〔対話〕 解放・終戦70年、新たなパラダイムを求めて
林熒澤(イム・ヒョンテク) 成均館大名誉教授。民族文学史研究所共同代表、実学博物館碩座教授など歴任。近著に『韓国学の東アジア的地平』『21世紀に実学を読む』など。
宮嶋博史(みやじま・ひろし) 成均館大東アジア学術院特任教授、東京大名誉教授。著書に『日本の歴史観を批判する』『私の韓国史学習』など。
白永瑞(ペク・ヨンソ) 延世大史学科教授、『創作と批評』編集主幹。近著に『核心の現場から東アジアを再び問う』『社会人文学の道』など。
白永瑞 猛暑のなかご出席頂きありがとうございます。今日、お二人をお招きして、この「対話」をどう準備することになったか、説明することから始めましょう。林熒澤先生が昨年出された2冊の本に対する長い書評を、宮嶋先生が本誌にお書きになりました(「近代克服の実学研究とは何か―学人・林熒澤、その学びの軌跡」、『創作と批評』2014年冬号)。林先生の学問的業績を詳しく紹介しながら、それとなく批判も添えた格調ある書評でした。その後、お二人がさらに深みのある議論をする機会があればという話を聞き、分け隔てない学術的な討論の場を作って読者らに披露したいと考えました。ただ、それが今日の現実問題の検討にどれほど役立つか、また学術的・思想的な問題をめぐる討論がかなり困難にならないかという憂慮も一方で致します。そのような憂慮の中で振り返ると、今年はご存じのように「終戦70周年」、または韓国の言葉でいえば「解放70周年」で、韓国と日本の国交正常化50周年の年です。このように重要な歴史的契機でもあるだけに、学術的・思想的な問題の討論が、結局、今日の現実問題を眺め、望ましい韓日関係を東アジア的脈絡であらためて打ち立てるためにも、ある種の暗示を与えられるだろうという期待があり、この座談会を開くことになりました。
韓日関係はこのところかなり悪い状態に進んでいます。韓日のマスコミの共同世論調査によると、相手に対するよからぬ感情が最悪の状態になっているといいます(『韓国日報』2015年6月9日付参照)。みな実感しているように、東アジアでは経済領域の相互依存が深化する一方で、政治・安保領域では国家主義が猛威をふるうという不一致を示しています。それと重なって、アイデンティティの領域で集合的な歴史・記憶の遺産が作動しており、大きな混同を経ています。さらにその混同が、地域外にあるアメリカによるバランス取りで維持されているために、このような地域構造を、東アジア諸国は各自の利益に資すると計算し、現状を打破しようとしないといいます。それゆえに、特に歴史や領土をめぐる紛争、また相互不信は日増しに大きくなり強まっています。このようなゆゆしき状況に置かれているだけに、今日の韓日関係に対する印象や、今後の展望について、まず簡単にお話しをお聞きして、本格的な話に入っていったらどうかと思います。
解放/終戦70年、東アジア知識人の現住所
林熒澤 終戦とともに解放を迎え、これまで70年間、韓国と日本の関係をふりかえれば、一言でいって外形的な反日、内面的な親日の構図を描いてきただろうと思います。現在の悪化した両国関係は、これまでずっと描いてきた構図の延長線上にあります。ただ、中国のグローバルな浮上が、この状態を招いた根本要因になっているという点では、従来と同様に見ることはできないでしょう。古来、私たちの先祖は、中国を指して大国と呼びました。中国という国は、私たちのとても近くに、巨大な威嚇的存在であっただけでなく、グローバル的にも相手がない大国であったことは客観的事実です。そのような中国が19世紀中葉から20世紀末に達する間にひどく衰退し、西側世界や日本に蹂躙されたことも、また私たちが充分に認識する事実です。21世紀に入ったこの地点で巨大中国にまた戻った形です。これに伴って世界秩序の再編が起きていますが、地理的に隣接し、歴史的に緊密な、東アジアの中国、韓国、日本の3か国が、相互関係をどのように進展させうるかという重大な岐路に、今、立っていると思います。おそらく現在、韓日間の悪化した関係は、これまでそうだったように、再びまた内面の親密な関係に回復するでしょう。ですが、目を大きく開いて遠くを見るならば、現在はそれを取り繕ってやり過ごすときではありません。そのような点で、根源的な省察、歴史的反省が要望される時です。私たちがある種の問題を思考し認識するにあたっては、主体的な姿勢が必須要件ですが、同時に相手の立場で考えなければなりません。そのような点で、基本的に日本人の立場から韓国史を研究する宮嶋先生の意見を聞くことになりました。とても大切な機会だろうといえます。
宮嶋 私が日本からソウルに職場を移した2002年は、韓日ワールドカップ共同開催があった年でした。他の見方をすれば、韓日関係がいつの時代よりもいい状態だったと言えるかもしれません。あの時は、今後もよくなるだろうと期待しましたが、現実は反対にますます悪くなりました。はじめは一時的な現象ではないかと思いましたが、これまで十数年の間、悪くなり続けているのを見ると、簡単に解決困難な問題で、長期的に見るべきと考えるようになりました。林先生は主として、世界秩序のような客観的な状況の中で韓日関係の現実についておっしゃいましたが、私は一方で、このような状況に対しては両国の知識人の責任もきわめて大きいと思います。80年代末に社会主義圏が崩壊し、日本ではマルクス主義の影響力が大きく衰退しましたが、特に日本の歴史学界はマルクス主義の影響がとても大きかったために、その後の日本の歴史学界全体が漂流することになったとでもいいましょうか。その状況の中で、現実に対抗する批判的な意識、また日本の歴史を批判的に見ようとする研究が、かなり脆弱になったということが大問題ではないかと思います。韓国でも80年代後半、いわゆる民主化以降に知識人が方向喪失とでもいいましょうか、民主化されて以降、韓国社会が長期的にどのような方向へ進むべきか提示することがきわめて困難になりました。民主化以前は、韓国の知識人が現実に対してきわめて批判的な意識を持ち、そのような現実問題と自らの研究がとても深い関係にあったので、日本の知識人にも多くの影響を与えたと言えます。民主化以降、日本も韓国も、知識人の現実に対する批判的な意識が弱くなり、国民の間でいわゆるナショナリズムがますます大きくなり、それに対して的確に批判できない状況が、今日の韓日関係をこのように悪化させた大きな原因ではないかと思います。
白永瑞 林先生は客観的な東アジアの秩序変化の重要性をおっしゃり、宮嶋先生は韓日両国の知識人の主体的な役割を指摘されましたが、宮嶋先生のお話しを聞きながら、私は『創作と批評』誌の役割を振り返り、今日の対話が持つ意味の核心も、そのようなところにあるのではないかと思っています。韓日両国の知識人がこれ以上、批判意識を維持することが困難な、つまり批判意識を牽引する動力を弱めている点については、知識人の思考を規定しているパラダイムに問題があるのではないかと思います。宮嶋先生が、西欧中心的な歴史認識こそ、韓日の歴史認識の対立を産む要因だと書かれた論文を読んだことを思い出しますが、はたしてそのようなことなのか、また、それが両国の、いわゆる批判的な知識人にも依然として適用しうるのか気になります。特に韓国の批判的な歴史学者や知識人に対する警告の意味も込められているようです。
西欧中心性を越える新たなパラダイム模索
宮嶋 西欧中心的なパラダイムに対する批判だけでは足りないという考えは、学界でも共通した視角だといえます。ですが、その代わりになる新たなパラダイムが見つからないということが、もっとも大きな問題でないかと思います。日本と韓国の知識人が、さきほど申し上げた状況に置かれることになった大きな原因の1つは、やはり今後どのような方向に進むべきか、どのようなパラダイムを提示すべきかが不明かつ曖昧なためのようです。もう1つは、最近はおそらく韓国もそのようですが、大きなパラダイムに対して討論すること自体を忌避するとでもいいましょうか。そのような場自体があまりなく、学術論文でも個別実証的な研究が大部分です。私が「儒教的近代」という概念を提起したのも、それをどう考えるべきかももちろんですが、西欧中心主義に代わる新たなパラダイムに対して活発に議論するべきだという考えからでした。ですが、新しいパラダイムを模索するには、さきほど林先生も指摘されましたが、中国をどのように見るべきかが1つの核心的な主題で、これまでの中国、現在の中国、未来の中国をどう見るべきかが重要な問題になります。西欧中心的なパラダイムでは、中国の過去も現在も未来も理解できないだろうと私は考えています。新たなパラダイムの模索には中国の位置がきわめて重要でしょう。
