창작과 비평

変えるか、徐々に死ぬか --87年体制の政治的転換のために

2015年 秋号(通卷169号)

 

 

金鍾曄(キム・ゾンヨプ)  韓神大学校社会学科教授。著書に『連帯と熱狂』、『エミール・デュルケームのために』、『時代遺憾』、『われわれは再びディズニーの呪文にかかって』、『左衝右突』などと、編著に『87年体制論』などがある。

 

 

情報は期待と違う点、すなわち驚きの要素を持った何かである。この点を考慮すると、今わが社会が危機に処しているという話は全く情報とならない。みなが知っていることだからである。危機の指標はありふれている。卑近な例として世界最高の自殺率や、世界最低の出産率がある。あまり長く、そしてよく聞いてきたのでうんざりする指標であるが、生の始まりと終末に位置したこの指標ほど、わが社会の不幸を簡明に示すものが他にあるだろうか。無味乾燥な数字で表示されているが、この指標には出産することが怖く、生きていて何の意味があるだろうかという絶望の感情が一杯に込められている。もう青年層は自らを「3放世代」(恋愛・結婚・出産を諦めた世代)を越えて「5放世代」(3放+人間関係・マイホーム)と語る羽目であり、壮年層の間では「耐えると癌、耐えられないと自殺」のような言葉が横行する社会となった。
ひいてはわれわれはみな、このような不幸が如何なるメカニズムに因っているか知っている。そのようなメカニズムの中の一つを例に挙げると次のようである。わが社会は分断体制の形成過程で連帯の資源が深刻に損なわれた。その結果、社会成員のみなが狭い家族主義の枠に嵌められてしまった[ref]詳しい論議は拙稿、「「社会を語る社会」と分断体制論」、『創作と批評』2014年秋号参照。[/ref]。その家族は近代的学力主義の回路に沿って地位上昇に向けた競争に参与した。その結果はだんだん強化される入試競争であった。こういう入試競争が引き起こす子女の苦しい生と、それが要求する経済的費用の上昇は子女の数を減らす方向へ父母たちを追い立てた。しかし、子女の数が減ると、両親にとって個別子女の価値はより高くなるに決まっている。そういうふうに特別となった子女は無限な投資を要求する[ref]教育競争が投資競争に依存することになると、富が勝利することになる。富の勝利も問題であるが、それは他の危険を呼び入れたりもする。激しい教育競争で勝利した名門大の学生たちは、実は一度も檻を出てみたことのない「優れた羊たち」(excellent sheep)に過ぎないし、その中でより優れた学生たちが高試に合格して高位官僚になったり、法学専門大学院を卒業して判検事となり、後では国会議員になったりもするだろうが、それはせいぜい「非常に優れた羊たち」(brilliant sheep)が治める、もしかしたら惨たらしい世の中を作るかもしれないからである。[/ref]。だが、このような投資を補償するよい職場は減りつつある。それの結果が「壇君以来、最高のスペック」を持ったという今の大学生たちが直面した「就業絶壁」である。これと類似したメカニズムが産業構造、住宅市場、医療と年金問題で現れる様相を組み合わせてみると、わが社会が処した危機の構造がおおむね露わになるだろう。
問題はこのようなメカニズムを知っていてもそこから脱しにくいということである。われわれは過度な入試競争がみなを敗者にするということをよく知っている。しかし、代案とその代案に向けたある社会的転換がない限り、競争状況から脱し得ない。個別的に競争を嫌悪し、そこから離脱することはより悪い結果を招く可能性が高い。むしろ入試競争の補償がつまらなくなっているというまさにその事実のために、残った可能性を獲得するために自分と子女を搾り出さなければならないわけだ。要するに転換がなければ、わが社会に残った道は徐々に死んでいくことしかない。
だとしたら、転換の糸口はどこにあるか。体制が自ら生産した危機に直面する際、それを調整し、時には体制そのものを再編する動力は下からの微視的な動員から生じうる。考えてみると、先に指摘した入試競争も個別家族たちの微視的な行動戦略の綜合が産んだ社会的結果である。しかし、そのような行動戦略の綜合が「囚人のジレンマ」の状況に閉じ込められていると、微視的動員は決して容易くない。それより可能性の高いことは政治的転換である。ある社会の中央的権威と権力を構成し作動させる政治の一次的課題は、社会の下位部門で起こった問題を解決し、全体社会の方向を調整することだからである。それにそのような政治部門は相当な力量が蓄積されている。われわれは一年に数百兆ウォンに達する税金という共同基金と法的強制力が行使できるいろんな機構を持っているし、それを運用するうまく訓練された人的資源と彼らを指揮する政治家が先発できる体制を備えている。従って、このような資源を活用することが転換の最も早い道であり、そういう意味で転換の中心キーは政治にある。
だが、危機が非常に深く、深刻なものであるなら、それに対応するための政治的転換もまた、失敗しうる。古い思惟と実践の習俗を通じて引き起こされた危機なのに、その中で古い習俗に従った悪い選択が繰り返されうるからである。2012年、わが社会は危機に対処するための政治的転換の希望を抱いた。しかし、悪い選択のせいで転換は失敗したし、その失敗の代価を朴槿惠(バク・グンヘ)政府を通して経験している。もう一度転換を試みるためには、まずその代価を推し量ってみて構造的に眺望する作業が必要であろう。そうする時、転換に向けた動機が強化され、それと共に方向感覚もまた再調整され得るからである。

 

87年体制における民主化と脱民主化

 

