창작과 비평

[特集] リアリティーの再装填―異なる民衆、新しい現実、そして「韓国文学」 / 姜敬錫

2016年 夏号(通卷172号)

 

 

特集_韓国文学、「閉ざされた未来」と闘う

 

 

姜敬錫(カン・ギョンソク) 文学評論家。最近の評論に「批評のロードスはどこか:「近代文学終焉論」から「長編小説論争」まで」などがある。netka@hanmail.net

だが、より立派な時代になるとしても、芸術の表現でもあり、また形式の基盤でもある苦痛を芸術が忘却するのなら、いっそ芸術が初めから無くなったほうが正しいだろう。
―T. W. アドルノ

 

 

「民衆的なるもの」の帰還

 

英語の「ピープル」(people)に当たる韓国語には人間、人のような日常語の外にも、人民や民衆が浮かび、場合によっては住民、市民、国民、大衆を選ぶこともできる。これらの言葉の間にはすでに古くから厚い和集合が形成されているが、含意と強調点、置かれている地平は少しずつ異なる。しかしそれぞれの来歴を持った数多くの「ピープル」らの中でも、今日韓国文学の実像と社会現実との連関を新たな水準で再構成しようとするならば、さらに漸増する社会的不安と政治的無力感に巻き込まれない文学的実践を図る場合ならば、「民衆」という用語または概念の相対的効用性と不可避性に改めて注目せざるを得ないだろう。

国民国家の主権者であり統治の対象としての国民は勿論のこと、権利と責任、資格の問題と結び付けられたりする市民は、多重(multitude)、下位者(subaltern)、少数者(minority)、そして難民(refugee)など、変わった現実を反映する新しい内包と区別されるという点で、使い方が限定的である。ここで没主体的な群衆や消費者としての大衆を論外とすると、まがりなりにも人民が残るが、その内部における人間中心的限界だけでなく分断以後、朝鮮半島の南側の言語生活では事実上捨象された用語だという点が障害である。

それに比べて70~80年代の反独裁抵抗運動によって活性化した「民衆」は、民主化と大衆消費社会の躍進でその勢いを失いはしたが、朝鮮半島の近現代史において内発的に成長した変革主体としての象徴性を相変わらず持つ概念である。ひいては最初から分析的概念ではなかったので、世界至る所で可視性を拡張していっている現実的存在、だから少数者と難民のような「市民性(citizenship)の他者」たちとも相対的に接続が容易である。民主主義社会の政治的主体である「民」と衆生という用例から見るように、生命を持ったすべての存在として「衆」の結合としても把握できる民衆は「その底に人間だけでなく動植物生態系全体と、いわゆるこれまで西洋人たちが「有機物」に対蹠的な「無機物」と呼んできた山脈・岩・空気・水・土・風までも一つとして見る視角」[ref]金芝河、「生命の持ち主である民衆」(1984)、『生命』、ソル、1992、83頁。このような民衆概念は東学を始めとして韓国の近代宗教・思想史ではすでに見慣れたものである。[/ref]まで開くことができて、ピープルとピープルを超えて結ぶ関係を総体的に再現するに有利であるばかりでなく、芸術的想像力の根源に関連しても豊かな暗示を提供する。階級と性別、人種と国籍のどれ一つだけでは説明が不十分となる複数の社会・文化現象を統合的視野で捉える必要があるならば、民衆談論をリブート(reboot)する理由は充分であろう。

従って、ここでは民衆を特定の階級、または「国民、民族、市民の位相を獲得するに失敗した」[ref]キム・ジンホ、「激怒社会と「社会的霊性」」、『社会的霊性:世越号以後にも「生」は可能か』、玄岩社、2014、231頁。民衆神学は「マルコ伝福音書」の用例に従ってこのような存在を「オクロス」(ochlos)と呼んできた。[/ref]人々に限定しない。「国民、民族、市民」も階級と同じく民衆が可視化する局面の一部だと見なすからである。この際の民衆は集合的な覚醒と決断を要請する様々な切っ掛けがない限り、たいてい非可視的な状態に留まるようになるが、そういう点で識別可能なアイデンティティを共有することで維持される、われわれが知っていた「共同体」とは別に存在する。言い換えると、民衆は居住地や階級、または性差などによってアイデンティティと利害関係を異にする単位共同体ではないし、だからといってその中のいくつかの連合で構成されるわけでもなかろう。それは却って共同体または共同体を統御していた規範や制度、コード、アイデンティティの動揺から可視化されると見なしたほうがより適切である。産業社会への再編で農村共同体が早く崩壊していった70年代に民衆概念が本格的に要請された事実や、生産資本主義体制が消費資本主義へと移っていく峠で87年の6月抗争と7・8月労働者大闘争の巨大なる水流が、民衆の名で噴出したことは決して偶然ではなかろう。

