창작과 비평

[文學評論]『解放前後史の再認識』の民族と民族主義

 文學評論 

 

 


河晸一(ハ・ジョンイル)jeonghi@wonkwang.ac.kr
文学評論家、韓国・円光大学校韓国語文学部教授。著書に『分断資本主義時代の民族文学史論』『20世紀の韓国文学とモダニティの弁証法』『民族文学の理念と方法』などがある。

 

『解放戦後史の再認識』 朴枝香(パク・チヒャン)・金哲(キム・チョル)・金一栄(キム・イリョン)・李栄薫(イ・ヨンフン)編『解放戦後史の再認識』(1・2)、チェクセーサン、2006年2月。以下、本論文においては本書を『再認識』とし、引用の際は対象論文が掲載されている本書第1巻の頁数だけを提示する。 は、それ自体だけを見ればきわめて矛盾した分裂的な書籍である。崔元植が指摘したように、本書は「編者と筆者らの間に亀裂が入っている」 崔元植「ふたたびやってきた討論の時代」、『創作と批評』2006年夏号、351~52頁。 、いわば総論と各論が別に遊んでいる状態を示している。『再認識』が作り出すイデオロギー的な効果は比較的首尾一貫していると言えるが、それは一言でいって「政治的保守主義」と要約できる。本書に掲載された文学関係の論文の筆者らは、ポストモダン論、あるいは脱構築論に近い学者である。ポストモダン論の理念的スペクトラムはきわめて広いが、これらの学問的経歴を考えれば、保守主義とはかなり距離があることは事実である。にもかかわらず『再認識』全体のイデオロギー的志向と効果が、進歩的な言説の価値を全面否定する政治的保守主義であることも明らかである。いかにしてポストモダン論が政治的保守主義と共存しうるのか。そして、いかにしてそれらが政治的保守主義と同一のイデオロギー的効果を生み出すこととなったのだろうか。

1990年代にポストモダン論は民族文学論にかわる新たな急進主義の企画として脚光を浴びたことがある。だから当時、少なからぬマルクス主義者や民族文学論者らがポストモダン論を積極的に受け入れた。しかし現在、ポストモダン論は、少なくとも韓国ではこれ以上、急進的・進歩的な言説とはいいにくい退行の症状を露呈している。この点は特に資本主義と帝国主義に対する無気力な姿において顕著に見られるが、筆者はこのような現象が、モダニティや民族(主義)に対する誤った理解と関連していると考える これに対するやや詳しい説明として、拙稿「ポストモダン言説――解体あるいは廃墟」、民族文学史研究所2006年学術シンポジウム発表文を参照のこと。 。『再認識』に掲載されている文学関係の論文も同様である。筆者はその中でも趙寛子(チョ・クァンジャ)と金哲(キム・チョル)の論文を対象にこの問題を考えてみたい。この2つの論文はポストモダン論とポストコロニアル論の強い磁場の下にある。そのような点で2つの論文は、近代主義とは正反対の理論的な立脚点を取っている。しかし2つの論文の結論は近代主義と微妙な鏡像関係をなしている。このことは民族と民族主義に対する2つの論文のヨーロッパ中心的な考え方と緊密に連動している。だから筆者は、この2つの論文の民族と民族主義に対する立場を中心に、それがいかにヨーロッパ中心的民族(主義)認識と関係しているのか、そして、そのような認識がいかなる理由から近代主義と陰密な共謀関係を形成することになったのか考察してみたい。趙寛子の論文をまず先に見て、金哲の論文をその延長線で分析する手順で議論を進めるが、その理由は、趙寛子の論文が民族と民族主義に対する立場を一層鮮明に示しているからである。
 
 
 
 

 

1

 
趙寛子の論文「「民族の力」を欲望した「親日ナショナリスト」李光洙」は、民族主義が「官制民族主義も抵抗的民族主義もともに、大衆の生存欲望を刺激し動員し統合しようとする権力意志」(526頁)の産物であるという観点から、李光洙(イ・グァンス)の親日行為の論理を糾明している。李光洙の親日論自体に対する解釈は全般的にきわめて常識的で、これまでの既存の研究と大同小異である。この論文の特徴は李光洙の親日論理を民族主義の不可欠の結果として理解する点にある。考えてみれば、このような視角も現在となっては常識のようになっているから新しいとは言いにくい。しかし、それだけに常識の後に蟄居している偏見や固定観念も頑強である。

 