朴槿惠政府のもとでどんなことがあったかを振り返ってみると、強烈な印象を与える二つの系列の事件が交差編集された映画を見たような感じに陥る。一つは「国家情報院」と関わったことである。18代大統領選挙の時期、国家情報院の世論操作および大統領選挙への介入(いわゆるコメント操作事件)、10・4首脳会談対話録の公開、統合進歩党の内乱陰謀とそれによる統合進歩党の解散審判、ソウル市公務員のスパイ証拠操作、最近ばれた国家情報院の不法的なハッキングツール(いわゆるRCSとTNI)の購買および運用、そしてそれを通じた選挙への介入と不法盗聴の疑惑がそれに当たる。このすべての過程で検察は蔡東旭(チェ・ドンウク)検察総長の時期に厳正な捜査をしばらくの間試みただけで、彼の不名誉な退陣以後は国家情報院の「下働き」の役割を遂行しているといっても過言ではない。
もう一方の系列は世越号惨事とマーズ事態で代弁される。言論や大衆の注目をそれほど受けなかったが、平澤の駐韓米軍烏山基地に炭疽菌が生きたまま配達された事件も同じ範疇に当たると言えようが、この事件の真相が軍事的機密に包まれている状態だからここでは前の二つの事件に注目してみよう。世越号惨事が発生すると、「これが国なのか」という嘆息が出てきたし、マーズ事態の最中には三星ソウル病院長が「破られたのは三星ではなく国家である」と発言した。事件の性格にあれこれの違いはあるが、それにもこれらの発言は二つの事件とも国家能力の弱化と関わったことであるのを示している。
国家情報院が政治の前面に浮上した現象、そして世越号惨事やマーズ事態に現れた国家能力の後退は事実互いに連関された現象である。だが、二つの系列の事件間の関連性を取り上げる前に国家情報院の問題から見てみよう。国家情報院が政治過程に主導的な役割をし、スパイ事件の操作を試み、広範囲な不法盗聴と選挙に介入したという疑惑が提起されているということ、前国家情報院長が控訴審で公職選挙法と国家情報院法違反の判決を受けたということは、自由権と参政権が深刻に侵害されたということを物語る[ref]上告審で大法院は元世勳(ウォン・セフン)前国家情報院長の公職選挙法違反に対して有・無罪の判断を下しはしなかった。だが、非常に説得力のない論拠を掲げながら重要証拠の証拠能力を否定し、原審を破棄返送した。現在では破棄返送審で公職選挙法違反罪が認められない可能性が高い。そうだとしても国家情報院法の違反は維持されるだろう。[/ref]。これらのことは民主主義自体が後退したという明白な証拠だと言える。
しかし、これらのことに対して、適切ではない二つの解釈が提起されている。一つはそれをあたかも民主主義内部の事件であるかのように取り扱うことであり、もう一つはそれを民主対反民主の構図の中で解釈することである。後者の場合、われわれが目睹している事件らが民主主義の後退であることを明らかにする長所はあるが、権威主義政権の時期の闘争戦線を回顧的に召還する印象を与える。そのような図式を動員することは今われわれが権威主義政権の時期と同一な状況に置かれていないという直観と衝突するし、その分、説得力が落ちることとなる。
前者の解釈は民主対反民主の構図を棄却する、まさにその直観に頼りながら、国家情報院関連の事態を民主主義の後退ではなく、民主主義の運営の中で発生することもあり得る事件として捉える。このような解釈はだいたい保守言論が提供するものであるが、思いがけず「進歩的な」政治学的視角によっても裏付けられるようだ。例えば、崔章集(チェ・ザンジプ)の言う「民主化以後の民主主義」の見地で現在の状況を把握することがそういうことである。民主化以後の民主主義のような表現は民主化を敷居をまたぐことのような一回的事件として見させ、それ以後の過程をただ民主主義の強固化過程として映させる面がある。そういう場合、標準的な政治学談論によって規定された強固化の基準から脱しない限り、明白な民主主義の後退さえ明らかに照明されなくなる。それによって保守言論の解釈と進歩的政治学の視角が意図と無関係に照応することになるわけだ。
このような点のため、白楽晴(ベク・ナクチョン)と政治評論家の朴聖珉(バク・ソンミン)が民主主義の強固化のためには二回の政権交代が必要だというハンティントン(S. Huntington)の命題を批判しながら、最小限「三回の政権交代があってこそ民主化が定着される」ということに見解を共にしたと言える[ref]白楽晴ほか、『白楽晴が大転換の道を問う:大きな積功のための専門家7人インタービュー』、創批、2015、322~23頁。[/ref]。だが、より明確に問題を把握するためには始めから民主主義の強固化という発想法を捨てて、民主化を持続的な過程、常に「脱民主化」(de-democratization)が起こりうる力動的過程として理解したほうがいいだろう[ref]民主主義の後退や逆進の代わりに「脱民主化」というチャールズ・ティリーの用語を採択する理由は、民主化に反対される過程を表現する簡潔な単語の必要性のためでもあり、民主主義の後退や逆進という表現より民主化の成果と蓄積物が解体される過程を描くのにより適合していると考えるからである。[/ref]。そして、容易に逆転されにくい構造的分岐点を表現しようとするならば、ある体制転換を表示し、その以後の民主化過程を記述することが正当だと思われる。例えば、「民主化以後の民主主義」という表現よりは「87年体制における民主化と脱民主化」が事態を照明するのによりよい表現であろう。
こう見る場合、民主主義の水準と民主化を定義する基準が必要であるが、チャールズ・ティリー(Charles Tilly)が提示した基準が明瞭で役に立つ。彼は民主化を市民たちの表現された要求(expressed demands)とそれに対応する国家行為間の関係として捉えるべきだと述べながら、次の四つの基準を提示する。一つ目、公共政治(public politics)が市民の表現された要求にどれほど副うのか(範囲)、二つ目、多様な集団の市民たちの要求がどれほど平等に国家行為へと転換されると感じるか(平等性)、三つ目、市民の要求表現がどれほど国家の保護を受けるか(保護)、最後に、市民の表現された要求が国家行為へと翻訳される過程で国家と市民がどれほど協議的なのか(相互拘束力のある協議)。[ref]Charles Tilly, Democracy, Cambridge University Press 2007, 13~14頁.[/ref]
このような観点に立つと、87年体制を民主化と脱民主化が持続的に交差した過程として照明できるし、そうすることによって容易く陣営論理に引かれる民主対反民主の対立構図からも脱しうる。要するに、金大中(キム・デジュン)政府と盧武鉉(ノ・ムヒョン)政府を「民主政府10年」としてひっくるめないで、その中で民主化と脱民主化が具体的にどのように起こったかを個別政策および国家行為と関連して評価できるわけである。
そして、同じ線上で最近の国家情報院事態が評価できるだろうが、その場合、最近の事態に加えて李明博(イ・ミョンバク)政府における総理室の民間人査察と国家情報院および軍サイバー司令部の「心理戦」などを考慮すると、わが社会が2008年末以来に深刻で大規模的な脱民主化を経験していると言える。このような点はわが社会に起こったことに対する直観的判断だけではない。1点を最上、7点を最悪とする、国際人権団体のフリーダム・ハウス(Freedom House)の民主化指数によると、韓国は2005年以来に政治的権利と市民の自由、そして自由化の指数がそれぞれ1点、2点、それから1.5点を維持していた。だが、2014年には三つの領域ですべて2点をもらったが、これは2004年以前の水準に退行したことである。このように韓国の脱民主化は国際的指数でもっても確認されることであり、フリーダム・ハウスの民主化指数が非常に慎重な評価を行うという点を考慮すると、2008年末から進められた脱民主化が2014年の指数で表現されたと言える。[ref]フリーダム・ハウスが明かした2014年の下降の主な理由は、1200万件に至る国家情報院のツイッター操作事件、そしてその事件に対する検察の捜査がうやむやとなった結果である。このような下降要因が発生した時点は、周知のように2012年であり、国家情報院がそういう活動に出られるように再編されたのはもっと以前である。 https://freedomhouse.org/report/freedom-world/2014/south-korea#.VcGWefPtmko.[/ref]

