韓国の二十代、脱米を想像する
特集|アメリカという私たちの難題
李炳翰(い・びょんはん Ibh7826@hanmail.net
1978年生まれ。延世大人文学部卒業。現在、上海交通大学国際学大学院在学中。
空高く昇る火、私たちの胸を高鳴らせる。いまやすべてが目覚め、永遠にともに生きていかねばならない道に出よう。手に手を取り合って壁を越え、私たちの生きる世界をもっと住みやすいように。手に手を取り合って壁を越え、互いに愛しあう心ひとつにせんと、手を取り合って。
1988年、あまりにたくさん聞き、また、たくさん歌った歌だ。声をはりあげて歌った私たちの機運が伝わったのだろう。翌年、ベルリンの壁が本当に崩れた。西ドイツと東ドイツの人々が、手に手をとって壁を越えたのである。それに続いて東欧が崩壊したといわれ、遂にソ連も解体した。その一連の事態を見守りながら、私は、〔88年ソウル〕オリンピック当時に感じていた戸惑いを、多少なりとも和らげることができた。
当時、十歳の「反共少年」だった私にとって、オリンピックは自由陣営と共産陣営がフィールドとリングで実力を競う、もう一つの戦場だった。その争いでソ連が1位、東ドイツが2位を占め、アメリカは3位におわった。衝撃であり、納得しづらい結果だった。私の頭の中で序列化されていた世界地図が、一瞬のあいだに揺り動かされた。堅く構築されたその地図のなかに存在し、世界を認識していた私の実存さえもが揺れる、不快な体験だった。
しかし、89年以後の歴史的激変は、オリンピックが終わってからも簡単に打ち消されなかった気まずさと不審を一気に解消してくれた。多少の試行錯誤を経たが、アメリカと「自由世界」は遂に勝利した。まさにそうであるべき必然の産物であり、歴史の順理でもあった。時には遅滞し後退するが、それでも歴史は前進する。そのように、私は「進歩」を固く信じていた。まさに、アメリカが単一覇権を握った、それゆえ世界中がアメリカ化される、そんな「素敵な新世界」が到来していた。この素敵な新世界に酔ったアメリカのある知識人は「歴史の終焉」を宣布してもいた。そんな歴史の終着地から、私たちの十代はちょうど始まった。
そんな私がいつのまにか二十代の終わりに差しかかっている。2006年、現実はただ寒々としている。支離滅裂した韓国の今日と危ういことこのうえない韓半島と世界の現在を見ていると、87年民主化運動の喊声と89年自由陣営の勝利に対する歓呼も色あせるような状態である。何が間違っていたのだろう? こういった背景から、私は、アメリカがすなわち世界だった去る20年を描きなおしてみたい。私の生にとけ込んでいたアメリカを抽出し、問うてみようと思う。私の経験が私たちの世代を代表することはできないだろうが、彼らとともにアメリカの力強い磁場の中で20年を生きてきたという点で、一定の典型性は確保することができるだろう。本稿は、アメリカの呪術から脱するまでの私が経験した短い成長記である。
1990年代 1――ソテジとチェ・ゲバラ
文化の時代、欲望で沸き立った思春期の私たちにとって、消費資本主義が花開いた90年代は、まさに黄金時代だった。私の部屋の壁はニューキッズ・オン・ザ・ブロック(New Kids on the Block)、マイケル・ボルトン(Michael Bolton)、マライア・キャリー(Mariah Carey) など、その時代を率いたアメリカのポップス歌手たちのブロマイドで埋め尽くされていた。「アメリカン・トップ・フォーティ(American Top Forty)」というラジオ放送をマメにチェックして聴き、ビルボード・チャートをしっかり覚え、「歌謡トップテン」にとどまっていた同世代の間で妙な優越感を感じていたりした。巨大な地震津波のようにバスケットボールのブームが押し寄せたりもした。『スラムダンク』は私たちの世代のバイブルだったし、延世大と高麗大のバスケットボール部は女学生たちのアイドルだった。私は、偉ぶったふりをしながら一歩進んで、アメリカのプロバスケットボール・NBAに耽溺した。香港の衛星放送を通じてNBA 選手たちが繰り広げる神業に近い競技を、魂でも吸い取られるかのように見つめ、私の部屋の壁紙はいつのまにか舌をペロッと突き出した顔で虚空に浮かんでいるマイケル・ジョーダン(Michael Jordan)に変わっていた。運動靴はいつも「Air Jordan」が刻まれたナイキだったし、それを履くだけでも私は充分にカッコよく、堂々としていた
