창작과 비평

韓半島式統一過程と市民社会の役割

「5月」から市民参与型統
白楽晴
| ソウル大学名誉教授、6・15共同宣言実践南側委員会常任代表

* この文章は、全南大学5・18研究所主催の5・18民衆抗争第26周年記念国際学術大会「民主主義、平和、統一と市民社会」(2006.5.23-24)で発表した講演内容です。--- 編集者注

訳:趙慶喜

 

 

 

1.「5月光州」の全国化のために

 

5・18民衆抗争第26周年を記念する期間に、5・18研究所が主催する国際学術大会で基調報告をすることはこの上なく光栄なことです。しかも今年は6・15共同宣言6周年をむかえ、南・北・海外が共におこなう民族統一祝典がここ光州でひらかれます。6・15共同宣言実践南側委員会の代表をつとめている私としては、この場がいっそう貴重に思えるしかありません。

今になりようやく光州で南北の共同行事が開かれるのは、すでに遅れた感があります。韓国の民主化過程において5・18が占める位置を考えてもそうですし、「5月から統一へ」というスローガンがすでに80年代末に出てきた点を想起してもそうです。こうして遅ればせながら民族共同の光州行事が開かれたことは、70年代末いわば教育指標事件1978年、全南大学の教授たちが中心となり、維新末期の国家主義的な教育理念であった「国民教育憲章」を批判する声明文「私たちの教育指標」を発表し摘発された事件。当時の中央情報部は全南大学の教授11名を拘束・免職に追いやり、学生たちも多数連行された。-- 訳注 の時から光州および全南大学と格別な縁を結び、また民主化運動でそれなりに小さな役割を果たしてきた人間として、あふれるほどの感慨を覚えています。

 

その一方で、正直にいうと緊張もしています。真に5・18光州らしく、また民主化を勝ち取った韓国社会全体が誇れるくらいに、民族の大きな行事を成し遂げることが決して簡単ではないからです。

 

この場は、南側代表として、行事の準備にかかわる問題をあれこれ挙げる場ではありません。ただ、一人の知識人として個人的な判断をあえて申し上げますが、5月の光州はすでにアジアのものとなり世界のものとなりましたが、まだ十分に全国化したとは言いがたいのが現実です。なかなかなくならない韓国社会の地域主義が主な原因であると思いますが、「5月」は特定地域のものであり、さらにそのなかの一部運動勢力のものに限定する傾向が国民のあいだに依然として現存しています。

 

したがって今年の6・15行事を全国民の共感とともに成し遂げることは、単純に一度きりの民族共同行事の成功如何の問題ではなく、5・18を真に全国化し、韓半島の統一事業に力を注ぎ韓国民主主義の世界的発言権を高めていく問題でもあります。このためには何よりもこの間全国化ができなかった原因を洞察することです。なんでも無条件に地域感情のせいにしたり、一部活動家たちの変質だけを責めるのは、皮相的な対応に過ぎません。全国化が出来なかったのは地域主義が主原因であるといいましたが、地域主義自体が韓半島分断体制の自己再生産によるひとつのイデオロギーであること、分断体制が単なる極右反共主義のみならず地域主義をふくんだあらゆる理念を包摂できる雑食性の怪物であることを認識しなくてはなりません。

 

この怪物とたたかう私たちもまた、負けずにしぶとく巧みでなくてはなりません。特に分断体制が解体期にさしかかった現状況では、目の前にある韓半島式統一についてのはっきりとした認識を共有し、この統一過程に多くの人々がさまざまなかたちで参与していく対応が必要です。人間は特出した少数の聖者をのぞいて、多数の同時代人と歴史的目標や思いを共有して行動しないと、光州であれどこであれ、初心を最後まで貫いて長く活動するのが難しいからです。

 

 

2. 韓半島式統一と6.15共同宣言

 

「韓半島式統一」という言葉には、韓半島の統一が韓半島の実情に合ったかたちで実現されるはずだという常識的な意味以上が込められています。つまり、私たちが常識的に思いつくいくつかの前例とはまったく異なる、新しいかたちであるという積極的な意味が込められています。

 

