창작과 비평

韓国における「進歩」と東アジアの協力

論壇と現場

 

 

李南周(イ・ナムジュ) 『創作と批評』常任編集委

 

 

1.韓国における「進歩」の危機と新しい模索

 

最近、韓国社会では「進歩」が危機に直面しているという認識が広がりつつある。このことは、社会主義体制の崩壊とともに、冷戦体制が解体されてからはじまった問題だといえる。韓国での「進歩」の理念は現実の社会主義体制と直接的な関係があったとは言いにくいが、少なくとも資本主義に対する批判的な意識を共有している次元では、社会主義的な伝統と親和性を持っていたからである。しかしこのような「進歩」の危機が直ちに表出することはなかった。理念的には危機の兆しがあらわれてはいたが、政治的には「進歩」勢力は影響力を増加させていたからである。

1987年の直選制改憲(大統領選挙)の導入によって民主化運動が始って以來、国民たちは大体、既得権勢力より「進歩」、あるいは改革陣営を支持する政治的な選択を下した。「進歩」と「改革」を少し単純に区分すれば、一国的あるいは地球的な次元で資本主義体制がはらんでいる構造的な矛盾の解決に焦点をあわせることが進歩的な傾向であり、資本主義体制の正常的な運営、特に市民的な権利の強化に焦点をあわせることが改革的な傾向であると区分することができる。

しかし韓国における民主化の過程では、このような相違点が取り上げられることなく、「進歩」と「改革」が既得権構造の打破と正義に満ちた公正な社会建設を志向する単一な流れとして認識された。 ここで進歩(progress)とは、歴史の変化を過去よりよい未来への前進という楽観的、単線1. 的な発展観に基づいてみることを意味することではなく、現実に対する批判的な接近と現実の矛 盾を乗り越えることを通じてより高い次元の未来へと進めるための意識的な能力を指す。進歩の具体的な内容と強調点は、国家によって差異があるが、現在、韓国においては政治的・形式的民主主義ばかりではなく、質実的・社会経済的民主主義(分配・福祉)を目指し、開発主義から逃れて生体的な価値を重視して、冷戦によって押し付けられた分断体制を乗り越え平和的南北統合が進行される社会を目指す多様な流れを包括する。このような様々な価値が互いに関わってあることが中心的な課題になるべきなのかに対しては少なからず異見がある。

盧武鉉(ノ•ムヒョン)政府の成立に至っては、このような流れの影響力が絶頂に達したといえる。盧武鉉政府の出発を契機に「進歩•改革」勢力が単純に動員の対象ではなく、政治権力の中心勢力として登場したし、2004年の弾劾政局を経てからは、国会では民主化運動の流れを継承するニョルリンウリ党が多数を占めるようになった。政治的な次元で見ると、「進歩•改革」勢力がヘゲモニーを握るようになったと評価することができる。

ところが逆説的にもこれを契機に水面下にあった「進歩」の危機が水面上に浮上しはじめた。まず「進歩•改革」勢力の政治的な勝利にもかかわらず、彼らは進歩的な価値を実現する体系的な政策の提示ができなかったし、果たして「進歩」を志向することは何なのかという疑問を拡散させた。加えて、盧武鉉政府が新自由主義に従属的な姿勢を見せることで、「進歩」の内実は混亂したものとなった。また政策的な混亂は盧武鉉政府に対する支持率低下をもたらし、この過程で「進歩•改革」勢力は果たして政策的な代案になれるのかという懐疑も増加した。「進歩•改革」勢力にとって、政治的な勝利は理念的な危機があらわになる契機として働いたのである。

 

最近、このような危機意識を共有した「進歩」陣営は様々な新しい模索を進めている。最近、韓国社会で進歩的な伝統を継承しようとする多様なシンク•タンク(think tank)が組織されつつあることが一番重要な変化の一つである。しかしこのような組織的な基盤の構築より、一層重要なのは現在の状況を正確に診断し、実現可能な展望を提示することができる進歩理念の再構築だといえよう。このような側面から次の二つの問題に注目する必要がある。一つは韓国社会変革運動の民衆民主主義的伝統を継承する立場から現実的危機を診断し、代案を提示しようとする傾向であり、もう一つは世界体制、分断体制という巨視的な次元の変化とのつながりの中で韓国における進歩と展望を把握する傾向である。

 