私たちは、文字どおり「消費する主体」であり、消費を通じて自我を構成していった。ビルボード、NBA、ナイキ、ハリウッドを消費しながら特に「アメリカ」を意識するわけではなかった。それらは私の欲望を表現し実現する立派な道具であると同時に記号だったにすぎない。アメリカは私たちの日常に自然にとけ込んでおり、私たちの生とアイデンティティを構成する内部化されたコードだった。
そんな私たちの自由奔放さは「個人」の誕生に礼賛され、その日常はポストモダニズムという、見慣れはしないが煌びやかな語彙に捕捉された。振り返れば、私たちを修飾したその言語のインフレは、社会主義が沒落した90年代を生きていくために第1世界から借りてきた脱革命の処世術だった。「荒くれた過去」を反省した多くの革命家たちは、退廃したヤンキー文化だと後ろ指を差していた大衆文化に新巣を作って飯を儲け、おりしも(ソ連解体の翌年)登場したソテジは、彼らの救世主になった。ブルーカラーたちのロックにスラム街の黒人たちのラップ・ビートを織り交ぜて太平簫〔韓国の国楽で使われるラッパのような楽器〕が奏でるチャルメラ節も挿入した「何如歌」の方に、社会主義リアリズムを論じてパンソリ〔伝統的な声楽〕とタルチュム(仮面舞)に沒頭した彼らは興奮した。ソテジの反抗期は限りなく脹らまされ、世界を変える代わりに皮肉ることが「文化革命」になった。おかげで彼のCDを買い、アメリカの左派バンド・レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン (Rage against the Machine)の歌を聞くだけでも、私たちはうぬぼれることができた。進歩は消費され、チェ・ゲバラはアクセサリーになった。あまりに異なる私たちと彼らは、その奇妙な談合の中でアメリカが勝利した90年代を共有した。そうして1997年、IMFが勃発した。
1990年代 2――IMFからシアトルまで
90年代のイコン、ソテジは97年に引退した。彼が忽然とアメリカに発つやいなや、IMFがやって来た。株価は底なしに暴落し、為替は天井なしに上がった。どだい実体を知るすべもないあの巨大なシステムによって、私たち生の基盤は一瞬にして崩れた。その修羅場の中で政権交代がなされ、私は大学生になった。
春来不似春。春になって花は咲くのに構造調整と整理解雇の寒波が押し寄せてきた。桜も満開になった4月の穏やかなある日、私たちは87年にテレビで見た激動のど真ん中に立っていることを悟った。その日、ソウル大ではソウル地下鉄と公共部門労組、大学生たちが集結し、民主化以後10年ぶりに「労学連帯」が復活した。混乱しながらも10年前の民主化の主役たちが、私たちと対峙していた。歴史は奇妙に屈折した。私たちにとっては見慣れないことこの上なかった朴正煕の幽霊が韓半島を漂いはじめ、「あの時あの時代」に対する郷愁が毒キノコのように広がっていった。戦闘警察にだらだらと引かれて行く友人たちの後ろ姿を見ながら、もう一つの90年代を予感した。
振り返って見れば、私たちが謳歌していたその手網の解けた商業主義と消費主義は、冷戦体制の瓦解とともに「グローバル化」というアメリカの新しい覇権戦略が地球全域に起こした巨大な波長の一部だった。その後、世界に向けて無防備に開放された市場で生き残らなければならないという強迫的な競争・経済論理が冷戦論理と同じくらい苛酷に生を締め付けてきた。論述試験の準備のために熱心に読んでいた新聞社説にしょっちゅう登場していた文句である「無限競争の時代」が、どれほど恐ろしい言葉だったのかを一歩遅れて実感したのである。改革政府が振り回す新自由主義の刃はよりいっそう苛烈を極め、アメリカの手の平で踊らされているIMFは、さらに手網を締めてむちを打ちつけてきた。
