창작과 비평

[インタビュー] 韓国文学は生きている : 小説家 黄皙暎との対話

 
 
 
 

黄皙暎(ファン・ソギョン) 小説家。長編小説『張吉山』、『武器の影』、『懐かしの庭』、『客人(ソンニム)』、『沈清』、『パリテギ』、小説集 『客地』などがある。

沈真卿(シム・ジンギョン) sexology@hanmail.net

評論家。『女性、文学を横断する』、『韓国文学とセクシュアリティ』などがある。

「韓国文学の神話」と言われる黄皙暎先生とのインタビューは、私にとって実は大きな負担だった。彼と私はさまざまな面で違っていた。まず世代が違い、経験が違い、そして何よりも性(sex)が違っていた。おそらくこのような違いのために、私はむしろ彼との「挑戦インタビュー」を引き受けたのかもしれないが、またまさにその同じ理由のために、彼に「挑戦」することは決してたやすくはないように思えた。だが直接会ってインタビューした彼は、思ったより若く愉快で、また真摯だった。その姿は、彼に対する攻撃の準備でかなり緊張していた私の意志をくじけさせ、自らを「かよわい鹿」に比喩して権威的なマッチョとは縁遠いと語る段になって、私のある種の意志はさらに挫折させられた。 私の評論家にありがちな硬く多少攻撃的な質問を、 彼は小説家らしい話術で柔らかくし伸ばした。そのように考えに手を加えたり脇道にそれたりしながら、また中心へと戻ってくる、 彼の技芸にも近い話術に魂を奪われ、結局インタビューは終わってしまった。私はインタビューの間じゅう始終、口をつぐみ、耳だけを開いていた。だからこのインタビューが「挑戦」になるわけがなかった。だがおかしい。私のもともとの考えと計画を無力化したこのインタビューは、とても楽しかったのである。


 

 

自発的に難民になる

 

 

沈真卿  今回、長篇小説『パリテギ』を出されましたが、読者からはかなりいい反応を得ているようですね。前作もそうでしたが、特に『パリテギ』の内容には先生の海外滞在経験が溶け込んでいると思います。先生の流浪生活は、最初は否応なく始まったものだったとすれば、現在はむしろ先生が自発的にディアスポラを実践されているのではないかと思います。『沈清』と『パリテギ』というディアスポラ文学の出現もまた、最近までのパリやロンドンでの滞在経験を含んだ、先生の脱国家的な生の脈絡として理解できそうです。先生の考える「ディアスポラ」とはどのようなものですか。脱国家的な生を選択した特別な契機などおありでしょうか。

 

黄皙暎  まず用語の整理をしましょう。私はその「ディアスポラ」という言葉が実に曖昧なので嫌いです。「難民」「移住」と言えば正確になるのに、わざわざユダヤ人がどうこうなったといって「ディアスポラ」という言葉で曖昧になっているんです。同じように新植民地といえば概念がさらに正確になるものを、ポストコロニアルと言って曖昧にして……おそらくイデオロギーを生産するところから研究費も出るので、それと妥協するしかないんですね。主にアメリカの方でそのような傾向が旺盛ですが、そのような限界の中で学者らが自ら曖昧になっています。だからそのまま「難民」でなければ「移住」というふうに具体化した方がいいでしょう。

運命か業かはわかりませんが、私は生まれてこの方、偶然そのようになったこともあるし、場合によっては自らそのような道を求めたりもしました。たとえば1970年代に『張吉山(チャンギルサン)』〔邦訳はシアレヒム社刊〕を書いていて、当時は前衛か現場かという論争もありましたが、私はもちろん作家なので、今も僻地と変わらない海南(ヘナム)という町で暮らしています。伝統的な農村を知らないという弱点を自ら補おうという意味もありました。

 


海外での滞在経験を語るならば最初がベトナムです。あのとき韓半島の南側では外国に行くのが大変でした。どれほどかと言うと、私が高校生の時、ある人が国務省の招待でアメリカに15日ほど行って来て、帰国後いくつかの学校を回りながらアメリカの話を講演するほどでした。ベトナムが一番最初に行った外国ですが、それが青年期に大きい影響を与えました。

話が取り止めもなくなりますが、私には何度か変化のきっかけがありました。たとえば高校2年の時に雑誌『思想界』の新人賞を受賞して、その8年後に「塔」という短篇を『朝鮮日報』紙に発表しましたが、それまでじっとしていたわけではなく、あれこれとたくさん書きました。雑文もずいぶん発表しました。これが在庫のように溜まっていて、後に急な時には、そのときに書いたものも少し直して出したりていましたから。評論家の故キム・ヒョンが私の2年先輩ですが、一度は「おい、「客地」のような小説を書いた人間が、どうしてやぶからぼうに「仮花」みたい作品を書くのか?」などと言われました。あれは20代の初盤に書いたものです。とても耽美的で個人主義的で内面を探求するような、そのような時期が私にもありました。そしてベトナムに行き、完全に変わって帰って来ました。

