창작과 비평

総選挙後、市民政治の道を問う

2016年 夏号(通卷172号)

 

 

鄭鉉坤(チョンヒョンゴン):政治学博士。細橋研究所の選任研究員。市民社会団体連帯会議の政策委員長。共著として『天安艦を問う』がある。Email:jhkpeace@empas.com

<読後感>
この間、戦後日本の基軸として機能してきた「平和主義」は、今や東アジア冷戦70年の歴史に金縛りにされている。日本独自での自己変革の可能性がほぼ消滅した今日、著者のような韓国の市民運動家との「対話」を通じ、日韓両国社会の現状認識と相互理解を深めていく必要がある。

何と、またもや政党の時代なのか。4月13日総選挙後、すっかり「起―承―転―政治」となった騒ぎが、この時期の特徴を証言する。政党政治の軽さは信じられないほどで、市民が復元させたこの政治現象を、私たちは不安な気持ちで眺めている。

今回の総選挙をめぐり、みんなが意外の結果だと語っていたが、市民の胸にしこった痛みと憤怒を考えれば、それほど驚くべき結果でもないだろう。そうした点でみれば、だまされ続けているという心情で政党を眺めるだけでは物たりない。政治変化に向けた市民の叫びに比べ、対策のない市民社会を叱咤するのがまず先ではなかろうか。

「何かでもする人」、今回の4・13総選挙を準備しながら、市民社会団体が自らを表現した言葉である。この言葉には二つの意味が含まれている。一つには切迫感である。失政をおかしても弱体な野党とマスコミの掌握によって選挙で圧勝を重ねる政府と与党を想像するのはあまりにもつらいことなので、「何かでも」やるべきだった。[ref]市民を失望させた代表的な選挙は2014年7月30日補欠選挙である。その年4月16日にセウォル号惨事が起き、朴槿恵大統領をはじめ政府の責任が厳しく追及されて与党惨敗が予想されたが、結果は反対に11対4で与党が勝利した。この選挙後、政府与党はセウォル号事件に対して反省のない非協力とあきれた態度を露骨化させた。[/ref] また、無力感もあった。朴槿恵政権を審判すべきだという課題を掲げながらも、とにかく選挙で政党に影響を及ぼす方法がないのが胸苦しい。それでも「何かでも」すべきなら、それは確かな「何か」がないことを吐露するに他ならない。

それに反し、政党体制はその支離滅裂さにもかかわらず、今回の選挙を通じてまたもや生き残った。もし政府与党が自ら豪語したレベルの議席を獲得したならば、私たちの政党体制は亀裂を超えて破壊レベルに達したかもしれない。それは政府を牽制して国民の声が収斂される議会空間の萎縮へと至っただろう。だが意外にも、市民が政党体制を生き返らせた。国会はふたたび意味ある民主政治の制度的な役割を果たせるようになった。しかし、今の政党が民主政治に向けた市民の望みに適うかどうかは依然疑問である。この間、数多くの革新をわめきながら、脆弱な政党構造を克服できなかったからである。そうした点でみれば、自ら答えを見つけがたいのもまた政党である。

 

市民社会の政治企画の転換

 

李明博(イ・ミョンバク)政権の二年目、民主の危機が民生の危機を煽っていた2009年頃、市民社会は政府の横暴を退けるために一連の政治企画を準備した。[ref]李南周は、進歩改革勢力が政治的民主化と経済民主化を区分することで、李明博政権の民主主義逆走を見過ごしたことを指摘し、危機克服のために「進歩的な政治勢力、自由主義的な改革勢力、市民運動」間の政治連合を提案した。李南周「政治連合、進歩改革勢力の相生の道」『創作と批評』2010年春号、を参照。[/ref] この政治企画は創党を目標にするとか、または政治を対象化して市民社会の直接的な政治介入の力を構成するという点で新しかった。この企画の第一次目標は2010年6月の地方選挙であり、次いで2012年総選挙と大統領選挙も念頭においた。こうした問題意識を込めた政治言説が市民政治と連合政治であり、有力な道具として「希望と対案」が同年10月に創立された。当時の論議で市民社会が掲げた論点が三つある。第一は既存政党の中で政治ブロックを志向しない独立的な企画という点、第二は既存の政治的中立というテーゼを超えるという点、そして第三はそれでも新たな政党を図らずに、むしろ新たなビジョンと勢力、メディア、政治と社会組織を再構成すべき様々な空間を生み出すというものだった。[ref]2009年市民社会の政治・社会的企画の問題意識については、河承昌「再補選後の進歩陣営の戦略的課題」『創作と批評』2009年夏号、を参照。[/ref] ここで「希望と対案」は、政党と市民社会を組み合す一種のかすがい的機能を遂行する機構として政策連合、価値連合という、少し意味ある政治連合を図った。こうした政治企画は、2010年地方選挙で与野党の1対1対決構図を描いた候補単一化としてうまく作用し、選挙勝利を導いて光を放った。[ref]当時、市民社会と政党間の連合政治の動力については、白承憲「連合政治論議、今こそ成果を示す時である」『創批週刊論評』2010年2月24日(http://weekly.changbi.com/?p=873&cat=5)、を参照。[/ref]