不透明な未来に対する不安と恐怖、落ちこぼれれば終わりという漠然とした恐れ、今後もこれ以上マシにはならないだろうという諦めと冷笑など、各種のポスト‐IMF症侯群が私たちの若さを押さえつけた。アメリカが主導するそのバラ色の世界で、私たちの生は灰色に染まっていった。しかし、暗鬱で荒涼とした90年代の終わりにも、さまざまな個人の希望は相変らずアメリカにあるように見えた。熾烈になった単位競争をくぐりぬけ、交換留学生に選ばれてアメリカの大学で勉強するのが、小さな勝利の象徴だった。皆、私設の塾と語学学校に通って英語の勉強に余念なく、休みは農活〔農業活動〕の代わりに語学研修で満たされた。理想の代わりに利害を共有するTOEFL勉強会のメンバーが大学生活の主要な人脈になり、淘汰されてはならないという切迫感から固い「同志愛」が芽生えた。私たちは『解放前後史の認識』や『転換時代の論理』の代わりに『パク・チョンのTOEIC』と『ハッカーズ・トフル』を「学習」し「討論」し、工場で下積みする代わりに外国系企業のインターンで経歴を積んだ。産業戦士にも民主化闘士にもなれなかった私たちの目標は、ひたすらこの殺伐とした競争社会で生き残ることができる「グローバルな人材」になることだった。私も未来への突破口を探しにシアトルに向かった。
“何を想像してもそれ以上のものを見ることになるでしょう。” ウォシャウスキー兄弟の99年作「マトリックス」の広告文句である。本当にそのとおりだった。その夢の国に第一歩を踏み入れた私が出くわしたのは、アメリカに向けられた全世界の巨大な怒りと怨みの喊声だった。99年のシアトルは、アメリカ主導のグローバル化が引き起こした壊滅的な結果に呻いたこれらの人々が総集結し、WTO 閣僚会議を蹴散らした反グローバリゼーション運動の聖地だった。デモ隊の勢いに押されてグローバルな貴族階級たちの秘密会談は延期され、現代版不在地主たちは慌てふためいて席を立った。
私とは全く違った夢を抱いてその場に来た数多くの世界市民たちと出会ったことで、私は、韓国の状況が極めて普遍的で「正常」であることを確認することができた。南ア共和国から来たある人は、人種差別に抵抗したマンデラが執権したものの新自由主義政策によって民衆たちの生は破綻していったと訴えた。インドの左派政党関係者は、州政府選挙で勝ってからも「資本離脱」を警告しながらどやしつける金融資本になすすべがなかった経験を吐露した。このことは、ブラジル労動者の希望だったルーラが大統領になってからも資本のストライキに屈服してしまった事例から、繰り返し変奏されるほどありふれた話になった。彼らはアメリカ発の新自由主義が、持てる者たちがより多く持つことができなかったという不満から始まった反革命の論理で、逆階級革命の理念であると糾弾した。私が梯子に乗ってもっと高く上がろうとじたばたしていたその「マトリックス」を転覆させようと固く団結した「ネオ」たちを見守りながら、私は、羨ましくもあり、恥ずかしくもあった。
反WTO闘争の勝利による一時的な歓喜の中で、ミレニアムがやってきた。10年と100年、そして1000年が重なって流れる特別な瞬間だった。その刹那にアメリカが冷戦で勝利した 1990年代が終わっていき、アメリカが覇権を握った1900年代が暮れていき、全世界を「ミレニアム」という単一敍事の中に包摂した近代という500年の歴史が過ぎ去っていった。まさにその時、1492年にコロンブスが「発見」したというその新大陸で、「もう一つの世界は可能だ」(Another World Is Possible、世界社会フォーラムのスローガン)という叫びが響き渡っていた。最初の共和国だったアメリカはもはや「アンシャンレジーム」(ancien régime)の一部になったように思われた。シアトルの眠れない夜、新千年の幕開けを告げる爆竹音に私の中のアメリカが揺れ動いた。
