창작과 비평

鏡の前で --分断体制と北朝鮮の変化

2015年 秋号(通卷169号)

 

 

金鍊鐵(キム・ヨンチョル)  仁濟大学統一学部の教授。統一部長官政策補佐官、ハンギョレ平和研究所所長歴任。主要著書に『北朝鮮の産業化と経済政策』『冷戦の追憶』などがある。

 

 

1. 二つのコリア、逆転のデジャブ

 

北朝鮮の現状をどう捉えるべきか。今、金正恩(キム・ジョンウン)体制に関する未確認の情報が溢れかえっている。保守政権の無能さ、マスコミの責任感の欠如、そして北朝鮮への偏見などが入り混じりながら情報と諜報がごちゃ混ぜになり、実情と希望との区別がつかなくなっている。証拠のない噂が我々のもとに運んでくるものは「北朝鮮の崩壊論」である。
しかし、北朝鮮は崩壊するわけではない。ただ変化するだけである。もし、北朝鮮の政治に急激な変化があろうとも、韓国には介入する根拠がなく、実際に介入することも不可能であろう。北朝鮮が崩壊すれば統一も可能であるという思いは根拠もなく現実的な可能性もない。予測は「希望的な観測」とは違うのだ。顕微鏡ではなく、望遠鏡で北朝鮮を見つめる必要がある。一つの国家は一日にして成るものでも消えるものでない。長い年月をかけて形成された構造を理解すべきであり、より長期的な視点で北朝鮮体制を見つめる必要があるだろう。
北朝鮮は分断国家である。二つのコリアはお互いに否定し、対立し、競争してきた。また時には話し合い、協力し合い、包容し合ってきた。北朝鮮体制の特性を理解するためには分断がもたらした影響を無視することはできまい。分断体制という視点から見ると、二つのコリアは似通っている。時間のずれはあるが、相手の態度から過去の自分自身を発見することができる。
例えば、南北関係において人道主義といえば、韓国が与え、北朝鮮が与えられるというイメージが一般的ある。しかし、韓国戦争(朝鮮戦争)後、最初に人道的支援を与えたのは北朝鮮側であり、与えられたのは韓国側であった。1984年の9月、ソウルと京畿(キョンギ)地域では大雨で多くの被災者が発生した。9月8日に北朝鮮の赤十字会は、米やセメント、医薬品などの援助を提案した。1950年代から北朝鮮は韓国で水害や干ばつなどの災害が発生する度に人道的支援を申し出た。当然、韓国側は拒否した。冷戦時代は相手が受け入れられない、もしくは相手の立場を考えない「提案競争」の時代であった。
南北の経済力の格差は1970年代初めには既に逆転していたが、提案の慣性は1984年まで続いた。全斗煥(ジョン・トゥファン)政権が北朝鮮の援助提案を受け入れることにより「提案競争」には終止符が打たれた。1983年のラングーン爆破テロ事件にも関わらず、全斗煥政権は1986年のソウルアジア競技大会と1988年のソウル五輪の成功的な開催のために北朝鮮の提案を受け入れてしまったのである。1983年基準で米の生産量は、韓国(540万トン)の方が北朝鮮(212万トン)よりも2.5倍高く、セメントの生産量も北朝鮮よりも2.7倍高かった。[ref]北朝鮮の提案によって行われた赤十字会談の詳しい内容については統一部の『南北対話』第36号(1984.8~1984.11)を参照。[/ref]
人道支援の核心的争点である分配の透明性問題においても同じことが言える。1990年代半ばに北朝鮮は「苦難の行軍」を経験し、その時から韓国の北朝鮮への人道的支援の歴史が始まった。それ以降、分配の透明性問題は、韓国内で北朝鮮への人道的支援をめぐる葛藤の核心であった。援助物資が軍隊用に転用される可能性を主張しながら「一方的支援」というフレームに強引に当てはめる時も「透明性の不足」が重要な理由となった。
しかし、分配の透明性という問題はそう簡単な問題ではない。1984年、北朝鮮からの水害物資引渡しのための南北赤十字会談が開かれた際、北朝鮮は直接水害地域を訪問し、物資を被災者たちに供給したいと申し出た。分配現場に接近する権限を要求したのである。当時、大韓赤十字側は「支援を受ける側が物資引渡しの場所を指定する赤十字の慣例」を理由に強く反発した。国内のマスコミも「北朝鮮の底意」を非難した。経済力が逆転したからといって過去の出来事を忘れてはならないだろう。
時には過去の記憶が現在の選択に影響を及ぼすこともある。2005年、北朝鮮の核問題を解決するために韓国は200万kWの電力供給を提案したことがある。北朝鮮が寧辺(ヨンビョン)の5MW原子炉を廃棄する代わりに代替エネルギーを提供するという提案であった。但し、その方法は韓国からの直接送電であった。韓国は、体内に血液が循環するように、電気が伝われば統一へも一歩近づくということを強調し、両国が敵対から相互依存の立場へと移行できると主張したのである。しかし、北朝鮮は拒否した。相互依存を受け入れなかった理由は過去の記憶のせいである。
1948年5月14日正午に北側は南側への送電を中断した。開放直前の韓半島(朝鮮半島)の電力設備及び発電量は90%以上が北部地域に偏っていた。そのため、日本は豊富な電力供給源の存在する韓半島の北部と中国の東北地域を重化学工業地帯として育成した。1940年代初め、韓半島の北部地域は東アジア最大規模の発電設備を保有していたとされる。一方、開放直後の韓半島の南部地域の発電量は微々たるものであった。韓半島の南部は1948年4月まで平均電力の66%を北部の送電に依存していたのである。
北側からの送電が中断されてどうなったであろうか。南側の工場の稼働率は30%以下へと低下し、家庭用の電力使用も厳しく統制され、水道水の利用も困難となった。電気代が大幅に値上がりしたが、電力は不足していた。韓国の電力需給問題はかなりの年月を経てから解決された。[ref]リュ・スンジュ 「1946~1948年 南北の電力需給交渉」 『歴史と現実』第40巻、2001。[/ref]
どこかで見たようなデジャブは分断の歴史がもたらしたものである。分断から70年が過ぎた。分断体制においては多様な理論的な接近が可能であろうが、歴史的接近も重要である。人々は美しい記憶だけを思い出そうとするが、それは一方的なものである。相手の記憶が必ずしも美しいとは限らない。北朝鮮はもう一つの分断国家である。北朝鮮がどのように成立し、どのような状態であり、どこへと向かっているのかを知るためには、分断体制が北朝鮮体制にどのような影響を及ぼしたかを理解しなければならない。

