韓国における日本軍「慰安婦」研究、どこまで来たのか
姜貞淑(カン・ジョンスク)成均館大学東アジア研究所研究員。韓国挺身隊研究所所長、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会専門委員および調査官等を歴任。 wumright@hanmail.net
2015年12月28日、日韓政府の唐突な日本軍「慰安婦」[ref]「慰安婦」は日本軍が使用していた歴史的用語であり、その本質は性奴隷だと言える。ここでは歴史用語としての表現は活かすが、日本軍に慰安を与えるという意味の慰安婦ではなく暫定的表現として使用した。[/ref] 合意案発表は、大きな社会的関心を呼び起こした。以降、韓国外交部の空元気な成果自慢とは違って、日本政府は「強制連行の証拠はない」と国連で発言し、米国ハリウッドで国家広報の準備に拍車をかけるなど、[ref]「『慰安婦強制連行の証拠はない』…日本、国連に公式立場提出」『京郷新聞』2016年1月31日;「日、来年ハリウッド中心部に広報拠点『ジャパンハウス』オープン」『聯合ニュース』2016年3月11日。[/ref] 軍「慰安婦」をはじめとして独島〔日本名:竹島〕など国家間紛争を自国に有利に導いていくための戦略を遂行している。教育の領域でも、過去の暗い出来事を着実に消し続けている。これに反して韓国政府は、こうした日本政府の動きにきちんと対応できていないだけでなく、国内で女性家族部や韓国女性政策研究院などが行ってきたさまざまな調査研究への支援を中断ないし縮小した。
「慰安婦」問題真相糾明に対する政府の支援は、2011年8月に憲法裁判所の判決[ref]2005年、日韓協定に対する韓国政府の評価に基づいた被害者と市民団体の憲法訴願に対して、憲法裁判所は日本軍「慰安婦」問題について日韓政府間の認識が異なるので1965年の請求権協定に対する議論が必要とされるが、それに向けての努力をしない不作為は違憲であるとして両国間の協議を注文した。[/ref]が出る前はかなり制限したかたちであったし、判決後も女性家族部が運営する「日本軍慰安婦被害者e-歴史館」事業と白書など、数えるほどしかなかった。少ないながらも研究者を支えてくれていた支援でさえ政府が打ち切ってしまった今、問題解決はおろか、真相糾明に対する意志があるのかさえ疑問である。
このような状況の中で、「慰安婦」問題の研究成果と課題を掘り下げて見ることによって今後の研究と問題解決の方向を見定めることは、喫緊の作業である。はたして日本と合意できるほど両国の問題意識は近いのだろうか。そして韓国政府の歩み寄りによって問題解決は可能なのだろうか。
本稿では、韓国の歴史分野の研究成果を中心に、日韓間の主要争点を明らかにしていく。歴史研究の成果を中心にアプローチする理由は、何よりも歴史研究が事実確認から始まるという点にある。いかなる学問領域でも客観的事実を共有することができれば、論点が明快になり、論争の解消や問題解決に一歩近づくことができるためである。
軍「慰安婦」問題提起と真相糾明作業
1988年、韓国基督教女性団体協議会が主催した国際セミナーで日本軍「慰安婦」問題が初めて社会的に提起された時、公の場に姿を見せた韓国在住の被害者はいなかった。当時は発掘された資料もそれほど多くなく、被害者の呼称も「挺身隊」を使用していた。韓国ではすでに植民地経験と日本から伝えられた情報などから軍「慰安婦」に対する一定のイメージ、すなわち数万人の幼い少女が日本の官憲の直接的な物理力によって動員されたという像がかなり強く構築されていた。
軍「慰安婦」よりも解放直後にメディア[ref]『ソウル新聞』1946年5月12日、『中央新聞』1946年7月18日など。[/ref]に描かれた女子挺身隊という用語が広く使用されてきたこともあり、関連の運動が始まった初期の1990年に組織された韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)も「挺身隊」という用語を冠することになった。しかし、直後の1992年ごろになると歴史的用語として「慰安婦」、その性格としては性奴隷という表現が使用され始めた。