白永瑞 西欧中心主義を克服すべきだというのは、当然、受け入れるべきところですが、それに対する反応は概して脱構築的な手法にとどまっています。ならば、その次に何を打ち出すべきかについて、あまり語られない雰囲気だと指摘されました。私も同意しますが、それに比べて中国の知識界では、最近、むしろ大きな話をしています。中国モデル論だけでなく、新たな普遍性、代案的な普遍性を模索したいということでしょう。韓日の知識人の間ではそのような議論が少ない方でしょう。読者である私が見たところ、お二人の先生はそれぞれの代案的な普遍性というか、パラダイムを、韓国を含めた東アジアの伝統思想の中に見出して照明しようと努力をしておられるようです。宮嶋先生は東アジア的近代、儒教的近代、また中国的近代に通じる一連の体系を、小農社会という物的基盤のうえで定立されようとしていますし、林先生は、「新実学」として実学を再構成しようという努力をしていますから、そのようなことを点検する中で、必要な場合、中国と比較すれば、一層生産的な議論になるだろうと思います。まず林先生のこれまでの学術的な成果の核心ともいえる、実学をめぐる議論に話を移してみようかと思います。
実学を新たに今、語るということは、韓国の学術界の地形で見れば、少数の意見ではないかと思います。実学というものが普通名詞か、歴史的概念か、という論議があります。実学は空虚な学問ではなく、有効な学問だという意味ですが、これまで韓国の学界では、実学に特別な意味を置いてきました。普通名詞ではなく、歴史的概念として使ってきました。林先生もある論文でおっしゃいましたが、「実学を無化しようとするさまざまな学術工作に対抗して、孤独に戦って」来られたと言えます。ここで、実学概念とその意義についてしばらくお話し頂ければ、今日の議論の一助になろうかと思います。
今、実学にあらためて取り組む理由
林熒澤 実際、「実学」が普通名詞なのか、歴史的概念なのかについては、白先生もおっしゃるように議論する必要もない問題です。歴史的概念であるとき、はじめて意味を持つのはもちろんです。歴史的概念としての実学は、17世紀から19世紀に起きた新しい学風を指し示すものです。ですが、それは唯一、韓国だけに存在し得たのではなく、同時期の中国、また様相を少し異にして、日本にも共存しました。中国の場合、明代から清代になって発達した学問ですが、考証学、あるいは実事求是の学風が、俗に「樸学」と称されました。私たちの実学と基本的に性格が相通じるものですが、これを実学という概念で把握することはありませんでした。近来、実学という概念を導入して『明清実学思潮史』(全3巻、斉魯書社、1988~89)のような本も発刊されました。日本もおおよそ同様で、主として古学派の学問に実学概念が適用されています。なので、「東アジア実学」という概念が成立すると思うのですが、そうすると、韓国の学術史において樹立された認識の枠が、中国と日本の両国に導入されたことになります。問題は、中国の学界と日本の学界では「実学」という用語が広く受け入れられずにいる点です。だからと言って廃棄するわけではなく、東アジア的なレベルで「実学」という認識の枠を適用し、研究し、理論化する、学的努力を傾けるべきだというのが私の主張です。
白永瑞 1960年代後半の学界で提起された実学について、一般の人たちにも関心が広がったのは、創作と批評社の役割も大きかったと思います。創作と批評社が1967年夏号から関連論文を掲載し続けたからです。当時そうした重要な思考は、植民史観を克服して、民族史観を確立する時代的課題を先導しようとしました。その核心が、韓国史の他律性と停滞性を批判し、内在的発展論を主張することです。思想史的レベルの努力が、日帝下1930年代の朝鮮学運動で発掘した「実学」をあらためて照明したのです。ですが、60年代後半から80年代まで進められた形の議論ではなく、その延長として発展した形で、21世紀の今日、実学をあらためて語る必要があるとすれば、模索すべき争点の1つは内在的発展論との関連性でしょう。この問題は宮嶋先生と討論の余地もある争点でしょう。
もう1つの争点は、はたしてそれが東アジア三国において、その当時同時に現出されたと把握することが、つまり先生がおっしゃった、いわゆる「東アジア的実学」がどれほど説得力があるだろうかという点であり、最後に先生のおっしゃる「新実学」というものが、今日、21世紀において新たなパラダイムを語るとき、どれほど必要な資源だろうかという問題があります。まず、最初の争点である内在的発展論と関連しては、その当時、多分に近代指向的でした。ですが、今、先生が新実学を語られるときは、ポストモダンの指向まで合わせていますが、そのような争点を持って話せば、もう少し話が進むのではないかと思います。これについては宮嶋先生がますお話しください。
宮嶋 私は、実学研究で1つの問題点が、儒学との関係をどう見るべきかという点だと思います。初めに実学研究が始まったとき、今、白先生が指摘された通り、いわゆる内在的発展論の視角と深い関係を持って始まりました。なので当時は儒学というものが克服の対象と認識され、実学も儒学を克服する可能性を持つ思想として注目されることになったと思います。私は以前から、儒学が本当に克服対象なのか、儒学を克服すれば近代が可能なのかという面で、実学研究に対して少し懐疑的でした。この問題は今も残っていると思います。最近の若い研究者の中には、実学も儒学であり、性理学であるとまで言う人もいるようですが、儒学というものが、ならばどのようなものであり、実学は儒学のどのような部分を批判して克服しようとしたのかが曖昧です。特に儒学思想の哲学的な部分といえる経学が、儒学の中心にあると考えられますが、実学が性理学の経学をどのように把握したのか、儒学と実学の関係について林先生はどう考えるのか、お聞きしたいと思います。
林熒澤 実学を儒学と分けて認識しようという見解があったのは事実です。儒教は近代化の障害物だ、また、さらに儒教のために私たちがダメになったという意識が実学認識と結びつき、実学は儒学とは異なったものであるという形で進みました。もちろんみながそう考えたとは言えませんが、主流の論理は、脱儒教・反儒教的な方向で実学を把握しようとする見解だったことは事実です。ですが、私は基本的に、実学も儒教の1つの様相だと思います。儒学思想が展開する過程で、変化した時代の要求に応えて、実学という新たな学風が台頭したのです。儒学は、根本の性格が、治国・治民、そして平天下にかかっています。このことを離れて儒教が成立する余地はありません。要するに、17世紀以来、当面の時代の現実を解決するための方法論が、他でもない実学だったのです。
白永瑞 このあたりで、読者のために用語を整理したいと思います。実学、性理学、儒学、この3つの層位をどう分けるのか。先生は性理学と儒学を一緒に見ていらっしゃるということでした。そして韓国と日本では「儒教」という用語を多く使います。ですが、中国では「儒教」という用語よりは「儒学」という用語を多く使い、「儒学」が官学化したり宗教化された形態を「儒教」と呼称する傾向があります。儒学と儒教の区別は、学術的論議の対象ですから、ここでおくとしても、お話しのなかで、性理学と儒学、実学の関係について整理して頂ければと思います。
林熒澤 儒学と儒教は同じ言葉です。現代中国は宗教をあまりよく考えないので、「儒教」という用語を忌避したいのだと思います。儒学は全体を統括する概念ですが、歴史的に区分するならば、古典儒学があり、以降、12、13世紀を経過して性理学が登場して、17世紀に降りてきて実学が登場します。話が出たついでに、性理学に関する用語の問題も言及しておきます。性理学は理学、朱子学、あるいは程朱学、宋学などと呼称します。性理学や理学は哲学的な面を、朱子学、あるいは程朱学は、唱道した学者を、宋学は成立した時代を指し示すものですが、指し示す対象はみな同じです。性理学を「新儒学」とするならば実学は「改新儒学」と呼んでもいいでしょう。
さきほど、宮嶋先生が提起された問題の1つは性理学と実学の関係であり、他の1つは経学をどう見るべきかというものでした。性理学は実学の基盤です。その批判的克服の結果が実学であると整理できます。経学についても言及します。韓国の学術史で重要な事実の1つは、17世紀末頃から18~19世紀に達する間に、経学の著述がきわめて多く出されます。膨大な経学の著述を概略的に区分すれば、朱子の経典解釈の枠組で追求された経学と、そうでない経学に二分できると思います。朱子学的経学と脱朱子学的経学です。実学者たちも、また経学に学的関心を傾ける際に概して脱朱子学的な性格を帯びます。朱子の経典解釈を当然尊重するものの、さまざまな経典解釈の1つとして相対化させます。私たちの先祖の必読書として最も広く読まれたのが四書三経です。四書三経は朱子の解釈を標準としたものでした。朱子の解釈まで合わせて経典的に対することになったのです。そのような朱子の経典解釈を相対化した態度は、それこそ思想的な反逆です。このような実学的経学の成果を成し遂げた学者として、星湖・李瀷(1681-1763)や茶山・丁若鏞(1762-1836)をあげられますが、批判的な経典解釈を通じて自らが実現しようとする国政改革、社会改革の理論的根拠を用意したのだと思います。経典とは何でしょうか。孔子をはじめとする過去の聖賢の実践と言葉が込められた、それこそ古代的で古典的なものでしょう。実学は経典に理論的根拠をおいたという面で尚古主義です。つまり復古主義ですが、ルネサンスがそうであったように、朱子学に対する克服的な意味を持っています。
朱子学的近代の構造、変革思想「実学」の主体
