창작과 비평

マイノリティーの人権と韓国社会市民権の再構成

2016年 春号(通卷171号)

 

 

〔特集〕大転換、どこから始めるべきか

 

 

白英瓊(ベク・ヨンギョン)
韓国放送通信大学校文化教養学科教授、文化人類学。論文に「知識の政治と新しい人文学:「公共」研究の拡張のために」、「性的市民権の不在と社会的苦痛」のほか多数。

韓国社会で少数者[ref]少数者は「身体的または文化的特徴のために社会の他の成員たちから差別を受けながら、差別される集団に属しているという意識を持っている人々」と定義できる。単に数的に劣勢に置かれているからといって少数者であるわけではない。また、その特徴が永久的であり、皆がその特徴を共有せず、他の長所があるとしても差別の対象となる特徴を相殺しにくいという点から社会的弱者と区分されると見なす。バク・ギョンテ、『少数者と韓国社会』、フマニタス、2008参照。国際法上の少数者保護が主に言語、人種あるいは宗教上に区別される少数者に限られる傾向があるとしたら、韓国社会における少数者は言語や人種的に区別される移住民のほかにも障害者、性少数者、女性などを始め、多様な非規範的集団を包括する用語としてより広く使われる傾向がある。[/ref]  の存在が談論と社会運動を通じて本格的に可視化され始めたのは、1990年代以後のことである。1987年以後の民主化時代は新しい民主主義と人権、多様性のような価値を強調したし、これは少数者の差別と排除を問題とすることができる足場となった。70年代以来、民主化運動が民衆を主体として掲げ、87年6月抗争を経ながら落ち着いた新しい社会運動が市民を主役として立たせ始めたとしたら、90年代に入っては障害者・性少数者・移住民人権団体などが形成・発展されながら、アイデンティティに基づいた少数者運動が活発となった。民主化が開いた新しい空間は、それまで民衆運動や市民運動が盛り込めなかった性少数者、移住者、障害者、北朝鮮離脱住民など、少数者の人権と市民権が提起されうる基盤となったのである。

従って、90年代以後の少数者運動は87年体制の限界を超えようとした動きでもあったが、同時に民主化の成果で可能となり、また成長できた運動でもあった。だからこそ、これまで女性運動や労働運動など「一般」進歩運動側の無関心や排除による緊張関係が持続されたにも関わらず、少数者運動は民主主義を進展させるための社会運動の一役をうまずたゆまず担当しながら成長してこられたのである。[ref]少数者運動自体が非常に異質的な主体たちで成されており、各運動を内部的に見る際にも決して単一ではないことは勿論である。だが、一応本稿では民主化運動や市民運動において「一般市民」や「一般民衆」を語る際に排除される集団としての少数者そのものが関心なので、少数者の名で登場した運動一般に対して注目しようとする。だからといって性少数者、移住民、障害者などの運動がそれぞれ持っている独自性と特殊性を無視するわけではない。実際に各運動が内部的に多様な要素があるにも関わらず、移住民、障害者、性少数者運動などで括られること自体も少数者アイデンティティが拡散されたことに沿ったことであるのを記憶しておく必要がある。[/ref]  特に90年代後半以後、人権意識が高潮され、韓国社会の至る所における社会的差別と排除を告発する人権運動が活発となった過程には、移住民と多様な境遇の女性、性少数者などの人権問題を提起してきた少数者運動が寄与したところが大きい。各論では葛藤と意見があったものの、大きな枠では少数者人権の確保が民主主義の拡張だという合意が社会運動内にあったわけである。