被害者が名乗り出ない中で、挺対協をはじめとする韓国の女性団体は日本政府の責任問題を提起したが、日本の右翼は「慰安婦は公娼」であるとか「民間業者がしたこと」などの発言を続け、日本政府も軍「慰安婦」の動員などに対する官の関与を一切否定した。この過程で日本の態度に怒りを覚えた金学順は、1991年8月、日本軍によってどのような被害にあったのかを公開証言し、以後、多数の被害者が韓国社会で名乗り出た。
被害者の登場によって、関連団体は被害者支援のための法制定運動を繰り広げる一方で、生存している被害者への聞き取り調査を行い記録し始めた。被害の真相を明らかにするという差し迫った要求のなかで1993年に『強制的に連れて行かれた朝鮮人軍慰安婦たち』証言集第1巻(出版社:ハンウル)が刊行された。軍「慰安婦」問題が外国メディアでも報じられて国際的に関心が高まると、中国の武漢などにも被害者が数名生存しているという知らせが韓国に伝えられた。これが中国の未帰還被害者調査につながり、『中国に連れて行かれた朝鮮人軍慰安婦』第1巻(ハンウル、1995年)が出版された。証言集の刊行は今なお続けられている。
こうした被害者の証言は、当時の文書資料がほとんど残されていなかった韓国において貴重な史料であり、被害者の問題を提起し解決するための運動のエネルギー源となった。また、公文書が被害者の経験のディテールを伝えてくれないだけに、被害者の視線でこの問題を見ることを可能にしてくれた。
他方で日本では1992年1月、歴史学者の吉見義明が軍慰安所の設置と「慰安婦」募集などに日本政府が関与したことを示す公文書を公開した。これを受けて政府の関与はなかったと主張していた日本政府は態度を変え、政府レベルの資料調査を開始した。吉見教授が集めた資料をもとに刊行された資料集[ref]吉見義明『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年。[/ref]と、日本政府が1992~93年に調査・公開した公文書が韓国に伝わり、被害者の口述資料とともに文書資料に基づいた歴史研究が進められるようになった。
主要テーマ別研究成果
日本軍「慰安婦」問題は、韓国国内で呼び起こした社会的関心の大きさに比して、歴史研究は手薄である。そんななかで積み上げられてきた成果がないわけではない。時期別に概観してみると、初期には被害者が出現してまもなく行われた集団作業の結果である先述の証言集と、『日本軍「慰安婦」問題の真相』(挺対協真相調査研究委員会編、歴史批評社、1997年)が刊行されている。第二期には「2000年日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷」の設立に関連して『日本軍「慰安婦」問題の責任を問う』(挺対協編、プルピッ、2001年)などが出版され、口述方法論にも進展が見られた。第三期は2011年の憲法裁判所判決後、政府機関の支援で複数の研究者による多様な研究がおこなわれた時期である。現在、政府の支援のほとんどは中断されているが、この時期にまかれた種は研究者の拡大を促した。以下では日本軍「慰安婦」問題を明らかにするときに重要な歴史的テーマおよび日韓間の主要争点を考察していく。
軍「慰安婦」制の樹立と「慰安婦」動員
当初、日本の右翼は日本政府の関与を否定していたが公文書の発見後に立場を変え、日本政府や軍が軍「慰安婦」動員に関与し緊密なつながりを持っていたのは、戦時の特殊状況で「慰安婦」の輸送および保護のためにとった措置に過ぎないのであって、悪徳紹介業者による女性誘拐を警察が調査したという内容の新聞記事を例にとって、警察が軍「慰安婦」の連行を防いだと主張した。さらに、被害者が初めは業者に連れ去られたと言っていたのに後になって警察に連れて行かれたと証言した点などをこと挙げて、口述記録は信じられないと批判した。[ref]秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮選書、1999年、120頁。