창작과 비평

[特集] グローバル的資本主義に挑戦する教育改革の道 / 金鍾曄

2016年 秋号(通卷173号)

 

特輯_危機の資本主義、転換の契機

 

金鍾曄(キム・ゾンヨップ) 韓神大学社会学科教授。著書に『笑いの解釈学』『連帯と熱狂』『時代遺憾』『エミール・デュルケームのために』『左衝右突』、編著に『87年体制論』等がある。

 

 

1

私たちは現在を生きるが、過去は経験を通じて、未来は期待を媒介にして現在に染み込んでくる。現在は経験と期待が交差する瞬間なのである。経験と期待は相互を条件付けるが、二つの間には間隙が存在する。もし経験が期待を完全に決めるというなら、未来は閉ざされたものになり、その場合、生活は倦怠の持続または出口のない地獄になるであろう[ref]ラインハルト・コゼレック『過ぎ去った未来』、ハン・チョル訳、文学ドンネ、1998、391頁。[/ref]。反対に未来があまりにも開放的で経験から何の期待も導きだすことができなければ、私たちは不安に陥るであろう。したがって、経験と期待が隙間なく結束された状態や何ら連携もなく分離された状態は良い生活の条件とはいえない。

経験と期待というセット(組)概念で韓国社会を眺めると、一時は経験と期待が発展主義プロジェクトを通じて適切に連携されたが、その潜在力はもう消尽された。ところが、経験と期待を連携する新しい集合的プロジェクトは形成されなかった。その結果、いま私たちは経験-期待関係の崩壊状況にいるという感じと、経験と期待が間隙なく縫い合わせられた状況を同時に体験している[ref]拙稿「分断体制と87年体制の交差点で」『創作と批評』2013秋号、478-84頁参照。[/ref]。例えば、専門職と直接関係のあるいくつかの学科を除けば、大学は就労に関して何も保障しない。いわゆる「名門」大学の学生は期待水準も高く、それが故に挫折可能性も高いが、いま彼らさえ感じる深刻な不安は高い期待水準のためだけではない[ref]「ソウル大学経済学部を卒業しても…現実は『3年目の就労準備生』」『韓国経済新聞』2016.1.16参照。[/ref]。広く膾炙された「3放」または「5放」世代は、経験と期待の連携が弱くなった時代に期待縮小としての反応を見せる。このような経験-期待関係の崩壊はその逆の形態、すなわち経験と期待の隙間のない結合で体験されたりもする。5放世代論の次に登場した「匙(スプーン)階級論」がその例である。経験が期待を完全に決定し、家計の水準が個人の未来を決定するということである。一緒に登場した「ヘル(Hell)朝鮮」という言葉はこのような状況に対する憤怒の情緒を凝縮している。

事態がなぜこのように進められたかに対してさまざまな議論がある。ある人は「アルファ碁」のような革新的技術による人間労働の追放を論じ[ref]ランドル・コリンズ「中間階級労働の終末:もう出口はない」イマニュエル・ウォーラーステイン『資本主義は未来があるか』ソン・ベギョン訳、創批、2014参照。[/ref]、ある人は出産力の低下や期待寿命の延長による人口の高齢化を取り上げる。そして、ある人は過去30余年間世界的に進められた新自由主義的反動を論じる。このような分析には一定の妥当性があるものの、韓国社会の現状には正確に当てはまらないようにみえる。機械による人間労働の対峙という資本主義体制の恒常的傾向が新たな水準に高度化される局面に近付いているものの、いまの状況を十分に説明してはいない。先進国全般の人口構造が高齢化しており、韓国の場合、その過程を他のどの国よりも圧縮的に経験しているのが事実である。ところが、それによる深刻な問題も差し迫ることではあるものの、現在の状況を解明するには十分ではない。3つ目の論議が比較的現在をよく説明するが、韓国の状況に当てはめると、より多くの要因を一緒に検討しなければ十分な説得力を持つことは難しい[ref]例えば、ヴォルフガング・シュトレークがそうである。彼は新自由主義的反動の重要な結果が「負債国家」と主張する。この主張はとても説得力があるが、いざ韓国の状況に適用しようとすると、それほど簡単ではない。例えば、韓国の財政赤字はOECD諸国に比べてまだ低い水準であり、韓国の場合、財政赤字より外貨準備高がもっと重要な問題である。ヴォルフガング・シュトレーク『時間稼ぎの資本主義:いつまで危機を先送りできるか』キム・ヒサン訳、トルペゲ、2015参照。[/ref]。

本稿では、現在韓国社会が直面している問題を世界体制論の一環として発展された「世界都市」理論に基づいて分析したい(2節)。このようなアプローチ方法も先に指摘した立場と同様に、様々な限界がある。ところが、問題を他の角度から分析することができ、それによって新しい角度から解決方法を構想する余地がある。そのような構想においてとても重要な鎹が教育であるということが本稿の判断である。したがって、そのような判断に基づき、空間的な再編を念頭に置いた教育改革論を提起してみたい(3節)。続いて結論に代えて、議論された教育改革が作動するための条件、そしてそれが持つより幅広い意味を検討する(4節)。最後に、補論では本稿で提起した教育改革がどのような可能性を持っているかをデヴィッド・ハーヴェイ(David Harvey)の議論、とりわけ彼の「空間的解決(spacial fix)」概念に加えて議論したい。

 

 

2

安定的な資本蓄積のためには軍事的・政治的保護が必要である。したがって近代資本主義の歴史を、資本が支出した保護費用と結合された領土国家の展開過程と資本自体の蓄積過程とが複雑に絡み合ってきた過程としてとらえることができる[ref]そのような例としては、ジョヴァンニ・アリギ(Giovanni Arrighi)『長い20世紀――資本、権力、そして現代の系譜』ペク・スンウク訳、グリーンビ、2008参照。[/ref]。ところが、資本主義に対する歴史的理解はもちろん、最近資本主義の作動方式をきちんと検討するためにもアリギ(G. Arrighi)の「資本主義的権力論理と領土主義的権力論理」という二分法的区別を留意して受け入れなければならない。この二分法はやや空間範疇が領土国家とのみ関連しているという印象を与えられるからである。考えてみれば、資本の蓄積も空間と深い関連をもつ。工場という物理的建造環境を必要とする製造業はもちろん、コンピューターネットワークを通じて時空間的制約なしに1日に数兆ドル以上を取引する金融産業も空間的・物理的インフラが必要である。このようなインフラは領土国家より遥かに小さくて凝集力のある都市を通じてより効率的に充足されることができる。したがって、アリギが指摘した資本主義と領土主義の関係は空間的水準では「世界都市」(より正確には世界都市ネットワーク)と国民国家間の関係としてとらえることができる。