白永瑞 お話しを聞きながら思い出すのですが、私もこの大きな問題を講義する時は、いつもそのように話します。キリスト教において原始キリスト教の福音書を新たに解釈しながら、多様な神学思潮が出てきます。その急進的な形態から解放神学が出てきたように、つねに昔に戻って新たに解釈しますが、そのとき、尚古思想の「古」というのは、理想としての昔でしょう。自然そのままの昔ではありません。しかし、そのように整理しても、やはりお二人の見解の違いはあるようです。朱子学に対する理解の違いです。宮嶋先生がおっしゃる東アジア近代はまさに儒教的近代で、儒教的近代の核心は朱子学に対する解釈でしょう。反面、林先生が改新儒学といわれたのは脱朱子学のことです。その点では確かに違いがあるように見えますが、宮嶋先生がこの続きをお話し下されば、争点が明らかになると思います。
宮嶋 難しい問題です。さきほど儒学と実学の関係が曖昧だといいましたが、朝鮮末期の思想家や学者の中で、普通、実学者の範疇に入らない方がむしろ数的には圧倒的に多いようです。朱子学的な枠組の中で経学を研究した膨大な文献があるとおっしゃいましたが、そちらの方に見出せるものが本当にないのか、また、それより少し前の時代ですが、退渓・李滉のような方の性理学はどう考えるかという問題があります。退渓先生の学風を受け継いだ人々の儒学思想、もちろんそれが朱子学の枠組の中における経学といえますが、そこに何か新しい部分といいましょうか、実学研究者がそのような部分に対してまったく研究していませんが、それが本当に意味がなかったのか、無視してもいいのか……私が見たところ、そうではないと思います。
林熒澤 実学がすべてか、または少し狭めて、実学がその時代に主流の学問としての位置を占めたのか。私はまったくそうではなかったと思います。実学は当時の状況において実際に少数者です。それでも実学に注目して意味を大きく捉えたのは、その時代、すなわち17世紀から19世紀の状況を深刻に考慮するからです。東アジア的レベルで大陸の明清交代、日本列島の江戸幕府の登場のような大きな変化が起きたわけですが、視野を全地球的に広げて見れば、西勢東漸の波が緊急性をもって押し寄せます。当時の東アジアを、私は「動揺する朝貢体制」と表現していますが、朝鮮が直面した現実において、このような情勢変化に積極的に対応する改革論理が切実に要望されました。これが、実学が登場した背景です。正統性理学は保守的な路線に固執し、時代の要求に答える言説を生産できません。性理学は時代精神を代弁する意味を見出すことが困難になったんです。ならば、実学以外の学問はまったく顧みる価値がないかいうと、私は絶対そのようには思いません。当時さまざまな傾向の学的成果をあまねく把握し、深く研究して、思想の地形図を描き出すべきです。たとえば経学の成果をめぐっても、外形的に朱子経学の枠組から抜け出すことはなかったとしても、そうした中にむしろ創造的苦悩が込められた内容が発見できると確信します。実学を特権化するのではなく、バランスをもって全体を総合する視角を開かなくてはなりません。私自身、過度に実学中心に見てきたきらいもあり、反省もしています。
白永瑞 林先生がどこかの論文で使用された用語で、私がそれを少し変えて説明してもいいかお聞きしたいと思います。「改新儒学」とおっしゃいましたが、他の論文ではそれを「運動としての学問」だったとおっしゃいました。だとすると、実学を実践的・批判的な運動としての学問であると、当時の儒学のある系譜を整理できないでしょうか。21世紀には「新実学」とおっしゃって、新実学も運動としての学問、批判的な学問であるとおっしゃいましたが、互いに通じるものと理解してもかまわないでしょうか。
林熒澤 そうですね。根本的に言って、運動性を喪失すれば学問としての存在意味を喪失するんです。もちろん、運動性を喪失したまま、学問のための学問として存在する場合はいくらでもあります。実学は運動性を自らの生命として持っているので、実学として意味を持つようになるのです。でも、保守的な立場を堅持したら運動性がないのだと断定してしまうことはできません。代表的な事例として、19世紀中葉の学者・李恒老をあげることができます。当時、西洋の帝国主義に門戸開放を強要された危機状況において、彼は衛正斥邪の論理を持ち出します。義兵抗争の理論的根拠になりました。それこそ運動的な意味が確かな学問であり思想です。衛正斥邪論の保守的な論理は、時代の進運に逆行する思想という点では否定的に評価が下されますが、当面の時代の現実に学的な使命感をもって透徹したという点で、救国的という点で肯定的な評価も可能です。運動性と言っても、どのような方向かという側面はどうしても看過できないでしょう。
白永瑞 やはり、先生は実学をお話しになりながらも、実学という名称が持っている実践的・改革的な側面、または、さきほどおっしゃったように、運動といってもいい、それを追求する主体としての知識人について、かなり強調されているようです。それに比べると、私だけでなく、多くの読者が見たところ、宮嶋先生が儒教的近代、東アジア的近代、さらに狭めて言えば、朱子学的近代としながら、朱子学を強調される時は、東アジアの長い時間帯の構造自体を説明するところに強調点があるような印象を受けます。このような概念が持つ意味について語れば、お二人の主張の相違を発見できると思いますし、大きく見れば、東アジアの思想的資源として今日、必要なものを見出すという点では同じですが、その中に入れば、どのようなものが重要な資源なのか、どのような角度でそれを把握するのか、という点で、少し違いがあるようです。宮嶋先生の議論へ移ってみましょうか?
東アジア独自の歴史像が描けるか
宮嶋 私は、いわゆる西欧中心的な東アジア史の理解を批判しながら、その過程で小農社会論や、最近では儒教的な近代概念を提起することになりました。ですが、さきほど申し上げた通り、西欧の歴史モデルを東アジア地域に適用するのではなく、東アジア独自の歴史像をどのように構想できるかについて、ながらく悩みながら、1つの仮説として提示するのです。特に儒教的近代というものを考えることになった決定的な契機は、中国をどのように見るべきかという問題です。中国は今、経済力で世界第2位の地位にありながらも、政治や社会の様相は他の資本主義国家とかなり異なり、むしろきわめて伝統的な部分が依然として強く存在すると考えられます。そのような中国をどのように理解するべきかという気がします。私が見るところ、中国は少なくとも16~17世紀の明朝の時代以降、これまで大きく変わっていないようです。特に社会的な結合や人間関係の側面でそうです。なので、一般的に理解するように、中国に前近代的な部分が残っているという形でなく、明朝の時代以降、これまでの中国を持続的な面で見るならば、それを儒教的近代、中国的な近代と言うべきではないかと思います。西欧的な近代とは異なる類型といいましょうか。そう考えれば、韓国や日本も中国的な近代の影響をかなり受けたので、東アジア全体を儒教的近代という概念で見ることができるということです。もちろん、韓国、日本の場合は、中国がそうなったといって、みな中国と同じようにできるわけではなく、到底ついていけない部分もありましたが、とにかくその後の韓国と日本の歴史も、儒教的近代との関係の中で見るべきではないかと思います。現代の韓国や日本の社会をみる時、19世紀中盤のいわゆる「ウェスタンインパクト」(western impact)、西洋の衝撃以降、あるいは近代以降のヨーロッパとの関係だけでは、到底理解できない部分があります。ですから、その前に中国の儒教的近代の影響を受け、そのあとに西欧的近代の影響を受けたと考えるのです。
私が儒教的近代というものを提起する前は、中国社会を「初期近代」という曖昧な概念で語ったことがあります。その時は、朱子学、性理学を見る視角に、私自ら納得できない面がありましたが、儒教的近代という時、性理学の問題は省略できません。そのような過程で知ることになった、日本の木下鉄矢の朱熹研究から多くの影響を受けました〔『朱子学理解への一序説』(研文出版、1999)、『朱子学の位置』(知泉書館、2007)、『朱子 :「はたらき」と「つとめ」の哲学』(岩波書店、2009)、『朱熹哲学の視軸』(研文出版、2009)、『朱子学』(講談社、2013)など――訳者〕。朱熹の思想は、決してこれまで一般的に理解されてきたようなものではなく、きわめて動態的なものであり、常に自ら心を開いて、他の人と疎通するべきだという開かれた思想であり、社会の現実に積極的に介入しようとする思想だったという主張です。これまで研究ではほとんど、朱熹が死んだあとに弟子や後世の人々が作ったものを朱熹の思想と考えましたが、木下は当時の中国社会の現実との関係の中で、朱熹がどのような思想を持つことになったかを考えながら、朱熹個人の思想をとても深く研究しました。その研究を見ながら、朱熹に対するこれまでの理解はみな誤っているのではないかと考えるようになりました。中国・韓国・日本において、すべて朱熹の思想が誤解され、その誤解をもとに批判が繰り返されたということです。ですから、常に性理学、朱子学は克服の対象となり、克服されたといいながらも、結局はいまだにきちんと克服できていないのではないかと思います。木下によれば、陽明学の王陽明が典型的な例ですが、彼が完全に朱熹を誤解して批判したものの、彼が主張したかったのは、事実、朱熹の思想とさほど大差ありません。簡単に見ても、朱熹の死後800年以上が過ぎましたが、少なくとも19世紀前半までは、東アジア地域において朱熹は多くの人々が必死に学ぼうとした対象でした。科挙の試験でも、朱熹についてきちんと理解してこそ及第できるので、彼の著作が多くの人々によって徹底的に学習対象になりましたし、それとともに批判の対象にもなったのでしょう。19世紀末まで、韓国や中国で数百年間、朱熹のテキストが科挙の試験の基本テキストになりえたのは、朱熹という人の思想が、それほど簡単に克服できないのみならず、きわめて深みのある思想だったためではないか、そのように朱熹の思想をあらためて考えることになりました。そのような朱熹の思想と「伝統時代」の中国の社会現実に、きわめて通じる部分があると思ったので、「儒教的近代」というものを提起することになりました。
