창작과 비평

[特別対談] 資本の作動、世界/中国の行方

〔特集〕危機の資本主義、転換の諸契機

―デヴィッド・ハーヴェイ/白楽晴(特別対談)

 

 

白楽晴(ペク・ナクチョン)文芸評論家、ソウル大名誉教授、『創作と批評』名誉編集者。近著に『白楽晴が大転換の道を問う』、『2013年体制の形成』、『文学とはなにか、ふたたび問うこと』、『どこが中道か、どうして変革か』、『白楽晴会話録』(全5冊)など。

デヴィッド・ハーヴェイ(David Harvey)ニューヨーク立大学大学院教授。地理学博士、マルクス主義研究の世界的な大家。著書に『ネオリベラリズムとは何か』、『パリ――モダニティの首都』、『ポストモダニティの条件』、『資本の限界』、『ニュー・インペリアリズム』、『〈資本論〉入門』など。

 

白楽晴 まず季刊『創作と批評』創刊50周年行事のため、遠く韓国までいらして下さったことに感謝申し上げます。これまでずいぶん忙しい日程を消化されました。今週、私たちは2016年「東アジア批判的雑誌会議」という、もうひとつの記念行事をおこないましたが、英語通訳がないのにわざわざいらして午後ずっと同席されました。一昨日は「価値実現の危機と日常生活の変貌」というタイトルで公開講演をされ[ref]デヴィッド・ハーヴェイ「実現の危機と日常生活の変貌」、『創作と批評』2016年秋号。以降、本対談の脚注はすべて初出誌の編集者によるもの。[/ref]、昨日は、限られたメンバーの専門家および活動家らと一緒に、先生のご著書『反乱する都市』を中心にワークショップを開催し、多様な分野にわたった討論がおこなわれました[ref]David Harvey, Rebel Cities, Verso 2013. 韓国語訳はデヴィッド・ハーヴェイ(ハン・サンヨン訳)『反乱の都市』、エイドス、2014。[/ref]。参加された行事に対する感想を一言聞かせて下さいますか。

デヴィッド・ハーヴェイ(以下ハーヴェイ) 私が世界あちこちを巡りながら感じたことの1つは、出版社が組織する行事の方が、大学が組織する行事よりも興味深いという事実です。出版社は純粋に学術的な行事よりも、さらに多様な聴衆や参加者を動員するからです。今回も聴衆の構成がとても気に入りましたし、私が優先的に適用する基準によれば、寝ている人が目につきませんでした(笑)。講演後の質問や、翌日のワークショップでの質問や討論を見ると、少なくとも韓国社会の一部では、私が核心的であると考える諸問題に幅広く関心を持っていることが明らかでした。ですが、どれほど役に立ったかは、聴衆に聞いてみなければなりません。

 

実践と直結した『資本論』読解

 

白楽晴 先生の講演のタイトルと関連して、外国でもそうなのかもしれませんが、韓国でマルクス経済学に関心がある人たちは、価値の「実現」(realization)の問題はさほど論じないようです。「生産と実現の矛盾的統一性」がマルクス(K. Marx)の主要概念の1つであるにもかかわらず、実現の側面がよく軽視され、先生が指摘されるように、それが実践的な闘争に損失をもたらすことになります。先生はこのような現象の原因の1つとして、『資本論』第2巻が第1巻に比べて、面白さが半減している点をあげましたが、他の国のマルクス研究にも該当することでしょうか?

ハーヴェイ そうですね。マルクスを読む方法はいろいろありますが、私はマルクスが、資本を1つの進化する有機的体系として理論化するという考えに、少しずつ集中してきています。ですが、これは単純な有機体の比喩ではありません。何か一体のものというよりは、さまざまな部分が相互に関連した、1つのゆるくつながった生態系のようなものです。その全体は資本の流通や蓄積によって促進されます。流通の過程全般をみると、それは随所で中断され、あらゆる種類の障害に直面することがわかります。生産にだけ集中していては資本の体系全体を理解することはできません。もちろん、マルクスが『資本論』第1巻で主に扱うのは生産で、第1巻が経済に関するすぐれた学術書であるばかりか、文学的にもすぐれた傑作であることを誰もが認めます。ですが、第2巻になると、異なる視角で流通過程を分析しますが、これを文学的な傑作と主張する人はいません。

白楽晴 なので、マルクスが生産と流通に言及する第3巻まで行かない場合が多いでしょう。

ハーヴェイ 実は第2巻でもそのような総合を若干は試みます。私が少し苛立つのは、元老マルクス研究者たちでさえ、「第2巻を読んだがつまらなかった。その続きを読まなかった」といいます。個人的に私は、第2巻の多くの主題が重要だとつねに考えてきました。たとえば『ポストモダニティの条件』で「時空間の圧縮」(time-space compression)を語るとき、多くの部分を資本回転の時間と回転時間の短縮の重要性に対するマルクスの議論に依存していますが[ref]David Harvey, The Condition of Postmodernity, Blackwell 1989. 韓国語訳は、デヴィッド・ハーヴェイ(ク・ドンフェ・パク・ヨンミン訳)『ポストモダニティの条件』、ハンウル、1994。[/ref]、これはまさに『資本論』第2部に出てくる話です。私は常に第2巻の内容から多くのことを学んできたので、それがもう少し魅力的かつ興味深い形式で提示されないのが本当に残念です。ですが、第1巻でもマルクスは、商品を市場で販売することによって、貨幣形態として実現されなければ、価値が存在しないと語ります。すなわち価値とは全面的にその実現如何にかかっているということですが、ただ第1巻では実現の諸条件を検討しないんです。この段階でマルクスは、すべての商品がその価値通りに交易されると前提しているんです。

白楽晴 出版界ではその問題が本当に実感できます。本を印刷したのに売れなければ、単に紙を所有しているよりはるかに及びませんからね(笑)。

ハーヴェイ 私の著書も『マルクス〈資本論〉講義・1』はよく売れますが、『マルクス〈資本論〉講義・2』はさほど売れません[ref]David Harvey, Companion to Marx’s Capital, Volume 1, Verso 2010; Companion to Marx’s Capital, Volume 2, Verso, 2013. 韓国語訳は、デヴィッド・ハーヴェイ(カン・シンジュ訳)『デヴィッド・ハーヴェイのマルクス『資本論』講義』、創批、1=2011、2=2016。[/ref]。第2巻の読解が重要だという私の信念にもかかわらず、それがうまく伝わっていないんです。

白楽晴 価値実現をめぐって、先生がおっしゃることの中で特に印象深かったのは、これらすべてのものが実践的闘争と直結するという指摘でした。単に資本がどう作動するかを分析する問題だけでなく、私たちが何をどうすべきかという問題に、実質的な影響を及ぼすということでしょう。

ハーヴェイ 最近、闘争が起きている大きな現場の1つは、住宅費用と家賃の問題、すなわち世界のさまざまな都市で適切な費用の住居を求める問題です。労働者らに生産参加の代価としてさらに多くの金額を支払っても、収入の大部分がそのまま高価な住居費用の形で、土地所有主や建設業者らによって回収される問題です。私が訪問する都市で、不動産価格はどのような状況かと聞くと、本当に深刻な問題だという返事が返ってきます。いわゆるジェントリフィケーション、開発業者らに関連する闘争、撤去民問題、つまり開発業者の高層建物建設のために、空間を整理する過程で生じる諸闘争が進んでいます。開発業者は超巨大建設プロジェクトをあまりにも好むために、多くの場合、国家も介入しています。彼らはまた高価格の高級マンションの建設を好みます。貧しい人々も居住できる住居の建設には関心がありません。なので、あらゆる都市で私たちは途方もない不平等を目撃し、それが大多数の住民の日常生活上の関心事になります。私にとっては、このような種類の諸過程を、資本の流通および市場における価値実現に対する理解と合わせて考えることがつねに重要でした。私はこのことを、マルクスの一般理論と整合的に考えたいと思いますが、そのためには資本の流れが形成する「進化する生態系としての資本」という有機的概念を認めなければなりません。

ですから、人々がこのような問題に悩むというのは当然です。また彼らを困らせているのは住居問題だけではありません。漸増する交通費用もあります。都市内での移動の可能性は重要な懸案になっています。ほとんどすべての都市問題が、財貨の消費を通じた価値の実現と、その財貨の価格に関することです。商品の価値がどのように貨幣に転換されるかは経済問題の核心です。

 

「一帯一路」、中国の動きをどう見るか

 

白楽晴 先生の講演とこれまでの著述活動でもう1つの重要なテーマは、現時点で、工場よりも都市を、剰余価値生産の主な現場と見て、それを解放運動の重要な現場として設定する作業です。それと関連して、先生は、今、中国で起きていること、ひいては中国がユーラシアやアフリカ、ラテンアメリカなどで行なっている事業のことを、先生がおっしゃる「空間的解決」(spatial fix)の最新事例であり、類例のない大規模事例として論じられました。ご存知でしょうが、東アジア批判的雑誌会議では、中国の「一帯一路」企画についての提案があり、中国大陸だけでなく、台湾や香港から来た参加者も、大枠では、これを新自由主義的な資本主義による最新・最大の「空間的解決」と規定された先生よりも、一層肯定的に評価する雰囲気でした。中国に行かれた時も、このような主張を聞かれましたか?