前者は催章集(チゥエ•ジャンジプ)教授によって積極的に提起された。 最近の催章集の議論は、參与社会研究所の主催した解放60周年記念シンポジウム(2005年10月)の発表文「解放60年に対する一つの解釈:民主主義者のパースぺクティブ」と、聖公会大社会文化研究所主催の討論会(2006年1月12日)の発表文「韓国民主主義の変形とヘゲモニー」を參照。前者は同シンポジウムで発表された他の論文とともに『市民と世界』8号(2006年上半期)に掲載された。ここでも韓国社会における進歩について多様な意見が示され、韓国での社会民主主義的企画を中心に進歩運動の方向を設定しようとする議論が多く、一部の例外を除いては分断問題を進歩あるいは改革の主な課題とする議論は行われなかった。 韓国社会で民衆民主主義的伝統を継承する理念的傾向が多様であるにもかかわらず、崔章集の主張に焦点を当てたのは批判的言説に止まっている他の主張とは違って、それが進歩理念の再構成に重要な意味を持つ「実現可能性」の問題を積極的に提起したからである。 催章集は參与政府(盧武鉉政府)の一番大きな問題として、社会•勞働政策において新自由主義政策を無批判的に受容することで、結果的に民主主義の基盤を崩壊させたことをあげている。催章集のこのような批判は単純に社会•経済的な政策のみを問題にするのではなく、新自由主義政策が公共性の論壇の衰弱化と政治的な役割の縮小をもたらしたことを強調するところにつながる。季刊『黄海文化』の2005年冬号の「民主化時代に民主主義がない」という特集に掲載された文の大部分も「民主主義以後の民主主義」が問題となったという催章集の問題提起とつながるような現状況に対する診断をしたことがあった。

 

彼らの問題意識は、政治的な領域において漸進的な民主化が進行する過程のなかで社会•経済的な領域においては民主主義の基礎が弱体化しているという問題点に対する関心を呼び起こした。最近、韓国社会で両極化問題が重要な社会的なイシューとして浮かび上がった裏面には、この談論が大きな役割を果たしていた。しかし「ポスト民主化論」が進歩理念の新しい展望を提示するのにどれくらい成功したのかは疑問である。

 

そのことは、催章集が「解放60年に対する一つの解釈:民主主義者のパースぺクティブ」という文で理念的な問題、すなわちNL•PDの理念から革命的な急進性を除去し、現実に実現可能な理念として再構成することが実質的な民主化の主なカギだと主張したことを考えてみると、一層残念である。実際「現実に実現可能な」理念という方向は、進歩理念の革新において主導力になれるものであるが、「ポスト民主化論」はそのような展望を提示するより、あいかわらず現実批判のための武器に止まっているからである。

 

勿論、催章集は両極化と民衆的な問題意識を強調しながら、これを克服するための主なカギとして、政治的な領域、とくに制度政治の領域で民衆的な視点が実現できる政治的な条件の確保を重要な課題として提示した。そして催章集以外に、民主化以後の民主主義の問題という視点で韓国社会を診断する様々な視点も、制度政治内で民主勞働党のような進歩的な政治勢力の強化を現在の進歩の危機を克服するための主な課題とに提示されている。

 

崔章集は「解放60年に対する一つの解析:民主主義者のパースペクティブ」という論文で理念的な問題を論じながら、NL・PDの理念として再構成することが実質的な民主化の主なカギだと主張するが、上の文脈からみて「現実から実現可能性」の核心的な部分は進歩勢力が運動から政治に転換することである。

 

強力な進歩政党の存在は多くの進歩的な構想が政策化できる機会を与えてくれる点において一見魅力的である。しかし考えてみなければならないことは、進歩政党に対する支持率がそんなに高くない現実の状況は単純に地域感情のような要因だけではなく、国民たちが進歩政党の路線をあまり信頼していない結果でもあることである。とくに、制度圏内の改革勢力に対する批判がなぜ制度圏内の進歩勢力に対する支持につながらないのかに対するより真摯なる悩みが必要である。したがって進歩が新たな展望を得るためには方法論的な次元で、制度政治内での進歩勢力を強化する方向のみでは充分ではなく、国民の支持を受けるような進歩理念を再構成することが必要である。

 