このような脈絡から見ると、最近「ソウル市民人権憲章」の廃棄事件を始め、すでに通過された地方自治団体の人権条例から性少数者人権関連の条項を削除するよう政府部署が直接圧力を加えた状況は、単に性少数者たちのみの問題ではなく、87年以後成し遂げた制度的民主主義が揺れる過程であると共に、社会運動内の合意が崩れる過程である。[ref]保守基督教団体らは2007年法務部が国連人権理事会の勧告に従って制定しようとした差別禁止法を「同性愛許容法」だと主張しながら制定を阻止したし、2013年春にもキム・ハンギル、崔元植(チェ・ウォンシク)議員が発議した差別禁止法案を自ら撤回するように仕向けた。彼らは2014年末には朴元淳(バク・ウォンスン)ソウル市長が公約し、市民が直接作るソウル市民人権憲章の制定過程で性少数者の人権を含めたという理由で憲章反対運動を繰り広げたし、結局憲章は廃棄された。同じような時期にソウルの城北区庁長は住民参与予算制度を通じて確定された青少年性少数者関連の予算を、該当区の改新教会が反対するという理由で受け入れなかったし、2015年大田市と市議会は女性家族部の要請と基督教団体らの圧力によってすでに作られた性平等条例案から性少数者人権関連の条項を削除した後、通過させたりもした。[/ref]  露骨的に差別と排除を擁護はしないが、性的志向が異なる市民に対しては人権の明示的保障を拒否することで、結果的には差別を認めることであり、合法的な手続きに従うならば誰にでも保証されるべき集会と表現、結社の自由もまた、ある市民には許諾されえないということだから、結局、今の韓国社会は民主主義と市民権の概念自体が揺れる状況に処されたのである。

少数者の人権に加えられる攻撃と嫌悪発言の増加が、韓国社会で起こっている全般的な民主主義の退行および公論の場の汚染の兆候であることは勿論である。だが、同時に民主的体制が弱くなった背景には、その間少数者運動が提起してきた問題に対して韓国社会がまともに取り組まなかった理由もなくはないというのが筆者の考えである。少数者運動はこれまで民衆運動と市民運動が包括できない色んな問題を、生存権の次元から新たな政治理論の必要性に至るまで広範囲に提起してきたが、その問題らはしばしば韓国社会一般のものではないかのように取り扱われたりした。現在、少数者の人権を巡った論難は果たして韓国で保護されうる市民は誰であり、その資格は何であるか、普遍的権利だと思われる人権の適用を現実的に制約するものは何なのか、また社会運動において少数者の問題を「一般」市民の問題と区別する際に生じる問題は何なのか、といった質問に私たちが答えるべき必要があることを示している。

本稿ではまず韓国で少数者運動が浮上した過程を見てみながら、少数者関連の争点がどのようにして主に人権運動へと枠付けられることとなったか、その背景を検討することから始める。それから少数者の人権と市民権の問題が韓国社会の新しい転換のために重要に扱われるべき理由は何であり、このための糸口はどこから見い出せるかを模索してみたい。

 

 

少数者の人権問題の浮上

 

1990年代に入って韓国社会で少数者の人権問題が浮上され始めたことには多様な原因が存在する。まず、すでに述べたように民主化の進展はそれまでまともに取り上げられえなかった社会的排除と差別の問題が本格化して、少数者運動が一つの社会運動として落ち着きうる空間を設けてくれた。障害者運動の場合、1988年、大規模の障害者生存権のデモが起こり、障害問題を取り上げる言論メディアが創刊されるなど、87年以後から障害者大衆と共にしようとする進歩的志向の流れが生まれた。[ref]キム・ドヒョン、『差別に抵抗せよ:韓国の障害者運動20年、1987-2006年』、朴鐘哲出版社、2007。[/ref]  性少数者の場合も最初の性少数者人権団体である「キリキリ(仲間同士)」と「友達同士」、そしてその前身である「草同会」がそれぞれ94年と93年に作られた。また一方で90年代初めから冷戦葛藤が緩和されながら中国から入ってくる「朝鮮族」同胞の数が大きく増加したし、北朝鮮の体制危機の現象に沿って北朝鮮地域を離脱した住民の流入もまた、大きい幅で増えた。またこの時期、移住をもって国内の労働力と結婚需要を解決しようとする動きが本格化しながら、移住労働者と結婚移住者が増加した。このことに従って、政府もまた多文化政策を標榜せざるを得なくなったし、移住者を支援し、彼らに対する人権侵害の現況を告発しながら法的保護を要求する運動団体が出来た。一言で80年代式の民主化運動は勿論、市民運動の名をもっても包括しがたい新しい主体と争点がこの時期を通じて浮上することとなったのである。