ハーヴェイ 私はそのような企画に対して相反する印象を持っています。中国内部の現実から見ようとすれば、約10年前には高速鉄道の連結網もありませんでしたが、今、中国はほとんど完全に統合されました。率直にいって、私は上海から北京に行く時、飛行機より高速鉄道で行くのが好きです。中国の交通網がきめ細かに組まれた結果、多くの人々が恩恵を受けていることは明らかです。したがって、これを否定的にのみ話すつもりはありません。ですが、高速鉄道に乗る人たちを見ると専門職や企業のエリートです。ですから、この巨大な投資の恩恵を受けるところに階級的差別があるのです。

他面を見ると、このような開発の多くの部分が負債で行われました。ですから、この巨大な投資計画の結果の1つは、中国のGDP(国内総生産)の対負債比率が世界で最も高い水準に肉迫することになったのです。結果的に、誰がこの負債を返すのかということが問題になります。典型的な資本主義的形態を見ると――中国がそうなると考えているわけではありませんが――後でその負債を抱え込むのは、たいてい最も不利で周辺化された住民です。中国の海外借款や投資の償還についても、同じ問いを投げかける必要があります。

エクアドルの場合を考えてみましょう。エクアドルに対する海外投資の半分以上が中国によるものです。中国が推進するプロジェクトの1つは、エクアドルのエネルギー需要の60%を充たす巨大な水力発電ダム建設です。もちろん中国のセメントと中国の鉄鋼を使います。ですから、建設工事を通じて中国の過剰生産能力を吸収するんです。ですが、中国はエクアドルに金を貸し、エクアドルはいつかそれを返さなければなりません。返す方法の1つとして、エクアドルは自国の南部の鉱物資源を自由に開発する権利を中国に与えます。その結果、その地域の住民と中国の鉱業社との間に葛藤が起きます。中国の企業が直接かかわっているわけではありませんが、主として地方自治体が名乗り出て中央政府が支援し、現地の住民を強力に弾圧した事例があります。このような結果は、私たちがこれはいい事業だ、再生可能なエネルギーを開発し、多くの住民の電気需要を充足させると語る時、よく見過ごされたりします。

したがって、あらゆる問題を一緒に考える必要があるんです。東アジア批判的雑誌会議の発言者が、中国だけでなく、ヨーロッパやアフリカの経済まで、世界的に統合する交通網の創出がいいことだというのは、間違ったことではありません。ただ私は、私たちが常に2つの問いを投げるべきだと思います。まず誰が恩恵を受け、誰がそれを返すのか、2つ目は環境にどのような影響を与えるのかということです。そのようなことを追加して考える時、私は、そのようなプロジェクトに拍手を送るということが一層難しくなり、深刻な疑問を抱く余地が大きくなるのです。

白楽晴 会議で、中国の地理学者・徐進玉が提起した主張はどう思われますか? つまり、「一帯一路」の企画が、地政学的観点から見れば、中国側の防御的行動であり、アメリカの覇権主義に対する健全な挑戦であるという主張です[ref]徐進玉「中国「一帯一路」の地政学的経済学」、『創作と批評』、2016年秋号。[/ref]。

ハーヴェイ その点は疑問の余地がありません。ですが、余剰資本と余剰労働を吸収する次元では、中国が別の選択をすることもできなかったと思います。中国は大量失業と多数の鉄鋼工場の閉鎖危機に直面しました。換言すれば、中国側に地政学的計画があろうとなかろうと、中国の過剰生産能力を吸収するために資本を輸出しないわけにいかず、強く推進する経済論理があったんです。もちろん私は、中国共産党がどのようなことを考えているのか、知るすべがありませんが、きっと2つの要因を勘案したでしょう。しかし、資本主義の空間的動力を解釈する私の理論では、2005~2008年の中国としては、経済成長を継続し、さらに経済の安定を維持するためにも、現在のようなことをせざるを得ない立場だと思います。

白楽晴 そうですね、私も、東アジアの同僚たちが、資本主義の論理や「空間的解決」の概念について、儀礼的に同意したまま、地政学的な側面にほとんど全面的に没頭することには賛同しません。先生が指摘されるように、それは、中国当局が資本の論理のために、何かこのようなことをせざるを得なかったという事実を軽視することです。ですが、昨日のワークショップで、先生は2つの権力論理、つまり領土主義的な論理(territorial logic)と資本主義的な論理(capitalist logic)についておっしゃいましたが[ref]これは後に言及されるジョヴァンニ・アリギが提起した概念。G. Arrighi, The Long Twentieth Century: Money, Power, and the Origins of Our Time (1994, 2009), 韓国語訳は『長期20世紀』、グリーンビー、2008参照。[/ref]、この概念を導入して中国の試みを単に新自由主義の1つの事例で見るのでなく、例の2つの論理を結合しようとする新しい試みとして見るとどうでしょうか? アダム・スミス(Adam Smith)こそが、このような結合を唱えたと先生自らが指摘されました。つまり、彼は市場に作用する「見えざる手」が「諸国民の富」、人民を含めた彼らの国の国富に寄与するものであると主張したんです。私はおおよそ1960年代までは、資本主義がさまざまな方式でそのような結合をある程度成就したかもしれないと考えますが、開発国家、または発展主義国家の理念も、言ってみればそのような目標を前面に掲げたんです。それに比べれば、新自由主義は、資本の論理に全面的に没入しようとする試みになります。もちろん、軍事力と警察力を含む国家権力に依存しながら、そのようにするわけですが。状況をこのような脈絡で見るならば、中国は資本主義的論理に専念しようとする新自由主義的な試みに、一定の修正を加えようとする努力をするかもしれません。成功の有無はもちろん別の問題ですが。

ハーヴェイ 私はジョヴァンニ・アリギ(Giovanni Arrighi)とこの問題でよく論争しました[ref]ジョヴァンニ・アリギ(Giovanni Arrighi、1937-2009)イタリア出身の社会学者・経済学者。著書にThe Long Twentieth Century, Chaos and Governance in the Modern World System (with Beverly Silver, 1999), Adam Smith in Beijing (2007). 韓国語訳は『長期20世紀』(ペク・スンウク訳)、『体系論で見る世界史』(チェ・フンジュ訳、モチーフブック2008)、『北京のアダム・スミス』(カン・ジナ訳、キル、2009)などがあり、ジョーンズホプキンス大学教授としてかつてハーヴェイの同僚でもあった。ハーヴェイがインタビューした彼の自伝的回顧談「The Winding Paths of Capital」が、彼の死後、『New Left Review』2009年3-4月号に掲載された。[/ref]。ジョヴァンニの主張は、すなわち中国で市場の浸透、市場への転換、開発のさまざまな側面が見られるからといって、中国当局が自らの社会主義的な権力論理を全面的に放棄したと断定するべきでないということでした。彼が提起した問題は、現状分析にともなう何らかの予測をするよりは、中国人が選択できるさまざまな戦略について、鋭敏な意識を維持するべきだということでした。それに対して、私の反論はおおよそ次のようなものでした。社会主義論理が依然として1つの選択肢であるという主張は、1990年代末までは正しかったかもしれない、しかし、おおよそ2000年代から、中国の領土的論理は、過剰蓄積と空間的拡張という資本主義の論理に促されたと考える、彼らは資本主義の論理を解禁したし、資本主義の論理は彼らが全面的に統制できる性質ではないので、ますます統制が難しくなっている、というものでした。彼らは世界市場の条件に対応しなければならず、したがってアメリカの消費市場の破綻は、中国に途方もない衝撃を与えました。2007年と2008年当時、中国、特に中国南部の数多くの輸出産業が閉鎖されましたが、このようなことこそ資本主義の論理が席巻して実質的な統制力を行使する事例です。そうなると中国は対応せねばならず、その対応は自らの方式でなく、資本の方式に従わなければなりません。ひとまず虎を放てばその尻尾をつかまえていなければなりません。誇張しているかもしれませんが、中国政府が自らの領土論理で資本主義の論理をどれほど制御できるか疑わざるを得ません。私は、彼らの統制力は、たとえば1990年代よりはるかに減じており、その傾向はますます強まるだろうと思います。中国が自国経済を市場交換体制として認められる方向に行けば行くほど、彼らはWTO(世界貿易機構)の基準に順応せねばならず、資本主義の権力論理に一層統合されねばならず、さまざまな代案の間で選択の自由がますますなくなるでしょう。そのようなことがジョヴァンニに対する私の反論の核心でした。要するに、社会主義的な領土論理が統制する能力に対して、彼がかなり楽観的であるというものでした。資本主義体制はますます金融化され、世界金融に対する中国金融の統合度は急激に高まってきました。私が見るところ、私たちは、中国当局が資本主義の論理にあらゆる譲歩をしている現実を目撃しています。

 

新たな帝国主義と「略奪による蓄積」

 

白楽晴 虎を放ってその尻尾をつかまえるという比喩と関連して、その虎がどれくらい元気でいつまで生き残って力を行使するかによって、多くのことが変わってくると思います。しかし、この問題は、後で世界資本主義の全般的状況を論じる時にあらためて論じることにします。

先生の講演で、質疑のときに出たもう1つの問いは、「新たな帝国主義」とその特徴をなす「略奪による蓄積」(accumulation by dispossession)という概念でした。先生自らその概念をマルクスの「本原的蓄積」(primitive accumulation)と充分に区別できなかったとおっしゃいましたが、その解明をあらためてなさるとどうなるでしょうか?