ただ、儒教的近代や小農社会に対する今までの私の研究は、決定的に東アジア国家間の国際関係について疎かにしていました。特に清朝の時代は、単に小農社会という農業社会だけでなく、モンゴルや満洲族、遊牧・狩猟民族まで構成員になりましたが、そうすると、そのような社会と本来の中国(China proper)という地域との関係をどう見るべきかを、今後、研究するべきだと思います。中国において帝国概念というものをむしろ積極的に評価しようとする議論がかなり出ている状況では、単に小農社会と見たり、儒教的近代というものを一国史的な観点だけで見てはいけないと反省しています。
白永瑞 途中で割り込めないほど、先生のこれまでの成果をとても圧縮的に説明されました。私が整理すると、いくつの層位が重なっているという気がします。最初は、私たちが議論してきた実学思想との違いにもなりますが、儒学思想における朱子学の位置や役割に関する問題です。林先生の表現を借りるならば、17世紀以来、18世紀は「動揺する朝貢体制」という秩序の変動期です。このような変動期に、朝鮮、中国、日本がそれぞれ朱子学的なものを受け入れて維持するのが妥当だったか、あるいは実学のように変えるべきだったのかは確認する必要があります。宮嶋先生は、朱子個人の思想と思想体系としての朱子学を区別されましたが、朱子学について肯定的に評価しながら、朱子の思想が活用されつづける余地があるとお考えだということです。もう1つは中国的近代という概念についてです。朱子学を中心にした儒教的近代を中国的近代とおっしゃっていますが、それがもう1つの層位のようです。
そして、これは3つ目の層位ともつながりますが、西欧中心史観を克服するという地点があります。ですが、西欧中心史観を克服しようとする努力は最近、多様に存在します。ここで長く申し上げられませんが、「新しい世界史グループ」は、ヨーロッパ中心の歴史発展が普遍的な歴史発展のパターンではないと主張します。18世紀後半や19世紀初まで、アジアがヨーロッパに劣らぬ生産力、人口増加、科学技術を持っていましたし、むしろ世界市場を主導したと見たり、ヨーロッパの産業革命の技術的革新は内在的発展の産物ではなく、中国をはじめとするアジアの発展した成果によって成就した可能性が高いと見ています。一言でいって、反周辺部だったヨーロッパの後発性の比較優位が、当時、すでに形成された世界体制と密接な関連の中で、よく発揮された結果であるということです。このように新しい世界史を構成しようとするグループがあるように、ヨーロッパ中心の歴史観を批判しながら主張できる新しい代案が多様ですが、問題はどうして、よりにもよって中国的近代が重要なのかということです。イスラム的近代もあり、多元的近代があるかもしれませんが、そのうち中国的近代を語る人々は、おおよそ宋代以降(または、明代以降)の歴史にその始発を見出し、今日まで持続してきたと考えます。先生もそのような脈絡です。日本だけ見ても、溝口雄三が「郷吏空間」という、分権的で民間的な地方の公論の原理や秩序が維持されつづけてきたとして、そのような傾向を示しています。また、最近、日本でよく売れている本で、与那覇潤の『中国化する日本』(2011、韓国語訳はペーパーロードから2013に刊行)という本でも、宋代以来、近世秩序の基本構造が維持されつづけ、今日に至っても変わることがなく、これは世界の誰もが使用できる、汎用性の高いシステムであるとまで指摘しているようです。中国でもそのような議論が多いと聞きます。たとえば、葛兆光の『この中国にいなさい(宅茲中國)』、2011、韓国語訳はクルハンアリから2012に刊行)も、宋代以来、中国には「伝統的な帝国式国家」であり「近代的民族国家」に近いものが持続してきたと言っています。林先生に発言の機会を差し上げなければなりませんが、この層位の中で、まず朱子学に対する評価の問題を簡単に整理して、2つ目の層位、すなわち今日の中国を見る問題と関連した、中国的近代に対する宮嶋先生の理解をどうお考えか、お話し下さればと思います。
朱子学に対する評価と歴史経験の相違
林熒澤 朱子について、彼が偉大な学者で思想家だったということは指摘するまでもないと思います。朱熹と朱子学を区分しようという見解は、傾聴するだけのものはあります。マルクスとマルクス主義を区別して考える必要があるという主張と通じるのも同じです。本来の朱熹の思想、学問をきちんと深く勉強して理解するべきで、また、評価もするべきだというお話しは、私もやはり異論の余地がありません。茶山・丁若鏞も、人々が朱子を幅広くきちんと読まずに抽象的な理論に偏重して語っていると批判しています。特に朱子の実務・実事に切実な内容とともに、社会政策的な面に関心を持つべきだと力説したことがあります。私は、朱熹に戻ってその実体を見て、後世に上塗りされたものを払拭しようという点に全面的に同意しながらも、歴史的に形成されて作用した朱子学は、また、それとして検討して明らかにする作業を続けるべきだと思います。明代以後、朝鮮朝になって、17世紀の朱子学が体制の教学として、政治的イデオロギーとして役割をはたした厳然な事実を看過できないというのが私の観点です。
宮嶋 韓国の場合も、高麗から朝鮮に変わる時、新しい体制の構築に朱子学がきわめて革新的な役割をしました。ですから、朱子学というものも、現実を批判して理想的な現実を作るための思想としての役割が可能になるわけです。しかし、ひとまずその理念に合った体制が作られれば、それを守ろうとする側面も出てきます。ですが、日本の場合は17世紀以後に、徳川時代に突入しながら、朱子学が本格的に受容されましたが、その時は初めから体制を維持しようとする面が強かったようです。ですから、日本では朱子学がきわめて保守的で体制維持的なものという理解が多かったのですが、最近になって新しいアプローチがなされています。19世紀に入って、朱子学の普及現象が起きながら多くの人々が学べるようになり、特にその時まで学問にまったく接することができなかった中・下級の武士が、朱子学を学び始めながら、政治に関心が生じて、結局は明治維新につながったのではないかと思います。
白永瑞 お二人がおっしゃった歴史的脈絡の違いが本当に興味深いです。朝鮮の儒学史では、朱子学がすでに体制理念になってしまった状態で実学が出てきたので、朱子学のそのような側面がさらに強調され、日本は朱子学が体制理念になったことがないので、革新というか改革的な側面に対する期待ないし関心があるようです。朱子個人については評価が一致しますが、それが体系化された理念である朱子学に対する見解の違いは、日本と朝鮮の歴史的経験の違いから来ていると思います。
林熒澤 そうですね。私と宮嶋先生に間に見られる朱子学に対する見解の違いは、結局、韓日両国の歴史経験が異なるところからくる立場の違いでしょう。ですが、注目すべき点が1つあります。19世紀後半、日本の明治維新の過程で、朱子学が相当な寄与をしたという説が提出されていると聞きました。朱子学に限定せずに幅を広げて考えるべきではないでしょうか。「儒学の学習がサムライを政治化」したという指摘のように、漢学の拡大が明治期の日本社会の変化・発展の精神的基礎になったと考えるのが正しくはないでしょうか。日本についてはよく知りませんがそのような気がします。
宮嶋 私もその具体的な内容については深く知りませんが、18世紀末以降では徳川幕府が作った「昌平黌」という学校で、朱子学以外は教えられなくなり、各地の大名が作った藩校という学校でも、多くの部分、朱子学しか教えられなくなりました。もちろん、だからと言って、日本の儒学がみな朱子学になったわけではありません。ただ、儒学思想の中でも、朱子学が特に政治的な性格が強いとでもいいましょうか。「修身斉家治国平天下」。なので、朱子学はそれを学ぶ人にとって、当然、政治はどうするべきかに対する関心を、陽明学や他の学問よりも誘発する性格を持っています。特に日本で、荻生徂徠という学者は、一般の人々は政治に関心を持つ必要はない、かなり特別な人だけが政治に関心を持てばよいと主張しましたが、朱子学が普及して、今までまったくそうではなかった下級の武士まで政治のことを考えるようになります。そして特に問題になったのは、天皇と徳川の将軍のどちらが主君かという点です。天皇が主権者で、徳川体制は間違った体制だという意識が強くなったのでしょう。