民族と民族主義に対する趙寛子の視角は「大衆を動員するための権力意志の産物」と要約できる。これに関してまず、このような視角が1990年代に初めて登場したものではないという事実を指摘しておく必要がある。1980年代にも多くの研究者が民族主義を同様のやり方で説明した。マルクス主義の学者らがそうであったが、特に「ブルジョア民族主義」に対してそのように批判した。民族主義をブルジョアの支配のための動員イデオロギーとして理解するのはマルクス主義の長年の伝統と言える。民族主義批判はポストモダン論やポストコロニアル論の専有物ではないのである。これと異なる解釈は第三世界マルクス主義に触発されたものである。いわゆる侵略的民族主義と抵抗的民族主義、ブルジョア民族主義と民衆的民族主義の区別が、これによって本格的に試みられたのである。このような解釈が出るようになった背景には第三世界の特殊性に対する再認識がある。被植民あるいは従属という歴史的条件の中で、抵抗的で民衆的な民族主義が反体制運動の主要分派として機能する現象を説明するために、民族主義内部の差に注目したのである。第三世界の抵抗的・民衆的民族主義は、言説自体を見れば、帝国主義の侵略的・ブルジョア的民族主義に似た面が多い。しかし、その「似た」理念が、相異なる歴史的脈絡においては互いに異なる効果を生む。これは民族主義が理念である前に運動であったという点とともに、理念/言説がつねに具体的現実と相互作用する社会的「実践」であるという事実と深くかかわっている。韓国の進歩的な学者らが80年代に抵抗的・民衆的な民族主義を積極的に評価したのも同じ脈絡であった。だから80年代の進歩的な学界が、一方では民族主義の克服を主張しながら、他方では抵抗的・民衆的な民族主義を受け入れようという姿勢を示したのである。

 


このように見れば、趙寛子が80年代の韓国の進歩的研究者らと異なる点は、ブルジョア民族主義に対する規定を民族主義一般に拡大したことだといえる。「すべてのナショナリズムが「民族」の名で行使する権力運動」(553頁)という規定はここから出てくることとなる。だから論点は「あらゆる」民族主義を大衆動員の権力イデオロギーとして考えることが妥当かどうかという点にある。「あらゆる」民族主義を等価的に見る視角の持つ問題点は、具体的に申采浩(シン・チェホ)と崔南善(チェ・ナムソン)の違い、あるいは李泰俊(イ・テジュン)と李光洙の違いを説明しにくいという点にある。彼らは「すべて」民族主義者だったが、彼らが歩んだ道は異なっていた。親日と反日、協力と抵抗、同一化と半/非同一化に分かれた理由はどこにあるのか。民族主義の内部の違いに注目しなければならない理由がここにある。もちろん親日と反日、協力と抵抗の両者が一刀両断的にバッサリと切れるわけではない。バッサリ切れると考えた80年代多くの論客の視角は、そのような点で「図式的」である。しかし、だからといってこの2つが同じだとはいえない。その効果や結果が厳然と異なるからである。だから2つの民族主義の重なる部分と分かれる部分を立体的に眺めるのがもっとも穏当な姿勢だろうが、趙寛子の視野は過度に単線的である。趙寛子のように民族主義を大衆動員のための権力意志の産物として一律に規定する限り、韓国近代史の数多くの反植民・反体制民族主義を説明しにくくなる。

 


民族主義を大衆動員のための権力意志の産物として理解する際のもう一つの問題点は、民族を動員の対象として限定するという点にある。伝統的民族主義は――親日民族主義でも抵抗的民族主義でも――民族を与えられたもの、生来のもの、先験的なものとして規定してきた。そしてそれを根拠として個々人を統合し、民族への忠誠を要求してきた。しかしこのような民族規定は、民族を血に象徴される種族集団と誤まって理解した結果である。民族が種族集団ならば、個々人の主体的判断と選択は何らの意味を持つこともできなくなる。個人がいかなる選択をしても、民族は永遠に不変の超越的な大主体として存在するからである。そのような点で趙寛子の民族規定は、このような種族主義的な民族観の持つ全体主義的な抑圧性を批判する長所を持っている。しかし民族をこのようにのみ規定すれば、民族主義は全体主義やファシズムと区別できなくなる。実際に趙寛子は民族主義とファシズムを同質的なイデオロギーと見做している。このような考え方は趙寛子のみならず、ポストモダン論やポストコロニアル論に魅了された韓国の多くの学者らが共有するものでもある。民族主義を一律に打破すべき否定的なイデオロギーとして見るのもそのためである。

 


