[卷頭言] 東北亜における新覇権主義を警戒する (2005 夏)
柳在建
前号の巻頭言に本紙の希望をこめて今年を東北亜における平和体制構築の元年にしようと提案したが、それが今の政治的状況下においては台無しになってしまった。北核問題をめぐる北朝鮮・米国間の対立が長々と続くなか、2月19日、台湾海峡問題の解決を共同戦略の目標に含めるという米・日安保協議会の宣言は、東北亜に緊張と不安を高潮させるに十分であった。それに対して中国側が台湾の独立追求に武力を使うことがあっても阻止するという「反国家分裂法」で立ち向かい、盧武鉉大統領は米・日同盟による中国牽制構図に巻き込まれないという意志を込めた「東北亜均衡者」役割論を唱えた。
東北亜均衡者役割論について多くの議論があったが、その問題意識にかんしては十分共感できるものである。それは基本的に中国を牽制するアメリカの世界戦略のもとで東北亜地域内の日本と中国の葛藤に触発された情勢変化に対応するものであるが、ただしその役割をいなかる内容に定立し、またいかなる方法に具体化するかにかんしては深く考えるべき課題である。無論、東北亜においてアメリカを排除するという論理は、それ自体非現実的なものになるだろう。したがってアメリカとの円満な関係を図ることなく、また南北の緊張を緩和していくことなく、地域内の均衡者としての役割にふさわしい力を得ることは困難であるのが事実であろう。アメリカ側が地域外の均衡者としての役割を認めないで米・日同盟を強化しつつ対北強硬政策を駆使している現在において、短期的に多くの困難が十分予想される。しかし、韓・中・日の協力が切実に求められる我々の立場からすると、中国との不要な対立は無謀であり、今の時点において、対北先制攻撃をも辞さないと公言する米国ネオ・コンの覇権主義による軍事的葛藤の一方に韓国が立つようなことになってはいけない。しかも均衡者としての役割というのは、19世紀の英国が大陸の外側で大陸諸国の分裂を利用しつつとった覇権主義的勢力均衡者のそれとは正反対であるだけに、力があればこそ均衡者の役割が可能であるとする批判には同調できない。むしろ他国に脅威になるほどの列強でもなく、といっても弱小国でもない国として平和が絶対絶命の課題であり民主主義の活力に満ちた韓国が、反覇権主義の均衡者として自ら地域内の平和と民主主義を促す者になることは当然の成り行きかもしれない。
一方、今年、またもや浮かび上がった日本の歴史教科書問題は、韓国側の強烈な反発や中国側の大々的反日デモを呼び起こし、東北亜平和体制の構築において重大な妨げとなっている。もはや東北アジアの三国は銃声のない戦場になり、しばしば「歴史戦争」という言葉が掲げられるありさまである。ところが、「歴史戦争」という用語がわけのある修辞であることは確かだとしても、これには事態の本質をまるで各国の民族主義の衝突であるかのように問題をぼやかし、背後にある覇権主義をごまかしてしまうおそれさえあるのだ。したがって過去の歴史認識をめぐる現在の葛藤というものは、民族主義の葛藤ではなく、東北アジアの平和と民主主義を脅かす覇権主義との戦いであることを明らかにしておく必要があるだろう。また過去の侵略を正当化し、植民地支配の反省を避けようとする歴史歪曲は、日本における民主主義の危機をそのまま反映するものである。
結局、韓国の市民社会と日本の歴史歪曲に反対する良心的な日本人との間に結ばれた反覇権主義ネットワークは、当然われわれの内部に向かう批判的な省察をも要求する。歴史教科書の問題が起こるたびに「国史教育強化」というありふれた国家主義のやり方で立ち向かう韓国社会や歴史学界の対応について反省すべきときがやって来た。しかも扶桑社の歴史教科書問題が画一的な教育のみ受けてきた韓国人が、多様な歴史認識を許容する日本の教科書検認定制度を理解できないことから始まった誤解だとする一部の日本人の主張は、問題の本質からはずれた巧みなトリックだとしても、それさえわれわれの内部の省察を促すきっかけにしたい。韓国において国史教育というものは、国民主体性確立や愛国心の涵養のための道具であり、またそれを効果的に行うために国史教育を採択してきた。したがって現行の国定歴史教科書システムというものは、歴史研究や教育における「国史保安法」というべく精神的な桎梏をともなうものであり、民主化した韓国にふさわしくないものといえよう。もはや日本だけでなく、中国の「東北工程」にみられるように、中華主義という覇権主義の気配が感じられる現在、これらの国々の反覇権主義勢力との実践的な連帯を強化していくためにも、この制度の廃止はこれ以上先送りできない問題である。
まだ夢のような話であるが、以上のような韓・日の文化的な連帯が実を結び、もし日本側が二十世紀の戦争と覇権主義について真摯に謝罪し、それに応じた実践ができたらどうなるだろう。そうなると、日本は近代の世界史における帝国主義をもっとも徹底して反省した国となるだろう。いわゆる戦争犯罪と帝国主義という二重の加害者である日本側が、そのような態度を表明すれば反ファシズムの主役であり同時に帝国主義の加害者であるヨーロッパ諸国や、ベトナム侵略戦争の主役であるアメリカに与える文化的な衝撃は大きいだろう。それは東北亜地域内の緊張要因になりかねない中華主義を引きとどめるにも役に立ち、日本を主要構成員にふくめた東アジア共同体が世界体制の進歩的変化に重要な軸として位置づけられるようになるだろう。真の平和と民主主義の道を歩みだした日本が、反覇権主義でともにすること、それがただ夢にすぎないといえるだろうか。