もしある都市が世界的規模の資本蓄積の中心地、すなわち世界都市の役割をすれば、どのような企業が集結するか推論することはそれほど難しくない。多国籍生産資本のヘッドクォーターが入り、生産資本を支援するだけではなく、多様な蓄積メカニズムを稼働する大型金融会社が集まるであろう。また、このすべてを支援する生産者サービス会社(大規模の会計法人、不動産会社、国際的法律事務所、デザインと広告専門会社、システムソリューションを提供する電算サービス会社等)が凝集するであろう。そして、そこに雇用された人口を支援する消費者サービス提供業者(居住用アパートと事務ビル管理会社、そしてクリーニング、駐車管理員、レストラン、宅配会社、バス会社、自営業タクシー等にいたるまで)が集まるであろう。もし大型金融と産業的ヘッドクォーターが高い利潤率を持つのであれば、それを運営し、所有したグローバル的ブルジョアと彼らを支援するテクノクラートのために、都市は高い水準の医療及び教育施設を具備し、その隣に大学と研究所はもちろん、劇場や博物館も入るだろう。そのような施設に研究者や学生、楽団や舞踊団が集まり、ストリート楽師や肖像画家も加わるであろう。ボヘミアン的生活様式を持つ芸術家居住地域も現れるであろう。そしてすべての集団の隙間には単純労務人材が入って活動するであろう。このような過程はブローデル(F. Braudel)が言った「展望の相互性」、すなわち相手が自身を必要とするだろうという期待の相互性によって自己組織的に行われる。それによって、やはりブローデルが言ったように、都市は一種の「変圧器」のように作動する[ref]フェルナン・ブローデル 『物質文明・経済・資本主義 I-2』、チュ・ギョンチョル訳、カチ、2001、第8章都市を参照。[/ref]。周辺から必要な資源を吸収し、内部を膨大なエネルギーで充電するのである。

このような世界都市と国家間の権力関係は変動し続けてきた。ヨーロッパ中世の自由都市は、封建領主と封建国家から自由を争奪するが、近代に入ってから都市は国民国家に服属された[ref]ブローデル、前掲の章、そしてPeter J. Taylor, “World cities and territorial states: the rise and fall of their mutuality,” World cities in world-system, ed. by Paul L. Knox & Peter J. Taylor, Cambridge University Press 1995, 48~62頁参照。[/ref]。ところが、今日のように資本の多国籍化と金融化が大きく進展したグローバリゼーションの状況においては、世界都市の権力が国民国家を圧倒していくということができる。

そうであれば、ソウルはこのような世界都市の中でどの程度の位相を持つのであろうか。もちろんソウルはニューヨークやロンドンのような最上位の世界都市になれないだけではなく、東アジアにおいても上海、東京、シンガポール、香港のような世界都市に及んでいない。会計法人や銀行業の分布を中心に世界都市を分析してきたピーター・テイラー(Peter J. Taylor)は、私たちの経験に符合するように、ソウルを「ベータ−世界都市(β-World City)」、すなわち中位世界都市に分類する[ref]Peter J. Taylor, “World cities and territorial states under conditions of contemporary globalization,” Political Geography vol. 19, 2000, 5~32頁。[/ref]。中位世界都市が所在する国の場合、産業的・金融的能力の限界のため、一つくらいの世界都市のみが形成可能な場合が多い。その場合も、その国家の政治的首都と結合することによってのみ、世界都市の水準にいたる場合が大半である。おそらくメキシコシティー、ブエノスアイレス、バンコクまたはイスタンブールがソウルと類似した場合であろう。

ところが、このような中位世界都市は首位の世界都市と違う特徴を持つ。中心部の国家では大都市順位と人口規模の間に逆比例関係が貫徹される。これらの国家では二番目に大きい大都市の人口が最も大きい大都市人口の半分になり、三番目に大きい都市の人口は3分の1になる[ref]ポール・クルーグマン『自己組織の経済学』パク・ジョンテ訳、ブキ、2002、第3章参照。[/ref]。しかし、中位の世界都市は中心部の世界都市と違って、そこに属する国家の他の都市を完全に圧倒する。一般的に世界都市への成長は国家の財政能力を超過する社会的費用を発生させる方だが[ref]John Friedman, “The world city hypothesis,” World cities in world-system, 326頁。[/ref]、中位の世界都市はそこからより進んで当該国家周辺部の資源を大量に吸収し、搾取し、その中で世界都市の地位を維持する場合が多い。世界都市研究の焦点はやはり首位の世界都市であるため、中位の世界都市が自身の属する国民国家に対してどれくらい搾取的であるか、またはどのような契機によってそのような傾向が強くなるのかを扱った国際的比較研究はあまりない。ところが、少なくとも韓国に対する調査は、ソウルと首都圏が残りの地域から1年間政府総予算の2倍をはるかに超える約854兆ウォンを吸い取っていることを明らかにしている。

 

<図4.5>域外所得の流出入の累積規模と空間的流れ(2000-14年)[ref]チョン・ビョンユほか『韓国の不平等2016』ペーパーロード、2016、114頁。[/ref]
(単位:2010年不変価額基準)

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資料:統計庁(http://kosis.kr)

(注)
1.8広域道は忠清南道・北道、全羅南道・北道、慶尚南道・北道、江原道、済州道。
4広域市は釜山、大邱、光州、大田。そして2広域市は蔚山と仁川をいう。
2.2014年の数値は暫定値である。
3.世宗市は忠清南道に含む。

金融危機(1997年)以後、韓国経済の新自由主義化による社会経済的二極化を言う人々が多い。張夏成が引用した世界上位所得データベース(WTID)によると、韓国の個人上位10%の所得集中度は1995年29.2%から2012年44.9%に上昇した[ref]張夏成『なぜ憤怒しなければならないのか』、ヘイブックス、2015、59頁。[/ref]。国税庁の相続税資料を通じて、富の蓄積において相続分が寄与した程度を測定した金洛年によると、その比重は1980〜90年代には27~29%であったが、2000年代になると42%に上昇する[ref]金洛年「韓国における富と相続、1970~2013」『落星垈経済研究所ワーキングペーパー(2015-07)』2015.11参照。[/ref]。このような経済的二極化は空間的にはソウルを核とする中心・周辺の分化が強力に行われることとして現れ[ref]2014年相続税と譲与税の申告現状をみると、ソウル・首都圏が占める額数はそれぞれ全体の74%と80%にいたる。[/ref]、社会的には上層パワーエリート集団のネットワークがますます密接となり、閉鎖性を帯びるようになる。いわゆる「江南」という地域として簡潔に表象される上層パワーエリート集団の構成要素を、人と組織をかき混ぜてランダムに選ぶとしたら、特殊目的高校(自律型私立高校)、ソウル所在の「名門」大学と私学財団、財閥の大手企業、公共部門の高位従事者、金融エリート、高位公務員、裁判官・検事や弁護士、大型会計法人関係者、大型病院、ビル所有者、保守言論、大型教会等であろう。複雑に絡み合ったネットワークの効果によって、彼らは国民的利害関心から遠ざかり、ますます非常に狭小な階級利益を耽溺する方向へ進んでいる。