ハーヴェイ マルクスにとって本原的蓄積は、資本蓄積の前提条件がどう作られるかに関する話でした。賃労働と貨幣化された商品交換体制と商品市場が、あらかじめなければならないという前提条件のことです。そのような諸要素がすでにあってこそ、資本家が登場し、自分はこの賃労働の一部を買って剰余価値を生産させ、市場で販売する商品を生産させる、よって資本主義的な循環過程が始まると言えるんです。

これを別に表現すれば、資本主義発達の初期段階には、賃労働と貨幣資本がきわめて不足しました。なので、資本が自らの存在条件を再生産する能力のない状況で、賃労働と貨幣資本を生産する道を探らなければなりませんでした。これを完遂したのが本原的蓄積の暴力です。人々を土地から追い出し、彼らが生きるために賃労働者になること以外に他の選択肢がないようにし、お金がどのような方法であれ集まるように、経済の十分な貨幣化がなされなければならず、お金を1か所に集める初歩的な銀行制度ができ、お金が資本として流通する必要がありました。

このすべての前提条件がきちんと備わるまで時間がかかりました。マルクスの原蓄理論の目標は、このような前提条件が、伝統社会に対する暴力的な介入や破壊、金(きん)の買い占め、その他の方法で達成されたことを示すことです。教会と国家を通じて、高利貸業者が封建貴族層を破産させ、ブルジョアのために貨幣を開放する役割を果たしました。これがマルクス原蓄論の要旨です。ですが、本原的蓄積の要素が常に存在するだろうという点をマルクスは否定しませんでしたが、彼は、資本主義が自らの再生産条件を産出する能力が卓越しているので、ひとまず資本主義が循環を始めれば、原蓄の要素が相対的にあまり重要でなくなると語ったのは事実です。換言すれば、資本が剰余価値を生産し、貨幣資本を創り出して、産業予備軍の生産を通じて賃労働者を作り出すんです。もちろん世界のある部分では、本原的蓄積が続く様相を私たちは見てきましたし、原蓄は現在も進行中です。インドで農民社会の破壊が進行中ですし、もちろん中国でもそうです。ですから、このようなことは現代世界で本原的蓄積が持続する現象として考えるのが正解です。

ですが、私が特に注目したのは、豊富な資本があって豊富な労働力があるのに、資産価値を強盗のような手法で、人口の一部分のポケットから他の部分のポケットに移しかえる過程です。私は、サブライム住宅ローン危機を例にあげましたが、アメリカで600万ないし800万の人々が家を失いました。2007年と2008年に、黒人は自らの資産価値の60パーセントないし70パーセントを失い、白人は自らの財産の3分の1ほどを失いました。このように人口のさまざまな部分で途方もない損失が発生しましたが、そのすべての資産価値はどこに行ったのでしょうか。ウォール街はおおよそこの損失に見合う金額を自分たちのボーナスとして支給しています。この過程を検討したあるアメリカの判事は、「これはアメリカの歴史上、一階級から他の階級への最大規模の富の移転だ」と言いましたが、それはもちろん、特権から疎外された人々から特権を持った人々への移動でした。このことが意味するのは、恐慌期にも金持ちはさらに金持ちになり、貧しい者ははるかに貧しくなるということです。

白楽晴 おそらくアンドリュー・メロン(Andrew Mellon)だったと思いますが、ご存知のように彼は「恐慌期には、資産がその本来の主人の手に戻ってくる」と言いました。

ハーヴェイ ぴったりの言葉です。ですから、私たちはサブライム住宅ローン危機とか、大企業が破産申請をするやり方とか、製薬会社が薬代を1粒5ドルから500ドルに引き上げるのにそれを阻む方法がないとか、このようなメカニズムを通じて、一階級から他の階級に付加転移する現実を論じる言語が必要です。これに対して、私は「略奪による蓄積」と呼んでいます。このような現実の1つの兆候は、土地の略奪や追放、撤去などが、世界随所で進んでいる一般的な過程であるということです。これは賃労働力を創り出す行為ではありません。そのまま一階級から他の階級に資産を移すことです。「略奪による蓄積」はそのようなもので、そのおかげでウォール街が危機の時代に繁盛できるのです。もう1つの表現は、金持ちはいい危機を決して浪費しないということでしょう。実際に多くの金持ちが2007年と2008年の危機を通じて大きな利益を得ました。これを正しく理解するために、私は、多くの場合に、価値実現の過程と直結する資産移転のメカニズム、すなわち価値実現の危機と略奪を通じた蓄積の間の関係を論じることが重要であると考えました。このような富の移転を本原的蓄積と呼ばないことが重要だと考えました。その2つはそれぞれ異なった脈絡で進む、相異なるメカニズムを持っています。

白楽晴 そうですね。十分に資本が蓄積されていない時期に行なわれる略奪による蓄積と、資本が過剰な状態で行なわれる略奪による蓄積を区別することが重要です。同時に、私は「略奪による蓄積」の概念を拡大して、原蓄期から始まって、略奪による蓄積があまり目立たない時期を経て、それがまた顕著になるすべての時期を網羅したらどうかと思います。なぜなら、いわゆる原蓄期という最初の段階は、厳密にいって「資本主義以前」というよりは、農業資本主義時代と実質的に重なっていて、このとき、国内だけでなく、アメリカ大陸やアフリカの富を大々的に略奪する作業がなされました。また、18世紀になっても、大西洋の奴隷貿易が最盛期だったのは18世紀末葉でしたし、あちこちで植民地事業が推し進められました。ですから、略奪による蓄積が重要でなかった時代はなかったんです。実際に先生は、新刊に収録されたある論文でこのように言っています[ref]“The ‘New’ Imperialism,” The Ways of the World, Oxford University Press 2016, p.259[/ref]。マルクスの優秀性は、彼が数多くの具体的・歴史的・社会的諸条件をひとまず捨象することによって、資本主義が最善の条件においても――換言すれば、公然たる略奪が介入しなかった状態でも――結局は自らの墓を掘る人材を生み出すということを立証した点でしょう。同時にもう1つの側面は、マルクスの追従者にとって、マルクスがきわめて特殊化された作業、多分に抽象化された作業を遂行していることを、しばしば忘却させ、したがって私たちが真に円満な現実分析をするならば、捨象された歴史的・社会的諸条件をあらためて考慮するべきだと言われました。その洞察を適用して、こう表現してみたらどうでしょう。マルクスが自らの経済学的分析の集中対象とした時期にも、略奪による蓄積は進んでいたし、他の見方をすれば、それが、労働者が生産した剰余価値の収奪に劣らず、歴史的資本主義の本質的一部だったということです。

ハーヴェイ その議論に反対するつもりはありません。ときおり私は、自分が何を話し、何を話そうと思ったのか忘れますが(笑)、私が言おうとしたのは、原蓄が資本主義の全歴史を通じて存在し、略奪による蓄積が新しい現象ではないということです。ただ1970年代以降、資本が投資されるとき、古典的なやり方ならば生産に投資して――マルクスが語るように――労働者から剰余価値を奪い取る作業だったでしょう。ですが、そのような投資をする機会がますます減ったんです。ですから、資本は略奪による蓄積の事業にますます投資するようになりました。略奪による蓄積が、1950年代や60年代に比べてますます重要になったのです。原蓄の過程は特にいわゆる第3世界で厳格に進行中でしたが、世界の資本主義としては、略奪による蓄積がその次の時期ほど重要ではなかったと思います。私たちが1960年代を検討するならば、私たちの周辺で略奪による蓄積と見えるものが、さほど顕著には見えないでしょう。

