特集 │ 対談 韓国の長篇小説の未来を開こう
崔元植(チェ・ウォンシク)文学評論家、仁荷大教授。著書に『文学の帰還』『生産的対話のために』『韓国近代小説史論』など。
徐栄彩(ソ・ヨンチェ)文学評論家、韓神大教授。著書に『文学の倫理』『愛の文法』『小説の運命』など。
とき: 2007年4月26日午後1時
ところ: 細橋(セギョ)研究所・会議室
徐栄彩 現在、生産されている新たな様相を示す小説は新しい可能性を示すのではないかと思います。現代は社会の中に跳びこみ、世の中を変化させることができる余地が著しく減少しています。作家は韓国の特殊な政治状況による文学的な後押しのないままに出発するので、むしろ多様な可能性と新たな想像の地平が開かれています。
崔元植 現在の韓国の長篇小説は二重の課題を抱えています。一方で19世紀的な古典的長篇を成就しておりながら、他方で古典を越え、現代性であっても脱現代性であっても、今日の時代を一括して把握して書かなければなりません。長篇小説の歴史は絶えず更新される歴史です。そのような点で今、新たな物語の枠が必要です。
徐栄彩 『創作と批評』の編集陣から、韓国長篇小説の現況と展望について考察してみようという話を頂き、意味ある作業だと思いました。今年2007年は大統領選挙が行われる年です。1987年の民主化運動からすでに20年が経ち、これまでに4人の大統領が変わりました。1987年を始発点としてみれば、文化的な情況はあのときから最低2度ほどの変曲点を経たのではないかと思います。ぴたりと合っているわけではありませんが10年くらいを単位にしてです。崔先生はサルトルを引用し、政治的不自由こそ文学には滋養であり得たという主旨のお話しもされました。87年以後に漸進的に実現した政治的自由が文学にはむしろ桎梏であり得るという話は、人々が90年代にかなりしましたし、私もまたしましたが、もはやあれからまた一定の時間が経過しています。1997年と2007年を比べると何がそれほど変わったのかと思ったりしますが、1987年と2007年を比べるとあまりにも多くのことが変わりました。代表的な例として最近、高等学校の第2外国語で履修者の多数を占めているのが中国語と日本語です。1977年は言うまでもなく1987年あたりでさえ圧倒的多数がドイツ語とフランス語でした。日本語や中国語の浮上が東アジア言説の側面で肯定的な面もありますが、もう一つの側面では現在の社会文化的な風土と関連しているのではないかと思われます。教養主義、あるいは教養の衰退と没落、また新自由主義として包括できる実用主義の台頭と規定できるでしょうか。このような趨勢を検討しながら韓国の長篇小説の現況や将来を見てみたらどうかと思います。
崔元植 2007年を1997年と比べて話してみると、私たちがいつの間にか21世紀を生きているということに今一度気付きますね。ですが今日の主題と関係して韓国に「創造的長篇の時代」が到来したかといえば、まだそのような時代にはなっていないという気もします。創造的長篇の時代といえば、きちんとした作品がたまにではなく持続的に出ること、言い換えれば長篇の作家らが縦に横に隊伍をなして読むに値する長篇を安定的に発表し続ける時代のことでしょう。そのような面で見れば、今、私たちがそのような長篇の時代の中にいるとは思えません。この点で現在、韓国の長篇小説がどのような地点に来ているのかを点検しながら、多くの変曲点の中で変化した地形の中でいかなる長篇が可能かを検討する作業が切実だと思います。
徐栄彩 創造的な長篇の時代はまだ到来していないと思いますね。いい時代はもったいないからとっておくというのもいいかもしれません。もう来てしまったと思うとむなしくなるからです(笑)。ですが、そのように考える根拠について、もう少しお話しし下さいませんか?
韓国長篇小説の二重の課題
崔元植 長篇小説が近代文学のチャンピオンだという事実は誰しも認めるところですが、長篇の時代というのは、その社会のモダニティの成熟如何を判別する、もっとも重要な指標の一つです。ですが、すぐれた長篇は近代(モダン)の申し子でありながら、同時に近代以後(ポストモダン)を含んだ物語ではありませんか。西欧または日本の近代を翻訳する移植の過程を通じて成立した韓国の近代は、植民地および南北分断という条件と衝突しながら血闘して来ました。その困難な条件の中でこれほどの規模の現代文学を創造してきた韓国の文学に敬意を表さざるを得ませんが、もう少し冷情な目で点検する時、韓国の長篇の歴史はまだ貧しいと思われます。長篇の時代、それも創造的長篇の時代の到来は、私たちにとって現時点における生きた実践的な課題だといえます。
そのような長篇の時代の出現を制約する諸条件を、韓国の小説に限定して考えると、第一に長い物語を作り出す伝統があまりありませんでした。近代以前も中国や日本は大作をかなり生み出しました。韓国の文学と体質は異なりますが、日本もかつて『源氏物語』を生み出したではありませんか。韓国の『春香伝』や『興夫伝』は量的な規模が小さいと思います。近代以降、中国や日本の長篇小説を読んでみると、私は彼らが持っている物語能力の伝統を実感します。長い物語を作り出す伝統の蓄積がさほど豊かでないという条件が韓国の近現代小説を制限しています。評論家の金東錫(キム・ドンソク/1913∼?)は小説家と会う時にまず体格を見たといいます。「偉大な小説的体力」――私が指針としている金東錫批評の核心的な言葉のうちの一つです。長篇作家は体力がよくなければなりません。バルザック(Balzac)のように図体が大きくなければですね(笑)。これには一理あります。小説的な体力の伝統のせいか、韓国は短篇小説ではいい作品がかなり出て、名作の行進が中断したことはないのに比して、長篇はそうではありません。
もう一つは物語の規模と連動した社会的な厚みです。人間に対する重厚な把握力は社会的な厚みから出るものですが、ある社会の上層―中問層―下層の全体を統括できる目が韓国の作家には少ないようです。韓国の小説は左派も右派も下層民をよく描きます。民衆文学に対抗する金東里(キム・ドンニ/1913∼95)も下層を生き生きとつかんでいます。ですが、むしろ支配層を描くことができません。知識人に対してもそうです。韓国の長篇ではそのことの方が一番大事な問題のようです。だから支配階級がかなり戯画化され、知識人がとても滑稽な形で登場します。社会全体の脈絡の中で人間を把握する能力の不足が長篇時代の出現を制約していると思います。
韓国の近代小説史を振り返ると、まず19世紀的な意味での近代小説(novel)を作り上げることが課題でした。ですが韓国の近代小説は20世紀を経験しました。ご存知のように20世紀の小説は19世紀のリアリズム長篇小説に対する挑戦です。それは二つの方向で成立しますが、その一つはモダニズムの脱構築で、他の一つは社会主義リアリズムの変革です。だから韓国の近代小説の作家は一方では19世紀的な長篇を成就させながら、他方では19世紀を越える20世紀の現在性を把握しなければならないという、二重の緊張の中にありました。二つの課題と同時に取り組まなければならないので本当に大変なことです。
韓国の近代小説史で重要な作品をみるとみな二重的です。韓国近代小説の真の嚆矢とされる廉想渉(ヨム・サンソプ/1897∼1963)の『万歳前』(1922∼24)〔邦訳あり〕もそうです。初めにこの作品を見て驚きました。妻が危篤との電報を受けるものの、カフェで女給たちと遊んだりしながら帰国を引き延ばす主人公の行動は、近代的というよりは現代的だったからです。母の死亡の知らせを聞いてもたもたしているムルソーに似ていました。だから私はカミュの『異邦人』の影響を受けたのではないかと思いましたが、もちろん『異邦人』はこれより後の作品ですよね。このように韓国の近代小説は、19世紀と20世紀の緊張を自らの中で真摯に対面させるという苦闘の中から出てきました。最近の作家はさらに困難な状況にあります。19世紀、20世紀、21世紀を一切合財みな引き受けて取り組まなければならないからです。
市場の申し子、長篇小説
徐栄彩 私は2007年の話をしたのですが、先生は19世紀、さらにさかのぼって『源氏物語』の時代まで言及されています(笑)。長篇あるいは長い物語の伝統が韓国に少ないとおっしゃいました。長篇小説、近代のノベルというものは、資本主義時代の産物であり近代芸術の代表走者ですが、それと美感が異なる時代の欠落に対して語るのは、少し他の次元の話ではないかと思います。たとえば性理学的な美意識の持つ素朴主義のような、韓・中・日の三国だけを見ても特に性理学的な世界像や美意識が支配した時期が韓国は少し長くなかっただろうかと思います。漢文伝奇小説のような場合でも、だらだらと長い話を書く必要があるだろうか、核心だけをついて書けばいいのではないかという、ある種の直観主義や本質主義、素朴主義もあるのではないでしょうか。その時代と現在の資本主義近代は少し違う話ではないかという気がします。
崔元植 もちろん性理学または儒教の問題もありますが、それよりは市場の問題が小説の発生・発展に決定的だったということです。韓国の小説が過去の時代にも相対的に貧困だったのは、市場が貧弱だったという点にあると思います。小説と市場はともに進みます。
徐栄彩 資本主義社会での話ですね?
