창작과 비평

87年体制の軌跡と進歩論争

論壇と現場

 

 

金鍾曄(キム・ジョンヨブ)  jykim@hs.ac.kr

 

韓神大 社会学科教授。著書で 『笑いの解釈学』 『連帯と熱狂』 『時代遺憾』 『エミール・ドイルケム(Emile Durkheim)のために』 などがある。

 

 

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今年初、作家黄皙暎(ファン・ソキョン)は『京郷新聞』のインタビューで次のように話した。

 

過去の話ですが、80年の光州抗争の直後、全国の民主化運動は焦土化された。84年か、洪南淳(ホン・ナムスン) 弁護士の古希を迎え、全国に忍んでいた在野の青年たちが我が家に集まった。私が新聞の連載で食っていける余裕があったためである。160余名の人々が2階の階段やトイレまで座り込み、二日間80箱のビールを飲み干したことがある。現在は四つの党にばらばらになった政治家たちがみんなそこにいた。文学界のナイーブな人である私は彼らに会うと、あの時代に戻ろう、87年体制を終わらせて改めて始めようと言う。すると、「果たして失われた時代を取り戻すことはできるのか」と言われるが、その根拠は残っている。現在の大統領選挙の枠組みというのは、過去の残滓から一時しのぎに出来上がったものですぐ壊れるものと決まっている前に全国の市民勢力や良心的な人々穏健な人々などがり、外側からの第三勢力が形成される思う。6月抗争直後の初心に立ち戻り、当時の熱意で国のために働いてみようということである。「黄皙暎「新しい政治秩序のために先頭に立つ考えある」」、『京郷新聞』2007年1月23日。

黄皙暎は87年の6月抗争に立ち戻ろうと提案したが、彼は過去20年間をどこかで行き違ってしまった行路であると捉えている。哀悼する心を越え、あの時代への回帰を訴える、その気持ちが納得できなくもない。また歴史において回帰というものが前進するためのスローガンとして役目を果たしてりするのも、珍しいことではない。しかし、今、私たちの直面した問題を解決するために、87年の6月抗争直後、あの時代における勢力連合の状態に立ち戻る理由が未だに残っているという主張には同意しがたい。

 

 

 

にもかかわらず、87年のあの時に立ち戻り、現在を眺めてみるのは依然と有效である。87年の経験は、その後、20年間の私達の社会の軌跡を解き明かし、現在新しく出発しようとする時、手引きにすべきものをまとめるという認識上の管制高地としてその役目を充分果たすであろう。そしてそれは少なくとも私が先年87年体制論を提案した理由でもある。拙稿 「労動運動の成熟のために」『創作と批評』2004年秋号;「分断体制と87年体制」『創作と批評』 2005年冬号。もちろん87年体制をめぐる議論に共通分母が多いとは言いがたい。しかし、去る何年かの間、87年体制という言葉が先に進んだり後に下がったりしつつ広く使われるようになった背景には、私たちの現在を認識するにおいて87年そのものが特権的な地点であるという考えが潜まれている。

 

 

 

筆者はこのような考え方が間違っていないと思っているが、そこに問題があり危険であるとさえ言う人々もいる。例えば孫浩哲(ソン・ホチョル)によると、現在の私達の状況を理解し、また優れた社会体制に進むために、87年体制論の認識論的な欠陥が支障を来たすと捉えている。彼は私達の社会を87年体制ではなく、97年体制あるいは新自由主義体制という見方で捉えるべきだと主張する。誰もが外為危機の重要性を否認するものはいないだろう。なお、87年体制論にある種の段階論を取り入れるなら、孫浩哲の論理と87年体制論の対立はそれほど大きなものではないかも知れない。ところで97年の重要性を語るために87年の重要性を引き下げ、また87年を強調したために、民主対反民主の戦線の強化、ついでに「批判的支持」論の「悪夢」を呼び起こすと憂慮するような孫浩哲の考え方は、認識論の側面においても政治的戦略においても問題がある。戦略の問題はさて置き、認識論の側面について先に触れたい。孫浩哲 「いくつかの誤解といくつかの反論: [曺喜㫟教授批判] 反新自由主義と反守旧、何が敗北主義か」『レディ−アン』(www.redian.org) 2007年2月12日。まず彼の立場によると、どうして私達が97年の外為危機に至ったのかについて分析しにくくなる。97年の外為危機によって構造的な変化が生じたという事実よりもっと重要なことは、なぜそのような危機に晒されたかという点であり、それがわからない限り、現時点で再出発するために必要な認識の土台が揺れるであろう。筆者はこの点と関連して87年体制論がメリットをもっていると思う。

 

 

 

もちろんこれは87年体制論による分析の成果から立証されるべきであり、そのような過程において87年体制論の意味するところもより明らかになるであろう。実は単なる指称のレベルにおいても人口に膾炙するようになった「87年体制」という言葉をめぐって人々の誤解も少なくないと思われる。簡単な例として崔章集(チェ・チャンジブ)の87年体制論に対する批判がそうである。彼は87年体制論を単なる87年の憲政体制論として理解し、その内容を私達の社会の問題を改憲によって解決しようとする立場であると捉えている。87年体制の重要な枠が、87年の憲政体制であることは間違いないが、87年体制論が87年の憲政体制を排他的に強調する立場であると捉えるのは妥当ではない。彼は最近87年体制を「地域党構造/地域党体制」と捉えた朴常勳(パク・サンフン)の立場がもっている限界をを批判したことがある。崔章集 「政治的民主化: 韓国民主主義、何が問題か」『批評』2007年春号、15頁。これは87年体制をきわめて狭小な解釈によって捉え、87年体制を批判したものである。このようなやり方は間違っており、崔章集のような大家の一読に恵まれなかった何人かの87年体制論者たちが、明示的であれ暗黙的であれ87年体制をこのように定義したとは考えられない。