たとえば、製薬産業や薬価に関連して起きたこと、ヘッジファンドが製薬会社を接収して薬価を大幅に引き上げるようなことは見えないでしょう。興味深いのは、その薬価を個人が出すのでなく、保険会社が出しているという点です。そして後でみな医療費がずいぶん上がったと文句を言います。実は、これは多くの部分、ヘッジファンドが略奪による蓄積を遂行しているためです。問題は、年金の権利の喪失にも拡大できます。労働者が貯めた年金権に対して大々的な攻撃が進み、健康保険の権利の喪失、教育に対する公共支援の喪失など、このような種類の損失がかなりあります。私が見るところ、現代資本主義はすぐ目の前で、はるかに多くの略奪による蓄積を進めています。この現実をそのような名称で呼ぶことが重要と考えたもう1つの理由は、アメリカでアイオワ州の農民と話しながら、あなたは原蓄の犠牲者だと認識するかと聞いても、いったい何をふざけたことを言うのかというでしょう。ですが、略奪を通じた資本蓄積といえば、何のことか即座にわかります。このように、それは、人々が自分の周辺で起き続けていることを、目撃する過程を議論する時に理解できる用語であると思います。

 

産業現場の闘争を越え、都市の闘争へ

 

白楽晴 では都市の問題へ移りましょう。先生は、最近数十年間の民衆闘争のうち、大部分は都市での闘争であるという、明白な経験的事実を明確にしたことが、きわめて重要だったと思います。先生はまた、パリ・コミューンの例をあげながら、それが厳密な意味でのプロレタリア蜂起とみるよりは、都市の闘争であった点を指摘されました。問題は、このような経験的現実をどう解釈するかということです。先生は、大多数の左派ないし進歩的な思想家や活動家が、いまだ都市が剰余価値生産の起きる現場であり、闘争は――造成された都市環境を含めて――そのように生産された剰余価値をどう処分するかに関すること、その生産者と非生産者の間の闘争であることを認識できずにいると指摘されました。私はこのことが、私たちが看過してはならない重要な洞察だと思います。

ハーヴェイ 私もそう考えます。それは常に私にとって重要な問題でした。都市の闘争が階級闘争であるという点を、左派の人々に説得するのは非常に大変でした。ですが、このときの階級闘争はかなり異なった内容を持っており、かなり異なった形態を帯びています。一例をあげるなら、マニュエル・カステル(Manuel Castells Olivan、1942-)と私は、都市問題を探求する作業に積極的に関与してきましたが、彼も初期作では、このような問題を階級闘争の次元として好んで議論し、パリ・コミューンなどに関して、それらがマルクス理論の一部であると考えていました。ですが、『都市と草の根』で、彼は突然、これは剰余価値生産をめぐる闘争ではないので、マルクス理論とは関係ないとしました[ref]Manuel Castells, The City and the Grassroots, University of California Press, 1983.[/ref]。都市の闘争は、労働現場での闘争と統合され得ないというのです。私はいったい彼がなぜそのような立場を取るのか理解できませんでした。もちろんその時から彼はマルクス主義陣営を離れて、彼独自の道を歩んでいきました。

私は、なぜ彼がそう言わなければならなかったのか、本当に理解できませんが、私が考えるところでは――同じ話の繰返しですが――価値実現に関する闘争が、生産をめぐる闘争に劣らず重要であるという点を看過する問題に帰着します。ですから、私が生産に関する闘争を軽視するという批判に接する時、私は、そうではない、中国の深圳やバングラデシュで起きている事態を見れば、工場プロレタリアートの闘争がきわめて重要だと言います。ですが、このような現実を私たちは、他の諸問題に対する理解と結びつけるべきです。ですから、たとえばマニュエルのパリ・コミューン解釈によれば、それはプロレタリアートの蜂起でなく都市反乱でした。私はその2つを別個のものと見ませんし、人々がどうして両者を別個のものと見るのか理解ができません。私はここで、マニュエルを一例として、都市の闘争が根本的に階級闘争であるという考えに適応できない、左派思想家の例として論じています。都市の闘争には「うちの裏庭ではダメだ」(Not in my backyard= NIMBY)という、いわゆるNIMBY政治にもとづいた闘争ももちろんあります。NIMBYは、ブルジョアが自分の権益を守ろうとする動きで、それゆえに彼らは閉鎖的な住宅団地を作り、反開発主義的であり、排他的な都市社会運動の形成に積極的になります。都市闘争の領域では、そのような種類の多くの争点と対面しなければなりません。労働者vs資本家という明瞭な対立構図が消え、すべてのことがかなり曖昧になります。同時に分析がはるかに現実的になります。私は現実主義の方を選択して、そうだ、いいぞ、私たちはこれらの闘争を見て、その階級的内容を点検し、そこに見られた階級的内容を労働者の闘争と結合して、批判的な政治企画を作り出そうという立場です。

私はクラムシ(A. Gramsci)がかねてから――1919年頃だったと思います――このような問題について書いていたという事実が、いつも印象深かったです。彼は、私たちが工場の労働者評議会を組織するのはいいが、近隣住民の組織を通じて評議会を後押しする必要があると主張しました。そして非常に意味深長な話をしました。労働階級を彼らが暮らす近所で考察すれば、工場で出会う労働階級の一部でない、全体の労働階級の欲求と希望と欲望がどのようなものか、はるかに正しく知ることができるということです。そして、街の清掃夫や銀行事務員、運輸業従事者など、普通の労働階級の一部として扱われない隣人たちの組織を作ることができるならば、住民組織自体が、社会主義のための闘争を支援するストライキを行うこともできます。クラムシはこのように、工場組織に併行する近隣住民組織の重要性を認識しました。不幸にも彼は、これを一般理論に発展させるところまでは行きませんでしたが、このような論評を通じて、私は、この問題を考えようとする方向を提示しました。歴史的にも労働現場の闘争は、地域共同体や隣人たちの支援があるときの方が、成功する事例がはるかに多いと思います。地域共同体の支援がなければ、工場を占拠中の労働者らに、誰がサンドイッチを持って行くでしょうか?

白楽晴 イギリスの炭鉱労働者のストライキ当時、ノーザンブリア地方がかなり持ちこたえた事実を指摘されたこともあります。

ハーヴェイ それはアメリカでの古典的な闘争でも見られた現象です。たとえば1930年代のミシガン州フリントの自動車産業ストライキの時も、近隣の住民たちがストライキ労働者に支持と支援を送り、ストライキの成功はその点が大きかったと思います。

白楽晴 講演で先生は、ニューヨークのある小さな食堂の主人の例をあげました。雇用人に非常に低い賃金を与えながらも、自らが誰よりもさらに熱心に仕事をし、社員の月給を到底引き上げられない現状だから、自らが労働者を搾取しているとは思えないんです。ですが、彼が貯めたお金がみなどこへ行くのか? 銀行利子として出て行き、建物主に家賃として出て行き、といった形です。ですから彼は、労働者階級による都市闘争の自然な味方になるということです。ですが、私はここで、1つの理論的問題を提起したいと思います。プロレタリアートとブルジョアを区別する古典的基準は生産手段の所有の如何です。食堂の主人は食堂の所有主なので、彼が生産手段を所有していると言うこともできます。ですが、もしかしたら私たちは、例の古典的基準を緩和したり、あるいは別に適用するべきかもしれません。なぜなら、現代世界において、生産に必要な手段の規模を考え、また小規模自営業者に対する金融機関の支配力を勘案する時、ニューヨークのその食堂の主人が、はたして自らの生産手段をどれほどきちんと所有していると言えるでしょうか。ある意味では、莫大な年俸を受ける大企業の経営者の方が――株主かどうかを離れても――生産手段の所有者にはるかに近いと思います。

ハーヴェイ その通りです。

白楽晴 ならば、食堂の主人は、単に都市闘争における味方でなく、潜在的な労働階級の成員と見ることができるでしょう。もちろん彼自身は、自らプロレタリアと絶対に考えませんし、私たちがその点をあえて説得しようとする必要もありません。ただ問題は、多くの左派思想家が、彼が破産して、いわゆる小市民階級から脱落する前に、彼がすでにプロレタリアートに近い存在だということを考慮していないという点です。