 

2. もう一つの分断国家: 形成と発展

 

北朝鮮は「現実社会主義」国家であるが、同時に分断国家でもある。他の社会主義の国家の体制転換や体制改革の流れに乗らず、北朝鮮は一人違った方向へと進んでいる。分断体制というものが北朝鮮に及ぼした最も重要な影響は軍事国家化と言えよう。抗日武装闘争の伝統、韓国戦争と二つのコリアの対決、そして体制危機の局面における先軍政治など、その時期によって軍事化の直接的なきっかけは異なるかもしれない。しかし、北朝鮮の安保戦略において優先的に考えなければならない重要な要因は分断国家という点ある。
分断体制論では、南北間の強固な体制的性格を強化する分断によって形成された独特の利害関係に注目している[ref]白楽晴(ベク・ナクチョン)「分断体制克服運動の日常化のために」『揺らぐ分断体制』、創作と批評社、1998、21~22頁参照。[/ref]。果して分断体制は北朝鮮の国家形成、発展、危機、変化にどのような影響を及ぼしたのだろうか。これと関連して「インターフェイス動力学(interface dynamics)という概念[ref]朴明林(パク・ミョンリム)はインターフェイスを対双関係と翻訳し、相互関係を超えた「構成された全体秩序が二人の行為者に特定の条件を与える関係」という点を強調した。朴明林「分断秩序の構造と変化: 敵対と依存の対双関係動力学(1945~1995)」『国家戦略』第3巻1号(1997)参照。[/ref]を理解する必要がある。この概念は単純な相互関係(interaction relations)を意味するのではない。それよりも相互関係を構成する全体秩序としての分断体制が、向かい合っている二つの主体に課す制約、作用をより重視するのである。分断体制は北朝鮮にどのような影響を与えたのか。

 

分断: 正当性という名分と経済的な欠乏

 