 

 

 

現在、私達の社会をめぐる状況、すなわち新自由主義的な体制の再編や、民主主義の危機、または6・15共同宣言後に形成された分断体制の変化、韓米FTAなどのようなさまざまな状況を体系的に展望できるもの、それが87年体制論であることを立証するのが大事であろう。したがって、87年体制の軌跡を大まかにまとめて見ようと思う。ところが、この議論は縮約した形で行われるために課題を担うには当然物足りないかもしれない。直面した問題のなか、今春行われた「進歩論争」で浮き彫りになったいくつかの偏向をまず批判的に検討してみたいと思う。

 

 

 

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87年の6月抗争は、私達の社会の全体にわたる構造的な転換点となった。87年を転換点に権威主義の政治体制は解体され、形式上の民主主義は制度化され、また経済面においては朴正煕式の発展国家の体制から逃れることができた。それ以前の発展国家体制は、国家―銀行―大資本の連合という側面と民衆部門の排除という側面が両方組み合わされたものであったが、このような体制の終熄によって労動側だけではなく独占資本側まで国家権力から解放されることが出来た。しかし旧体制からの解放が直ちに別の体制への進化を意味するのかどうかは明らかではなかった。

 

 

 

民主化というのは、社会において何を政治の対象、すなわち自己決定の対象にし、またその対象をどのように選択するかを制度的な形式や選挙競争の中に押し入れるものである。私達の場合、権威主義的な発展国家体制の以後、それを如何に設計していくかが政治的な過程に委ねられたといえよう。だからといって、この政治的な過程というテーブルの上にあらゆる種類のカードが用意されるわけではない。社会勢力のあり方や確立した価値基準によってどんなカードが用意されるかがすでに決まるはずである。しかし87年体制というのは、選択範囲を絞ることができなかった。妥協的な民主化であったために社会勢力の再編は十分ではなく、権威主義の体制を崩す政治革命ではあったものの、旧体制の価値や文化的エトスから方向転換を目指すような文化革命的性格はきわめて貧弱なものであったからである。そのような状況の結果、 私達の社会の公論の場所は、要するに、過去20年間の独裁の陰から逃れ浄化されたどころか、ほぼ猥褻化し、政派化し、制御されない攻撃の場になってしまった。

 

 

 

しかし、移行の行方を規律できるヘゲモニーの力を持つプロジェクトが初めからなかったわけではない。その主張が明示されていないとはいえ、体制の進化の過程において次第に明らかに洗練された形の二つのプロジェクトがあった。それは 「民主主義の拡張と深化のプロジェクト」や「経済の自由化プロジェクト」、あるいは 「新自由主義プロジェクト」と名づけられるものである。前者の主導勢力は民衆側であるが、この集団には近代的教育や社会体制の進化のなかで民主主義の信念を獲得した若い新中間層、民主化運動の洗礼を受けた青年層、また様々な社会的少数者集団などが含まれる。彼らは政治体制の持続的民主化、発展国家体制のなかで形成した社会的富の再分配、権威主義文化の清算、平等主義的な社会統合、生態価値の実現、それから旧権威主義体制の土台として働いた冷戦的反共主義や分断体制の漸進的解体などを追及してきたのである。しかし、このプロジェクトを推進した集団は、価値体系のレベルにおいてそれほど整合性を持っておらず、また社会的課題の優先順位に対する判断の違いによって簡単に政派に分裂したりとした。さらにこのプロジェクトには主体集団の願望を一貫して代弁し、またそれを実現する政治勢力を持てなかったという限界があった。

 

 

 

後者は官治経済から脱皮し経済を資本主導に再編しようとしたものと言えよう。このプロジェクトは全斗煥(ジョン・ドハン)政権期にすでに経済官僚たちによって試みられたが、発展国家体制の慣行の持続、あるいは冷戦的独裁政権のため、当時充分実現することはできなかった。民主化へ移行することによって経済的自由化というプロジェクトが稼動できる土台が提供されたのである。このプロジェクトは1970年代末から形成されたイギリスのサッチャリズム(Thatcherism)やアメリカのレーガノミックス(Reaganomics)、そして中国の経済開放と社会主義圏の解体によってグロバルな文化として浮び上がった新自由主義と連動するものであり、それだけに新生民主主義体制をめぐる環境を制限する世界体制の進む方向とは柔和的なものであった。世界体制への編入戦略を通じて経済成長を成し、不平等な分配にもかかわらず、成長はそのまま福祉になるという発展国家の経験に束縛されていたので、開放や競争、そして成長を全面に掲げたこのプロジェクトは、社会の成員達に説得力があった。市場という概念のもつ簡明な点も説得力があった。ホビー(D. Harvey)が指摘したように新自由主義というのは、成長と発展のプロジェクトと言うより保守的な再分配のプロジェクトという性格がもっと強い。David Harvey, A Brief History of Neoliberalism, Oxford University Press 2005, 16頁。少なくとも民主化プロジェクトがまともに揃えることができなかったもの、すなわち経済発展の代案は大衆の心を引く力を持っていたのである。民主化プロジェクトが生産に対する代案を用意できなかったのは、それが 朴正煕体制に対するアンチ・テーゼとして構成されたからという側面がある。民主化プロジェクトは、抑圧的な国で社会を解放させようとする衝動にかられ、朴正煕体制の肯定的遺産と否定的遺産を愼重に判断するにはそれに対する拒否感が強かった。したがって慎重な再評価に存在するある程度の歴史的距離は不可避なところがあり、最近このような議論は活発になった。これと関連して注目に値するエッセーに白楽晴「朴正煕時代をどう思おうか」『創作と批評』2005年夏号参照。合わせて趙亨済の外「新進歩主義の発展モデルと民主的発展国家の模索」『動向と展望』2006年夏号参照。この筆者たちは新自由主義に代案的な発展モデルとかかわって国家の役目を定義するため、「民主的発展国家論」を提示しているが、このような議論は朴正煕体制を取り上げ明示してはいないが、はっきりと朴正煕体制の遺産に対する見直しを含めている。