しかし、「民族」は動員の結果である同時に結社の産物でもある。「日々の国民投票」といったE・ルナン(Ernest Renan)の定義のように、民族を自発的同意と積極的参加にもとづく結社体とも理解する時、民族に対する複合的かつ重層的な理解が可能である。抵抗的・民衆的民族主義は、民族のこのような属性を反映した理念といえる。もちろん申采浩にもよく見られるように、抵抗的・民衆的民族主義も、たびたび民族を生来的種族集団として理解されるが、それと同時に彼は民族を平凡な民衆が作って行くものとも考えた。この地点で民族をエリートによって主導できるものと考えた李光洙と申采浩は分けて考えることができる。たとえば崔曙海(チェ・ソヘ)のもっとも重要な文学史的業績が、まさに民族を民衆的結社として描き出している。ブルジョア民族主義文学は、はなはだしくは廉想渉(ヨム・サンソプ)でさえ、民族をいつも「上からの民族」、すなわちブルジョア・ヘゲモニーにもとづく民族として想定した。一方で崔曙海の文学は「下からの民族」、すなわち民衆が自らの決断と選択にもとづいて作っていく民族の可能性を示す これに対する詳しい説明は、拙稿「民族と階級の弁証法」、『韓国近代文学研究』第11集、2005参照。 。このとき「民族」はブルジョア民族主義が設定した民族と明らかに区別されるが、このような「民族」の像は趙寛子のような民族観では説明しにくい。韓国の民衆的民族主義に反映された民族は、まさにこのような「下からの民族」であり、ここに民衆的民族主義の「脈絡的妥当性」 「脈絡的妥当性」と関連して、テリー・イーグルトン(Terry Eagleton)は、イデオロギーとは「単純な虚偽意識ではなく、歴史発展の特定の段階と特定の局面に適合した」 言説であると説明する。Terry Eagleton(呂洪相(ヨ・ホンサン)訳)『イデオロギー概論』(ハンシン文化社、1994)、160頁。 が存在するのである。

 

 
 
 
 

2

 
趙寛子は李光洙のジレンマが「主権なき民族を対象にして力のある国民の形成を目的としたところにある」(533頁)という。日中戦争以降、朝鮮の民族主義が日本の民族主義を「代理遂行」するようになったのはそのためだというのである。当然「日本のナショナリズムが拡がることによって、朝鮮のナショナリストは転倒した形で「民族の力量」の拡大を欲望するようになる」(同頁)。そのような点で李光洙の積極的な親日は「単に民族主義運動を放棄した結果ではなく、植民地の資本主義が生存するための前進的な投降」(536頁)である。「従属的な資本主義の発展を優先視し、独立の目標を喪失したのは確かに敗北的な行為のように見える。しかし、それは親日ナショナリズムの資本と権力運動が生き残るための不可欠な帰結である」(537頁)。

 


この引用文は論文の核心にあたる部分といえる。ここで趙寛子は、李光洙が親日行為に至った経緯を、国民を形成するための転倒した形態の実践と同時に、資本と権力運動の生存方策として説明する。「資本と権力運動の生存方策」は、植民地時代以来、マルクス主義がブルジョア民族主義に対して一貫して説明してきた内容であり、「国民形成のための転倒した実践」は、昨今のポストコロニアル論が愛用する論理である。伝統的なマルクス主義と脱構築論的なポスト植民主義が結合した形だが、この2つの側面が李光洙の親日言説に共存することは間違いない。ブルジョア民族主義の窮極的な目的が「資本の存立」にあり、資本を存立させようとすれば「国民の形成」が必須不可欠だったからである。だからこのような解釈に対しては全面的に同意できる。もちろんもう少し精緻な説明が必要なことは事実である。資本運動と国民形成との関連性は、李光洙にだけ限ったことではなく、ブルジョア民族主義全体とつながることだからである。そのような点で、たとえば東洋主義、特に儒教的伝統との関連性が看過されたことは残念である。李光洙が内鮮一体、八紘一宇のイデオロギーに至った底辺には、東洋的価値観の顕在化という問題意識が根深く存在していたからである。この部分を解明してこそ、李光洙が親日行為に至った固有の内的論理を説明することができる。

 


しかし、より重要な問題は、李光洙が受け入れた植民主義イデオロギーに対する理解の仕方である。趙寛子は「「内鮮一体」が現実的に成立しえない虚構」であると釘をさしながら、「このような虚構の実体化が陰謀される時、生の世界は暴力的な狂気の場となる」(544頁)と記述している。この地点で民族主義が「「パブロフの犬」のように虚偽能力を喪失した人間を創造」しようとするファシズムと出会うのだと趙寛子は考える。そしてそのような点で、李光洙がいった「「日本精神」は言語的修辞としてのみ現前」(546~47頁)するだけだと批判する。なぜならばそれは「生存の利益をはかる親日ナショナリズムの力に対する欲望を隠し、仮想された同胞愛の集団陶酔的な犠牲を賛美するファシズムのロマンチックな修辞」(547頁)とまったく同じだからである。