だから、よく思われるように当然享受すべき普遍的権利を剥奪された被害者が直ちに民衆ではない。アイデンティティの危機の中で現実の矛盾に傷付けられた者たちが、「他人の苦痛」に感応する能力を通じて、互いを見て取り、手を出して一緒に立ち上がる連帯の瞬間に可視化される存在が取りも直さず民衆なのである。民衆たちの間における連帯ではなくて、逆に連帯とネットワークとして出現する「民衆的なるもの」が今日の歴史的実感に符合する一種の2.0バージョンに当たる。[ref]民衆概念のこのような転換は「民衆はある/ない」といったふうの形而上学的論議や概念定義一般が持つ規範化の拘束から逃れさせてくれる長所がある。[/ref] 私事化した挫折と無力感から逃れようとする個人(集団)たちが社会的苦痛の「プラットホーム」に接続して孤立を克服することによって、集合的解放の可能性を開示し、拡張する運動、まさにその中でこそ始めて「第三者」であることを辞めて、各々「当事者」として参与する民衆は実体化するはずである。例えば、世越号惨事以後、街と広場を埋めた「じっとしていまい」という宣言が明白に見せてくれたように、このような民衆的大転換の動きはすでに現れ始めた。あらゆる社会的手段を掌握した守旧既得権勢力の組織的捏造と幇助、妨害にも関わらず、惨事を巡った真実は次第に顔をさらけ出しつつあり、[ref]バク・レグン、「隠そうとする者が犯人である:世越号特別調査委員会の2次聴聞会に注目する理由」、『創批週刊論評』2016.3.23.。[/ref] 民主化の成果をことごとく無化させようとする緻密な巻き戻し(roll back)戦略[ref]李南周、「守旧の「ロールバック戦略」と市民社会の「大転換」企画」、『創作と批評』2016年春号参照。[/ref]に立ち向かって「有権者革命」に準ずる勝利を収めた去る総選挙の結果も、一定の限界の中でもそのような大転換の明らかな一部であろう。問題は差し当たりの速力や規模ではない転換の方向であり、それを左右する核心はまさに私たちの粘り強さと姿勢にある。

 

可視圏の外の安否[ref]安姫燕の詩「白色空間」から引用した。詩集『君の悲しみが割り込む時』、創批、2015、10頁。[/ref]

 

今日の文学について語ろうとする本稿において民衆概念の含意を再構成する先行手続きが必要であった訳は、先述した民衆的なるものが目の前から全く消え去ったように見える時でさえ、各々の固有な形式でそれを感知可能とたらしめるだけでなく、持続的現在として「生動」させることに文学特有の能力と役割があるからである。連帯と抵抗のエネルギーが噴出する時期は言うまでもなく、それが底流に沈潜したかのように見える困難な時期ほど、その潜在力を発掘し可視化する文学の役割はより大きくなるしかない。文学はこのような力を感応させることによって社会的連帯の資源を生産し、保全し、蓄積する。文学がどこでどういうやり方であれ、今ここの生を荒廃にする苦痛と桎梏に立ち向かって、よりよい「異なる世の中」を作る事業に参与できるならば、その可能性もまた文学が持ったそのような能力から来るだろう。よく言われる文学の政治性や社会性も民衆的なものの存在に対する信頼と、文学の力に対する信頼から離れては空虚な観念に落ちるだけである。最近、初めての詩集を出版した安姫燕(アン・ヒヨン)は文学に対するこのような信頼を次のように簡明に詩化したことがある。

 