 

 

 

しかし、このプロジェクトは、保守層による保守層のためのものであるという点で限界があった。 保守層は旧体制の恩恵を受けていたので、社会的支持を得ることが難しく、このプロジェクトが求める企業の透明性の向上や腐敗の清算というような自己革新は彼らにとって簡単にできるものではなかった。結局、このプロジェクトは彼らに代わる他の集団によって行われる場合、容易に社会的説得力を得ることができたし、実際、87年体制のヘゲモニー集団として浮び上がった改革的自由主義グループや経済官僚集団によって推進力を獲得した。

 

 

 

いずれにせよ、過去20年は、二つのプロジェクトの競合の過程であり、社会的にそれぞれの代弁する勢力が一進一退を繰り返しつつ膠着局面の長続きした時代と言えよう。両勢力の中にどちらも一方を決定的に圧倒することができなかったのである。象徴的な事件で表現するなら民主化勢力は国家保安法を廃止するほどの能力がなかったし、旧体制の勢力は民主的に選ばれた大統領を弾劾する位の力もなかった。要するに過去20年間、経済的自由化は順調に進行され、財閥の支配力はほとんど怪物のように社会へ拡大していき、それとともに様々な領域において民主化が拡張し、執権勢力もより改革的な集団に入れ替わってきた。金大中(キム・デジュン)政権の言葉を借りていうなら、私たちが過去20年間見守ってきたものは、「市場経済と民主主義の並行発展」というわけである。

 

 

 

しかし、87年体制の行路を二つの社会勢力と二つのプロジェクトの対置局面に過ぎないというのは、過度に単純化した言い方である。過去20年の過程は、はるかに複雑なジグザグの続きであり、そのジグザグの行路を説明するためには、新しい体制を形成するための決定の空間として与えられた政治過程をきちんと見据えなければならない。

 

 
 

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87年、6月抗争の一つの特徴は、旧体制に対する挑戦勢力の一分派が権威主義体制下の野党であったという点である。分断体制の効果として、韓国の政党体制は非常に保守偏向的であり、権威主義体制下の野党もまたその起源からみて保守的であった。この集団はその傾向からさほど離れることはないが、長年独裁との闘いを通じて改革的自由主義という性格を獲得しており、それとともに大衆の信頼と支持を得てきた。87年の6月抗争の成果を吸収しつつ87年体制のヘゲモニー的集団として浮上し、彼らの政治的な選択がその後の政治過程において中心となっていった。

 

 

 

この改革的自由主義グループは常に政治集団として多数を志向したが、これは政治集団の属性として当然と言えよう。民主化勢力に属しているが、政党体制に編入された集団を別に「改革的自由主義グループ」と呼ぶのは、長所もあるが、短所もある。ややもすれば、民主化勢力とこの集団が全然別個の他人のような誤解を招く余地があるからだ。しかし、長所がもっと多いという考えで、ここでは区別して使った。その長所は、まず民主化勢力の中、彼らは民主労動党の議会進出以前は、独占的に政治社会に進出しており、民労党と違い、政治社会内で相当な持分を持った集団であった。したがって市民社会のなかにある民主化勢力は、そのまま民主化勢力と言い、彼らを区別して呼んだほうが良いと思った。また市民社会の民主化勢力は、自由主義的な傾向の集団から進歩的なグループ、また極左グループを含め、幅広いスペクトラムを見せるが、彼らの中に政治社会に属したこのグループはそれほどイデオロギー的に広いスペクトラムを持っていない。この集団は少なくとも改革的自由主義的傾向を見せ、そのように凝集する時に始めて市民社会の民主化勢力から支持を受けることができた。だから多少特定して表現するのも彼らの性格を理解するのに役に立つと思う。最後にこの集団の核心部分は旧体制下の野党出身であるが、去る20年の間、与・野党の境界を乗り越える離合集散が続き、この集団が執権勢力になったこともあるので「与党・野党」のような言葉で区別するのも難しく、別の用語が必要となった。ところが、民主化への移行において文化革命的な性格をあまり持っていなかったし、また大きな規模の勢力再編を起こらなかったために、彼らの社会的基盤はあまり広くなかった。したがって政治的多数としての位置を占めるために旧体制の勢力と対立する局面において、彼らは6月抗争で形成された民主化勢力と連帯を維持したが、権力獲得に有利であるなら旧体制勢力との妥協さえ拒まなかった。そのなか、もっとも劇的で重要な妥協は盧泰愚(ノ・テウ)政権期の3党の合党と言えよう。執権のためであり、またその通りに主張されていたが、自らの大義に反した明らかな裏切りだと言えよう。この3党の合党は、野党勢力と旧体制勢力の間を分割する境界線を曖昧にしてしまい、その效果は持続的で構造的なものであり、以後の政治集団の形成に長く影響を及ぼした。このような妥協は少なかれDJP(=金大中+金鍾泌)の連合や盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の大連合政府提案、なお最近の韓米FTA推進とともに現われたハンナラ党との事実上の連合においても確認される。