 


このような説明は典型的な虚偽意識論に立脚している。つまり民族主義が矛盾を隠蔽し、動員と搾取を正当化する抑圧的で暴力的なイデオロギーだというものである。同じ脈絡で趙寛子は民族主義を「「国民感情」に寄生して大衆的な権力を生み、民族同一体に対する異議を承諾しない絶対権力となる」(554頁)と批判する。民族主義にこのような虚偽意識が存在することは否認しにくい事実である。しかし民族主義を全面的に虚偽意識とのみ考える限り、大衆の自発的な同意の機制を説明しにくくなる。これを説明するならば、イーグルトン(Eagleton)がいった「脈絡的妥当性」を考えなければならない。つまり、民族主義には現実のある部分、または大衆の特定の欲求を反映した特定局面における妥当性が存在するということである。たとえば内鮮一体論に対する李光洙の反応がそうである。内鮮一体論がヘゲモニー言説となりえたのは、そこに朝鮮人が受ける民族的差別に対する一定の補償や矯正があったからである。李光洙はまさにその点に注目したのである。内鮮一体論が差別と平等の拮抗関係を解決できないアンビバレントな言説だという点は問題だが、差別を放棄する瞬間、内鮮一体論の窮極的目標であるヘゲモニー的支配が崩れる。李光洙が『同胞に寄す』において、徴兵制実施の決定を見て初めて内鮮一体論を心より信じるようになったと言ったのは、そのような理由からである。要するに徴兵制実施とは、朝鮮人も真の日本国民になったことを意味し、よって同等の権利を要求できるようになったと考えられたのである。そのような点で李光洙の民族主義には、それが明白な親日言説であるにもかかわらず、特定段階における朝鮮民族の特定の欲求を反映した「脈絡的妥当性」があるのである。

 


もちろん内鮮一体論の発揮する効果は、ヘゲモニー的支配、つまり構造的差別と搾取の枠内においてのみ可能な、きわめて制限的なものであった。そうでしかありえないのは、内鮮一体論自体が日帝のヘゲモニー的支配のために考案されたイデオロギーだったからである。李光洙の民族主義が一定の「脈絡的妥当性」にもかかわらず植民主義への投降に帰結したのは、内鮮一体論のこのようなアンビバレントな性格と、それによる縫合不可能な矛盾を読むことができなかったからである。そしてそのようになった底辺には、趙寛子が言及した例の「資本と権力」の観点が底辺にあることはもちろんである。一方で抵抗的・民衆的民族主義は、民衆の観点から民族問題を眺望しようと努力することで、内鮮一体論を含む日帝の植民主義イデオロギーに内在する矛盾を洞察することができた。筆者が「下からの民族」、つまり民衆的結社としての民族を強調したのもそのためだが、いわゆる抵抗的・民衆的民族主義は、民衆が主体となった民族の可能性に注目した結果、李光洙のようなブルジョア民族主義とは異なり、植民主義と明らかに一線を画すことができたのである。

 

 

 

 

 

3

 

趙寛子は結論で、「みなが権力を欲望する社会においては、権力の臣民でなく権力の主体として、権力の横暴に対して異議をとなえる力が必要である」(555頁)という。これはあまりにもっともな話である。しかしこの言葉は民族主義だけに該当する発言ではないだろう。だから、このような発言で民族主義を批判するのはきわめて漠然としている。すべての民族主義が「「血と魂」の論理で「私たち」という自然の帰巣、「原初的合意」を用意する」(554頁)イデオロギーなわけではない。先に言及したように、韓国の民衆的民族主義は、民衆が主体となった「下からの民族」、すなわち民衆的結社としての民族を企図した。それが日本の民族主義、さらに遠くはドイツの民族主義に負ったところも少なくないが、それと同時にそこには個人の実存的危機を乗り越えようとする自発的決断と選択があった。崔曙海や姜敬愛(カン・ギョンエ)の文学において、そのことを難なく確認できるが、申采浩の晩年にもそのような傾向が一定程度見られる。だから第三世界のポストコロニアル民族主義を立体的に理解しようとするならば、この2つの側面――大衆動員的な側面と民衆結社的な側面――を同時に考えなければならない。しかし趙寛子は、李光洙の親日ナショナリズムを「民族主義一般」に還元することで、すべての民族主義、ひいてはすべての民族言説を等質化する。趙寛子の民族主義批判がこのように単純化してしまったのは、帝国主義的民族主義と被植民民族主義を同一視することで親日民族主義と抵抗民族主義を同一視し、すべての理念を権力意志に還元した、脱構築論的な還元論の結果のように思われる。