 

脱民主化と国家能力の弱化

 

では、世越号惨事やマーズ事態で現れた国家能力の弱化問題を見てみよう。このことと関連してもティリーの論議が役に立つ。民主化と国家能力の問題を一緒に考慮できるようにしてくれるからである。国家が市民たちの要求表現を保護し、またそのように表現された要求に副うためには、軍事的保護能力から公共財を供給する行政能力に至るまで一定の水準以上の能力を備えなければならない。そういう点で民主化は国家能力と相関関係を持つ。国家が市民の要求に応じようとする民主的な政府によって運営されるとしても、実際にそれを成し遂げる能力を備えない場合もあるが、その場合、民主化は非常に弱い地盤に立つこととなる。また、国家が市民の要求に応じなくても、非常に高い水準の国家能力を備えているならば、市民がそれに抵抗することは難しいだろう。こういう点を考慮すると、四つの類型の体制が分別できるし、その類型の上にわが政治体制の軌跡を描いてみることができる。

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この図は4•19、5•16、5•18、6•10のような大きな政治的変換点を中心に大略的な軌跡を描いたものである。おそらく詳細に大きく描くなら、線は滑らかではなくでこぼこであり、ジグザグであろう。またこういうふうに描くのを正当化する経験的資料が蓄積されていないために(1953年から現在までを一貫した点数体系で構成することが不可能でもある)、学問的には仮説的な図である。でも、われわれが直面する状況を眺望するにはある程度役に立つだろう。
われわれの場合、国家能力は独裁政権の下で大きく成長した。独裁政権が相当の期間維持されうる土台でもあった。しかし、それが持続されることはできなかった。国家能力の成長が中東産油国やプーチン(V. Putin)のロシアのように自然資源に頼るならば、民主化の圧力は低い水準に留まる可能性がある。これとは違って資本蓄積と成長が大衆の精神的能力と労働能力に依存する場合、国家能力の成長そのものは社会の能力成長に依存して起こることになる。従って、国家能力に基づいた独裁は長期的には持続不可能であり、87年の民主化運動はそのような長期過程の産物だと言える。
他の三つの領域に留まる際は民主化と国家能力との間に一貫した相関関係が現れないが、一応高い能力の民主主義体制に進入すると、一般的に脱民主化に国家能力の弱化が伴う。開放的で複雑な社会体制であるほど、その複雑性のために国家の公共財が円滑に供給されてこそ作動できる。例えば、そのような社会ほど航空の需要も非常に高かろうが、航空機の運航と管制システム、そして空港管理は国家による相当高い水準の規律なしには作動しにくい。それはただ技術的な問題に限られず、適正水準の労働強度と運航規則に対する規律、航空労組と航空社との労使協商などを包括する社会的葛藤の管理能力が求められる。これらすべてが航空社の利潤動機にのみ預けられない公共的問題なのである。
このような点に注目すると、世越号惨事がどのような国家無能力から発生したか把握できる。惨事直後に出た多くの分析がすでに指摘したように、大規模の沿岸旅客船に対する国家の管理は凄惨な水準であった。運航管理や管制、そして災難発生後の対処システムなどすべての分野で管理不実と腐敗の腐った臭いが溢れていた。
このような事態は脱民主化と深い連関を持っている。もちろん世越号惨事の発生原因が大統領のリーダーシップへとすべてが遡及されるわけではない。だが、惨事への対処で現れた政府の驚くべき無能力は、大統領が巨大な権力を持った社会では彼のリーダーシップが一定の水準に達しない状態で権威主義的性向を持つことがどれほど致命的なのかを雄弁に示している。そのようなリーダーシップの下では政府と公務員が市民の要求に鈍感となり、政府組織の運営が忠誠の程度を中心に再編されるし、故成完鍾(ソン・ワンゾン)事件で見るように腐敗ネットワークが広範に復活する。脱民主化が国家能力を早いスピードで侵食するのである。そして、そのような国家能力の弱化が問題を起こして市民が国家行為に抵抗すると、彼らに対して再び脱民主化した方式で対処することになる。世越号惨事以後、遺族と大衆の正当な要求を弾圧同然に抑えた大統領の行動と態度は、脱民主化-国家能力の弱化-追加的な脱民主化の悪循環が生じていることを物語る。
マーズ事態もまた違わない。事態が進む間、すでに何がわが社会を世界2位のマーズ患者発生国にしたかに対する分析が多く提出された。それらの分析が指摘するように、マーズ事態には応急室の酬價や利用慣行、大型病院中心の利潤追求的病院体制、患者たちの医療ショッピングなど、わが国の医療体系のすべての問題が凝縮されている。しかし、何より中心的な要因は国家の防疫能力の問題である。例えば、平澤聖母病院が自体隔離の決定をするまで、疾病管理本部の職員たちは平澤病院を訪問さえしなかったり、三星病院を中心にマーズが急激に広がっていっている時でさえ、病院公開に対する責任を取って事態を収拾する政府の機能が働かなかったという事実がそれを物語る。[ref]政府がマーズ発生後、十五日間を過ぎて去る6月7日になってやっと、朴元淳(バク・ウォンスン)ソウル市長の先制的公開(6月4日)に押されてマーズ患者の発生および経由病院の名簿を公開したことはこのような点をよく示している。[/ref]
グローバル化した世界で国民国家の防疫と検疫、そして金融と内外国人の出入国管理は全地球的な金融、労働力、食糧、生物、疾病、犯罪などの移動を調節したり、防止する核心領域である。全世界と国民国家の大衆との間に位置した、砂時計のネックのような地点に国家があるわけである。国家がこのネックの地点でまともな門番(gatekeeper)の役割をしないなら、マーズはもちろんのこと、ピラニアとレッド・コロソマが江原道横城の貯水池で発見され、炭疽菌が生きたまま烏山空軍基地に配達されることが繰り広げられることとなる。それに分断体制下で分断体制の克服まではなくとも、それを安全に管理することは政府の基本責務である。しかし、内治における脱民主化が呼びつける社会的抵抗を粉砕するために従北談論を振り回し、南北関係を葛藤と緊張へと追い立てていくことを厭わない態度さえ見せている。まとめると、2008年のキャンドル抗争の直接的な切っ掛けとなった狂牛病問題を怪談として取り扱い、南北関係を脅かした保守政権が選挙によって交替されなかったことが脱民主化による国家能力の後退を持ってきたし、それによってマーズ事態が発生することとなったと言える。[ref]狂牛病を怪談扱いした彼ららしく、今回も大統領や与党委員はマーズ事態もただ「中東式インフルエンザ」が広がっただけであると言ったりもした。彼らはおそらく時間がたつと、マーズ事態による死亡者も基底疾患で死んだだけだといったふうな話を流布する可能性が高い。そこでこのような主張の誤謬を指摘しておきたい。アリストテレスは原因を目的因、形相因、質料因、効果因に区分した。だが、近代科学で形相因と質料因はもう原因として見なされていない。例えば、ある地域にコレラが広がると、おそらく遺伝的に脆弱であったり健康状態がよくない人々が一定の比率で死ぬだろう。しかし、彼らが自分の身体状態という質料因によって死んだと言わないで、コレラのために死んだと言うのが近代の自然科学である。さらにマーズによって死んだ人々の中に誰も自分の基底疾患のためだけでは、家族の臨終もなしに隔離病室で孤独で悲惨に死ぬ理由はなかった。[/ref]
李明博政府に次ぐ朴槿惠政府の執権が脱民主化を経由した国家能力の弱化を加速させるだろうという予測は不可能なわけではなかった。2007年の大統領選挙で李明博候補のBBK疑惑に免罪符を与える時から検察は忠誠の代価として権力を拡張した。キャンドル抗争を切っ掛けに2008年後半から警察の抑圧的能力の拡張も成されたし、それが呼んだ最初の悲劇は2009年1月に発生した龍山惨事であった。また李明博政府は天安艦事態を切っ掛けに南北関係を断絶するかのようにしたが、この過程はまた、軍部の権力が国防領域の外に氾濫していく過程であった。2012年の総選挙と大統領選挙の時期に国家情報院が繰り広げた怪しい心理戦とコメント工作、そして今明かされているイタリアのハッキングチームから買い入れたハッキングツールRCSの運用は、政府内で国家情報院の権力が強くなる過程でもあった。このように抑圧的国家機構の権力が大きくなった状況で、李明博政府を承継した朴槿惠政府がそれらの機構を規律し正常化することは(そのような意図を持った際でさえ)難しいことであった。それに出帆の時から国家情報院の選挙介入で正当性を疑われた朴槿惠政府の下で、このような抑圧機構の権力はより拡張される蓋然性が高かったし、大統領の政治スタイルを考えると、その過程は加速的である公算が大きかった。忠誠にのみ補償し、忠誠するなら過ちや不正も許すが、忠誠しないなら能力があって合理的であってもはねつけるような人事政策と政府運営は、不可避に国家能力の弱化へと繋がる。これによって何につけても民生を口にする政府の下で、実際その民生は基礎的安全の水準にも達しないこととなったのだ。[ref]この過程で抑圧的国家機構の権力が大きくなることは間違いないが、その事実を彼らが有能となることとして、つまり国家能力の向上として誤解してはならない。警察の市民統制能力の向上は犯罪統制能力を代価として支払いうるし、国家情報院と軍サイバー司令部の対南「心理戦」遂行能力の向上は、海外情報や対北情報の収集能力、そして国防能力の弱化を呼んでくることもあり得るところ、実際に李明博政府の時期に国家情報院の海外情報の収集能力に深刻な損傷が生じたという報道は何回かあった。[/ref]
しかし、このような事態を防止し、乗り越えようとした民主派の努力は去る選挙で失敗したし、それ以後の政治的活動もまた相変わらず信頼されずにいる。その理由は何であり、転換のためには何が必要なのか。