まず、ベトナム式の武力統一が韓半島で不可能であるということは、かなり前から明らかでした。1953年休戦当時、より厳密にいうと1951年の夏に前線が38度線とほぼ同じ地域で膠着した時点で、すでに既成事実となったと見ることができます。もちろんこういった認識が共有されるまでにはその後時間がかかりましたし、それが常識となった後も分断体制の既得権勢力によるイデオロギー攻勢としての「南侵脅威」説が繰り返されはしました。しかし「祖国の平和的統一を願う全民族の崇高な思い」ではじまる6・15共同宣言前文があらわしたように、武力統一の排除は韓半島式統一の最初の原則で、すでに双方の首脳が確認したことです。

 

平和的統一のうちには、西独が東独を平和的に併合した事例もあります。実際にドイツが統一した1990年直後、この前例が韓半島でも繰り返されるだろうという期待に膨らんだ人々がたくさんいました。1991年12月に署名され、その翌年に発効された南北基本合意書第一条が「南と北は互いに相手側の体制を認め尊重する」と釘をさしたにもかかわらず、未来に向けた南側主流勢力の本心は別にあったのだと思います。

 

しかしソ連・東独の社会主義圏の没落後も、北韓体制が崩壊する事態は起きませんでした。それだけでなく、時がたつにつれて、万が一そういった事態が起きた場合、南韓がこれを引き受けられる状態にないという現実感覚が拡がり、その後IMF危機を経て国民的共感を得たようです。もちろん長い準備期間を経た後にドイツ式解決を展望する人々が依然として少なくはありませんが、これは韓半島式解決法に対する概念がないためであり、究極的な「ドイツ式」にこうした漠然とした期待を抱いている瞬間にも、現実は韓半島式にすすんでいるというのが私の論旨でもあります。

 

ベトナムやドイツに比べてあまり知られていませんが、イエメンの前例もあります。ドイツよりもやや先立った1990年5月に、資本主義の北イエメンと社会主義の南イエメンが統合を宣布したことがありました。これは両国政府間の合意による平和的でありながら自主的な統一であり、統合政府の要職を比較的対等に(北から大統領を、南から副大統領を出し、総理は南側が引き受け、閣僚は20対19で北側がやや多く占めるなどのかたちで)配分した一種の「対等統一」でもありました。しかし実際には、対等ではない勢力間の摩擦を調停する連合制や連邦制のような装置がない状況で、けっきょくは合意が崩れ、1994年に70日間の内戦を経て北イエメンの勝利によって完全統一がなされました。

 

しかしこれも韓半島では通用しないモデルであることが明らかです。南北当局者たちの談合だけによって統一法案に合意すること自体が不可能であるばかりでなく、こうした合意がなされても、移行過程で問題が起きて武力衝突が発生する場合、イエメンとは次元が違うおびただしい惨禍が必然的であるからです。

 

ベトナム式、ドイツ式、イエメン式がすべて当てはまらないとしたら、分断体制をそのまま維持させるという、もう一つの選択を考えることもできます。1972年の7・4南北共同声明を維新体制準備の布石として利用した朴政煕の選択がそうでした。現在も、守旧勢力のうち北韓崩壊を追求しない一部と、進歩陣営のうち統一ではない平和や改革を夢見る一角の構想がこれに該当するでしょう。米国の立場をみても、北側体制の転覆がブッシュ大統領にとって望ましい結果ではあったとしても、適当な緊張状態のなかで分断を維持するほうが、無理な崩壊工作よりも安全で、かつ現実的な利得もまた少なくないのです。

 

しかし分断構造を堅持したまま、南韓が「先進化」を成し遂げられるというのは幻想です。分断体制は1987年の6月抗争で南韓社会の民主化がはじまり、89~90年に東西陣営対立が終息することですでにその基盤を喪失したのです。

 

87年以来南韓においては民主化過程が持続し、90年代末の経済危機を収拾し、経済成長を再開したため、統一が実現しなかったからといって、南側だけが豊かにならないという話がどこにあるのかと考えられるかもしれません。しかし南韓社会のこうした成果は、盧泰愚政権下ではじまった南北関係の改善と分断構造の緩和を経ずには不可能なことでした。特に2000年の6・15共同宣言は、分断体制の揺らぎを確認し、その解体作業にエンジンをかけただけでなく、激化する新自由主義的競争の渦のなかで、韓国経済が競争力を持つために必須の軍事的安全と国民の心理的安定、そしてこれによる世界市場の信頼を確保したのです。他方で、韓国企業の価値が国際的に依然として低評価されているという、いわば「コリア・ディスカウント」現象や、韓国社会の民主的改革や新しい発展パラダイムの模索が、ともすると理念攻勢に翻弄される事態は分断構造と直結したものであり、これらのすべてが韓半島式統一の進展を通じてのみ解決できる問題群なのです。