分断体制は、北朝鮮の国家形成の中で韓国との違いと競争という環境を意味する。分断前後、韓国は北朝鮮にとって、正当性、優越性、発展において、全て競争の対象であった。北朝鮮は分断政権の樹立以降、教育政策や労働政策などあらゆる分野で常に韓国と比較し、韓国との違いを強調しながら、それを正当性の土台としてきた。開放直後の課題であった土地改革の形成・執行・結果の過程で韓国との違いは北朝鮮体制において「公式的なイデオロギー」として強調された。
北朝鮮での階級闘争、または文化革命の過程でも分断は重要な要素として作用した。社会主義国家で一般的に現れる国家形成直後の「階級闘争」は北朝鮮では比較的深刻なものではなかった。1930年代のソ連のスターリン(I. Stalin)体制下での大粛清、1950年代の中国での反右派闘争などと比較してみても分かるだろう。北朝鮮の階級闘争との決定的な違いは韓国という出口が存在していたという点だ。社会主義に抵抗するキリスト教勢力や土地改革に反対する地主層は抵抗よりは脱出を選択した。韓国という出口の存在は抵抗の強度を弱化させてしまった。
一方、経済の分断は北朝鮮の経済に構造的な歪曲をもたらした。韓半島は日本帝国主義の下でも単一経済圏を維持していた。分断政権が樹立してからも南北の経済的な相互依存関係はそう簡単には断絶することはなかった。南側に政府が樹立した後の1948年9月27日、李承晩(イ・スンマン)政権が対北交易の中断を決定すると産業界は強く反発した。そのため仕方なく李承晩政権は中断処置から一ヵ月後の10月27日に南北交易を再開すると発表した。勿論、搬出品目を統制するという条件付きではあった。  開放以降、公式的な南北交易よりも重要な役割を果していたのは38度線を横切る密貿易であった。いわゆる「38度線密貿易」の規模は公式的な交易を上回っていた。例えば、1948年の南北の総取引き総額は16億7千万ウォン程度で、その内、搬出額は4億6千万ウォン、搬入額は12億5百万ウォンであった。38度線密貿易の規模を正確に推定することはできないが、1948年の摘発件数だけで2億7千万ウォンに上り、当時発刊された朝鮮中央年鑑(1949)によると実際の密貿易の規模は摘発件数の数十倍に至るとされている。つまり密貿易が公式の交易額を上回っていたということが推し量られる[ref]ジャン・ファス「解放後の南北の「地域間貿易」に関する研究(1945~49)」『アジア研究』通巻53号(1975)参照。[/ref]。北朝鮮は韓国から搬入したい物資が少なからずあったのである。38度線の分割ラインは徐々に濃くなっていったが、依然として人や物資、情報などが交流する通路となっていた。38度線を通じて人々は越北・越南を行った。ゴム靴や布地などあらゆる生活用品と穀物は北側に持ち込まれ、牛や肥料などは南側に持ち込まれた。[ref]キム・ボヨン「8•15直後の南北の経済交流に関する研究:南北分断の経済的帰結」『経済史学』第22集、 1997。[/ref]
分断は北朝鮮経済に欠乏と構造の歪曲をもたらした。日本の技術者たちが去り、原材料や部品の調達が困難になると北朝鮮の重化学工業の稼働率は低下していった。そのような状況での南北分断は経済全体の循環に否定的な影響を与えたのである。

 

戦後体制と社会主義の発展戦略

 

韓国戦争は38度線を点線から濃い太線へと変えてしまった。そして、戦争は北朝鮮の社会主義の発展戦略に重大な影響を及ぼした。戦争過程で朴憲永(パク・ホンヨン)や李承燁(イ・スンヨプ)などの国内の共産主義者らは没落した。南労党(南朝鮮労働党)の没落は、南側での支持基盤を失ったためであった。粛清の理由も政策競争ではなかった。ソ連で1920年代に起こったような新経済政策をめぐる論争でもなく、中国で起こったような市場の役割に対する論争でもなかった。金日成(キム・イルソン)は南労党にスパイの濡れ衣を着せて粛清した。分断体制の産物である敵対意識を利用し、その過程で党内の民主主義は消滅し、中央集中性が強化された。
1956年の中ソ紛争以降、社会主義陣営の分裂状況下で北朝鮮は自主路線を定立した。自主路線の形成過程にも分断は大きな影響を及ぼした。北朝鮮は社会主義圏の分裂と韓半島の冷戦体制の激化という二重の危機に直面していた。特に1960年代はベトナム戦争が激化し、韓半島でも直接的な武力衝突が起こった時期であった。1968年には北朝鮮の特殊部隊による青瓦台(チョンワデ)襲撃事件が発生し、東海(ドンヘ)では米国の情報収集艦プエブロ号が拿捕され、蔚珍(ウルチン)・三陟(サムチョク)地域では数ヶ月間ゲリラ戦が続くなど、「制限戦争」が展開していた。
1960年代に入ると、北朝鮮の予算の中で国防費の割合が急激に増加し、社会の軍事化が進んだ。その過程で北朝鮮の政治体制は唯一体制へと転換していった。即ち、現在の北朝鮮体制の基本的な性格の形成過程が弱小国の社会主義国家であった北朝鮮の自然な選択であったとは説明しがたい。冷戦的な対立の深化が政治体制の形成、重工業中心の発展戦略、そして全般的な軍事国家へと進む促進要素であったのだ。
1960年代の冷戦的な対立環境は、北朝鮮の発展戦略において外延的な成長戦略から内包的な発展戦略へと転換する機会を奪ってしまった。一般的に、大衆動員運動を長期的に持続することは容易でない。労働力の量的増加に限界があるからだ。しかし、冷戦体制の下で労働と戦闘は同一視され、発展戦略の転換を遮ってしまった。東ヨーロッパの社会主義国家が体制の内的改革を進めた点と比較すると決定的に違うことが分かる。

