民性」まで、植民を内包した諸概念は、単に異民族による支配/統治/収奪を意味するというよりは、大地の征服、法の生成、人間の移動を軸として展開される「文化」の暴力的形成過程を意味する。それは実定法から慣習法までを含む広い意味での「規範」が通用する場所の確定であり、人間が定住の地を開拓するためにのみ自然と出会う特定の「文明」の生成である。
だとすると、植民の近代的展開過程はどのようなものだっただろうか? 今回の会議の総合討論で白楽晴がまとめたように、近代における文明は、根源的に植民を内包していた。それは資本主義世界システムが西欧対非西欧、あるいは帝国対植民地という地域/集団間の支配関係を軸に成立したためである。「植民」を東アジアの次元で論究するさいの困難がここにある。植民は資本主義世界システムの普遍的原理において把握されねばならないが、朝鮮半島、中国大陸、台湾、沖縄、香港、マレー/シンガポール、ベトナムなど、植民を経験した地域ごとに、その展開過程は到底還元不可能な固有性をもっているからである。
「アジアにおける植民(殖民亞洲)」をアジェンダとして開催された2015年東アジア批判的雑誌会議の根源的困難は、このように、すでに予見されていたというわけだ。はたして資本主義世界システムの普遍性と、各地域の経験の固有性を媒介する視角はどのように模索されるべきなのだろうか? 蒸し暑い香港の会議の中心テーマは、まさにこの問いであった。
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去る5月30-31日の両日にかけて香港の嶺南大学で開催された2015年東アジア批判的雑誌会議には、香港、韓国、日本、沖縄、台湾、中国、シンガポールから多数の研究者、執筆者、活動家が参加した。2006年度に『創作と批評』創刊40周年を記念して初めて会議が開かれて以来、東アジア批判的雑誌会議は台北、金門、上海、ソウル、沖縄を経て今回は香港会議を迎えた。振り返ればほぼ10年の間、東アジアを巡回しながら会議を開催してきたことになり、今までは東アジアの連帯と連動に焦点を当ててきたが、今回は「アジアにおける植民」というテーマに特化してこれをアジェンダとした。アジェンダを主催地域が選定するという原則にしたがって、香港側が決めたのであった。このアジェンダをみて困惑を隠せなかったのが、中国側の参加者であった。植民経験のない中国大陸にとって、「アジアにおける植民」を語ることは難しいからである。とすれば、このときに中国側が念頭においていた植民概念はどのようなものであろうか。
19世紀末以来、中国大陸が西欧および日本などの帝国主義列強の争いの場だったことは周知の事実である。香港およびマカオは実際に英国とポルトガルの支配下にあったし、文字どおりの植民地だった。しかしながら中国の歴史経験に植民過程がないという認識には、植民なるものが民族主権の全的剥奪を意味するという前提がある。植民化された都市があり、租界地もあったし、占領された地域もあったにもかかわらず、中国は民族主権を奪われたことがないのである。会議の初日に発表した上海の著名な文化研究者である王暁明は、こうした難点を避け、上海という都市の形成において租界地がいかなる意味をもつのかを中心に論を展開した。彼は上海の人々の気質と習慣を中心に租界地の意味を問い直すことで植民問題を扱おうとした。しかし別の参加者はこれに満足しなかった。特に香港とシンガポールの参加者たちは、植民の歴史と概念をつうじて中国という巨大な国家が別のかたちで読まれうるのに、発表は全くそこに行きついていなかったことを残念がった。
この不完全要素は発表者の責任ではない。王暁明は困惑させるアジェンダを受け止め、最善を尽くしたように見受けられた。また、中国の知識人の植民に対する認識の不徹底さを責めるだけでもなかった。中国という巨大な国家の精神的基礎のためには、歴史を植民の経験の上に思念できない事情があるからである。しかし何かが空回りしていた感じを消しきれないこの討論で、重要な事実を自分の目と耳で確認することができた。それは、民族と主権を前提しては植民というテーマを幅広く、深く扱うことができないという事実だった。植民は民族主権の剥奪として現象しうるが、それをもって植民というテーマの分裂的様相を扱うには余りに足りなさすぎるのである。もちろん、民族主権の剥奪と異民族支配という枠組みは朝鮮半島や中国大陸の歴史経験に照らしてみるとき、植民を論究するに十分な前提のように思われる。しかし、アジアを植民と結び付けるやいなや、民族と主権は批判的思考における前提ではなく、一つの現象形態あるいは下位カテゴリーに転落せざるを得なかった。