また2011年8月、呉世勲(オ・セフン)ソウル市長が無償給食の賛否を住民投票にかける無理な手法の末に市長を辞め、朴元淳(パク・ウォンスン)弁護士がソウル市長選挙に出馬する。当時、市民社会人士である朴元淳が民主党の朴暎宣(パク・ヨンソン)議員を下してソウル市長の野党統一候補になる過程は、安哲秀(アン・チョルス)に代表される新政治に対する期待と符丁を合わせ、既存の政治と政党体制への市民の強い拒否感が表れたものだった。結果的に、朴元淳のソウル市長当選は市民社会のイニシアティブに基づいた連合政治という政治的企画が一つの頂点に達したことを知らしめた。

当時、市民社会の政治企画とは別個に市民社会と政党の統合を模索する「市民政治」活動も活発だったが、彼らは国民の命令、進歩統合市民会議、民主統合市民行動、市民主権、「私が夢見る国」[ref]「私が夢見る国」は他の「市民政治」グループとは異なり、市民社会内に位置した独立的で持続可能な市民政治の領域を追求した。シンクタンクと進歩メディア、そしてメッセージ・センターが連携した市民政治組織がそれであるが、彼らのネットワークがオンラインでプラット・フォームを構成するように設計した。しかし、「私が夢見る国」は受権的革新政党の建設を通じた政権交代と市民政治の基盤構築という課題を同時に掲げ、力のバランスが政党側に傾いていく限界を経験する。[/ref]などの名前を掲げた。

2009年から続いた連合政治の努力は二つの流れに集約される。一つは2012年1月、市民社会人士の一部と第一野党が合流した民主統合党の創党、第二野党と市民社会人士の別の一部が合流した統合進歩党の創党がそれである。民主党内の政治ブロックや新しい政党の計画という点で、この結果は市民社会の政治企画に適うものではなかったことがわかる。もう一つは市民社会の元老・重鎮と「市民政治」団体の代表で構成された「希望2013・勝利2012円卓会議」である。この円卓会議は野党四党の代表とともに、10・26ソウル市長選挙に共同対応するという合意をつくりあげ、その余勢を駆って野党と市民社会で共同して2013年ビジョン作業を率い、「希望と対案」後の連合政治の橋頭堡として活躍した。しかし、2012年民主統合党と統合進歩党という野党体制ができた後、その活動領域は主にメッセージの発信にとどまるようになる。[ref]円卓会議が発したメッセージで注目すべきものとして、2012年8月23日に発表した安哲秀候補の出馬関連声明と、11月1日に行われた文在寅─安哲秀候補間の政治革新の対話を促す論評がある。英知を示したという点で、選挙言説の意味をあらわすメッセージ活動のよき事例といえよう。[/ref]