 

古い習俗から脱すること

 

転換のために積功が必要であり、[ref]白楽晴、「大きな積功、大きな転換のために:2013年体制論以後」、『創作と批評』2014年冬号および『白楽晴が大転換の道を問う』。[/ref] 積功と同じ線上に学習がある。学習は習うことと覚えることであるが、学習が空いた書板を詰めていく過程でない限り、それはすでに習って覚えた習俗を打ち破る新しい学習を受け入れ、新たな習俗を覚える過程であろう。思惟も球根のように育って伸びていくし、網の形で組み立てられていく。そのような思惟と内的に連係された実践、また自己関係、そして親密な他者との関係の中へ網のように組み立てられていく。それで考えと習俗を変えることは頓悟だけでは成されない。伸びていったところを収めて、新しい道を探し、それと連結を模索する内面の過程が求められるし、親密なこれらの期待に副って語ることを止めて、そのことから始められる緊張を耐える社会的過程を経なければならない。このように態度と習俗を変えて、人間関係まで新しく作るところまで進んでいってこそ、考えの転換を語ることができるわけで、一度習って覚えることも難しいが、新たに習って覚え直すことはより難しい。だが、そうだからこそ政治的転換は習俗の転換と連係されるべきである。習俗に対する省察がなければ、転換を必要とするわれわれの習俗から始められた間違った選択が繰り返されて政治的転換が挫折されるはずだからだ。
政治的転換のために今必要なことは民主派の革新であるが、そのためには民主派内部の習俗を省察すべきであろう。このような作業は事実民主派内部の広い自己省察と討議を必要とすることであるが、ここではそれを促進するためのいくつかの問題提起を試みよう。
よく87年体制の樹立を「運動による民主化」だと言う。そう言いながら運動による民主化から由来した民主派の政治文化がそれ以後民主主義の発展に妨げとなったので、今必要なのは制度的実践としての民主主義であり、強い政党に基づいた民主主義だという主張がある[ref]崔章集、「制度的実践としての民主主義」、『記憶と展望』2006年秋号。[/ref]。しかし、このような論証の出発点にある「運動による民主化」は度の過ぎる単純化である。87年の民主化運動の以前にもそうであったが、それ以後にも社会運動と制度圏の政治との間にある合力が存在した際、民主化は大きく進展できた[ref]この点と関連して金善哲(キム・ソンチョル)はこう述べる。「1997年の労働者総ストと2000年の総選挙連帯も(87年民主化以前と-引用者)同じようだった。この二つの事例は一見社会運動の独自的な動員であり、制度政治圏を脅かす成功的な市民社会の動員と見えることもあろうが、その背景に制度圏の行為者たちがいたという事実を忘れてはならない。院内多数党であったハンナラ党の国家安全企画部法と労働法の強引な(かっぱらい)通過を切っ掛けに爆発した97年の労働者総ストは、結局大統領の謝り、民主労総(全国民主労働組合総連盟)と全教組(全国教職員労働組合)の合法化へと繋がった。国会の強引な(かっぱらい)通過という旧態に対する大衆的反発もあったが、かっぱらい法案が労働法だけだったならば結果は大きく変わったであろう。労働法と共に国家安全企画部法もかっぱらい通過されたし、これに深い利害関係を持った野党の反発と抵抗が各種のメディアを通じて大衆に伝播される中、総ストの正当性も大きくなったことは成功的な動員を理解することに必須的である。2000年の総選挙連帯においても同じであった。外形上、市民社会と政治社会が衝突するかのような姿を見せたが、各政党の立場とはまた異なって落選候補を競争者として持つ候補たちは総選挙連帯の落選者名簿を最大限活用しようとしたし、この過程で図らずも総選挙連帯の活動はより力を得ることができた。金善哲、「韓国の民主化を見直す:過程としての民主主義」、『創作と批評』2007年秋号、325~26頁。[/ref]。同じ線上で政党の強化が社会運動が後ろへ下がることによって促進されうるかも疑問である。
しかし、民主化運動の過程でその勢力内で形成された文化と習俗には、確かに克服されるべき要素があるようだ。このことと関連して指摘したいことが「抗争中心主義」と「真理の政治」である[ref]後でもっと論議するこの二つの問題の他にも、いわゆる運動圏文化で改革されるべき習俗は、家父長的男性主義と少数者問題に対する鈍感さを始め、非常に様々である。韓洪九(ハン・ホング)は80年代に学生運動に投身した彼らの特性を「維新の身体、光州の心」という言葉で要約したことがあるが、このような表現も転換を要求する習俗が如何なるものなのか示唆に富んでいる。[/ref]。大韓民国の憲政史で制憲憲法以来に憲政を形成した力は二つであった。一つは銃であり、もう一つは街を占領した大衆の喊声であった。李承晩(イ・スンマン)と朴正熙(バク・ジョンヒ)、そして全斗煥(ジョン・ドゥファン)が作った憲法は、銃の作った憲法である。そして、4・19革命と87年6月抗争は街を埋めた大衆がその銃を打倒して新しい憲政を創出した事件であった。確かにこのすべての過程を綿密に見てみると、すでに指摘したように社会運動が制度圏政治の助けなしに全体を主導したわけではない。だが、このような抗争の経験は強烈なものであり、またその分精神的に深く刻印されたのも事実である。そのことが「運動による民主化」というテーゼがそのように容易く説得力を得られた理由でもある。
このような抗争中心主義的態度は政治が手順化される87年体制とうまく合わない。街を埋めた大衆の喊声は相変わらず重要な政治的要素であるが、それが直接、抑圧的国家機構の作動を停止させ、政府を退陣させるわけにはいかない。それはただ影響力の行使としてのみ残り、決定の審級は憲政に刻まれた政治的過程、つまり政党の立法活動と選挙政治へと渡されることになる[ref]このような抗争中心主義でなければ、2008年のキャンドル抗争以後広く広がった失望感を説明することは難しいだろう。キャンドル抗争の効力は影響力を及ぼすところにあるということ、それ自体では政治的決定の審級が占められないということを体得していたならば、ずっと失望する度合いが低かったはずだし、後続作業に向けてエネルギーを集めていくこともより容易かっただろう。[/ref]。しかし、広く、そしてよく歌われた「団結闘争歌」における「お前らは少しずつ掠め取るが、われわれは一気に取り戻そう」のようなくだりは、浪漫的な抗争中心主義が社会運動全般に引き続き影響力を持っていたことをよく示している。このような態度は日常的な小さい闘争に執拗になることを難しくし、日常の小さい闘争における敗北さえ深刻な打撃となる貧しい大衆が、社会運動を信じられなくする切っ掛けとなったりもする。去る6月、正義党の代表選挙に出馬した趙誠株(ゾ・ソンジュ)はこの点を鋭く指摘した。「弱者たちの戦いでは敗北してはならない。強者たちは一度の敗北がいい薬やよい経験となるが、何も持っていない人々は一度の敗北ですべてが崩れる。弱者たちの戦いは、弱者たちと一緒に戦う人は勝つ戦いをしなければならない。負けそうな戦いは避けて逃げ、勝てる戦いのみしなければならない。弱者は一度の敗北が終わりである。」[ref]「正義党の趙誠株「勇気ある妥協と小さい成功を持って強くなれ」」、ハンギョレ2015.6.27. 自らを二世代進歩政治家と称した趙誠株に至ってこのような発言が明瞭に発話されたということは兆候的である。[/ref]
もう一方で、われわれの社会運動は反対派を過酷に抑圧する権威主義体制に挑戦しながら発展した。このような体制との闘争は非常に危険であり、その分極めて限られた資源を集中的に動員することがかなめとなる。こんな類の闘争が繰り広げられる際は、常に挑戦勢力は非常に強い規律を持った組織を建設することと、限られた資源の集中的投入の方向を巡った論争を遂行することとなる。このような条件の中の論争は正確な情勢判断に対する強迫のために、政治を科学または真理談論の直接的連係へと導く[ref]「マルクス主義以前のマルクス」のような概念的曲芸を厭わずに、マルクス主義を社会に対する排他的科学だと主張したルイ・アルチュセールがわが社会の左派知識人の間で相当な人気を得て影響力を行使した理由もこのことと関連があるだろう。[/ref]。このように正しさ、または真理が政治に深く介入すると、妥協とかけ離れた独断の危険が高まる。さらに弾圧の危険の中で繰り広げられる論争であるせいで、異見が新たな知識を導く生産的なものではなく、路線分裂と動員可能な資源の分散を持ってくる政治的偏向として思われることになる。
民主的法治国家の樹立を意味する87年体制では、異見を偏向として退けるこのような「真理の政治」から脱しなければならない。この体制で政治は真理の政治を呼びつけた弾圧と、動員可能な資源の制約から脱することだからである。むしろ公論の場における活発な討論、そして異見をよりよい洞察と事実の発掘へと導いていくことこそ、散在した社会的資源を組み合わせることによって動員可能な資源を拡張する道である。

 

自由派、平等派、自主派の収斂とその次の課題

 