1990年代 3――地図の描き直し
東欧圏の崩壊によって世界地図のなかの鉄のカーテンが開いた。世界は「地球村」になり、グローバル化された資本主義は地球村の単一文法になった。その地図の上に90年代のさまざまな物語、その大部分は悲劇たちが、多様な言語で記録されていった。
私たちはその地図の中に分け入っていった。バックパック旅行が大学生活の必須コースになり、地球村を目で見て体で体験することができるようになったのだ。東京にたいする親しみ、欲望の対象だった幼年時代のアメリカであれ、IMF事態を経て疑問符をつけて疑いのまなざしで見つめるようになったアメリカであれ、アメリカがすべての標準であり、モデルであって、思考と判断の準拠点として想像の限界を規定していた時代は暮れていった。「反米」がたやすくナショナリズムに傾き、「親米」がえてして植民地的無意識に起因することは、両者が共にアメリカのみを中心として世界と韓国を理解しているからだ。歴史的局面の変化に従って繰り返される反米‐親米の振子運動を乗り越えるためには、「韓国‐アメリカ」という二項対立のフレームを壊す複眼が必要だった。
バックパック旅行は、私の二つの足で新しい地図を描く作業だった。自分の目で世界を見て、自分の体で世界とぶつかっている間、観念の中の世界地図は破裂音を出しながら修正に修正を重ねた。アメリカを頂点に構築されていたその堅固な世界が少しずつ崩れ落ち、「近代」という列の中で序列化され平面化されていた世界も、徐々に立体感を持つようになった。「西洋」はアメリカとヨーロッパに分岐し、そのヨーロッパも多様性によって内破されていった。普遍を語ってきた西洋文明は、人類の偉大な文明遺産のうちのひとつとして、その居場所を探しはじめた。「外国人」も、もはや白人のアメリカ人を指す固有名詞ではなかった。このように、言語が本来の意味を回復することで、世界を凝視するまなざしもいっそう透明になっていった。
「自由民主主義」が勝利した90年代末の風景は、不平等きわまりない悲惨な世界だった。先進国と第3世界、そして先進国内部における貧富の格差は甚だしいものだった。両者は緊密に連携した同時代の互いに異なる姿であり、グローバル化した資本主義はその空間的不平等を構造的に生産しながら地球村を作りあげていった。東と西が交差し、イスラムとキリスト教が融合しているトルコのイスタンブールは、世界システムが中心部と周辺部に分裂する境界地でもあった。その場で立体的な世界地図は、ようやく歴史性をも獲得した。資本主義世界システムという500年の長い歴史が、地理的空間の中に染みわたったのである。
そうなるやいなや、ユーラシアの端に位置する韓半島の「歴史的位置」も、もう少し正確に描かれるようになった。アメリカとともに「自由世界」の一員として生きてきた冷戦期の自我像は、巧妙に歪んだものだった。韓半島の近代体験は、アメリカのそれとは質的にあまりにも違っていた。植民と戦争、分断と独裁に点綴された韓半島の20世紀は、その間、想像の地図の中で空っぽの余白として残っていた「第3世界」の歴史に近かった。インドシナ半島に凶物のように刻まれた近現代史の桎梏にみちた痕跡たちは、韓半島のそれとあまりにもそっくりな模様と肌理をもっていた。