当時、市民社会の政治企画は半分の失敗といえる。市民が政治に参加できる多様な空間をつくりだせなかったからである。2012年、安哲秀候補のキャンペーンまでを政党領域と理解するなら、積極的な市民社会の運動勢力が政党内に急速に吸収される流れがみられる。その上、そうして形成された政党は自らの政治的利益と政治工学にかたよって2012年の重要な二つの選挙で市民に大きな失望だけを残した。結局、政治行為者としての市民は市民政治の不在の中で、相変わらず個人としてのみ存在していたのである。[ref]2012年大統領選挙の時期に生活現場の運動がなかったわけではない。代表的な例が「経済民主化と財閥改革のための国民運動本部」の活動、済州島のカンジョンから始まった万民共同会、双龍や龍山など社会的被害者の座り込みテント村運動がある。その他に、安哲秀と文在寅間の連帯を社会勢力連帯の意味に拡げようとする新たな努力の一環として、「反特権連合」を実現させようとする活動も進められた。だが、すべて両候補陣営と連係されず、政治的企画として実現できなかった。[/ref]

 

地方自治体と市民自治の成長

 

2009年市民社会の政治企画に半分の成功があるなら、それは2010年地方選挙で野党勢力が得た勝利だった。この選挙で忠清南道と慶尚南道、江原道で地方自治体のトップ交代が実現した。李明博政権がみせた民主主義の逆走への批判的性格が強かった上に、当時の地方選挙には市民の主権的な行動意志が強く刻まれた。市民意識の成長と地方自治体の民主的な構成をより明確に示したのは、2011年秋のソウル市長選挙だった。無償給食という議題の政治化が地方自治体の争点として再点火された条件下で市民意識が大いに高揚したのである。2012年慶尚南道金斗官(キム・ドグァン)知事の突然の大統領選への出馬で、慶南道民の自治の道が後退する痛みを経験したが、[ref]当時の慶尚南道の協力的施政については、任根宰「地方連合政府の実験とその評価」『創作と批評』2010年冬号、を参照。政党と市民社会の共生、行政とのパートナーシップという話題を供して新たなモデルを実験していたが、道知事の突然の辞任により水泡に帰した。[/ref] 地方自治体に参加して責任も担うという市民自治の意味は2014年の選挙でも維持された。2014年の地方選挙では安煕正(アン・ヒジョン)忠清南道知事と朴元淳ソウル市長の再選も注目すべきことだが、与党側人士である南景弼(ナム・ギョンピル)京畿道知事と元喜龍(ウォン・ヒリョン)済州道知事が連合政治・協治を論じ、市民自治の形成に有利な環境がつくられた点が注目される。

地方自治体レベルで市民自治の意味は、地域共同体運動と福祉運動が結合する現場で現れた。京畿道を例にとれば、「あたたかく幸せな共同体」略して「タボㇰ共同体」を、行政と市民が共同責任で構成していく動きが際立つ。タボㇰ共同体は市民の生活の場である地域共同体の持続可能性を志向しながら、その核心要素である福祉問題をめぐって国家あるいは地方自治体の財源投入という伝達体系に局限せずに、地域自らが生活経済をつくりだすのに関心を寄せた。2015年12月に開催された京畿道のタボㇰ共同体祭りは31の市・郡の地域活動家と社会的経済の関係者1004人が集まり、別名「天使ネットワーク」を構成し、自治体行政に参加しながら責任を分かちあう市民自治の一形式を示している。

これに比してソウルの場合は、近隣単位としての洞と福祉の連携が相対的に強調される。ここでは、いわゆる国家公共性の危機の対案として、生活公共性または地域公共性が強調される。生活公共性は私的な生活領域を抑圧したり、解体する国家権力と市場権力に対抗する防御壁として、市民社会と地方自治体の公共性を構築する新たなフレームとして提案され、[ref]チョ・デヨプ「公共性の社会的構成と公共性フレームの歴史的類型」『アジア研究』第56巻2号(2013年)、を参照。[/ref] 「マウル(村)」がその実現単位になる。そしてソウル市は「移動する地域福祉センター」と「マウル計画」、「マウル総会」を掲げる。ここでマウル総会とは、個人の必要と欲求を基盤にして共通の議題に合意し、メタ議題を描き出すマウルの「公論場」になるわけだ。このマウル公論場を通じて、住民は国家共同体の主権者である市民に生まれ変わるのである。[ref]柳昌馥「マウル共同体政策と地域社会の市民生態系」『創作と批評』2015年冬号、を参照。[/ref]

