창작과 비평

[インタビュー] 女性運動の中心に疑問符を付ける

挑戦インタビュー

 

鄭鉉栢(チョン・ヒョンベク)tobrazil@naver.com 韓国女性団体連合共同代表。成均館大史学科教授。主要著書として『民族とフェミニズム』『労働運動と労働者文化』などがある。

鄭喜鎭(チョン・ヒジン)延世大講師(女性学)。「韓国女性の電話連合」専門委員。主要著書に『フェミニズムの挑戦』『私は今日、花をもらいました――家庭暴力と女性人権』などがある。

 

 

今、韓国社会においてジェンダーは、日常生活から国家政策、社会運動、国際関係、知識社会に至るまで、もっとも尖鋭な論争主題の1つである。フェミニストたちは世界的にも自らの共同体において、新たな知識生産とオールタナティブな社会運動を主導している。

2005年に韓国女性学会と梨花女子大が共同で主催して成功裡に終わった第9回世界女性学大会のテーマは「境界を越えて」(Embracing the Earth)であった。境界(b/order)と連帯に関する思惟であるフェミニズムは、性別のみならず、人種、国家、地域のような既存秩序に疑問をなげかける。フェミニズムは、人間と社会現象を「きちんと」把握し、持続可能な未来の想像において、自らの成長と社会変化に悩むすべての人々が重要なものとして考慮すべき政治学として浮上してきている。

 

特に1990年代以後、韓国の女性運動の急速な発展は国際的にも注目されている。韓国は国連などに「軍慰安婦」の問題を普遍的な人権議題として提起することに成功し、階層や世代を越えて女性運動がもっとも活発な社会として評価されている。だが一方で、これまで社会運動が急激に主流化・制度化したことによる国家との関係定立、階級など女性たちの間での格差、性認知的な観点(gender perspective)からの新自由主義に対する抵抗、また旧態依然たる男性中心的な日常文化との闘いなど、山積した課題を前に論争と模索を重ねている。このような成長過程の真っ只中で、これまでの20数年間、女性運動を主導してきた「韓国女性団体連合」(以下「女連」)の鄭鉉栢代表に会った。私は言葉でも活字でも「もっともなお話し」や「広報用コメント」があまり好きではないが、幸いにも「挑戦インタビュー」という紙面の特性上、忌憚ない論争的な対話ができた。インタビューを通じて女性運動の主張を知らせるよりも、女性たちの間の「葛藤」を提示したかった。差異の発生させる緊張が女性運動の力と可能性になるだろうと信じる。

 

 

 

鄭喜鎭 先生に初めてお会いしたのは、私が1992年に「女性の電話」で常勤職員として働いていた時のことでした。その前に新村(シンチョン)の「石塔労働相談室」の建物で女性運動の講義をなさいましたが、ドイツの例をあげながら、家父長制はいくらでも変化が可能だとおっしゃいました。ドイツの男性たちは家事労働にかなり参加し、特に料理がうまいが、それはドイツの料理法が簡単だからである、誰でも本を見てすぐ食事の支度ができる、このようなことをおっしゃったのが印象的でした。韓国料理は調理が複雑で手間がかかります。計量化も簡単ではありません。今日のインタビューをこの話から始めてみましょう。どの社会でも日常文化の差異が構造的な性別権力関係を異なった形で構成します。言い換えれば、このことは、家父長制が超歴史的なものではなく、時空間の制約を受ける社会的産物であることを示す、よい事例だと思います。他の社会の女性の生は、私たちの社会の家父長制を相対化できる想像力と勇気を与えると思います。

 

 

 

鄭鉉栢 ええ、その講義のこと、覚えています。私は韓国の社会運動が相変らず日常的実践に対して鈍感だと思います。たとえば最近、格差解消に関する議論が多いですよね。ですが、経済の民主化が成就すれば国民たちは満足するでしょうか。私はそうではないと思います。「暮らし向きのよさ」に対する概念が変わらない限りです。韓国社会には個人が文化的な実践をできる空間が極端に不足しています。男性が夜10時、11時に帰宅する限り、家事分担は困難なことです。

 

 

 

鄭喜鎭 今、ヨーロッパでは、週5日制勤務で夫婦の葛藤がひどくなり、離婚率が高くなる兆しがあるといいます。週5日制で配偶者たちが一緒に暮らす時間が多くなるので、家事分担の葛藤が生じるらしいんです。

 

 

 

鄭鉉栢 そうですね。ですが、離婚率が高くなっても、旧ソ連のように同一労働・同一賃金を実施すれば再婚も多くなります。このような話をすればみな批判するかも知れませんが、私は韓国の消費水準が過度に高いと思います。国民所得というものは本当に虚構的ですね。国民所得が3000ドルほどのエストニアやリトアニアに行ってみると、人々がどれほど倹約して教養ある暮らしをしているかが街頭でも感じられます。私たちは社会運動でさえ、あらゆることを経済や政治の問題に還元してしまいます。もちろん政治や経済が問題解決の基本構造になることもありますが、肝心の幸せになる方法は他にあるということです。

 

 

 

鄭喜鎭 韓国が酒、タバコ、衣類、化粧品の消費水準で世界一らしいです。

 

 

 

鄭鉉栢 そうですね。私たちは自らの消費欲望がかなり高いことに対して不感症です。これがどのように聞こえるかわかりませんが、韓国がいろいろと困難な時期に労働運動を支援した「人間の大地」(Terre des homes)というドイツのNGOがあります。私と親しいその団体の活動家がこのような話をしてくれました。自分と一緒に1968年の運動を経験した人々を数えてみたら、その後、3分の1くらいの人たちが自殺しているといいます。運動が失敗し資本主義システムが完璧に戻った社会においては生きる意味がないと思ったらしいんです。彼らは自らの生の意味に対してかなり熾烈に考えているという気がします。これに比べて私たちは、父や母のため生きなければならないし、子供のため生きなければならないし、暮らさなければならない理由がとても多いんです(笑)。

 

 

 

鄭喜鎭 面白い話ですね。

 

 

 

鄭鉉栢 でも、私がなにか自殺を勧めているみたいじゃないですか(笑)。

 

 

 

鄭喜鎭 先生が勧めなくても、すでに韓国の20代の死亡原因の1位が自殺です。

 

 

 

鄭鉉栢 西欧では左派が自殺する人も多く離婚する人も多いです。現実において妥協ができないんです。

 

 

 

鄭喜鎭 韓国は左派知識人が離婚すればアウトでしょう。進歩陣営の人たちもかなり家族主義的です。ここで今回、私が準備してきた質問を始めましょう(笑)。先生は「女性学」と「女性運動」の両陣営で活動してきましたし、女性史から平和運動まで関心事もかなり多様です。また女性運動の世界では「代表的」人物とされています。私はフェミニストにおける「理論」と「実践」の関係は、既存の知識人におけるそれとは違うと思うのですが、西欧の場合、女性学のアカデミシズム化が深刻ですが、私は相変らず「講壇左派」はあっても「講壇フェミニスト」は少ないと思います。フェミニズムが普遍性の哲学であり、自らの日常を政治化することから始まったアイデンティティの政治だからです。女性学と女性運動の関係に対してはどのようにお考えですか?