冷戦の終息でひとつになった地球は、逆説的にアメリカの相対化を生んだ。理念によって分裂した空間が開放され接合されながら、潜伏していた地域性が発現されはじめたのである。アメリカは依然として世界唯一の超大国だが、もはや世界そのものではなかった。「近くて遠い」隣国の諸言語が、ドイツ語とフランス語を追い抜いて第2外国語としての地位を固めた。特に中国ブームは驚くべきものだったが、私の幼い頃を思い返すならば、中国のイメージは人海戦術で鴨緑江を押し進み下ってくる無知さと粗暴さだけだった。それからわずか10年が過ぎ、韓国の若者たちが竹のカーテンを越え中国に向かってどっと押しかけていき、中文科の位相が英文科を脅かすに至った。記号体系において戦後の韓国を占領した英語の位相と肩を並べるに値する大きな構造変動だった。記号と表象が変われば現実世界ものろり、と動かざるをえない。
21世紀―― America under Attack
99年のシアトルを埋めつくした反人間的システムに対する呪いと憎悪と不満が、とうとうその体制の中心部で爆発した。10年前、湾岸戦争でバグダッドを焦土化した米軍の圧倒的軍事力を生中継したCNNが、今度は「America under Attack」という生硬な字幕の下に、あの致命的な世界貿易センターのテロ場面を繰り返していた。冷戦の瓦解は鉄のカーテンと竹のカーテンだけを消し去ったのではなかった。その間、がっちりと押さえつけられてきた第3世界の不満が、あちこちで弾けだす起爆剤になったのだ。東豆川の米軍部隊テントで日直に立っていた私は、そのだしぬけな超現実的スペクタクルに圧倒され、さえた目で夜をあかした。
アメリカ人たちに、自らに向けられたあの根深い怒りと憎悪を省察できる能力が少しでもあったなら、9・11の悲劇はより良い世界へと向かう成長痛になっていたかもしれない。彼らが生まれて初めて体験したその恐るべき暴力とは、実際、去る世紀のあいだ幾多の人々、特に「第3世界」と呼ばれる体制の周辺部で生きて抜いていた者たちの日常だったからだ。9・11は逆説的に、短くは去る10年、長くは去る500年の歴史の中で、地理的に亀裂をいれられていた近代の経験を共有する「絶好の機会」になりうるものだった。しかし、彼らには絶望の叫びに耳を傾け共感することができる感受性も、想像力も、意志も不足していた。その欠如の空間を補ったのは“アメリカ式の生活スタイルは妥協の対象ではない”というブッシュ政権の煽動だった。
素早く「テロとの戦争」という規約なしの報復戦が開始され、世界でもっとも貧困で疲弊した国に、無差別空襲が加えられた。荒涼とした山岳地帯に雹のように爆弾が降りそそがれ、巡航ミサイルが連日虚空を切り裂いた。戦争の名分だったビン・ラディンは捕まらなかったが、アメリカは自ら勝利を祝った。それは本当に「勝利」と呼びうるものだった。テロによって家族と友人を失った人々の悲しみを巧みに操作し、商品化して、政治的目的に活用したアメリカの支配階級の、完璧な勝利だった。人間のもっとも私的で内密な感情までをも掠奪して利潤を創出する体制化された野蛮の大勝利だった。国家が国民に加える凄まじい国家テロでもあった。
2002年、韓国でも若い反米が爆発した。米軍の過失によって花のような二人の女子中学生が死亡したにもかかわらず、米軍が事後処理の際に見せつけた安易さと無情さ、分別の無さは、ワールドカップベスト4で高まった赤いナショナリズムに油を注ぐ取っ掛かりだった。韓流ブームに慣れた私たちは、文化的自負心に満ちていたし、南北首脳会談という歴史的事件によって北韓のイメージも劇的に変わっていた。私たちにとって6月は、 6・25〔朝鮮戦争勃発の日〕ではなく6・15〔2000年南北首脳会談の日〕として記憶されている。それだけに分断体制の中でアメリカが享受してきたヘゲモニーは、苦戦するハリウッド映画と同じくらい乗り気のしないものになったのだ。「神聖な韓米同盟」は流行がずいぶんと過ぎたサムい冗談に過ぎなくなり、私たちは躊躇なしに蝋燭を持って路上に出た。火炎瓶と石ころで対峙した切迫した闘いが、平和なキャンドルデモに変わったのである。これは、十代から私たちが享受してきた民主主義と文化的活力があったがゆえに可能となったのであろう。