市民が自治体運営に直接参加して責任を担う場合、市民意識がより成熟するという点は明らかである。特に住宅、保健、交通、教育サービスのような重要な公的日常が国家よりも地方自治体を通じてより多く左右されるならば、地方はすでにそれ自体で政治共同体として機能するようになる。そういう点で、市民は地方で政治を始めるようになったといえる。

 

政党と市民社会の関係の再構成

 

市民社会と政党は、実体としての政治空白と制度としての政治回復が繰り返される局面で、互いに関係してきたといえる。街頭での政治と議会政治の循環は確かに不安定である。
市民社会と政党間の共同企画は、1986年に発案された直選制の改憲運動が一つの模範である。1980年軍事クーデターで執権した軍部勢力が大部分の政党を解散させ、自らの民主正義党と上辺ばかり野党の民韓党で辻褄を合わせていた頃、普通の与野党の政党体制は運営できなかった。1985年2月の総選挙を契機にして金大中(キム・デジュン)と金泳三(キム・ヨンサム)が率いる新民党が野党として再構築され、彼らの勢力は直選制改憲を主唱した。直選制改憲は、文字通り、市民的権利として大統領を選出しようというもので、当時すべての市民の政治動力を引き出すプログラムといえた。実際、直選制改憲で政治化されたイシューは街頭闘争によって実現した。全斗煥(チョン・ドファン)政権は学生の朴鍾哲(パク・ジョンチョル)を拷問で殺害し、4・13護憲を強要しようとしたが、市民社会と野党は民主憲法争取国民運動本部を結成し、これに対抗してついに勝利をおさめた。大統領直選制という手続き的民主主義の基本形式が市民抗争によって樹立されたという点で、韓国は1987年6月になってようやく本来的な意味での選挙と政党制度が始まったといえるだろう。

しかし、この時期の政党構造は政治学者が理想的に描くタイプ、例えば「社会のバランスの上に立つ様々な集団の利益と情熱を複数の政党が競争的に動員し、自らの支持基盤を拡大しようとする党派間競争の効果」[ref]朴相勲『政治の発見』、ポリテリア、2012年、124頁。[/ref]が作動する、そうした政党構造には程遠かった。したがって、資本主義の経済構造から疎外された弱者の要求が活性化された政党政治を通じて、国家の政策決定に反映されるのは難しかった。相変わらず政党は政治を職業とするエリートの寡頭体制に留まっていた。こうした政党が官僚化するのは必然だった。これに韓[朝鮮]半島の分断体制が作用して守旧派優位の保守構図が政党構造にも内在化され、与野党の対等な両党体制は定着できなかった。政党構造のこうした弱さは、1991年に野党党首の金泳三が率いる統一民主党が慮泰愚(ノ・テウ)の民主正義党と合党して民主自由党を創党したのによく表れる。当時、民主自由党の創党はエリートによる私党的な性格の政党が大衆の選択に逆らって政治家個人の利益を求める形態をよく示しているといえよう。結局、1987年以後民主化の拡大により成長した市民社会運動が政治と遭遇した現場は、2000年総選挙時の落薦・落選運動だった。不正と腐敗で対象化された存在、それは市民社会が政党を眺める明確な観点だった。

逆説的にも、政党と政治に対する市民社会の叱咤は一種の権力移動を呼び起こしたが、それは2004年総選挙を契機にして明確になった。盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領に対する弾劾に対抗して、市民の投票権運動が野火のように起きた2004年は、当時の与党であるヨルリン・ウリ党(以下、ウリ党)が過半数の議席を獲得し、労働組合が中心になった市民社会主軸の民主労働党がついに国会内に進出した特別な年として記録された。民主政権とともに新たに完成された国会の民主政党優位の構図は、社会的テーマが主に国会を通じて論議されうる基盤となった。市民社会人士の国会進出ラッシュも、この時に主にみられた。一種の勢力移動が同時に達成されたのである。