民主化運動の成果として87年体制が樹立されたが、以前の論争の雰囲気は持続されたし、以前の政派も維持された。回顧的な考察であるが、80年代にもそうであったし、ポストモダニズム類の各種の論議が広まった後にも事実、論争の内容はそれほど豊富ではなかった。80年代を見てみると、事態の次元では韓国社会の資本主義発展と植民性の程度に対する判断を標準的なマルクス主義の用語で解き明かすことが論争の中心内容であった。新植民地国家独占資本主義論であれ、植民地半封建社会論であれ、一国主義的で段階論的な分析なので、今となって見ると世界資本主義の変動や分断体制の分析にそれほど有用なものではなかった。社会の次元では組織と闘争方式に対する論議が中心的であった。前衛党なのか大衆政党なのか、先導闘争なのか大衆闘争なのかを巡って激しい論争が繰り広げられた。政党問題は少し異なるが、闘争様式が先導闘争なのか大衆闘争なのかはどうせ状況依存的な問題であった。時間の次元では当時の多くのパンフレットが「現時期」や「差し迫った」のような名を付けたことからもわかるように、短期と中長期との間の分別、そして闘争の前後性を時間的に配分する問題と関わっていた。おそらく事態、社会、時間の三つの次元で可能な選択肢を組み合わせると、あれこれの政派らを位置づけることができようが、論争の熱気が残したものは民主、民衆、民族という三つの議題の相関性・前後性に対する判断と、活動ネットワークが互いに連係して形成された自由派、平等派、そして自主派という三つの政派であった。[ref]80年代における社会運動の展開と当時の活動家たちの経験に対する詳しい研究としては、ユ・ギョンスン、『1980年代、変革の時間、転換の記録』(全二巻)、ボムナレバクシ、2015参照。[/ref]
87年体制を通じてこの三つの政派間の葛藤は持続されたし、時には激烈でもあったが、観察者の時点から見ると相当な収斂が発生した。先に指摘した三つの次元の中で、事態の次元では異見が持続されても社会の次元では大衆政党論が支配性を獲得したし、革命的情勢が世界史的に消滅することによって時間の次元でも「差し迫った課題」の代わりに「選挙周期」が入ってきた。だが、古い習俗によってそのように樹立された大衆政党そのものを「覇権主義的」に掌握しようとする試みは続いたし、そのような試みは真理の政治から発する独断によって裏付けられた。しかし、自主派のなかで主思派は一方では朴槿惠政府の弾圧によって、もう一方では内的退嬰性によって没落した[ref]李石基(イ・ソクギ)流の主思派と統合進歩党の残留派が持った問題点に対しては、李承煥(イ・スンファン)、「李石基事件と「進歩の再構成」論議に付して」、『創作と批評』2013年冬号参照。彼らが社会的公論を通じて政治的適合性の喪失を判定されずに、朴槿惠政府によって抑圧的に強制解散されたことは非常に残念なことであった。 [/ref]。そして、非主思的自主派は金大中政府の樹立と共に施行された対北和解協力政策(いわゆる「日ざし政策」)を媒介にして自由派と深く融合した。[ref]自主派が金大中政府の包容政策を媒介にして自由派と融合していったことは実用的な選択であったが、まさにそのように実用的なところに留まったために、包容政策の含意を最後まで省察できなかった面がある。保守派はだいたい北朝鮮を孤立化させることが北朝鮮の崩壊を誘導することだと考える。これに比べて「日ざし政策」は北朝鮮を開放と改革へと導くことを語る。だが、そのような開放と改革は究極的に北朝鮮政権を「安楽死」に導くことになりかねない。だとしたら、日ざし政策も北朝鮮孤立化政策と違わない吸収統一政策であり得る。このような問題に対して和解交流協力を主導した人々は日ざし政策の究極的帰結を括弧の中に括っておいて、今の平和と和解の重要性を実用的に強調した。しかし、このような対応も北朝鮮が核と経済の併進路線を明白にするほど、有効性を失った。白楽晴が「包容政策2.0」を提起した脈絡の一方にはこのような問題が居座っている。彼の包容政策2.0は交流協力の次の段階として国家連合を明示することによって、北朝鮮の核問題の基にある北朝鮮政権の体制安全問題に答えを提示し、韓国内部に向けても支援が核として戻ってきたという保守派の扇動を抑える効果を持つ。そして、自由派の対北政策を現在よりもっと高い水準に牽引する効果もまた持っている。白楽晴、「「包容政策2.0」に向けて」、『創作と批評』2010年春号参照。[/ref]
平等派もまた、東欧社会主義の没落と共に、福祉国家を目標とする社会民主主義の路線へと収斂していった。福祉国家は世界史的に非マルクス主義的社会主義と進歩的自由主義の協力によって形成された[ref]James T. Kloppenberg, Uncertain Victory: Social Democracy and Progressivism in European and American Thought, 1870-1920, Oxford Univ. Press 1988参照.[/ref]。だから、自由派の一部と平等派が連合して正義党を立党したことは、単に政派的利益の取引の産物だけではないと言える。先に指摘したように、87年体制の樹立と共に政治的時間の地平が変わり、動員可能な資源の性格と規模が変わった分、民主、民衆、民族という三つの議題は一緒に提起され、共に改善される関係に置かれることになる。従って、三つの政派の収斂現象は当然な面もある。
しかし、このような外的要因による収斂に比べて、理念と実践の習俗面における転換は相変わらず足りないところがある。それで他の政派と自分との差異を実際より大げさに認識し、自分が関心を持っていない議題に対して学習せず、それを他の政派に任せられた課題として考える傾向がある。だが、例えば分断体制の作動を念頭に置かなければ、李明博、朴槿惠政府でなぜ脱民主化がそれほど強力に発生するか、なぜ労働大衆の生を大事にするという進歩政党がそういう人々から引き続きそっぽを向かれるのか、その理由がわかりにくい。逆に大衆の経済的状況が改善されなくて、例えば宅配労働者が選挙日にも配達のため投票ができなければ、民主派が政治的多数を獲得することはできないし、そうなると、南北関係と韓国内部の民主主義の後退を防ぐこともできないという点が切実に認識されにくい。こういうふうに三つの議題のそれぞれの改善はただ三つの議題の同時的な改善と変革を推進するときにのみ螺旋型的に上昇の局面に入れるし、下降もまた、一つの悪化が他の悪化を呼びつける方式で迫ってくると、それに相応しい思惟と実践の整備が必要であろう。
筆者が見るに白楽晴が「変革的中道主義」を提起したことは、このような課題に応じるためだと言える。彼が(1)分断体制に無関心な改革主義、(2)戦争に依存する変革、(3)北朝鮮だけの変革を要求する路線、(4)韓国だけの独自的な変革や革命に偏る路線、(5)変革を民族解放に単純化する路線、(6)全地球的企画と局地的実践を媒介する分断体制克服運動に対する認識を欠如した平和運動、生態主義などの場合を一つ一つ挙げながら、それぞれの弱点を取り上げた理由は、相互連関した課題を結合しようとする試みが切実であったからだ。それで彼はこう述べる。