 

 

 

改革的自由主義グループは、その都度、民主化勢力と連帯し、または旧体制勢力と妥協しながらそれを利用しつつ政治的多数を形成することができたが、妥協の結果、そのダメージは小さくなかった。妥協することによって彼らのヘゲモニーは持続的に弱まり、そのため民主化の進展にもかかわらず中間派の立地はますます狭くなるに至った。先に触れたように、私達の社会において健全たる公論の場の不在の背景に87年抗争における文化革命性の欠如を指摘したが、このように中間派の立地の矮小化は、民主化が進むことにつれ健全な公論の場が回復することに至らなかったことにおいて重要な影響を及ぼしたのである。

 

 

 

自由主義グループの歩みがヘゲモニー能力を弱化してまで進行されたことは、民主化勢力にとって困惑なものであった。というのは、そのような状況によって「批判的支持」論と「独自勢力」論の同時申し立てが余儀なくされたからである。しかし民主陣営内の政治分派のそれぞれの立場が何であれ、大衆的なレベルにおいて説得力を得たのは「批判的支持」論であった。「批判的支持」論は87年の大統領選挙の際、両金氏の出馬を控えて提示されたものである。まず、「候補単一化」論があり、それが失敗すると、相対的により進歩的だと思われた金大中候補に対する「批判的支持」論が提案され、それに対する不満で「独自候補」論が申し立てられた。以上のような文脈を考慮するなら「批判的支持」論の概念を拡大して理解しようとする筆者の立場は混乱させる側面もある。にもかかわらず、今後の状況を考察するために、「批判的支持」論の構造的な側面を考慮し拡大した概念を使うのが有意味であると思う。もし87年当時、両金氏が単一候補に至ったとしても、彼らは保守政党体制内部の政治リーダーであり、彼らの追及した民主化は一定の制約を内包していたので、民主化勢力の単一候補に対する支持は「批判的支持」と見るべきである。改革的自由主義勢力が政治的多数にならない限り、そしてその多数化戦略に影響力を行使しない限り、民主派が自分の意志や願望を実現できる道は狭く、「独自勢力」化というのも引き延びになる可能性が大きかったからである。そのような意味で「批判的支持」論は無理に危険を甘受した面はあったが、罠と言うより合理的な選択だったと言えよう。もっと一般化していうと、大衆の願望とそれを代議する政党やリーダーとの関係には常にズレがある。したがってあらゆる種類の投票行為、もしくは政党選好と言うのは、批判的支持の性格を持つ。今日、はたして民主労動党に票を入れる有権者が民主労動党を好み、そのえり好みを直接的に表現している人々ばかりであるだろうか。例えば、選挙で改革的自由主義の勝利が確かな場合なら、民主労動党の政綱と政治的・政策的能力に対して懐疑的であるとしても、民主労動党の成長が政治全体の発展に役に立つと判断し、民主労動党に投票する有権者が存在することもある。また改革的自由主義グループの右傾化に対して警告する意味において民主労動党に票を入れる有権者もいるであろう。有権者の選好が直接的に表現される可能性が高い政党体制がより良い体制であり、これを追い求めるのが当然である、政党と投票者の選好一致は常に相対的に規定されるものである。

 

 

 

「批判的支持」論を選挙局面の投票行為に限らずより広い意味に捉えるなら、87年以後、社会運動の行方をこのような見方で眺めることができる。87年以後、社会運動は「民衆運動」と 「市民運動」に区別されたが、それは社会運動の階層的分化によるだけでなく、広い目で見ると、「批判的支持」論と「独自勢力」化という路線の分化に起因したものと捉えられるからである。いずれにしても、民主化勢力の意志を政治の領域に反映することを重要視する勢力たちが選択できた道というのは、市民社会を動員し選挙局面において圧力政治を遂行することであったが、このような圧力政治は政党体制そのものの変形をはかるというより、政党政治を民主化勢力のほうに牽引しようとした点において「批判的支持」論の一形態だと言えよう。

 

 

 

もちろん、2000年の総選連帯の活動のような印象的な例があったように、「批判的支持」論の力が大したものであったことは言うまでもない。当時の状況は既存の政党体制の腐敗や大義能力の不在によって政治社会と市民社会の間に大きな亀裂が生じていたが、市民社会の動員力は非常に高い水準でその成果も小さくなかった。にもかかわらず、時々指摘されるようにそれが選挙の局面を越え日常的な局面になっても力を発揮するのは簡単なことではなかった。選挙が終わり日常的な現実に戻れば、熱意的な動員は制度化した補償として戻ることはなかった。圧倒的な動員が導き出した改革の雰囲気が、雰囲気のみの改革に退行する場合もしばしばあり、それによって民主化以後の私達の社会は、落差の大きい願望と失望の交替を繰り返し経験しなければならなかった。

 

 
 

4

 
 
 
旧体制の勢力と妥協することを拒まず、同時に旧体制を押し出し政治権力を獲得していった改革的自由主義グループは、果たして如何なる計画を以って私達の社会を導こうとしたのか。この集団に独自の改革の青写真があったかどうかはわからない。むしろ前に述べた二つのプロジェクト、すなわち「民主主義の拡張と深化プロジェクト」と 「経済的自由化プロジェクト」を両方受け入れたと言うほうか正しいだろう。もちろんプロジェクトは借りることができるし、そのために独自性が否認されるわけではない。二つのプロジェクトを組み合わせる立場と原則のレベルにおいて独自性が存在することもありうるからである。しかし自由主義グループがそのような組合を遂行したとは言いがたい。自由主義グループは逆に二つのプロジェクトを集合的に受け入れたため、私達の社会でヘゲモニー的になり、また同時に真の意味におけるヘゲモニーを行使することができなかったのである。