 


被植民民族主義に対する単純化は金哲の論文でも同様に繰り返される。金哲は「没落する新生――〈満洲〉の夢と「農軍」の誤読」において、李泰俊(イ・テジュン)の短篇「農軍」(1939)を「「満洲経営」という帝国主義の「新たな時代的流れ」に便乗した、言い換えるならば、その時代の「国策」に積極的に呼応した小説」(481頁)と残酷に責めたてる。そのように考える理由として金哲は「満洲事変以降、急増する「満洲ユートピアニズム」と植民地朝鮮の関係」(485頁)を指摘する。金哲によれば、「満洲は、被植民地人としての朝鮮人が帝国の「一等国民」へと跳躍できる現実を提供する、またはそのような現実を夢想させる空間として作用」(同頁)し、その延長線上に中国の農民を野蛮な「土民」として見つめる帝国主義的視線が「農軍」に蔓延しているのだという。金哲は「農軍」が万宝山事件の真相を歪曲し、「「受難の被害者としての朝鮮農民/野蛮な加害者としての中国軍閥と農民」という構図で事件を形象化するのは、実は加害者である自らの微妙な位置を否定しようとする欲求、被害と加害の二重の位置が同時に混在するところからくる意識の錯綜を、受難者としての自己確立を通じて防御しようとする欲求が媒介したもの」(497頁)と説明する。そのような点で「農軍」は「「王道楽土」と「五族協和」を土台にする「満洲イデオロギー」の文学的具現」(508頁)にすぎず、「「類似の解放感」と「擬似帝国主義者」としてのポーズ」(522頁)から抜け出せなかった駄作であるというのが金哲の結論である。

 


金哲の「農軍」批判は、被植民者の抵抗民族主義が植民者の帝国主義的民族主義と等しい言説構造を持つという前提にもとづいている。「農軍」にみられる種族主義(ethnocentrism)、文明対野蛮の人種差別的二分法、「擬似帝国主義」的ポーズのようなものなどからその点が確認されると金哲はいう。つまり趙寛子と同様に被植民抵抗民族主義と帝国主義的民族主義を同一視しているのである。しかし金哲の主張とは反対に、「農軍」はむしろ被植民民族主義が帝国主義的民族主義とは異なる効果を発揮するという点をよく示している作品である。「農軍」が満洲の土着民に対する人種差別的で種族主義的な視角を示していることは事実である。しかし、だからといって「農軍」が植民主義に屈服した国策小説なわけではない。このような論法は部分を持って全体を裁断する典型的な針小棒大である。これと関して作品の付記において背景が「張作霖政権時代」としてあることは重要な脈絡的意味を持つ。この付記によれば、作品の時代的背景は1920年代である。これは「農軍」において描かれる時代が万宝山事件以前であるという「小説的」な意味を持つ。そのような脈絡から考えるならば、「農軍」と万宝山事件の「事実的な合致」の如何を追及することは作品の物語論理と符合しない。「農軍」の時代的背景が1920年代であるという事実は、朝鮮人と中国人の間の力関係に対する重要な手がかりを提供する。満洲国建国以降も朝鮮人は日本人に次ぐ「二等国民」ではなかったが、満洲国建国以前にはさらにそうであった。つまり1920年代の朝鮮人移住民は、中国人に比べて政治的・経済的・社会的なすべての面で劣等かつ差別的な位置に置かれていたのである。満洲の土着民に対する人種差別的で種族主義的な態度が植民主義的暴力になるならば、朝鮮人が中国人より優越した位置にいなければならない。植民主義というものは基本的に「強い」民族と「弱い」民族の間の支配と搾取関係を土台にするからである。1920年代の朝鮮人は中国人に植民主義的権力を行使できる位置には決していなかった。そのうえ「事実的な合致」の如何は、植民主義との関連性を判断する根拠にもならない。この点は、たとえば万宝山事件を素材にした安寿吉(アン・スギル)の「稲」(1940)と比べて見ても明らかである。「稲」は万宝山事件の時に発砲もなく死傷者もいなかったという事実と合わせて記述されているにもかかわらず、むしろ植民主義への包摂の兆候を濃厚に示している。 それは「ナカモト」という日本人を、穀食も買い与え学校も経営しながら五族協和に積極的に寄与する肯定的人物として描き、一歩進んで彼を、中国人の抑圧から朝鮮民衆を救い出す救援者として設定することで、日帝と朝鮮民衆の間の矛盾を選別しているからである。これは、小説と万宝山事件の「事実的な合致」の如何が、植民主義に包摂されているかどうかを区別する基準になりえないことを示している。