崔元植 近代以後はもちろんのこと、前近代の時代でもそうです。市場に流れる流言飛語が小説の原始的形態ですから小説は市場で生まれたのです。単一言語、すなわち支配階級の言語を志向する詩というジャンルに比べ、小説の言語は多声的な言語で、その単一言語を脱構築して転覆する反乱の言語です。賎民的な起源を痕跡としてとどめた小説という周辺的ジャンルが、市場が支配する近代になって、詩の代わりに近代文学のチャンピオンにのしあがったのは一種の身分上昇です。しかし、近代以後もすぐれた小説は市場の申し子であったにもかかわらず、市場に批判的だったという点は記憶されなければなりません。とにかく小説、特に長篇小説の発達は近代以前以後を問わず市場の規模とおおよそ並行します。長篇時代の兆候を示した1930年代や韓国資本の規模が大きくなった最近、長篇が溢れるように出てくるのを見ても、長篇と市場は緊密な関係にあります。
徐栄彩 そのようにおっしゃれば話がより簡単になりそうです。伝統の問題、さきほど先生は社会的厚みという表現を使いましたが、その厚みという言葉の中に文化的資本や文化的・社会的成熟、経済的自由――このようなものがすべて一つのかたまりになっていると思います。そのような概念ならば多くの人々が同意できます。ですが、話が予想とはずれたようです。私が「教養主義の没落」といえば、先生が新自由主義の台頭だと相槌を打って下さると思っていました(笑)。最近でもいわゆる「文学の死」とか「文学の終焉」、文学だけではなく人文学全体を包括する危機の言説が生産されつづけています。そのような言説は少し大袈裟ではないかと思います。いつ文学が危機でなかった時があるでしょうか。常に危機だったのに、いまさらそのように語るのは、まるでヘーゲルがロマン主義をめぐって近代芸術の終焉を語ったのと似ているのではないかと思います。ロマン主義が近代芸術の頂点だというのは明らかですが、その中にはいくつもの変種があり変奏が可能なように、「文学の死」と言った時は、堅苦しい芸術としての文学の死、気楽な慰安としてのエンターテイメント商品と対立するという意味における文学の死、文学がこれ以上、啓蒙的なことや教導的なことができなくなったという程度の脈絡では受け入れることができます。しかし危機言説が過度に過大包装されて、現在、私たちの時代の文学に対する思慮なき批判になるならば、それは望ましくないと思います。
小説の危機は社会の危機
崔元植 私も同感です。流行のように広がった文学危機論が問題に正面から立ち向かっているようには思えません。ある意味では危機論を楽しむという感じもかなりしました。ですが、徐先生は今、教導的とおっしゃいましたが、文学の教導性というのはよく分かりません。それは低い段階での教導性であって偉大な文学は教導性などとは取引しません。「真理はそれ自体で力強い伝播力を持つ」という言葉は、偉大な文学にほとんどそのまま適用できるでしょう。韓国文学の危機論――その論調の底辺に流れているのは、すでに民族文学または民衆文学は終わったというものではないでしょうか。それを「文学の危機」だの「文学の死」だと言っているようです。独裁と戦いながら新たな時代を探求した70年代以降の韓国の小説の中心的な流れに終焉を宣言したいのです。
ですが現在、私たちの直面している状況はもう少し特別だと思います。格差社会が不断に意識されることから分かるように、最近、韓国社会はずいぶん変わったようです。韓国の諺に「畝が畝間となり、畝間が畝となる」(裕福な人が貧しくなり、貧しい人が裕福になる――天下は持ち回り)というのがあります。身分変動の可能性が比較的開かれている韓国社会をよく言い表した言葉です。身分制がはっきりしていた近代以前にも平等主義が根強い社会でした。それぞれの人生は平坦ではないですけれどもね(笑)。ですが、いま一度考えて見れば、天下が乱れていたからそうだったのであって、このような国が必ずしも悪いというわけではありません。朝鮮社会を形成した士大夫たちは農業にもとづく小さな国を理想としていたので、欲望を育てる市場を抑制し、だから長い物語も発達できませんでしたが、こう考えるとさきほどの徐先生の見解と通じます。なぜそのように長い物語が必要なのか、短い物語でがんばればいいのです。でもこれは儒教的なものと無関係ではありません。長く複雑な物語を消費する社会というのは、すでに欲望の規模が大きくなってしまった社会を前提としますから、発達といっても悪を含んだ発達です。とにかく韓国社会は悪を含んだ発達をとげ、その達成にはさきほど言った韓国社会の柔軟性が一役買いました。ですが、柔軟性が固定性に取ってかわる傾向が拡がり、もはや挑戦や克服と考えるよりも超越不可能な壁であると諦める傾向が目立ちます。一言でいって冒険が困難な社会になりました。
そのような点から見ると、最近の小説に社会性がないわけではありません。確かにこのような現象に対して怒るが、単なる怒りに堕す傾向、最初から諦めてしまう幻滅が最近の小説に強く存在します。格差社会というものに対して、このように固定した方がいいと考えるのならば文句もありませんが、克服されるべきだと考えるならば問題が生じます。現在の小説の危機は韓国社会の危機でもあります。偉大な文学、または偉大とまでは言わなくても真の文学、または真の小説ならば、このような現実をそのまま承認して終わってしまっては困ります。なぜならば現実と不和の関係でありながら現実を越える新たな領土を夢見るのが文学であり、そのなかでも特に長篇小説はそうだと思うからです。
「新たな中世」の到来とその主人公
徐栄彩 長篇小説が資本主義時代の代表的な物語形式であるという時、その核心にあるのは出世しようとする主人公たちの姿ではないかと思います。ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の本のタイトルでもありましたが、「新たな中世」という言葉が印象的でした。韓国社会ももはや財閥三世が主人になる時代になってきています。70年代が社会的な柔軟性や身分変動の可能性という面で非常に開放的な空間だったとすれば、80年代から90年代を通じて状況が非常に変わりました。金持ちはきれいな女性と結婚してハンサムな男の子を生んで、お金持ちでハンサムな男の子はもっときれいな女性と結婚してもっとハンサムな三世を生みます。三世の財閥会長候補はハンサムで品性もよく、文化的な教養に能力まである、それこそ新たな貴族が誕生しています。70年代ならば誰もがオファー業をやって財閥を夢見ることができました。そのようなものがテレビドラマのような大衆的な物語にも反映され、また小説にも反映されていますが、もはやそのような柔軟性や変動の可能性を夢見ることが困難な時代になっていくでしょう。エーコの脈絡とは無関係に「新たな中世」という言葉は、このような現象に対しても使えるのではないかと思います。
もしこのような形で社会的な柔軟性が大きく制限され、格差が大きくなって身分変動の可能性の幅が狭くなれば、まさに小説の主人公の原初的な姿ともいえる出世を夢見る人物、スタンダール(Stendhal)の『赤と黒』の主人公のように身分上昇を夢見て新たな理想社会を夢見る、いつもある種の変動を夢見る人物の幅が著しく狭くなり、長篇小説が当然生産するような物語の幅も狭くなるのではないかと思われます。かといって物語自体が消えるわけではありませんから、ルカーチ(Lukacs)の言った「道探し」としての小説、大人になったり出世したりすることを欲望する主人公の物語としての小説、このようなパラダイムだけが他の形で変化するだけではないか、新たな様相を示す小説はもう一つの可能性たちを示すのではないかという感じで、私は最近の長篇小説を見ています。社会の中に飛び込んで変えることのできる余地が著しく減少しているので、小部屋に閉じこもったり新たな世の中を空想したりする……だから情緒としては幻滅、ペーソス、小さな形態のユーモアのようなものなどが出るのではないかと思います。