ハーヴェイ 私は、マルクスが彼の理論的著述で、つねに特定の個人でない役割を論じるという点に注目してきました。たとえば、多くの労働階級の構成員が、年金計画を通じて株式市場に投資しています。個人としては実際にさまざまに異なった役割を遂行できます。食堂の主人の場合、彼はもちろん、什器や他の生産手段を所有した状態ですが、生産手段の1つは土地または空間です。土地よりも空間と呼びましょう。食堂の主人が空間を所有していなければ、空間を借りなければなりません。ですから、生産手段としての空間を他人が所有しているわけですが、空間または土地こそ基本的な生産手段です。これはお金にも該当します。お金は生産手段であり、資本を創り出す手段です。『資本論』第3巻をみると、土地に対する地代(賃貸料)と、借りたお金に対する利子について検討しています。ですが、この場合にも『資本論』の解読に若干の失敗がありました。人々は生産手段の問題を一層複雑にする地代と利子に、十分な注意を注ぎませんでした。一定の物理的生産手段を所有しても、土地を統制できなければ、自らの生産手段のうち相当部分を他人が所有するのです。したがって、ニューヨークの食堂の主人の実質的な状況には、このような複合的な要素があります。もちろん彼らは労働階級と呼ばれることを望みませんが、基本的な生産手段である土地や貨幣を制御できないという点では労働階級です。ならば、私たちは、よく無視される幅広い領域の不満に注目できます。たとえば、ニューヨークでは、伝統的な家族経営の食堂が相次いで廃業し、都市生活の位相が大きく変わっています。家族経営の食堂があったところに銀行の支店やチェーン店が入っています。賃貸料の引き上げによって生活の質や都市生活の位相が破壊されています。実際に非常に興味ある抗議運動が繰り広げられたりもしました。ニューヨークのマディソンスクエアガーデンの近所に1930年代から存在し、人々が好んで訪ねる有名なカフェがあるのですが、賃貸料がかなり高騰し、閉店することになりました。これに対する公開的な抗議があり、都市生活の質を破壊する、このようなことが続いてはいけないという人々の主張が、『ニューヨークタイムズ』にも報道されました。都市一帯でこのような争点が提起され始めました。私は、何が階級であり、何が生産手段かについて、私たちがもう少し開放的に接近する必要があると思います。繰り返し言いますが、このようになれば問題は一層複雑になります。都市の状況では、労働者階級vs資本家階級という対立の鮮明性が薄れます。ですが、私たちの認識ははるかに現実的になって、日常生活の政治の実状にはるかに近接することになります。

 

水平性と位階秩序の問題

 

白楽晴 ソウルでも似たような現象や出来事が起こっていますが、先生は現場に通って人々に会いながら、その点を確認されたということがわかります。都市と都市に対する権利については話題も多く、途方もなく重要な主題と思いますが、他のテーマに移らなければなりません。先生の著述や、昨日のワークショップでも出てきた話ですが、私が特に興味深く思ったのは、闘争やオールタナティブ社会の組織原理と関連した「位階秩序」(hierarchy)の問題です。これまでこの問題を提起しながら、個人的な代価も払われたと聞いていますが、位階秩序を論じる瞬間、多くの生態主義者や無政府主義者から、スターリン主義者などという非難が返ってくるのが常です。ですが、先生が指摘されたように、たとえば気候変化のような大型の生態問題に対処しようとするならば、一定の中央の権威というか、ある種の位階的な組織が必須です。気候変化に反対して生態系を保護するという数多くの小集団が、単に相互の「水平的ネットワーク」だけを維持したまま、各自が仕事をやっているわけにはいきません。先生はまた「環境の性格」という論文で、一切の位階秩序を否定する生態主義、または無政府主義運動は、持続可能ではなく、さらに「生にとって危険」でもありうると言いました[ref]“The Nature of Environment,” The Ways of the World, p.206。[/ref]。韓国では伝統的に、社会的な位階秩序の概念が深く根付いているので、大多数の進歩的知識人がその用語自体をダブー視したりもします。私もときおりこの問題を提起しましたが、保守主義者ないし反動主義者と非難されたりもしました。

ハーヴェイ そうですね。そのうえ先生や私も、家父長的であると非難されるでしょう。そうですね。若干はそうなのかもしれません。位階秩序は非常に難しい問題です。私はすでに、世界の随所に現存する非公式のネットワークが、さまざまな種類の現実参与の活動を相互につなげることに対して、私の予想以上に進展した事実に深い印象を受けています。これは特に「文化生産者」と言える人々が顕著です。彼らは活動を支えるある種の調整の枠組みが必要ですが、互いにつながってネットワーキングして集結するために、ビエンナーレやその他の文化行事の拡散を利用する点が印象的です。したがって私は、ネットワーク形態、水平的形態を精一杯拡大しようという考えを支持し、おそらく私が考えたよりも、さらに遠くまで行くだろうと思います。これは、現存する新しい社会的メディア構造を、建設的かつ協同的に使う能力のためでもあります。したがって私は、多くの人々が自らの政治行動を水平的なネットワークの枠組みで組織しようとすることが、時間の浪費と考えるという印象を与えたくはありません。実際にそれは非常に進歩的なことで、私はそれを支持したいと思います。

白楽晴 ええ、もちろんです。

ハーヴェイ ただ、ある種の争点と関連して、そのようなやり方では対応できないという問題があります。気候変化や大規模なインフラ構築の場合がそうです。そのような大きなスケールで作業することが有益なことだと言うと、ある種の位階的統制や生産構造なくして、どのようにそのことをやり遂げられるでしょうか。問題は、どのような方法でも民主主義的な責任追及が可能な、やり方の位階秩序を見出すことです。私が見るところ、それこそが問題の核心です。ある種の階級構造は、ひとまず最上級に権限を集中させれば、草の根に対する自らの責任性を断絶する傾向があり、そうなると民主主義は消えてしまうからです。選挙と関連してみても、ある人が社会運動出身で非常に民主的なのに、ひとまず市長とかそのような座に座ると、突然、他の方向に進んでしまうことがあります。こうしたことは私たちの周辺でよく起きますが、そのような時、草の根側の典型的な反応は、政治権力が自分たちを裏切ったというものです。ですが、たまに背信行為はありますが、私はそれが公正な評価とは思いません。私が見るところ、これは組織をめぐる私たちの時代の重大な争点の1つです。

私は以前から、民主的連邦主義に関するマレイ・ブクチン(Murray Bookchin)の著述が好きなのはそのためです[ref]マレイ・ブクチン(Murray Bookchin、1921-2006)アメリカの思想家。「社会的生態学」を提起し、個人主義的で非政治的な当代のアメリカの無政府主義者などに反発し、「社会的無政府主義」、「自由論的地方自治主主義」(libertarian municipalism)、および(大文字を使って他の地方自治主義と区別する) Communalismを唱えた。[/ref]。彼は、村と地域単位で住民総会式の意志決定構造を持つものの、これらの構造を「諸総会の総会」として統合し、より大きな規模の生態地域的(bioregional)な問題を扱おうと構想しました。そして、たとえば1つの生態地域で水を合理的に使用する問題は、個人や小地域の決定に任せずに、該当する生態地域の持つ可能性や必要に符合した実践方式が、合意を通じて出るようにするということです。私が見るところ、ブクチンの体系は、私たちがこのような外部的次元に到達すれば、人々に対する管理でなく、事物に対する管理が主な目標であるといった、サン・シモン(H. de Saint-Simon)の原則に戻るのです。これはかなり興味深い考え方だと思います。実際に事物と人々を明確に区分できるかわかりませんが趣旨はわかります。すなわち、すべての次元で個人の自由を極大化しようとしますが、そのためには、人々に、その自由が意味あるものとして行使させる、ある種の物理的基盤を集団的に創り出すべきだということです。これは議論する必要性が切実な問題です。

いずれにせよ、私は、自分が、水平的な組織形態の物神崇拝と呼ぶ傾向を非常に嘆いているという点を、公開的に表明したことがあります。水平的組織形態が神聖不可侵になって、批判や評価をしてはいけないという雰囲気ですが、本来、このような組織を近くで見てみると、位階秩序の怪しい形態や、新たな権力構造が確立される隠密な形が、顕著だったりもします。

白楽晴 私たちが一層柔軟かつ現実的な組織原理を開発する必要があるということに全面的に同意します。ですが、どのような位階秩序がよくて役に立ち、どのような位階秩序がそうでなく、どのようにいい位階秩序を確保すべきかという問題に円満に対処するためには、平等の問題ももう少し深く探求し、どのようなものがよい平等であり、どのようなものはそうでないかを識別するべきです。マルクスも――私が間違っていたら指摘して下さい――平等自体について別に語らなかったと思います。彼は階級社会の撤廃を主張しましたが、生のオールタナティブなビジョンを論じる時は、主として個性の完全な発達や自由な生産者の自発的な連合などを語ります。私はこのようなものも平等の物神化から私たちを解放することに一助すると思います。