もちろん、こうした思考は脱植民や脱民族言説が洗練された論理でおこなってくれたし、すでに韓国社会でもある程度は定着した思考方式であるに違いない。しかし、韓国社会で、頭ではなく体の次元でこうした思考方式が身についたことはなかった。たとえば「慰安婦」に代表される植民の記憶をめぐる論争が常に民族と反民族の構図へと差し戻されるのを見れば、これに異論の余地はないだろう。その意味で、王暁明の発表とそれを受けての討論は、アジアへと視野を広げて見れば、脱植民や脱民族言説が、頭ではなく体の次元の問題であることを如実に示していたし、韓国の植民言説がどれほど一国中心主義に閉じ込められていたのかに改めて気づかせてくれた。
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王暁明に先だって、会議の最初の発表は韓国から参加した林熒澤だった。林熒澤は、19世紀の言文空間を素材として近代への転換という問題を扱った。ここで林熒澤は、日中韓がどのように漢字という東アジア共通の文字世界を各国家の言文一致体系へと組み入れていったのか、各国のその過程がどのように特徴づけられるのかを提示した。発表は、中国よりは韓国と日本の事例を中心にしていたが、日本の言文一致が漢字共同体を北京中心から東京中心へと移しつつなされていったという指摘が参加者の共感を得た。すなわち、日本の言文一致過程は、漢字共同体を全く別の方向へと導いていったというよりは、漢字共同体がもつ東アジアのヒエラルキーを、東京中心にうつして維持したのであり、これは日本の近代化が国民国家化であり、同時に中国に代わる東アジアの盟主化だったことを物語っているということである。日本の言文一致は、結局、アジア侵略のイデオロギーである大東亜共栄圏などを先取りする文明的変換だったという指摘である。
林熒澤は、これと比べると国漢文混用を経てハングル専用へと進んだ韓国の言文一致化過程がもつ可能性を、注意深く評価した。それは中国を頂点とする中華世界のヒエラルキーを崩す潜在性を内包していたと同時に、日本の帝国主義的侵略と植民地化に対抗する抵抗の拠点を形成したというのである。すなわち、中華主義および近代的帝国主義とは別の方向の可能性をもっていた文明の方向を、韓国の言文一致に読み込もうとしたのである。この多少野心的なプロジェクトに対して、コメントを発した人々は相反する意見を提示した。ある参加者は、日本の言文一致と近代化に侵略主義を読み込んだ慧眼を評価しつつも、未だ漢文が言文生活の中心を占めている中華圏を念頭に置けばアジア全体に話を広げるには無理があるとコメントした。また、韓国から一緒に参加した白楽晴は、二日目の総合討論で韓国の言文転換は文明転換でもあり、第三世界の語文政策の典型であると指摘しつつ、しかしながらまだ不十分なのではないかという意見を提示した。
寡聞の為、発表および討論で交わされたさまざまな話を評価することは到底できないが、白楽晴の言及から一つのアイデアを得たことを明らかにしておこう。白楽晴は林熒澤の発表を、ヨーロッパのラテン語と地方語のケースと比較したのだが、この比較は結局「正典(canon)」の翻訳とその政治的帰結という問題と連関すると感じられた。ヨーロッパとアジアをひっくるめた正典の形成と読解と翻訳と伝承の政治学として、近代文明の形成史を世界史的次元で扱ったらどうだろうかと考えたのである。はたしてそのなかで植民の問題はどのような形象で浮かび上がってくるだろうか。先に論じたように、植民が土地の獲得をつうじた規範と文明の形成過程であるならば、世界史的次元での植民と正典の歴史は、一考に値するテーマであろう。
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東アジアの「核心現場」[ref]白永瑞『核心現場において東アジアを問い直す――共生社会のための実践課題』(創批、2013年)を参照。白永瑞が主張する核心現場の概念については本稿の末尾で言及するが、批判的雑誌会議を含む東アジアでの連帯の実践が白永瑞にとってはこの概念を練り上げる「現場」であったことを確認しておく。[/ref] を巡回して、東アジアの歴史と情勢が相互連動していることを確認したことで、連帯の可能性を提案してきた批判的雑誌会議は、一群の「核心メンバー」なしには続かなかった。そのうちの一人が台湾の陳光興である。孫歌、池上善彦、白永瑞、若林千代などとともに長い間活動してきた彼は、アジアにおける植民を第三世界と連関させて説いた。