 


のみならず、李泰俊は「満洲紀行」(1938)において万宝山事件の真相をありのままに記述している。これは李泰俊が種族主義者でも人種差別主義者でもなかったことを意味する。朝鮮人と中国人の境遇と関係を比較的客観的に考えているという点でそうである。そのような李泰俊が「農軍」で「満洲紀行」とは違う話をしていたのだとしたら、「満洲紀行」を書く時の李泰俊が1年で豹変したのだろうか。そのように考えるのは、その後の作品が種族主義や人種差別主義といかなる関連もないという点で適切な説明とはいえない。それよりも時代的背景が異なるという説明の方が説得力がある。満洲国建国以前と以降の朝鮮人移住民と中国人の民族的力関係が違っていたという事実が、「農軍」と「満洲紀行」の違いを生んだ主な要因だということである。つまり、2つの作品において描かれている時代が1920年代と1930年代というように異なっているために、物語の論理も変わったのだということである。この点をきちんと理解するために決定的に重要なのが、小説の最初部分、つまり汽車の車両の中の場面である。特に「洋服姿の」刑事がユン・チャングォンという人物にどうして一家みなで満洲に移民に行くのかと問い詰める部分は、朝鮮人の満洲移民が日帝の農業政策の総体的失敗による結果であるという事実をそれとなく喚起する。審問を彷彿とさせる刑事の質問に対するユン・チャングォンの答えによれば、ユン・チャングォン一家は自作と小作を兼ねる自小作農だったが、暮らし向きがよくならず妻まで「紡績工場」に出て、それでも生活がよくならずに最後に満洲移民を選択することになった。満洲にさえ行けばいい暮らしができるという話に田を売って家も売ってきたが、彼らを待っていたのは中国人たちの差別と抑圧だった。だから土着民たちの暴力に対立して「飛びかかれ!私たちはここで生きることができなければ死ぬのも同じだ」というチァングォンの叫びは、そのような脈絡から出た最後のもがきだった。

 


汽車の場面は刑事とユン・チャングォンの緊張に満ちた対話を通じて、日帝と朝鮮民衆の対立像を鋭く暗示する。この部分を小説の冒頭に入れた意図は、植民主義の虚構性を批判するためといえる。この場面がなければ朝鮮の農民が満洲に移民しなければならなかった歴史的淵源に対する解明が省略され、「農軍」は帝国主義と朝鮮民衆の矛盾を追求できなかったはずである。そして物語の軸も朝鮮人と中国人の葛藤に単線化し、民族的抵抗が植民主義に包摂される結果を生んだかもしれない。しかし、汽車の場面は、朝鮮人移住民の種族主義的な行動が日帝の植民主義的搾取と無関係ではないことを、すなわち収奪と搾取から自らを守り生存をはかるための不可避の選択であったことを喚起することで、植民主義と批判的な距離を維持する 李泰俊文学のポストコロニアル的な性格に対する詳しい説明としては、拙稿「1930年代後半の李泰俊文学と内部植民主義の省察」および「親日の基準をどのようにとるべきか――李泰俊を中心に」(文学と思想研究会『李泰俊文学の再認識』ソミョン出版、2004)を参照のこと。「農軍」と「満洲紀行」に対する解釈は、この2つの論文から関連部分を要約し補ったものである。 。そのような点で満洲の朝鮮人移住民共同体は、日帝と中国人による二重の抑圧に対立し、自らの実存的危機を解決するために自発的に構成した民衆結社であるといえる。つまりそれは「下からの民族」、すなわち被植民という歴史的脈絡において、民衆を主体として形成された民族なのである。

 