ハーヴェイ ええ、その通りです。私はさまざまな次元で、平等は支持しない方です。おそらく最も簡明に表現するならば、私は人生の機会の平等を支持しますが、結果の平等は決して支持しません。社会を魅力あふれるようにすることの1つは、差異の生産だと信じます。たとえば私は、地理的に不均等な発展が根絶されるのを見たくはありません。不均等な地理的発展は、実際にきわめて興味深くなると思います。私は、都市の相異なる諸空間、それぞれその印象が異なり、日常生活の位相が異なる諸空間を訪ねるのが好きで、ですから多様性というものをとても重視します。ですが、ある地点で、私たちはこれを緩和し、そのような差異が、都市の外郭に暮らす人々の人生の機会が、他の地域に暮らす人々に比べて、著しく縮小されてはならないという理念も受け入れるべきです。私たちは、たとえば期待寿命のような人生の機会が、すべての人に保障される環境を作るべきですが、趣味と存在の同質性が強要される環境を作ってはなりません。私がつねにアイロニーと考えるのは、マルクスに対する批判の1つが、彼がすべてのものを同じようにしたと考えている点です。そのうえ、このような批判が、随所で、すべてのものを同じようにすることに余念がない資本主義の側から出るのです。いったい誰があらゆるものを同じようにするのに忙しいというのでしょうか? 実際に文化的な汎左派勢力は、差異の保存、文化的差異や趣味、および生活様式の差異の保存に最も情熱的な社会集団です。平等を物神化してはならないという先生の主張に同意します。

 

自発性と知恵の発現には

 

白楽晴 そこからもう一歩出てみるとどうでしょう。平等な人生の機会が与えられた状況から、結果の不平等が可能にする多様性を重視するところから、もう一歩出て、成就した知恵や人生をきちんと生きる真の能力や、そのようなものにおける一種の不均等概念を確立したらと思うんです。私がある時期、外国で「hierarchy of wisdom」(知恵の位階秩序)という表現を使ったことがありますが、かなり不適切な選択だったようです。

ハーヴェイ ええ、そうすると、十字架に頼ることになります(笑)。

白楽晴 「位階秩序」もよくない単語ですが、英語で「wisdom」というと、人生を生きる実用的な知恵くらいのことを想定します。ですが、私が意味したのは、むしろ仏教的な意味の知恵、真の悟りから出る知恵のようなものでした。とにかく「知恵の位階秩序」はあまりよくない表現でしたし、いまだに適当な表現を探せていません。私の趣旨は、自発的な服従やリーダーシップの受け入れが必要な状況において、人々がそのような種類の自然な権威を積んだ人々を尊重するよう教育されるべきではないかということです。これは俗にいう能力主義(meritocracy)とは違います。いわゆる能力主義の主たる問題は、「能力」が既存体制の中で競争力中心に評価されるという点ですが、私のいう知恵は「悪い不平等」に該当する、あらゆる抑圧的な差別が除去された時、その真価が発揮されうる性質のものです。

ハーヴェイ 私はそのような形で表現しません。そのような道を選びたくありません。私が『希望の諸空間』の終わりの部分に挿入したユートピア的なスケッチでは、人々が権威のようなものを持つのでなく、彼らが成し遂げた素養に対する尊重心を持って、それでこれを尊重する人が、彼らから学ぼうと考える状況を描いてみました[ref]David Harvey, Spaces of Hope, University of California Press, 2000. 韓国語訳は、デヴィッド・ハーヴェイ(チェ・ビョンド訳)『希望の空間』、ハンウル、2001。[/ref]。その部分で私が提示したアイディアの1つは、誰でも安息年を得て、7年に1回ずつ仕事を休み、他所に行って他の仕事をしてみるということでした。たとえば、音楽に関心があって、訪ねてみたい立派な音楽家がいるという時、安息年にそれをやってみるんです。ですが、これは服従のようなものと全く異なり、一定の技量を習得しようとする欲望です。私自身はピアノを本当に習いたいです。幼い時ちょっと習ったことはありますが、きちんと続いていないのがいつも残念です。安息年が与えられるならば、どこかでふらっと出かけて、そうやってみることもできます。先生がおっしゃるのは、もしかしたら成就の一定の不均等として、多くの人々が従いたいと考える、そのようなものかもしれません。ですが、服従というよりは、真似をすることだと言いたいです。もちろん自らが好きで尊重することを真似するんです。当然、それは全面的に自発的な性格です。

白楽晴 自発的であることはもちろんですし、ある種の固定された権威に対する服従でもありません。ピアノの先生は自身の安息年が来た時、先生を訪ねてきて『資本論』読解を学ぶこともできます。要は単純な技芸や知識の次元でなく、人生が要求するある種の本質的な能力、たとえば仏教でいう「法力」や、東アジアで「道」と呼ぶ次元の能力を考えてみようということです。もちろん法(dharma)を人生のさまざまな具体的状況に応用する時、特定の法師が常に教える位置にいるわけではありません。もし、ある僧侶がそのような試みをするならば、むしろ彼の僧侶としての資格や知恵が疑わしくなります。

仏教や「道」を引用するのが、最も適切な意思伝達方法でないかもしれないことは認めます。むしろ、昨日のワークショップで提起されたE・P・トムソン(E. P. Thompson)の「欲望の教育」(education of desire)という概念の方がさらに有用かもしれません[ref]E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary (Merlin Press, 1955), 改訂版(1976)、著者あとがき参照。韓国語訳は、E・P・トムスン(ユン・ヒョニョン他訳)『ウィリアム・モリス』(全2冊)、ハンギル社、2012。[/ref]。「智者」とは、知性や実践力だけでなく、欲望次元でもさらに立派に教育された人といえます。とにかく私の趣旨は、私たちが社会や組織にかならずや必要な「いい位階秩序」を確保しようとするなら、平等と多様性を同時に追求すること以上の、ある種の教育や組織の原理を探求すべきではないかということです。かならず必要な現実的要求に応じる「いい」不平等、ないし不均等を認めて、そのような知恵を普及する教育をして、究極的にはそのような望ましい差異まで縮小することに寄与する教育です。

ハーヴェイ 私はそこまでは同意しにくいです。私なら、教育構図の反対の極から始めます。昨日、私はフレイレ(Paulo Freire)の『ペダゴジー』が好きだと言いましたが[ref]Paulo Freire, Pedagogy of the Oppressed [1968], tr. Myra Bergman Ramos (1970, 2000). 韓国語訳は、パウロ・フレイレ(ナム・ギョンテ訳)『ペダゴジー――30周年記念版』グリーンビー、2009。[/ref]、彼の教育学は、民衆が一端の物神化された諸概念、クラムシが定義した「悪い常識」から解放される過程です。既存の偏見から民衆を解放することが大変重要だと思います。ひとまずその過程が始まれば、どのような結果が出るか予測できません。未知の世界に向かうドアをあけるようなことです。それこそ「百花斉放」なんです。私は、先生のお言葉の中に含まれた、ある種の成就の基準よりは、そのような形の考えを好みます。一定の成就基準を設定して、それによって、ある人が他の人よりも立派であるという風にいう責任を負いたくありません。それは違うと思います。

白楽晴 そうですね、私がまだぴったりした表現を探せていないことだけは明らかなようです(笑)。とにかく先生は「善無限」(good infinity)、すなわちいい無限大のことをおっしゃりながら、マルクスの「単純再生産」(simple reproduction)の概念に言及しましたが[ref]デヴィッド・ハーヴェイ「実現の危機と日常生活の変貌」、『創作と批評』2016年秋号、94頁。[/ref]、単純再生産が文字通りゼロ成長である必要はありませんが、とにかく複率成長(compound growth)でない単純再生産が、主な目標になるためには、新たな社会制度だけでなく、全く別に教育を受けた市民が必要であろうという点は明らかです。

ハーヴェイ もちろんです。マルクス理論によれば、単純再生産が崩壊する理由は、利潤追求が資本の流通過程で目標になるからです。利潤追求はまさに拡張を意味し、これは私たちが直面する「悪無限」(bad infinity)を生みます。永遠の複合成長は不可能なことで、あらゆるストレス現象を生み始めます。したがって私たちは、人々が利潤動機なく社会生活の単純再生産を持続する、活動の諸要因を見つけなければなりません。ですが、これは単純再生産の重要性を認識する集団的意識を要求します。もちろん、過去の農民生活の単純再生産を考えれば、それはいくらでも実現可能なことです。人々が自分たちを再生産し、これは「善無限」、社会が代々、自己再生産できる、いい無限大です。資本主義はそれと決別し、今は無限の成長が大勢です。農民社会に存在したインセンティブは、もちろんおおよそ穀物を栽培し、農作業が終わった後にパンを確保するためには何をするべきかという循環周期に直結し、与えられた社会構造の内部で奨励される、いろいろなことと直結していました。今、私たちは、一層複雑な社会を、どのような方法ででも再生産できるインセンティブを見つけなければなりません。ですが、人々がみな個人主義的な成功を考える時代に、そのことをやり遂げるのは非常に大変です。したがって私たちは、個人主義を打倒し、利潤動機を清算して、人々が社会の再生産のために充分なだけ仕事ができるように誘導する、社会的方案を発見しなければなりません。

