창작과 비평

[卷頭言] 「87年体制の克服」は「変革的中道」をもって

2016年 夏号(通卷172号)

 

 

野党側が分裂した状態でねじれ状態の「与小野大」という結果を生み出した今年4月の総選挙の結果は多くの人を驚かせた。「有権者革命」という表現が登場したほどであるが、朴槿恵政権の「漸進クーデター」企図に大きな打撃を与えたことだけでも、今回の総選挙の政治的成果はとても大きい。

朴槿恵政権の下で民主主義の進展に対する守旧保守からの反撃、巻き戻し(roll back)戦略は民主的ガバナンスの土台を崩壊させる局面へ発展した。これは、守旧保守の安定的覇権の構築を目標とした政治企画であった。歴史教科書の国定化推進、与党内の親政体制の構築、議会の無力化、開城工業団地の閉鎖等がすべてその企画の一環であった。筆者は総選挙の前、これを「漸進クーデター」と規定したことがあるが、朴槿恵政権にとって4月の総選挙は昨年の下半期から強まったこの企画を確固たるものにすることができる重要な機会であったのである。幸いなことに総選挙で政府与党が敗北し、彼らの企図に急ブレーキがかかった。政局の主導権が野党側に移ったと断定することはできないが、政府与党の一方通行式の国政運営は難しくなった。

この劇的な変化は、「87年体制」で進展した民主主義の抵抗力が決して弱くないことを改めて確認できるものである。野党が野党としての役割を果たせてない状況の中でこのような成果を達成したという点でより大きな実感が沸いてくる。今回の総選挙はその勢いを基盤にして、87年体制を安定的で持続可能な生活を保障することのできる新しい体制へ転換させる宿題を民主改革勢力に投げかけた。まさにこの点が大事であるが、国民がねじれ国会をつくってくれたのは、いまは生命力がほとんど消尽された87年体制を改良して、その中で野党の力をもう少し育ててほしいという意味では決してない。

この宿題を成功させるためには、なぜ87年体制が末期的現象を見せたのかというところから省察しなければならない。総選挙以後政治界でも87年体制の克服という話頭がすでに提起されている。来年が6月抗争30周年という点で、その論議が今後さらに活発に進められる可能性が高い。ところが、現在の状況をみると、それは87年憲法、その中でも権力構造の問題に主に焦点を当てたかつての論難を繰り返すおそれが大きい。このような方法では87年体制を乗り越えられる道は見つけがたい。

87年体制の限界は、これまで行われた韓国社会の改革運動が分断体制の克服及び朝鮮半島レベルの総体的改革とつながっていないところから生じたものである。それによって民主的ガバナンスに対する守旧保守による反撃がかなり成功できる政治的、社会的環境がそのまま残された。そして、民主改革勢力も体制転換という大局的観点を忘れ、個別改革課題の実現にのみ没頭したり、分断体制という現実を考慮しないまま、西欧の「進歩モデル」を改革方案として掲げることによって、変革的エネルギーは漸次分散され、弱まった。それによって、守旧保守による民主的ガバナンスへの反撃がより容易く試みられた。その中で、87年体制の末期的現象が全面に現れ始めた。

守旧保守による巻き戻しの試みは今も続いている。彼らにとって議会権力は多くの拠点の一つにすぎず、国政院、検察、警察、国税庁等行政部内の特殊権力機関の他にも言論、宗教、学界の既得権勢力も依然として動員することができるからである。それゆえ、戦術的柔軟性を見せるかもしれないが、分断体制の既得権を維持して強化するための模索は続くであろう。朴槿恵大統領が今回の総選挙の結果を国会に対する審判と規定し、歴史教科書の国定化を行い続けるという意志を表明したのは、「戦術的柔軟性」レベルでも問題になるはずだが、それはともかく北朝鮮との対決構図を強める方法で自身にとって不利な政治雰囲気を変えようとする試みもすでに始まった。