 

変化する国際秩序と揺らぐ分断体制

 

1969年のニクソン・ドクトリン以降、東アジアの国際秩序は変化のきっかけを迎えた。中ソ紛争が深化していく中、米国の積極的なデタント外交は冷戦の陣営対立を弱化させた。西ドイツはニクソンの作ったデタント潮流の中でソ連との関係を改善し、東ドイツとの関係を発展させ、東ヨーロッパと和解した。
韓半島の分断体制も揺れ始めた。北朝鮮は7•4南北共同声明(1972)を国際社会との接触の機会として活用した。それまで国際的に孤立していた状況であったため、これをきっかけに積極的な修交を推進し、それなりの成果を得た。経済的にも借款を導入し、設備の現代化を進めた。しかし、オイルショックにより北朝鮮の原材料の価格は下落し、結局フランスなどから得た設備導入のための借款を返済すことができなくなった。北朝鮮は債務不履行を宣言し、国際的に信用不良国へと転落した。7•4南北共同声明も長くは続かなかった。1976年、板門店(パンムンジョム)のポプラの木の剪定を行う過程でア米陸軍士官が死亡する事件により軍事的緊張が高まると、南北の間で揺れ始めていた分断体制は直ちに復元してしまった。
1980年代、世界的に社会主義圏の危機と変化が表面化し、北朝鮮の経済危機が加速化すると、南北の国力は逆転した。この時期に対話を通じた共存の動きが見られた。北朝鮮が80年代半ばに対話に乗り出し、1989年以降に高官会談と南北基本合意書体制に応じた理由は危機感の反映であったと言えよう。
中国が1978年に開放路線と経済特区政策を発表し、ベトナムがソ連の経済援助が減少すると1986年にドイモイ(doimoi, 改革開放)政策を表明したように、北朝鮮も新たな代案を選択すべきであった。しかし、北朝鮮は分断体制の中で出口を模索しただけであった。社会主義圏の体制転換により友好貿易が減少すると、北朝鮮は南北経済協力を選択した。外交的な孤立と軍事的な緊張緩和のために北朝鮮は、全斗煥(ジョン・トゥファン)•盧泰愚(ノ・テウ)政権の北方政策に積極的に応えた。北朝鮮が連邦制統一論から後退し、やむを得ず国連への同時加入に応じたのは他に代案がなかったからである。体制危機と積極的な対南政策の結合は90年代の半ば以降一層強まった。1994年、金日成の死亡後に始まった「苦難の行軍」は、北朝鮮が2000年度の南北首脳会談に応じる決定的なきっかけとなったのである。

 

3. 脱分断と北朝鮮の変化との関係

 

北朝鮮の変化に関してはそれぞれ相反する意見が存在する。北朝鮮を取り囲む環境の変化を強調する意見と北朝鮮内部の改革意志を強調する意見が対立している。しかし、外部環境と内部の選択はお互いに繋がっている。変化する環境を有利に活用するためには積極的な変化に対する意志が必要である。北朝鮮は2000年代に入り、何度か「転換の瞬間」を迎えた。しかし、変化は続かなかった。それはなぜだろうか。

 

分断体制と軍事国家化

 