また、そのことが意識の一大変貌を要するという先生の考えはその通りです。人々はそのようなことが可能だろうかといいますが、私は、新自由主義の時代を生きてきましたし、これまで30-40年の間――先生もそうでしたが――人々の意識が変わるのを目撃したと答えます。意識の変化は不可能ではなく、単に長期間にわたる過程にすぎません。今、私たちはみな、1970年代には想像できなかった形で新自由主義的になりました。ですから変化は可能であり、劇的な変化も可能です。中国に行っておもしろかったことの1つは、中国では誰もが変化が可能であると信じている点でした。西側世界は、今、ものすごく悲観的です。中国で私たちが批判することが数多く起きていたとしても、変化は可能であり、急速な変化が可能であり、実際に急速に変化していることが人々に感知される雰囲気が存在します。よりよい方向への変化が可能であり、中国で起きたことは、大部分の中国人には実際に一層よくなる変化でした。

 

新自由主義の分析は依然として有効か

 

白楽晴 では資本の現状の問題に戻ってみましょう。先生は、資本家階級が現在、完全に混乱状態に陥り、経済危機にどう対処するかまったくわからず、政治は完全におかしくなっているとおっしゃいました。アメリカでのトランプ(D. Trump)現象や、イギリスのEU離脱の国民投票などを例にあげられました[ref]イギリスの国民投票は、この対談の翌日に施行され、イギリスのEU離脱を決めたが、ワークショップでハーヴェイは、このような国民投票をすることになったこと自体が、支配階級の無能を意味するものであり、結果に関係なく、支配階級が事態を統制する能力は大きく弱まるだろうと見通した。[/ref]。今日の韓国の状況も、私は似ていると思います。もちろん、他の国々と違っている点の1つは、韓国が分断された朝鮮半島の一部であるという点です。私が分断体制と呼ぶのは、韓国の資本主義体制を支える1つの柱の役割をしており、北のいわゆる社会主義体制についても同じです。ですが、私が見るところ、分断体制自体もいまや重大な危機に直面しています。韓国の政治は、現在、ほとんど「おかしくなっている」水準ですが、ただ、韓国人と中国人の共通点の1つは、人々がよりよい方向への変化を含めて、多くの変化を見てきたし、よくなりうる自信をいまだ完全に失っていないという点です。その点が、韓国と日本で異なる点かもしれませんが、最近は、日本でも人々が目覚めて、かなり憤って動き始めているようです。ですが、アメリカやヨーロッパに戻って、先生は、資本家階級が統制力を喪失しているといいましたが、1973年の危機以降、彼らが産出した新自由主義の処方が効能を失ったということなのでしょうか?

ハーヴェイ 新自由主義の処方をどう解釈するかにかかっています。私は最初から、それが権力を寡頭体制に替えて集中するための階級的企画であると考えました。私が見るところ、その階級的プロジェクトは今でも健在です。1930年代を見ると、既存体制の代わりをするオールタナティブな体制を作り出せるかという思想や議論が、その時代に大量に生産されました。国家の役割が変わり、経済の運用が変わり、ケインズ(J. M. Keynes)の経済理論が突然、実現可能になりました。明らかに故障したはずの資本主義にどう対応するかに関する思考や概念の変貌を、危機が触発したんです。このとき現れた新しい考え方や新しい政治的実践が、資本主義の立場では1945年以降、大きな成功を収めました。そしてまた1970年代になると省察の時期があり、新しい理論が出てきてケインズが排斥され、供給者中心の経済学が胎頭して権力構造の移転が起き、制度が変わり、考え方が変わり始め……そして1970年代に依然として資本主義の立場で新しい答案が――私が嫌いな答案ですが――作られます。

2008年以降、注目される点は、そのような省察が全く見られないということです。政治権力がやっていることを見ると、以前に出したのと同じ処方をそのまま出しています。1、2か所、若干、手を入れただけです。唯一の例外は中国が主導する拡張で、これは厳密な意味でケインズ式ではありませんが、1945年以降、アメリカがやったことと非常に似ています。ですが、本当に新しい思考、新しい処方は出なくなっています。どこかで何かが進行中ですが、私にわかっていないこともあるでしょう。とにかく以前のような討論や論争の状態が私の目に入ってきません。IMFがもう1つの暗澹たる予測を出し、同じような構造調整政策を追求しているのが見えるだけです。最近、私が繰り返し批判することの1つに、みな、出来事がどう起きるのかについてのみ語り、なぜそのようなことが起こるのかには関心がないということがあります。ですからIMFは、今、アメリカ経済の難航が予想される、労働参与率が下降し、生産率が非常に低く、中産層が消えているなどの話をします。これは非常に悲観的な展望ですが、それでもなぜこのようなことが起きていて、何をしなければならないのか、どのように全体経済を再構成できるのかについては誰も語りません。中国経済が確実に、沈滞ではないもののその動力が低下している状況において、世界資本主義は大きな難関に直面していると思います。できることは通貨供給を増やし続けることだけです。各国の中央銀行は、あたかもそれが解決策でもあるかのように世界の通貨量に新たなケタを追加しています。このようなことが「悪無限」でなく何でしょう。ですから私は、徹底的に思考して経済体制を切り替えようとする戦闘的姿勢が、さらに多く見られないことが非常に驚きです。経済学における新自由主義的な定説は健在であり、いつの時代にも劣らず強力で、大学はますます新自由主義的な企業構造に支配されつつあります。新しい思考がどこから出てくるのでしょうか?

白楽晴 他方で新自由主義の理念は、2008年以降に色あせたとも考えられますが。

ハーヴェイ 正当性は喪失しましたが、その実行力は依然として健在だと思います。ですが、正当性の代わりに登場したのが、世の中を変えようとする一切の真の闘争に対する権威主義的で軍事化された統制です。新自由主義はその正当性を喪失したかもしれませんが、すべての反対勢力を軍事的対応が必要なテロリズムと規定する力を得ました。

白楽晴 韓国で私は、多くの進歩的同僚が新自由主義という用語を、あまりにも簡単に振り回している点を批判したことがあります。たとえば彼らは、朝鮮半島の分断体制が遂行する媒介の役割を完全に無視しています。地球次元の新自由主義が韓国にも適用できるのは間違いありませんが、こちらでは南北朝鮮の分断と対決を通じて、新自由主義の作用が悪化したり歪曲される場合が多いと思います。とにかく私は、新自由主義が資産価値移転のための企画として、今でも健在だという先生の診断に同意します。私自身は新自由主義を「人間の仮面を捨てた資本主義」と言ったことがあり[ref]白楽晴「ふたたび知恵の時代のために」、『韓半島式統一、現在進行形』、創作と批評社、2006、104頁。(日本語訳: 『朝鮮半島の平和と統一』(靑柳純一訳).岩波書店,2008, 150頁)。[/ref]、人間の顔を持った資本主義のことを一時かなり話しましたが、最近はあまりそのような話が聞こえてきません。

ハーヴェイ ええ、私もそのような話はほとんど消えたと思います。

白楽晴 私の趣旨は、資本主義のいわゆる「人間の顔」というものが、本来仮面であったということでしょう。もちろん多くの人々がそれが本当の顔だと信じていましたが。

ハーヴェイ 分かち合いの経済とか倫理的経済というように、仮面をまた作り出そうとする試みがあります。そのようなプログラムが一部にありますが、別に成功してはいません。

白楽晴 1970年代に資本家階級の指導者は仮面を捨てて、おそらく原始的ないし野蛮な資本主義に戻ることに決めたようです。

ハーヴェイ 『資本論』第1巻に記述された形に戻ることにしたんです。

白楽晴 本原的蓄積の章を含む『資本論』第1巻にです。

ハーヴェイ ええ、間違いありません。

白楽晴 ですが、同時に「新自由主義」というものが、もう1つの仮面でもありえます。「新」とか「自由主義」は、ともにある意味では肯定的な用語です。多くの人々が魅力を感じる面があります。ですが、新自由主義は実際に、資本主義が民主主義と一定程度結合するとか、さらに社会民主主義に進化する以前の段階に戻ろうということですから、本当に新しいとは言えません。そのうえ真の意味での自由主義でもありません。本来、自由主義は、諸個人と個人事業家の自由を意味したのであって、新自由主義の受恵者である法人や大企業の自由を唱えたものではありませんでした。ですから、私たちは新しい仮面に出会ったわけですが、先生も同意されたように、この仮面すら2008年以降はボロボロになりました。

ハーヴェイ 話が出たついでに付け加えるならば、私が反-新自由主義者でなく、反-資本主義者として自任する理由がまさにその点においてです。多くの人々が新自由主義に反対しながらも反資本主義ではありません。私は反資本主義者になることの方が、はるかに重要だと思います。