陳光興は核心現場の概念を援用して自らがリードしてきたこれまでの連帯活動を概観したうえで、視野をイスラムとアフリカへと広げ、植民とアジアを文字通り世界史的地平のなかで思考しようとした。台湾、中国大陸、日本列島、沖縄、朝鮮半島を縦横無尽に行き来し東アジアの知的連帯の導火線に火をつけた彼は、マレーシア、シンガポール、インドを経てイスラムとアフリカに至る広闊な「アジア」を新たな世界的地平として提示しようとしていたようだ。近代の植民経験が西欧の規範と文明をグローバルに拡張して人類の次元で内面化されたものだというとき、陳光興の際限なき空間運動は西欧的パラダイムの世界理解ではなく、かといって単純にオルタナティブだといって事足りるようなものでもない、ある種の新たな歴史意識と空間感覚の創出のように感じられたのである。
もちろん、それは単に新しいというだけではなかった。彼の移動の軌跡は、長い時間、西欧の眼差しと暴力によって自己の歴史とアイデンティティを否定された植民の地の上に刻み込まれる。フランツ・ファノンが言うように、植民がシステム化された人間性の破壊であるなら、そのとき植民の暴力を経験した人々は自身がもつ人間性を破壊されたのではない。むしろ植民の中で人々は人間性を、破壊をつうじて経験するのである。それは非西欧の住民だけの経験ではない。植民を主導した西欧の住民も、自身の「完全な」人間性が、非西欧人に対する暴力と破壊によって形成されたものであり、すなわち破壊としての人間性を経験するからである。陳光興が描き出した軌跡は、世界と人間を破壊によって経験させた近代の帝国主義と植民主義の記憶だった。そしてその記憶が観念ではなく、根こぎにされながら想起されたがゆえに、軌跡は近代の歴史叙述とは違うものとなった。近代の歴史記述が勝利した者の英雄物語であるとすれば、陳光興の軌跡は、倒れた者たちと連帯する、記憶の戦闘的共有だったからである。彼はまず、あの世に行った沖縄の旧友と第三世界の名も知れぬ犠牲者たちをともに記憶しつつ、西欧的近代の歴史意識を脱構築(deconstruction)する。彼が続ける連帯の実践は、まずもって、この世を去った者たちを民族や国家の歴史に回収することなく現在のなかに抱き込み、自空間的外延を拡張していくことである。
コメントは東京から来た池上善彦だったが、彼は陳光興の、この奇妙な軌跡を第三世界論の系譜と連関させた。日本をはじめとするアジアの第三世界論は、周知のごとく、新生国家の民族解放論を内包するものであった。その限りで、第三世界論は西欧近代から始まった国民、主権、自主/独立といった国民国家のパラダイムから概念と用語を借用してきたのであり、それゆえ脱植民の過程を国民国家化と民族自主に帰結させざるを得なかった。しかし、バンドン会議にいたる過程からわかるように、第三世界の登場は単に新しい国民国家の誕生を知らせる契機ではなかった。新生国家が誕生し国民国家からなる西欧的世界に、国家の数が増えたのではない。むしろ重要な事実は、新たに生まれたこれらの国家が一つの世界、すなわち第三世界という新しい世界を開示したという点であって、これはアシス・ナンディが語った「非西欧世界が経験した苦痛の観点から非西欧人たちに理解される西欧概念」[ref]アシス・ナンディ『親密な敵――植民主義下の自我の喪失と回復』イ・オクスン+イ・チョンジン訳、創批、2015年、22-23頁。[/ref] のように、非西欧人の観点から新しい世界像を提示する実践だった。
沖縄の新城郁夫は、これに関連して、白楽晴が1970年代末に発表した第三世界論に言及しつつ、東アジアの第三世界論を再読解する必要性を提起した。現在、韓国で読まれることもあまりないテクストを沖縄の参加者が引用して自分の主張を展開する光景は、奇妙な感じがしなくもなかった。陳光興が語った、先に逝った者たちとの連帯、池上が提案した第三世界論の世界像、そして新城が提起した第三世界論の再読解などは、植民と脱植民の間のアジアにおいて世界と人間を新たに理解することが、斬新な概念やプロジェクトなどではなく、過ぎ去った時間を綿密に読みなおし、抱きとることをつうじて可能なことであるということを切に感じさせてくれた。