このように「農軍」の物語において、私たちは被植民民族主義がその言説的な類似性にもかかわらず、被植民主体が直面した脈絡の特殊性によって、帝国主義的民族主義とは異なる抵抗的な効果を発揮するという事実を確認することができる。そのように見れば、金哲の「農軍」批判には、脈絡の違いが作り出す遂行的(performative)効果の違いに対する区別が欠如している。このような誤読は、一次的に経験的現実さえも相互テキスト性へと還元するテキスト主義的な読解が生んだ結果といえる。しかしさらに根本的な理由は、金哲が「帝国主義支配の下における民族運動とは、帝国の体制の中で民族領域を分節して明瞭化することで、窮極的には帝国の体制を安定させること」(「対談」『再認識』第2巻、626頁)と考えているからである。「民族と帝国は互いにそのように拮抗しながら協調する関係」(同頁)だが、そのような「拮抗と協調」もやはり「帝国の体制の中で」展開されるために、いかなる民族運動も結局は「帝国の体制を安定させる」役目をせざるを得ないというのである。つまり被植民抵抗民族主義は、帝国主義の「派生物」であるために植民主義のヘゲモニーから決して抜け出すことができないということになる。だが金哲のように考えるかぎり、植民主義に対するいかなる抵抗も希望なきものとなる。帝国主義体制の「内部」にいるかぎり、植民主義のヘゲモニーに包摂されるからである。そうだとすれば、経験的な現実の中で帝国主義の「外部」は存在しないという点で、ポストコロニアルは不可能なことだと言わざるを得ない。だが、チャタージー(P. Chatterjee)が適切に規定したように、被植民民族主義は「帝国主義に支配されながらも区別される」理念であると同時に運動である P. Chatterjee, Nationalist Thought and the Colonial World, University of Minnesota Press 1995, p.42. 。これは被植民という歴史的条件の違いが生んだ結果であるが、この点にまさに被植民民族運動のポストコロニアル的な可能性がある。植民主義内部から植民主義を克服していく、いわゆる「内的抵抗」を、被植民民族運動において発見できるのもそのためである。李泰俊の「農軍」は、そのような意味における内的抵抗をよく示している。

 

 
 
 
 

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趙寛子と金哲の論文に対する批判的考察を通じて、あらためて発見することとなる事実は、民族と民族主義に対するヨーロッパ中心的な考え方である。民族主義と植民主義の相関性に注目する処理の仕方は、帝国主義の中心だったヨーロッパの歴史では通用しうる。民族主義一般に対するヨーロッパ左派の否定的視角は、そのような脈絡において理解できる。趙寛子と金哲は日本における民族主義批判に大きく影響を受けたように思われるが、実は日本の進歩的知識人たちがヨーロッパ左派の民族主義批判を積極的に受け入れていたのは日本の歴史的経験と密接にかかわっている。日本はアジアの帝国主義国家として近隣諸国を侵略し、内部的には天皇制ファシズムを煽りながら民族主義を正当化のイデオロギーとして掲げたからである。今も民族主義が日本の保守右派の核心イデオロギーであるという事実を勘案するならば、日本の進歩的知識人たちが民族主義を極力批判するのは当然のことと言える。しかし被植民地域では事情が異なる。大部分のヨーロッパ左派や日本の進歩的知識人らも同様だが ヨーロッパと日本の左派の民族主義批判が持つ問題点に対しては、拙稿「脱民族言説と新たな本質主義」、『民族文学史研究』25号、2004を参照のこと。 、趙寛子と金哲もこのことに対する歴史的眼力が足りない。侵略のイデオロギーとして機能したヨーロッパの場合とは異なり、被植民地域では民族主義がたびたび抵抗の言説として作用した。もちろん抵抗的・民衆的民族主義も抑圧と動員の権力言説に変質する場面を、私たちは多く目撃してきた。そのような点で民族主義は明らかな限界を抱えている。民族問題や分断問題を解決するためにも民族主義の克服が必要なのはそのためである。しかし、民族主義が歴史的に大衆動員と民衆結社という両面性を持っていたという点も見逃してはならない。この両面性こそ、被植民民族主義の歴史性の核心だからである。そのなかで抵抗的・民衆的民族主義は、被植民という脈絡的特殊性によって、反帝国主義的な民衆結社という側面をより強く示すこともある。「農軍」にその点を確認することはさほど難しくはない。

 