崔元植 私はルカーチの影響を受けましたが、ルカーチ型の小説だけが唯一の答えだとは思いません。ルカーチの小説論にも四つの類型が出てくるじゃないですか。挑戦する主人公だけが出てくるわけではありません。変わった時代に変わった話が出るべきだというのは当然の話でしょう。21世紀をめぐって考える時、すでに申し上げたように韓国の長篇小説は二重または三重の課題を抱えています。そのような点で私は最近の作品は当然変貌するべきだと思います。昔のものの二番煎じならば退屈です。長篇小説の歴史とは新たな物語の提出の歴史です。新たな物語の枠が提示されるべきだということです。たとえば『万歳前』の画期性は、うんざりする三角関係の物語の枠から、旅行する主人公の道程と並行して当時の核心的な争点が討論されるという新たな物語の枠を提出した点にあります。そのような点で最近の文学が昔の物語の枠をそのまま繰り返したら、それこそ小説の死ですよ。
1930年代の小説論が今日語ること
ですが、さきほども申し上げたように、最近の小説が示すこのような幻滅を本格的な話題にするべきだということです。評論家がこのような現象に対してそのまま「死」だなどと気楽に語りながら密かに賛美したり、または過去のある観点から批判ばかりする形を越えて、議論を立ち上げられればと思います。そこで私は1930年代に議論された長篇小説論が重要だと思います。このような現象をめぐって作家や評論家らがみな議論し苦悩して新たな作品が続出した1930年代とは異なり、最近はこのような傾向に対する本格的な議論がないということが心配です。
実は1930年代も小説の危機の中で長篇小説の議論が本格化しました。1920年代はもちろん中盤にプロレタリア文学の挑発がなかったわけではありませんが、リアリズム小説が登場する道程でした。ですが世界大恐慌を母胎に生まれた1930年代に入り、(社会主義)リアリズムが動揺します。資本主義の全般的な危機の爆発のように見えた大恐慌が、世界革命ではなく資本の復活として帰結する逆転の中で、1930年代の小説は林和(イム・ファ/1908∼53)が鋭く診断したように李箱(イ・サン/1910∼37)の心理小説と朴泰遠(パク・テウォン/1909∼86)の世態小説に分裂します。言わんとすることと描こうとするもの、すなわち主観と客観の分離が明らかとなり、林和はその統一を志向する本格小説の建設を代案として提示します。私は林和の診断には同意しますが、その主張はあまりにも正統をいくものだったと思います。その点でむしろ金南天(キム・ナムチョン/1911∼53)の作業が重要のように思えます。彼はあらためてキリストを裏切ったユダを真剣に問題視することでマルクス主義自体を対象化します。林和と異なり金南天は、理論信仰として受け入れられたマルクス主義を信仰ではなく対決の対象として考えました。1930年代の林和も教祖主義者では決してありませんが、結局、思想の冒険を最後まで突き詰めることができなかったという点で、金南天の作業の方が重要だと思います。
徐栄彩 金南天ならば、自己告発、自己批判のようなもの、作家自らの自省を促すことが重要だというお話しでしょうか?
崔元植 単なる自己反省だけではなく、核心は信仰のように受け入れたマルクス主義自体を、最近の言葉でいえば脱構築までしようという面が金南天にはありました。だから1930年代のさまざまな理論作業がこれらとかみ合いながら多様な小説論が議論され、それにもとづいた新たな長篇が実験されました。ですが残念なのは、30年代のこのような理論的努力とそれに呼応する創作的実践が、1945年8月の「解放」という条件の中で政治に絡め取られて消えてしまったという点です。30年代の苦闘の中で探求された理論的模索や小説的実験が一挙に無に帰したのですが、そのことの方が残念です。
韓国社会はそういうことが問題です。急襲する政治のためにすべての重要な萌芽が消えてしまうんです。それが再び復元され始めたのが、李承晩大統領を打倒した1960年の四月革命でした。ですが70年代はすぐに長篇小説が登場するという具合にはなりませんでした。その代わりに数々の中篇小説が登場したという点が面白いと思います。短篇中心から中篇へと小説の主流が傾いていく一方で、同一のモチーフや人物を異なる短篇の連鎖で展開させていく、いわゆる「連作小説」というジャンルも登場しました。黄皙暎(ファン・ソギョン/1943∼)の「客地」や「韓氏年代記」のような中篇〔邦訳あり〕、李文求(イ・ムング/1941∼2003)の『冠村隨筆』、趙世煕(チョ・セヒ/1942∼)の『こびとが打ち上げた小さなボール』〔邦訳あり〕のような連作小説です。長篇へと移行する小説的な体力を回復する中間的な段階が70年代という時代でした。80年代はカップ(KAPF)が一世を風靡した1920年代後半、あるいは1945年の解放直後に似ているような気がします。1980年5月の光州民主化抗争を圧殺した新軍部の登場とともに革命的ロマン主義が韓国文学を席捲し、それがまた進歩的な文学を統御するようになりましたが、そのことで70年代の新たな実験的萌芽がきちんと実を結んだようには思えません。当時の雰囲気を示すエピソードがあります。日本の知識人が日本はマルクス主義が往時の勢いを失っているのに韓国でずいぶんと盛んだと聞いて驚き、これは何かあるようだと思って見てみたら、その実際がほとんどがパンフレットマルクス主義、教理問答式のマルクス主義だったことを知ってもう一度驚いたと言います。
徐栄彩 たとえば金英夏(キム・ヨンハ)の近作の長篇『光の帝国』がそのようなことを扱っていますね。
崔元植 よく考えてみると、80年代を席捲した革命的ロマン主義というのは一方では脱構築的な役割も果たしていました。『創作と批評』や『文学と知性』という季刊誌、70年代文学という父親を新軍部が抹殺しながら、「民衆文学」の名で脱中心的な脱構築が作動しはじめたという感じもします。新軍部政権は政治的には抑圧的でしたが、生活世界では夜間通行禁止を解除することなどに代表されるように様々な解禁を断行しました。全斗煥(チョン・ドゥファン)が好き好んでそうしたのではなく、そうせざるを得なかったからだという点を記憶しておかなければなりませんが。朴正煕(パク・チョンヒ)時代の経済的成功で生活世界の再組織が不可避な時点に到逹し、これ以上、旧時代的な統制が不可能な時が来たのです。日常の革命が起きた時代です。カラーテレビを買うか買わないか悩んだことが思い出されます。カラーテレビを買うことが全斗煥を承認することになる時代だったんです(笑)。80年代の政治的急進主義の表皮をはがすと、生活世界の革命的変化に連動する文化熱のようなものが煮えたぎっていたのではないかと思います。にもかかわらず、80年代はもちろん90年代も民主化が問題だった時期だったので、文学でも二重の課題に対する緊張がありました。ですが改革政府の連続がむしろ政治的幻滅を深化させるような反語的状況の中で、韓国の長篇小説が、急進主義の帰結が手を打ちやすい諦念に傾斜する傾向として定着したのではないかと思います。
徐栄彩 1930年代から80年代、90年代まで「進歩的文学」のことを中心にお話しになりました。30年代だけをみても、金南天、林和、崔載瑞(チェ・ジェソ/1908∼64)らがどのように新たな長篇が可能かと議論している時にも作家らはずっと書き続けていました。このような議論をするのもそれなりに重要ですが、それと関係なくただ私は書くという姿勢に、言ってみれば廉想渉的な姿勢で書いていくことも重要ではないかと思います。
崔元植 廉想渉はただ何となく書いた人ではありませんよ。彼はモダニティに忠実でありながらも現代性、すなわち自分が根を下ろしている当時の社会と、絶えず疏通しようと考えていた真の小説家です。
徐栄彩 プロですね。
崔元植 小説家は他人の言葉をそのまま信じてはいけないんです。どのようなことでも自分が独自に対決せずしては自分のものにしない作家が本当の小説家です。詩人は監獄へ行っても小説家たちは行かないんです(笑)。韓国が横歩・廉想渉のような作家を持っていたというのは本当に幸運です。彼は中間派に徹底しましたが、おそらく韓国の作家の中でマルクス主義に対する理解がもっとも深かったと思います。ですが、モダニズムに対してはそうではなかったようです。
徐栄彩 感受性が違うということですか?