 

 

 

女性学と女性運動の衝突?

 

 
 
 
鄭鉉栢 女性学者たちが男性の進歩的知識人に比べて実践的なことは事実ですが、鄭喜鎭先生の意見はあまり現実的ではないと思います。実際に運動する者の立場としては、女性学と女性運動の間に一定の距離感を感じます。女性活動家は現実に責任を負わなければならないんです。そうでなければ運動はだめになるに決まっています。ですが、女性学者は主に物を書くことを通じて実践するから負担が少ないんです。そのためか女性学の方で理想的な話をしながら運動を批判したり、どうでもいい問題で運動を評価する場合があります。また韓国社会は、学者は多いのですが、社会が必要とする知識を得ることが難しいことが多いと思います。具体的な例をあげましょう。FTAに関する女性対策委員会を作ったんですが、FTAが女性にどのように性別化した影響を及ぼすかについて外国の事例を分析した論文が一つもなく、周辺にそのテーマを研究して物を書いている女性学者がいないんです。実践がなければ理論もダイナミックに発展しにくいですから、フェミニストは実践を並行して行わなければなりません。

 

 

 

鄭喜鎭 お話しに共感します。ですが、先生の論旨は、ともすれば「女性学と女性運動が出会わねばならない」という当為的な話になりやすいのではないかと思います。私には理論や実践の概念と、両者の関係に対する新たな思考が必要だと思います。切迫した「現場」において要求される知識が確かにあります。ですが、それが言説化され理論化されるには多くの時間と資源が必要です。実際に知識、教育、言語、言説、このようなもの自体がすでに階級的な産物であり、ここに運動と言語の時間差が生じます。理論と実践の区分自体に疑問を提起してみたらどうでしょうか。理論、言語自体が物質的な力であるということです。私はある面では先生と反対に、女性の変化した現実に比べてフェミニズムの言説の方が貧弱だと思いますし、これが運動に制約をもたらしていると思います。近代教育が女性に「許されて」以来、1世紀ほどが過ぎました。「女性が物を書き始めたら、女性問題が発生した」という言葉すらあるじゃないですか。フェミニズムの知識は急進的だとか理想的であるとか、あるいは時期尚早なのではなく、運動の始まりの段階なのだと思います。

 

 

 

鄭鉉栢 そうかもしれませんが、一応、運動と理論の間の疎通が円滑でない面は指摘されなければなりません。これは少し論争的な問題ですが、私は女性学理論の専攻者たちがあまりにもアイデンティティの政治やセクシャリティの問題に集中するために、私たちが実際に必要とする社会構造と女性問題の関係については、相対的に関心が足りないのではないかと思います。

 

 

 

鄭喜鎭 そうですね。その話をするためにはとりあえずセクシャリティとは何かという問題から話さなければならないでしょう。私はセクシャリティが身体に関する社会的解釈だと考えているので、それが介入しない政治は事実上存在しないと思います。なおかつ現在のように女性労働は性愛化(sexualization)して、性文化自体が売春化されたグローバル化の時代に、セクシャリティの問題を別にして女性労働者に対する差別を論ずることができるでしょうか。またアイデンティティの政治的意味は文脈によって変わると思います。私も韓国の男性と話す時は「フェミニスト」になりますが、アメリカの女性と会う時は「民族主義者」になります。女性たちが女性運動のみならず他の社会的構造にも関心を持たなければならないという論理は、女性問題(gender issues)は「社会的な」問題ではなく「個人的な」問題であるという認識が前提になっているのではないでしょうか。このような論理の通りなら、アメリカの女性学者オードリー・ロード(Audre Lorde)は、黒人、女性、レズビアン、障害者だから、4つの運動をすべてやらなければならないでしょう。このように言いたくはありませんが、現在、私たち女性運動が公的領域のイシュー中心なので、私的な問題と見なされるセクシャリティに対して、なにかぎこちない視角があるのではないかと思います。

 

 

 

鄭鉉栢 セクシャリティという概念を、身体に関する社会的解釈であるというもう少し広い意味で使うならば、前に私の言った発言は修正しなければなりません。ですが、そのように定義を下すのも討論が必要なので、この問題は他日を期すしかありません。ですが、そのような立場であるならば、公的領域の基準も曖昧になるということを指摘したいと思います。女連はこの1年間、保育予算のために戦ってきましたが、零下13度の日の朝に政府総合庁舍の前でデモをした時は涙が出るほど寒かったです。政府が2010年まで保育予算に合計14兆9千億ウォンを投入する代わりに、保育料の規制制限を解除して政府支援を受けない高級保育園の設立を許容するとした件のためです。財政経済省の意図が大きく作用したんですが、女連ではこれを通じて国公立施設の拡充という女性界の要求が相対化され、結果的に実質的な保育料引上をもたらすだろうと憂慮しているんです。保育政策は本当に普通の女性たちの日常生活と直結した問題です。このようなことも公的な領域だけで語れるでしょうか?

 

 

 

鄭喜鎭 公私の領域が実際に分離しているわけではないでしょう。その両者が分離しているというイデオロギーがあるだけです。私が申し上げたいのは、私たちの社会における保育問題は、女性人権のイシューであるというよりは家族のイシューであり労働のイシューだということです。だから私は、保育の公共化は非常に重要ですが、一方では「私的領域」において男性個々人の実践がなければ、保育はずっと女性の仕事だという前提の下に置かれるということです。保育は社会問題であり、女性たちが解決すべき問題なのではないということです。他の例でいえば、一般の労働組合や会社では女性委員会のような組職が性暴力相談や両性平等教育、託児などを担当していますよね。私はこれでは困ると思います。もちろんはじめはそのように始めることもありますが、それは組職全体の議題でなければならないはずで、女性委員会の業務と考えるのは性別分業です。フェミニズムは社会を女性の視角から再組織化するのであって、「女性的な」仕事を引き受ける部分運動ではありません。

 

 

 

鄭鉉栢 私もそう思います。ですが、私の立場からすれば、女性学と女性運動の結合は相変らずあまり活発ではありません。女性学者たちの参加がむしろ運動とかなり一致しない様相を呈することもあります。代表的なのが性売買の問題だと思います。一部の女性学者たちは性売買を性暴力や人権染躪ではなく、労働者の労働権だと主張しているじゃないですか。国際的にそのような流れがあることは事実で、そのように主張することもできると思います。ですが、現在の韓国では性売買の規模を減らすのが非常に重要です。なのに一部の女性学者の方で私たちのことを、性を売る女性たちの生存権を剥奪する人間のように考えるので困ってしまいます。このような部分で時おり葛藤や乖離を感じます。そのような点が女性学者たちに対して持っている不満です。