白永瑞 このくらいにして、2つ目の層位である中国的近代に対する林先生のお話しを聞きましょう。
中国的近代論は東アジアの歴史経験の特化か
林熒澤 小農社会論の理論構成は、歴史学を専攻していない人間として、あれこれ言える内容ではないのですが、儒教的近代の問題に私は特に大きな関心を持っています。宮嶋先生の学的努力を高く評価し、見解の多くの部分に同意しながらも、決定的に大きな部分で疑問を感じます。それは、どうして近代なのか、東アジア諸国にも早期に注目すべき発展があり、そこに朱子学が関係する歴史現象を解明する学的作業はもちろん重要です。だからといって、あえて近代という概念を付与する必要があるのかということです。さきほど白先生もおっしゃった通り、近代という時、世界の各所に近代が出現しましたし、そのうちの1つとして中国にもそれが存在したという形で説明すれば可能でしょう。しかし、世界史的に意味ある近代、今日の私たちの現実と緊密に関連がある近代は西欧的近代ではないか、西欧的近代を離れて、21世紀の今日に至る状況を説明できるのか、このような点で率直にいって懐疑の念が拭えません。
白永瑞 そこには2つの側面があるようです。1つは中国的近代という場合、それでは近代自体とは何かという問題で、多元的近代というものが可能かという側面でしょう。西欧に源を発した資本主義が全世界的に広がったのだから、近代は資本主義を抜きにしては議論できないのではないか、それが今日、実感している世界の作動原理と通じるのだ、だが、それを中国的近代として別途に考えることが可能か、ということでしょう。他の1つは、中国的近代というものが、宮嶋先生は明代以降を強調されましたが、概して中国と日本学界の雰囲気を見れば、宋代以来成立した体制が維持されて、今日の中国まで来ているといいます。とにかくそれが一時的に縮小され後退したものの、再び出現しているとしながら、今日までみなそのように説明します。巨大になった中国独自の社会主義に対する実感が作用しています。そのような実感から見れば、資本主義の問題として語る必要がなくなるんです。2つとも、きわめて興味深い争点ですから、さらに深く確かめてみたいです。
宮嶋 近代という言葉を使う時、これが近代だといえる指標は何でしょうか。政治的・経済的・社会的・文化的なものがあるでしょう。近代と近代以前を区分する時、普通いくつかの条件をあげて、それに合うのか合わないのかを検討する場合が多いですが、私はそのようにすれば、どうしても西欧的近代の指標を意識して、そこに付いていくしかないように思えます。ですから、多元的な近代という時も、ヨーロッパで近代になって成立した要素のなかで、あるものは他の社会でもそれ以前からあったという形で説明するようですが、私はそのようなやり方には反対します。近代を意味する「モダン」の語源になったモデルヌス(modernus)というラテン語は、ローマで5世紀ぐらいに初めて登場したといいますが、ローマ帝国の歴史でキリスト教が公認される以前と以後を区分して、後者をモデルヌスと言ったんです。ですから、モダンは本来、今、私たちが生きているこの時代を示す言葉で、歴史を2つの時期で分けて考えるなかで成立した概念です。私のいう近代とはそのことです。
中国や東アジアで、今、私たちが生きている社会と直結する時代は、いつからかという時、もちろん19世紀前半以降と見ることができるでしょう。その後に新しいものがかなり出現しましたし、特に科学技術とか資本主義面ですね。しかし他方では、それ以前から今までずっと続く部分、たとえば人間関係において、かなり核心的な家族制度、あるいは村のような地域共同体は、はるか以前から継続してきたもので、19世紀以降、もちろん部分的に変化がありましたが、大きく変わらなかったと考えられます。韓国の場合、朝鮮時代の家族制度は今でも充分に理解できる制度ですが、高麗時代まで遡れば、当時の家族制度や親族制度は、今の韓国の人々がまったく理解できないもののように見えます。日本でも16世紀に境界があったようですが、とにかくそのような側面で、今、私たちが生きている時代がいつから続いているのか、その後を近代、それ以前を近代以前と見ようということです。そうではなく、区分のためのさまざまな指標を作ることは恣意的にいくらでもできます。もちろん、この時代がいつから始まったのか、誰か異なる考えをしても、私はまったく関係ありません。いつからが近代かは人によってさまざまだと思います。それがこれまでと同様に、排他的に西欧近代が唯一のモデルで、その他は近代ではないという形でなく、社会をどのように見るかによって、近代がどのようにできたかについての見解も変化しうると思います。
私が儒教的近代や中国的近代というのは簡単です。東アジア社会を研究して、東アジア地域に住む人間として、私が実感に基づいて語ることができる地域だからです。インドとかイスラムの人々が、今のような社会がいつできたのか、その人々がどう考えるのか、私は実感できないので、他の地域に対しては語らないだけです。それは、その地域の人々が自ら考えて語ればいいのです。私が儒教的近代とか中国的近代と主張する時、東アジアや中国を特権化しようということでは絶対にありません。そのような誤解をかなり受けました。
西欧中心性と中国中心性の陥穽のあいだ
白永瑞 今、私たちの実感に最も近い過去に遡ることを、また近代という命名自体を、否定する必要はないでしょう。ただ、今の生の実感で、何が最も重要かは議論されるべきだと思います。そのとき、何が私たちの生を規定する最も重要な力なのかをあげるならば、それは「近代性」でしょう。よく混乱を起こすようですが、英語のモダニティ(modernity)を漢字語権では「近代」という時代と、近代の特徴である「近代性」と区別して使用できます。近代性の指標がさまざまに議論されますが、そのうち何が私たちのグローバル化した生を最も強く規定しているのかという問題を語るならば、それと関連して資本主義というもの、一国内の生産関係でなく、資本主義世界体制がグローバルに統合されていく過程を看過したまま、東アジア的近代の特性を語ることができるか、という問題提起が出てくると思います。まさにこのような点を、西洋史研究者の柳在建教授が『創作と批評』の誌面で2度ほど指摘したことがあります。近代を再考しようという宮嶋先生の論文で、「資本主義」という用語が一度も出てこないのは変だとしながら、「東アジア的近代性」を、資本主義的近代と複合的に結びついた、東アジア特有の前近代的遺産として見る時、むしろ近代克服の道を開く洞察になりうるだろうとおっしゃっています。
林熒澤 今日、私たちの生を規定しているものが何かを考えれば、西欧主導の近代、資本主義的な近代を抜きにして、他の近代を語ることはできないと思います。私たちが西欧的な論理に陥らずに、私たちの近代をどのように認識するかという問題は、別途に論じなければなりません。
白永瑞 西欧主導と単純に言ってしまえば、誤解が生じるのではないでしょうか。今の私たちの生を規定する原理や作動の方式を資本主義と見るならば、それがヨーロッパで始まったとしても、その世界体制がグローバルに統合されていく過程に注目するべきであって、その起源が問題ではないということです。その資本主義的な作動方式が、今日、私たちの生でもっとも実感として迫っているからこそ問題にしているのであって、それが西欧から来たからといって問題になるわけではありません。中国的近代と言っても、今日の中国もすでに資本主義の世界体制の中で作動しています。その中で西欧で始まった、よく近代性の指標として語られるいくつかの特徴があるでしょう。国民国家、資本主義世界体制への編入、政治的民主主義、近代科学、個人主義、国民文化(または民族文化)などがそれです。中国が資本主義の世界体制の中に積極的に参加しているのは明らかでしょう。ですが、それ以外のいくつかの指標は独自に説明しようとしています。自らの歴史と現実は、国民国家という枠組ではきちんと説明できないといいます。個人主義や政治的民主主義もやはり中国を説明できないといいます。そして中国的近代を設定し、その起源を探して宋代まで遡ります。そのような中国的近代をどう考えるべきか。2つの問題があるようです。資本主義世界体制の作動方式の中に入っている中国と、それを越えようとする中国です。後者の指向を簡単に認めてしまえば、ややもすると中国中心主義に流れると、ある学者は指摘しています。宮嶋先生についても、西欧中心主義を批判するために中国中心主義に流れるのではないかと批判する人がいます。そのような問題に対する討論が必要な時点ではないかと思います。
宮嶋 私がさきほど、近代なのかどうかを考える時、いくつかの指標を作って考えてはいけないといいましたが、結局、私の話も、何か指標を作っているのではないかという指摘のようです。ですが、これまでは西欧近代をモデルとして、そのいくつかの要因を近代、あるいは近代性の指標として設定してきました。そのようにすれば、西欧を普遍として、他の地域は特殊として見て、他の地域の近代/近代性は不徹底で歪んでいると見るようになりました。ですが、西欧モデルが実際に存在したわけではなく、他の地域と区別するために作った理念に過ぎないとするならば、中国や東アジア各国の近代を、西欧モデルを基準として把握しても、その全体像を正しく理解できないというのが、儒教的近代を提起することになった理由です。