実際そのようなことは、世界都市としてのソウルを主導する上層階級の集団力学とハビトゥスと結び付いたものではあるが、世界都市と国民国家の間の利害衝突という構造的問題から始まる面も多い。例えば、財閥の大手企業が韓国の高等教育に対してどのような利害関心を持つか考えてみよう。2015年、500大大手企業の公開採用人数は約2万2千名であった。この程度の数はソウル所在の上位10大学の定員にも及ばない。それが意味するのは、財閥の大手企業が関心を持つのはいくつかの名門大学で教育を受けた人たちの職業的能力とイデオロギー的服従態勢だけであり、韓国高等教育全般の発展ではないということである。韓国社会の大資本は他の領域でもそうであるが、このように教育に対しても国民的利益と乖離した集団である。

そうだとしても資本は、民主的に選出された政府が国民的利害関心に基づいて施行する政策的制裁を簡単に避けることはできない。しかし、国際的であれ、国内的であれ、資本が国民国家を圧倒する権力を獲得していくことによって、そのような制裁は力を失ってきた。その理由の一部は過去数十年間進んできた新自由主義的グローバル化が強制した脱規制傾向にある。ところが、このように比較的グローバル的に脱規制が行われたという事実より、そのような脱規制が貫徹される内部脈絡とパターンに注目する必要がある。その中で非常に重要なことが、中央政府の高位公務員が退職後、財閥の大手企業や法律事務所の諮問ないし顧問のような職に就労し、彼らがあとで政府の選出職公務員になったりもする一種の回転ドア構造が形成されたことである[ref]そのようなモデルを韓国社会で創案し、先導したという点から法律事務所キムアンドチャンの事例は非常に重要である。イム・ゾンイン、チャン・ファシク『法律事務所 キムアンドチャン』フマニタス、2008参照。その他にも公務員「民間勤務休職制度」も注意する必要がある。「公務員が休職し、サムスン・LGで勤務することができる」『連合ニュース』2015.9.22参照。[/ref]。このような過程を経て、中央政府の官僚が国民国家的忠誠心を持たず、官僚的自己利益の追求という経路によって、上層支配ブロックと融合するようになれば、国民国家は「国民的国家」でなくなるのである[ref]最近ネクソン(NEXON)との不適切な株の取引で拘束されたチン・ギョンジュン前検事長の行動や前教育部政策企画官のナ・ヒャンウク氏の「民衆は犬・豚」云々する発言は逸脱的事例ではなく、構造的背景を持つものといえる。[/ref]。1980年代従属理論が輸入された際、グンダー・フランク(A. Gunder Frank)が『低開発の発展』で提示した「グローバル化したブルジョアとルンペンプロレタリアート」の対立構図は韓国の現実にまったく合わなかった。ところが、いま中位の世界都市であるソウルから見える社会的風景はそれにとても近付いている[ref]グローバルブルジョアと彼らを支援する金融サービスの風景を見せる例としては、キム・ゾンヨン『支配される支配者:アメリカ留学と韓国エリートの誕生』トルペゲ、2015, 223~24頁参照。[/ref]。

このような過程は韓国社会で起るさまざまな病理現象にも光を当てる。例えば、大学生たちの差別意識を見てみよう。オ・チャンホは『私たちは差別に賛成します:怪物になった20代の自画像』(蓋馬高原、2013)において大学生たちの差別意識を猛烈に批判した。ところが、彼の著書が無意味になるくらい、差別意識はより酷くなった。代表的な例として、最近大学生の一部は自身の学校や学科名を大きく名入れをしたジャンパーを着るだけではなく、さらに進んで出身高校の名称までジャンパーに名入れをしている。このような差別意識は中心・周辺の分化が強まったから生じた現象である。中心・周辺の分化が深刻になると、中心内でも再び中心・周辺の分化が重なる。そうなると、中心にいる時も、そこが中心の周辺になるかもしれないという不安が生じる。このような不安は自身が中心に留まっていることを絶えず確認しようとする強迫を生み、周辺に追い出されず、より深い中心に入り込もうとする動因を強化する。このように中心・周辺の再分化が繰り返されると、中心・周辺がより深い中心から周辺の周辺に同心円的に繰り広げられ、それだけ位階的な構造と類似化していく。

強力な中心・周辺の分化は不動産投機や地代の追求も深刻な問題にさせる。低金利と関係があるからでもあり、すべてがそうである訳でもないが、家計負債1,100兆ウォンの相当の部分は中心・周辺の分化があまりにも強力すぎて生じた不動産バブルと関連のあるものである。あまりにも高騰したソウルと首都圏の不動産価額のために「賃貸事業者が夢である国」という言葉はもはや冷笑を超え、実際夢を表現する言葉になりつつある。おそらくそれをよく見せているのが、三成洞にある韓国電力の敷地をめぐって、サムスン電子と現代車グループとが競争し、結局現代車グループが鑑定価額の3倍を超える10兆5,500億ウォンで落札されたことである。それぞれ電子産業と自動車産業を主力とする財閥の大手企業さえ賃貸事業に対する欲望によって浮かれているが、このような欲望の土台は中位の世界都市としてのソウルであり、その欲望を実現するための土台は、ソウルがその地位を維持することなのである。