そして進歩理念の再構成が一国的視角を越える認識の地平を必要とするという点を強調することが「変革的中道主義」である。事実、「変革的中道主義」は最近白樂晴(ベク•ナクチョン)によって提示されたものであるが、まったく新しい内容ではない。 変革的中道主義の概念は2006年デジタル創批(www.changbi.com)の新年辭「6・15時代の大韓民国」(2006.1.1)ではじめて用いられて、2006年5月、創批から出版された評論集『朝鮮半島式統一、現在進行形』にある「変革的中道主義と韓国民主主義」(2006.3)という文に詳しく説明されている。 これは今まで主に『創作と批評』を通していくつかの論者たちが提示した「分断体制論」「87年体制論」「東アジア論」などの論理を一つの変革的な志向を表現する概念として統合したものだといえる。「変革的中道主義」は先の議論でも提起された多数の現象には同意するが、これらの問題が出現した原因を単純に盧武鉉政府の新自由主義の政策に求めるのではなく、韓国社会を規定している複合的な矛盾関係、特に資本主義世界体制と分断体制との関係の中で探り出したとき、解決にむけての展望を提示することができるということを強調する。

 

2.変革的中道主義の構想と東アジアの含意

 

冷戦期において、資本主義の世界体制の拡張は東北アジアでかなり成功のうちに進められた。ただし、資本主義の世界体制が韓国を引き込むために、民族分断を媒介にするしかなかったことは、その拡張にも一定の制約が存在していたことをうかがわせる。このことは、冷戦期において常に世界体制内の資本主義と社会主義との間にかなり固定的な亀裂が存在していたことを見せてくれるものである。しかし注目しなければならないことは、地政学•理念•軍事などすべての側面においてかなり明確な亀裂があったのにもかかわらず、南北分断が南と北の分離だけを意味していたわけではなく、両者の間の緊密な相互関連性を形成する独特な体制に発展したことである。すなわち分断体制は、一つの体制が相違した二つの体制に分離しているという表面的な特徴だけではなく、分断された南と北が互を媒介とする独特な相互作用を通して、自分の体制を再生産してきたメカニズムを明らかにする概念である。したがって、分断体制が持続される条件下において体制内の問題点が南と北の独自の努力だけでは解決できないとすれば、真の「進歩」は分断体制の克服を通してのみ可能なものになるだろう。

 

このようなことから考えてみると、韓国の「進歩」は一般的な展望、特に一国的な視点で提示されることより難解になるしかないという結論に至る。世界体制と分断体制という一国的な範囲を越える領域での変化がない状態で、一国内だけでのみ急進的な変革を推進するには明らかに限界があるからである。事実、東アジアで進歩運動が政治的に成功した例が少なくないが、現在その多くは新自由主義的な潮流に「自発的」に流される状況である。これは過去に一国的次元での進歩的実践の限界をあらわすことだといえる。が、一国的な次元の変革の意味を否定し、世界体制の変革という目標に進もうといっても問題は解決できない。

 

「進歩•改革」勢力の支持を受けて登場した盧武鉉政府が新自由主義的政策を積極的に受容する動きを見せているところにこのようなジレンマよくあらわれている。新自由主義に対する緊張感を喪失している盧武鉉政府の態度に対しては批判が必要であるが、これを特定の行為者の間違った選択だと見て、より進歩的な路線を志向する行為者に交代することで問題が解決できると考えるのは単純すぎる判断である。現在盧武鉉政府が露呈している限界の相当の部分が資本主義世界体制と分断体制などの制約要因と連関している問題だからである。批判は必要であろうが、このような体制的な制約要因を克服することのできる代案に基づいた批判をしなければならない。世界体制と分断体制という制約要因を認識するということが、一国的次元の問題はが世界体制と分断体制などの変革以後に可能だという論理につながるのではない。このような認識が強調したいのは、一国的次元との変革課題と世界、あるいは地域的次元での変革を関連させることができる進歩運動の戦略が必要であるという点だ。

 

また、「進歩」に対する一国的な次元を越える体制的な要因による制約が進歩的な展望に対する否定的な結論につながるわけではない。世界体制•分断体制は単一な支配原理ではなく、多様な構成要素間の亀裂と摩擦による矛盾の複合体であるという点に変化のカギがある。資本主義世界体制が表面的な安定感とは違って、相当な不安要因があるという点は、すでにいろいろな人が指摘してきた。しかし大体このような指摘は抽象的かつ巨視的な次元に止まって行われてきたのに対して、韓半島(朝鮮半島)を含めた東アジアで進められている変化は資本主義世界体制の内なる亀裂要因をより具体的に示している。

 