「変革的中道主義ではないもの」の六つの例を番号まで付けながら列挙したが、そういうふうにあれこれ全部外してはどの勢力が確保できるかという反駁を聞いた。あり得る誤解なので解明すると、それは排除の論理ではなく、広範囲な勢力の確保を不可能としたり、真摯な改革が成し遂げれない既存の各種の排除の論理に反対しながらも、それぞれの立場の合理的核心を生かすことで改革勢力をまとめるという統合の論理であった。[ref]白楽晴、「大きな積功、大きな転換のために」、『白楽晴が大転換の道を問う』57頁参照、強調は原文。[/ref]

 

今できる転換のために

 

習俗の転換は一挙に起こることではない。制度的、または政治的転換とかけ離れて遂行されるわけにもいかない。両者は共に遂行されて互いを強化する際、まともに成され得る。87年体制の政治的転換と関連してわれわれが今注目し、介入すべき重要な対象は選挙法である。
周知のように、87年体制下で選挙法の根幹は単純多数制による小選区制である。大統領と国会議員みながそのように選出される(大統領もまた大韓民国という単一選挙区で1名を選出するという点で小選区制と同じである)。このような選挙では不可避に勝者独占が起こり、落選者たちがもらった票は無価値となる。勝者独占や票の不等価性のような問題を全面的に解決するためには、改憲が必要であろう。事実、大統領制は勝者独占を本質とするために、大統領制を捨てない限りこの問題から脱することはできない。
ある者は大統領制を維持するとしても決戦投票制を導入することによって、死票を減らすと同時に過半得票に達しない際発生する正当性の弱化が防げるという。しかし、決戦投票制だからといって問題がないわけではない。決戦投票の勝利者に投票した集団が政治的に異質的でありうるし、最終勝利者が1次投票では少数の有権者たちから支持されたという事実を忘却して、国民全体の意思によって先発されたかのように行動することもあり得る。通常、決戦投票制では2次投票に対する期待や協商戦略の駆使が可能なので、候補が乱立する傾向があったりもする[ref]より詳しい論議は、ホアン・リンス、アルトゥーロ・ヴァレンズエラ、『内閣制と大統領制』、シン・ミョンスン、ゾ・ジョングァン訳、ナナム、1995、76~77頁参照。[/ref]。そして、87年民主化運動の中心象徴であった大統領直接選挙制を改憲を通じて廃棄することに対しては、今だ如何なる国民的同意もない。
しかし、国会議員を単純多数制小選区制により選出することに対しては、引き続き多くの問題提起があった。それが地域覇権主義の制度的土台であり、票の等価性や死票防止のような規範的要求から大きく外れるからである。それに選挙法改定は改憲のように議会の3分の2や、国民の過半数という高いハードルを越える必要もない。
選挙法の改定方向において中大選挙区制や決戦投票制の導入は可能である。しかし、現在の局面では選挙法改定に向けて二つの重要な提案がすでに与えられており、この二つの提案が全体の地形を規定している。一つは最大選挙区と最小選挙区の人口偏差が2対1を越えないように国会議員の選挙区を再画定しろという2014年10月30日の憲法裁判所の判決である。これは法的拘束力を持った提案である。また一つは中央選挙管理委員会が2015年2月24日に提案した、「圏域別小選挙区―比例代表連動制」と呼べる案である。そこで選挙管理委員会は地域区議員数と政党投票による圏域別比例代表数を2対1にすることを勧告した。この提案は法的拘束力を持ったものではないが、政治圏としては容易く無視することも難しい案である。
拘束力のある憲法裁判所の判決だけを受容するにしろ、中央選挙管理委員会の提案まで共に受容するにしろ、実際の改定方式では非常に多様な組合が可能であり、また現在300人である議員定数まで調整の範囲に入れるならば、場合の数はずっと増えることとなる。結局、どのように組み合わされるかは次の四つの要因がそれぞれどの程度力を持つか、そして互いにどのように相互作用するかにかかっている。一つ目、選挙法改定の影響を受ける当事者であると同時に改定の権限を持った議員個々人が再選可能性を極大化しようとする努力である。二つ目、与党と第1野党、そして群小政党のそれぞれが自分の党の国会議員数を極大化しようとする試みである。三つ目、現職大統領の次期政府の創出および政治的基盤に対する関心である。最後に、選挙法改定を、民主主義の規範的要求を充足する機会としようとする公衆の関心である。
すでにいろんな言論メディアでこの問題を巡った論争が繰り広げられている。また、可能な組合が持ってくる議席数の変化などに対するシミュレーションが紹介されたりもする。筆者が判断するに、規範的な視角でのみ見ると、中央選挙管理委員会の勧告に基づいて地域代表と比例代表の比重を確定し、憲法裁判所の判決を充足するように選挙権を画定することが正しい改革の方向である。もしそれが現役の地域区議員の利益を甚大に侵害して妥協を難しくするならば、議員定数を適切に増やすこともまた断わる理由がない。与党は議員定数の拡大に対する否定的世論に頼って憲法裁判所の勧告だけ受容し、それを充足するためには圏域別比例代表数を減らすべきだと主張しているが、議員定数の拡大に否定的な世論は長い間続いてきた反啓蒙的キャンペーンの産物でしかないし、討議の組織化と世論化、そして社会運動を通じて克服すべき対象である。