崔元植 社会主義は絶えず意識するのですが、モダニズムに対しては無関心です。モダニズムの洗礼をあまり受けていないのが廉想渉の限界かもしれません。リアリズム長篇小説に対する二つの挑戦において廉想渉は一方が弱かったんです。二つの挑戦に両方とも応戦していたらさらにすごい長篇を書くことができたかもしれません。
最近の長篇小説のいくつかの流れ
徐栄彩 このように整理することもできます。幻滅の色彩が色濃かった時期は90年代の中盤くらいまででしたが、そこに新たな流れとして現われるのが、尹大寧(ユン・デニョン)、申京淑(シン・ギョンスク)、殷煕耕(ウン・ヒギョン)、蔣正一(チャン・ジョンイル)のような作家ではなかったかと思います。80年代までは新たな世の中を作ろうというパトスがとても大きく、どのような形であれそれを直接、小説として表現したり、あるいは迂回してもそちらの方が中心的な動力として存在したとすれば、90年代はそれとは反対の極に行きました。それを広い意味で幻滅の情調と言えるかもしれません。90年代中盤以降は新たな流れが現われ、その延長にある最近の若い作家らによってそれが明らかになっています。それがおそらく新たな変曲点ではないかと思います。幻滅がとても重く、また独自の真摯さを持っているとするならば、そこからさらにもう少し飛び越えているのが、最近の小説的傾向ではないかと思います。
この新たな傾向をさらに大きく三つほどに整理できるのではないかと思います。まず90年代の情緒とは少し異なる流れを示す「新たな時代の感受性」ともいえる作品があります。朴玟奎(パク・ミンギュ)の『ピンポン』、チョン・ミョングァンの『鯨』、チョ・ハヒョンの『キメラの朝』、キム・オンスの『キャビネット』のような作品を例としてあげることができます。そしてもう一つは、ポスト冷戦時代といわれる社会的・歴史的な世相を反映する小説、金英夏(キム・ヨンハ)の『光の帝国』、姜英淑(カン・ヨンスク)の『リナ』、千雲寧(チォン・ウニョン)の『さよなら、サーカス』のような作品があります。そして三つ目の流れとしては、重要な社会的メッセージ、つまり「文学の死」という時にもっとも核心的なのが社会性の喪失ではないかと思いますが、いずれにせよ単純なエンターテイメントだけではなく、ある種の社会的メッセージを持ちながらも、また同時に読者の方も逃さないという態度を示す一群の小説があります。孔枝泳(コン・ジヨン)の『私たちの幸せな時間』、パク・ヒョノクの『妻が結婚した』、鄭梨賢(チョン・イヒョン)の『蜜より甘い私の都市』などがそのような例ではないかと思います。
そしてこのような流れとは別に、新たなスタイルの歴史小説が台頭してきたことも、私たちのこの時代を語ることができる重要な指標ではないかと思います。これまでの歴史小説を見ると大きく二つの流れがあると思います。一つはいわゆる「史談」の類で、歴史自体の興味を示す小説があり、もう一つは作家自身の理念や歴史に対する展望が逆に透視され、比喩的に、あるいはアレゴリー的に物語を作り出すものもありました。これに比べて最近登場した新たなスタイルの歴史小説は、このような二つの流れとは異なる様相を示しています。金薫(キム・フン)の『刀の歌』からはじまり、黄皙暎の『沈清』、金英夏の『黒い華』、成碩済(ソン・ソクチェ)の『人間の力』などがあり、金衍洙(キム・ヨンス)や申京淑まで、このような流れに合流しています。おそらくニューエイジの歴史小説と言えるでしょうが、歴史がもはや理念や興味のレベルではなく、互いに異なるスタイルの個性や想像力のレベルにおいて、美的なものに専有されていることが興味深く感じられます。このような流れをめぐって具体的なお話しをしたいと思います。
この対談を準備する過程で、金英夏の『光の帝国』、朴玟奎の『ピンポン』、鄭梨賢の『密より甘い私の都市』の三つの作品を主に議論しようと思って整理してきました。まず『光の帝国』について、先生はどのようにお読みになりましたか?