 

 

 

結局、改革的自由主義グループによって二つのプロジェクトは二つのカードまたは政策レパートリーとして受け入れられたが、彼らが二つのプロジェクトの対立と葛藤を仲栽するために始終使ったのは、経済と他の社会領域において二つを分離した形態でそれぞれ適用する方法であった。金大中政府の「民主化と市場経済の並行発展」というプロジェクトや、たとえ「笑い話」だと言い訳をしても盧武鉉大統領の「左派新自由主義」云々する主張に、その発想がよく見られる。実際、韓米FTAを妥結すると同時に、3不政策(=大学本考査、寄与入学制、高校等級制禁止)を固守しようとする盧大統領の歩みを「慈悲の原則」(principle of charity)として解釈できる唯一の道は、それが新自由主義的プロジェクトと民主化プロジェクトを分離した領域としてそれぞれ適用することであり、またそれを最善と捉えていると理解することである。

 

 

 

自由主義グループによって二つのプロジェクトが並立し遂行されたというのは「結果的に」経済的自由化プロジェクトがうまく稼動されたという側面による。したがって旧体制に由来した政党と独占資本は自ら遂行しがたい改革をやり遂げることができたが、新自由主義の持つ一定の改革性のために、自由主義グループは旧体制勢力と戦う時にそれを利用することができた。それは仮に自由主義グループのみに試みたものではない。民主化勢力も旧体制勢力の清算のために新自由主義的な要素を利用した。しかしそのような過程をさておいて、マルクス主義の国家論によく見るように、保守勢力が改革勢力の手を「借りて」自らを改革したと解釈するのは困る。人々は時々自らが利用したあるものについて素直に道具という態度を示すより、むしろそれに対する内的信念を形成したりする。これが新自由主義イデオロギーがヘゲモニーを行使するようになった経路かもしれない。しかし、だからと言って保守勢力と自由主義グループの間に同盟が存在すると言っては困る。したがって盧武鉉政府と保守勢力の「新自由主義の成長同盟」という崔章集の言葉は修辞のレベルを越えたものなら、それは過度な表現である。崔章集『民主主義の民主化』フマニタス 2006年、21頁参照。孫浩哲が何度も強調したようにこのような「改革」には抵抗の戦線を曖昧にする面も否めない。しかも大衆にとって新自由主義的政策の失敗がまるで民主化の失敗のように思わせる効果もあった。

 

 

 

だからといって自由主義グループによる執権が、保守勢力より悪かったと言うわけにはいかない。「経済的自由化プロジェクト」、あるいは新自由主義政策というのは、 守旧的な文化・制度から高い水準の民主化に至るまで政策の面において混用されることがある。おそらく断固たる民主化へ追求のみ、「経済的自由化プロジェクト」と一貫して衝突するであろう。多様な政策の混合についてその可能性を考えるなら、自由主義グループによる民主化と自由化の同時推進は最悪のものとは言いがたい。このような言及は「社会経済的両極化」という私達の社会の懸案を思うと、自由主義グループに対する過渡な弁論として取られるかも知れない。ところで逆に帰納的かつ機能主義的な視点から問題を捉え、保守派の執権したほうが自由主義グループの執権よりかえってましだという解釈をするなら、それはもっと誤った状況認識である。

 

 

 

一歩進んで崔章集の言うように、自由主義グループと旧体制に根付いた保守派との経済政策の協調のみを浮き彫りにし、他の領域における両集団の違いをぼかしてしまうことも問題である。彼は 「韓国政党の亀裂は民族問題をめぐって明らかな違いを持っているが、社会経済的政策という別の意味ではこれと言った違いを持たない曖昧な二重性が重なっている」崔章集 「政治的自由化」20頁。と判断しているが、経済政策はさておいて社会政策においてもとりわけ違いがなかったかは疑問である。ところが、もっと大きな問題は崔章集の判断したように、民族問題をめぐる明白な違いが、本当に大したものではないかと言うことである。おおよそ民族問題について歴史的復元であると理解し、南北問題に対する政派あるいは政党間の葛藤をレトリック的な程度のものに捉えているが、崔章集 『民主主義の民主化』280頁∼282頁。彼のそのような考え方は理解しがたい。改革的自由主義グループ、特に金大中政府以来民主政府が成し遂げた和解協力事業、南北経協、南北首脳会談など、その成果は少なくない。それは経済的利益や平和ムードの定着に加え、南北の人々に想像力の地平を広げて社会体制の変革と革新の地平を韓半島の範囲に拡大する效果をもたらした。ところで、そのような協力や交流、また開かれた新しい可能性を発展的に専有することなど、これが執権勢力と無関係に成り立つというのは、根拠のない楽観論である。崔章集の考えるように、たとえ冷戦的言説が政治的な修辞であっても、時にそれは使う人を説得し、自ら道具的に自分の言説を作ることができても、それを対象に動員する社会勢力さえそうさせることはできないからである。冷戦的言説を作るものが執権した場合、その代価として冷戦的な退行を支払う可能性が非常に高い。

 

 

 