 

韓半島式統一の内容は、韓半島式ではない前例をみるなかである程度明らかになったわけです。では、韓半島式統一の骨子に該当する6.15南北共同宣言を中心に、その独自の内容を見てみましょう。

 

平和統一が共同宣言の前文が表明した大原則だとしたら、第一項は「国家の統一問題をその主人であるわが民族同士が互いに力を合わせて自主的に解決していく」という自主統一の原則を明らかにしています。これは外勢によって分断され、今も外勢の干渉が深刻な韓半島の状況において非常に重要な原則です。しかし自主的であるという特徴自体は、他国の事例においても見られるもので特別に韓半島式とはいえないでしょう。

 

その点においては第二項こそが、6・15宣言において特記すべき条項です。「国家の統一にむけた南側の連合制案と北側の低い段階の連邦制案に互いに共通性があると認め、今後この方向で統一を志向していくことにした」という、このあいまいな表現がどれほど絶妙で画期的であるかは、私自身ほかの場で強調したことがあります(たとえば「6・15時代の韓半島と東北アジアの平和」、拙著『現在進行形の韓半島式統一』創批 2006、18~19頁)。もともと南側の連合制と北側の連邦制のあいだには、統一に先立ってまず可能で必要な交流と統合作業を少しずつ進めていこうという南側の機能主義的立場と、根本的政治問題をまず一括妥結しようとする北側の立場の対立がありました。これは一方では、統一の構想の違いでもありますが、相手側が受け入れがたい主張をたてることで統一過程を遅延させる効能も少なからずありました。

 

この未解決の対立を一挙に解消したのが第二項です。北側としては、一次的統一方案に南北が合意することで、「根本問題」妥結に対する要求が充足されました。北側のこうした要求は、当初は連邦制ではなく連合だと分断固着の危険を除去できないという憂慮が強く働きましたが、90年代以後は、吸収統一ではない異なる方式に対する合意と保障なしには、機能主義的相互接近を受け入れながらけっきょくは吸収されてしまうという危機意識がむしろ大きかったと思われます。南北基本合意書第3章「南北交流・協力」条項が6・15宣言よりもはるかに具体的で詳細な内容をもったにもかかわらず、実践がともなわないのもこうした事情と無関係ではないはずです。

 

6・15宣言は、北側のこうした要求を充足させながらも、非現実的な統一政府の形態や急速なスケジュールを避けることで、南側が主張してきた機能主義的接近を適切に受け入れる結果となったと見ることができます。これは「南と北が経済協力を通じて民族経済をバランスよく発展させ、社会、文化、体育、保健、環境などの諸般分野の協力と交流を活性化させ、互いの信頼を築いていくように」するという第4項の合意が、6・15以前と比べるといかに豊かに実践されているのかをみても明らかです。もちろんその実践はより豊かにならなくてはならず、第3項が規定した人道的問題の解決や第5項の南北当国間の各種会談も、いっそう促進されなくてはならないないことはいうまでもありません。

 

第2項の合意が交渉技術の絶妙な産物であるという点は、みなが認めています。しかし一部では、これがあくまでも交渉技術レベルの成果であって、連合制と連邦制をめぐる根本的対立が一時的に封じられただけであると解釈されています。もちろん当事者たちの本心まで見るすべははないわけですが、しかし宣言の一主役であった金大中前大統領や文案を折衷する過程に深く関与した林東源(イム・ドンウォン)前長官の証言によれば、交渉の過程は合意の実質的内容よりも主に表現の問題に集中したといいます。

 

しかしより重要なことは、一般市民たちがこの条項をどのように受け入れ実行するかです。

 

当局者たちにのみ任せる場合、第2項に内包されているかどうかにかかわらず、根本的な対立がいつでも生じえます。ただ南北民衆の立場では、連合制か、低い段階の連邦制かが重要なのではなく、どの道ベトナム式・ドイツ式・イエメン式がすべて不可能な状況で、そうした問題で争って分断既得権勢力の肩入れをする代わりに、一日も早く人道的問題を解決し、経済協力を増大させ、社会文化交流を拡大させ、相互信頼構築を進めながら、南北間に「互いに共通性があると認め」た、そうした大まかな方向でもってすすめることが重要です。このようにもたもたとすすめるなかで、ひょいと統一が実現する過程こそが、韓半島式の統一の特徴であり、その積極的な内容なのです。