もっと大きな問題は、議会で多数を占める野党側の政党がこのような企図を粉砕し、87年体制の克服及び大転換を実現するビジョンや能力を持っているかである。一旦政権交代と受権が現在の野党側の主要な話頭として登場したのはある程度意味がある。ここ数年間野党内の主要政派または派閥が受権より政治的既得権に関心があるような印象を与えたからである。しかし、政権交代は決して最終目標になれず、韓国社会を変革させるための手段としてとらえなければならない。政権交代を通じてどのような社会をつくるか、87年体制をどのように克服するか等に対する社会的合意をつくり出せた時、行政部の交代が韓国社会の大転換へとつながることも可能になる。

これと関連して、総選挙の前後に野党側で中道論、中道改革論、合理的改革論等が提起されたことに注目する必要がある。硬直した理念的枠や尺度ではなく、韓国の現実に合い、社会構成員の多数を説得できる改革論が必要であるということにある程度共感する雰囲気がつくられているようにみられる。ところが、現実における中道は既得権間の折衷に転落し、体制の克服より体制に安住する政権交代を目標としており、運動性から遠ざかるおそれも大きい。総選挙の過程において、北朝鮮が4次核実験を行ったことに対する政府の無能力や無責任をきちんと追及できず、太陽政策の修正云々する態度や、野党自らがいわゆる「運動圏」に対する否定的認識を拡散させることに熱心だった動きがそのような危惧を加重させる。かつて韓国社会の主な改革が社会的運動のバックアップ無しに行われた例があるだろうか。派閥政治や一部の不適切な行動が国民に失望感を与えたことは事実であるが、それはむしろ真の運動性の喪失、さらに社会運動そのものの退潮と関連づけて批判すべき問題である。それを運動圏の問題として規定するのは飛躍であり、適当な折衷に中道を活用しようとする政治的意図を表すことである。

本誌が一貫して「変革的」中道を提起した理由がまさにここにある。変革的中道は、韓国社会の置かれた客観的状況が中道と変革とが結合できる機会を提供するというところに着眼する。分断体制がそれである。分断体制の克服は韓国社会の改革にのみ視野を限定する時よりはいっそう多様で、幅広い勢力が力を合わせることを求めるという点において、中道的道を歩むべきであり、分断体制の克服過程は前より良い社会を朝鮮半島全域にわたって建設しようとするという点で変革的である。南北間の緊張が高まっている今、分断体制の克服が空虚なスローガンのように見えるかもしれない。ところが、それは分断体制がいつよりも激しく動揺しており、これ以上安定的に維持されることは難しいというシグナルとして見た方がより妥当である。この現実を度外視したり、さらには守旧保守のニーズに合わせたりするやり方では87年体制を克服する動力をつくれるどころか、すでに末期的兆候を見せている87年体制の維持も難しい。分断体制の克服と韓国社会の改革をつなげる大転換が87年体制克服の方向にならなければならない。

このような課題を解決するためには何よりも野党側の換骨奪胎が切実である。「共に民主党」は派閥論難から依然として抜け出していない。「親盧(盧武鉉)」または「親文(文在寅)」という区分法は他の政治勢力が自身の政治的利益のためにつくり出したフレームだという主張もある。しかし、党内の中心勢力が政権交代、さらに韓国社会における大転換の実現より特定の人を大統領の候補として固めることに関心がより多いような印象を与えたのは事実である。これは、総選挙で政党支持率が3位に止まった主な原因である。院内第一党になった共に民主党は大局的態度で野党側の多様なアイディアと人物が競争し、新しい可能性を模索する場づくりにおいて先頭に立たなければならない。それができてこそ、野党側の中心勢力としての役割を続けることができる。

「国民の党」は反射的利益によって第三党の位置を占めたが、韓国社会の大転換という課題を遂行する準備ができたとは言い難い。有権者が現在の三者構図をつくり出したのは、遅々として進まない野党側を韓国社会の大転換に必要な課題を解決できる勢力として再誕生させたいからである。国民の党がこのようなニーズに応えられず、反射的利益によってつくられた三者構図や共に民主党とセヌリ党の間の中間政党としての位置にのみ頼ると、かつての第三党または第四党の運命から抜け出すことは難しくなる。最後に、総選挙で7%の政党支持率を記録した「正義党」は、有意味で新しい政治的可能性をつくるのにことにおおいて依然として重要な役割を果たすことができる。ただし、今回の総選挙において見せた動きには残念なところもある。共に民主党と国民の党が中道を主張した時、彼らの中道にどのような限界があるのかを気付かせて、それを変革的方向へ導く正義党の役割が必要であった。しかし、選挙連合党の政治工学に力を注ぎ、正義党自身の政治的存在理由を見せつけることにおいてはあまり成功していない。正義党には今後小さな政治的利益を越えて、韓国社会の大転換において先頭に立つ動きを見せてほしい。