このような状況において私たちに必要なのは、国民国家が「国民的」であることを要求すること、すべての住民を同等に待遇し、彼らの福祉を均等に向上させようとする価値志向性を政府内に深く刻み込むことである。国民国家の抑圧性を解体するために努力してきた人々にとっては、国民国家が国民的であることを要求しようとする主張が当惑に感じられる可能性もある。このような企画よりはグローバル・ガバナンスをより好むのが左派文化である。とくに、ヨーロッパの左派がグローバル・ガバナンスを追求してきたが(これがジェラミー・コービン(Jeremy Corbyn)のような人が、ブレシット(Brexit)に当面して中途半端な立場を取った理由であろう)、それはともかく彼らにはより民主的なEU、「社会的EU」という目標が残っている。ところが、私たちが属した東アジアであればどうだろうか?ここでは地理的配置と政治軍事的構図自体がそのような方式のモデルを想定できなくする。連動する東アジアの域内平和のために下からの交流と市民的ガバナンスの追求が必要ではあるものの、依然として核心は国民国家の間の平和的関係である。したがって、国民国家を国民化しようとする試みが必要だと主張するのは、国民国家に先験的にある良い点があるから、もしくは一時存在していた良かった過去に対する回顧的志向のためではない。それが現実的に可能な経路であるため、国民国家を改革し、改造しなければならない[ref]これと類似した立場として、ダニ・ロドリック(Dani Rodrik)『グローバリゼーション・パラドクス――世界経済の未来を決める三つの道』 コ・ビッセム&ク・セヒ訳、21世紀ブックス、2011参照。とくに彼が提示した「世界経済の政治的トリレンマ」は注目する必要がある。[/ref]。さらに、南北が分断され、国民国家自体に到達できなかった朝鮮半島の状況において南北がともに生きる「国民的」国家または政治共同体を形成しようとする努力自体が朝鮮半島住民の生活を改善し、東アジア域内の平和に寄与するといえる。

さらに、国民国家モデル自体に含まれている一定の肯定性も注目する必要がある。ヴェストファーレン条約(1648)を契機に西欧が創案した主権国家体制は国家間の同等性と同等待遇という規範を樹立したが、近代国民国家体制はその規範を継承している。実際現存する国民国家は決して対等な存在ではない。国民国家間の同等性とは、像と牛とネズミが哺乳類という点において同等だという話と何ら変わらない。ところが、国民国家体制において国家は相互がまるで同等な「もののように」行動する。この際、「まるでそうであるかのように」という仮想的態度は意外と重要である。日常的に私たちは人間が平等であるという。その際の平等は事実的判断ではない。平等は様々な差異や優劣を無視し、すべてを「まるで平等な存在であるかのように」待遇することにした決定であり、かつ決断の産物である。これは本質的に政治的決定・決断であり、主権的な国民国家の体制にも同一の類型の決定・決断から流れてくる規範的力が働いている。

国民国家は対内的にも市民権者を平等に待遇せよという規範的要求に対して開かれている。経験レベルにおいて国民国家内には多様な差別が現存する。ところが、差別を受けた少数者集団が社会的に平等を主張するだけではなく、国家に対して平等な措置を「要求」することができるのは、彼らが民主的憲政に基づいた国民国家の市民だからである。国民国家は深刻な正当性の弱化を甘受することでなければ、その要求に反応せざるを得ない。もちろん国民と同様に難民が一般的経験になる世界において、私たちは国民国家の限界を乗り越えるために、そして普遍的人権を保障する方向へ国民国家を導くために努力しなければならない。ところが、世界都市のグローバル化したブルジョアにハイジャックされた都市国家と、市民のすべてを同等に待遇し、彼らの民主主義から正当性を導きだす国民的国家の間でどちらを選択するかは自明であるといえる[ref]国民国家に国民的であることを要求する戦略はウォーラーステイン式で表現すれば、「自由主義者らが自由主義者らになるように強制すること」といえる。イマニュエル・ウォーラーステイン『アメリカ覇権の没落』ハン・ギウク、チョン・ボムジン訳、創批、2004、326頁。[/ref]。

 

 

社会的病理はバランスの悪さによって発生する場合が多い。ところが、バランスの状態は、社会行為者たちが個別には別に行動しがたい状態を意味するため、悪いといっても抜け出すのが難しい。中心・周辺の分化は中心を志向することを最適の行動につくるため、すべてそれに没頭し、それによって中心の権力が強化される分化が持続される。それが非常に強く行われて位階として固着されると、一段階下にいる者はまた他の誰かの一段階上にいる、すべてが位階の被害者であると同時に、加害者の状況になる。このような状況ではそこから抜け出そうとする個別の努力は失敗しかねない。それ故、悪いバランスに留まっている現在の社会状態を他の方向に導くためには、すでに存在する様々な要素または企画を新たに組み合わせて、それに凝集された力を与えると同時に、社会成員の自己組織的活動を接続させる戦略が必要である。

したがって、いま私たちが目標にしたように、中位世界都市のソウルの支配力が惹き起こした病理現象の治癒のためにも、ソウルと首都圏の中心性を弱化させようとしたこれまでの試みとその成果を検討する必要がある。まず検討すべきことは、参与政府が推進した地域均衡発展戦略、とりわけその企画の中心にあった首都移転計画といえよう。このプロジェクトは紆余曲折が多かったが、公共機関の地方移転、そして「行政首都」の世宗市を結果として残した。首都圏中心性の解体を目標として掲げてはいないものの、少なくともその相当な弱化を含み込んだ既存の試みとして「国立大学統合ネットワーク案(以下、国立大学統合案)」がある。この論議は参与政府と連携されたことではなかったが、参与政府時期に提起された。康俊晩の『ソウル大学の国』(蓋馬高原、1996)が出版されて以後、学閥主義と大学序列体制に対する批判が活性化され、進歩的な学者たちはソウル大学の解体と大学平準化を主張し、張会翼教授をはじめとするソウル大学教授20人は「ソウル大学学部課程の開放案」を打ち出したりもしたが、国立大学統合案はこのような雰囲気の中でまとめられたものである。この案は、制度的結果をつくることはできなかったものの、進歩政党らはもちろん、18代大統領選挙を控えて、統合民主党が教育改革方案として真摯に検討したりもしており、依然として韓国社会の進歩改革陣営が大学序列主義に挑戦しながら打ち出した案の中で最も具体性の高いものとして残っている[ref]詳しいことは、チョン・ジンサン『国立大学統合ネットワーク』チェクセサン、2004参照。[/ref]。

本稿で論じたいのは、相違の脈絡から提起され、別途に進められた参与政府の首都移転プロジェクトと国立大学統合案との結合である。筆者は、二つのプロジェクトが結合されれば、それは、中位の世界都市であるソウルが惹起した病理現象を克服する手がかりになれると思われる。ソウルと首都圏の権力を弱化させるためには単にそれが持つ政治経済的権力を弱化させること以上の企画、イデオロギー的で文化的な企画が必要である。ソウルと首都圏の力そのものが政治経済的中心のみならず、大衆も暗々裏に同意するあるイデオロギーに裏付けられているからである。韓国社会において大衆の服従体制を簡単に導き出す最も強力なイデオロギーの一つが能力主義(meritocracy)であり、その中心には大学序列体制がある。毎年の冬に数十万人の受験生が同じ日時に数年間の努力をすべて注ぎながら大学修学能力試験を受けるが、まさにその形式自体が能力主義イデオロギーを強化する巨大な「セレモニー」といっても過言ではない。