2000年度の南北首脳会談により設けられた戦後清算の機会はブッシュ(G. W. Bush)政権の登場により失われてしまった。2002年に北朝鮮が意欲的に進めた7•1経済管理改善措置は、2次核危機の開始により持続することができず、2007年度の南北10•4共同宣言も李明博(イ・ミョンバク)政権の登場と南北関係の悪化により実行できなかった。結局、外交環境は不安定となり、市場と計画の間で迷っている中で北朝鮮では「三代世襲」が行われた。
金正恩体制の下で北朝鮮はどこへと向かうのだろうか。北朝鮮に変化はあり得ないという古くからの意見がある。このような「北朝鮮不変論」は冷戦的な見方に過ぎない。全ての存在は変化する。変化しないものはどこにもない。ただ、その変化のスピードと方向が違うだけだ。北朝鮮にも変化する領域もあり、変化の遅い分野もあるのだ。三代にわたり世襲が行われたにも関わらず、リーダーシップ型の変化が予想されたが、北朝鮮では「人格的支配」を特徴とする「首領制」の政治体制が迅速に復元してしまった。政治体制は変化のスピードが遅い分野である。逆に、北朝鮮の経済体制は相対的に早く変化しており、また、社会文化的な変化も注目に値する。しかし、政策決定構造が変化しない限り、経済分野の分権化と社会文化的な多様性にも限界があろう。
北朝鮮の変化は分断体制の変化に影響を受ける。個人崇拝と人格的支配、超集中化した政策決定構造は冷戦の環境の中で正当化された。また、首領制は軍事国家化と密接に繋がっている。軍事秩序は軍隊だけではなく、経済と社会の領域にも存在し、指導者は戦時の司令官に喩えられる傾向にある。外交的には北朝鮮と米国、北朝鮮と日本の関係正常化が実現しておらず、政治的には南北の和解が成立していないため、軍事的に不安的な停戦体制である戦後体制が続く限り、北朝鮮の軍事国家的な性格も続くであろう。
逆に、軍事国家的な性格は北朝鮮を取り囲んでいる緊張構造が緩和されれば、次第に弱まるだろう。しかし、北朝鮮内部においての軍事的利害関係は変化を妨げる障害となっている。2002年に意欲的に取り組んだ朴奉珠(パク・ボンジュ)内閣の経済政策の変化は、結局、党と軍の経済的な利害関係に妨げられて挫折した。北朝鮮で軍は依然として重要な経済的領域を手に握っているため、財政赤字が続く中でも軍の運営経費を調達するための経済活動は許可するしかない。核兵器の数を増やすとしても、現在の兵力レベルを維持する限り、国防費は減らないだろう。
1970年代の後半、中国の鄧小平が経済改革の開始と同時に思い切って軍兵力を縮小して国防費を削減し、米国との関係改善によって外交的環境を助成した理由もここにある。単に投資の優先順位を調整するのではなく、軍が改革に参加できる環境づくりをすることが重要であろう。
北朝鮮は核・経済の並進路線を主張している。しかし、たとえ核抑止力を備えたとしても、それが在来の軍備への投資縮小には繋がらない。米ソの冷戦の歴史やインドとパキスタンとの関係からも分かるように、核を保有しているにも関わらず、制限紛争は終らなかった。在来式の軍備競争が続く限り、国防費の支出を減らすことはできないだろう。北朝鮮も少子化による人口減少のため兵力資源は制限的である。現在の兵力レベルを維持した場合、産業活動人口は一層減少するため軍の経済活動は持続するしかなく、利益の発生する領域は軍によって先占されるだろう。従って、対外的な緊張構造が緩和され、北朝鮮の「被包囲意識」が弱まるにつれて先軍政治の政策的影響力も弱まるのである。

 

経済改革と「ゲートキーパー国家」

 