市民社会の役割も相変わらう重要である。市民社会は、韓国社会における大転換のためのビジョンを生産し、政治圏が狭い利害関係を越えて真の変化の道を歩むように牽引できる潜在力を持っている。それを発揮するためには、自足的で慣性的活動を一貫したり、政派的な偏向に閉じこもる方法で統合や連合を主張するなど、今回の総選挙の過程で見せた動きから脱し、国民の賢明な選択を信頼することによって、大転換に対するビジョンを立てることができなければならない。国民が87年体制の末期的現象の根源に気付き始めている今こそ、政治圏や市民社会が変革的中道の精神によって大転換企画を積極的に進めるべき時である。国民がせっかくつくってくれたチャンスを二度と逃さないための皆の新しい覚悟と格別な努力が求められる。

今号の特輯は、「韓国文学、『閉ざされた未来』と戦う」というテーマを掲げる。昨今の厳しい現実はいかなる未来の生活も期待しがたいほど展望が暗くて固く閉ざされているようである。韓国文学も全般的にそれを反映するかのように、なかなか希望の根拠を見出せていないが、その中を覗き込んでみると、困難な現在の生活を耐えながら、未来に至る門を閉じようとしない芸術的奮闘が行われていることを感知することができる。特輯に組まれた論文は、今日の韓国文学が厳酷な民衆の現実にもかかわらず、その中で新たな可能性を探し求める難しい課題にどのように取り組んでいるかを多様な方法で論じる。

姜敬錫は、前号の黄圭官の論議に続き、民衆文学論を再び検討する。「異なる世界」を念願する熱望と連帯を潜在的に持つ今日の人々を指す名称として再び「民衆」が的確となりつつあることを指摘し、民衆性やリアリティ問題を中心に今日の文学現場を幅広く点検する一方、韓国文学がどのように「未来を図って」行くべきかを熟考する。ハン・ヨンインは、暗い現実の中で不安な生活に耐えることの意味を趙海珍とユン・ゴウンの小説を通じて細心に考察する。資本の論理に包囲・包摂された無気力な人間を扱っている彼らの作品は、今日の生活のある底辺を正直に見せることによって、無駄な期待のない生活のスタートを可能にさせると力説する。

ヤン・ギョンオンは、最近詩が無気力だという評価を再考しながら、近作の詩がどのように政治的な力量を発揮しながら、現実と向き合っているのか、そしてどのように展望を準備しているのかを検討する。ファン・インチャンとイム・ソラ、チョン・ハナとチョン・ムニョンの作品分析を通じて同時代の詩を「改めて」政治的に読むためにどのような姿勢が必要なのかを探る。ソ・ヨンヒョンは、ヘル(Hell)/脱朝鮮論が持つ矛盾的地点、隠蔽された部分について言及しながら、なぜそのような矛盾が露出されざるを得ないのかを分析する。最近注目されているチャン・ガンミョンとパク・ミンジョン等の若手小説家の作品に対する鋭い分析が目を引く。

「文学評論」では『菜食主義者(ベジタリアン)』でブッカー国際賞を受賞した韓江の主要作品をシン・セッピョルが「植物的主体性」と「身を引く感覚」を要諦として精読する。韓江の熾烈な作品も「閉ざされた未来」と戦う奮闘の現場であることが明らかとなる。歴史学者のト・ジンスンは李陸史の後期主要作であり、かつ代表的な抗日詩である「広野」を分析した論文を寄せてくれた。李陸史の現在的意味を反芻すると同時に、歴史学者の観点から文学作品を検討する新しい視点が興味深い。