 

 

 3. 市民参与型統一

 

言い換えると韓半島式統一は、すなわち市民参与型統一です。漸進的な過程であるため一般市民の参与可能性がその分高まるだけでなく、「過程」と「終結点」の区分自体があいまいな状態で、その過程の実情によって、つまりどれだけの人々が参与するのかによって、統一という目標の具体的内容すら変えられる開放的な統一過程なのです。

 

市民参与型統一の概念もまた、これまでの統一事例と比較するとより明らかになると思われます。たとえばこの場合の市民参与は、ベトナム式民族解放戦争のための総力動員とは性格を異にします。ベトナム統一過程においても、南北ともにとてつもない民衆的エネルギーが動員されました。しかし戦争と武装闘争のための総動員体制では、平凡な市民たちが自身の日常的生活と課題に忠実でありつつ、分断体制のすみずみを崩し、新たな統合社会をつくりだす機会が大きく制限されかねません。それこそ戦時体制ですので。

 

韓半島においては武力統一はいけないという点では幅広い合意が得られましたが、統一過程への民衆参与を、大々的な民衆動員あるいは民衆決起といったかたちで考える傾向は依然として残っているようです。米国の圧迫政策と経済的窮乏など、南とは色々な面で事情が異なる北側で動員体制が強調されるのはやや違う問題でありますが、南韓社会で自主平和統一の目標に向かって団結した大衆たちの決起によって、分断にけりをつけられると信じるのは惰性的な思考に過ぎないと思います。

 

ドイツ式統一の場合も民衆動員や市民参与がなかったわけではありません。知られているように、東西ドイツの統一過程は東独市民たちの抵抗から始まりました。市民的抵抗には東独内部で知識人や宗教人を中心にすすめられた積極的形態もありますし、東独住民たちの大々的な国外脱出という消極的形態もありました。1990年に実際に統一かなされる過程でも、東独の総選挙で勝利した勢力が、西独憲法によってドイツ連邦共和国(=西独)の個別の州に編入されることを選択したわけです。ただこれら全ての過程で西独政府が貨幣統合を提供するなど、統一過程を急ぐ方向へ積極介入したために、東独民衆たちの参与が持つ意味がうすれてしまいました。さらに模範的な戦後民主主義を誇ってきた西独市民たちは、投票をのぞいてはこれといった参与がなかったとみるほかありません。

 

ところがこの点においても、ドイツの前例がいつまにか作用して、市民参与型統一の推進に混乱をきたしています。人々は、ドイツの統一過程では、当局だけでなく民間次元でも長いあいだの接触と交流が決定的であったことを想起しながら、それに比べると韓半島の実情はあまりにも立ち遅れてきたと嘆きます。それでいて交流・協力を少しでもすすめようものならば、「貢いでいる」だの、「ふりまわされている」だのと、声をあげる人々もいます。こうした際、知らぬ間に私たちの考えを(それぞれ異なるかたちで)支配するのがドイツ式モデルであり、われわれ式統一に対する認識不足です。

 

この場で長々と説明する必要はないでしょうが、敗戦ドイツの分断はたとえ外勢が強要したものであっても、韓半島の分断ほど大義名分のないものではなく、そのため同族が相争う戦争も起きませんでした。東西ドイツは1972年の基本条約を通じて統一せずに平和的に共存することに合意し、交流の幅を大きくひろげました。半島の腰部分を鉄条網だらけにして地雷を埋めることで分断が維持されるこの地における交流とは、質的に性格の異なるものでした。これらを単純に量的に比較するのは意味がありません。

 

東西間の交流は、統一をしないとしつつ、結果的に一方的な吸収統一として帰結したという点においてもまったく異なる性格のものです。韓半島では、そのような吸収統一はしないと合意して交流をすすめようとするのです。「貢いでいる」という言葉が出るのもそのためです。万が一南北間の民間交流と対北経済支援が吸収統一の為の戦略だとしたら、他の誰よりも守旧勢力が支持し歓迎するでしょう。しかしそうではなく北を助けるというので、彼らとしてはそれが「貢ぎ」ではなく何なのかと反発したくもなるわけです。