北朝鮮の経済政策の変化においても同様の事が言える。中国やベトナムとは異なり、北朝鮮の部分改革は関連分野への拡大よりは分節的で断絶的な形で進んでいる。北朝鮮の農業政策における「圃田担当制」は注目に値するだろう。これまで農業分野でインセンティブの単位は作業班から分組へと、そしてその分組が縮小化されて2013年からは3~5人を一組とする圃田へと細分化された。中国とベトナムの経済改革の初期に登場した家族営農責任性(農家責任性)と同じと言えよう。圃田担当制は実質的に農業生産に肯定的な影響を与えている。
中国やベトナムの農家責任性は、単なる農業政策に止まらす、経済改革に多大な影響を及ぼした。農家が国家の買入れに応じ、残った農産物を市場で売ることができるようになると市場価格が形成されるようになった。国家はその市場価格を踏まえ、買入れ価格を決定しなければならない。そうでなければ、農民が国家への出荷量を減らす可能性が高いからだ。農産物に対する市場価格の形成は都市地域の賃金決定にも影響を与えることになる。殆んどの国家で食糧の価格が基準価格だからである。しかし、農家責任性は持続的な農業生産力へと繋がらなかった。急激な都市化によって農民たちは農業を諦め都市へと移った。土地投機現象が広範囲で現れた。また、社会主義の時代には利水・灌漑施設に計画的な投資がなされたが、市場化が進んでからはそれも不可能となった。
農業生産力に関しては、小農経済ではなく、大農経済の効果性を強調する意見も少なくない。農業生産においてインセンティブ単位を農家、又は圃田へと縮小すると、短期的には生産性が上昇するかもしれないが、長期的な効果を期待することは難しい。農業生産性に影響を及ぼす要素は非常に多いからである。ただ、北朝鮮での圃田担当制は中国やベトナムの農家責任制と同様に農産物の市場価格の形成と賃金の現実化、そして買取価格の引き上げをもたらした。しかし、農業政策の変化が他の領域での経済改革に及ぼした影響は依然として制限的である。
なぜ、北朝鮮では他の領域へと拡大できないのだろうか。2000年代初めのキューバの「制限的経済改革」を評価する際に活用された「ゲートキーパー国家(gatekeeper state)という概念[ref]Corrales Javier, “The Gatekeeper State: Limited Economic Reforms and Regime Survival in Cuba, 1989~2002,” Latin American Research Review 39, no. 2 (June 2004)参照。[/ref]を適用することができる。この概念は経済改革の過程を市場ではなく、国家が主導する際に現れる現象を指すもので、経済改革によって生じた収益性の高い分野で国家がゲートキーパーの役割をするという意味である。キューバは主に観光分野を中心に開放政策を推進しながら国家の許認可権限の行使によって収益への接近権限を統制した。
北朝鮮も同じだ。現在、北朝鮮の外貨所得において最も大きな比重を占めている分野が海外への労働力の送出し事業である。中東の建設市場での北朝鮮の労働者の数は増加しており、中国、ロシアへの派遣労働の規模も大きくなり、形態も多様化している。最近、中国との国境近くの都市では北朝鮮の労働者を雇用する委託加工の形態も登場している。海外派遣労働者は北朝鮮に帰ると新たな中産層となった。同時に北朝鮮政府は労働力の輸出過程においてかなりの利益を得ている。このような労働力の送出し事業はゲートキーパー国家の代表的な特徴である。
経済特区政策も同じだ。開放と改革はコインの裏表のようなものであり、国内の経済改革が伴わない開放は一定レベル以上には発展不可能なのである。代表的な例が開城(ケソン)工業団地の賃金支払い方法である。現在、開城工業団地の入居企業は北朝鮮の労働者に直接賃金を支払うことができない。ドルで開城工業団地の総局の方へ賃金を支払うと、総局は北朝鮮政府が指定した公式為替レートを適用し北朝鮮のウォンに両替する。この内30%は社会文化施策費(無償住居や無償教育などのための控除)として控除され、残りの分を現物賃金と現金賃金で支給される。現物賃金とはその金額に相当する商品券のことで、開城工業団地の労働者たちは専用の商店で生活必需品などを購入することができる。
ここで問題となるのは、現金賃金である。殆んどの第3世界の国家は資本市場が開放されておらず、外貨管理のために海外労働、もしくは外国人投資企業の賃金が外貨で直接支給されない。韓国も1970年代に中東の建設労働者たちがドルで支払われた賃金を送金すると政府が公式為替レートで換算してウォンで支払った。その過程で公式為替レートと市場の為替レートとの差が重要になってくる。2015年4月現在の北朝鮮の公式為替レートは1ドル107~109ウォン程度である。しかし、統一部の発表によると、同じ時期の市場の為替レートは1ドル8000ウォンである[ref]ノーカットニュース 2015.7.10.(http://www.nocutnews.co.kr/news/4441839)参照。[/ref]。このように公式為替レートと市場の為替レートの差が80倍近くになるとすれば、非常に大きな為替差益が発生する。為替レートの差があまりにも大きいと、企業が開城工業団地の総局に支払う価値と総局が北朝鮮の労働者に支払う価値に差が生じやすい。現在は、北朝鮮の労働者たちの要求で現物賃金の割合が高くなっているが、依然として為替の問題は残ったままである。
賃金の直接支払いは南北間で合意されたことであるが、未だにそれが守られていない理由は、北朝鮮の内部で為替制度と金融制度が変わらないからである。改革の伴わない開放は有り得ない。北朝鮮があまりにも大きな差のある二重為替制度をこのまま維持するならば、経済特区での賃金引上げが生産性の向上に結びつくことはないだろう。北朝鮮が外国資本をより多く誘致するためには、国内の経済制度も同時に改革すべきである。