昨年の夏号の小説批評特集に次いで今季号の特集は、詩や詩批評の現在を検討し、その展望を模索する場として設けた。これからの韓国文学における懸案や主要争点にたいして誠実に対応していくという創批側の覚悟として受け止めていただきたい。特集のタイトル「分かれ路に立った韓国の詩と詩批評」において「分かれ路」という表現は現在、韓国の詩と詩批評が困難な路にさしかかったという意味合いであるが、最近の韓国の詩の流れにおいて伝統的かつ叙情的な傾向から‘反’叙情、または‘異なる’叙情を目指す新しい傾向への分れれ路を認めるという意味も含まれている。基調論文に当たる崔元植の評論は、レベルの高い読者層の激減にさしかかった韓国詩の危機というものが、それぞれの役割を果たせなかった詩批評の危機とかみ合う問題であすとし、最近の詩批評の虚と実について鋭い指摘を書いた。とくに、詩テクストを一つの均質なテクストとして「単数化」する傾向への警戒は吟味すべきところである。羅喜德は、劉烘埈、金兌貞、金宣佑、文泰俊の詩に刻まれた多様な模様や性格における「記憶」と「自然」を浮彫りにし、現実に身を置きつつ独特な叙情を作り上げた可能性を開いてみせた。林洪培は、金津經、河鍾五、ベク・ムサンの最新作にみえる「社会生態的想像力」が高度資本主義時代の物化にたいする詩の意味ある対応として評価しつつ、同時代の民衆の具体的な生のあり様が投影されないまま認識だけのものになっては、詩の活力を生き返すことが難しいと指摘した。一方、「分かれ路」の彼方をみつめる李章旭は、韓国の詩が新しい活力を取り戻すために伝統的な抒情詩における「同一性の美学」や既存の「叙情的自我」から脱皮し、「ほかの叙情」を見い出す新しい方向に注目すべきであると主張した。柳熙錫は、高銀詩人の歴作『万人報』連作詩を時代別に分け、それぞれの完成度を細密に区分することで『万人報』を凡庸なる民衆的かつ民族主義の均質なテクストにしてしまう、巷の皮相的な認識を正そうとした。以上の特集に加えて、新しい傾向の詩を選び、新しさの根本を読み返すことを説く朴瑩浚の季刊時評も一緒に読むことをおすすめする。
詩批評を特集に組むことで小説評論を載せなかったのが物足りない気がしたが、家族ロマンスという枠で具孝書、金愛爛、シン・ユンギョン、イ・キホ、朴婉緖、朴玟奎などの最新作を緻密に分析した白智延の季刊小説評が心残を慰めてくれた。ところで、今回、小説欄に多くの紙面を割いたが、殷熙耕、權汝宣、金英夏、金勁旭の短編それぞれが十分読者の興味を惹くに値するものであり、密度のある独特な叙事で「いじめっ子」が受ける全体主義的な暴力と卓球の対話的なコミュニケーションを対比しながら始まる朴玟奎の長編小説(連載一回分)「ピンポン」が興味深い。詩欄も申庚林から今年登壇した新人にいたるまで、それぞれ個性豊かな顔触れで今回の創作欄は非常に多彩である。
文学に重きが置かれ、ややおそろかになりかねない正論紙としての面目は、最近、過去史清算問題で議論となった、朴正熙時代を評価する「争点」を以て補うことにする。争点の三篇いずれも現在の課題に対する問題意識のもとで負の遺産を克服し、新しい代案体制のモデルを模索すべきである点に一致している。そのなか、黃大權は朴正熙パラダイムというものを画一主義と経済地上主義に位置づけ、その弊害を生態主義的な視点から批判した。趙錫坤は朴正熙体制の時代状況にかんする分析をとおして経済開発と独裁間の必然的な関連性を反駁し、朴正熙神話の虚像を明らかにした。以上の二篇が批判的なものとすれば、朴正熙を「持続不可能な発展を成し遂げた功労者」として評価する白楽晴は、独裁にもかかわらず朴正熙時代の経済成長について一定の評価を下し、と同時に民主化運動がその持続不可能な発展を緩和させたという点において「経済的にも」貢献したというユニークな論旨のものである。
最後に、経済軍事大国として浮上する中国のようすやそれに対決するアメリカの覇権主義を悲観的に展望するChalmers Johnson の論壇は、東北亜状況にかんする深層的理解に役に立つものなので一読を勧める。ほかに東京の学校で起きた右傾化の現象やこれにたいする抵抗を伝える日本人父兄である丸浜江里子の現場通信、映画「拳(こぶし)が泣く」にかんする成銀愛の繊細な批評も有益な読みものである。狭い紙面に寸鉄人を刺すような論評を載せてきた寸評欄は、もはや読者の反応も厚く、創批の誇りとして定着したが、今回も読者の期待に応えてくれた筆者たちに感謝する。来年創刊四◯周年を迎え、編集陳では今年一年間、様々な革新方案を模索していることを伝える次第であり、読者の声援に応えようと一層努力していくことを約束申し上げる。
訳・洪善英
季刊 創作と批評 2005年 夏号(通卷128 号)
2005年6月1日 発行
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