過去数十年間国民的アイデンティティーの中に固着した能力主義の威力は微塵も弱まらず、むしろより強まった。能力主義を裏付けるソウル中心の大学序列体制がより頑固で強固になり、「SKY西成漢中慶外市建東弘国崇世檀……」のような酷い序列化がはばかりなく公論の場で行われている状況である。そのようになった理由は、大学入試競争が激しくなり、韓国の若者の大半が犠牲されたと感じており、さらにその犠牲は精密に差分的に補償されなければならないという心理に陥っており、その補償体系を攪乱するすべてのことに対して恨み(resentiment)感情を感じるからである。ところが、まさにこのような心理がいわゆる「名門大学」出身で構成される中心部のエリート集団に対する社会的正当性を高めるものなのである。したがって、中心・周辺の分化を弱化させようとする戦略は、中心の正当性の重要な土台になる大学序列体制に挑戦する企画を含まなければならない。

参与政府の首都移転企画と国立大学統合案とを結合しなければならないと思うもう一つの理由は、二つの企画が現在当初の意図を実現する道を失い、漂流しているからである。参与政府が試みた新しい首都建設は当時野党のセヌリ党の反対、そして憲法裁判所の奇異な判決によって行政首都に格下げされており、李明博政権はそれすら「特別経済都市」に転換しようとした。ところが、当時朴槿惠議員の大統領選挙戦略のために行政都市案が維持され、9部2処2庁が移り、現在に至っている。このような世宗市がどのような位相と発展方向を持っているか、それが韓国社会全体においてどのような社会経済的、そして空間的位相を持つかは非常に不透明な状態にある。

世宗市がどのような発展経路を取ることができるかを推測するために、最近論難になった二種類の事実を検討しよう。一つは、今度の11月に早期開通を控えている水西発KTXとソウル〜世宗市間の高速道路建設計画の発表である。ソウルと世宗市間の交通連携を強化しようとする、このような試みの裏には首都の部分移転によって業務・居住・家族生活が不便になってしまった公務員がいる。しかし、もしもこのような方向に発展が強化されれば、世宗市はソウル・首都圏の都市回廊に吸収され、首都圏の拡張にのみ寄与するようになるであろう。

もう一つは、改憲を通じて首都を世宗市に完全移転しようと言った京畿道知事・南景弼の発言[ref]「南景弼『青瓦台•国会も世宗市に移そう』」ハンギョレ、2016.6.15。[/ref]と、世宗市に国会の分院を設置しようと言った李海瓚の国会法改正案の発議[ref]「李海瓚『世宗市に国会分院』 国会法改正案の発議」ハンギョレ、2016.6.21。[/ref]である。彼らの発言は、世宗市が政治的な動機によって続けてより多くの政府機関や公共機関を誘致し、成長できるということを示している[ref]世宗市の維持・発展は、現在韓国政治において最も重要な分派である、いわゆる「新盧」と「新朴」両方とも政派的利益とつながっており、大統領選挙に出馬しようとする政治家は誰もが忠清圏における得票を念頭に置いて世宗市の発展を公約できる状況なのである。[/ref]。

この二つの事実を組み合わせてみると、世宗市はソウルの下位パートナーになることもでき、政治的・行政的レベルにおいてソウルに匹敵する権力を持つ中心地として成長する潜在力も持っているものの、いずれも空間的には首都圏回廊に編入された形態になる可能性が高くみえる。ソウルの中心性を弱化させるために始まったプロジェクトがいろいろな経路を経て、ソウルと首都圏の拡張に帰結される状況に置かれたのである。

国立大学統合案の場合も提案される時とは状況が大きく変わり、それの持つ意味が多く薄れた状態である。法学や薬学の専門大学院設置をはじめ、様々な変化があったが、その中でも最も核心的なのはソウル大学の法人化である。国立大学統合案はソウル大学廃止論や大学標準化論からインスピレーションを受けており、それゆえソウル大学を国立大学ネットワーク内に放り込んでソウル大学学部生の募集を廃止することを主張した。しかし、ソウル大学が2011年法人化され、国立大学の範疇から外れてしまったのである。ソウル大学を依然として国立大学統合ネットワーク内に入れられると主張する人々もいるが、ソウル大学が国立大学だった時もできなかったことを法人化されてから行うことは難しい。国立大学統合案も構想そのものを再点検しなければならない状況に置かれたのである。

このように当初の意図から離れ、漂流したり、変わった状況を前にして道を探せてない二つのプログラムを組み合わせれば、それが置かれた制約から抜け出せるだけではなく、ある面においては肯定的契機に転換することができる。この点を明らかにするために、国立大学統合案が置かれた制約を再び検討してみよう。国立大学統合案が初めて発表された時、それが幅広い反響を呼び起こした理由は、大学序列体制の頂点に立っているソウル大学の権力を弱化させることができる合理的方法を提示したからである。ところが、まさにそうであるがゆえに国立大学統合案はソウル大学廃止案として認識され、その分強い社会的抵抗にぶつかった[ref]国立大学統合案の実行可能性と関連のあるいろいろな問題点に対しては、拙稿「学閥社会と大学序列を克服する制度の構想:チョン・ジンサン、『国立大学統合ネットワーク』」『経済と社会』2005年夏号、347~57頁参照。[/ref]。いまやソウル大学の法人化はそのような抵抗の土台をより強化するだけではなく、むしろ他の国立大学が法人化の圧迫を受ける状態になってしまった。

しかし、発想を転換すれば、このような状況は制約ではなく、機会になり得る。すなわち、ソウル大学が国立大学統合ネットワークから遠く逃げた状況を「喜び」ながら、ソウル大学を「外した」国立大学統合ネットワークを構想することである。すなわち、ソウル大学法人化を「国立大学体制の死滅を告知する弔鐘というより、国立大学統合ネットワークへ導くカーペット」[ref]拙稿「『国立大学統合ネットワーク』からソウル大学を外そう」『創批週刊論評』2012.7.4。[/ref]にすることである。実際、ソウル大学を外してしまえば、国立大学統合ネットワークは大きな制度的障害や政治的障害なくスムーズに構成されることができる。

しかし、現在の状況ではそのようにして形成された統合ネットワークがどれくらい大学序列体制を緩和し、ソウルと首都圏の中心性を弱化させることができるかは疑問である。国立大学統合案が提出されてから首都圏大学に比べて地方大学の地位はより下がり、いわゆるソウル所在の名門大学に比べて拠点国立大学の地位はもっと落ちた。国立大学統合ネットワークをこれまで構想されたものより、いっそう統合力の強い水準に発展させることによって、質的により優れた教育機関になる道を探る必要がある。世宗市はそのための良い土台になり得る。