 

4. 分断体制と北朝鮮の人権問題

 

北朝鮮は「国家イメージ」を改善すべきである。国際政治理論の中で構成主義は現実主義とは違い、認識の重要性を強調する。北朝鮮に対する悪化した認識は、米国や日本の対北政策に否定的に作用する。南北関係は長期的な膠着状態に入り、北朝鮮に対する否定的なイメージも強くなった。さらに、北朝鮮の人権問題は国際的に重要な議題として浮上している。
国連人権理事会の北朝鮮人権報告書は、年々具体的で厳格な対応措置を勧告している。北朝鮮の人権の実情は一部の脱北者により、過剰に報道されている面も多少あるが、普遍的な人権の基準からすると劣悪な状況であることは事実だ。問題は改善の方法である。
北朝鮮の人権問題もまた、分断体制の視点から見つめる必要がある。北朝鮮政府の住民監視及び統制は韓国戦争以降、北朝鮮内で強化された分断体制の産物である。分断は国家主義と軍事主義、そして集団主義を正当化する名分となった。韓国は民主化へと移行しながら、中等学校でのマスゲームは消え去ったが、北朝鮮は今も集団体操の国である。そういった意味で「南北の国際人権原理と相互尊重の精神の下、人権改善のために協力し合う過程」を強調した徐輔赫(ソ・ボヒョク)の「コリアの人権」という概念[ref]徐輔赫『コリアの人権: 北朝鮮の人権と韓半島の平和』、チェクセサン、2011、参照。[/ref]は適切であろう。分断を克服するための努力、つまり「人道主義による生存権と発展権の改善、民間交流による情報接近の促進、経済協力による社会権の改善が可能である」という指摘[ref]徐輔赫「分断体制と人権問題: 北朝鮮の人権に対する論議と再設定」『統一人文学』第61集(2015)参照。[/ref]も非常に参考となる。
自由権の改善に関しては、実効性が重要である。北朝鮮政府は人権侵害の当事者でもあるが、同時に人権改善の当事者でもある。敵対的な人権政策によって該当国の自由権が改善された例は多くない。強圧的な外交は却って相手国の権威主義の政治を強化してしまい、一般住民の経済・文化的人権を悪化させる可能性が高い。北朝鮮の場合も同じである。人権改善の要求が北朝鮮の体制転換のための手段として解釈されれば、北朝鮮は国際社会と距離を置き、伝統的な体制を強化し、結果的に北朝鮮の住民の人権は一層悪化するであろう。2014年2月、国連の北朝鮮人権調査委員会の報告書でも「北朝鮮の国民、あるいは北朝鮮の経済全体を標的とした安全保障理事会が課す制裁や2 国間の制裁を支持しない」と言及していることを忘れてはならないだろう。
東ドイツと西ドイツの関係においても西ドイツの協力的な人権政策は敵対的な人権政策よりも実効性が高かった。中国の例を見ても、外部からの強圧ではなく改革開放の深化と国際社会への参加が人権改善に一層重要な役割を果している。北朝鮮の人権問題に「ヘルシンキ・プロセス」の意味を強調する意見もある。1975年のヘルシンキ・プロセスは全欧諸国が参加した集団的安全保障協力の転換点であった。保守的な視点では、ヘルシンキ・プロセスを1989年のベルリンの壁崩壊と東ヨーロッパ社会主義の民主革命の背景として説明している。しかし、むしろヘルシンキ・プロセスは「包括的な接近」の代表的な例である。1975年に採択されたヘルシンキの最終議定書は「人権改善」と同様に主権尊重と武力使用の禁止、内政不干渉、経済・文化交流の重要性などを核心的な内容として包括していた。主権と人権との関係は長い間国際政治の論争の対象であったが、ヘルシンキ・プロセスは主権尊重の精神の下、「対話による人権改善の努力」を求めた例であった。
南北関係において人権問題は益々重要な懸案として浮上している。2015年6月、国連人権委員会のソウル事務所の設置が南北関係の悪化のきっかけとなったように、人権に対する解釈の違いは解決困難な課題である。現代国家の外交政策は世論という一般国民の認識にかなり左右される。国内外的に北朝鮮に対する認識が過去よりも遥かに重要になっていると同時に、北朝鮮の人権問題もやはり外交関係において占める割合が高くなったのである。しかし、国際社会の人権問題が政治の空間で論じられており、戦略的な利害関係によって人権問題を見つめる視点も異なってくるということを認める必要があろう。米国のルーズベルト(F. D. Roosevelt)大統領は、ニカラグアのソモサ(Somoza)政権と外交関係を結ぼうとした際、担当の実務担当者が独裁政権という理由で反対すると、「ろくでなしだが、我々のろくでなしだ(Son of a Bitch. But,our son of a bitch)」と答えたという。人権という普遍的な価値よりはアメリカの戦略的利害の方が重要だという象徴的な表現である。現代の外交が人権の価値を過去よりも高く評価していることは事実であるが、戦略的な利害関係を重視する外交の本質は今も有効である。
過去とは異なり、北朝鮮が国連レベルでの人権への論議に積極的に応じているという点は注目すべき変化だ。ただ、北朝鮮は人権の普遍性を否定し特殊性を強調している。重要なことは国連の人権政治において多数の支持を得なければならないということである。そういった意味で、キューバの例から教訓を得る必要があろう。2000年代半ば以降、米国の強力な主張にもかかわらず、キューバ人権決議案が小委員会を通過できなかった過程に注目すべきである。キューバは多数の非同盟国家から支持を得、小委員会の決議案の採択を食い止めた。そして、90年代以降には、国内的に人権団体の活動を許し、ローマ教皇庁との関係も改善させ、国際人権団体の接近も許可した。人権イシューを無視せず、特殊性を主張したりもしなかった。結局、オバマ(B. Obama)政権は、今回キューバとの関係正常化に合意した。ワシントンにキューバの国旗が、そしてハバナには米国の国旗が掲揚された。今後、キューバは中国や東ヨーロッパなどに続き、「接近による人権変化」の実証的な例となると思われる。
国連の舞台で非同盟国家は人権問題の「二重基準」を非難している。代表的な例として、米国が戦略的な利害関係により、サウジアラビアやパキスタンの人権問題を問題視してないことが批判されている。しかし、北朝鮮の人権決議案は圧倒的多数で通過させた。こういった点で北朝鮮は人権政治の現実を直視する必要がある。人権の特殊性を主張するだけでは非同盟国家さえも説得することはできない。北朝鮮は中断中のヨーロッパ連合との人権対話を再開し、国連の北朝鮮人権担当官も受け入れた上で、普遍的な人権の改善のために努力すべきである。