崔元植 金英夏の前作『黒い華』につづいて『光の帝国』も面白く読みました。あれほどの規模の小説で始めから終わりまで緊張をひとしく維持した点を高く評価します。忘れられたスパイのキム・ギヨンが北から帰還命令を受けた後に起こった一日の間のことを描いたこの小説は韓国版『ユリシーズ』です。一見リアルな小説技法に忠実に従っていますが、実はそうではありません。詳細な部分を精緻に再現することで再現自体を疑う、再現された現実こそ幻影にすぎないということをそれとなく喚起する、独特の物語戦略を駆使しています。その点で新しいのですが、タイトルの『光の帝国』が示すように、ルネ・マグリット(Rene Magritte)の作業と呼応するもので、さほど唐突さを感じることもありませんでした。
韓半島というマトリックスの変化可能性
このような観点で南北の現実を脱構築するのは面白いですね。二重生活をしているスパイ、またはスパイを幻影的な存在として把握しているので、それらしく感じます。南に派遣される工作員たちを教育するために、平壌(ピョンヤン)の地下に作った巨大な「韓国街」の話や、映画や歌曲の大好きな金正日(キム・ジョンイル)が北朝鮮全体を映画のセットにしてしまったという指摘など、作家は北朝鮮や北朝鮮の人びとを脱構築しています。韓国も例外ではありません。江南(カンナム)〔ソウル市南部の新興地域〕を巨大なコンクリートの怪物だと指摘するところで、作家は韓国も実は資本で作られた圧倒的幻影にすぎないというメッセージを伝えています。この世の中というものが堅固であると信じて疑わない現実というのが幻影であり、そこに暮らす人々も幽霊的な存在であるということを強く喚起しています。マトリックスですね。ですが、作家が仏教を登場させているところが興味深いです。「我相」、つまり「私」という相がまったくの虚無であるという「空観」と関連づけています。ここで残念だったのは、仏教的な思惟が至極の境地にまで行っていないという点です。人々ははじめに「色界」、つまり目に見える物質的現実をそのまま受け入れる世の境地に縛られます。その色が実は空いているのだという悟り、すなわち「空観」に透徹すれば、その次に「出世間」の境地に進むのですが、この作品はそこでとどまっています。その次の段階である「出出世間」の境地、「色即是空」にまで進んでいないんです。世間の誘惑とその誘惑を否定する空観の間の緊張だけがあり、さらに一段階跳躍する境地が足りません。だから一見、南北分断の問題を扱ってはいますが、分断にかこつけて実はそらぞらしい存在論的な問いを弄している作品だと思います。統一交響曲で結末を結ぶのではなく、統合の可能性に絶望しながら亀裂を越える苦闘が見えません。
この小説が資本主義の日常に復帰することで終わっているのは象徴的です。「ヒョンミは(……)全身をよじらせながら伸びをした。気分がずっとすっきりし、身体の奥深いところでほとばしるような強烈な力を感じた。心配するな。なんでもうまくいく」(391頁)。その娘の独白は、ゴリオ爺さん(Goriot)を埋めて霧のかかったパリ市内を眺めながら、ラスティニャック(Rastignac)が「今度はパリよ、おまえと私が対決しなければならない」というバルザックの小説の最後の部分を連想させますが、その希望のメッセージは小説を終わらせるための布石であって、小説的脈絡の自然な帰結によるものではないと思います。つまり唐突な感じはしますが、実はそうではないこの作品は、最近の小説の困難な状況をよく示しています。「マトリックス」、ルネ・マグリット、「スパイ、リ・チョルジン」、仏教まで動員されているこの長篇は、彼が脱構築の戦略を駆使しているにもかかわらず、その幻影の現実がなかなか変化しないだろうという諦めを示しています。作品の随所にうごめく幻滅は最近の小説を侵食している怪物です。
徐栄彩 この作品には三つの視線が並置されています。スパイの視線と妻の目、娘の視線が並んでいます。丸一日の間、人ひとりの存在がほとんどひっくり返るような出来事があったのに、従来は何もなかったかのように、娘の視線で見るならば、父親と母親が夫婦喧嘩でもしたかもしれないという程度で終わってしまうんです。さまざまな脈絡で指摘できる点が多いように思います。
まず第一に、この小説はアップグレードされた後日談小説〔80年代の学生運動世代が90年代に自らの過去を回顧するように書いた作品〕ではないかと思いました。北できちんと主体思想(チュチェササン)教育を受けたスパイがやって来て、新しく韓国式の主思派(チュサパ)教育を受けるアイロニーと逆説が底辺にあって、もはや南北分断という状況が、形式的にはまだ分断状況にありますが、実質的には問題にならない、そのような現実が到来しているのだという点が浮き彫りにされています。主人公のスパイが地下鉄の車両の中で、北朝鮮を脱出して韓国にやって来た小学校の同窓生と偶然に会うというところもありますが、このような部分にもリアリティーが感じられました。ああ、そういうこともあるだろうなという具合にです。もはや実質的には南北分断が問題にならない時代になってしまったということです。そしてもう一つは、この小説が表面的には帰還命令を受けた哀れな定着スパイの物語で、そのようなスパイの物語自体は「スパイ、リ・チョルジン」に似ている部分があったでしょうから、それ自体として新しいとは言えません。さきほど崔先生も「存在論的」という表現を使いましたが、つまりこの小説を貫いているのは、まるで時限付の人生の宣告をされた一人の人間が、自らの40年を越える人生を回顧する視点のようなものではないかと思います。そのような視点が与える冷たさが小説の裏面に流れています。そのような部分も本当に面白く思いました。また、にもかかわらず世の中は世の中で不動のまま残っているだろうし、またよくなるだろうと考える視線、存在の転覆感を経験するスパイと妻の外側にある、彼らの娘の目や作品全体に漂う感じともいえる、そのような視線の存在が興味深かったです。そのようなもののどこが重要なのだ、大切なのは日常であって、これから進まなければならない道が残っているだけだ、というふうに終わることに対してもかなり共感できました。素材的な面で80年代ならば考えられなかった、90年代にもまともに受け入れるのが困難だったような物語が展開されているという点でも、この作品の価値を評価できるのではないかと思います。
またこのような脈絡においてならば、北朝鮮を脱出した女の子が、具体的な地名は明かされていませんが、タイや中国のようなところで苦労させられる話を取り上げた姜英淑の『リナ』のような長篇や、中国の延辺(ヨンビョン)から韓国に嫁いできて悲劇的な運命にあう女性を扱った千雲寧の『さよなら、サーカス』のような小説も、同じようなことが言えるのではないかと思いますが、このような小説がおそらく2000年代の小説の新たな物語的地平を一つ示していると思います。
ここで朴玟奎の『ピンポン』も一緒に論じてみてはいかがでしょう。朴玟奎は真の「怪物」のような作家ですが、『ピンポン』という小説はいじめの話ですよね。先日、アメリカで銃の乱射事件がありました。そのせいか対談のためにもう一度読みながら、この小説がより新しい感覚として迫ってきたんです。先生はどのようにお読みになりましたか?
崔元植 徐先生からお話しになって下さい(笑)。
救援の可能性を探る軽快な想像
徐栄彩 私はもちろん面白く読みました(笑)。金英夏の『光の帝国』に出てくる娘の視線は幻滅的な情緒の重さを免れています。何も分からない子供だから当然ですね。三分の一ではありますが、要はそのような視線を配置した作家の考えが重要ではないかと思います。幻滅がないから冷笑のようなものも存在しにくいのですが、最近、私が読んだある評論では『ピンポン』の冷笑は少し度がすぎる、このようなものは問題だといっていました。でも、そのように考えるのは少し度がすぎるのではないかと思います。冷笑というよりは濃厚なペーソスと言うべきではないでしょうか。人類代表とピンポンをして、結果によってこれまで人類を発生させたプログラムをアンインストールすることもできるという、荒唐無稽の話をリアルに物語的に紐解いていく、そのような類型の小説が持つ溌剌さや身軽さのようなものが、新たな感受性といえるのではないかと思います。このような感受性を基盤とした小説が、『ピンポン』だけではなく、チョン・ミョングァンの『鯨』やチョ・ハヒョンの『キメラの朝』、最近出たキム・オンスの『キャビネット』などではないかと思いますが、そのような点が私には興味深かったです。