白永瑞 一種の浮彫的な手法です。
宮嶋 その通りです。ならば今、社会でもっとも大きな問題は何か、今後どのようにするべきかを考える時、私は人々の社会的結合の問題が、やはり人間の歴史でもっとも重要な部分だと思います。人と人の関係をどのように作るのか、いろいろ方法があるでしょう。東アジア地域の場合、私は中国社会については詳しく知らないのですが、韓国社会や日本社会を見る時、私は今の韓国、日本の社会的な結合方式が、19世紀後半を前後して大きく変わったとは思いません。資本主義が入ってきて企業ができましたが、その企業という組織がどのように構成されるかという時、日本はヨーロッパとまったく異なる形で企業を作りましたし、韓国もやはり日本ともまた異なるようにしてきました。日本の企業は「家」的な性格が強く、経営者と雇用者が家族のように意識されるようになり、韓国は財閥の場合のように、経営主体が家族によって構成されているのがその象徴的な例です。そのように企業が作られる原理はどこにあるでしょうか。私はヨーロッパの資本主義を受け入れながら、その時初めてできたわけではなく、それ以前にあった社会的な結合の形態を基本として企業も作られたと思います。今はいわゆる新自由主義といって、人間の個別化・個体化が進行していますが、これからは人間の社会的な結合の新しい形態をどう作るかが核心的な問題ではないかと思います。そうする時、東アジア地域の社会的な結合の基本的な枠が作られた時代を近代と考えるのです。
林熒澤 さきほど私が西欧主導の近代といったのは、私たちの立場で近代認識の問題を取り上げて論じたいからでした。東西の出会いの過程をどう見るべきかということです。この過程について今でも論者のほとんどは、影響論ないし需要論として考えますが、私の観点は対応論です。19世紀に入るまでは中国がむしろ西洋国家より優位に立っていたし、こちらから向こうに影響を及ぼしたことも多かったという点を留意する必要があり、西勢が圧倒して大きく影響を受けながらも、積極的に受け入れて対応し、創造的な変化を起こしたんです。この全過程を東西合わせて認識するものの、私たちとしては対応論に焦点を合わせるべきだというのが私の持論です。実学もまたこのような立場に立って、西洋文化に出会って対応策を講じたのだろうと規定したのです。
現実批判と未来展望の思想的資源
白永瑞 座談会の冒頭で話しましたように、東アジアの思想的資源について話し合おうと思ったのは、望ましい東アジアの未来はどのようなものかという、一種の未来プロジェクトと関連があります。現実を批判的に見るために、このような議論をしていますが、宮嶋先生がおっしゃった、人間の結合関係の新しい原理、そしてそれに関する新しい制度を作る時に参考にしうる、東アジア的な思想資源についての期待を、お二人とも持っておられますが、私も基本的にそうです。ならば、はたしてそれがどのようなものかを整理してみたいと思います。林熒澤先生はそれが新実学であり、これが東アジアレベルでも共感が形成されているとおっしゃっているようです。宮嶋先生は、その資源が中国的近代、東アジア近代という風におっしゃっていて、その中で朱子学で提示した宋代の結合の原理が、結局は現在でも示唆する点が多いだろうとおっしゃられているようです。この部分が、私たち人文学研究者が、現実問題に発言できる入口ではないかという気がします。
林熒澤 実際に、新実学という用語は、私が初めから使いたくて使ったわけではありません。東アジア実学国際学術大会を、韓・中・日が3年周期で持ち回りで開いていますが、2011年に中国側が開催して掲げた主題がちょうど「新実学の構築」でした。そこに参加して基調提案をやったので、主催側の注文に従うしかなかったんです。「新実学の構築」という主題は堅苦しいと感じましたが、時宜に適っているという気がしました。新実学といえば2つの方向で模索できますが、1つは過去の実学を、画期的に変貌した現時代の要求に呼応して解釈するレベルであり、他の1つは、旧実学を解体して新たな学問として再構成するレベルです。原則的に見て、現実性のない学問、今日の現実の解決に寄与できない学問は死んだ学問です。そうした点で実学は、新実学として再生しなければならないでしょう。ですが、なぜそれが実学でなければならないのかという疑問を、当然、提起できます。なぜ実学なのか。私は韓国学を研究する立場で、私たちの重要な思想的資源が何かという問いに、独占的なものではなくても、私たちの思想的資源として内容のある、何より豊富で、今日の時代に切実に迫ってくるのは、やはり実学ではないか、と答えます。
白永瑞 もちろん、新実学という用語は中国で提起されましたが、それがはたして「東アジア実学」とまでいえるかは、別途に議論しなければなりません。私は個人的に、中国と日本ではこれといった関心がないと考えています。実学が、韓国から発信した独特の学問的特徴であったために、それを拡散しようとするのはいいですが、それがはたして内実を持ちうるかというのは別個の問題でしょう。ですが、新実学として表現された東アジアの21世紀の実学を、重要な思想的資源として未来のプロジェクトと関連して考える時、先生は、それが、以前の近代指向的な実学研究とは異なり、ポストモダン的な指向があるということを強調されます。なので、具体的に茶山や沈大允(1806~1872)の話もなさっていて興味深く読みました。たとえば、経学に基盤をおいた沈大允の利と公を結合した思考、俗務を重視するものの、清らかな趣向(清雅)を指向した茶山の思考のようなものです。そこでおっしゃっているポストモダン的な指向を説明してこそ、説得力が強くなるのではないかと思います。
林熒澤 実学は、韓国の学術史において確立された用語なだけに、1つの認識の枠です。繰り返しになりますが、近代韓国の主要な知的伝統として発展的に継承する必要があります。中国や日本の学術史の認識に実学概念が導入されたことは、私たちとしてきわめて光栄なことです。このような類例は見つけることは困難です。ですが、実学概念が日本や中国の学界で確実に「市民権」を得たかというと、まだそうではないでしょう。ですが、実学にあたる内容が両国にも実存したことは否めない事実ですから、それを何と呼ぼうと関係ないでしょう。東アジア的視角で関心を共有し、研究を遂行していけばいいのです。ただ、実学概念を先に提起した韓国の学界の立場では、「東アジア実学」を確実に浮上させるための積極的な努力が要望されるという点を力説したいと思います。
また、実学のポストモダン指向に対する説明を要求されましたが、答えが容易ではない問題です。私は実学と関連して、近代という用語をあまり使いませんが、ポストモダンという用語もあまり使いません。21世紀に入って資本主義的近代を越えようという声が周辺で頻繁に聞こえます。東洋の思想伝統を持ってきて発展の論理を否定したり、近代克服の道を語ったりします。私が見るところ、思考や知恵のレベルでは至当であり傾聴に値するでしょうが、当面する現実の飛躍でなければ逃避なので、実践的な意味はあまりないようです。反面、実学は違うと思います。実学は西洋近代に対する知的対応の産物ですから、そこには近代適応の意味とともに、近代に包摂されえない、ある種の意味が含まれているものです。『創作と批評』の二重課題論とも通じるかもしれません。
近代適応/克服は同時的な課題
白永瑞 『創作と批評』で提起した二重課題論は、近代に対する適応と克服が二重課題として同時に進行する1つの課題であるという意味です。近代には成就すべきいいものと、克服すべき悪いものが混在しているので、その2つが混在する近代に適応するのですが、成就と否定を合わせたこのような適応努力は、克服の努力と一致することによってのみ、実質的に効果を出せるということです。選別的にあるものは受け入れて、あるものは受け入れないということが、存在するわけではないということです。きちんと適応しようとしても、克服の意志がなければならず、克服しようとしても成就すべきことは成就すべきであるという点に徹底するべきだという論理です。このような観点を朝鮮朝の実学者に適用できるかどうかわかりませんが、はたして彼らが示すポストモダン的指向というものが、その二重課題の緊張を意識しているかどうかわかりません。もちろん資本主義を体験したわけでなく、西欧と充分に出会ったわけでもありませんが、17世紀以来「動揺した朝貢体制」という時は、すでに西勢東漸の傾向の中に西欧との接触がありました。そのとき、その緊張をどれほど持っていたかという基準で見るべきで、そうではなく、ポストモダン的な面、西欧のものを越えようとする傾向、資本主義的な要素を越えようとする要素があったということだけを強調すれば、「浮彫的な手法」と言われるのではないかと思います。