国立大学統合ネットワークの統合度が本当に高まって教授と学生たちが自由に交流し、それによっていっそう水準の高い教育と研究が行われる方向へ進むためには、空間的凝集力が必要である。世宗市はそのための良い立地条件を持っている。この点は、国立大学の全国的配置を見れば明らかである。中央政府は1996年大学設立準則主義に基づき、大学設立を放置する際も首都圏への人口集中を防ぐために首都圏における大学設立や定員の増加は抑制しており、首都圏での国立大学の増設も極めて制限的であった。その結果、世宗市より北側、とりわけ首都圏にある国立大学はその数が少ない。法人化されたソウル大学と仁川大学を除けば、ソウル科学技術大学と韓京大学、韓国芸術総合大学と韓国体育大学、そして教育大学2校程度である。したがって、世宗市を中心に首都圏外の国立大学約40校間の統合ネットワークをつくる場合[ref]科学技術院5校は、法的には「特別法法人」が運営する大学である。ところが、彼らが国立大学統合ネットワーク内に入ってくるのに大きな無理があるとは思われない。[/ref]、世宗市はソウル及び首都圏外の国民と緊密につながる教育的中心を形成することができる。

世宗市は、近くに大きな規模の大学をもつ3つの都市に囲まれている。東側には忠北大学が所在する清州市があり、西側には公州大学のある公州市、南側には忠南大学と韓国科学技術院(KAIST)のある大田広域市がある。世宗市はこの3つの都市をつなげるハブになり得る位置にある。そして清州市は春川、原州、江陵所在の大学をつなげ、公州市は全州と光州、そして木浦所在の大学を組織し、大田広域市は忠南地域と慶尚南・北道の大学を連携する3つの2次ハブになり得る。江原道方面のネットワークのためには東西鉄道網を補充すべきだが、世宗市が中心になるネットワークの空間的摩擦係数はそれほど高くなく、それゆえ実際的な人的交流が活性化できるのである。

世宗市に国立大学統合ネットワーク本部を設置し、そこを中心にネットワークを構成していくことは、世宗市の発展方向においても重要な意味を持つ。それによって、世宗市がソウルと首都圏ではなく、非首都圏と連携性を高める方向に発展することができるからである。例えば、新しい鉄道や高速道路の建設も今とは違う空間的便益を中心に置いて構想するようになるであろう。このような発展方向こそ、世宗市が当初の設立意図に近い機能を果たし、韓国社会において意味のある空間的地位を獲得する道ということができる。

このようなプロジェクトが意図するのは、ソウルを核とする中心・周辺の分化が惹き起こす多くの病理現象を、非首都圏を代弁するもう一つの中心を形成することによって緩和することなのである。このような意図に対して、もう一つの中心形成にすぎないと批判することはできる。しかし、一つの中心がすべての社会的資源を吸収する同心円的社会より2つの中心によって描かれる楕円の社会がよりいっそう力動的であろう。実際、高等教育の発展側面から見たとき、このような程度の空間的凝集力、そして行政首都によって支えられる社会的権力を持つ国立大学統合ネットワークでないと、ソウル所在の「名門」大学が緊張するほどの教育や研究力量を形成することはできない。その場合、私たちはソウル大学を廃止し、またはソウル所在の名門大学を弱化させるのではなく、彼らが序列体制に安住できないようにすることができるが、それは決してソウルと首都圏の弱化ではなく、様々なレベルで健康を回復する過程になるであろう[ref]韓国社会には世界水準の大学を育てないとならないという話が横行する。そう言いながら、長男のみを大学に行かせ、次男は工場に行かせた60年代風の投資またはオリンピック選手村モデルを追う教育投資を繰り返している。しかし、世界水準の大学は、評判と力量において自身を脅かす他の大学と競争する中で到達するものであり、単に心の中にハーバード大学を競争相手として抱いているからといって到達できるものではない。[/ref]。そして、そのようになった状態は高等教育の質的向上のみならず、大学入試に向けた競争も大きく緩和する効果を持つであろう。

 

 

チョン・ジンサンが国立大学統合ネットワークを提案しながら、非常に細々とした制度的模型を提示したことに対して、本稿はそうではない。ところが、社会改革プログラムの場合、あり得るすべての可能性に対応する準備が必ずしも成功を保証するのではない。むしろプログラムの意図しない結果を念頭に置く開放性、そして個別行為者の自己組織的活動を鼓舞する方法がより重要である。国立大学統合ネットワークが発展すれば、それがネットワークを超える統合性を持つこともあり得る。例えば、様々な国立大学に設置された同一学科や大学院が統合されたり、相違の学科が融合されることもあり得る。一つの分科学問が学生たちに十分な教育プログラムを提供し、大学院生との研究を進めるためには一定の規模が必要であるため、そのような作業が必要になる可能性がある。その場合、どのような統合や融合方法が望ましいかは学問別状況、ネットワークに属した国立大学それぞれの事情、物理的資産の分布や学生たちの選好分布、そして教授の意欲とシナージ効果等、非常に複雑でこだわりのある要素を考慮しなければ決めることはできないであろう 。これらを予め制度的に構想することはほぼ不可能である。むしろ長い進化の過程を設定することが必要である。そしてこのような国立大学ネットワークに私立大学をどのように繋げて連携するか、その場合私立大学の支配構造をより公営的な形態に導く方法は何かを構想することも大学の自己組織力量にもう少し任せる必要がある。

もちろんその際も政策レベルでは大きな方向を設定し、そのための補償体系をつくっていくことは必要である。そして必要であれば、資源を配分して管理し、調整し、支援する組織がつくられなければならない。そのためには(仮称)「国家高等研究・教育委員会」のようなものを考えてみることができる[ref]すでに「国家教育委員会」(民教協)や「国家高等教育委員会」(私的教育のない世界)の構成を主張する人たちがいる。このような主張の裏面には、現在の教育が官僚的自己利益を耽溺しているという判断がある。筆者もそれに同意し、それゆえ教育部から高等教育政策の構想機能を剥奪して大統領直属の委員会に移管し、実行機能のみを残すことが望ましいと思われる。しかし、すでに初・中等教育が教育庁の管轄に移行され、教育自治制度が定着しつつある状況において、果たして「国家教育委員会」まで必要なのかは疑問である。そのような点から「国家高等教育委員会」がもう少し良さそうにみえるが、高等教育機関では教育だけではなく、研究も重要である。この点を考慮して「国家高等研究・教育委員会」を設置することを考慮してみることができる。[/ref]。