にもかかわらず、趙寛子と金哲が被植民民族主義に批判の視線を送るのは、おそらく民族主義の大衆動員的・種族主義的な側面に対する警戒心のためだろう。このような憂慮は確かに一理がある。しかし民族と民族主義に対するヨーロッパ中心的な単純化は、それらの歴史性全体に対する否定につながり、自らの主観的意図とは無関係に植民主義を黙認する深刻なイデオロギー的効果を生む。ここで「黙認」と言ったのは、趙寛子と金哲が帝国主義に対する民族的抵抗の可能性を最初から否定することで、結果的に植民主義の絶対性を認めているという意味である。植民主義に対する黙認は近代主義との微妙な癒着を通じて行われる。民族と民族主義に対する金哲と趙寛子の理解は、近代主義者らのそれと別段異なるところがない。近代主義もやはり民族と民族主義をヨーロッパ的意味で理解する。そのようにせざるを得ないのは、近代主義が世界史的近代をヨーロッパ的近代の拡張過程として考えているからである。ポストモダン論の近代認識もまた同様である。それによってポストモダン論において帝国主義的近代と植民地的近代は同型の関係として理解される。植民地的近代とはヨーロッパ的近代の移植であると同時に模倣だからである。趙寛子と金哲が被植民民族主義を帝国主義的民族主義と等しいものとして一律規定するのはそのためである。だから彼らはヨーロッパ的近代とは異なる近代の可能性を想像できず、当然のことながらヨーロッパ的近代の代案もポストモダン以外には存在しえないと考えることとなる。民族と民族主義のポストモダン的な代案は民族を消去することである。民族が存在するかぎり近代を超越することができないからである。民族と民族主義に対する韓国版ポストモダン論の盲目的な非難はその延長線上にある。この地点においてポストモダン論は新種の近代主義である新自由主義と出会う。新自由主義でいうグローバリゼーションほど民族を消去する効果的な方策はないが、ポストモダン論の民族と民族主義批判が政治的保守主義の正当化というイデオロギー的効果を生むのも、そのことと無関係ではないといえる。つまり「民族の消去」を共通分母としてポストモダン論と近代主義が手を握っているのである。

 


『再認識』に掲載されている韓国文学関連の論文のうち、李恵鈴(イ・へリョン)と崔暻姫(チェ・ギョンヒ)の論文も同様の視角を示している。これに対しては詳細な批判がもう出ているのでここでは扱わないが 李恵鈴の論文に対する批判は崔炅鳳(チェ・ギョンボン)「日帝強制占領期間の朝鮮語学会の活動の歴史的意味」(『民族文学史研究』31号、2006)、崔暻姫の論文に対する批判は金良宣(キム・ヤンソン)「ポストモダン・脱民族言説とフェミニズム文学研究」(民族文学史研究所2006年学術シンポジウム発表文)参照。 、この2つの論文も被植民民族をヨーロッパ的意味の民族として理解しているという点だけは指摘しておかねばならない。李恵鈴は帝国と被植民民族運動を一種の共生関係として一面化するという点でそうであり、崔暻姫は民族あるいは民族主義を、女性を抑圧する動員イデオロギーとして単純化するという点でそうである。その結果、李恵鈴は朝鮮語学会運動に存在する「内的抵抗」を読むことができず、崔暻姫は逆に崔貞煕(チェ・ジョンヒ)の作品「野菊抄」を、親日で偽装したフェミニズム小説であると解釈する深刻な誤読を犯している。これはともに被植民民族の特殊性を認めないヨーロッパ中心的な民族認識から始まった結果だといえる。特に崔暻姫の論文は、被植民という歴史的条件において民族と媒介されない現実認識がどれほど危険かを克明に示している。論文の分析対象である「野菊抄」は、日本の「国民」となることで性差別を解決しようとした「明白な」親日小説である。崔貞煕が親日協力という解決方式を選択したのは、女性問題を民族問題と分けて孤立的に考えたからである。日本「国民」になるとしても被植民状態においては永遠に二等国民、二等女性であらざるを得ないが、崔貞煕はその厳然たる事実を理解することができなかったのである。そのようになったのは、作家が被植民という歴史的条件において民族問題の持つ戦略的先次性に気付くことができなかったからである。だが、崔暻姫がその点を厳しく指摘しないまま、「表層の物語」と「下位の物語」を分けて、作品のフェミニズム的な側面だけを別途に切り離して強調するのは、崔貞煕が犯した誤りを繰り返すことである。このような読法は、民族あるいは民族主義の家父長主義的・エリート主義的な側面にのみ注目する単純な認識にもとづいているが、ここで私たちは、趙寛子や金哲と同様の問題点を再確認することができる。そのような点で『再認識』は、民族主義と脱民族主義を同時に越え、民族の歴史性と複合性を立体的に洞察することがきわめて緊急の課題であるという事実を、あらためて私たちに喚起しているのである。

 

 

 

 

 

※この論文は2006年9月15日に開催された「細橋(セギョ)フォーラム」での筆者の発表文を再整理・補足したものである。討論の過程で貴重な助言を下さった白樂晴(ペク・ナクチョン)、林熒沢(イム・ヒョンテク)、崔元植(チェ・ウォンシク)の各先生をはじめみなさんに感謝する。
 
訳・渡辺直紀
 
季刊 創作と批評 2007年 春号(通卷135号)
2007年3月1日 発行
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