しかし、こうした流れが政党構造の弱さを克服したわけではなかった。私党的な性格、官僚政党の問題点は相変わらずだった。それは2007年8月、ウリ党が所属議員の連鎖的な脱党形式で大統合民主新党に吸収され、歴史の中に消えていく離合集散によって確認される。2004年当時、国会に進出した市民社会人士も独裁に対抗した勇気と献身、道徳性にもかかわらず政党構造の後進性を克服できなかった。民主労働党は党職者が夜昼問わずに努力して作成した進歩的な政策アジェンダが空中分解し、党内覇権主義の形態と対北追従の理念偏向を制御できずに、市民と縁遠くなって座礁するに至った。

ここで市民社会運動は依然として政治不在の渦中で、政治を奮い起こす役割をしたと評価しうる。代表的な例が2008年ローソクデモである。当時ローソクデモは、米国産牛肉の輸入交渉の過程で政府が国民を騙したことに対する抗議から始められたが、同年総選挙で政府与党が過半数を得た後、政府与党に無力な政治無能に対する反発であったといえる。2010年地方選挙と2012年総選挙はそれでも少し良くなった面があったが、市民社会と政党の連合政治が部分的にも作用したからである。しかし、リーダーシップ不在による大統領選挙の敗北後に野党性は薄まり、結局、2014年セウォル号の涙は政治の失踪と対比されて市民の記憶内に刻まれた。金漢吉(キム・ハンギル)・安哲秀共同代表体制の2014年7月30日補欠選挙の敗北、朴暎宣へと続いた新政治民主連合の非常委員会体制の混乱、2015年文在寅(ムン・ジェイン)党代表体制まで、すべてがこの責任の当事者である。それから2年、驚くべきは市民が再び政治をつくり出すという奇跡を示した。2016年4月の政治回復は、市民が自発的に戦略的な選択をした結果という点で、むしろ政党と市民社会の覚醒を促したといえよう。

私たちは今後も制度圏政治の失踪と街頭での政治を、多かれ少なかれ、経ることになるだろう。選挙と政党制度は、今後も国家共同体運営の制度的形式において核心をしめるもので、政党を革新すべく進歩的対案を探さねばならない。市民が政党に対する介入能力を強化しうる方法、そしてそれが政党民主主義にまで連結される接点を探し出さねばならない。ここに市民政治の道がある。

 

言説、地域、そして連合政治

 

市民社会の政治企画が成功するために必須の要素として言説、地域、連合政治の三つを提案する。
まず言説である。市民社会は利害関係者の集団としての実行力よりも、言説能力の面でより優れる。もちろん利害関係者の集団は政治力を発揮する。代表的なのは韓国労総などの労組がそうである。しかし、市民社会運動は参与連帯、環境運動連合、女性団体連合でさえ、利害関係者というよりは特定の価値集団、または専門家集団というイメージが濃く、強みも言説能力により優れている。

しかし、2016年総選挙ではこうした市民社会の言説能力をうまく活かせなかった。今回の総選挙の政党領域では、「政権審判論」と「政治審判論」の間に「両党審判論」が角逐する言説闘争があったと思われる。ただ、この言説は一種の証拠目録が連結されるレベルで駆使され、投票行動の基準になる選挙言説は「自派政党支持」という線に固定化された。これに比べて市民社会の場合は、「総選ネット」の落薦・落選運動に代表される一種の「個別候補審判論」ないし「アウト目録」以外に、元老である白楽晴の選挙言説の完成度が高かった。[ref]白楽晴が自らのフェイス・ブックに上げたこの文章は、マスコミに報道されて「共有」される方式でSNSに広がった。この文章には、「ともに民主党」と「国民の党」の選択に苦心する光州・全南の有権者に必要な論理、好きな政党への比例区での選択と当選可能な野党に投票する地域区という戦略的論理が込められた。白楽晴「楽な気持で投票しましょう」2016年4月6日(http://www.facebook.com/Paik.Nakchung/posts/1066711833388500)。[/ref] 「再び民主主義フォーラム」が掲げた候補単一化の主張の場合、「単一化をしなければ、野党勢力単一化に対して消極的で、政略的な態度で拒否する党と候補を落選させるように国民に促す」べきことを鮮明にしたという点で言説の効力は弱かった。これは事実上、「国民の党」の辞退運動であり、各政党が展開した自派政党支持と同じ意味をもつからである。市民社会が伝統的に優位な領域である言説能力は、なぜ今回の総選挙では萎縮したのか、まじめに考えて評価すべきであり、言説能力を復元させる必要がある。