確かに、最近のさまざまな傾向は「民主主義の拡張と深化プロジェクト」と「経済的自由化プロジェクト」の併行推進が、長期的に病理的結果をもたらしたことを見せている。しかし、現在の苦労や危機意識に注意するといっても、それが回顧的に過去に対する認識を調整することは警戒する必要がある。これが公正ではない歴史的評価をもたらすこともあるからだ。もちろん誰にも公正な評価は簡単ではない。しかし、少なくとも87年以後から現在に至るまで、二つのプロジェクトが同時に推進され、それは社会的説得力を持っていた。それは深刻な限界とともに大きな成果を上げたと言ったほうが、「民主化以後、韓国の民主主義は質的に悪くなった」という崔章集の指摘よりは現状に適合していると思われる。

 

 
 

5

 

 
87年から現在に至るまで、私達の社会の変動過程への評価とは別に、今の危機に対する診断が重要である。市場経済と民主主義の併行発展は限界に直面し、経済的民主化の進展の伴わない民主主義の進展は、片方の民主化に過ぎない。またそれによって築き上げた政治的·社会的民主化も足元から崩れることになるのが、明らかであるからだ。さらに停滞した平衡体制である87年体制の再編、または別の体制へ転換する分岐点に近付いていると診断できるなら、それは現在までやってきた民主化と自由化という二つのプロジェクトが両立する可能性がもはや消え去っているからである。

 

 

 

このように経済的自由化プロジェクトが民主化プロジェクトを圧倒してしまった背景には、外為危機があり、最近の韓米FTAの妥結はその可能性を増幅させた。特に盧武鉉政府によるFTA交渉の妥結は、金大中政府の新自由主義政策の実行が外為危機を乗り越えるために不可避な側面があったものとは違い、彼を支持した勢力を困惑させたのである。

 

 

 

それは盧武鉉政府に対する期待が裏切られたからであり、それは正当な期待ではあったが、冷静に言ってそもそもその期待は矛盾したものである。当然その期待の可能性は再調整されるべきであり、今春行なわれた「進歩論争」の一軸はそれと係わる問題である。また、それに劣らず重要なのは根本を問い詰めることである。盧武鉉大統領の個性や通商官僚達の一発主義のような偶発的な要素に還元されないためには、87年体制論の観点からアプローチーする必要がある。

 

 

 

87年民主化以後、私達の社会は軟性的な権威主義体制とも言える盧泰愚政府を経て民主政府に徐々に移行してきた。おおよそ以前の政府よりもっと穏健で改革的な政府が樹立され、どの政府であれそれぞれの傾向や支持基盤によって運動政治に基づいた民主化プロジェクトを統治可能な水準で制御すると同時に、財閥改革や経済システムの改良のような経済改革を推し進めてきた。しかし、発展国家の体制が崩れていった結果、自由の身になった社会勢力は、民主化が開いてくれた政治社会的空間の中に自らの陣地を築き、国家権力によってさえ制御されないものになった。

 

 

 

盧泰愚政府の時代は言うまでもなく、自由主義グループの執権時代でさえ、全体社会の統合に持て余したのは、先に指摘したように、一方では、87年の民主化への移行が文化革命と社会勢力の再編に欠けたものであったからである。他方では、自由主義グループが凝集力のあるヘゲモニーの掌握ができないまま、政治的持分を維持するために市民社会を地域主義で分割することに旧体制と利益関係を共にし、また政治的多数を形成するために旧体制と妥協し力を合わせたからであった。

 

 

 

旧体制勢力と自由主義グループの妥協による87年の憲法制定は、さらに状況を悪化させた。改憲に参加した二つの勢力は、どの候補が当選するか不確かな大統領の権限を弱める代わり、自分たちに一定の持分が保障される議会の権力を強化したのである。民主化以後、議会権力は、市民社会を地域主義で分割できれば、各勢力による分割占領が可能になった。国家権力を握った集団は、常に統制しにくい社会勢力ばかりではなく、扱いにくくまたは大統領の権限を相当無力化できる議会権力に直面している。

 

 

 

このような状況において大統領は自らの主導権を確立するために対外政策に目を向ける可能性が高かった。実際、民主化以後、すべての政府は内部改革または内部勢力の順治のために対外政策を利用し、その中心に常に南北関係の変形か金融及び通商政策の修正があった。このように民主化以後、すべての政府が対外政策を政府の核心的プロジェクトに置いた背景には、国際環境の変化も無関係ではない。いわゆる脱冷戦と新自由主義的グロバル化という87年体制をめぐる対外環境によって私達の社会は新しい選択を強いられた。

 

 

 

南北関係と金融及び通商という二つの領域の調整がどのような方向へ進むか、これは大統領の意志に左右されるものではなかった。対外政策の方向を決めるために国内勢力たちはそれぞれの政治的意思を投影し、南北関係は民主化プロジェクトによってまた金融通商政策は経済的自由化プロジェクトによって決められたのである。或者は盧泰愚政府の1991年の南北韓UN同時加入、1992年の南北基本関係合意書の採択などが民主化プロジェクトに起因するものではないとも言う。しかし、これまた林秀卿(イム・スキョン)と文益煥(ムン・イカン) 牧師の訪北に代表される統一運動に対応する受動革命的性格を持つものであり、結局、政策方向に民主化勢力の要求がかなり受け入れられたものであった。白樂晴 「南北合意書以後の統一運動」『分断体制の変革への勉学の道』創作と批評社、1994年参照。

 

 

 

これに比べて経済的自由化プロジェクトが保守勢力によって牽引されたのは、金泳三(キム・ヨンサム)政府の開放政策によく現われている。90年代初、逆プラザ合意によって3低好況が終わると、保守勢力の競争力強化言説は経済民主化言説を圧倒していき、この競争力強化論は急進的に対外開放政策を導くことになった。