日本の右翼は歴史事実委員会の名で米紙『ワシントンポスト』に「THE FACTS」(2007.6.14)を、米ニュージャージー州の日刊紙『スターレッジャー(The Star-Ledger)』に「Yes, We remember the facts」(2012.11.4)という意見広告を出したが、それらに彼らの主張の核心を見ることができる。[/ref] 日本の右翼の主張の核心は、「狭い意味での強制連行」の有無であって、これに関する公文書資料はなく、合法的手続きによって女性たちを動員した証拠はあるので、強制連行を証言する被害者の口述は信じることができないというものである。これについては筆者が既に具体的に反駁した論考[ref]拙稿「日本軍「慰安婦」問題関連主要動向と争点」韓国女性政策研究院編『日本軍「慰安婦」被害者問題解決のための総合研究1』韓国女性政策研究院、2015年。[/ref]があるので、ここでは簡単に言及するにとどめておく。
韓国における初期の研究は、日本政府の責任を否定するか低評価しようとする日本の右翼と政府の態度に対応するかたちで、日本の国家責任などを糾明することに焦点を当て、日帝の政策の植民地性と反人道的側面を集中的に取り上げた。論争が集中した朝鮮人軍「慰安婦」動員を初めて扱った鄭鎮星〔チョン・ジンソン〕は、被害者の口述に基づいて分析し、争点である軍「慰安婦」の連行者について、軍・警察・行政職員といった日帝の権力機関の末端を担う者たちの割合が相対的に高かったことを明らかにした。[ref]鄭鎮星「軍慰安婦強制連行に関する研究」『挺身文化研究』通巻73号(1998)、韓国挺身隊問題対策協議会『日本軍「慰安婦」証言・統計資料集』女性部発刊資料集、2001年。[/ref] 最近の研究でも、口述を軸に据えたものは同様の傾向を示す。[ref]ハン・ヘイン「韓国の日本軍「慰安婦」被害者証言の歴史性」、前掲『日本軍「慰安婦」被害者問題解決のための総合研究1』。[/ref] これは口述のもつ特徴、すなわち社会性と可変性が反映された結果であると判断される。
尹明淑〔ユン・ミョンスク〕は、2003年に日本で出版された著書で日本軍「慰安婦」制度の設立背景と運営体系、日本政府と軍の論理、朝鮮人軍「慰安婦」の動員(徴募)背景とそのプロセスを被害者の証言をもとに分析する一方で、日本の戦時体制研究を参照しつつ紹介業者が生み出される過程など、朝鮮女性の動員の様相を具体的に解明した。この研究によって朝鮮半島で軍「慰安婦」が動員されるシステムが詳細に明らかにされた。[ref]韓国語版は尹明淑『朝鮮人軍慰安婦と日本軍慰安所制度』チェ・ミンスン訳、イハク社、2015年。[/ref]
朝鮮総督府や朝鮮にあった日本軍(「朝鮮軍」)など、後方の権力機関が現地の軍といかなる関係を結び、軍「慰安婦」を動員したのかについての分析は、まだそれほど行われていない。河棕文〔ハ・ジョンムン〕は、日本軍の規定に従って軍慰安所が兵站施設化された点と、(準)軍属または軍従属者として扱われていた慰安所業者、軍の「慰安婦」に対する扱い方などを考察した結果、軍慰安所システムが日本国家レベルで樹立・運営されたことを明らかにした。[ref]河棕文「日本軍慰安所体系に対する国家関与の歴史的考察」『韓日間歴史懸案の国際法的再照明』東北ア歴史財団、2009年。[/ref] 最近、金鍾泌〔キム・ジョンピル〕が自身の回顧録で、軍属が女性たちを生産機関に送ってお金を稼げばよいとだまして募集していたのをその目で見たとし、女性の一部は生産機関に配置されただろうが、ほとんどは一線に送られて軍「慰安婦」にされたと断言した。[ref]金鍾泌『金鍾泌証言録1』ワイズベリー、2016年、234-39頁。[/ref] もう少し具体的な状況を明らかにする必要はあるだろうが、中国の武漢や漢口、ミャンマー、インドネシアなど、一線にあった慰安所業者が(準)軍属の地位をもって朝鮮で女性を動員した事例がいくつか発見されており、金鍾泌の証言と類似した状況が実際にもあったであろうと推測できる。そして当時、女性動員と関連して1930年代後半に「巡査が17歳以上の処女を調べて多数の負傷兵に処女の血を注入するために処女を募集して満州方面に連れて行くとか、40歳以下の寡婦と処女を募集して戦場に送り、兵士に慰安を提供して、戦争をしている場に寡婦を連れて行って青樓女郎にする」などの流言飛語が飛び交っていた。これは当時、「慰安婦」を大量に動員する過程で出た話であることに違いない。[ref]拙稿「日本軍「慰安婦」制と朝鮮人女性動員」、前掲『日本軍「慰安婦」被害者問題解決のための総合研究1』、91-98頁。[/ref]