第二に、地域である。自治の経験を通じて成長する市民は地域の中で自らを政治勢力として形成していく。これは特定の首長の政治的性向の問題ではなく、必要による選択の結果である。その必要は住宅、教育、医療、保育、福祉、雇用、交通、安全問題などに発現される。すべて市民の生活問題という点で当事者である市民の意思決定への参加が、問題解決の鍵になる領域である。参加のレベルも予算決定権まで進んでいく過程である。ここでは、地方自治体と市民の協力が問題解決の核心哲学であり、方法になっているのだ。問題は、過半数以上の共通した支持を形成する「政治勢力としての地域」になり得るか否かである。もし地域が政党の影響力が及ぶとおりに区分されるならば、地域は政治勢力ではなく、単なる空間にすぎなくなる。少なくとも資本の都市開発と富の蓄積領域をめぐる利害葛藤を除けば、地域は生活領域で共通した政策合意を生み出す点では中央よりも優れている。[ref]もちろん、市民自治は特定の議題、プロジェクトで露呈する異なる勢力の連結と連帯だけで成立するわけではない。地域でも土建の論理は最大の政策争点である。土建は与野を分かたず、江原道で加里旺山の開発をめぐって崔文洵道政と環境団体が激しく葛藤した事例がある。市民の政治化は少なくとも政策レベルの対立を管理すべき民主主義の運営能力までも含める。[/ref] 地域に存在する諸般の政党勢力が協力しうる可能性も増大する。「政治勢力としての地域」が機能するという話だ。こうした問題意識は地域政党(local party)を志向するという意味ではない。相対的に平等で、普通の影響力の下で多様な社会勢力、政治勢力が共同の政治目標をつくり出しうるという意味である。

第三に、連合政治である。連合政治は共同の価値をもつ勢力連合を意味する。その基礎は民主主義だといえるが、多様な集団の多様な利害関係が多様な社会勢力、政治勢力として反映される構造だからである。今日、連合政治の課題は選挙時ではない日常時に作動されるモデルをつくり出すことである。選挙政局ではすでに多数と少数が定められた構図で、まるで株主総会のように議員数や支持率などによって差別される可能性が大きいからである。日常の連合政治はアジェンダを通じて発現されざるを得ず、それは日常の暮らしと政治を連結する地点で形成される。そういう点で、日常の連合政治アジェンダは地域懸案の生活力が全国的な政治懸案として成長し、さらに韓半島全体の脈絡まで探知する必要がある。特に韓半島の問題は、私たちにすぐにも迫りくる対北イシューと連結し、マウル単位から国家単位に至るまで勢力連帯の基盤になっている。

連合政治では共同善に密接な市民社会のイニシアティブが貫徹されるべきだと主張する理由は、政党の「セルフ(自己)」革新が期待できないからである。市民社会のイニシアティブは内容的には民主・民生・平和から形成され、これが政党の民主的土台を強化してくれる。政党の革新において韓半島の平和がともに強調される理由は、韓国社会における民主主義に対する挑戦が、主に分断体制を媒介にして増大されてきたからである。[ref]2012年統合進歩党は連合政治への参加勢力だったが、解体されていく過程もそうだが、「李石基事件」を契機に政党を解散させようとし、憲法裁判所まで加わって大法院の決定に反する行為をするとか、テロ支援法を通じて国情院の市民監視が強化される現象などが、その事例といえよう。[/ref]

今日、市民社会団体は成長している市民の中に入っていくべきだ。市民的感受性の中で言説を練磨せねばならない。市民が暮らす地域で運動のエネルギーを充電すべきである。地域と全国、韓半島が連結されるアジェンダを通じ連合の実験を続けねばならない。「ともに幸せな金海」「自然と共存する江原」などが「平等な大韓民国」「平和な韓半島」と縦横に編みこむ構図である。それぞれの構造に社会運動の推進者が自らを組織して関係をネットワーク化するだろう。

地域住民の生活に根ざすが韓半島問題まで思惟する市民政治、政党に進入する通路より政党とともに歩む市民政治を、今こそ本格的に始める時が来たのだ。

 

翻訳: 青柳純一