しかしわれわれには歌う口があり
門が描ける手がある
恥ずかしさが作る道に沿って
互いを染め合いながら行くことができる

絶壁だといったら閉じ込められている
丘だといったので流れること

遠い後日、染色工は
われわれを思い浮かぶだろう
たまたま彼の頭の中の電球が点く瞬間

彼はゴミ箱を手探りして古くなった失敗を取り出すだろう
自ら滲んでいった図柄
光を含んだ歌を[ref]「ギターは銃、歌は銃弾」5~8聯、上掲書、141頁。宣言し予告する陳述文の連鎖が一見してメッセージの強要として受け入れられる危険がないわけではないが、この詩にはそれを適切に統御する理知的均斉力が共に働いている。宣言し、進んでいこうとする力と、(主観的過剰を警戒する)省察的に掴む力との間における張り切った緊張に負って、この詩の不安であるようで切実なリズムが作られるのである。特に「手がある」「行くことができる」などの宣言が、ある種の不安を通過して辛うじて下された確信の表現だという点に注目する必要がある。[/ref]

 

だが、全地球的資本主義の時代が渡来し、民衆・民族文学運動が懐疑の対象となって以来、文学に対するこのような信頼は持続的に挑戦に直面してきた。韓国社会で連帯の感受性がかなり遺失されたことを守勢的に反映したり、逆らえぬ大勢として既定事実化するあらゆる「終焉論」とその変種が西欧の脱近代理論に接種して出現してきたことは周知の事実である。文学の無力さを訴える多くの言葉は、その主観的善意はどうであれ自分たちが問題とするまさにその危機を加速することに仕えるに決まっているし、実に「異なる世の中」に対する不信を加重させる資本主義論理の踏襲に過ぎない。

歴史の節目ごと噴出して自分の健在を知らせたあの民衆的なるものの存在が厳然であるならば、傍でその潜在力を保存し培養していた韓国文学の動きもまた、一時的後退と停滞はあっても全く中断されたことはなかった。言わば87年体制、分断体制、資本主義世界体制がもたらした「三重の危機」の深化の中で民衆的なるものの可視性が大きくなるほど、文学の場でも現実志向の自意識が増大されていることは至る所で引き続き感知される。守旧保守連合の再執権の時期に触発されて、龍山惨事(2009)以後、より活発に展開された「文学と政治」の論議や、密陽と江汀、雙龍自動車と韓進重工業事態の前で若い詩人・作家たちが見せてくれた直接的な現実参与のみを念頭に置いてする話ではない。変化はずっと内密な地点でも始まった。主に「現実から内面への移行」と評価された「90年代作家」たちが最近むしろそのような変化の流れをはっきりと実感させている点は注目に値する。主人公一家の平均的生を通じて韓国社会の圧縮的近代化過程を以前よりまして大きなスケールで鳥瞰した成碩濟(ソン・ソクゼ)の『透明人間』(創批、2014)や、少年のドンホの死を軸にして光州抗争の民衆的威厳を生々しい現在へと復元した韓江(ハン・ガン)の『少年が来る』(創批、2014)は、「90年代文学」の現実志向的転回を証す明白な成就である。このように韓国現代史の決定的節目を新たに照明して現在化し、その意味を問い直す作業は李起昊(イ・ギホ)の長編『次男たちの世界史』(民音社、2014)とも共鳴するが、「透明人間」、「少年」、「次男」などがすでに「民衆的なるもの」の秀でた象徴であろう。