ところでここで少数者の人権確保のための運動が成長したことと多少別個に、少数者運動が人権パラダイムと結合して圧倒的に人権運動の形を帯びることになった脈絡については、別に見てみる必要がある。[ref]ジョン・グンシク、「差別または排除の政治と「少数者」の社会史再構成」、『経済と社会』2013年冬号、186~87頁。[/ref]  まず国際機構によって作られた協約と国際的規範の影響力がその原因として数えられる。現在、少数者が理解される方式と少数者に対する国家の保護義務を規定したものは、92年、国連総会を通過した「少数者権利宣言」(Declaration on the Rights of Persons Belonging to National or Ethnic, Religious and Linguistic Minorities)である。この宣言は少数者の存在とアイデンティティを保護・奨励することを国家の義務として規定したという点で、少数者が国家に対して差別撤廃と権利保護が要求できる根拠を設けたし、国際的に少数者の権利運動に多くの影響を残した。

韓国でも人間が享受すべき普遍的な権利としての人権という談論は、形式的民主化を超えて社会的差別と排除の撤廃を目標としていた運動に大きな影響を及ぼすこととなった。1992年から徐俊植(ソ・ジュンシク)などが中心となって既存の人権運動に問題意識を持った「人権運動サランバン」のような組織が作られ始めたが、彼らは93年、ウィーンで開催された国連世界人権大会に参与するなど、人権問題に対する認識の幅を拡大しながら、民主化運動の経験を共有する東ティモールやアルゼンチンと国際連帯活動を繰り広げたりもした。1998年に設立されて、翌年、人権学術会議を開催するなど、少数者概念に対する学術的論議の場を設け、少数者の人権問題に対する認識を拡散させるのに大きく寄与した韓国人権財団もまた、国連世界人権宣言50周年記念事業委員会を基盤としたという点からも国際人権談論の影響が確認できる。このような流れの中で当時の進歩的な社会運動内では人権問題が大きい話頭となったし、1994年、参与連帯もまた、創立宣言文で参与と人権のための時代を標榜した。[ref]チャ・ビョンジク、「ある表札に対する20年の瞑想:参与連帯創立宣言文」、『事件で見る市民運動史:現代史の流れを変えた韓国市民運動20場面』、創批、2014、185~99頁参照。[/ref]

一方、少数者の人権が主張できる具体的な場が現実化することには、2001年の国家人権委員会の出帆が大きい転換点となった。1993年のウィーン人権会議以来、人権関連の国際機構らは国家次元の人権機構を設立することを韓国に持続的に勧告したし、1997年12月、人権法と国民人権委員会の設置を公約として掲げた金大中(キム・デジュン)の大統領当選を切っ掛けに人権専門家、活動家たちの参与の中で具体化され始めた。南アフリカ共和国の人権運動家であり、1994年に大統領に就任したネルソン・マンデラと度々比較されていた金大中は、自分の民主化運動を人権談論と連結しようとしたし、行政部署から独立した国家的次元の人権機構の樹立はそのような意志の表明であった。差別是正に対する法的強制力がないという限界の中でも、「すべての個人が持つ不可侵の基本的人権を保護し、その水準を向上させることで、人間としての尊厳と価値を具現し、民主的基本秩序の確立に役立つことを目的とした」(国家人権委員会法 第1条)国家人権委員会は、少数者や社会的弱者という概念が広く使われ公論化することに大きな役割を果たした。

実際に性少数者と関連して国家人権委員会は設立当時から性的志向を「平等権侵害の差別行為」と明文化したが、このことは国内の活動家たちの圧力と国際規範の影響力に共に負ったことであった。2005年には国家人権政策基本計画の樹立のための性的少数者の人権基礎現況調査を実施したし、2006年に公表した国家人権政策基本計画の勧告案では性的少数者を韓国社会の重要な社会的弱者、あるいは少数者集団として確認することによって彼らの人権を保障するための人権政策が必要であることを明示した。李明博(イ・ミョンバク)政権以後、自分の役割を果たしていないという批判にも関わらず、2014年には性的志向・性別アイデンティティによる差別の実態調査を進行したりもした。また2003年、青少年有害媒体物の審議基準に同性愛を含めさせたことは間違いという陳情が受付されると、該当の文句の削除を勧告したことを始め、トランスジェンダーの性別訂正の過程で繰り広げられる人権侵害の素地を審議するなど、国家人権委員会は各種の人権侵害に対して陳情を通じて判断を求め、是正を要求する役割を遂行することで性少数者の人権運動が繰り広げられる重要な場となった。