 

 

 

鄭喜鎭 私はこのような質問を差し上げましょう。言説作業は実践ではないだろうか、また、女性学者と女性活動家の意見は必ずや一致しなければならないのか、女性学者の間にも内部の違いがあり、女性活動家の間にも他の意見があります。男性たちは性別アイデンティティではなく階級や社会的位置によって区分されるのに、どうして女性たちはいつも性別アイデンティティが社会的アイデンティティを圧倒するのか、どうして女性たちはそのように簡単に「女性」に還元されるのか、それが家父長制ではないか、ということです。もちろん共通のジェンダー理解がありますが、女性も男性のように階級、地域、障害、性のアイデンティティ、年齢などによって状況がすべて異なるのに、どうして必ず同じ声を出さなければならないのでしょうか。女性たちが互いに異なる多様な声を出す時、むしろ国家をもっと強制できるのではないでしょうか。とにかく私は、私たちの社会において女性を含めた社会的弱者、少数者の声がほとんど言説化・可視化されていないと思います。
 
 
 
 
 

中心の脱構築か、総体性の堅持か

 
 
 
 
 
鄭喜鎭 インタビューでなく対談のようになってしまい申し訳ありません(笑)。本来のインタビューの方に戻って質問させて頂きます。現在、力を注がれている女性運動の課題はどのようなものでしょうか?

 

 

 

鄭鉉栢 今年の女連の核心課題は2つです。1つは貧困の女性化(feminization of poverty)の問題ですが、新自由主義グローバリゼーションの決定的な影響です。もう1つは地域とソウルの格差をどのようなに減らせるかというものです。1987年の創立時から女連のイシューは主として民衆的な女性運動でしたが、これをどのように性の主流化や中産層女性のイシューまで包摂できる方向で進めるべきかという問題なども含めて、女連内部で多様な論争があります。ですが、これを地域に伝達するのに2、3年以上はかかります。時間的な問題が思ったより深刻です。女性学の理論家もみな首都圏にいるために、地域ではフェミニズムに接することが難しいですし、情報も全般的にそう多くはありません。

 

 

 

鄭喜鎭 敷衍するならば、おっしゃったように女性たちの間にかなりの違いがありますが、この違いは先に私が申し上げた、女性という範疇自体が持つ問題のようです。ですが、問題を少し他の方向から見れば、「ソウルと地域の格差」ではなく、「地域の女性たち」が女性内部の他者であるなら、ソウルを中心に、ソウルを基準に、彼女たちが付いて来なければならないというよりは、地域女性の立場からソウル中心主義が批判・脱構築される方式もあるのではないかと思います。これは障害のある女性やレズビアンの場合も同じです。普遍が下がるのではなく、差異が上にあがってきて、既存の普遍が脱構築・再構成される方式で地域女性の立場を見ることはできないでしょうか。

 

 

 

鄭鉉栢 地域からやってくる運動が普遍を脱構築する――とても重要な指摘です。そうできる方法があったら本当にいいですね。でも、地域運動の中に、本当に中央を凌駕して、感動的なまでに女性運動をうまくやっているところがあるんです。2007年が女連20周年なので20周年運動史を書いているんですが、過去のように平和運動、労働、性暴力、このように主題別に書いてみると、結局は短い紙面で地域運動の入り込む余地が1行もないんです。分類自体を別の形にして、地域女連運動史と全体女連運動史を分けて書くことにしました。そうしなければ地域運動はいつも埋もれてしまいます。

 

 

 

鄭喜鎭 ええ、もともと分類というのは権力関係の結果です。私は自由主義フェミニズム、社会主義フェミニズム、黒人フェミニズムと、このようにフェミニズムの思想を区分するのは問題があると思います。このような分類では先に言ったすべてのフェミニズムは白人を前提とするようになります。西欧中心のフェミニズムに抵抗するというのはどのようなことか、ポストコロニアルフェミニズムとはどのようなものかと言った時、もうこれ以上、私たちの状況を説明する認識根拠や判断基準を西欧におかないこと、西欧を相対化することだと思うんです。アメリカを経ずにアジア地域の人々同士で会おうというように、私は地域運動も必ずソウルとの関係の中で自らを再現する必要があるだろうと思います。ソウルを孤立させて地域にもう1つの中心を作って、それが歴史化・意味化されることが望ましいのではないでしょうか。

 

 

 

鄭鉉栢 現在、中央、地域を分類しながら、あえて中心というものを設定し、地域がなすべきことを規定する必要があるのかという話ですが、私はその問題に少し違うやり方でアプローチしようかと思います。私は相変らず私たちの時代にモダニティの課題が消えたとは思っていません。

 

 

 

鄭喜鎭 もちろん、私もそうです。

 

 

 

鄭鉉栢 私たちが韓国社会を評価する時、モダンとポストモダンという二重の課題を遂行しなければならないと思います。そのような点では地域が中央を抜いて独自に自らを規定し、自らの活動を作って行くことが必要だと思いますが、他の一方で、私たちがともにモダニティを拡大していって、モダニティを一定程度、体化していく過程が必要だと思います。私たちにはまだモダニティの側面で、民主主義革命の学習と内面化のプロセスが必要だと思います。

 

 

 

鄭喜鎭 私はそれが過剰だと思うんですが……。

 

 

 

鄭鉉栢 私たちにはここに立場の違いがあります。差異と多様性を認めて受け入れることは韓国社会においてとても重要な過程だと思います。ですが、差異が総体性をあえて拒否することなのか、ということに対する問いが必要です。差異と多様性を通じた合意があることもあり、それを通じて総体性に到逹できるじゃないですか。最近、新自由主義グローバリゼーションが私たちを崖っぷちに追いやっていますが、貧困の女性化と関連して女連が主張しているのは「オールタナティブなグローバリゼーション」です。資本主義体制の漸進的な転換を想定しているのです。このような女性運動は中央から始めるのではなく、合意を通じて女連全体が、あるいは女性運動全体がともにやっていかなければならないことです。総体化できない闘争はどうしても脆弱になります。

 

 
 
 

「康錦実支持」と<進歩>の再概念化

 
 
 
 