それに加えて注目すべき現象が言わば往年の民衆文学運動を主導していた作家たちの現場復帰である。『噴火山』(世界、1990)の作家、李仁徽(イ・インフィ)が8年余の沈黙の末に中短編の作業で帰ってきた後、すぐ小説集『廃墟を見る』(実践文学社、2016)を発表したことも驚くべきだが、小説集『私たちの恋は野花のように』(プルビッ、1992)以後、消え去ったと思われていた「金気のように」(1987)の作家、ジョン・ファジンが去年、短編「きょろきょろ見回す」(『黄海文化』2015年秋号)で20余年を超えて文壇に復帰したことは、それ自体が時代転換の小さな兆候として遜色がない。去年、共に新しい詩集を出版して健在を証明したベク・ムサン(『廃墟を引き揚げる』、創批)とキム・ヘザ(『家に行こう』、サムチャン)は、昔も今も「民衆詩」系列の逞しい心張りであるが、[ref]ベク・ムサン、キム・ヘザの最近の詩集については、黄圭官、「羽ばたきと鎖との間で:民衆詩の現在と未来」、『創作と批評』2016年春号を参照。[/ref]彼らが遂行してきたこれまでの奮闘が寂しくなかったことを両作家の復帰が証明してくれたわけでもある。また、世越号惨事に感応した若い詩人・作家たちを主軸にして既存の文学生産制度の外で創作と現場朗読の新しいプラットホームとなった「304朗読会」は、文壇内外の持続的な呼応の中で早くも20回以上の活動を持続することで、文学運動と社会運動の両側面で新鮮な刺激となっている。[ref]これに対する比較的詳しい紹介としては「帰ってこれなかった名を一つ一つ呼んでみる」、『時事IN』、2016.4.16.を参照。本稿の主題と関連して一件を引用しておく。「現場の経験が作家の体を通過しながら、作品にも影響を及ぼした。「その日」以後、書き物の無力さを体感した文人たちが多い。安姫燕詩人もその中の一人である。朗読会に出席して、読み、書き、共有する過程を経験しながら再び書き物ができた。「声で発話され、聞き手がおり、書いた文章が共有されることを目撃しながら、感情的に多くの影響を受けた。私が思ったより書き物はそれほど無力ではないね。語り、聞くべきなのだという自意識が生じた。」」[/ref] 民衆的なものを非可視化する体制の圧力が強くなるほど、今の時代の「透明人間」たちに声と顔を返してあげようとする詩人・作家たちの絶え間ない戦いは、このように世代と出身、ジャンルと文学理念の違いを問わず多様に展開されている。文学の場でも大転換はすでに始まったのではなかろうか。

 

アリスたちの身元

 

だが、誰でも感じているようにこの戦いはいつにもまして複雑な様相を呈する。究極的には先述した「三重の危機」の複合性のためであろうが、それがもたらす社会的感受性、または共通感覚の動揺で今の時代の詩人・作家たちは二重、三重の苦闘に乗り出すしかないこととなった。戦いの困難さはそのままやりこなしながら「未来を図る」新しい実験を持続している韓国文学の現場は、よって解答の是非より問いの懇切さと真実さに一層集中する段階に来ているようだ。そのような作業を最も切実に遂行している作家の一人として黄貞殷(ファン・ジョンウン)を数えることにためらう理由はない。特に彼女の中編『野蛮なアリスさん』(文学ドンネ、2013)は成碩濟の『透明人間』に劣らず「民衆的なるもの」の新たな可視化に意識的な場合である。

『透明人間』が、あまりに多くて区別がつかず、目に付かなくなった平均的存在らに向かい合っているとしたら、『野蛮なアリスさん』は例外的だと言えるほど強烈で特殊な苦痛と不幸を提示することによって、例の可視性の地平を局所的次元で開いて見せている。前者が通時的眺望のもと繰り広げられる時間的形式ならば、後者は「内」、「外」、「再、外」という各章の小題目が暗示するように空間的形式を取っているが、それは作品の主要背景であるコモリを始め、空間や場所に対する叙述的配慮が特に際立つこととして現れる。このことは黄貞殷小説一般の特徴でもある。[ref]これについては、韓基煜、「野蛮な国の黄貞殷さん:その現在性の芸術について」、『創作と批評』2015年春号を参照。[/ref] 平均性という先行観念の制約のために作意が実感に優先するところもなくはない「透明人間」に比べて、[ref]例えば、主人公のキム・マンスが労働運動に巻き込まれる件や、最後になって交通事故で墜落死する場面などからそのような気味がうかがえる。でも、主人公のキム・マンスが一家族だけでなく都市化と産業化、民主化の旅程全体をやりこなした人物にも関わらず、彼の生涯を集合的に築造する多焦点化の方式を取ることによって、過負荷の感じはあまりしないというところにこの作品が与える驚きがある。[/ref] 例外的形象の「アリシア」が持つ長所は何より「透明人間」類が時たま落とす一種の「新しい現実」を捉えるということにある。

 

わが名はアリシア、女装浮浪者として交差点に立っている。
君はどこまで来たか。君を探して頭を傾げてみる。(・・・) アリシアの服装は完璧である。ジャケットと短いスカートで対の紺色の正装を着ており、ハトの胸のように色合いも感触もかわいらしいストッキングを履いた。君は(・・・)不意にアリシアの臭いを嗅ぐこととなるだろう。タバコに火をつけようとする瞬間、コインを探そうとポケットを手探りする途中、息を吸い込む途中、街に落ちた手袋を拾う瞬間、傘をさそうとする瞬間、冗談に笑いながら、ラテを飲みながら、宝くじの番号を照らし合わせながら、バスステーションで何気なく首を巡らしながら、アリシアの体臭を嗅ぐだろう。君は顔をしかめる。不快となるのである。アリシアはこの不快さがかわいらしい。(・・・)アリシアの体臭とアリシアの服装で誰にも奪われえないアリシアを追い求める。(・・・)君の面白さと安寧、平安さにアリシアは関心がない。引き続きそうする。(7~8頁)