 

5. 向かい合いながらの変化

 

二つのコリアが鏡の前に向かい合って立っている。相手に自分の過去の痕跡を見つめるということは辛いことである。それは逆行の証拠である。分断が南北の変化を妨げ、政治的に利用されるという「古い過去」に向かい合うことは非常に嘆かわしいことである。
既に、二つのコリアは対照的ではない。南と北の経済的格差は比較にならないほど開き、人権と民主主義の歴史ももはや比べられない。ところが、依然として南北関係が対照的である現実は何を物語っているのか。韓国では、政治・社会的な発展にもかかわらず、分断認識が再現されて過去への退行現象が起こっている。鏡の前に立っているわけでもないのに、鏡に向かって、なぜ挑発するのかと腹を立てている。悲劇であると同時に喜劇でもある。
北朝鮮にも変化が必要だ。分断の克服は環境の変化と共に自然と克服できるものではない。自らの努力が必要である。政策の決定構造にも変化が必要であり、経済のための持続可能な政策変化も避けられないだろう。人権問題に対しても国際社会の多数の支持を得られるように能動的に対応しなければならない。韓国にも変化は必要だ。北朝鮮に対する認識を変え、分断の克服が我々の時代の課題であるという事実を共有すべきだ。我々自らが冷戦を克服できなければ、共に変化しようという共進化戦略の成功は難しい。
二つのコリアは何よりも格差を縮めるべきである。経済力の格差は比較優位と結びつき、経済協力を可能にする側面もあるが、それには限界がある。賃金格差を利用した労働集約的な分野での協力は持続性が低い。格差を縮めてはじめて経済協力のレベルを高めることができる。政治・社会的な格差は言うまでもない。民主主義と社会文化における格差は異質性を深化させ、相互認識を否定的な方向へと向かわせる。和解の精神と共存の哲学によって共感できる領域を徐々に拡大しなければならないだろう。
鏡の前で我々が微笑むと、鏡の中の相手も微笑み、我々が拳を握ると、相手も拳を握る。しかし、主体と客体ははっきりしている。鏡の中の相手が我々を動かすのではなく、我々が鏡の中の相手を動かすのである。北朝鮮の変化を望むのなら、我々が先に変化すべきであろう。悪循環を好循環へと転換させるための決断が必要なのだ。

 

翻訳 : 申銀児(シン・ウナ)