同じく障害者の人権に対しても障害者の移動権、学習権、参政権を保障するための調査作業を遂行し、それに基づいた勧告案を作り出したし、移住労働者と結婚移住者に対する差別を表に出して、それを是正するための措置を勧告すると同時に、ガイドラインを設ける作業を繰り広げてきた。国家人権委員会はその他にも性別を根拠とした雇用差別の問題や、男女差別、セクハラなど、すべての差別の問題を担当することとなったし、このことに従って差別と排除に抗議する当事者たちも主に人権の枠から問題を提起することとなる結果をもたらしてきた。特に少数者に対する差別に問題提起できる他の国家機構がほとんどない状況で、国家人権委員会の存在は少数者問題を人権の枠でもって見させる大きな要因となった。

 

少数者の人権と市民権

 

主に国家人権委員会と人権の枠で少数者の権利が論議されてきた現象に対しては、色んな批判が存在する。まず目立つものは人権次元の少数者権利の論議では韓国社会の政治的企画そのものが変えられないので、少数者が韓国社会のまともな成員として認められていないという主張である。彼らは少数者の人権が、市民一般ではなく言葉通りに少数の問題として、なので配慮と慣用を通じて共存を模索することによって無くすべき「問題」として取り扱われていることを批判する。従って、人権次元の論議に留まらず、少数者が同等な市民として立つことができるために必要な政治は何なのかが、市民権に対する論議と共に進行されるべきだということである。このような脈絡で進歩新党の性政治委員長であったトリ(活動名)は、国家人権委員会の人権談論が性少数者を市民として認める成果を持ってきたが、同性愛に対して規範的に認めること以上に進んでいない問題があると指摘する。市民として真正な権利を獲得するということは、社会が規定している市民の概念を拡張し変形しながら、その社会のまともな成員であると共に社会的権利が享受できる者として認められる過程であるべきにもかかわらず、国家人権委員会中心の人権談論では単に同性愛的主体も権利があることを認定しただけで、韓国社会の持った市民の像を変えることはできなかったということである。[ref]トリ、「韓国社会のLGBTの性的市民権:批判と展望」、『女/性理論』23号、2010。[/ref]  一方、ザン・ミギョンは韓国社会で少数者を代弁し、彼らの権利を主張する運動が、少数者のアイデンティティ自体に対する認定を通じて権利を保障することを超えて、正常/非正常の枠とその位階的二分法を崩すまともな少数者市民権の政治へと進んでいないでいることが問題だと見なした。[ref]ザン・ミギョン、「韓国社会の少数者と市民権の政治」、『韓国社会学』39巻6号、2005。[/ref]ユン・スゾンもまた、国家暴力の問題が一定の程度解決された時代となりながら人権問題は国家対市民の問題ではなく、主に少数者が経験する問題と見なされる傾向があると指摘し、少数者を単に社会的弱者として理解しては困ると強調する。標準化されずに異なる生を生きる少数者たちは異なる世の中を作っていく存在としての可能性を持つが、これを人権談論でもって盛り込むことには限界があるということである。[ref]ユン・スゾン、「人権と少数者、そして欲望の政治」、『進歩評論』2009年冬号。[/ref]