別の表現をすれば、中国は近代の否定的な特性を克服する方に強かったものの、それに似合った近代適応をきちんとできなかったために、また回帰しています。それに比較すれば、日本は適応に重点を置いていて、克服を疎かにしたので、適応にも失敗した結果、現在のような問題が起きているのではないでしょうか。このように、選別や段階でなく、同時的な課題として見る観点を持つことが、今日の中国で流行する主要な言説を判断するのにも役立ちます。そこには方法論的に浮彫的手法が動員されているようです。中国のある歴史的経験や儒学のある価値のような文明的特質を強調して、それが今日まで続くということでしょう。そのような事例の1つが、天下主義を新たに解釈しながら、それが西欧の抑圧的普遍主義を越える、新しい、または、代案的な普遍性であると言うのです。ですが、それが大国化する中国の現実において、官の需要を充足するだけでなく、一般の国民にも共感を得ないと思います。このような現象を見ながら、二重課題論を堅持してこそ、浮彫的手法の罠に陥らずに、中国中心主義の嫌疑からも抜け出すことができると考えます。ならば、韓国では、二重課題の遂行の緊張を、どのようにうまく維持しているのか、そのような成果を、思想的なレベルでどれほど見出すことができ、現在はどれほどそのような努力をしているのかについて議論しなければなりません。
林熒澤 重要な指摘です。浮彫的方式はおそらく便宜的かつ俗流的であり、中体西用論ないし東道西器論とも通じます。物質と精神に容易に両分して、一方を取って一方を捨てる、今でもしばしば陥る論理的陥穽から抜け出さなければなりません。やはり西洋との出会いの過程で対応論理をどのような構図で設計したのか、この点が重要です。思考の枠組を問題にしたんです。たとえば丁若鏞は経学的対応、崔漢綺は気学的対応の論理を樹立した点を重視しました。もちろん、近代という概念は、実学者たちの頭にも入ってくることはなかったでしょう。ですが、西洋との出会いを危機として表現してきたように、武力的のみならず精神的にも緊張しないわけにはいかなかったでしょう。その段階で真に深く苦悩し対策を講じた学問ならば、その中には近代に対する適応の意味とともに、克服の意味も多少含まれるでしょう。解釈的なものとしてです。
宮嶋 林先生は、実学について新実学や東アジア実学という時、17~19世紀の東アジアの新しい学風という共通点に注目していますが、私はそのような儒学思想の中で、韓国の儒学で何が特徴的かという部分に、むしろ大きな意味がある思うのです。
白永瑞 私が少し割り込めば、以前、宮嶋先生が書かれた論文(「「和魂洋才」と「中体西用」の再考」、『私の韓国史学習』(2013)に収録)で、朝鮮思想の特徴を「媒介的な」アイデンティティと指摘されたことが思い出されます。19世紀後半、西洋を受け入れる主体的姿勢を示して、中国は「中体西用」といい、日本は「和魂洋才」といいましたが、韓国では「東道西器」といいました。ですが、なぜ中国の「中」や日本の「和」のように、一国の立場で欧米文明に対抗しようとせずに、朝鮮だけを示さない、東洋を前提にした「東」を前に出しながら、自己のアイデンティティを見出そうとしたのでしょうか。それを一国のアイデンティティを越える、「媒介的なアイデンティティ」を模索するための柔軟な主体性であると表現されました。これは興味深く読みましたが、これと関連して少しお話し下さればと思います。
韓国の思想伝統の媒介的なアイデンティティ
宮嶋 最近「天学から天教へ」という論文(チョ・ソンファン、西江大博士論文、2013)を見ました。「「天」の学問から「天」の教えに」という話ですが、「退渓から東学に、天観の転換」という副題がつきました。韓国の思想的な伝統で「天」に仕える伝統がとても強い、退渓の「天」に対する理解も中国とかなり異なった、他の見方をすれば、宗教的な性格を強く持った、そのような退渓の「天」に対する感覚と、以降、丁若鏞のような人が、どうしてあれほど天主教に関心を持つことになったのか、また、東学という宗教がどうして生じたのか、そのような問題を、韓国の「天」に仕える伝統とつなげて把握しようとしています。このような形で、東アジアの儒学の中でも、韓国の儒学がどのような特徴を持っているのか、それがどのような意味を持ちうるのか、あらためて検討する必要があるんじゃないかと思います。特に最近、中国は儒学復興とでもいいましょうか、儒学的なものをきわめて高く評価しようとしていますが、そのような問題とも関連して、朝鮮時代の儒学者がどのようなことを考えたのか、それが韓国の思想的な伝統として、朝鮮時代に終わらずに、形は変わりながらも、近代以降もさまざまな面で続く部分があったのではないか、これまで東アジア儒学という時、中国儒学と日本儒学をずいぶん比較してきましたが、韓国の儒学がどのような位置にあったのか、そのような観点で中国儒学や日本儒学をどのように見ることができるのかについての研究があまりありませんでしたが、今後そのような面で研究するべきではないかと思います。
林熒澤 韓・中・日の三国が、儒学を共有しながら、相同性の中で相違性が演出される現象は、当然、重視する必要があります。さきほど紹介された「天」についての問題は興味深いですが、その問題を私は、方向を別にして解釈しています。「天」とはあまりにも普遍的な存在であり、原始儒学には信仰的な「天」概念が明確に投影されています。性理学にきて「天」概念が、さきほどのお話しのように「理」に置き換わりますが、一部の実学者が原始儒学の「天」観を復活させます。「上帝」(=天)が君を見下ろしている、気を付けて恐れろという、多分に宗教信仰的な性格を帯びたものです。茶山が思考の論理として体系を備えるのに先立って、順菴・安鼎福(1721~91)にも捉えられます。これについて、私は内と外の関係から見ています。キリスト教の流入は、まさしく政治・社会的波紋を大きく起こしますが、知識人としてはあちらの天主信仰に対抗する方法論を準備することが急務でした。なので、原始儒学に潜在していた「天」を新たに呼び出すに至ったんです。これに対して、経典に対する全面的な再解釈が要望されたんです。まさに茶山経学が出発した地点です。
白永瑞 お二人のお話しをもう少し明瞭に伝達するために、このようにお聞きします。今、中国で文化大国を作るためのソフトパワーとして強調する儒学復興の雰囲気について、先生はどのように理解しますか。そのような現象と、宮嶋先生がおっしゃる儒教的近代が重なるのか、あるいは違いがあるのか、説明すべきではないでしょうか。そしてその過程で、先生が重く指摘された、朝鮮儒学の、または日本儒学の独特の役割は、そのような中国の国家形成にどのように作用するのか、説明が必要だと思います。
宮嶋 延世大哲学科にいらっしゃったパク・ドンファン先生が、「三表哲学」というものを提起しました。一表哲学は西洋哲学で、二票哲学は中国哲学、韓国哲学は三票.この方の話では、西洋哲学も中国哲学も、結局は、合理性を追求する哲学なのに反して、韓国の人々が追求すべき哲学は非合理的なものとでも言いましょうか。さきほど申し上げたように、退渓先生も「天」や「理」というものが、人間が理解できるものなのかを疑いながら、未知に対する敬意を強調したように、私なりに表現すれば、人間が全てを理解できると考えることが西欧的近代の誤りであるという話です。(「三票哲学」については、パク・ドンファンを中心にした座談会記録「端への限りない脱走-パク・ドンファンの哲学的問題」、『東方学志』151号、2010参照)、私はこの主張と、さきほど申し上げたチョ・ソンファンの論文に通じる部分があると思います。韓国の思想伝統に見出せるそのような部分が、むしろ今後、世界的な意味を持ちうるのではないのかと思うんです。
白永瑞 今回の対談を準備する間、宮嶋先生の論文を読みながら、先生の論文が中国知識人にどのように受け入れられるのか想像してみました。韓国で中国中心主義と批判が出てくるように、他の見方をすれば、中国の最近の雰囲気に合っていて、彼らが好むような部分がありそうです。中国的近代が存在し、それが韓国など東アジアに影響を及ぼしているという見解のことです。
宮嶋 私はそれがいいといっているのではなく(笑)……
白永瑞 そうです。本来、先生が小農社会論を提起したのは、東アジアの現況を批判するための仮説だからでした。東アジアに王権や国家権力を批判する主体がなぜないのかという問題を糾明するために研究された脈絡がありますが、私はこのことが中国人にどのように受け入れられるだろうかを念頭に置きながら、朝鮮思想との対話という問題をもう少し考えてみたらどうだろうかと思うのです。このような議論が中国人と対話をする過程の中で、今日の中国、または歴史的中国を相対化することができ、批判もできる、緊張関係を維持しやすいのが、韓国の事例で対話する方式ではないかと思います。お二人の先生がそのような疎通をする適任者だという気がして、今回、お話しを差し上げました。では、今回の対話の出発点でもある、東アジアの不安を作った中国の要因、または帝国言説について、少しお話しを聞かせて下さい。
世界史的な転換期に展望する東アジアの未来
林熒澤 宮嶋先生の儒教的近代について、日本のある知識人が、宋代的近代を21世紀に再現しようという帝国言説ではないかという調子で批判していました。