平日には米軍に服務し、週末にはキャンドルデモに参加するという二重生活の連続だった。その渦中にも、米軍テントにある私の机の一角にはぶ厚いGRE本が挿し込まれていたし、デモを終えて帰って来た日にも英語の勉強を怠らなかった。湧き上がる反米感情も、アメリカ留学の熱望までは寝かせつけることができなかったのだ。あるいはそのふたつは、私の内面で葛藤し、ぎこちなく共存したともいえよう。当初「アメリカの犬」なのかという皮肉に自己恥辱感を感じながらも、カトゥサ(KATUSA)〔Korean Augmentation To the United States Army:駐韓米軍陸軍で生活し勤務する韓国軍人〕に志願したことからがそうだった。カトゥサの最終抽選に合格した日、私は大学合格の知らせを受け取った時よりもずっと嬉しかった。どれほどうれしかったか、友人の叱責が妬みに聞こえるほどだった。韓国軍で私の人間性の底を試して2年を空しく過ごさなくてもよいという安堵感と、米軍での服務は、言語習得はもちろん、ビザ取得や留学に役に立つはずだというひそかな期待もあった。韓半島と東北アジアにおいて在韓米軍が担っている役割にはかなり批判的だったが、それでも米軍、ひいてはアメリカの提供する恩恵は簡単に拒否できない魅力であり誘惑だった。
2003年アメリカは大規模な反戦デモも物ともせず、イラクを侵攻した。アメリカのタカ派たちの前で無気力きわまりないコフィ・アナン国連事務総長がアビニヨン幽囚の教皇のように哀れに見えた。イラク戦争で裸になった帝国の実体が露骨に現われ、アメリカの知的・道徳的ヘゲモニーも決定的に崩壊した。反米を通り越して嫌米の機運さえうねり、グローバル化を主導したアメリカに向かって反米のグローバル化がブーメランになって返っていった。
しかし、世界的に拡散する反米と嫌米の波を押し切ってまで戦争を敢行するネオコンの論理こそ、アメリカが直面した構造的危機を冷徹に認識していたのかもしれない。地球的規模で拡散した第二次大戦の惨禍は資本主義体制の構造的危機の産物であったし、アメリカは戦争を通じて大恐慌から脱することができた。それからアメリカは「冷戦」という恒常的な戦時状況を必要とし、冷戦の終息と共に新たな永久戦争が要求されたのである。持続的な経済力の侵食の中でも軍事化を止めることができないアメリカの内部矛盾は、すでに収集のつかないところまで達していた。いまや資本主義体制のもっとも脅迫的な勢力は、社会主義やテロリズムではなく、近代の外套さえ脱ぎ捨てて先陣をきるアメリカ自身ではないか。いかなる犠牲を甘受してでも永遠に覇権を維持するという彼らの切迫した身もだえは、一時、ヒトラーが夢見た脱資本主義的な千年王国さえをも思い出させる。しかし、アメリカの支配層が死にもの狂いで挑戦しているのは、自然界と歴史をともにするという一つの不変の法則、すなわち「変化」に対する拒否であり、このゲームの勝負はすでに決まっている。
脱米の想像力
ベルリンの壁崩壊以降の15年あまり、アメリカがメキシコとの国境に壁を積み上げるとの知らせが聞こえてくる。自由の灯火だったその国は、時を経るほど自閉的なご時世になっていく。ソ連に続いて、もう一つのパラダイスが消えるのだ。それでも新しい何かが見るというわけではない世紀末的状況は、今も進行形である。このようにみれば、十歳の少年が二十代後半の青年になるまで、私たちは相変らず89年以後の転機を生きているのかもしれない。ただひとつ、切実に体得したのは、アメリカ式資本主義が答えではないという点だ。アメリカンドリームの全地球的実現は、それとは異なるすべての夢を踏み付け抑圧する悪夢に過ぎなかった。いまや89年と91年の衝撃の中で清算と転向の風が吹きあれたように、再度の決算と方向転換が要求される。しかしそれは「転向」ではなく「回心」でなければならない。私たちの魂のよりどころとなる、もう一つのユートピアはすでに存在しないからだ。