 
鄭喜鎭 実際に私が申し上げたかったのは、全体と部分、中心と周辺の区分自体が批判されなければならないということで、モダニティが実現したとか、あるいはまだ足りないという話ではなく、モダニティ自体がよく角逐する概念であり、性別や階級などによって異なって作動するというものでした。たとえば、女性が国家や資本主義を経験する方式は男性と違うじゃないですか。「きれいな政治、女性ネットワーク」の話をした方がよさそうですね。2004年の総選挙を控えて、女連主導で進歩・保守陣営の女性人士を網羅して「きれいな政治、女性ネットワーク」(以下「女性ネット」)を作りましたよね。女性ネットは公開推薦と審査を経て101名の女性候補名簿を発表し、各政党に候補推薦を要求する活動をしたんです。その結果、第17代国会議員の女性当選者は39人で、第16代の5.4%の2倍を超える13%にまで増えました。女性当選者の54%が女性ネット候補から選出されるという成果を収めたんですが、フェミニズム雑誌『イルダ』(www.ildaro.com)などから、女性ネットに保守的な女性人士が含まれているという強い批判を受けたんです。ですが、女連はこの間のソウル市長選挙の時、康錦実(カン・グムシル)候補に対する支持声明からはずれたじゃないですか。これは矛盾ではないか思います。私は、康錦実前長官は単純な与党ウリ党の候補ではないと思います。女連が、女性ネットの活動はよくやったと評価しますが、私は康錦実候補を支持すべきだったと思います。

 

 

 

鄭鉉栢 康錦実候補の場合には、所属政党と女性としてのアイデンティティの間で女連内部でも論議が多かったんです。康候補支持の是非を議論するために懇談会を召集しましたが否決されました。なぜなら、いくら女性といっても康候補は与党ウリ党の党員ではないかというんです。女連所属の会員団体の政党支持の性向が一致しないんです。そして女連には「無所属候補だけを支持する」という原則があったので、その改正の是非は多様なレベルで長い討論が必要です。結局、過去の原則を固守した選択になりました。

 

 

 

鄭喜鎭 私は「朴槿恵(パク・クネ)支持論」のように、女性なら無条件に支持すべきだという立場ではありません。ですが、康錦実候補の場合は違うんじゃないですか。女連の決定に私の周辺でも驚いていました。はなはだしくは当選しないだろうからあんなことをやっているんだという話もありました(笑)。この問題と関連して、女連はいつも自らを「進歩的女性運動」の陣営であるといいながら、韓国女性団体協議会(以下「女協」)を「保守的女性運動」陣営であるといいますが、これは何を基準にした区分でしょうか。既存の男性の立場で構成された進歩と保守、左右概念の論理にそのまま従っているように見えます。

 

 

 

鄭鉉栢 以前は女協やセマウル婦女会のような組職は御用団体で、動員された女性たちの組職だ、独裁体制にひそかに通じているとかなり言われたんです。ですが、実際に京畿道地域で活動した女性たちを調査してみると、多方面に非常に献身的だったです。そして「御用団体」ではあるものの、それを通じてそれなりに女性が公的領域に進む通路も開いたんです。そのような点で保守的な女性運動というよりは、発展国家モデルに進む過程における女性参加モデルだと説明した方がいいと思います。

 

 

 

鄭喜鎭 進歩という概念自体がかなり競合的で、その競合の過程が民主主義でしょう。フェミニズムを含めて環境、障害、人種など、既存の近代主体から排除された人々の視角において、進歩の概念は既存の進歩と一致する部分もあり、そうではない部分もあると思います。言い換えれば、誰が何をどのように進歩と定義するのかに関する政治学、権力関係を問わなければならないと思います。私は女連の特定の立場に接して何回か驚いたことがあります。この前、青瓦台(大統領府)のホームページに掲載された「朴槿恵パロディ事件」をめぐって「表現の自由」だといったり、また先日起こったハンナラ党・朴啓東(パク・ケドン)議員の動画事件をめぐって、「相手が居酒屋の女性だから厳密な意味でセクハラとは言えない」とか「盗撮自体が非倫理的だ」などと言及したと聞きました。

 

 

 

鄭鉉栢 後者は明らかに誤って伝わった話です。女連のホームページに掲載された5月3日の声明書で「女性を酒席の性的対象とばかり考える言動を示した朴季冬議員」をハンナラ党は懲戒して、「不適切な酒席と性的行動が発生しないよう、格別の方案を用意」することを促しましたが、どうしてそのような誤解が生じたんでしょうか?

 

 

 

鄭喜鎭 女連を取材した放送局のブロデューサー(男性)が私に電子メールを送ってきたんですが、女性活動家たちはどうしてこのように女性意識がないのかというんです。私は多分誤解があるといって、女連を擁護する返事を送りました。

 

 

 

鄭鉉栢 これに対しては事実の解明が必要ですが、パロディ事件は私が外国に出た時に起こりました。女連内部で討論してみると、表現の自由をめぐって異なった意見があり、速かに方向を定めることができなかったんです。「文化連帯」がそのような立場でした。

 

 

 

鄭喜鎭 あれがまさにポルノのような再現物に対する伝統的な男性中心的立場で、そのプロデューサーのいう通り、女連の活動家たちのジェンダー意識に点検が必要ではないかと思います。

 

鄭鉉栢 やはり決定的な政策的失敗は、即刻、声明を出さなければならないのに時機を逸したことです。

 

 

 

鄭喜鎭 当時の話がどうなったかというと、女連がウリ党の肩を持って朴槿恵パロディに対応したというんです。

 

 

 

鄭鉉栢 そのような誤解があるんですか。女連はウリ党に対する批判をためらう集団ではないんですがね。最近、韓米FTA問題や米軍基地の移転問題などと関連して熱心に戦っています。

 

 

 

鄭喜鎭 パロディ事件の場合には、普段、女連を批判していた『イルダ』と女連が似たような立場だったんです。女連は表現の自由の方に少し傾き、『イルダ』の一部記事はハンナラ党がどうして今になって女性の人権を語るのか、まったく理屈に合わないと、このようになってきたんですよ。

 

 

 

鄭鉉栢 私は個人的に朴槿恵パロディは批判しなければならないと思います。

 

 

 

鄭喜鎭 当然そうです。『イルダ』も女連もみな進歩男性の立場であって、女性の視角ではなかったということです。女性の視角、女性運動……本当に難しいです。
 
 

 

 

北朝鮮のミサイル問題と南北関係 --「民族」と「女性」の間で

 

 
 
 
 