崔元植 私も興味深く読みました。金英夏の『光の帝国』が表面的には写実的な技法に忠実に見えるのに比べれば、朴玟奎の『ピンポン』はあからさまに写実主義的な規律から自由になっています。ですが、この作品は表面的には冷笑的のようで中身はとても真摯です。『光の帝国』に資本主義の厳しさを悟ってその世界に喜んで投降したというような部分が出てきます。『ピンポン』は世の中を動かしているのは2%の人間だと言います。大衆とエリートの分離がすでに固定化したこのような世界の変更が可能なのだろうか――この作品はその問題を執拗に思惟します。卓球も卓球界も「ラリー(rally)」という店を通じて救援の可能性を実験しますが、救援の不可能性に対するきわめて冷たい諦念だけではないようです。
昨年、康棟皓(カン・ドンホ)という大山(テサン)大学文学賞の評論賞を受賞した若い評論家が面白い指摘をしていました。朴玟奎の小説でははじめに二人が主人公だといいます。卓球を対話として考える部分や、セクラテンという人物がやっている「ラリー」もやはり何か新たな社会の構想です。この作品がこれまでの朴玟奎の小説とは異なる新たな社会性、または新たな企画に向けて動いているという点を評価したいと思います。そうではありますが、この作品にあるジョン・メイソンの「放射能タコ」という作中小説は少し不適切です。小説の裏表紙にある白楽晴(ペク・ナクチョン)の指摘が面白いですね。「筋書だけでつながっている作品でもなければ、筋書を離れて饒舌だけで進行する小説でもない」。この小説は確かに筋書を重視する伝統的なリアリズムを解体していますが、全体的に見れば筋書がまったくないわけでもありません。でも結局は話術が筋書に勝っている小説です。筋書の小説に戻れと注文することもできますが、そのように注文したからといって、そうはならないでしょうし、それがまた韓国の小説の新しさを開拓することだとも思いません。ですが、このようなことは考えます。この作家がこのような形で次の小説を書けるだろうか、そのように考えると結局は話術と筋書の亀裂に相対しながら、この時代の韓国社会にふさわしい新たな物語を作り出さなければならないのではないか。新たな物語を作るということは、救援の可能性を、救援の問題を新たに構成できるかどうかという問題と関連するという気がします。
徐栄彩 金英夏のスパイが結局、韓国を抜け出すことができなかったように、『ピンポン』を読みながら感情移入してしまって切なかったのは、いじめられる二人の中学生が殴られつづけて、むしろ殴られるのを楽しむように学校暴力から逃れられない状態を小説が終わるまで終始一貫させているということ、ただハンマーで叩かれる釘のように終始一貫しているということでした。これは大きな枠でいうならば現実的情況に対する反映ではないかと思います。もしそこから抜け出す英雄になったり、困難な状況に陷った定着スパイが第三の新たな可能性を見出して新たな世界を示したりするのは、つまり小説ではなく叙事詩的な幻覚ではないかと思います。格差社会が固着化したり韓国の社会身分の変動の弾力性が少なくなっているとさきほど言ったことのような脈絡です。
長篇小説が持つ二つの要所があるとすれば、その一つは物語の肉体をどこから引っぱってくるのかという説得力あるディテールの問題であり、もう一つは物語の大きな枠を作り出す力の問題でしょうが、後者はおそらく世界観の次元ではないかと思います。このような側面で見ると『ピンポン』の物語的な肉体は学校暴力の問題であり、その殴られる物語が本当に痛ましいんです。こんなにまで殴られなければならないのなら、そろそろ少しやめさせられないかという感じがするほどです。ここまでがディテールのレベルならば、それではどうすべきか、このような問いに答えるのが世界観の問題です。
ですが、『光の帝国』もそうですし、『ピンポン』もそうですが、取り扱う素材に比べて雰囲気がかなり軽いです。暗く悪どくつらいというよりは、さわやかな方に近く、ある部分では明朗でさえあります。マゾヒズムの活気が感じられるほどです。あまりにも殴られた、本当に痛かったというような被虐的なユーモアすら発揮されているのですが、その底流にある濃厚なペーソスが、結局は格差社会の固定化していく韓国社会の実際に対する反映ではないかと思います。どのように次の世界に進むべきかということに対する答えは留保し、問いに対する探索のダイナミズムすらそうたやすく見つからないという、作家の濃厚なペーソスが滲んでいるのです。金英夏は金英夏なりに、朴玟奎は朴玟奎なりにです。つまりそのような運命とともに、かと言って絶望して幻滅の雰囲気の中に閉じこもっているわけにもいかず、だからそのような力とともに愉快にダンスを踊る、そのような小説が『ピンポン』だと思います。私が作家の立場だったとしても結論はこの程度が最善ではないかと思います。さっと世の中を完全にひっくり返しましょう――そういうことが不可能だとあまりにもよく分かっているために、世の中をアンインストールするという空想をこの程度仄めかしながら現実とダンスするのが、現在の長篇の現実ではないか思います。そのような点で私は二つの作品をともに面白く読みました。
崔元植 私もその部分はものすごい成果だと思います。ですが、モアイは金持ちの子供じゃないですか。モッは貧しい家の子供ですし。その組み合わせが面白いです。トム・ソーヤ(Tom Sawyer)とハックルベリー・フィン(Huckleberry Finn)の結み合わせを思い起こさせるモアイとモッの組み合わせは、『こびとの打ち上げた小さなボール』の雰囲気と重なりますが、何かこの作家が新たな地点に来ているという感じがします。次作が気になります。
社会的モラルを問う小説
徐栄彩 『ピンポン』を読みながらもう一つ面白かったのは、最低1990年代の中盤までは小説がいわゆる教養的な読み物として、あるいは青少年のための哲学や歴史の教科書として、社会性を喚起し問題を提起する役割をして来ました。今も依然としてこのような役割は非常に重要だと思います。実際に文学教育の現場で本を勧めたり読ませたりする時は、単に面白い物語ではだめで、何か意味のある物語だと言ってやらなければなりません。つまり朴玟奎が鋭いのは学校暴力というテーマを引っ張ってきたというところではないかと思います。そのような面で見るならば、韓国社会が持つさまざまな具体的な問題に対する形象化、現行システムの変革可能性を夢見るよりは、その中に存在するマイノリティーの問題を提起するのもそれなりの意味を持つだろうし、このような側面から見るならば、読者を度外視せずに、他方では社会的に申立てをすることができる、主題意識やメッセージの側面も失わないということが重要ではないかと思います。
鄭梨賢の『密より甘い私の都市』やパク・ヒョノクの『妻が結婚した』のような作品も、単なる世態小説ではなく、社会的モラルの問題を提起している作品と言えますし、孔枝泳の『私たちの幸せな時間』のように死刑制度廃止のような社会的問題を提起しながらも、他方で読者とともに進むという側面で物語的な興味や感動のドラマを逃さない傾向も重要ではないかと思います。このような脈絡から『密より甘い私の都市』のような作品を見ることもできると思います。
崔元植 とは言っても『ピンポン』は単にマイノリティーの問題だけではないと思います。学校暴力を通じて現在の世の中の頑強さを、卓球を通じて新たな世の中の可能性を葬っているではないですか。学校暴力や卓球という小さな素材で世界全体に対する解釈可能性を暗示しています。いい小説というのはもっとも卑賎な現実の中でももっとも高潔な人間的真理をくみ上げるじゃないですか。きわめて日常的なこと、きわめて取るに足りないことの中で、新たな世の中も見出されるからです。いくら時代が変わっても、すぐれた作品が指摘している地点は共有しているという気がします。
鄭梨賢の『密より甘い私の都市』を読む前には、この小説にとても破格的な何かがあるのではないかと思っていました。ですが意外にも非常に親しみやすい小説ですね。今回、話題にした三つの長篇も、概してその新しさというものが少し誇張されているのではないかという気がします。もちろん新しいけれども前の時代と完全に断絶しているようではなく、特に『密より甘い私の都市』は小説技法においては伝統的なリアリズムの規律にもっとも近い小説のように思えます。扱っている主題も結局は恋愛、結婚、家族という問題です。おなじみの構図です。朴婉緒(パク・ワンソ)の長篇『ゆらめく午後』が三人の娘の話ならば、この作品は三人の女子中学校の同窓の話ですから相通じています。
都市的感受性の中に存在する迂回の戦術