 

『野蛮なアリスさん』の導入部である。何度も論じられたようにこの作品は疑問だらけである。1人称なのか3人称なのか混乱を来たすアリシアの存在が一先ずそうであるが、彼がタイトルのアリスさんと同一人物なのかどうかも定かでない。それに「君はどこまで来たか」の「君」は誰なのか。

しかし、考え直してみると、われわれが共有したり共有すると見なすある種の識別体系がこのような疑問を作り出すかも知れないという心証を持つことにもなる。内と外の区分で成された各章のタイトルが「再び、外(再、外)」という意外の区画概念に到達するところからも暗示されるように、アリシアの存在は既成の識別体系を喚起しながら亀裂を刺激する面がある。「女装浮浪者」という説明からそうである。身なりは女性であるが、実際女性ではない場合に付ける修飾が女装だとする際、アリシアが少なくとも通念上の女性ではないという点が明らかとなるが―本文の物語もこのことを裏付ける―女装を性的志向の表現として受け入れる場合は異なることを考える余地もなくはない。従って、彼のアイデンティティや志向はむやみに断定しにくいが、だからといってそのような識別自体の根源的不可能性を主張するようにも見えない。アリシアはおそらくそれ自身が既成の識別体系の産物であると同時に新しい識別体系を要請する存在であろう。

このことからいろんな疑問が解ける余地が生ずる。アリシアの登場は既成の識別体系がもたらしたいろんな現実的存在たちの苦痛をあまねく想起させる。コモリでの暴力のもとで成長したアリシアの生は苦痛という言葉だけをもっては説明が足りない境遇である。従って、既成の識別体系に包摂された共同体と、新たな識別体系を要請する存在との中でどちらが「野蛮」に当たるかは自明となる。断定しにくいが、タイトルの「野蛮なアリスさん」はアリシアと同一な存在ではなかろう。アリシアの立場に立つ時、「君」らは「不思議の国のアリス」のように不慣れで不可解であるだけでなく、野蛮なまでの存在たちという解釈も可能ではなかろうか。アリシアを通り過ぎる数多くの「君」らが停止画面に捉えられた事物のように乾燥に述べられたことからそのような感じは強化される。

そしたら、「君」とアリシアは永遠に互いを排除するしかない関係なのか。そのはずはない。むしろアリシアは君を待ってもいる。「面白さと安寧、平安さ」に包摂された君らの中には、ついに「これを記録するたった一人」となる君も含まれているからである。そして、ここでの「たった一人」が文字通りのたった一人だけではなく、「自分の自分になること」、だから個体性を唯一の識別体系として受け入れた存在を指すのであるならば、「たった一人」としての「君」こそ共同体を統御していた規範やアイデンティティの動揺から可視化する民衆的なるものの優れた形象化であり得る。ここでの記録が何を保存する記録なのかについては長い説明が必要でなかろうが、それにも関わらず疑問が解けない件は「アリシアはこの不快さがかわいらしい」という文の意味である。これを解明するためには一遍の詩を経由するしかなかろう。

「野蛮な」既成の識別体系の暴力性に対する真摯な探索であり、例の「新しい現実」の詩的形象化の事例としては、金炫(キム・ヒョン)の『グローリーホール』(文学と知性社、2014)が注目に値する。いろんな詩編の中でもあるゲイ青少年の失恋談を素材とした「老いたベビーホモ」は、愛に関する少数者的感受性の独特な深さを見せてくれる。それはもちろん既成の識別体系のもとでよく見えなかったりぼやけていた何かである。

 