白楽晴 ですから、新自由主義にあまりにも集中する時の、もう1つの弊害は、資本主義の実状を隠すということですね。

ハーヴェイ その通りです。

 

領土の論理と資本の論理、岐路に立つ中国・インド

 

白楽晴 先生が、中国が資本主義の虎の尻尾をつかまえていると比喩した時、私は、その虎がどれくらい元気なのか、どれくらいさらに長く生きるかに多くのことがかかっていると申し上げました。アメリカやヨーロッパの中心部の資本家階級が実際にめちゃくちゃの状態で統制力を喪失したとすれば、領土の論理と資本主義の論理を自らのやり方で新しく結合しようとする中国側の努力が、一見したところより大きな潜在力を持ったのではないでしょうか? もちろん彼らのスローガンが語るように、「中国色の社会主義」という新しい道を提示したわけではありませんが。正反対に彼らは新自由主義的な世界秩序にひとまず加担しました。しかし同時に中国は、社民主義のような、社民主義とはいえませんが、とにかくちょっと違った種類の資本主義を維持し、ある面では自らの社会主義革命の遺産を保存しようとする、一種の護衛作戦をおこなっているように思えます。そのうえ中国はものすごく大きな国です。面積だけ考えれば、アメリカやカナダとは思ったより大きな差がなく、ロシアより小さいですが、巨大な人口と悠久の歴史を持っているので、先生が「異質場的」(heterotopic)とおっしゃる諸要素をかなり多く持っています。それで、例の虎がいよいよ倒れる時、結実を結ぶこととなる多くの潜在力を、一種の遅延作戦としても保存できるのではないかと思います。

東アジア雑誌会議で、中国社会科学院の孫歌という知識人が言ったことですが、人々はあたかも中国が完成された国民国家のように言うが、事実はそうではなく、実際に中国という国が一体どのようなものであり、将来、どのようなものになるのか、まだわからないということでした。私はその言葉に一理あると思います。もちろん、国際舞台で中国は強力な国民国家として振る舞っていますが、中国内部は昔の帝国や近代的国民国家、その他に確実に規定しにくいさまざまな諸要素の複合体であると思います。実際に中国が、完成された国民国家になるか否かによって、多くのことが変わるでしょうが、私は、東アジア地域の和合と均衡のために、また先生がさきほど、最近、中国が世界のあちこちで行っている巨大な投資活動をめぐって憂慮を表明された、地球的生態の問題の観点からも、中国の完全な国民国家化はきわめて不幸な結果をもたらすだろうと思います。とにかく私は、中国が虎に食われず、尻尾をつかまえて十分に長時間耐えるなら、今後、活用できる複雑な諸要因が中国内部にかなり多く存在すると思います。

ハーヴェイ それはアメリカの場合、少なくとも過去のアメリカの場合にも該当する話ではないでしょうか? アメリカの南部は、奴隷制度の遺産や人種関係の特殊な歴史によって相当な異質性を示しました。アメリカの西部も同様でした。アメリカ内の地域主義はきわめて重要な要因でした。そして最近、経済新聞が展望するのを見ると、中国の巨大なライバルはインドです。インドの賃労働力の規模は中国より急速に成長しています。中国は地政学的次元で人口問題に直面しており、それゆえに経済活動の相当部分をバングラデシュ、ベトナム、カンボジアなどに外注化しています。ですからインドが世界金融体制に編入されるのは、かなり緊張する瞬間です。

したがって、私が無限成長の未来に関して悲観的であるという時は、長期的にそうであるという意味であり、短期的には「虎の尻尾をつかまえて」生き残る地域があるということを否定するわけではありません。それとともに、彼らがつかんでいる虎に相当量のエネルギーを提供したりもしますが、2008年以降、中国が世界資本主義に対して行なったことはそのようなものであると思います。資本主義が世界的に没落するのを中国が実質的に救い出しました。それは中国の政府与党の意図では決してなかったと思いますが、結果的にそうなったと言えるでしょう。今後もずっとそうできるかは誰にもわからないことです。ですから私は、中国の領土論理と資本蓄積の論理の間の関係に注目することを強調し、彼らの領土論理が相当部分、資本蓄積の論理に従属していると考えます。彼らの領土論理を維持することは、資本主義の論理を自らの利益に合わせて管理するかに左右されますが、このことが資本主義全体に利益になるかは簡単に判断できない問題です。インドでも、今、同じことが行なわれています。インドは非常に急速に増加する巨大な人口を持った国です。インドでは明確に、今、非常に悪辣な本原的蓄積の過程が進んでいます。中国でもある程度見られた農民社会の破壊とか……、私たちは未来の資本蓄積が依存できる、これら2つの主な動力資源を保有した世界資本主義を相手にしています。ですが、その動力を勝ち取る過程で、彼ら自らの領土論理と折衝すべきでしょう。ですが、領土論理と資本主義論理の間で、このことがどのように展開するかは、もちろん私にはわかりません。私は2つの論理の展開を見守りながら、その進行において見られる関係の動力を分析し理解しようと思いますが、すでに申し上げたように、これを世界資本主義の観点から分析して理解しようと思います。

 

ともに進む変革への道

 

白楽晴 ですが、私は、アメリカの地域的な多様性を、中国の多様性と比較することはできないと思うんですが。

ハーヴェイ 今はそうではありませんが、1945年の時点で考えるならば……。

白楽晴 1945年にしても私は違うと思います。かなり簡単ながらも目を引く一例をあげるならば、中国では、さほど遠くない地域の人々の間でも、自らの方言を使えば互いに聞き取れない場合がよくあります。韓少功という非常に立派な中国の作家がいて、何年か前にソウルにきた時、会いました。彼は湖南省出身ですが――ご存知の通り、湖南省は毛沢東の故郷でもあります――文化大革命の時、田舎で下放にあい、同じ湖南省の他の地域に行ったそうです。ですが、そちらの人々の話がまったく聞き取れなかったといいます。そのような形の多様性はアメリカにはありません。アメリカの白人定着民には、そのような地域的・言語的多様性を形成する時間がありませんでした。その点ではインドがさらに検討しうる比較対象です。ですが、中国はとにかく社会主義革命の過程を経ているという点が両国の違いでしょう。真の社会主義社会を作り出したかは疑問ですが、集団的経験の特異な遺産を持ったのです。ですから中国がその遺産をどのように利用するかにも多くのことがかかっています。ロシアとは異なり、中国の指導部は革命の遺産を公式に否認したことはありません。もちろんロシアでもボルシェビキ革命の遺産が完全に消えたとは思いませんが。インドにはまたインドなりの反資本主義的な遺産が豊富にあります。地方政府次元での集団的経験もあります。なので、そのような遺産をどう活用するか見守ってみることです。

ですが、残念ながら、そろそろ私たちの議論を終わらせる時間が近付いてきました。先生のまとめのお話しを聞く前に、私は先生が歴史的・地理的唯物論(historical-geographical materialism)と言われることが、実はクラムシが定義した「良識」(good sense)のことであり[ref]さきにハーヴェイが言及したように、クラムシは常識がみないいわけではなく、悪い常識もあるので、本当に必要なことは良識であると言ったことがある。[/ref]、先生の訪韓を通じて、韓国社会でそのような良識の活性化に一助されたことに感謝申し上げたいと思います。韓国でそれをできるだけ広く「常識」にする仕事は、私たちの役割でしょう。

ハーヴェイ 私がよく歴史的・地理的唯物論の次元で語る理由の1つは、私たちを1つにつなげ、私たちみなが生きている全地球的な共有地について、少なくとも思考可能にする――マルクスの言語を使うならば――「矛盾的な諸統一性」を無視せず、先生が指摘された、言語的多様性を含む多様性や違いを勘案することが可能になるためです。誰かが私たちの保有した、2つの大きな全地球的な共有地は、土地と言語であると言ったことがありますが、今、私は、他の地に来て、他の言語で考えて仕事をする人々と会話しているのに、疎通が可能なのです。ですから、私はそのような境界を越えて対話する、このような特別な機会をご用意下さったことに感謝申し上げたいと思います。また、先生や創作と批評社、また季刊『創作と批評』誌が、これまで50年間になしとげた重要な業績と貢献に、賛辞を送りたいと思います。

白楽晴 どうもありがとうございます。これで締めくくりたいと思います。

 

(※)この対談は、2016年6月23日、創作と批評社・西橋ビルで行なわれ、『ハンギョレ』2016年7月1日付にその一部が掲載された。英語で進められたこの対話の録音収録は、リサ・キム・デービス(Lisa Kim Davis)が作成し、2人の対談者の確認を経た後、白楽晴名誉編集人が韓国語に翻訳した。©David Harvey・白楽晴/©韓国語版・創作と批評・2016。

(翻訳: 渡辺直紀)