白永瑞 他方では、宮嶋先生が溝口氏と同様に、宋代以来の中国を浮彫的な手法で何かを強調して、東アジア近代、ないしは中国的近代を実体化しているという批判もあります。
林熒澤 儒教的近代論を帝国言説と責め立てるのはあきれた話ですが、なぜ日本の知識人からそのような話が仮借なく出てくるのでしょうか。中国の浮上を目前にして起きた過敏反応ではないかと思います。中国がどのような形で私たちの前に現れるのか未知数ですが、明らかなのは、昔の中国の冊封・朝貢体系のような帝国が出現する可能性はまったくないでしょう。ですが、19~20世紀に人類が経験した帝国主義と類似の形で「中華帝国」が登場するでしょうか。これもやはり可能性は少ないと思います。将来、どのような中国になるのかという問題は、儒学と関連づけて類推する必要もあります。少なくとも儒学の思想の内側において暴力的な帝国は出てきません。儒学の肯定的な面をよく生かして活用することによって、「善良な中国」を期待できないでしょうか。中国自体だけでなく、周辺の韓国や日本、また太平洋の向こうのアメリカが、現状況をどのように牽引していくかが決定的です。朝鮮半島の分断状態がより一層悪化し、日本が中国と対立し、アメリカを中心にした米・日・韓の軸に中国とロシアが対立する形が形成され、東アジアの新しい冷戦構図が形成されれば、中国はきっと帝国を指向するでしょう。私たちの分断した朝鮮半島は、過去の東西冷戦体制のもとで敏感な接点となり、途方もない傷を負いましたが、もし再び新しい冷戦構図が組まれることになれば、またどのような不幸な事態が起きるだろうか、充分に憂慮されます。
白永瑞 その問題については、さきほど申し上げた方式でいえば、中国と対話する姿勢、中国に話しかけるのが重要ですが、私は、それが何かと表現するならば、中国が何かと介入してくることに私たちはとても慣れていますが、逆に中国に私たちが何かと問うべきだということです。ここで私たちとは、韓国や日本であると言えます。中国に対して、日本の経験が、韓国の経験が、どのような意味があるのか、互いに話すべきです。もちろん構造的に非対称関係ですが、そうするべきです。逆に中国の人々にも同じ問いを投げかけるんです。彼らが持つ資源、それが中国的近代であれ、儒教的近代であれ、あなたたちは代案的普遍性も語っているが、それが意味あるものになるためには、さまざまな条件と試験を通過してこそ、その段階に到達することができ、しかし、そのためには、同様に資本主義世界体制の中で連動する韓国においても、日本の経験に耳を傾ける必要があるということです。今日の議論の相当部分は、そのような要素を意識して話したものですが、お二人ともそれなりに、これまでの学問的成果にもとづいてお話しされましたし、また、そのことが持つ、疎かにした面についても討論したわけです。
この部分が今日の議論で最も重要ではないかと思います。私が、帝国言説に関する論文(「中華帝国論の東アジア的意味」『核心現場で東アジアを再び問う』創作と批評社、2013)を書きながら、韓国の経験に対比して帝国言説を語ったのもそのような意味からです。「中国が、韓国の分断体制の克服過程で提起された複合国家論に対する議論に関心を持ちながら、どのような国家を形成するかについての苦悩がさらに必要であって、そのようなものを念頭に置いた思惟の訓練をする時、自然と中国内部のさまざまな問題、周辺的存在についてもさらに関心を持つことになり、それを包容してこそ、中国が望む普遍性に到達することができる」。このように、彼らが持つ資源を尊重しながら、その中で私たちなりに話しかけようと思ったのです。最後に整理の発言をお願いします。
林熒澤 初めから、中国の浮上と関連して、韓日関係の問題に重点を置いて、私たち知識人の役割を議論しましたが、私はこのようなことを考えました。今日の状況を大元帝国が解体する14世紀と比較してみようと。大元帝国の解体は、中国大陸にとどまる事態ではなく、ユーラシア大陸全域にかけた大々的な歴史運動なので、実に世界地図が変わるに至りました。その過程で高麗の知識人は、私たちが周知の通り、親明派と親清派に分かれて葛藤が起きましたが、結局、妥当な進路を見出して、歴史の進運に歩調を合わせました。朝鮮王朝の成立がそれです。この歴史運動を主導したのは、性理学で精神武装をした士大夫知識人です。私が特に注目したいのは、当時、知識人の多数が元に留学していて、関係も密接な方です。それでも大勢の流れを読んで、時代の進運にすばやく対応したのです。今日、私たちが当面している状況は、やはり世界史的な転換期です。アメリカ中心の世界秩序が動揺しているのは、すでに否めない状況です。ポストアメリカを深く考えるべき段階に来ています。第1次大戦以降にイギリスの覇権が終わったと考えるように、アメリカのグローバルな覇権も遠からぬ将来に歴史の場で消えさるでしょう。現在がとても重要な地点です。今日の韓国の知識人は、どのような姿勢を取って、どのような歴史的選択をするのか、600年前の知識人を一度振り返ってみようと大声を張り上げたい気持ちです。韓国の知識人だけでなく、中国や日本の知識人まで、みなともに心の障壁を取り払って、ともに苦悩し、白先生の表現のように話しかけ、理性的な対話をするべき時です。
白永瑞 宮嶋先生は、東アジア的近代の展望、特に韓日関係について、最後にお話し下さいませんか。対話の最初に提起された、韓日関係の展望を添えて下さればより一層いいと思います。
宮嶋 今、林先生が指摘されましたが、大元帝国が崩壊する中で、韓国と日本は反対の方向に行くことになりました。朝鮮時代の韓国は、中国以上に中国的になろうとしましたし、それをアイデンティティの根拠としました。反対に、日本は中国や韓国と異なる、その根拠が「武威」のようなものでしたが、そのような方向にアイデンティティを見出そうとしました。なので、中国を間に置いて、韓国と日本は反対の方向に行くことになり、それが現在の歴史認識の問題にまで影響を与えていると思います。ですが、表面的に見る時はそういえますが、実は中国という巨大な存在を目前にした、中心に対する周辺部の対応だったと見ることもできます。今、中国が再び巨大な存在として再浮上していますが、周辺部に位置した韓国と日本が互いに争うのではなく、互いの歴史を冷静に振り返りながら、今後の方向を検討する、共通の課題があるだろうことを強調したいと思います。
白永瑞 お二人が互いに異なる角度からおっしゃいましたが、今、私たちが大きな転換期を迎えており、それに対応する過程で衝突するさまざまに困難な点が、韓日間の葛藤、または東アジアのさまざまな国家間の衝突として現出しているのではないかと思います。ここには、政府間の外交的な交渉だけでは解決できない、さらに大きな問題があるといえます。そのような問題を解決するためには、歴史観や近代観に対する根源的なパラダイム転換が必要であると共通に話して下さいました。それとともに、よく学界でいうように、既存パラダイムを解体させることに終わるのでなく、新しいパラダイムを模索しながら、それをきちんと打ち立てる根拠を、お二人が探索して下さいましたし、それを最近、議論される中国における新しい文明言説や、新しい普遍性を追求する努力と比較してみました。
事実、現在の中国人と日本人の歴史感覚を比較してみると、真に対照的です。中国人の自信あふれる感覚と異なり、日本人は総体的な自信喪失の中にあるようです。今、高まっている相互嫌悪の感情は、このようなところで発生するのだと思います。このように対照的な現象は、日本は近代化に成功した「優等生」、日本の植民地に転落した韓国は「劣等生」、列強の分割支配の危機に直面した中国は「半劣等生」という、従来の図式的な歴史理解をひっくり返すのではないかと思います。しかし、19世紀末から20世紀初めに威勢をふるった歴史認識でも、それとは対照的な現在の新しい歴史感覚でも、ともに依然として成功的な近代への適応、もう少し露骨にいって、富国強兵を基準として各国の優劣を分ける、一面的歴史観に縛られているのではないかと問いを立てて、その代案を追求しなければなりません。今日の対話は、まさにその答えを探索したという意味があると思います。
ただ、このような議論が、一般読者にとって、はたして韓日関係という先鋭な当面の問題に、どれほど重要な解決策を提起したかという問題は、また議題になり得ますが、私は『創作と批評』の編集を担当する人間として、このような議論もあるべきだと思います。時事的な問題に対する解説、または展望は、すでに多くのメディアや会議でやっていますから、光復(解放)/終戦70周年をむかえて、文学と政論を兼ねる批判的総合誌である『創作と批評』は、これまでやってきたこと、短期の課題を中・長期の課題と結合させて把握する、大きい言説のレベルにおいて、このような作業をやったということで満足しながら終えたいと思います。それは、東アジアで「媒介的なアイデンティティ」を持つ韓国が担うべき役割、特に21世紀の実学運動と名付けうるほどの課題を引き受け、たゆまず自己反省するという確約でもあります。ここに積極的に協力して、猛暑のなか出席して下さった二人の先生に深く感謝したいと思います。ありがとうございました。(2015年7月10日/於・カトリック青年会館「橋」(タリ))
〔訳=渡辺直紀〕