現地の日本軍と朝鮮総督府、「朝鮮軍」はどのように連携して女性たちを動員したのか。これについては特に近年公開された黒竜江省と吉林省の档案館(記録保管所)の資料に注目する必要がある。この資料は関東軍特別演習時期(1941年)に関連したものが多い。日本の関東軍はそもそもこの時期に「慰安婦」2万人を「朝鮮」から動員する計画をもっており、実行過程で朝鮮人業者を媒介に黒竜江省で朝鮮人女性2千人を動員した。吉林省の資料によれば、業者でさえ無差別な動員の仕方に問題を感じていた。[ref]同上。[/ref] 内モンゴル駐屯日本軍は1945年、朝鮮総督府に「慰安婦」募集資金を送っていた。[ref]方善柱「内モンゴル張家口日本軍の慰安婦収入」『挺身隊研究所消息』第30号、韓国挺身隊研究所、2001年。[/ref] ミャンマーには1942年、数百人が四次慰安団として渡ったが、これは南方軍が朝鮮軍司令部の協力を得てなされたものである。安秉直〔アン・ビョンジク〕は、軍慰安所業者の日記を分析して、こうした動員は「広い意味での強制動員」であり、「戦時動員体制の一環」であると評価した。[ref]安秉直翻訳・解題『日本軍慰安所――管理人の日記』イスプ、2013年。[/ref]
このように、日本政府の総体的支援のもとで軍「慰安婦」制が稼働したということはすでに確認されているが、日本の右翼は、朝鮮の場合、「狭い意味での強制連行」を示す公文書がないとして言い逃れてきた。中国やインドネシアなどでは日本軍の「狭い意味での強制連行」がすでに確認されている。それらとは異なり植民地とした朝鮮では、徴用という課題を抱えた日帝が公然と奴隷狩りをするかのごとく軍「慰安婦」を動員することが一般的であっただろうとは考え難い。[ref]徴集の強制性については韓国でも一般社会と研究者の間の認識、そして研究者間での認識のギャップが非常に大きい。[/ref] 日本の右翼の主張どおり国家権力が直接に物理力を行使したケースだけを強制動員とみなせば、国家権力が関連業者や(準)軍属に女性動員を要求し、それに必要な費用を支払って就業詐欺、誘拐、脅迫と欺瞞、人身売買などのかたちで女性を動員したことの不法性については目をつぶることになってしまう。日帝の権力機関が業者をつうじて女性を動員する過程で行われた不法行為には背を向けたまま、組織的連携がなされていない「下っ端」の人身売買業者を検挙したとして免罪符をもらおうとすることは、歴史をきちんと直視しない態度に過ぎない。[ref]前出の拙稿で言及したように、新聞には大規模の人身売買犯に対する法的処罰の資料は発見されていない。さらに国家記録院に所蔵されている日帝期の判決文を確認した結果、軍「慰安婦」として動員された場合に適用可能な国外移送罪で処罰された事例は至極少ない。なかでも「慰安婦」としての移送と直接関連したものは一件に過ぎない。これは、日帝の組織的隠ぺいを反証すると考えられる。[/ref] 日本軍「慰安婦」制は動員現場だけでなく、そのシステムと輸送および軍慰安所の監督・運営、敗戦時の対応など、全般を総じて検討する必要がある。
軍「慰安婦」の生活
日本の右翼は先に言及した米国の新聞広告で、軍「慰安婦」が公娼制度下で行われ、これらに対する処遇などを見ると性奴隷ではなかったと主張した。軍「慰安婦」の生活について加害者の視点からアプローチすることはできるだろうが、それはあくまで被害者の視点が前提されてこそのものである。こうした点から、日本軍出身者の口述および回顧談を分析することで日本軍の意図や個々の軍人の軍「慰安婦」認識などを考察した安姸宣〔アン・ヨンソン〕の研究[ref]安姸宣『性奴隷と兵士づくり』サミン、2003年。[/ref]は非常に重要である。最近、裁判や論争の中心にいる朴裕河〔パク・ユハ〕が扱った軍「慰安婦」問題、とりわけ「慰安婦」と軍人の関係といったテーマは、安姸宣によって既に深く分析されている。