赤紫色の雨が降る夏の空っぽの教室で初めて感情をしゃぶった。奥歯をかみしめてサッカーシューズをくしゃくしゃに履いた薄黒い感情であった。膝をついた窓外に時間の紙魚は白く起こりかけて。
一列横隊に濡れた運動場を行軍してくるヒキガエルの群れの号令に合わせて、やつは力いっぱい走った。私はやつの輝くドリブルを思い浮かべた。ゴールを入れるたびにファックを言い放ったやつの唇はかなり神秘的であった。唾だらけとなった感情は柔らかくてつるつるであり。
すぐだらだらと流れ落ちた。感情の睾丸を隠し、やつは荒涼としたかわいらしい足蹴で私を蹴飛ばした。ガラス窓の中で時間に蝕まれた私が老いた新婦のように私を私のように眺める時。やつは糞のついたパンツを履いて、いなくなり、美しく。私はベールのようにささやいたよ。さようなら。

そしてやつらを見た人はいないね。誰も。そう、誰も。

アンクルスバーガーのナプキンでホームタウンのケチャップを拭いていた私たちは、なぜ急いで老いたのか。ソーセージカールのかつらをつけて腐ったビールを飲む古い夜、私は知らず知らず歌うよ。カウンターダウンが終わりもしないうちに少年の軌道の外にロケットを打ち上げたやつらのために。さようなら、今もサッカーシューズをくしゃくしゃに履いて赤紫色の夏から逃げているはずのグローリーホールの黄色い出っ歯のホモたちの感情のために。そして乾杯。[ref]この詩に付けられた三つの注釈を除いて本文全体を引用した。[/ref]

 

散文的に書かれているようだが、同じような資質の語尾を繰り返したり、少しずつ順序を取り違えてリズムの単調さを避けながら、全体的に柔らかいものの生々しい現在性の呼吸を作り出している。この詩は一つの完結した後日談で成されているが、物語の内容は痛ましくてならない。ゲイアイデンティティに目覚めた少年の「私」がおり、私が愛する他の少年「やつ」がいる。「雨が降る夏の空っぽの教室で初めて」私は「やつ」の性器を口に咥える。私にとっては明白な愛の行為であったが、やつはなぜか「奥歯をかみしめて」いる。そこには思春期的アイデンティティの動揺と混乱があり、禁忌に対する恐怖と共に未知への息が切れる衝動が同居している。このはらはらする緊張と熱気の時間を次第に食い荒らしてくるように、ガラス窓はぼやけ、ようやくその刹那の末にやつの「荒涼としたかわいらしい足蹴」ですべては終る。

ところですでに「私はベールのようにささやいたよ。さようなら。」という文が語っているように、私は自分を結婚式場に一人で取り残された悲運の新婦のように想像しながらも、侮蔑に陥らず、「やつ」の美しさを再び肯定するところにまで及ぶが、それはもしかしたら私を捨てて去った「やつ」と共に惨めに捨てられた「私」自身にさえ「さようなら」を告げることで可能となったことであろう。それは『野蛮なアリスさん』のアリシアが自分の体臭を嗅いで不快となったあまり顔をしかめる「君」らに対して、「この不快さがかわいらしい」と語る脈絡とそれほど離れていないようだ。それはアリシアと「私」が「君」または「やつ」がずっと属していることを望む世界の「面白さと安寧、平安さ」に距離を置くしかない存在たちだからである。愛が既成の識別体系の支配から脱していると、愛の失敗が与える挫折や侮蔑感も全く異なる形を帯びるしかないのである。もう一度問わざるを得ない。「やつ」が逃げて入っていった世界と、「私」が老いた新婦のように待っている「赤紫色の夏」、両方の中でどちらが「野蛮」なのか。従って、理解と許しの「赤紫色の雨」[ref]思うに先日亡くなったアメリカの歌手、プリンスの名曲「Purple Rain」から来たモチーフであろう。「赤紫色の雨は我々皆を許し、浄化してくれる洗礼の水だ。」トゥーレ、「歌手のプリンスの「聖なる欲望」」、『中央日報』2016.5.4.参照。[/ref]に始まって「今もサッカーシューズをくしゃくしゃに履いて、赤紫色の夏から逃げているはずのグローリーホールの黄色い出っ歯のホモたちの感情のために」祝福の乾杯をしながら終るこの詩は、エロスと霊性を共に含んだ「新しい感受性」の発現であると共に、例の「民衆的なるもの」の生成に寄与するもう一つの事例として遜色がないだろう。

 

労働文学と労働文学以後

 