[ref]わが社会の国会嫌悪の世論は過度な面があるが、そのような世論形成の要因は次のようである。一般的に大統領制の下で大統領は議会の牽制を嫌がり、自分の政策的失敗を議会のせいに押しつけようとする傾向を見せる。最近、朴槿惠大統領が劉承旼(ユ・スンミン)セヌリ党院内代表を追い出した過程は、大統領が野党は勿論のこと、従順でなければ能力ある与党さえ屈服させようとするということをよく示している。次に行政部の官僚もできれば自分を牽制する権限を持った議会が弱いことを望む。大資本もまた、自分の利益を守護するために弱い議会を望むし、自分の影響力を極大化しようとする言論メディアと社会運動団体も議会に対する批判の水位を高める傾向がある。そのような点を考慮するにしても、議会が使う費用を惜しがり、議員定数を増やすことを嫌悪する世論は病理的である。国会議員の特権がいやで、その特権を減らしたければ、議員数を増やすことが最も容易い方法だからである(法曹市場における弁護士の権限を減らすために動員された最も基本的な措置が、弁護士の数を増やすことであったのを記憶してみよ)。しかも議員数が増えても国会の総予算を現行の水準で凍結するという意志を議員たちが表明するときでさえ、議員数の凍結を望むことは非合理的である。議会の総予算は5000億ウォンを少し上回る程度で、国家情報院の予算の半分にも及ばないし、全体国家予算の0.2%にも及んでいない。反面、防衛産業の不正は数百億ウォン、資源外交は数兆ウォンの単位で予算の浪費が発生している。国家の運営にも予算の浪費がないわけではなく、より厳格な執行が必要であるが、増えた国会議員たちが成果を出すためにより競争的に行政部を監査し、節約する予算を考えると、議員数の増大は経済的にも合理的である。現在の議員定数を巡ったわが社会の非合理的な世論を見ると、筆者が幼い頃母親から聞いた話しが思い出される。「昔から大家が落ちぶれる際は、後ろの塀から作男がこっそり米かますを引き続いて盗んでいる間、明敏ではない嫁が下女のサムウォリ、オウォリがご飯を食べ過ぎると叱っているものだ。」[/ref]
この問題を政治的転換の機会とするために、先に触れた87年体制における社会運動と制度圏政治との間の相互作用を再び想起してみよう。事実、民主化以後の総選挙は毎回大統領選挙に劣らず重要な政治的変動の契機であった。そして、2000年16代総選挙では1990年代を通じて大きく成長した市民運動が夥しい動員力を見せながら選挙改革を要求した。先に引用した金善哲(キム・ソンチョル)の指摘(脚注13)のように、そのような運動的動員は政治圏内部の利害関係に深く入り込むことができたので大きな影響力を行使した。2004年の17代総選挙は盧武鉉大統領に対する弾劾の影響の中で行われたし、社会運動の介入度は低かったが、弾劾に反応した大衆運動が高い水位で起こって、その結果、開かれたウリ党が過半議席を占めた。そして、政党名簿式比例代表制の導入で民主労働党が院内第3党へと躍進した。だが、2008年の18代総選挙は盧武鉉政府に対する大衆の失望と、李明博政府の出帆効果で民主派の大敗に帰結したし、社会運動は何の役割もできなかった。2000年の水準ではないが、社会運動が総選挙に深く介入して制度圏政治を圧迫し、牽引したのは、去る19代総選挙の連合政治であった。
このような経過を顧みると、2016年に行われる20代総選挙は社会運動の非常に重要な対象であって当然だ。87年以後、いつよりもっと大規模的な制度改革の可能性を抱えている総選挙だからである。先に述べた選挙法の改定議題は16代総選挙における不適格人事の落選や、19代総選挙における野圏連合政治をずっと上回る政治的転換の機会である。社会運動の介入が必要な理由はさらにある。社会運動の圧力なしに国会内部の動力だけでは、このような改革的成果が成されることは非常に難しい状況だからである。すでに汝矣島研究所の報告書が流出されて知られたように、与党は憲法裁判所と中央選挙管理委員会の提案をすべて受容する大幅の改革が成される場合、院内の過半数が得られない可能性を憂慮している。なので、セヌリ党全体の利益を貫くため、憲法裁判所の判決だけ受容し、さらに比例代表の数すら減らす改悪が成される可能性が少なくない。こういうことを防ぐためには社会運動の圧力を増大させなければならない。そうなると、セヌリ党でさえ個別議員たちの利害打算が作動する可能性が高くなる。圏域別比例代表制は首都圏のセヌリ党議員や湖南のセヌリ党の出馬希望者に非常に魅力的だからである。これらの点を考慮すると、社会運動の勢力を中心に選挙法の連帯が稼動されて当然な時点だと言える。
このような転換を成し遂げると、おそらく最も大きく恵みを受ける者は進歩政党になる可能性が高い。院内交渉団体の構成に至る可能性まで高く量ることは難しいが、もし交渉団体の構成要件まで緩和されると、与党と巨大第1野党との間で0.1程度の持ち分だけを持った進歩政党が位している現「2.1政党体制」が、進歩政党がキャスティングボートを握りうる0.5程度の持ち分を持った「2.5政党体制」へと進化することもできる。そうなると、われわれは新しい制度的条件に基づいた政治的実験を行っていくことができるだろう。
しかし、選挙法の改定が成功的でなくて、または成功的ではあっても進歩政党の力量不足で進歩政党の躍進は成されないかも知れない。そのような場合ならおそらく李南周(イ・ナムジュ)が去年、連合政治の進展のために提案したことをより慎重に考慮すべきであろう。