つまるところ、人権談論に対する批判を要約すると、少数者問題を人権次元で接近する方式が少数者に対して配慮と共存の名で、生存次元の制限された保護と認定を提供することに寄与してきたことは間違いない事実であるが、その反面、急進的な差異が主張できる政治的主題として浮き彫りするには制約が多いということである。ところが、いざこの部分を限界として指摘することは容易いが、人権と市民権の関係はそれほど単純ではないという事実まで考え合わせると、人権概念に代わって市民権概念で接近することでこの問題が解決できるかは疑わしい。実際に健康権や教育を受ける権利、最低の生計が維持できる賃金などは、すべて基本的な人権を成す具体的な内容であるが、このような権利は抽象的な人権ではなく、すべて福祉国家の登場と共に市民的権利として提示されたものでもある。[ref]Susan Pedersen, Family, Dependence, and the Origins of the Welfare State: Britain and France, 1914-1945, Cambridge University Press 1995.[/ref]  また、人権問題は国境を超える普遍的なものとして理解されたりもするし、一面、国際的な人権規範が働いていることは事実ではあるが、人権を実際に確保し、人権侵害を阻止する過程ではどういう方式であれ、国民国家の役割が無視できないという点を見ても、現実で人権と市民権とを明確に区分することは容易くない。ソ・ドンジンが指摘するように、人間としての権利は市民としての権利を通じてのみ媒介されるものなので、人権と政治的市民権は相互的でしかないということである。[ref]ソ・ドンジン、「人権、市民権そしてセクシュアリティ:韓国の性的少数者運動と政治学」、『経済と社会』2005年秋号。[/ref]

事実、すべての人権が人間として誰でも当然享受すべき権利だという概念は非常にヨーロッパ的なものであって、それ自体として自明なことではないし、従って人権の普遍性には限界があることを、すでに多くの人権研究者が指摘したことがある。[ref]John Headley, The Europeanization of the World; On the Origins of Human Rights and Democracy, Princeton University Press 2007.[/ref]  その一つの例として、多くの人々が現代的な人権概念の起源となったと見なす「人間と市民の権利宣言」(1789、以下「宣言」と略す)の時代、つまり18世紀のフランスを研究する文化史学者のリン・ハント(Lynn Hunt)は、「宣言」が人間と市民の権利を並列的に提示していることからも現れるように、人権が誰にでも普遍的に認定される自明な権利として見なすことは難しいという事実に注目する。[ref]リン・ハント、『人権の発明』、ジョン・ジンソン訳、ドルベゲ、2009。[/ref]  18世紀は相変わらず身分制と奴隷制が存在したし、宗教的少数者に対する迫害が行なわれる時期であった。実際に「宣言」の主体ら自身もまた、奴隷主であったり、男性として支配階級に属したし、後で人間の権利を植民地民や無産者、有色人あるいは女性へと拡大適用することに反対したりもした。ハントは、彼らが人間は同等だと考えもしなかったし、政治的権利は資産に基づくと信じたにもかかわらず、如何に普遍的な人間の権利概念を擁護することができたのか質問する。ハントが見つけ出した答えは、この時期に個人と自我の概念に変化があったからだということである。啓蒙主義の時代になってから、差異を超えて存在する自律的存在として個人を理解することとなり、自分と異なる身分と境遇にある他人もまた、自分と同じく内面を持っており、苦痛を感じうるという観念が広がり始めた。そのような認識に基づいて他人に対して共感を感じることが可能となり、このような変化が人権の発明へと繋がったというのがハントの主張である。だが、「宣言」が普遍的な天賦人権を掲げたにもかかわらず、「宣言」の主役たちは市民ではない彼らの人権を認めなかったし、自分と異なる他人に対する共感が拡散されたが、だからといってそれが直ちに抑圧される人々の政治的権利の拡大へと繋がったわけでもない。結局、同時代における驚くべき成就は、現実的に市民権のない人権は存在できなかったにも関わらず、身分と性別、人種を超越した人権を想像し、共感する個々人が増え、普遍的な天賦人権という信念があたかも自明なものであるかのように拡散され得たという事実そのものにあった。[ref]ハントは充分に扱っていないが、「宣言」テクストの中で人権と市民権の関係は明瞭でない状態で残されているし、まさにこの曖昧さはマルクスからアーレント、クリステヴァ、バリバールに至る多くの論者たちが人権概念の政治性を質問する出発点となった。このことについては、黃靜雅、「人権と市民権の「等式」:<人間と市民の権利宣言>を中心に」、『英米文学研究』20号、2011参照。[/ref]