しかし、ここで議論されたことの実現可能性は、それが公論場でどれくらい説得力をもって受け入れられるか、主要政党やその政党の大統領候補の公約とつながり得るか、そして大衆がどのような政治的選択をするかにかかっている問題である。国立大学統合ネットワーク、それも世宗市を核とするネットワークの形成は、大学の自発的組織化に任せては実現可能性がないからである。大学の自己組織化の力量は、一旦それに向けた政治的・法的経路が開かれてから発揮できる性質のものである[ref]代表的な例が、参与政府時期にあった忠南大学と忠北大学の統合議論であった。世宗市に用意された大学敷地を一緒に活用する道を模索すると同時に、いっそう優れた大学として成長するために行われたこの統合議論は水泡に帰した。複雑な法的・制度的問題を、責任をもって解決するためには政府全体の意志が求められるが、教育部が受動的に関与する程度に止まっており、それによって統合議論を主導した教授らが消極的な内部成員を説得することも困難であった。[/ref]。

おそらく一角では、これまでの議論に対してより重要な「当面」問題、すなわち出産力の低下による学齢人口の急減という危機状況に対応するための大学構造調整問題を見落としていると批判することができる。しかし、16万人の大学定員割れが生じたことを受け、定員1千人の大学100校が閉校寸前だという言い方で助長された危機は、典型的な「ニセ事件(pseudo event)」である。学齢人口の減少がそれくらい深刻な問題であったならば、彼らが大学入学年齢になる前にすでに幼稚園や小・中等学校が焦土化されなければならなかった。しかし、そのようなことは起きなかったのである。その代わりに起きたことは、政府が膨大な財政を投入して教師採用を増やさなかったのにかかわらず、小・中等学校において教師対生徒の比率が急速に改善されたということだけである。例えば、2000年代初、韓国の小学校における教師対生徒の比率は約1対28だったが、2015年には1対15になることによって、OECDの平均水準になった。このようなことが大学でも可能であり、そのようになってはじめて教授1名当たりの学生数が28名を超える韓国大学の教育も改善されるであろう[ref]拙稿「廃棄されるべき大学構造改革法」ハンギョレ、2016.7.20。[/ref]。そのような方向に進んでいくために必要なのは、政府の財政投入の意志であり、それを決定するのは社会成員の政治的選択である[ref]政治的選択が鍵であることを見せてくれる事例として、朴槿恵政権の半額大学授業料の要求に対する対応と、造船産業の危機に対する対応を挙げることができる。朴槿恵政権は半額授業料に必要な6兆ウォンの代わりに所得連動型奨学金として3兆5千億ウォンを支出する決定を下したことに対し、造船産業の構造調整には12兆ウォンを投下する決定を下した。[/ref]。

制約を新たな経路の踏み台にしようとする態度を堅持すれば、ここで議論された空間戦略はより拡張された意味を獲得することもできる。これまでの議論は、中位世界都市のソウルを核とする中心・周辺の分化が国民国家の頽落をもたらすことを防ぎ、それによって地球資本主義が惹き起こす深刻な不平等が韓国社会に深く貫徹することを阻止するためでもある。同じ線上で韓国社会が解決しなければならない中心問題は、資本主義世界体制の地政学的分裂構図とつながる分断問題である。国民国家が国民的であることを要求する闘争は、韓国の場合、分断克服の努力につながざるを得ない。その制度的具現形態は、まずは国家連合の設立のようなものといえよう[ref]白楽晴「『抱擁政策2.0』に向けて」『創作と批評』2012年春号参照。[/ref]。その際、韓国はどのような朝鮮半島の空間戦略を持つことができるだろうか。おそらく平壌市と世宗市が南北連合の二元的な政治的中心地になる代わりに、ソウルは政治的負担を減らし、経済的・文化的世界都市としての役割を果たすモデルから、ソウルが首都になり、平壌市と世宗市はそれぞれ議会が定着し、総理が統治する南北それぞれの行政首都になることにいたるまで多様な構想が可能であろう。どちらと近い経路に接近していくかは南北連合の行路がどうであるかにかかっている。どの方向への進化が起きても、そのためにはすでに南北社会が2つの心性を通じてつくられた楕円型の力動性を備えていなければならない。それができない場合、たとえ南北が平和な統合に向けて進むとしても、より大きな規模の中心・周辺の分化がソウルを中心に起きることに帰結され、それによって空間的・社会経済的アンバランスが朝鮮半島全体に拡散されてしまう可能性もある。したがって、世宗市を中心とした国立大学統合ネットワークをつくっていく作業は、単純な教育改革を超える社会的ビジョンを内包しているといえる。

 

 

補論:空間的解決から教育的解決へ

これまで議論した高等教育改革論議が、資本主義的蓄積とそれが惹き起こす社会的不平等、そして生態的危機に対してどのような意味を持てるかについて少し検討したい。通常教育改革を議論する人々は、それ自体良いことのように話す。本稿で提起した教育改革も空間的戦略の部分を除けば、良い教育制度をつくることが社会や個人の発展に望ましいことであることを前提する。ところが、脱学校社会論者らのように教室で十数年勉強することを良い生き方として受け入れない人々も多い。必ずしも脱学校社会論者でなくても、教育が能力主義イデオロギーの回路の中に人々を追い込んだ結果を良いこととしては見がたい。教育が地位獲得競争の一環になると、人々は他人より一段階上の教育を受けようとし、その結果は教育膨張として表れる。このようになると、人々はまるで前の舞台を見るためにすべての人が立ち上がり、ついにはつま先立ちをするようになるが、誰も舞台をきちんと見ることができない場合に等しい状況に置かれるようになるのである。

このような視点から見れば、教育において起きる出来事をデヴィッド・ハーヴェイが言った「空間的解決」の機能的等価物としてとらえることができる。ハーヴェイは、剰余価値を追求する資本家が休まず生産した剰余生産物を吸収するために、資本主義が「空間的解決」を追求してきたという。このような空間的解決の代表的な事例として、彼は19世紀半ばオスマン(G. Haussmann)男爵のパリ大改造、20世紀半ばロバート・モーゼス(Robert Moses)のニューヨーク大都市圏再開発、そして莫大な生態的問題を内包している21世紀中国の大規模都市開発事業を提示する[ref]本誌収録のデヴィッド・ハーヴェイ「実現の危機と日常生活の変貌」参照。[/ref]。おそらく韓国社会の経験で言えば、22兆ウォンを投じた4大江事業を思い浮かべるであろう。