現在、連合政治が直面した問題は、連合の水準を下げることではなく、高めることで解決していくべきである。(…) 民主派は2017年、授権を目標とする統合的授権政党を建設して、総選挙と大統領選挙が相次いで実施される2016~17年の政治的転換期を準備すべきである。この際も去る総選挙の持ち分分かち合いと大統領選挙の退屈な単一化協商を繰り返すと、民主派が成功する可能性は非常に低い。民主党と新政治新党(現在は新政治民主連合に統合)は勿論のこと、進歩正義党(現在の党名は正義党)も単一政党に結集して時代転換の中心動力を作ることが最も理想的である。[ref]李南周、「連合政治の進展のために:変革的中道主義の視角」、『創作と批評』2014年春号、23~24頁。括弧の中は引用者。[/ref]

選挙法の改定が低い水位に留まると、単純多数制小選区制が支配的制度として残る。そのような制度はデュベルジェ(M. Duverger)が明らかにしたように両党制を強化する。大統領制もまた、本質的に陣営の両分化を促進する。去る総選挙と大統領選挙は87年体制を通じて存在してきた撹乱要因(金大中、金泳三(キム・ヨンサム)、金鐘泌(キム・ゾンピル)のようなカリスマ的政治家、地域主義、第3候補など)が除去され、そのような両分化が著しく貫かれる様相を呈した。選挙法の変動がなければ、この傾向はより強く貫かれるだろう。次の総選挙で2.5政党体制が樹立されないならば、進歩政党らはこのような客観的圧迫が容易く避けられない。それに民主派内部の三つの分派である自由派、平等派、自主派の理念的・政策的収斂もまた、非常に高まっていて、進歩政党の名望家の利益や運動政治の習俗の持続以外には独自路線を守り続ける根拠が薄弱となるだろう。ある意味で彼らは自分たちが望む2.5党、あるいは3党体制、またはより進んで現在の第1野党を代置する両党体制に至るためにも、単一政党への結集という経路から顔を背けることができないだろう。その方向へ足を踏み出すためには、今より政策とビジョンの合意水準をより高めるべきであり、そのためには民主、民衆、民族という議題間の相互連関をより緊密にする中道的道を模索することが必要であろう。より重要な問題は政党間の格差を克服することであるが、そうするために必要なことは強者が既得権を譲ることと弱者の大胆さであろう。この程度の献身と転換の大きな試みがなければ、われわれに残ったことは徐々に死んでいく道しかないだろう。

 

翻訳:辛承模