だから普遍的な人権という概念の意義は逆説的にそれが達成不可能な目標だという事実にある。抽象的な人権概念は現実的限界も明らかであったが、同時に現実の条件を超えて人権の普遍性を、到達すべき理想と仕立てたし、その結果、抑圧される人々の熱望を刺激して政治的変化が要求できる場を作り出したからである。実際に人権概念は平等を当然なこととして前提するかのようであるが、その中には現実の人間は抽象的な個人ではなく、特定の歴史的脈絡と社会的関係の中に縛られた存在だという事実にしばしばそっぽを向く問題点がある。だが、人権概念は市民権の概念が持った問題点、つまり国民国家の認定可否に左右されるしかない限界から脱して、市民ではない人々もまた、平等を熱望するようにしてくれる側面がある。従って、何より重要なことはまさにその人権という理想に向かって無限に近接していく、止められない運動としての人権の政治そのものを維持することである。[ref]ジョン・ジョンフン、「(不)可能な権利と人権の政治」、『文化科学』2013年春号。[/ref]

少数者運動の場合も人権談論の制約性を勘案する一方で、人権を通じて開かれた新しい政治的可能性と場はうまく活用する必要がある。社会成員としてきちんとした市民的権利が享受できなくする体制的条件が維持される限り、人権もまた確保され得ないが、同時にこれまで市民権が適用できる対象が拡張されたことには人権の役割が大きかったと見なすべきだからである。結局、今このままでの市民権体制が人権の侵害へと繋がる状況を変え、少数者を政治的権利の主体にする過程で、人権と市民権の論議は出会うしかないのである。

 

市民権の再構成と市民性の問題

 

少数者の市民権論議が重要なもう一つの理由は、少数者の人権を保護するという時でさえ、少数者を「一般」市民とは区分される、何か欠乏した存在として見なす場合が多いからである。少数者は形式的に市民の要件を全部備えても、ちゃんとした社会的成員としての権利が享受できない場合が多い。ある国家の市民として生まれるとして誰でも資格のある市民に認められるわけではないし、ある条件を充足してこそ「一般」市民になれるのである。市民の間に存在するこのような区分を問題としようとする際、これを近代社会に作動する正常性と非正常性の境界問題、標準から脱した個人に対する抑圧と排除の問題として接近することもできよう。しかし、究極的に少数者と一般市民という構図を超えるためには、近代的市民概念自体に根付いている暗黙的な前提が何なのか問う必要がある。

このように社会が市民に与えた権利および義務に基盤を置いた社会的成員権を市民的権利(citizenship rights)と区分して、市民性(citizenship)と呼ぶこともあるが、[ref]キース・フォルクス、『シティズンシップ:市民政治論講義』、イ・ビョンチョンほか訳、アルケ、2009。法的権利次元のcitizenshipと市民性あるいは市民になることとしてのcitizenshipについては、区別しないで用いる論者たちがもっと多い。従って、本稿でも必要な部分でのみ市民性(citizenship)と市民的権利(citizenship rights)を区別して用いた。[/ref]  この市民性はまさに権利が普遍的に適用されることを制約する具体的な原理として作動することとなる。キムホンスヨンはルンペン研究を通して韓国社会の市民性を構成する基準として、国民登録の原則に沿って住居地の登録が成されているか、市場労働に勤勉誠実に参加しているかの可否が重要に働いていると指摘する。また、財産を持って納税の義務を果たしてこそ、家族構成の義務と兵役の義務を果たしてこそ市民的権利が享受できるという観念は、結局はこのような要件に合わせられない障害者や性少数者、ルンペン、女性などをして市民権の行使において差別を受けるように仕向けるし、彼らを社会的少数者にするメカニズムとなっているということである。[ref]  キムホンスヨン、「市民性を基準にして照明した社会的少数者の権利:ルンペンの事例を中心に」、『経済と社会』2005年春号。障害者の市民性問題については、今回の『創作と批評』171号に載せられた、金度賢、「障害者は大韓民国の市民なのか」を参照されたい。[/ref]全地球的移動が多くなるにつれ、大きく増加している移住者の場合も近代国家の境界内で作動する市民性に符合するには大きな困難が付きまとい、特に当の社会に存在する民族主義、人種主義、性差別主義のなかで市民権や人権を享受することは難しい。[refグォン・ヨンヒョク、「民主主義と少数者」、『社会と哲学』19号、2010.4。[/ref]  従って、少数者に対する差別を解消するためには、物質的な支援や保護措置ではなく、彼らが市民としての生を生きていけるように市民性の原理そのものを変えなければならないということである。