もちろん新たな面もあります。若い女性の恋愛と結婚の困難を通じて、煉獄のような都市的なライフスタイルにとらわれた若者の生態がとても鮮やかに出ています。煉獄に喜んで跳びこもうとする都市的なライフスタイルの魔性、その拒否できない魅力、都市的な冒険が身についた彼らは、はたしてその魔性から免れることができるだろうか――作家はそのような問題を指摘しています。そう簡単ではない主題ですが、結末はこの楽しいけれどもうんざりする冒険を長く続けるしかないというものです。
ですが、ウンスの結婚相手であるキム・ヨンスの設定がとあまりに作為的でした。結婚をさせないようにした設定だったからでしょう。朴景利(パク・キョンニ)の大河小説『土地』を見ると正常な夫婦が一人もいません。そのように作家・鄭梨賢は意図的にある種の結末を作り、キム・ヨンスを作為的に設定していますが、その部分に無理がありました。だから結局みな結婚で自由になった三人の女性が意味もなく大騒ぎする最後の章になると、単に明朗な小説のようになってしまっていて残念です。結婚や家族という問題をこのように回避しては困るという気がします。大雑把にいえば正面から対立すべきだということです。もちろんいい世の中には家族が存在しないというじゃないですか。家族が私有財産の起源だという点で理想社会には結婚もなく、だから家族もありません。ですが、そうなる前には結婚や家族という問題を回避できません。家族の代案的形態はどのようなものであり、どのような結婚を夢見ることができるかという問題に本当に向き合って悩むべきではないでしょうか。
徐栄彩 作品の中に存在するある種の回避の地点についてお話しになりましたが、そのことについては私も共感します。私はこの作品を一気に読みました。読んでみるとまた少し感情移入して、主人公がいいパートナーといい結婚をして、いい人生を送れたらいいと思いました。三つの選択オプションがあります。将来性はないけれどもロマンチックな年下の恋人。オ・ウンスのような頭のいい主人公なら絶対につかまえないでしょう。次はいつもそばにいるけれども決してパートナーになることはなく、ただの友達のような男。そして少し感覚が遅れているけれども本当にいいパートナー候補のキム・ヨンス。ですが、ずっと伏線がありました。何か少し変な人だという伏線です。だから私はキム・ヨンスがゲイではないかと思いました。最後の方で、ものすごい前科を持っているために名前を変えて社会生活を送る非適格人間であることが分かりましたが、その点が少し不自然だという点には私も同感です。
ですが面白いのは、この小説と似たような発想を持っていると思われるパク・ヒョノクの『妻が結婚した』や、あるいは孔枝泳の『私たちの幸せな時間』のような作品も、ある種の回避の地点を持っているということでした。芸術としての小説ならば読者に負担をかけなければなりません。ですが読者に負担をかけるというのは、問題の核心に正面から突入する方式であるはずなのですが、そのような方式をとろうとするならば、物語のある種の均衡感覚を壊さなければなりません。『私たちの幸せな時間』の場合、死刑宣告を受けた囚人が出てきますが、もし芸術としての小説、人に負担をかける小説なら、悪の根源に対して、私たちが理解できない絶対的他者として存在する、だから死刑で隔離せざるを得ない、ある種の悪の根源に対して追及しなければならないんです。悪の根源が何か、私は実はそれが気になっていたんです。ですが作家は迂回する道を選択します。この人が死刑囚になったのは個人的な事情があったからだ、その事情は誰もが理解できることだ、つまり悪いことをしていて改心し、結婚したけれども妻が姙娠中毒症だ、手術費が必要だった、それで最後の一回のつもりでやって事故が起きたのだ、というふうに処理されています。小説を読みながら私が望んでいるのはこのようなことではないと思いましたが、小説の大きな仕組みから見れば、たとえば死刑制廃止というテーマをめぐって言うならば、もっとも核心的なのは誤った判決の可能性という問題でしょうし、読者にももっとも説得力のある話になるでしょう。どのような形であっても一人の人間を殺す権利があるのかということはもう少し本源的な問題です。さらに本質に入って行くならば、悪とは何か、私たちが絶対的他者として規定している悪というのは何かという段階まで行くはずで、この段階まで行ったらすごいと思います。ですが孔枝泳はそこまで行きません。またパク・ヒョノクの『妻が結婚した』でも、ある女と二人の男の新たな結婚関係を提示していますが、これがいかに韓国社会で可能かという反問にぶつかります。結局、小説では海外に移民するんです。回避してしまったんですね。
鄭梨賢の小説も似ています。30歳を超えた、なんとなく職場に勤める女性が結婚をするならば、キム・ヨンスのような男がそれでも無難なパートナーでしょうが、ここで結婚と家族のモラルを本源的に問題視するならば実はこれも違いますよね。他の形で処理をしないといけません。そうせざるを得ないというのがこのような小説の限界ではないでしょうか。つまりそのような回避の地点が存在せざるを得ないのは、読者と目の高さを合わせて社会的に再び考えるべき問題を喚起し、そのような形のメッセージを伝えようとする小説に本源的に付与された、一種のジャンル的限界ではないかと思います。
作家と読者、拮抗する同伴者
崔元植 最近の作家は、読者を奪われているからか、読者をとても意識するようです。ジャンルの規律も規律ですが、読者を意識することからくる制限もあるようです。
徐栄彩 プロの作家なら当然そうするべきだと思います。芸術家ならば自分がしたい話をするのですが、もしプロの語り手ならば、自分がしたい話よりは読者が望む話を、その水準と層位は多様ですが、どのようなレベルの読者がどのようなレベルで望んでいるかを意識すべきでしょう。ある程度までは読者の目の高さに気を使い、彼らに合わせながら話をするのも重要ではないかと思います。読者の要求というのは社会の要求でもありますから。
崔元植 もちろん当然そうするべきですが、現実の読者に合わせることが小説を傷つけることもあります。本源的な問題提起をする作品の方が読者を獲得できるという点に対しても考えなければなりません。
徐栄彩 90年代には「2万の読者」という概念があったといいます。90年代の代表的な作家数名の作品の読者について言ったことですが、文学と知性社の詩選集(「文知詩人選」)がかなり活発に出され読まれていた時、その詩集を買っていた読者であるとも思います。ですが、その2万の読者や2万部の作家という概念がもはや解体してしまいました。固有の文学読者といえた読者グループたちが解体してしまったのが2007年の現実ではないかと思います。出版界の方では韓国文学に対して、韓国の読者が他所に奪われている、日本の小説や映画に食われている、このようなことが言われたりしますが、私の考えではそのような発想は少し違うと思います。問題になるのはレベルであってジャンルや国籍ではないと思います。にもかかわらず、作家の立場でならどのような形であれ自分の読者を想定し、この読者を引っ張っていかなければならないということを考えて作品のレベルを上げていくことが重要ではないかと思います。
崔元植 最近の長篇小説で何か2%ほど足りないということを感じるのですが、そのなかには感動の欠如もあります。私が古いタイプなのかもしれませんが、なかなか感動の機会がありません。いい文学作品が提供するプレゼントの一つは、私たちの日常の中でズタズタに寸断され分裂した支離滅裂の時間に、きわめて集中的かつ統合的な経験を付与することで、時間が、いや現在のそれぞれの瞬間が充実するように意識させることです。その中心に感動があります。もちろんこの感動は刺激的なものだけを意味しているわけではありません。さきほどおっしゃった通り、読者に負担をかけるということも感動のもう一つの表現です。日常の時間が止まるその場所で、新たな時間、新たな場所、新たな社会、新たな領土を夢見ます。最近1970年代の東一紡織労組事件を扱ったドキュメンタリー『私たちは正義派だ』を見ましたが、本当に久しぶりに深く感動しました。実ははじめはさほど期待していなかったんです。もはや中年となった当時の女性労働者たちにインタビューすることで、屈辱を踏み越えて人間的な自覚に集合的にいたる過程を彼女たち自らに語らせるこのドキュメンタリーを見て、率直に韓国の小説家は何をしているのかという疑問を隠せませんでした。私たちがここで議論した三つの作品は、共通してそのような感動の機会がほとんどありません。最近の言葉で言って「クール」だからかもしれません。だからと言って昔に戻ろうというわけではありませんが、クールながらも何か新たな層位が開拓されるべきだろうと思います。
徐栄彩 もう少しどっしりと重く読者の心にぐっと迫る、そのような感じが足りないということでしょうか?