鉉栢 ええ。私はこの6月、光州(クァンジュ)で6・15民族統一大祝典に参加してからも、ずいぶんそのような気になりました。南北関係がこのまま行ってはいけないと自覚しました。以前は北の状況が困難だから私たちが北の違いを受け入れながら北を支援しなければならないと思っていましたが、今回はこれが単純な差異でなく、互いの関係設定自体が間違っていたのではないかという疑問が湧いたんです。私たちが北と充分に論争しなければならない時点で、論争せずにそのままうまくやったことを共存しているものと勘違いしていたんです。行事進行の形式主義や過度な政治化も本当に大変です。そのうえもっと大変なのは南側内部の違いです。いわゆる「南南葛藤」――韓国国内での葛藤が討論を通じても解決しないんです。たとえばアメリカがあのように北を崖っぷちに追いやる限り、核やミサイルはアメリカに対する抑制力の効果を持つ武器になるという立場があります。これとは反対に、北でも南でも朝鮮半島の非核化を主張する立場があります。このような問題が本格的に討論されないので、異なった意見がうまく解決しないんです。このような問題をこれからはフェミニズムの視角からもう少し積極的に提起して、現行の関係設定を批判しなければならないのですが、簡単ではありません。

 

ミサイル問題も実際は「ミサイル試験」なのに、これを「ミサイル発射」というのは正確な表現ではないという、ある学者の問題提起を聞きながら共感しました。ひとまず用語の横暴であると同時に言説支配だともいえます。実際に南北関係では現状分析の正確さが重要です。とにかく武力を誇示するミサイル実験で状況を打開しようという北の態度は遺憾です。これでは国際社会を説得することができないし、交渉力にもならないということがわかったわけです。同様に韓国政府もあまりにも早くから人道的支援を交渉カードに使ったために、人道的支援もできず交渉力も失いました。金泳三大統領の時期にも、あまりにも早く強硬措置を取ったために交渉で疏外され、米朝交渉で事態を打開したことがあったということを思い出す必要があります。私たち女性の立場ではひとまず人道的支援は続けるべきだし、同時に北のミサイル実験も批判しなければならないと思います。そして六者協議と並行して米朝間の両者会談を進めるような条件を作り出す過程に女性運動も介入しなければなりません。

 

 

 

鄭喜鎭 核問題と関連して、先生の立場はいかがでしょうか?

 

 

 

鄭鉉栢 当然、非核化ですよ。朝鮮半島非核化で行くことが解決策であるのみならず、道徳的にも正しいと思います。

 

 

 

鄭喜鎭 おっしゃる通り、平和運動としての統一運動は難しいです。統一運動を民族主義運動として見るのか、平和運動としてアプローチするのかという決定的な違いがまさにジェンダーだと思いますが、民族主義には強大国に対する男性たちの欲望があると思います。統一活動家の中にも、軍備競争が消耗的だから統一の前までは互いに軍縮するが、統一後には軍費を増強しなければならないという人たちがいます。

 

 

 

鄭鉉栢 そうです。ですが、私は民族主義に対して二重的な立場を取っています。私は私たちが強小国モデルで行くべきだと思います。金辰明(キム・ジンミョン)の小説『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』が国民に情緒的な共感を得たことを考えれば、私たちのアイデンティティ自体が非常に歪んでいることがわかります。かなり欲望化されていて、男性的で膨脹主義にもとづいているんです。それを南北の知識人がある程度共有しています。実際に南北関係において、ミサイルや北朝鮮の核問題、統一を展望する立場の違いが討論を通じて合意されなければならないのに、現実は今度は私が譲歩したからこの次はおまえが譲歩しろという風に折衷されています。だから相変らず民族問題にかかわらざるを得ない面があります。つまり民族問題という留め金をはずしてしまえば、南と北が会わなければならない理由がないということです。隣国のように助けてやればいいのです。私は実際に韓国社会が民族主義過剰だと思います。進歩運動でさえこのように民族主義的な国はおそらく韓国以外にないでしょう。ですが、私が民族問題に接近する重要な理由は、ひとまず分断の現実を克服するために、女性運動も民族問題を考慮しなければならないというものです。その次に歴史家として、民族主義の持つものすごい動員力を無視できないという現実が私に迫ってくるという点があります。社会民主党の運動が大きく起こったドイツのような国も、結局、民族主義の前に崩壊します。19世紀末から20世紀初のドイツ社会民主党の労働者たちの家に行ってみれば、ビスマルクの写真とマルクスの写真が並んでかかっていたといいます(笑)。到底共存できない二者が1つの家の壁に一緒にあるんです。人間のアイデンティティというものは実際にはかなり多重的です。西欧ではフェミニズムと民族主義が分離しながら、国民国家の形成過程で女性が排除される構図へと進むじゃないですか。それは間違っていると思います。女性が介入して実践すべきだし、だから国民国家を作る過程に女性が参加するべきです。

 

 

 

鄭喜鎭 民族主義の動員力に対しては私も同意します。近代に民族主義を凌駕した政治はありませんでした。ですが、先生の方がもっとご存知でしょうが、民族主義がある次元に進むと、すぐファシズムや全体主義、人種の掃除につながります。これはとても危険です。私は民族主義の動員力が実質的に誰のために奉仕するかを考えてみれば、進歩陣営が民族主義の助けを借りたことは歴史上ほとんどないと思います。私たちが望む方式の動員が可能かどうかについても懐疑的な立場です。民族という境界が特定の政治的脈絡で進歩的な意味を持つのであって、民族主義に対する一般的な擁護に帰結されては困ります。民族主義の動員力の核心は男性性ではないでしょうか。民族が想像の共同体であるというのは、民族に意味がないとか民族矛盾がないという話ではありません。民族共同体を可能にする想像力、そのイデオロギーの力を解剖するべきだということです。その想像力を構成する核心にジェンダーイデオロギーがあります。

 

 

 

鄭鉉栢 民族主義の持つ男性性は私も確かに認めます。そしてそのような男性性に女性が動員されることも事実ですが、私が他方で思うのは、国民国家が女性の運命を決めるということです。それが現実です。ならば女性はそこで手を引くべきでしょうか。私はそれは違うと思います。むしろ国民国家の現実をある程度認め、その中に入って積極的に介入すべきです。現在は国民国家の本質が男性性ですが、国民国家が両性性に進むように再建設する過程に女性が参加するべきだと考える観点です。

 

 

 

鄭喜鎭 その通りです。ですが、先生のお話しは国家を性中立的な範疇として考えうる誤解の余地があります。問題は二等国民としての女性の地位が低い理由が、女性が参加しないからではないでしょう。実際には参加しても不平等ですし、参加しなくても不平等です。私は、民族や国家の概念と形成基盤が性別化されているために、これは参加か不参加かという問題ではないと思っています。またグローバル化の時代に国家の意味と役割が変化しているために、個人の多様なアイデンティティを国民国家の成員だけに限定する必要はないと思います。現実を垣間見れば反米集会の時、米軍基地の街で殺害された尹今伊(ユン・グミ)さんの死体写真を展示したり、「ファッキングUSA」のような歌を歌うのは、民族主義の動員力と女性の人権問題が葛藤する代表的な事例です。南廷賢(ナム・ジョンヒョン)の小説「糞地」の筆禍事件以来の問題です。

 

 

 

鄭鉉栢 そうです。とても典型的なケースです。私たちが女子中学生氾国民対策委に入っていたために、これに対して公式に抗議して女性団体がみなそれを批判する声明書を出しましたが、問題は男性たちがそのことに対して理解できていないということです。前にも同様のエピソードがありました。ソウル北方の米軍基地の街・東豆川(トンドゥチョン)で女性殺人事件が起こって新聞記者たちが追いかけてきたんですが、韓国の男性が殺したといったらその場で帰ってしまったじゃないですか。米軍が殺したといったらその時点で取材のために大騒ぎするのに、そのような現象と一脈相通じる部分があります。ジェンダーの観点が社会の構成員に侵透するにはまだ限界がたくさんあります。
 
 
 
 
 

国家と妥協する女性運動?