黄貞殷の小説と金炫の詩が語る愛は「新しい現実」を可視化し、牽引する力を内蔵しているが、「君はどこまで来たか」という問いを繰り返したり、「私は知らず知らず歌うよ」と告白するしかなかったように、当面した「古い現実」の重力は相変わらず手強い。もしかしたらこの重力に対する尊重を失わなかったという点が彼らの成就をより輝かせているかも知れない。ところでこのように「古い現実」から一歩外れたまま自らが質問となることによってそこに亀裂を生じさせる方式もあるが、「古い現実」の古さそのものとほとんど何の媒介なしに対決することもいくらでも可能であろう。そういう意味で労働文学の範疇に属する李仁徽の小説集『廃墟を見る』は耳目を集める。この小説集にはそれぞれ5編の短編が載せられているが、問題意識の現在性と成就度の側面で一先ず目に付く作品は「工場の光」と「廃墟を見る」である。前者については一回の解明を試みたことがあるので、[ref]姜敬錫、「モダニズムの残骸:ジョン・ジドンと李仁徽を重ねて読む」、『文学と社会』2015年秋号参照。[/ref] ここでは後者に集中したい。

「廃墟を見る」はIMF外国為替危機事態で触発された現代自動車労組のリストラ反対闘争(1998)を素材の基にして、その上に闘争の記憶を共有した虚構的人物たちの人生流伝を築き上げた一種の後日談小説である。作品はある農村地域の小規模冷凍食品工場に通う人物、ジョンヒが蔚山の巨大な自動車工場の煙突に上る場面から始まる。夫に死に別れ、一人で子どもを育てながら生きていく田舎村の非正規職労働者であるジョンヒは、なぜその煙突に上らざるを得なかったか。

ジョンヒの夫、イ・ヘミンは87年の労働者大闘争以来、民主労組の建設に献身してきた硬骨の労働運動家であったが、98年のリストラ反対闘争が会社側の構造調整案の一部を受容する委員長職権調印で事実上敗北に至ると、「自動車工場の労働運動は死んだと宣言するように」(308頁)そこを立ち去った人物である。過去、彼の信念に感心して民主労組運動に飛び込んだやくざ出身のチルソンが自ら死を選び、引き続きイ・ヘミンもまた、闘病の末に死を迎えることとなるが、事実ジョンヒの発心は夫の挫折や死を通じてではなく、その後冷凍食品工場で直接かち合った解雇の脅威による。ジョンヒはその時になってはじめてヘミンを襲った幻滅の正体と対面することとなったのである。

この作品が素材を取った現代自動車労組の98年闘争が、韓国の労働運動史における大きな分岐となったことは広く知られている。90年代に入ってすでに市民運動への分化が起こり、各種の少数者運動が頭角を現し始めたが、全体民衆運動を牽引していた労働運動の象徴性だけはすでに現れ始めた内実の危機にも関わらず、健在であったと見なせる。これを主導したのが大工場の組織労働であったことは勿論であり、98年の妥協以後、正規職、非正規職労働の急速な分化と共に全体労働運動の下降と孤立が本格化したのである。まさにこの瀬戸際に食い込んでいった労働文学がほとんど目に付かなかった事実こそ、一種のアイロニーであるが、労働文学の衰退が労働運動のそれよりずっと先立ったわけだ。もちろんその原因を解明する作業は本稿では成し得ない。だが、87年以後、消費資本主義の早い定着で労働者階層の「新中産層」化のような一種の階級分化現象が持続されたし、それによって階級感受性そのものにも大きな変化がもたらされたことは充分考慮すべきであろう。

それは現場の労働運動が合法化、制度化されること以上に根源的な水準の変化であるが、文学はまさにその根源に関わるからである。作品は結末に至って導入部の煙突場面に戻ってくる。もちろんそこでジョンヒが目撃することは「資本の世界で生まれて資本が教えた世の中だけを見て」(318頁)死ぬしかない、一つの巨大な廃墟である。

 

ちりのような希望でも掴みたくて煙突に上ったが、荒廃となってしまった人間の生が目に溢れた。ジョンヒは絶望で崩れ落ちる心をどうすることもできず後じさりした。そうすると、蜃気楼のように障壁は無くなり、広々とした草原が垣根の外に広く繰り広げられた。まばゆい日ざし、高く澄み切った空、木と森が生命の気運を上らせた。あらゆる生命体たちが自由に走り飛び交いながら平和であった。しかし垣根の中の人々は垣根の外に出ようとしなかった。彼らは自分の生が垣根の中にあると信じながら、力んで生存のために足掻いていた。(319頁)