最近、古橋綾〔フルハシ・アヤ〕は「日本の戦争責任資料センター」が収集した回顧録258冊から、日本軍出身者が兵士の性、性処理装置、「慰安所」に関していかなる対応をしていたのかを分析した。[ref]古橋綾「元日本軍軍人の観点からみる日本軍「慰安婦」」、前掲『日本軍「慰安婦」被害者問題解決のための総合研究1』。[/ref] 古橋の論考がとりわけ重要なのは、軍人が言及した内容を単に引き写すのではなく、回顧録が出された時期や当該軍人の軍隊内での位置などを分析的に考察した点にある。被害者か加害者かを問わず口述資料を批判的に扱うことは、史料を扱うさいにとても重要な態度である。[ref]日韓両国で論争を巻き起こした朴裕河の『帝国の慰安婦』(プリとイパリ、2013年)が訴訟にまでなった背景には、著者が被害者の痛みや当時の状況に対する認識もないままに、機械的に資料を利用した点にある。[/ref]
軍「慰安婦」および慰安所研究とともになされるべきは、軍隊史研究である。筆者や河棕文などがこれを試みた例はあるが、[ref]拙稿「日本軍慰安所の地域的分布とその特徴」『日本軍「慰安婦」問題の真相』;河棕文、前掲論文。[/ref] 日本軍事史研究者の層の薄さから有機的結合までには至らなかったなかで、徐民教〔ソ・ミンギョ〕がこの問題を本格的に提起した。[ref]徐民教「中日戦争と日本軍の展開過程」、前掲『日本軍「慰安婦」被害者問題解決のための総合研究1』。[/ref] 軍「慰安婦」および慰安所の状態は地域差が大きく、現場の状況を知るためには現場と密接な戦況と日本軍の動向および移動を把握することが肝要である。今後、さらに活発な研究が期待される。
帰還と未帰還、そして地域および名簿研究
東アジアから太平洋諸島まで拡張された戦域の最も末端でも朝鮮人軍「慰安婦」の存在は確認される。日帝が敗退したのちに連合軍に与えられた重要な課題は、それらの地域の隅々にまで動員された人々をどのように帰還させるのか、であった。動員が長期にわたって行われたのとは違って、帰還は短期間で集中してなされた。帰還状況は地域によってかなり異なるが、日本居住者を除けば1946~47年に集中していた。海外に強制動員されて現地に居住していた一般人の帰還については、国民大学韓国学研究所が相当期間、集中的に扱って基礎資料を作った。[ref]国民大韓国学研究所編『韓人帰還と政策』(全10巻)。これと関連して帰還政策とその状況についての論文もかなり多く発表された。[/ref] しかしそこでは軍「慰安婦」の帰還に関してはそれほど論じられていない。
軍「慰安婦」の帰還を軸に扱った論考としては、初期に門を開いた方善柱〔パン・ソンジュ〕[ref]方善柱「米国資料に現れた韓人「従軍慰安婦」の考察」『国史舘論叢』第37集(1992年)、「日本軍「慰安婦」の帰還――中間報告」、前掲『日本軍「慰安婦」問題の真相』。[/ref]をはじめとして姜英心〔カン・ヨンシム〕、[ref]姜英心「終戦後中国地域「日本軍慰安婦」の行跡と未帰還」『韓国近現代史研究』第40集(2007年)。[/ref]筆者[ref]拙稿「日本軍「慰安婦」制の植民地性研究」、成均館大史学科博士学位論文、2010年。[/ref]などの研究がある。帰還時期の具体的な地域状況を分析したものとして、インドネシアのスマトラ島南部の都市パレンバンの事例を扱った拙稿[ref]「第二次世界大戦期インドネシア・パレンバンに動員された朝鮮人の帰還過程に関する研究」『韓国独立運動史研究』第41集(2012年)。[/ref]が参照に値する。
オランダの植民地だったインドネシア・パレンバンやジャカルタなどの地、そしてイギリスの植民地であり東南アジア陸軍管轄地域の多数の帰還者が集結していたシンガポールには、日本敗戦直後に日本軍に所属していた朝鮮人軍人・軍属・労働者などが多く集まった。この現場は、日本軍、連合軍、現地人のあいだで故郷行きの船を待つにとどまらない、ダイナミックな空間だった。