この文章を書いているうちに、また一人の友人がアメリカに発った。すでに少なくない知人がアメリカで学究熱を燃やしている。「ハーバード」は「アメリカ」が喪失したそのアウラを依然として湛えている。彼らの健勝を祈る心の片隅に羨ましさが顔を覗かせる。ブログを通じて彼らの留学生活を横目にしながら、私の選択は正しかったのかと不安になったりもする。除隊とともに凶物のような米軍服を脱ぎ捨てながら、私は、長年の夢だったアメリカ留学も一緒に手折ったからだ。他の道に行ってみようと考えたのだ。
9・11に始まり、イラク戦争で締めくくられた軍服務期間に、著しく目についた私たちの社会の変化は、「反米の大衆化」と「親米のエリート化」だった。敢えて去る時代のように「学習」を通じて米帝国主義を勉強しなくても、アメリカの民主主義は余すところなく後退したし、当初のそのアメリカ式民主主義というものも、実際のところ自国の利益、その中でも軍産複合体を中心とした保守右派の利益に奉仕するものであるということは「常識」になった。いまや、アメリカに残されたものは、崇高な価値や理想ではなく、その国が蓄積している「力」だけだ。
問題は、富と学歴を土台に再生産されるこの地の若いエリートたちがアメリカとの強い癒着欲望に陥り、その力の論理に簡単に追従するという点である。アメリカが提供する質の高い高等教育を十分認めるといっても、度が外れるほどにアメリカ偏重であることは否定しがたい。それは、私たちの世代が二十代に経験したグローバル化に対する、互いに異なる反応でもあった。大多数が日々疲れていくこの地の現実を「テ~ハンミング」〔大韓民国の韓国語読み。サッカーなどの試合で応援の掛け声として使われる〕の一時的熱狂によって癒しているあいだに、コスモポリタンを自称してここを離れることができる遊牧民たちは、民族主義を嘲笑いながらアメリカというオアシスに安着する。そうして、あれほど流行った脱植民地主義までもその理論的根拠を、すべて第1世界から得ようとするのである。大概のところ長々と並べることがお決まりとなっている長い引用文献リストを見ていると、「脱植民地主義」という語彙が冗談のように聞こえて物悲しくなるくらいだ。果たして、斜陽のアメリカに羽ばたきはじめた彼らに、ミネルバのフクロウの知恵を期待することができるだろうか?
今まさに、私たちの思考を規定し欲望を統制した「アメリカ性」を解体して、抑圧された想像力と創造力を解放し、アメリカンドリームの中に埋もれた私たちの夢を実現せねばならない時だ。民主主義とグローバル化を経験した私たち世代の活力とエネルギーが、退行的なナショナリズムやアメリカに象徴される古びた支配的価値に包摂されずに、その価値を打破し変革する方向へと流れるように、新たな道を切り拓かねばならない。これは、「反米」というスローガン的な掛け声や一面的なアメリカ批判にとどまるのでなく、むしろ私たちの中に住み着いている「アメリカ性」を、熾烈に問題化することから始めなければならないだろう。すなわち、アメリカとの遭遇と交渉、抵抗と妥協によって生み出された私たちのこれまでの生と歴史に絶えず立ち返り、その内在的矛盾を痛烈に自覚し「歴史化」するのである。そして、親米であれ反米であれドグマと化した「アメリカ」を、その自足性から解放し、その鏡像として構成された私たちの排他性からも自由にならねばならない。脱米の想像力は、不断に自らを否定し更新することによって、既存の秩序を解体し再建する、休みなき永久革命だ。
深いつながりをもったその自足性と排他性から脱するために、参照体系を多角化することも必須である。アメリカという非対称的な鏡の中にある歪曲された姿に植民地コンプレックスを感じるのではなく、もう少し多面的で立体的に自分を映して見ることができる新しい、さまざまな鏡が必要なのだ。私にとっては、それが東アジアだった。
歴史の再生