 
 
 
 
 
鄭喜鎭 韓国は女性問題の法制化がかなり早く進んだケースです。女性運動の力です。

 

 

 

鄭鉉栢 私たちはとにかくこれまで10年間、国家が女性政策に対して好意的でした。19、20世紀の西欧で国家と自由主義フェミニズムの間に起こった葛藤が、私たちの社会にはないのですが、これは国家の家父長性が不充分に頑固なせいだと思います。それは国家自体がさほど精巧でないという話でもあって、他方では女性に対して好意的な面があるようです。これは政権が自らの正当性を確保するためのやり方でもあって、他方では民主化の成果でもあります。もう一つは今、私たちの社会福祉体制が定着していく過程じゃないでしょうか。今、そこに介入しなければ、後で変えるのがかなり難しいので国家とともに働いてはいますが、他方ではかなり戦ってもいます。最近、反グローバリゼーション運動では、民衆運動も重要ですが、ロビーを通じた圧迫も重要な戦略の1つじゃないか。ですが、外からは、女性運動が国家とあまりにも妥協する、近いというような誤解があるようです。

 

 

 

鄭喜鎭 韓国政府が女性に好意的なわけではないと思います。国家が女性運動の主張を受け入れたのは、国家がもともと女性政策に対する専門性がなかった点が原因としては大きく、私的な家父長が強力な社会なので、女性運動が日常において個別の男性を相手にできず、個人の男性より「もっと強力な男」である国家に向かっていった側面もありませんか?

 

 

 

鄭鉉栢 さあ、国家を強力な男として前提する部分には同意しにくいですし、国家が完全に家父長的だと規定できるかどうかに対しても議論があります。国家は国民全体の利害関係を調整する必要があります。それに国家が家父長制という固定された実体であるならば、女性が国家に介入する必要も最初からないのではないでしょうか。むしろ介入して入っていけば、国家の政策を変えられる部分がかなりあります。ならば女性が政治に入っていけばよくなるのかという質問も出ます。現在、女連では韓明淑(ハン・ミョンスク)国務総理の存在が悩みの種です。女連の前代表が総理であるところから来る難しさがあります。

 

 

 

鄭喜鎭 ええ。おっしゃる通り国家は動く実体です。私は女性活動家が政治リーダーになる現実を支持し賛成する者です。女性主義官僚(femocrats)も多いほどいいんです。問題は彼女らが、私たちが批判しなければならない位置にある時です。歴代の女性省の大臣も女連から輩出されたでしょう?

 

 

 

鄭鉉栢 女性政治家の時代といいますが、力学関係において彼女たちには力がありません。韓明淑総理には力がないと新聞で騒いでいますが、それ自体が韓国の男性中心的な文化の別の表現です。いずれにせよ、韓明淑総理が反女性的であったり反民衆的な政策をとれば、それは批判しなければならないでしょう。実際にこれまでにも平沢(ピョンテク)の米軍基地移転や非正規職の問題、また韓米FTAに対しても、女性運動からは批判を伝えました。ですが、状況によって必要だったら公開的な批判もしなければなりません。

 

 

 

鄭喜鎭 私は公開的に批判をすることがむしろ彼女に力を与えると思います。「世論が悪い」というようにです。だから男性たちと交渉できる底力になるようにしてやるのです。それは盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領も同じです。韓国に反米世論が多いほど、大統領がアメリカへ行って交渉する余地が大きくなると思いますが、それがまさに差異の持つ力じゃないでしょうか。ですが、韓国社会はそれを国論分裂であると語ります。

 

 

 

鄭鉉栢 ええ。だから必要だったら話さなければならないのですが、まだ時期的に女性たちは、韓総理がもう少し力を持てるように支持してやることが必要ではないかと思います。

 

 
 

 

性売買問題をめぐるフェミニストたちの間の差異

 
 
 
 
 
鄭喜鎭 性売買防止法の法制化以降、もっとも大変だったのはどのようなことですか?

 

 

 

鄭鉉栢 性売買の女性たちが反対デモをする時が一番大変でした。彼女たちを説得して納得させるのが容易ではありませんでした。そこにはとても大きな階級問題が伴います。ですが、売春宿の事業主らがそれを悪用し、女性団体女性たちは性売買の女性たちが入れるコーヒーは汚いといって飲まないとか、とても不細工な女たちが女性運動をしているなどと言ったらしいんです。そしてこの人たちが私たちをわざわざたずねてきて、「本当に不細工だな」なんて言うんです(笑)。

 

 

 

鄭喜鎭 実際に「性販売」をする女性の中には、年を取った女性や中年女性、子供の母親もとても多いのですが、誰が現実を分かっていないのか分かりません。

 

 

 

鄭鉉栢 性売買の問題で私たちが間違って判断したことの1つが、生計型の性売買の存在をはじめから想定できなかった点です。これとは反対に実際に「ささいな」動機で性売買の世界に入っていった女性たちもいます。無分別にクレジットカードを使って、その借金を返せずに、職業紹介所をたずねたら金が儲かるからといって流れていった場合です。消費欲望が性産業に導いた事例ですが、そのような場合には特に自活が難しいようです。だから女性界が困惑してつらいのは、実際に性売買の規模を減少させるために性売買防止法を作りはしたものの、この過程で排除された女性たちに対する社会的対策を、私たちも国家もまともに立てることができていないという現実です。死に物狂いで奔走してはいるのですが……。でも、約100万名と考えられる性売買女性の規模を減らしたという点で、私は性売買防止法の制定はとても重要だと思います。それから派生する残りの問題の解決のために、韓国の女性団体や国家は熱心に努力するべきです。

 

 

 

鄭喜鎭 ええ。女性政策の中で一番難しいのが性売買の部分ではないか思います。性売買は事実上、家父長制社会において男性と女性のあらゆる親密な関係を網羅する、おびただしく広いスペクトラムで存在するじゃないですか。「援助交際」から監禁性売買まで、とても多様です。性売買、性暴力、異性愛が、性役割という同一の連続線上にあるからですが、いわゆる「名門大」の女子大生たちも「援助交際」をしています。今、授業をしている大学がそうだというのではなく(笑)、私は非常勤で授業をずいぶんしましたが、レポートを見ると「社長と付き合う」という話を書く学生たちがいます。だから社長の金銭と女子大生の若さや学歴が交換されるんです。ですが、そこに何らかの暴力が介入するどころか、手も握らずに対話だけをするというんです。そのように社長とデートして溜めた金で留学するというのに何が悪いのかと聞き返してきます。このような現象をみると、これは富の再分配であって、どこが性売買なのかという気がする時もあります(笑)。

 

 

 

鄭鉉栢 性関係は持たずに、ですか?