パレンバンでは旧慰安所とその近辺が集合場所となった。その過程で軍慰安所の業者だった人物がその地域の朝鮮人会の会長になることもあった。中国・上海では軍慰安所業者が韓国婦女共済会会長になり、「慰安婦」を救援したかのように国内外のメディアに誤報されたことがあった。[ref]張碩訓「解放直後上海地域の韓人社会と帰還」(『韓国近現代史研究』第28集、2004年)も上海居住僑胞の孔敦について、婦女共済会会長であり終戦後に軍「慰安婦」被害者を救済した人物としているが、彼は慰安所業者だった。現地の事情を詳細に検討すべきであることを教えてくれる事例である。[/ref] また、パレンバンに集まった朝鮮人のなかには、インドネシア独立闘争にまい進したり、連合軍によって処罰されることを恐れて現地社会に隠れたりした事例も確認されている。[ref]村井吉敬と内海愛子の『赤道に埋められる』(キム・ジョンイク訳、歴史批評社、2012年。日本語原本は『赤道下の朝鮮人叛乱』勁草書房)もジャワ島のこうした状況を扱っている。[/ref] 終戦と帰還のあいだの時期、日本軍は陸軍軍人・軍属名簿である留守名簿に軍「慰安婦」女性を看護婦として記載し、一部の朝鮮人はまた別の主体となって名簿を作った。帰還時期のこうしたダイナミックな状況は、記録と口述資料をつうじてこそ捉えられる。この点で、関連資料を調査・収集した日帝強占下強制動員被害真相究明委員会の研究成果は非常に重要である。[ref]2004年に設置された「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」(強動委)では、軍「慰安婦」のみならず軍人・軍属などにも聞き取りを行っているが、これらは「慰安婦」の女性たちと同じ空間で生活していたため、非常に重要な情報を提供してくれた。強動委の業務は2010年から「対日抗戦期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会」が引き継いだが、これも今年、完全に閉鎖される予定である。これらの委員会が生産した資料は非常に貴重な研究資料であるが、現在、一般公開はされていない。[/ref] 帰還だけでなく、未帰還をめぐる研究も注目すべきである。未帰還問題は、当時被害者たちが晒されていた状況、心理状態、韓国人の関心事がどのあたりにあったのかなどを明らかにするという点で重要であり、また、人権の観点からも必ず掘り下げるべきテーマである。
日本軍「慰安婦」問題が本格的に提起される前の1970年代から、未帰還者として沖縄の裵奉奇〔ペ・ポンギ〕、タイの盧壽福〔ノ・スボク〕の存在が国内に知られていた。しかし単発的な記事で言及されただけで、未帰還問題をきちんと扱うようになったのは軍「慰安婦」問題が本格的に提起された1990年代以降である。軍「慰安婦」に対する関心の広がりに大きく寄与した外国メディアの助力と、各国の活動家の連帯によって、中国の武漢、上海、東北地域などで軍「慰安婦」被害者を探し出したのである。これに加えて2000年以降は韓国政府の支援もあった。こうした未帰還者調査事業との関連で、中国と沖縄で動員被害調査が詳細になされた。[ref]韓国挺身隊研究所編『2002年国外居住日本軍「慰安婦」被害者実態調査』女性部、2002年。[/ref]
軍慰安所の地域的分布に関しては筆者の論考[ref]「日本軍慰安所の地域的分布と特徴」。[/ref]があり、最近、東アジア歴史財団が日本のWAM(Women’s Active Museum on war and peace、女たちの戦争と平和資料館)の協力を得て作った「日本軍慰安書マップ」がある。各国・各地域の被害者と軍人・軍属および住民の口述や回顧録、公文書に基づいて作成されたもので、文献情報も提供されている。[ref]http://www.nahf.or.kr/wianso-map/renewal/index.htm[/ref]