崔元植 作品の中である問題を設定したら、それを最後まで追跡するべきです。人物がたとえ破滅に至っても自らの運命を最後まで生きながら、そのように最後まで行く時、ぼんやりと感じていた問題が明瞭な姿を備えて、それに直面するようになり、新しく思えるようになり、それとともに新たな生を夢見るようになるのではないでしょうか。時に読者をたたくことが読者を尊重することになるとも思います。
徐栄彩 作家の個性や趣向がすべてまちまちなので、ある人は抜本的に「読者のやつら」には気遣いしない、わが道を行くというように書く人もいて、またある人々は、自分は読者と肩を組んで一緒に行くという姿勢に書く人もいるように、みなそれぞれの役割があるのではないかと思います。
崔元植 現実の読者、または自分の読者を意識するのかということよりもっと重要なのは、今の時代の巨大な潜在読者を読み解くことです。主に映画を通じて表出される大衆の神秘的な出現、その政治的無意識を批判的に専有することで、小説を新しく更新する方法を考える作家の出現が待たれます。
「ニューエイジ」歴史小説の理念性と脱理念性
徐栄彩 新たな歴史小説の可能性に対しても注目する必要があるのではないでしょうか。2000年代に入って明らかな成果といえるニューエイジの歴史小説が出ましたし、今後もずっと書かれるでしょう。最近は李起昊(イ・ギホ)のような若い作家も李光洙(イ・グァンス/1892∼1950)のような近代作家のことで連載を始めました。最初の方を見ましたが本当に面白かったです。普通、歴史小説というと史談や理念が強く投与された作品だったり、新たな緊張のありかを示すという点、新たな長篇の物語の領域を示すという点で、意味ある試みのように思えます。
崔元植 伝統的な形の歴史小説でも新たな形の歴史小説でも、最近、歴史小説が続出しているということは、歴史、あるいは時間が新たに問題になっている時期ということだと思います。過去の問題をめぐる韓国内での論争に見られるように、民主化以降、歴史、あるいは過去を見る目に亀裂ができています。歴史が大衆的消費の対象として下降しながら、階級やジェンダー、地域や地方、そして個々人に異なる過去を見るという形です。おそらく現在の韓国社会が以前と異なって急速に転換していることを示しているのかもしれません。新たな社会の出現の前夜は必然的に歴史全体を再び考察させるからです。旺盛な実験を始めた最近の歴史小説の傾向に対して私も興味を持っていますが、以前のいい歴史小説もただ単に理念的なわけではありませんでした。たとえば洪命憙(ホン・ミョンヒ)の『林巨正(イム・コクチョン)』を見て下さい。解放後、北朝鮮に渡った作家が植民地時代に書いたこの小説が出版民主化の過程で韓国で刊行された時、『林巨正』が革命小説か何かかと思っていたら、この大河小説の「火賊」編には頭目の情事の話しか出てこなくてがっかりしたという読者の反応があり面白かったです。評論家の林和は『林巨正』にも世態小説の毒薬がいつの間にか浸透したと批判しましたが、これと相通ずる話です。私は少し考えが違います。林巨正は義賊です。義賊も泥棒ですが、泥棒は新たな社会を建設する主体ではありません。ホブスボーム(E. Hobsbawm)が『義賊の社会史』(The Bandits)で指摘したように、義賊とは断崖に追い込まれた農民たちの自己救援の一形態であって、プログラムを持って新たな社会を建設する実践的な企画者ではありません。作者である碧初・洪命憙は、歴史上の義賊・林巨正を革命家として描かずにその限界を鋭く観察しました。革命を夢見て盗賊の巣窟に入り、徐々に変質してしまう姿を正確に示しました。にもかかわらずこの作品が未完で残ったことは、解放以降を迎えた碧初の苦悩をむしろ暗示しています。以前の歴史小説も必ずしも理念を表に掲げたわけではないように、最近の歴史小説も必ず脱理念的であると区分することもありません。
韓国長篇文学の再跳躍のために
徐栄彩 私はいいところだけを見たがる人間なので、こう思うのかもしれませんが、かなりいい可能性を持っている作家が多いと思います。韓国の長篇小説の希望的な未来に対して語るのも重要ではないかと思います。文学が限界地点に到逹した、文学は終りだ、と語る時こそ、文学が抜本的に、いかなる後光もない根源的な地点から新たに出発できる可能性が開かれているのではないか思います。90年代の初中盤までは韓国の特殊な政治状況のために文学が逆説的に後光を持つことができましたが、もはやそのような後光なしに出発するのですから、作家にはむしろ多様な可能性と新たな想像の地平が開かれているのであり、またそのような地点を評論家はよく見て読んでやるべきだと思います。評論家の立場というのは独自の立場ですから、自然にそのようになれば韓国文学のためにいいのではないかと思います。
崔元植 良し悪しを率直に吐露するのが批評の役割であると信じていますが、韓国語で書かれた素晴らしい作品に出会うことを大きな喜びと考える読者として、私も徐先生のお話しに基本的に同感です。2000年代の長篇小説の成果を振り返っても、社会性の単純な逸脱であるとはいえません。脱社会性も社会性の表出ですが、これらの長篇はそれどころか最近の韓国社会が抱えている核心的な争点を扱っています。前の時代と不連続というよりは連続しています。ただ後光がかなり消えかかっている時代なので、裸でぶつかっていかなければならない時期だという指摘にも共感します。資本の包摂がますます強まっていく世界で、作家が直面している苦悩を充分に理解します。ですが長篇が長篇らしくあろうとするならば、「まやかしの予言」と「非常口なし」の間に間隙を作るべきです。世界史的な視角から韓半島を見て韓半島の視角から世界史を見る、このような相互疎通的な視角で韓国社会の変化の可能性を鋭意検討し観察する姿勢を持つべきではないかと思います。また目下、南北分断の変更の可能性が大きくなっています。北朝鮮が崩壊しようと平和統一をしようと南北が共生して進んでいこうと、変化は必ずしも必然ではありません。これは世界史的な事件じゃないですか。朝鮮戦争がどれほど重要でしょうか。ブリタニカ百科事典を見れば、「韓国」の項の記述より「朝鮮戦争」の記述の方が長いですよ。なのにまだ朝鮮戦争をきちんと扱った韓国の長篇小説はさほど多くありません。ますます強まる資本の包摂を冷徹に見つめてはいますが、その向こう側を、それ以降を苦悩する作家は多くありません。民族文学と脱民族文学的な要求の亀裂を21世紀の物語の坩堝で溶かし、新たな物語としてくみ上げる、欲深な長篇が続出することを期待したいと思います。
もう一つ欲張るならば、東アジアの物語の可能性に注目する必要があると思います。中南米文学がインディオの伝統の中でマジック・リアリズムを構成し世界文学に進出したように、韓国も西欧起源の物語形態だけが唯一のモデルだと考えずに、近代以前の韓国の叙事物や中国の叙事物の豊かな伝統に注目すべきです。中国の伝統的な叙事物は東アジア共通の文明的資産に近いと思います。洪命憙の『林巨正』や沈熏(シム・フン/1901∼36)の『織女星』がその萌芽です。西欧の小説に中毒した林和は『林巨正』を世態小説として批判しましたが、その目にはこの小説が支離滅裂の物語の解体として見えたでしょう。ですが他の目で見れば、この小説はリアリズムとモダニズムという舶来品の向こうに、むしろ新たな物語の可能性としてそびえています。韓国の作家がもう少し大きな目で韓半島の現実の微妙な変化の可能性に注目し、その変化とともに考える物語戦略がどのようなものかに悩みながらその創造的結合を試みれば、創造的な長篇の時代に入っていくことは時間の問題でしょう。(*)
訳・渡辺直紀
季刊 創作と批評 2007年 夏号(通卷136号)
2007年6月1日 発行
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