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会議の最後を飾ったのは、今回の会議を主催した香港の羅永生だった。彼は香港の経験をもとに植民という観点から歴史、世界、人間を理解することがどれだけ複雑で分裂的な作業なのかを端然と提示した。ここで彼の発表が語ってくれた香港の歴史を仔細に繰り返す余裕はない。それは、英国統治と中国復帰といった世界史の屈曲を体験した歴史のスケールのせいというよりは、教科書によく登場する歴史的事件の裏に、何かひとつの近代の概念ではとらえることのできない住民のアイデンティティ問題があるからである。アイデンティティが何かに対する同一化(identifying)をつうじた自己定立であるならば、香港の住民のアイデンティティは、国家とも民族とも世界市民とも同一化しえない、あるいはそのすべてと同一化しうる流動的な何かであった。その中で香港の住民は英国の領土内に居住しつつ中国語を話す有色人種としてあった後に、中国の領土内に居住して中国語を話しつつも本土の統治の外側にいる何者かであった。過少あるいは過剰なアイデンティティこそまさに、香港住民の自己定立だというわけである。
こうした香港の植民状況は、朝鮮半島や中国の経験や認識に照らしては理解不可能である。香港における植民は、誰のものなのかはわからないが自分のものではないことは明らかである、そんな規範と文明が居座っていた状態であるが、しかしそれは国家・民族・主権などの概念や用語では捉えきれるものではない。
香港の中心街を占拠したオキュパイ(占領)運動を自治権の主張や理念的目的に還元できない理由もここにある。香港住民のオキュパイの実践にリアルポリティクス的なさまざまな事情が絡み合っているのはもちろんであるが、組織されていない住民たちがその場に集まったのは、西欧であれ中国であれ、香港の生を、自己の規範と文明に還元しようとする精神的で物理的な暴力を拒否するためであった。すなわち、フーコーが語った「このようには統治されないようにする意志」がオキュパイの最大公約数だったのである。
羅永生の発表は、香港の現在を植民問題と結び付けて歴史的に説明するものであった。そのなかで彼は、香港の植民が必ず脱皮すべき否定的状態であるとは考えないと述べた。おそらくは今回の会議で最も光る発言だったと記憶している。朝鮮半島だけでなくどの地域でも、植民状況は脱すべき否定的かつ恥辱的な状態と見なされる。しかし彼は香港を植民都市だと規定しつつ、植民経験において養われ=耕されてきた香港住民の固有の歴史意識と共感感覚を未来に向けて培っていこうとする。それは植民の暴力を忘却したり許したりしようということではなく、逆に、暴力の記憶を自己アイデンティティの一部として抱き込む苦痛に満ちた作業である。これを彼は「香港を愛するために」という美しい言葉で表現した。彼が愛そうとする香港は国家や民族という近代的アイデンティティのもとで捉えられた香港ではないだろう。むしろ彼が愛の対象とする香港は、索漠としたカテゴリー的アイデンティティによっては掴めない、水平的で生活世界的な地平における香港である。外部の何者かが呼びかける香港ではなく、発話しなくとも心と体をつうじて実存する香港こそ、羅永生が描く自己の大地なのである。
羅永生の発表は、今回の会議のアジェンダをなぜ「アジアにおける植民」に決めたのかをはっきりと示すものだと思われる。今まで東アジアの各地域から集った参加者たちは、自身の立場を明らかにして共感しようとした。しかし、考えてみれば、それは西欧的植民のモデルから脱した疎通の仕方ではなかった。立場が「場をうち立てること」や「場の上に立つこと」を意味する限りにおいて、それは大地を獲得し規範の通用する場を確立する、あの根源的植民行為の反復である。すなわち、朝鮮半島であれ、沖縄であれ、その場を打ち立てて自身を立ち上げようとする「立場」のパラダイムは、さまざまな大地に刻み込まれた複雑極まりない植民の傷を無断専有する植民の暴力を繰り返すことになるのである。
おそらく、白永瑞が核心現場という概念で脱しようとしているのは、こうした「立場」パラダイムなのであろう。彼が語る核心現場は、近代東アジアの歴史の暴力が凝縮された場所であるという意味では地図上の客観的地名でありうる。しかし、居住民の主体的な自覚と実践がなければ、その場所は核心現場として構成されない。そのためには、自らが地に足をつけて立っているその大地に刻みつけられた傷と記憶を、他人と共感/共苦できる場を開かねばならない。すなわち、場を占拠する立場のパラダイムではなく、場を開き現す「現場」のパラダイムが求められるのだといえる。その意味で、今回の東アジア批判的雑誌会議では、長い時間をかけて創批をはじめとする東アジア知識運動グループの連帯が、立場から現場のパラダイムへと移行していることを確認できた。植民と脱植民の間でアジアはいかなる未来を模索すべきなのか、おぼろげながらも小さな光が見える感じを受けたことを控えめに告白しつつ、取りとめのない報告をここで終わることとする。
翻訳:金友子(きむうぢゃ、立命館大学嘱託講師)