창작과 비평

読者も創作も変化する時代

2015年 冬号(通卷170号)

 

大塚英志・宣政佑(ソン・ジョンウ) 著 『大塚英志: 純文学の死・オタク・ストーリテーリングを語る』、ブックバイブック、2015

 

 

金兌權(キム・テクォン) / 漫画家

作家になりたくて、あれこれ手当たり次第に本を読んでいた時代、ロラン・バルト(Roland Barthes)の「作家の死」という言葉を目にして全身の力が抜けるような気がした。「冗談じゃない。苦労してやっと作家になったばかりなのに死ぬなんて」。勿論、作家の死というのは、全世界の作家が同日、同時に力尽きて死ぬという意味ではない。人間が物語というものを楽しく読み続ける限り、創作活動自体が消滅することはないということを我々は知っている。しかし、我々は、作家も作品も純文学も、もはや過去のように歓待されることはないという事実も承知している。今の時代は変化の時代なのである。

変化について語っている書籍は溢れかえっているが、この『大塚英志:純文学の死・オタク・ストーリテーリングを語る』のような書籍はなかなか見当たらない。よくありがちな二つのミスを犯していないからだ。両極端の一方には変化に対する不満を示す人々が存在する。彼らは大衆の好みに合わせたものに過ぎないと新たな文化を拒む。そして、もう一方の極端には変化のパワーが如何に巨大であるかを褒め称える人々が存在する。彼らは急変する時代に生き残るためには自らも変化すべきだという、陳腐なメッセージを相も変わらぬ過剰な情熱をもって伝える。変化を無視したり、逆に変化のパワーに恐れをなしたりする、そのどちらも健全な姿には見えない。

この書籍はうまくバランスが保たれている。創作する人も変化し、創作物の内容も変化し、そして作品を受け入れる人々も変化するという、巨大な変化を拒まず受け入れている。それと同時に、その変化の過程において懸念される事柄を鋭く指摘している。恐らく、二人の対談者の豊富な知識と経験のおかげであろう。大塚英志は、「純文学の死」を主張し、話題の中心となった日本の評論家である。彼自身、漫画のストーリ作家でありながら、ストーリの作法を人々に教えるほどストーリテーリングの分野においてはエキスパートと言える。宣政佑(ソン・ジョンウ)も同く、大衆文化と現代社会への幅広い知識と深度ある理解により、日本と韓国の両国で評価されている評論家である。従って、大衆文学の動向に関しては、両氏の言うことは信頼できるであろう(いや、信頼すべきであろう)。

この書籍で取り扱われている問題には、私も普段から非常に興味があった。講演や寄稿を行う度にいつも悩まされた主題でもある。変化の様相、その過程で懸念される点、そして、克服方法という三つの論点からこの書籍をまとめてみたい。

まず最初に、現在の変化の様相である。それぞれ個人の趣向は変化するという点に両氏は注目している。細分化だの、個人化だの、「ゲットー(ghetto)」化だの、あらゆる言葉で表現できるだろうが、肯定的でも否定的でもない適当な言葉は「小さく分ける」ではないだろうか。人によって好みは違うという言葉は昔から使われている金言であるが、今の時代、それが最も激しいと思われる。しかも、それと同時に他人への好奇心はなくなりつつある。公共分野への関心も、現実社会への認識ももはや以前のようではない。

趣向が小さく分かれる現象と世の中への無関心、そのどちらの原因が先なのか、それとも第3の原因があるのかは分からないが(個人的な意見としては、「古典」と呼ばれる共通のテキストが消滅したこととも関係があるのではないかと思う)、どちらにせよ、この二つがお互いに切っても切れない関係であることには間違いない。