 

しかし現在の少数既得権勢力だけでなく、より多くの人々がより平等によく生きられる韓半島を願う市民たちの立場では、ドイツ式と異なる韓半島式統一過程の一部を実現する経済協力と社会文化交流こそがまさに私たちの自身のやるべきことです。大きな政治的決定は政府が下すしかなく、大規模投資は政府と大企業に任せるとしても、各自が状況にあわせて最大限の誠意と創意性を発揮してこの事業に参与することが、韓半島式統一を完成させる道であり各自の生の質を高める道なのです。

 

まさにこの点が先に述べたもう一つの前例、すなわちイエメン式統一との決定的違いでもあります。南北イエメンの合意が結果的に崩れたのは、「連合制ないし低い段階の連邦制」という安全装置を欠いた点も重大に作用しましたが、その根本原因は市民参与が排除された権力者たちのあいだの「分け合い」式合意であったという点です。しかしイエメンはとにかくイエメン式で統一をしたわけで、それは私たちが非難することではありません。ただ韓半島ではとうてい通用しないかたちであるし、統一はしても、韓半島式統一が達成されるのと同じような世界史的意味を持つことはないということです。

 

とにかく韓半島式統一は、市民参与が最大限に実現するなかで文字通り官民合作ですすめる過程です。まだ市民参与が活性化されているとは言いがたいですが、昨年の6・15平和祝典や8・15ソウル祝典すべて官民合作の見事な例を見せています。行事自体は民間が主導するなかで当局者たちが参観し、北側最高指導者と南側特使が別の場で会い、北側の代表団が南側の顕忠院(国立墓地)を参拝するなどの大きな事件を作り出しもしました。官民合作には無数の他の形態もありえますが、今年の6・15光州祝典でも昨年の前例から大きく違わないすばらしい成果が生まれることを期待します。

 

もっとも当局者間の劇的な行動が重要なのも、韓半島式統一においては何よりも民心の支持を得て、市民たちの支持と自発的参与を引き出すことが決定的であるためです。冒頭で申し上げたとおり、こうした段階において光州での行事は、ひとつの機会であると同時に挑戦でもあります。この点を少し敷衍させることで、私の報告を終えようかと思います。

 

韓半島式統一のもとめる市民参与とはまったく異なる民衆動員の前例が、一部活動家たちのあいだで惰性的思考を生んでいることを先に申し上げました。実はここに5・18光州の記憶が――むしろ5・18を直接経験しない活動家たちのあいだでより多く――作用するという面が少なからずあります。80年5月の光州で市民たちが決起し、解放と平和の空間をつくりあげたように、韓国民衆が一致団結し、自主と統一を要求するならば実現しないものはないと考えるわけです。

 

しかしその空間は、どれだけの血の代価を支払った空間でしょうか。光州市民たちが蜂起したのは軍部勢力が5月18日の平和的デモを無慈悲に鎮圧し、無辜な市民たちにまでも無残に国家暴力を振るった結果ではないですか。そして市民軍とともに確保した平和と共生の空間は、たとえそれが抗争鎮圧以後も永遠に消えない光の痕跡を歴史に刻んだとしても、それでもおびただしい流血事態として終結したのです。

 

5・18光州に匹敵する不幸なくして、5・18のような水準の民衆動員を期待するのは非現実的であります。私たちが5月の光州の犠牲に真に答える道は、「5月」があったおかげで、その時とは違うやり方で、当時の光州市民たちが追求した民主主義と平和と統一の目標を達成する道であるはずです。実際に私たちは1987年の6月抗争を通じてその道を開いたのであり、その後光州市民の名誉回復が本格化し始めました。

 

同時に軍部独裁という基盤を失い、極右反共理念の弱化に逢着した分断体制は、地域主義の強化という方式で5月光州の地域化・孤立化を持続させるのに一定の成果をもたらしました。しかし地域主義もまた、次第にその威力を失っていくのが厳然たる現実です。5・18第26周年をむかえた今年、さらに光州で6・15民族共同行事がひらかれるこの機会に、韓半島特有の市民参与型統一をもう一段階画期的に前進させることで、「5月から統一へ」というスローガンの真の意味を生かしていくことを期待します。

 

ありがとうございました。

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