ここで強調すべき点は、先に列挙された市民性の要素が必ずしも少数者にのみ差別として働くわけではないという事実である。個々人は単に市民権が持てる人と、市民権から排除された人とに分けられるのではなく、持続的に市民性に符合するため努力しながら、市民性を立証しないと市民の資格が維持できない。もちろん少数者の場合には恒久的ではないにしても、市民性に符合しにくくする特徴を変更することが難しいという違いはあるものの、少数者を作り出す市民性の原理と位階秩序の中から自由な人間はいない。

人類学者のタラル・アサド(Talal Asad)は単に市民権だけでなく、人権もまたそれ自体として人間に対する特定の像と資格に頼っていることを指摘する。[ref]Talal Asad, “Reflections on the Origins of Human Rights,” A Talk at the Berkley Center for Religion, Peace, and World Affairs, 2009.9.28(https://youtu.be/Vd7P6bUKAWs).[/ref]  その一つの例として労働できる権利が挙げられるが、労働権は世界人権宣言の第23条に規定された代表的な人権の一つとして見なされる。ところでよく人間の本質を労働から見つけ、労働する権利を普遍的な人間権利であると共に市民権の主要な内容として見なすが、事実人間と労働に対する視角は時代的に変化してきたものであることをアサドは強調する。彼は労働を規律の手段として動員した16世紀の救貧法から労働権の起源が見い出せると見なすが、この時期労働は人間の資格を規定する重要な基準として人民とルンペンとを区分することに使われたということである。そうするうちに18世紀に入って労働はもう国民的義務であるだけでなく、市民の権利として主張され始めたし、20世紀には労働権という概念がケインズ主義的な雇用政策と結合しながら経済を活性化する手段として理解され始めた。ルンペンを統制する手段としての労働と、経済計画の手段としての労働は、人間に対する非常に異なる理解に基づいているとする際、労働の可否、特に市場経済に包摂された労働に参与しているかの可否で人間と市民の資格を分けるということは、決して当然なことではあり得ないというのがアサドの指摘である。彼は労働が人間の資格基準になってきたという通念にも関わらず、社会が地代をもらう財産家たちには人間らしさの条件として労働を要求したことがないと指摘する。

ここで人権と市民権の重要な一部であると共に、市民性と人間らしさの前提として理解されたりする労働権が、実際には権利であると同時に統治の手段でもあるという事実は重要な示唆点を持つ。市民性の原理をそのままにしておいた状態で少数者の名でより多くの福祉や保護を要求することは、とかく少数者が揺さぶろうとした社会秩序をむしろ強固化することに寄与することもあり得るからである。[ref]カン・ミオク、『保守はなぜ多文化を選択したか:多文化政策を通じて見た保守の大韓民国企画』、サンサンノモ、2014参照。[/ref]  事実、財産規模によって、労働能力によって、合理的判断能力を持ったかによって人間と市民の資格を分けることは、近代資本主義社会で必要とする徳目を個人に強制するための手段でもあった。異性愛的結合と子女生産を通じて社会的再生産に服務するかを基準にして市民の資格を分けることもまた、家族を通じて成される再生産が、資本主義経済が持続される前提だからである。このように少数者の排除をもたらしてくる市民性の原理は、近代資本主義社会の根幹を成すものであって、これは少数者にのみ該当する問題ではない。従って、少数者という範疇自体がどのように作られたかを問題とし、市民性の原理自体を再構成することで少数者をして政治自体に対する権利が持てるようにすべきだというソ・ドンジンの主張は、[ref]ソ・ドンジン、前掲論文。[/ref]  それが少数者政治の脈絡から出たものではあるが、少数者運動の課題としてのみ見なすことはできない話である。

 

「われわれは皆少数者だ」を超えて

 