 

 

 

しかし、この領域において大統領に主導権があることは同じく強調されなければならない。方向設定を除けば、情報や接近経路、交渉における裁量権や意志、また官僚の動員、国内政治と国際環境に対する状況判断などにおいて大統領に大きな自律権が与えられているからである。むしろこのような政策においてその実現の可否を決める要因は、さまざまな情勢の要素、または対外政策の対象になるパートナーの意志や要求にあり、それだけでなく偶然的な要因も介入したりする。例えば金泳三政府は南北首脳会談と経済開放を試みたが、金日成主席の死亡によって前者は結実を結ぶことができなかった。

 

 

 

このような対外政策は一旦現実化されると、非常に否可逆的な方法で私達の社会に影響を及ぼすという点が、重要である。盧泰愚政府の南北基本合意書の締結や金泳三政府のOECD加入、急進的開放政策、またその結果、外為危機によって受け入れた構造調整政策及び追加開放などがそれであり、民主化勢力の立場から見れば、87年体制の最高の成果であった6・15首脳会談も同じである。そこに盧武鉉政府の韓米FTA妥結を加えることができる。韓米FTAの場合、まだ国会の批准同意はないが、もし通ったらこれもやはり私達の社会を否可逆的に変化させるであろう。

 

 

 

対外政策の否可逆的な效果のために私達の社会を「97年体制」と呼ぶのも可能であり、同じく「6・15時代」と規定することもできる。私達はまさに97年体制と6・15時代を生きている。ところでこのように体制の変動を開いたのは87年体制と言うべきである。というのは、87年体制によって97年体制、または6・15時代が必然的に生まれたというわけではない。このような状況への移行したのは、全然不可欠なものではなかった。ただ、両者は87年体制の蓋然的な産物に含まれ、さまざまな蓋然的なものの中に実現されたものと言えよう。

 

 

6

 
 
先に言及したように、87年体制は別の体制へ移行するための分岐点に近い。民主化プロジェクトと経済的自由化プロジェクトの間の並存関係に限界が生じ、まだ微弱ではあるものの、この体制が持続する間、始終ヘゲモニーの勢力である改革的自由主義グループの外延と力は、伸びるところか深刻に解体されているからである。長い膠着状態はどのように終わり、新しいプロジェクトや新しい勢力連合がどのように形成されるかはまだ予測しがたいが、社会において完全に新しいものを創出できないことを念頭におけば、自由主義勢力の分解過程において民主化プロジェクトと新自由主義プロジェクトの間に真正面から衝突が起きる可能性もあるだろう。これは民主化プロジェクトを志向する集団にとって困惑なことである。なぜなら現在の状況において自由主義グループの弱化は民主化勢力の一歩前進へ繋がるどころか、民主化勢力の一歩後退に繋がる恐れがあるからである。おそらく今春の「進歩論争」が申し立てられた背景には、まさにこのようなアポリアがあったと言っても過言ではないだろう。

 

 

 

筆者は進歩論争によって重要な問題が提起されたにもかかわらず、その成果は明らかではない思う。進歩論争は進歩の概念をまとめることと、現在の民主主義の危機に対して代案を提示するという二つの部分に構成される。前者の場合、進歩の概念を正義するという試みに集中していたが、議論がその規範、価値体系の再構成や精錬の段階まで充分進めることができなかったのが残念である。冒頭の引用文で黄皙暎は87年体制に由来する現在の大統領選挙をめぐる枠組みが、一時しのぎの仮ものに過ぎないと言ったが、筆者にはむしろ彼が87年体制自体を仮のものに過ぎないと考えているように取られた。87年体制が「仮のもの」に過ぎないかどうかは、議論の余地があるが、その言葉のニュアンスに真の意味が込まれている。87年体制というのは、私達の社会の遠い未来、すなわち私達がどのような社会に生きることを願い、それはどのような価値体系によって規律される社会なのかについてじっくり議論したものではなかった。文化革命の欠けた87年体制の欠点を越えるために、進歩論争は規範と価値体系の精錬について、またより良い社会のイメージについてもっと深度のある議論をすべきである。

 

 

 

私達の社会が今、別の体制への移行期にあるなら、それは特に重要な問題である。それは不確実性や懐疑、恐怖を前にした移行期の谷間を通過する時に規範と価値体系は大事だからである。デカルト(Descartes)は森から逃れようとする者は、その方向を決め、その道にまっすぐに行かなければならないと言ったが、方向を決定する力は規範と価値から沸いてくるものである。またそれは不確実な成果に対する懐疑感を防ぎ、正しい事をしているという自負心を持たしてくれるものである。

 

 

 

より良い体制への移行のために、啓蒙や説得が必要であり、自らの持つ資源を戦略的に配分することも求られる。民主主義の退行を止め、一歩前進するためには行動方針が必要である。進歩論争のなかに三つの提案を見つけることができる。崔章集の政党体制革新論、 曺喜㫟 (ゾ・フィヨン)の社会運動活性化論、孫浩哲の反新自由主義連帯がそれである。このような提案は、金正勳(キム・ジョンフン)が指摘するように具体性や実現方法において物足りない。なかには強調したいあまり、バランスの欠けた提案も含まれている。ところが私達が代案を模索していくために必ず注意し、論点を明らかにしてくれた点がある。すると、進歩論争について「何の主張も生まなかった不妊の論争」であったという金正勳の評価は、冷たい言い方でありながらじつに苛酷である。金正勳 「何の主張も生まない不妊の論争」『レディアン』 2007年4月18日。

 

 

 