地域調査は「2000年日本軍性奴隷女性戦犯法廷」と未帰還者調査が契機となり、沖縄、中国、太平洋諸島、サハリンなどで行われた。沖縄は朝鮮人軍「慰安婦」および軍属に対する研究が比較的進展している地域である。川田文子が1970年代から80年代にかけて被害者のうち生存していた裵奉奇の聞き書きをまとめた『赤瓦の家』(韓国語版はオ・グニョン訳、クムギョ出版社、2014年)が出版された。韓国では2000年以降に数度にわたる現地調査を実施し、それをまとめた報告書と沖縄の軍「慰安婦」および軍部に対する諸研究[ref]韓国挺身隊研究所編、前掲、2002年;拙稿「日帝末期沖縄・大東諸島の朝鮮人軍「慰安婦」たち」『韓民族運動史研究』第40集(2004年);拙稿「日帝末期朝鮮人軍属動員:沖縄への連行者を中心に」『史林』第23号(2005年)。[/ref]が出されている。こうした関心の中で最近、沖縄各島の軍慰安所に関する住民の記憶を中心に分析した洪玧伸〔ホン・ユンシン〕の博士論文も日本語で出版された。[ref]洪玧伸『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』インパクト出版会、2016年。[/ref] 地域研究は被害者だけを研究するのではなく、その地域に住む人々と地域の歴史を合わせて考察する作業になる。それゆえ、朝鮮半島の片側に閉じ込められた私たちの制限された視野を拡張して歴史に対する理解を広げる助けになる。
帰還および各地域に対する研究とともに見るべきは名簿である。朝鮮人女性(「慰安婦」)名簿が発掘された地域は、沖縄、上海、タイ、ミャンマー、フィリピン、インドネシア、太平洋諸島などである。名簿の発掘と研究は、沖縄とフィリピンに滞在していた朝鮮人女性に対する方善柱の研究[ref]方善柱、前掲。[/ref]によって開始された。インドネシアに関する研究成果[ref]日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会『インドネシア動員女性名簿に関する真相調査』(2009年);拙稿「インドネシア・パレンバンの朝鮮人名簿に見る軍「慰安婦」動員」『地域と歴史』第28集(2011年);拙稿「第二次世界大戦期インドネシアに動員された朝鮮人女性の看護婦編入に関する研究――留守名簿を中心に」『韓日民族問題研究』第20集(2011年)。[/ref]も重要である。インドネシアに関しては、留守名簿をはじめとして朝鮮人が作ったパレンバン朝鮮人会の名簿など、計361名の女性の名を明らかにすることができた。さらにこの地域にいた軍人・軍属・労務者などの資料(手帳や回顧録、民間作成名簿、写真など)も発掘され、軍「慰安婦」研究に大きく寄与した。この地域では、敗戦時に現地にいた軍「慰安婦」を看護婦とすることで、連合軍が進駐する際に軍「慰安婦」の隠ぺいが試みられていた。インドネシアでは軍「慰安婦」が多様な民族で構成されており、軍慰安所のタイプもさまざまであった。とりわけオランダ軍が戦犯裁判を開いたこともあり、日本軍が物理的強制によって現地人を軍「慰安婦」にした具体的事例が文献資料にも残されている。裁判記録から、連合軍の一員だったオランダ軍が軍「慰安婦」制をどのように認識していたのかも見ることができるが、研究はまだ着手されたばかりの段階にある。
名簿は、そのほとんどが帰還と関連付けられて現地で作られた。名簿を、誰が、なぜ、どのように作ったのかを明らかにすることは当時の状況を理解するためには重要なのだが、簡単なことではない。名簿は、作成主体、時期、目的などによって記載内容にもかなりの違いが出る。名簿に軍「慰安婦」被害者であることが確実に言及されていれば事は簡単であるが、たいていはさまざまな状況を考慮して判断せざるをえない。当時の地域状況や作成意図が明確に分からない場合、名簿に記載された女性を軍「慰安婦」と判断するには、かなりの関連資料や傍証史料が必要である。しかしながら名簿は現地にいた女性たち、カミングアウトしていなかったがゆえに見えなかった女性たちの存在をあらわにし、時空間を確定してくれると同時に、各地の「慰安婦」の数を推定する情報にもなるという点で、とても重要である。このほかにも軍「慰安婦」関連用語の変遷、公娼制と軍「慰安婦」制の関連性、軍「慰安婦」制の運営に共謀した企業や、企業「慰安婦」制など、重要なテーマと研究があるが、ここでは紙面の都合上省略する。
今後の課題
2011年に憲法裁判所の判決が出てから、関連研究者の層が厚くなり、昨年12月以降、韓国政府の支援のかなりの部分が打ち切られたことがむしろ契機となって「日本軍「慰安婦」研究会」が新たに立ちあげられ、こぢんまりとした小さな研究会があちこちにできている。