少数者の人権と市民権をちゃんと確保するためには人間と市民の資格条件として暗黙的に前提される要件を見てみなければならず、このような前提を変えるためには結局、近代資本主義社会の根幹を成してきた色んな原理を変化させなければならないという主張は、ややもすればあまりに観念的で現実とかけ離れた主張として聞こえることもあり得る。だが、現在進行される少数者運動はこのような変化の試みが現場ですでに成されており、同時に当然人権として与えられるべき権利もある根本的な原理の転換なしには得がたい場合が多いことを示している。一例として障害者はなぜ当たり前のように最低賃金の対象から除外されるか、もしその理由が障害者の労働が価値をまともに生産できないからだとしたら、賃金の水準は生産した価値と比例するものなのか、また労働が国民の義務であると共に権利だと見なす場合、国家は障害者の労働権をいかに保障するだろうかなどの質問は、すべて労働能力のある男性市民を標準に置いては答えにくい問題である。性的志向や性別アイデンティティでもって人権が制限できないとしながらも、市民が制定する人権憲章から性少数者の人権保障の条項が漏れるならば、これは結局韓国社会の人権と市民権の一般的な限界を見せるだけである。また都市が主体となって、人権の対象を国民国家の国民に限定せず、難民と難民申請者、移住労働者、未登録者を含めて当の市で勤労したり滞留する人みなにその範囲を広げるソウル市の実験も見守る必要がある。これはこれまで資産所有権に基づいて資本蓄積を最優先視する空間であった都市が、果たして所有者ではない居住者の使用権が認められる空間、共有の原理が支配する空間となれるかに対する実験でもあるからだ。

人権教育でよく提示される「われわれは皆少数者だ」という掛け声には、少数者の問題が他者の問題ではないという点と、自分は少数者ではないものの少数者を配慮し、包容するという安易な認識自体も差別の異なる姿であり得るといった自覚が反映されている。また、自らを少数者として眺めて実践する「少数者―になること」もまた、政治的実践のために重要な倫理的土台であることも事実である。しかし、「われわれは皆少数者だ」という言説は18世紀の人権宣言の主役たちと同じく、とかく現実の差別的原理をそのまま置いておいて抽象化された他者たちの苦痛に対してのみ共感するところで留まる危険がある。詳しく見てみると、少数者ではない人はいないということと、実際社会的に差別される範疇に属して生きなければならない生の困難さとの間には、厳然たる違いが存するからである。それに、たとえ障害を持っているとしても、障害の程度と種類、階級的地位、性的志向、性別、人種に従ってその経験は異なるしかないように、少数者自体は単一な集団ではなく、様々交叉し、折り重なる抑圧を経験する集団だという事実を勘案すると、原論的な共感の限界はより明白になる。 .

だから、ここで重要なことは「われわれは皆少数者だ」という認識が、韓国社会で少数者を生産する具体的なメカニズムと差別の様相に対する穿鑿と共に成されるべきだという点である。他人に対する抽象的共感の持つ限界は明らかであるが、人権の普遍性という理想に基づいた現実的闘争が民主主義の拡大をもたらしてくる力となったように、「われわれは皆少数者だ」という掛け声もまた、現実を変化させる闘争の出発点となればその意味は大きいだろう。

実際に小さな政治的異見だけでも、誰でも非市民、非国民に追い立てられ得る韓国の抑圧的政治体制は、誰にとっても自らを少数者の問題から自由な「一般人」と見なすことを難しくしているし、少数者の人権主張に対しても特に敵対的になりやすい。[ref]2013年、民主党が発議した差別禁止法案に反対する過程で、保守基督教団体が「従北ゲイ」という用語をもって性少数者に従北嫌疑を被せたことは、韓国社会で少数者と体制反対者との距離が思ったより離れていないという事実を示している。[/ref]  なので社会の民主化および分断体制の克服を目標とする運動と、少数者の人権および市民権を確保しようとする少数者運動との間には、差異を越えて共にする余地と当為性が存在する。先述したように、人権と市民権の問題は相互依存的であり、少数者の人権問題を単なる共感と配慮を超えて「大転換」へと連結する政治的企画と実践もまた、少数者運動が単独で果たすべき性格のものではない。よい生と悪い生、生きるに価する人間と価しない人間、尊重されうる市民とそのような資格のない市民を分けて差別する権力に抵抗することは、決して少数者のみの問題ではあり得ないはずだ。

 

(翻訳:辛承模)