 

 

 

鄭喜鎭 性関係を持つ場合もあるようです。ですが、「自発的」だということです。ジェンダー化された資源と魅力の交換です。このように性売買の範囲が非常に広いので、これを法として制定する時は、おっしゃる通りあらゆることをきちんと対処することはできません。ある面では家父長制自体が男性連帯のための女性の交換じゃないでしょうか。性の上納のようなものが代表的な事例です。女性を身体としてみなす家父長制文化がまさに性売買です。ですが、その文化の中でどの部分が不法で、どの部分がロマンスで、どの部分が逸脱なのかが区分しにくいところに、性売買防止法の根本的な哲学的ジレンマがあるようです。歴史的にも性売買はフェミニストの間で葛藤が尖鋭な問題でした。

 

 
 

 

韓国社会の低出産対策は実効性があるか

 
 
 
 
 
 
鄭喜鎭 次に低出産に関する質問を少し差し上げます。低出産現象を「問題」であると考えますか。一部の女性主義者たちは「望ましい」とさえ考えてもいます(笑)。低出産は性別関係の結果であって、育児や私教育費負担などの問題ではないでしょう。低出産は既婚女性の出産率が低いからではなく、女性たちが結婚自体をしないために発生した現象です。既婚女性の出産率は1.89とほとんど2名ですが、現在、25~40歳まで女性の中で非婚の割合は20%を超えます。

 

 

 

鄭鉉栢 挑発的な意見ですね(笑)。

 

 

 

鄭喜鎭 ああ、統計庁の資料にもとづいて申し上げたんです。私は今、国家が低出産原因を間違って診断し、でたらめなところに金を使っていると思います。

 

 

 

鄭鉉栢 その点については同意します。なぜならドイツやフランスのような国々が低出産対策として、保育政策、児童手当、また母性保護に対する支援に政策的な関心を集中させて失敗したんです。でも一応、私たちにできることは保育政策しかないので、この1年間がんばって保育予算のために財政経済省や企画予算庁と戦ってはきましたが、保育や母性保護政策を通じては低出産問題を解決することはできません。保健福祉省が行ったアンケート調査によれば、就職した既婚女性の49.9%が第一子を生んで職場をやめます。職場が安定してこそ女性たちは子供を生むことができるということです。託児はむしろ副次的な問題です。だから雇用の創出を通じて、女性が仕事と家庭を両立できる構造を作らなければ、実質的に低出産問題は解決できないというのが私の立場ですが、これに対して女協はかなり反対しました。女協は出産奨励運動をしようという立場だからです。

 

それから保育労働は男女が共同で分担しなければ解決できません。いくら保育施設が発達しても、実際に子供が病気になって一晩中看病しなければならない場合、父親と母親が一緒にしなければならないからです。看病労働を男性と女性が一緒にするために、父親の育児休職制度を貫徹させました。ですが、父性休暇を有給化することには失敗しました。そのような点で私たちは原則的に今の低出産対策では問題の解決が困難だと思います。本当に当惑するのが、某財閥の企業研究所が出した報告書なのですが、そこでは、いくら努力しても出産率向上は難しい、だから定年を増やして外国人労働者を増やすしかない、それが社会的費用を減らす道であると書いてあるといいます。私たちは低出産を契機に、この際、仕事と家庭の両立を拡大できる方法として保育問題を前面に押し出したんです。最初は保育予算を増やすことから出発するしかありません。もちろん今、増やしてもかなりの少額です。私のドイツでの生活経験によれば、留学生夫婦が留学期間の最後の方で、韓国の親が生活費を送ることができなければ子供を生むんです。そうすると国家で養育手当が出るんですが、その金額が貧しい留学生には生活費の60%くらいになります。そうすると掃除のような仕事でもすれば、おおむね学業を終わらせて帰国することができるんです。ですが、私たちはいくら保育予算を増やすといっても、そのくらいの水準にまで引き上げるのは不可能です。

 

 

 

鄭喜鎭 韓国では子供を生めば、親がもともとの階級を維持することができません。

 

 

 

鄭鉉栢 そうなんです。だから女性たちは、職場問題が解決しなければ現実的にもっと大変です。ドイツでは出産後3年内に職場に戻れるようにしています。3年間の育児休職をすれば、そのポストに臨時職だけを使うようになっています。私たちも少しずつそのような保障ができあがってはいますが、まだどれほど不足しているかわかりません。このようなドイツでさえ、私の周辺にいる女性の中に子供の母親はほとんどいませんでした。離婚したり、あるいは最初から結婚しない人が大部分でした。現実的に仕事と家庭が両立しにくいんです。

 

 

 

鄭喜鎭 私は公的な領域でいくら制度化されても、私的な領域で男女間の権力関係が変わらなければ意味がないと思います。本当に個人的なことが政治的なことです。堕胎も同じです。韓国製コンドームの世界市場シエアは27%で1位です。ですが、コンドームをそのようなにたくさん輸出する国で堕胎もかなり多いんです。コンドームを自動販売機でお菓子のように売るとしても、私的関係で女性が男性にコンドーム使用を強制する権力がなければ、堕胎はおこなわれ続けます。このように低出産問題も、男性個々人の女性観や家庭観、育児観にかなりの変化がなければ、解決の兆しは見えないと思います。もはや女性たちは犠牲を当たり前のものとして考えていません。結婚しないというんです。そして女性たちのうち13~15%が不妊らしいです。だからすべての女性が子供を生むわけでもありません。出産は生物学的なものではなく社会的な選択です。すべての女性が子供を生めるわけでもなく、生みたいわけでもないのですが、韓国社会は出産を本能か何かのように考えています。
 

 

 

 

「個人的なエクリチュール」と私的領域におけるジェンダー問題

 
 
 
 