低空飛行を始めた旅客機の窓辺に、眩しく透明な海と美しい珊瑚礁が入ってきた。照りつける6月の太陽は熱く、それよりも熱い熱気が島全体を包み込んでいた。沖縄、その悲しい楽園では、米軍基地拡大に反対する海上デモが一日も休まずに進行中だった。習い始めて一年にもならない私のたどたどしい日本語が、彼らの強い沖縄訛りを帯びた日本語と共鳴した。遅まきながら学び始めた隣国の言語は、低い声に感応することのできる耳を育ててくれた。東アジアの戦後を支配した帝国の声、その高周波によってかき消された辺境の雑音たちが、くっきりと言語化されて私に向かってきた。
今年のワールドカップを上海で見たりもした。韓国の試合の日には、焼酒と豚の三枚肉〔サムギョプサル〕を食べ、日本の試合の時にはサシミにニホンシュ(日本酒)を添え、韓中日の連合で応援する楽しさは、なかなかいいものだった。しかし、東アジアの若者たちが膝をつき合わせ、杯を傾けてみると、楽しい話だけが行き交うというわけにはいかなかった。たびたび不協和音が生じて語調が高くなったりもした。消されない歴史の魂たちが、酔いを借りて毒舌で飛び出し、互いを引っ掻き、匕首を刺した。歴史の重力から限りなく軽いと思われた私たちの世代も、その過去とどれほど深く連累しているのか、自覚するようになった。しかし、そのようにぶつかりあい、ケンカすることが重要なのではないか。衝突と言い争いは、清算されないまま温存された過去が私たちの舌を借りて語りかけてくるものである。私たちの目と耳は、ほとんどいつも太平洋の向こうの向こうに向けられていたからだ。いまや東アジアの低い声に耳を傾け、分裂した記憶を整理する時なのだ。
それでは、東アジアで何が可能だろうか? 未来に踏み出す私たちの歩みは、過去を批判的に直視する回顧的認識から始まるだろう。過ぎ去った歴史の中で、壊され、忘れられていった希望の欠片たちを掘りおこし、忘却の垢をすり落とし、ぎっしりと編みあげていかねばならない。
韓国の民主主義は相変らず光を放っている。野蛮な軍事的暴圧に対立し、民衆の手で勝ち取ったものだから、私はそういった歴史を成し遂げた先輩世代を限りなく誇りに思う。日本にも平和主義の尊い流れがある。市民社会の絶え間ない闘いは、空から落ちてきた平和憲法を日本社会に根づかせ60年も守ってきた。また、たとえ今はおさまっているとはいえ、中国革命の火種はどうか? 彼らの歴史は資本主義の彼岸を夢見たもっとも壮大な第3世界の革命敍事だった。その革命の熱情の中にこめられた崇高な価値と遠大な理想は、依然として感動的だ。バンドン会議(1955年インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議)の精神も見落とすことはできないだろう。帝国たちの覇権主義に抵抗する地域連合の知恵は、地球的内戦状況へと達した今日、より一層大きな響きとなって近づいてくる。
民主主義、平和主義、第3世界の社会主義、脱中心的な国際連帯。このすべてが去る世紀、東アジアがアメリカという近代の異物を胸に抱いての悪戦苦闘の中で獲得した歴史の宝である。私たちは「歴史の終焉」とともに、忘れられたその宝庫に戻り、新しいインスピレーションと資源を育てあげねばならない。この<戻って行く>と<戻って来る>という二重運動は、アメリカ化された不毛の世界を更新し再創造する仕事であり、同時に歴史の袋小路でウロウロしているその国に、新たな息を吹き入れてあげる事でもある。
簡単なことではないだろう。よろめくアメリカの暴走は、ソ連のそれよりもはるかに大きな混沌と破局の廃墟を私たちの目の前に投げてくれるだろうから。悲しいかな、それが真実に近い。しかし、その絶望と正直に対面することで、希望が芽生えはしないだろうか。その希望のフロンティアを、私は「脱米の空間」と呼びたい。その未踏の空間から、歴史にも新芽が出てくるだろう。
※〔 〕内は訳者による。
季刊 創作と批評 2009年 秋号(通卷145号)
2009年9月1日 発行
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