冷戦期において、資本主義世界体制の拡散を阻止した社会主義陣営は、その大部分が資本主義世界体制内に編入しつつあるのが現状である。そして北朝鮮の場合も資本主義世界体制に対する抵抗の根拠地というより、入場券を得ていない立場だと見た方が妥当であろう。すなわち、実質的に見て、資本主義世界体制の全体的な支配が実現されようとしているのである。

 

しかしこのような現状的な変化の裏面において、中国•ロシア•アメリカ•日本•韓半島の関係がある単一的な論理によって統制されるのではない。これらの国家の経済社会体制の変化において、新自由主義的な論理の影響力が増加しているのは事実であるが、新自由主義的な論理に対する批判と抵抗も依然として進行しており、新自由主義の論理が全面的に受け入れられているわけではない。政治•軍事的な次元において、アメリカ単独主義が実現されにくいことはより一層明確である。1993年から本格化した北朝鮮の核の問題がそれをよく示している。北の核の問題においてアメリカの意図、特にブッシュ政府の単独主義が貫徹できなくなっているし、その反面北の核の問題に対する平和的な解決を求める声はだんだん高まっている状況である。

 

資本主義世界体制の拡張の中で、このような亀裂要因は進歩的な努力を拡張させるための空間を提供してくれる。「進歩」の戦略も、このような亀裂要因をどのように積極的に活用するのかに焦点をあわせる必要がある。韓半島に限ってみると、2000年の6•15首脳会談がその重要な契機をもたらしたと評価することができる。6•15首脳会談以後、南北の和解と協力が進展することで分断体制がゆれはじめたし、そのことが資本主義世界体制が東北アジアで機能してきたメカニズムの動揺をもたらしているからである。分断体制の動揺と克服は進歩的な側面において次のような意味を持つ。

 

第一に、韓半島において分断体制の克服と、これを機に促進される東北アジア国家間の協力は、資本主義世界体制の中においてもアメリカ的な標準、あるいは新自由主義の単独的な支配でなく、より人間的な標準と原理を発展させる可能性の扉を開けることができるだろう。

 

第二に、韓半島において分断体制が平和体制に転換されることは、東北•東アジアが特定覇権国家によって支配される秩序ではなく、脱中心的な協力が進むだろう。

 

第三に、分断体制を克服する過程において進歩的な問題意識の発展を遮る意識的かつ社会構造的な壁は弱まり、それによって社会民主主義などより進歩的な目標を追求する多様な積極的な努力がさらに進むだろう。

 

ここで中道主義的な理念の必要性が提起される。その間、進歩理念は急進主義的な理念と等値されてきた。このような傾向はまだ強いが、その側面からみて、民衆民主主義的な傾向を継承する流れの中で西欧の社会民主主義のモデルの受容を通して進歩理念の「実現可能性」を高めようとする傾向が登場している点は注目すべきである。が、社会民主主義の発祥地であるヨーロッパでも「第三の道」など、社会民主主義の革新のための努力が行っていることは、伝統的な社会民主主義も現在進行される資本主義世界体制の変化に対応しがたいという現実を見せている。そして、今になって内部の資本蓄積の動力を持ち始め、それに分断という負担まで抱えている韓国で社会民主主義のモデルの教条的受容は難しいのである。したがって、朝鮮半島で進歩理念は社会民主主義的な企画を包容する必要があり、これまた充分に進歩的な意味を持つのである。これは現在の状況では、資本主義世界体制に交替できる明確な代案を提示することは難しいだろうという判断と、単純に物理的な力量のみが足りないわけではなく、想像力•理念的な構成能力などにおいても限界があるという判断から考慮した考えである。ただし、資本主義世界体制が新自由主義あるいはアメリカの単独主義的な秩序に転落せずに、自らの内部に進歩的な価値を反映できる多様な変化の契機を作り出せるのなら、それだけでも相当の成功であり、先進的な充分な意味を持つことだと言えよう。とりわけ、韓国の現代史を考えるならば、理念的傾向から大きな差異がない保守と穏健改革を示す政党の間での政権交代だけでも支配体制の亀裂を増し、進歩的な流れを強めさせることのできる政治社会的な条件をつくったという点も中道主義が変革的な動力を持つことを見せる。現在、韓国社会は政治的に大きな変化が進行中であり、表面的に保守勢力のヘゲモニが強化される方向に転換される徵候も現れている。さる五月の地方自治選挙や七月二六日の国会議員選挙でこのような傾向が明らかにあらわれたが、進歩主義が伝統的理念の枠の中で囲われていては、このような傾向はもっと強化されるであろう。進歩陣営内での選挙で進歩勢力と穏健改革との間の関係をゼロサム関係としてみる場合が多いが、最近の選挙結果はそれと反対の傾向を見せている。穏健改革を代表するといえる与党の「ヨリンウリ党」の支持率が2004年以後下落しているが、進歩政党の支持率が上昇するのではなく、ともに下落しているのである。これとは反対に2004年以前には両党の支持率が上昇する傾向を見せたことがある。しかし分断体制の動揺を招く国内外の情勢の変化が保守的ヘゲモニだけでは対応しがたい点を考えるならば、状況が悲観的なことではない。むしろ、「南北の漸進的な統合と連繋された総体的な改革」という流れの中で進歩と穏健改革といった両勢力が保守ヘゲモニから逃れた連帯を実現できる条件が過去より成熟になっていると言える。