 

引用から見るようにこの作品で工場は真正な生と生命の発現を遮る制約の象徴として登場するが、逆説的に生と生命の気運が最も生動感あふれて咲く所でもある。特にホットドッグとジャガイモ餅を作る共同作業の場面(273~74頁)が代表的であるが、ここには肉体労働の反復がもたらしてきた苦痛のみでなく、協業と分業を通じた同僚たちの間における連帯感や労働自体が与えてくれる生のリズムのようなものが滲んでいる。これは先述した古い現実に属していながらそうでもない要素である。それに比べて引用文に登場する「蜃気楼のように広々とした草原」はまだ漠然であるが、それは登場人物たちに与えられた苦痛の根源であった98年闘争の当時を単純に片付けたことから来る予告された欠陥であろう。生と労働自体が与える体験的活気を珍しい直接性で伝えているこの作品は、素材を選択する問題意識やそれをやりこなそうとする真正性の面ではっきりと輝くが、また一方では韓国社会の民衆的感受性に差し迫ってき始めたより大きな変化に無心である。なので冷凍食品工場のもう一つの同僚たちであろう移住労働者たちには顔と名がなく、女性登場人物たちは相変わらず男性中心的視角に捕らえられている。何が本当の現実なのか、どれがより「リアル」かという問いをここで向かい合うことは難しいだろうか。

 

リアリティー:世界を引揚げること

 

これまで「実感」や「現実」という言葉でやかましくて厄介なリアリティー(reality)概念を遠回しに述べてきた。「民衆的なるもの」の存在が永久に消えうせたかのように見える時でさえ、各々の固有な形式でそれを感知可能とたらしめるだけでなく、持続的現在として「生動」させることに文学の固有な役割と力があるとする際、感知可能性と生動性の源泉であるリアリティーはもしかしたら最も重要な概念である。事実、あるがままの生意外の他なる意味ではないはずのこの概念は、理論的なり哲学的に入り込むほど泥沼に陥れる側面がある。通常的な意味で卑近な感じを与える事実的に本物であるようなもの(the verisimilar)とリアリティーがどのように重なり、分かれるかからが複雑な問題でありうるからだ。一応は前者が細部の真実性やそれらしさ(蓋然性)とあまねく関わった概念であるならば、リアリティーは総体性たまは総体的真実性と連結された概念だと言えるが、総体的真実を具現することにおいても事実的に本物であるようなものの重要性は改めて強調する必要がないだけ、両者は初めから互いに組み、組まれる習合関係だといったほうがいいかも知れない。

だが、われわれが文学作品のリアリティーを弁えようとする際、優先的に考慮すべき事項が当面の現実に対する尊重の介在の可否であることだけは明白のようだ。もちろんその尊重とは無批判的受容とか投降ではなくて、先に黄貞殷、金炫の事例で見てみたような「愛」に近い何かであり、「資本の世界で生まれて資本が教えた世の中だけを見て死ぬ」生の外を夢見るある労働小説家のそれでもあろう。こうしてリアリティーは作品評価の主な基準であるだけでなく、さらには当面の目標でもあり得る。先述したように「民衆的なるものの帰還」がすでに始まったことならば、韓国文学がリアリティーの問題により意識的で積極的になるべき必要性はすでに充分である。

リアリティーと向かい合うということは苦痛と向かい合うという意味である。文学に与えられた使命は、いつも現実的苦痛の単純な解消にあるというよりは、その苦痛の局面を生々しい現在の体験として持続させることにあった。これまでとは異なる生、「異なる世の中」を開く力がまさにそこから出るのであるし、まさにそれが本稿で述べる「民衆的なるもの」の要諦でもある。「異なる世の中」に対する信頼は、その世の中が如何なる誤謬のない世の中だという盲信から来るのではなく、そのような誤謬までも現実の厳然たる一部として毅然としてやりこなせるし、また克服していけるという自信感から来るだろう。一切の無気力と諦念、そして冷笑と嫌悪は投降の事前手続きに過ぎない。見えない所へ沈みつつある、われわれが当然引揚げるべき世界が常にここにある。

 

翻訳: 辛承模