「創作」欄も豊富である。まず前号に引き続き、キム・ジョンファンからチョ・ギゾまで韓国詩壇を代表する詩人25人の新作詩を載せた。「小説」欄ではチョ・ガプサン、チョン・ミギョン、パク・サラン、クォン・ヨソンがそれぞれ個性あふれる作品世界を披露する。とくに、チョ・ガプサンの短編は現在の歴史国定教科書と関連して熟考すべき事案を投げかけており、クォン・ヨソンの中編は殺人事件をめぐる真実の問題を深く取り扱う。

「文学フォーカス」では白智延、金素延がキム・ヨンチャン評論家と一緒にセウォル号関連の記録文学をはじめ、近作の詩集と小説を検討した。韓国文学において新しい活力の契機を探し求める参加者の熱誠がところどころに見られる。「作家スポットライト」では詩人のパク・ソランが今年の初め『私は韓国人ではない』を発表した「街の詩人」のソン・ギョンドンに会い、彼の詳細なストーリと文学に対する様々な考えを伺った。

「対話」は、本誌の連続企画「韓国の『保守勢力』を診断する」の二回目のテーマとして韓国の軍隊を取り扱う。20代国会で注目されている新人議員のキム・ゾンデ当選者、豊富な軍経験をもつヨ・ソクチュ元国政状況室情勢分析担当、平和運動を活発に展開しているイ・テホ参与連帯政策委員長が軍の人権、国防不正、軍に対する民主的統制など、韓国の軍隊が露呈した問題を診断し、改革方策について議論する。

「論壇」において韓洪九は、異なる位置で韓国現代史に著しい足跡を残した金鍾泌、李鍾賛、任在慶の回顧録をまとめて評する。歴史の現場を生々しい声を通じて伝える回顧録を綿密に検討し、その中に盛り込まれた重要な争点を明らかにした論文である。姜貞淑は日本軍「慰安婦」という難しい歴史的宿題を解決するのに、韓国の歴史研究がどのように寄与してきたのか、今後どのような役割を果たすべきかを検討する。

「現場」欄では、まず連続企画「少数者の目で韓国社会を見る」をヤン・ヘウが移住者問題で担当した。移住者関連法の制定がまた新たな分割や排除をもたらした現実を喚起させながら、国民国家の中に閉ざされた市民権の概念を乗り越えなければならないと主張する。チョン・ヒョンゴンは市民政治の視点から今回の総選挙の成果と限界を評価し、今後の課題を論じる。選挙結果が再び政党によってのみ占有される現実を乗り越えるための模索が必要だと強調する。

久しぶりに再開した「散文」欄では、人権運動家のミリュが、セウォル号惨事対策活動過程において対話と連帯の可能性を求めていく過程を淡々と述べる。決して忘れてはならず、中断されてもいけない戦いを耐えていく現場の記録でもある。これからも生活と運動の現場を新たな感覚で紹介できる論文で散文欄を構成する予定である。「寸評」は相変わらず読者にとって楽しい読書のための手引きとしての役割を果たしているだけではなく、寸評そのものも素晴らしい読み物である。そして「読者の声」は前号のように「創批へのお願い」インタビューでつくってみた。長い間創批を読んできた活動家や学者からの愛情のこもった助言と厳しい指摘を改めて受け止める契機となった。

韓江のブッカー国際賞受賞に加え、読者の皆様とともにお祝いしたいお知らせをもう一つお伝えする。本誌創刊50周年を記念する長編小説賞にクム・テヒョンの『マンゴースクエア』が当選された。晩学の新人小説家のデビューをお祝いし、良い作品を期待する。

創刊50周年記念号である前号に対して読者の皆様から熱い反応をいただいた。このような支持にお応えできる道は、春号の巻頭言で約束した多くのことを誠実に実践していくことだと考える。今号もそのような姿勢で準備した。今後もご声援ご鞭撻を贈りますようお願い申し上げる。新しい編集陣は常に開かれた姿勢で読者の皆様のご意見に耳を傾けていきたい。

 

 李南周

 

翻訳: 李正連(イ・ジョンヨン)