今後、一層の進展が見られればと思われる課題としては、まず、植民地性と民族問題に集中していた研究観点を、ジェンダーや階級といった観点へと押し広げていくことが挙げられる。現在、日本軍「慰安婦」研究がゲットー化されている側面があるが、研究者自身がそういった状況へと自らを追い立てた部分がなくもない。植民地性を明らかにすることに軸足を置きすぎて、軍「慰安婦」の被害者個人の認識、家庭史、慰安所生活、敗戦後の人生などを多角的に分析するまでには至らなかったのである。中国のフェミニスト作家である丁玲の作品を媒介に、戦時期に軍「慰安婦」として動員された華北共産党員出身の被害女性を扱った李宣坭〔イ・ソニ〕の論考[ref]いくつかの論考があるが、近著として『丁玲――中国フェミニズムの旅程』ハンウル、2015年。[/ref]が、私たちを新たな試みへと一歩踏み出させる勇気を与えてくれるのではないかと思う。
第二に、軍「慰安婦」制の運営のための資金の流れを明らかにする必要がある。日本政府から現地軍へ、現地軍から業者などへと流れていったことが部分的に確認されてはいるが、日本軍が軍「慰安婦」制の運営のためにどのような資金を確保し支出していたのか、その資金がどのように循環していたのかについての研究が求められる。
第三に、名簿との関連で地域研究と、軍「慰安婦」の数の推定作業が挙げられる。名簿によって各地にいた軍「慰安婦」の存在を確認できるが、そこからもう一歩進んで、当該地域の日本軍の状況などと合わせみて軍「慰安婦」の数を把握する基礎資料として活用できる。八万から二十万、あるいはそれ以上という初期の私たちの主張では、軍「慰安婦」の規模が二万で日本人がその五分の二を占めていたという日本の右翼の主張に、きちんと対応できない。
第四に、口述に対する理解と分析の作業である。弱者の意見や立場を反映する歴史資料はほとんど残っていないために、これまでも弱者を対象にした研究において口述は大きな比重を占めてきた。初期から軍「慰安婦」の口述に関して多くの議論が展開されており、[ref]韓国挺身隊研究所「座談会:私たちはなぜ証言の採録をしてきたのか」『強制に連れて行かれた朝鮮人慰安婦3』;コ・ヘジョン「日本軍「慰安婦」被害者らの証言を記録して」『実践文学』2001年。[/ref]特に証言集第4巻(『強制的に連れて行かれた朝鮮人軍慰安婦たち』)に携わった者たちは、この本をつくっていく過程での意見交流と経験をもとに、口述の意味、一般人がきちんと聞くことのできない被害者の声をどのように文字化すべきかといった、口述をめぐる議論をかなりのレベルに押しあげた。[ref]梁鉉娥「証言と歴史記述――韓国人「軍慰安婦」のアイデンティティの表象」『社会と歴史』第60号(2001年);キム・スジン「トラウマの表象とオーラルヒストリー――軍慰安婦証言のアポリア」『女性学論集』第30号(2013年)などを参照。[/ref] しかしながら口述は方法論だけではなく、歴史と被害者(環境、意図や心情など)に対する理解の深さが非常に重要なものとして作用する。よい口述採録法と口述者の理解のための議論は、今なお進行中である。
歴史研究は資料の発掘によって大幅に進んだが、この問題において重要な資料所蔵場所が日本であるということ、そして具体的内容を示す資料のかなりの部分が未公開であることが難点である。この問題は、実際、日韓政府の関係が変化する前には解決困難であった。資料発掘と同様に重要なのは、発掘した資料をどのように整理して研究者が共有できるようにするのかであるが、このために国内関係機関はもう少し努力する必要がある。
昨年12月28日、日韓政府の合意がこの問題に対する認識の共有もままならないまま終わってしまったがゆえに、問題解決はおろか不満と誤解、そのほかにもさまざまな問題が発生する充分な余地を残してしまった。日韓間の歴史論争のなかでも軍「慰安婦」問題ほど、大衆に感情的に受け止められている問題は他にないといえるだろう。そうした問題であればこそ、社会メンバーが納得することのできる充分な議論のプロセスが必要である。東アジアの平和と日韓関係の持続的発展のためにも、過去に起こった不幸な出来事を直視し、理解するための議論が拡がっていくべきである。
翻訳: 金友子(きむうぢゃ、立命館大学)