 
鄭喜鎭 最後に2つほど質問を差し上げます。先生にとって物を書くことはどのような意味を持っていますか。私は物を書く時、論文でも「雑文」でも、私の知るある人、たった1人のこと読者であると考えて書くんです。普通は大衆的な物書きをしなければならないというのですが、物書きと関連して先生の哲学を聞きたいと思います。女性学は既存の分科学問の境界を横断するしかありませんので、女性主義の知識人にとって多学問的エクリチュールは祝福であると同時に負担だと思います。この話とあわせて、先生の著書『民族とフェミニズム』の最後の部分を見ると、先生は女性として抑圧されたというよりは、知識人としての悩みの方が大きかったとおっしゃいましたが、女性としての怒りとか問題意識のようなことをおっしゃって下さいますか。

 

 

 

鄭鉉栢 私は何より、私の物書きがあまりにも社会化されているのが不満です。私自らが脱出できていない不満です。この時代の知識人というものは、公的な人間としてのみ存在するのであって、私的な個人が存在しません。だから私の書いたものには隠蔽があるという劣等感のようなものがあります。学校に通う時もそうで、帰国してからも私は一度も社会運動と離れたところで独自に自分を位置づけたことがないんです。女連の仕事を引き受けてからは、そのような現象がもっとひどくなって、物を書くことで自己が解放されないという感じです。停年退職すれば、まずは30年間、読むことができなかった小説をすべて読み、その次はこの時代の女性たちに対する集団伝記学を書きたいと思います。大部分、システムの中で平凡に生きていきましたが、その中でも平凡でなかった特異な人物がいるんです。その人々が生きている間は、実際に話しにくいことなのですが、その人たちの話を整理して、秘密とされている70年代の女性たちが生きてきた生をテーマに物を書きたいと思います。それを書いて、集団伝記学を整理して、その次に私の話をしたいと思います。

 

 

 

鄭喜鎭 「私的」な領域で、フェミニストとしての政治的な葛藤があったとしたら、いかがでしょうか。いってみれば結婚問題のようなことで……。

 

 

 

鄭鉉栢 私は結婚したらだめになったでしょう(笑)。おそらく気を揉む夫を経済的に後押ししながら我慢して暮らしたり、でなければ典型的な教育ママになって子供を一流大学送ろうと奔走しながら暮らしたような気がします。韓国社会では女性たちが選択できる立地が狭いからです。特に私たちの世代はそうです。いわゆる出世したという私の友達がいるんですが、読書熱もとても高く、職場でも模範的で成功的な人生を生きて、夫との関係もいいのですが、そのすべてのものが、自らの個人的欲望を徹底的にあきらめた上で可能だったのです。私も恋愛は何度かしました。ですが、実際に結婚は勇気が出ずにできませんでした(笑)。

 

 

 

鄭喜鎭 恋愛ではジェンダー問題がありませんでしたか?

 

 

 

鄭鉉栢 当然ありました。私たちの時代、1970年代に大学に入った男性たちは、みな「朝鮮族金太郎飴」でしたから……。次々に切り出される金太郎飴のように、まったくすべて同じ朝鮮の人だったということです(笑)。だからそれに対して大部分妥協すれば生きることができました。それからさきほど申し上げましたが、個人的な恋愛にも社会運動が媒介されていましたし、そのようななかで男性像というものはほとんど典型化されていて、そうでない人を見つけることは困難でした。そうでなければとても冒険的な人々なのに、そのような人はものすごく気を揉んだでしょう(笑)。

 

 

 

どの社会でも女性主義の知識人は、女性学教育、女性政策、女性運動に介入しなければならないという三重の実践を要求される。だからたいていのフェミニストたちは「速度社会」に抵抗しながらも、肝心の自らの日常はおびただしく忙しい矛盾の中で生きていく。だが、フェミニストの三重労働を他の言葉で表現するならば、この三種類の領域のすべてに対して幅広い対話が可能だということにもなる。もともとこのインタビューの原稿は270枚に達したが、ここに紹介した内容はその半分にもならない120枚ほどだ。編集のために本文にはあまりよく出ていないが、インタビューの途中で鄭鉉栢代表が多く使った表現の1つが、「別に、また一緒に」、あるいは「やり直しと横入りを同時に」だった。連帯の中の批判、協力や独自の行動は、彼女が一貫して考える、女性運動と進歩陣営の関係像である。

 

1990年代以降、韓国社会では民衆や階級に代わって、「市民社会」という概念が登場しはじめた。この時から女性や市民を排他的な範疇として見る「市民運動と女性運動」という用語も一緒に使われるようになった。1987年体制以降、男性は「市民社会」と「民主的労働組合運動」へと階級分化が起きるが、女性は反対だった。女性運動は労働階層の女性と中産層の女性が「女性」という範疇で一緒に運動するようになり、これが女連の誕生基盤となった。このような現象は女性の周辺化にもとづいた市民権の、性別化された経路を示すものである。女性には階級よりジェンダーがより意味のある政治だったのである。だが、その後の女性運動の飛躍的な発展は「男性たちのように」女性たち内部の違いを露呈している。いまや「別に、また一緒に」は、女性と男性の関係において女性運動の戦略であるのみならず、それぞれに多様な階級とアイデンティティの中で生きていく女性たちが、他の女性たちとどのような関係を設定するかにあたっても適切なスローガンとなった。ある女性たちは男性に抑圧されながら、同時に他の女性からも差別される。グローバル化の時代のジェンダーは、女性と女性の差異、男性と男性の差異を説明せずしては理解できない。言い換えれば、女性には男性との差異を強調する性別理解(gender interests)を実現するための運動――俗に「近代的フェミニズム」といわれる――を実践していくと同時に、自らを家父長制が企画した、男女の二分化された体系に固定させない、二重の課題が与えられたのである。

 

鄭鉉栢代表は覚えているかわからないが、私は数年前、同じような雑誌の誌面で出会ったことがある。某大学の女子学生の雑誌で、民族とジェンダーに対して相異なった立場を取る2名のフェミニストをそれぞれインタビューしたのである。当時、私たちをインタビューした大学生たちが、私のことを「フェミニスト」とし、鄭鉉栢代表のことを「民族主義者」とみなし、ずいぶん荒てた記憶がある。私はあの時のインタビューでも、「国籍のない女性はいないが、同時にジェンダーのない民族もない」、「民族も女性もともに還元的な範疇になってはいけない」と強調したが、よく意思疎通できたとはいえなかった。そのようなレッテルは彼女にも私にも身に覚えがないものである。すべての話はそれを語る人が直面する現場の産物であり、だからこそそれは部分的な真実である。ある面で私たちの日常は、既存の境界を出入りして滲透と透析を絶えず試みているが、これに反して現実を説明する言語はあまりにも固定的で、新たな、つねに動く、領土を持たない政治的共同体を想像することが困難だという気がする。□

 

 

 

 

 

 

 

 

 

季刊 創作と批評 2006年 秋号(通卷133号)

 

2006年9月1日 発行

 

発行 株式会社 創批

 

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