しかし崔章集と孫浩哲が彼らの議論において政治的多数化戦略と絶縁している点は問題として指摘すべきであろう。反ハンナラ党の戦線を構築するために努めたのが、「恐れの動員」に止まってしまうというのは、確かに憂慮すべき現象である。しかし、だからといって「政府が失敗したら入れ替るのが当然」という原則的な議論ばかり繰り返すのも、盧武鉉政府に参加した勢力全体を民主化勢力から切り離してしまい、戦略的に自己矮小化する恐れがある。崔章集インタビュー「[1987年その後、20年] 民主改革勢力はどこへ」『ハンギョレ』 2007年 1月22日。

 

 

 

孫浩哲はさらに「ハンナラ党執権の逆説的肯定性」を指摘しつつそれによって「韓国政治は短期的には後退するかも知れないが、中長期的には発展」できると言う。孫浩哲 「「恐ろしさの動員政治」を越えよう」『レディアン』2007年1月31日。

 

 

 

彼は他の文章でこの主張がハンナラ党の執権を当然視する敗北主義ではないと解明した。ところが、彼の言い訳を受け入れるにしてもこのような発言は問題である。確かに二歩前進(中長期的発展)のために一歩後退(短期的後退)が不可能なことではなく、非常に高い水準の合理性の実現であるかも知れない。しかし、そうするためには主体がそれを設計しなければならない。自らが設計し実行していないプログラムについて二歩前進のための一歩後退を云々することは、不作為を作為に装うことに過ぎないのである。

 

 

 

このように彼が主張するのは、保守派の執権が啓蒙的效果をもたらすと信じるからだが、そのような啓蒙的效果がどれほど生じるかわからないが、またそれが民衆の覚醒につながると見なすのも民衆への過度な信頼と言うべきだろう。外為危機以後、新自由主義政策の働きによって私達の社会構成員は保守化された。ところで、このような保守化はすべて民主政府によって新自由主義政策が遂行されたから生じたものだろうか。却って人々は新自由主義体制の中で新自由主義的に行動するようになり、またその行動ことによってそこに適した嗜好を発展させたからだと言えよう。彼の言う啓蒙的效果は可能なシナリオではあるが、その可能性が大きいとは言いがたい。政治的多数化の戦略が依然として必要であり、私達が現在まで接した改革的自由主義グループの選挙戦術とは全然異なったもの、すなわち新しい内容や価値体系に即したものであるというのが、大事である。白楽晴は最近、「変革的中道主義」を提唱したが、この主張にまだ具体性が足りないにしても現在、南韓民主主義の危機克服と分断体制の克服のために必要な政治的多数化に対する苦悩を盛り込んでいると思う。中道の「中」が的の真ん中を命中するという意味を念頭に置いたら、中道と言うのはただ左右派の真ん中を意味するのではなく、問題の核心を貫こうとするという積極的意味を持っている。その積極的意味が 「変革的」という修辞の中に盛り込まれていると言えよう。

 

 

 

7

 

 
87年体制がある種の一時しのぎの「仮の宿」なら、私達は新居を建てるべきであり、その時が近付いている。しかし、「仮の宿」も私達が雨宿りし、身を寄せた家である。したがって尊重されるべき体制であり、尊敬されるべき面も持っている。再び黄皙暎の言葉を借りてみよう。

 

 

 

産業化と民主化というような対等な価値評価は果して可能なのか。それは果たして対等なものになれるのか。民主主義は価値であり、産業化はただ手段にすぎない。私は形式の民主主義が成り立つ前、公式の場において愛国歌や国旗に対する礼を示したことがない。有名な話だが、第5共和国の時代、光化門の殺伐した国旗下降式の時、歩行人達がみんな凍りついて中央庁の太極旗に向かって立っていた時、私や詩人金芝河(キム・ジハ)、金正煥(キム・ゾンファン)三人は酔っ払って凍りついた人々の間で悠悠と歩いて行った。それは民主主義のみ尊厳を持ち国旗と愛国歌に対する礼をはらうことができたからである。黄皙暎 「「ゲトングポム」取らずに現実の巷に下りなさい!」, 『Oh My News』(http://www.ohmynews.com) 2007年2月5日。

 

 

 

 

 

今日、保守言論は常に南韓体制の優位を語る。そのような体制優位論のなかには、南韓が北朝鮮よりよい暮らしができるということでろう。しかしそれは二次的である。金持ちが貧しい人より尊厳でないように、南韓(大韓民国)がよい暮らしができるからと言って北朝鮮より尊敬されるべき国であるわけではない。保守言論は北朝鮮が劣れた体制である理由として独裁政治や凄まじい人権状況を上げる。このような保守言論の主張は間違っていない。民主主義と人権のない国は、当然尊敬受されない。ところで私達はいつから北朝鮮と違って民主主義や人権の生きる国になり、作家黄皙暎に尊重される国になったのか。わずか87年の民主化移行の以後のことである。87年以前の独裁時代、民主主義と人権が蹂躙された時代、そんなことありえないと知らない顔をしていた保守言論が、今、私達の体制が北朝鮮より優越であると格調ありげに指摘することができたのも、87年の民主化移行のおかげなのだ。87年体制に対する尊敬心を失わないこと、87年体制よって朴正煕や全斗煥政権時代に味わった自国に対する道徳的羞恥心から逃れるようになり、私達がそれを築いたという自負心を持つこと、それが新居を建てるために出かける時の心得であろう。

 

 

 

訳・洪善英

 

 

 

季刊 創作と批評 2007年 夏号(通卷136号)

 

2007年6月1日 発行

 

発行 株式会社 創批

 

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