 

韓半島の分断体制の克服は東アジアにおいて新しい秩序の形成と緊密につながって進行するだろう。韓半島における変革的中道主義は韓半島という地域的な範囲を越えて、東アジアと地球的な次元での「進歩」の活動力を強化し、東アジアの地域的な連帯を豊かにするための展望を提示している。このことは現在韓国、そして韓半島が、アメリカの全体的な支配の拡大か、またはアメリカの全体的なな支配を克服する新しい協力秩序の形成かのせめぎ合いの舞台になっており、他のどの地域より熾烈に進行していることから起因している。すでに冷戦体制の解体以後、姜尚中(カン•サンジュン)と和田春樹などが「東北アジア共同の家」という構想を通して、韓半島の平和が東北アジア•東アジアの平和の核心的なかぎになることを強調している。我々の目標はそれよりさらなる一歩でなければならない。すなわち、韓半島における分断の克服を、単純に軍事•政治的な意味での平和のみでなく、社会•経済的な次元での平和にもつなげるのである。勿論、そのためには韓半島内での均衡的かつ環境神親和的な社会•経済的な体制を建設するための努力のみならず、東アジア協力においても新しい努力が必要になるであろう。

 

3.東アジア協力の新しい模索

 

現在進行している様々な東アジア協力は、直接的に、間接的に冷戦解体以後の東アジアにおける新しい平和秩序を構築するための動きと結び付いている。すでに韓国では1990年代において一部の進歩的な知識人たちが東アジア論の構想に積極的な関心を示していた。このことは冷戦体制の崩壊と急激な環境変化に伴い、新しい理念を模索する過程において一国的な視点と世界体制的な視点の媒介項として、特に全地球的な資本の画一化論理に対抗する拠点として東アジアを注目することになったことと深い関連を持っている。これと直接結び付いているわけではないが、日本においても和田春樹と姜尚中などが「東北アジア共同の家」という構想を通して冷戦秩序に取って代る新しい地域秩序形成の可能性を模索した。

 

1997年の金融危機をきっかけに東アジアでは「ASEAN+3」という椊組のなかで地域協力が急速に進行し、東アジア論が実践的な意味を持ちはじめた。「ASEAN+3」では東アジア共同体という長期的な目標を含めた様々な東アジア協力が提出された。特に、域内国家間のFTA締結が活発に進められ、東アジア協力の制度的な基盤は一層強化している。市場と開放が地域協力を促進するこのような変化は、東アジア協力が基本的に自由主義•機能主義的な経路に寄り添って進行していることをうかがわせる。

 

東アジア地域では歴史•文化•軍事的な要因による不信と葛藤が依然として厳しいことを考えてみると、このような経路を通して協力の基礎を強化していくのにはある程度肯定的な意味がある。特に、東アジア協力が初期段階に差し掛っている状況で、経済協力や機能的な協力のような地域統合を促進させる要因などを積極的に活用するのには重要な意味がある。韓国や日本での少なくない進歩的な知識人達の東アジア•東北アジア協力構想において、域内のFTAなどの経済協力が強調されているのもそれゆえである。 和田と姜の構想にもFTAを地域統合の重要な構成要素としてみている。現在、行っているFTA協商に対して、進歩陣営は批判的という立場では同じであるが、その中ではFTAを根本的に否定する立場と韓・米FTAの推進方向に批判の焦点を当てる立場の間の差異が存在する。このことは東アジア協力においても中道主義的な接近が必要であることを示している。そして東アジア協力においても、このような中道主義的な接近は、資本主義世界体制内での多様な実験と進化の可能性を開く変革的な意味を持っている。しかし市場と開放は協力の物的土台を強化する意味があるが、同時に少なくない反作用も伴うということを考え合わせてみると、自由主義と機能主義に対する盲目的な追従は避けるべきであろう。