教育が膨張する過程も剰余資本と労働を吸収する過程である。したがって空間的解決に当てつけて、このような過程を教育的解決(educational fix)と呼ぶことができる。教育的解決は教師と生徒の社会的相互作用をもとにするという点から一般的に言って社会的解決(social fix)の一種ということができる。この教育的解決は一見すると都市建設や土木事業のような空間的解決より小さい規模に見えるが、決してそうではない。平均教育年限が15年を超えるOECD国家が見せてくれるように、学校生活は全人口の生涯周期において重要な部分を占める。

しかし、綿密に検討してみると、二つの間には重要な差異がある。まず生態的な面において違う。教育も空間的解決のように物理的建造環境を必要とする。ところが、それが必要とする水準は都市空間の建造とは比べられない程度に低い。教育の核心は教師と生徒の相互作用であるため、より良い施設が役には立っても良い教育は保証しない。教育において最も大きい支出要因は教師の賃金である。このような点を考慮する際、教育的解決は生態学的な面においていっそう望ましいアプローチ法なのである。

資本蓄積に関連しても両者は違う。資本主義的な空間開発の最終目的は利潤と資本蓄積である。ところが、教育は営利的に運営される場合がなくはないが、基本的に非営利を前提とする。学校は、国公立はもちろんのこと、私立の場合も利潤を追求せず(できず)、発生した剰余金は積み立てたり、教育の規模や質を改善したり、構成員の福祉のために配分するだけである[ref]ところが、韓国の私立学校では学校法人による非民主的な運営のため、多くの不正が行われてきており、その手法も進化してきた。拙稿「進化する私学不正」ハンギョレ、2015.4.22参照。[/ref]。ある意味、学校は公益法人によって運営される病院とともに資本主義社会内に存在する最も膨大な規模の非資本主義的な組織ということができる。

このような非資本主義的組織は、評価や補償において利潤原理に依拠しない場合が多い。実際資本主義体制内でもより多くの賃金よりは名誉や労働時間に対する自己統制の増大のようなことを補償として求める人々の数が決して少なくない。このようなことは些細なことのように見えるが、資本主義体制を克服するビジョンの用意に重要な意義を持つ。もちろんこのような組織は資本主義社会内で運営される限り、二重課題を負う。貨幣補償と市場動向に対する敏感性を維持しなければならず、何より効率的でなければならない。しかし、それは難しいものの、不可能なことではない。それに関連して、イマニュエル・ウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein)は次のように言う。「すべての経済構造が非営利的なことであり、非国家的統制が可能なだけではなく、広く使われたりもすると仮定してみよう。私たちはこのような体制をすでに数世紀間、いわゆる非営利病院を通じて目撃してきた。果たして彼らが私立や国営病院に比べて非能率的で、医学的にも能力が低いところとして悪名が高いだろうか?私の知る限りまったくそうでない。実際にはその反対でありがちである。なぜこのような状況が病院にのみ局限されなければならないのか」[ref]イマニュエル・ウォーラーステイン『ユートピスティクス―21世紀の歴史的選択』ペク・ヨンギョン訳、創作と批評社、1999、108~109頁。[/ref]。当然学校をはじめ、多様な生活の領域においてそれが適用され得る。

再びデヴィッド・ハーヴェイの論議に戻ってみよう。ハーヴェイは、ヘーゲルの用語を借りて空間的解決に基づいた資本蓄積が一種の「悪無限(bad infinity)」の性格を帯びるという。資本の拡大再生産と複率成長は人間の生活全体を統制不能状態に追い込み、生態学的に災いを生じさせるということである。そう言いながら、「善無限(good infinity)」に基づいた単純再生産を追求しなければならないと述べる[ref]ハーヴェイ、前掲書、94頁。[/ref]。ところが、このような単純再生産のためには生活のある過剰を取り出すが、それを剰余価値の蓄積に活用しない生活の様式がなければならない。ハーヴェイは、それがどのようなものなのか、またどのように可能なのかについて明瞭に語らなかった。ところが、教育的解決をはじめとした多様な社会的解決を模索することによって、私たちはハーヴェイの言い方の空間的解決とは違う道を模索することができる。ハーヴェイ自身も資本主導のジェントリフィケーションに挑む多様な活動家たちを支援しようとし、その趣旨から「都市に対する権利(right to the city)」を主張したが、それは空間的解決の水準においても「螺旋型的に成長する」資本蓄積とは異なる可能性を拓いていけることを意味する。したがって、そもそも空間的解決であれ、社会的解決であれ、そのすべてのアンビバレンス(両価性)または二重課題性に注目しなければならないのである。

現体制の習慣に慣れている人であれば、教育的解決が資本主義体制の克服のための二重課題の焦点になれるという論議に対して、次のように言うことができる。「もちろん教育は天国と近いところで行われ得る。それは、自然に対する知的好奇心の充足のためのことになることができ、教養や品格の高い人間になるためのことになることができ、例えば、唐詩を引用できる豊かな社交的対話のためのことになることができ、自身が生きる現代社会の複雑な条件に対してより洞察力のある知識を獲得する過程になることができる。そしてそのようなすべての活動と成果に対して、私たちは相互を尊重し、尊敬する形で反応し、喜ぶことができる。しかし、選抜や評価はその裏面の地獄である。複雑な現代の産業的状況において「古い」人文主義的発想によって教育問題を解決しようとする試みは素朴なことにすぎないのである。

そのような人々にとっては、教育と産業をつなげようとする試みを避ける必要はないが、両者をタイトに結び付けようとする(coupling)すべての試みは、むしろもっと大きな損失をもたらすということを想起させたい。結局産業が教育に対して求めることが、毎回新しく発生する問題に対して創造的な解決を提示することのできる能力というならば、そのような種類の能力は意図的に他の人間から生成したり、注入できない性質のものであることを理解してほしいと言いたい。もしある装置の投入と算出が毎回正確に同一であれば、その装置は創造力のあるものではない。体系理論であれば、そのような装置を「平凡な機械(trivial machine)」ということができる。それに比べて想像力のある装置は、投入と算出の間に何の一貫性もないわけではないが、常に意外性を算出することのできる装置であり、その意味で「平凡でない機械(non-trivial machine)」ということができる。産業と教育をタイトに結合しようとするすべての試みは、平凡でない機械の人間を平凡につくろうとすることにすぎない。その際、平凡でない機械は平凡になるのではなく、平凡な存在になったふりをすることを学習するのである(それさえも幸いである)。これに気づくのはそれほど難しくない。勉強しなさいという小言の結果は、勉強するふりができる子どもである。同じことが産業や教育をタイトに連携しようとする資本の小言を通じて起きる。もし産業と教育の連携を緩く維持した方が産業にもより良いということをより多くの人々が気づけば、評価や選抜の地獄はいっそう煉獄に近いことに変わり得るであろう。

(翻訳: 李正連)