この変化に対して評価を下していない所にこの書籍の美徳がある。変化が事実である限り、肯定的な変化、否定的な変化に分けることは無意味なのだ。我々は、この変化を受け入れるしかない。「純文学の死」という概念も、これと同じような意味で受け入れるべきではないだろうか。しかし、勘違いしてはならない。単純に深刻な文学書が漫画よりも売れないからといって「純文学の死」という言葉が生まれたわけではない。新たな時代の大衆が、他人の出来事には関心を示さず、自分の趣向に合ったものにだけ没頭する状況で、果たして純文学というジャンルが生命を維持していると言えるのだろうか。大塚英志は懐疑的である。ただ、この問題に対する価値判断は先送りしている。作家が自分の真心を人々に伝えることができ、文学が世の中を変えることができると信じていた過去の読者(私のような)としては否定的にならざる得ないが、或る人にとっては、変化は当然のことなのかもしれない。現実世界への関心が薄れていく現象を否定的にしか見つめられないのは、ファンタジーというジャンルが成し遂げた業績を見くびることになり兼ねない。他人のことに干渉しないのは、その社会の成熟さの証でもあるのだ。

しかし、その空間を突拍子もない世界観が埋め尽くしてしまうのは危険なことである。変化の過程で懸念される事柄を取り上げること、それがこの書籍の二つ目の論点である。日本社会においてオタク(特定の分野に深く傾倒する人)の政治的な無関心に付け込んだのは、極右の世界観であった。大塚は「被害者の叙事」を例として挙げている。日本は、歴史の加害者ではなく、「被害者」であり、日本市民は日本に来て暮らしている外国人が享受している「特権」のせいで被害を受けているというのが「被害者の叙事」の設定である。歴史と政治に対する意識が爪の垢ほどもあれば、矛盾した話であることぐらいは一目瞭然だ。しかし、人々の現実への関心はどんどん薄くなりつつあるため、このような頓珍漢な被害者の叙事のパワーは一層強まっていくであろう。他人との交流も限られているため、立場の違う人がどんな考えを持っているのか、相手の身になって考える機会もない。他人の苦痛などには「アウトオブ眼中(眼中にない、論外)」なのだ。しかも、若い世代の感じる剥奪間は火に注がれた油と同じである。(宣政佑は、対談の途中や前書きで、このメカニズムが最近韓国社会でも広がっていると指摘している。納得のいく分析であり、非常に頷かされる)。

では、このような問題をどう克服すべきか。残念ながら正解はない。無理に正解を出そうとしたなら、却ってこの書籍への信頼感は薄れたであろう。しかしながら、所々に解決の糸口は見つけることができる。それを私なりに要約してみた。まず一つ目は「中途半端なプロパガンダは禁物だ」と大塚は釘を刺している。プロパガンダは作品のクオリティーを落とすだけだ。二つ目は、だからといって、現実に向かって沈黙しろというわけではない。大塚は自分の作品の中に現実と繋がっている設定、社会でタブー視されている設定を巧妙に埋め込んでおいたと告白する。趣向の壁によって小さく分けられたまま、それ以外の世界に関心をなくした受容者の世界観に破裂を引き起こせるように。非常に興味深い内容であるので、このような問題に関心のある読者には彼の創作論をぜひ読んでほしいと思う。ジブリスタジオの作品を取り扱っているチャプターはこれと対を成す批評論である(これこそ、創作と批評といえよう)。二人の対談者の洞察の深さが感じられる。三つ目は、創作のモラルとは別に、受容のモラルについて触れている点が目を引く。日本の大衆文化について、「政府がプロパガンダを強制しなくても、大衆が望めば、プロパガンダの作品は生まれる」と分析している。韓国の大衆文化は果たしてこの問題から自由と言えるだろうか。

最後に、「癒しとしての創作」に関する提言である。剥奪感に囚われたまま、自分だけの壁に囲まれた人々が創作の方法を学べば、自分の声を上げるために、不快感を与えるような白色テロの代わりに健全な方法を見つけることができるという指摘だ(少なくとも私はそう理解した)。非常に興味深い。芸術と社会の関係や、芸術の機能について述べる度に登場する、古い伝統を持った問題とも繋がっている。この主題に関しては私自身も述べたいことは多いが、紙面の都合上、またの機会に述べることにしたい。

 

翻訳:申銀児(シン・ウナ)