 

すでにグローバリゼ─ションは多くの国家で所得分配構造を悪化させている。「Human Development Report 2005」は最近20年の間に調査可能な73ヶ国の内53ヶ国(世界人口の80%)で所得格差が拡大しており、9ヶ国(世界人口の4%)のみ所得格差が縮小したと指摘している。特にヨーロッパとは異なって、国家間の経済発展段階の差が大きく、各国内において市場の失敗を補完できる手段が脆弱な東アジアの状況を考慮すると、市場と開放の動力だけに依存する地域統合の成功はそんなに簡単ではないだろう。東アジアでは開発途上国のみならず、韓国や日本のような比較的発展している国においても両極化が重要な問題として提示されている。次に東アジアの大部分の国家が社会安全網を備えていないことも問題となる。中国を例にあげてみると、公共支出、特に医療と教育支出は一人当りを基準にヨーロッパの1/50、1/40にすぎないという推定がなされている。他の東南アジアの国家の場合もそんなに大きくは異ならない。

 

したがって、グローバリゼ─ションという客観的な潮流を全面的に否定することはできないが、それを管理するための地域的な次元における努力は必要である。スティーグリツ(Joseph Stiglitz)はグローバリゼ─ションと開放と関連して、「急進的な自由化+緊縮財政」というワシントン•コンセンサス(Washington Consensus)が提示した政策パッケージに反対して、各国の経済水準の差を考慮した段階的な自由化と貧困問題対する積極的な対応の必要性を主張した。またデイヴィド•ヘルド(David Held)は、多次元的に定義されている人類の普遍的な価値(地球的な次元における社会正義、人権、民主主義的なガバナンス、環境)の実現と結び付けられるグローバリゼ─ション戦略、すなわち社会民主主義的なグローバリゼ─ション企画の必要性を提示した。このような構想は進歩的な地球化、あるいは進歩的な開放の追求を目標としているものである。東アジアの協力においてもこのような問題意識を積極的に享受して市場と開放を管理するための地域協力を強化しなければならない。特に市場と開放の中で公共性をどのように強化すべきかについては検討が必要であろう。

 

問題は現在国家次元の協力だけではこのような志向が地域協力に積極的に反映できないことである。現在東アジアにおける大部分の国家は、国家を基本単位とする開発主義的な椊組から抜け出ていないからである。たとえば、FTAのように同じ地域の経済統合と発展も覇権的な秩序を克服するための多国家間の秩序に対する模索と地域的な連帯ではなく、開発主義者たちの競争によって進められているのである。また権威主義体制下での発展は、国民全体の福祉増加よりは特定既得権層の利益のみを増加させるもので、環境親和的な発展ではなくむしろ環境に対する脅威を増大させる開発を意味する場合が多い。

 

したがって個別の国家次元は勿論、東アジアの地域協力に環境問題や福祉などの進歩的な価値を実現させるための民間次元の努力と協力が切実に要求されている。現在東アジアでは、経済的な協力の進展に比べて相互信頼を増進する社会•文化的な次元における民間交流が大きく遅れを取っている。このような状況下ではいろいろな議題が依然として民族的•国家的なプリズムによって歪められ、解決しづらくなる状況が続いている。東アジアにおいて、帝国主義と植民主義によって互に掛け離れている民族国家間のつながりを正常化することはいまだ重要な問題である。しかしグローバリゼ─ションと地域協力の進展という客観的な状況を考慮すれば、地域的な連帯意識を増加させ、地域協力に普遍的な価値を反映するためには民間次元における超国家的な協力が必要である。特に後者に関しては知識人たちの努力が重要な意味を持つ。我々が現在のヨーロッパ統合で見習うべき一番重要な教訓は自由主義•機能主義的な方法論ではなく、統合の知的な土台、すなわち認識共同体(Epistemic Community)を形成するための知識人たちの積極的な努力である。ヨーロッパの場合は2回にわたる世界大戦に対する反省がこのような努力を促進させたが、東アジアにおける知識人たちは失敗を通した教訓より、未來に対するビジョンの共有を通して東アジア協力の新しい段階を開くべきであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

季刊 創作と批評 2006年 秋号(通卷133号)
2006年9月1日 発行
発行 株式会社 創批
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