そのときから社会との接点を探し始めるのですが、ベトナムから戻って来てずいぶん苦労しました。朝、起きたらいきなり四つんばいになったり、弟の頭を花瓶で殴って20針も縫わせたりしました。母が牧師を呼んで来て祈祷までしてもらったそうです。そしてまた小説を書かなければと思っていたのですが、まさにその頃に全泰壱(チョン・テイル)が平和市場で焼身自殺をします。実はベトナム戦争と全泰壱が出会って、私の作品「客地」〔所収の邦訳短篇集は岩波書店刊〕になったわけです。

その次に光州(クァンジュ)に行って光州抗争を経験したのも重要でしたが、そこでようやくわかったことがあります。作家にとって自由とは何か? 光州で卑怯にも生き残ってしまったことに対する重圧感もありましたが、その後、私たちがどれほど互いを苦しめたでしょうか? 実はあの時、一切に挫折して放棄することもあり得たのですが、幸いにも2つのものが私を支えてくれました。1つは大河小説『張吉山』の連載を終わらせることで、もう1つは文化運動でした。だから日常的には連載小説を書きながら、人形劇や男寺党(ナムサダン)遊戯、仮面舞(タルチュム)や謡(パンソリ)のような伝統演戯の原型を現場のマダン劇と融合させるような形式実験をずいぶんとやりました。あの時、農村や労働現場で50編以上のシナリオを共同創作で書きました。あの2つの仕事が作家としての自分を守る支えになってくれたんです。そうするうちに光州事件の後に北朝鮮を発見し、彼らも他者ではなくもう1つの自分であるという思いで北朝鮮を訪問することとなります。私が南と北という分断が与える重圧感から自由になれなければ、今後も心地よく文学などやっていけないだろうという不安がありました。南と北の間にギリギリの形で立ったのは作家として貴重な体験でした。

 

 

 

外部に立って内部を考える境界人

 

私にとって自由とは、かなり以前から抽象的な概念ではなく、生きてきた人生体験そのものだと言わなければなりません。幼少時からずいぶん転校を重ねて、労働者居住区の工場地帯でひとりで遊び、思春期の時は退学になるなど、要するに追い出されたという意識のために中心に入ろうとしないんです。中心に入ると私は耐えられないんです。だから常に外部にいて、外部にいながら内部のことを考えています。ある友人が自称「境界人」だと言っていましたが、私はそのような意味で本当に境界人です。常に属さない者の、そのような自由と抑圧に対する緊張感があります。

沈真卿  中心部に入れば耐えられないのに、外部ではその内部のことを考えるというお話しは印象的です。韓国で最も権威のある文壇の重鎮でいらっしゃるのに、韓半島という自らの域内に安住するよりは、絶えず自らの身体を外部に出そうとする努力が、先生の文学的な動力ではなかったかと思います。でも外部から韓半島の中をのぞきこもうとする努力も怠っていません。そういう努力こそが、世界という遠心力に導かれつつも韓半島という求心力から出ようとしない緊張感だといえそうです。ところで今回は二度目の長期海外滞在でしたでしょう? 最初の海外滞在は北朝鮮訪問以後、韓国に帰国できない状態で、アメリカとベルリンを流浪されていた時でしたが、あの頃はどうだったんでしょうか?

黄皙暎  さきほど各時代の自らの変化の過程をお話ししましたが、ベルリンの壁が崩壊する現場でとても強い印象を受けました。崩壊した障壁の間に集まってきた東西ベルリンの市民らが歓呼して抱きあって歌っていましたが、私はその人たちを眺めながら「美しい個人」を発見しました。あの時、世界は変化するだろうと考えていた展望や、それまでのリアリズム的な企画、散文も変わるべきだという考えをつづった創作ノートが残っています。たとえば「リアリズム的な物語を私たちの文化形式にのせる」と標語のように自ら言明しているんです。それまでの散文の形式を解体してしまおうなどと果敢な表現もしています。そして韓国に帰って来て監獄生活をしながら、その中で本当に熾烈な日常と対面します。黄皙暎は冒険に強く危険なことにもよく耐えて面白がるんです(笑)。ですが何もせずにじっとしていろというのは気がおかしくなります。独房の中で5年間、日常を学びましたが、あの時それなりの蓄積ができたようです。

とにかくドイツ滞在時代は本当にさびしかったです。とても親しかった人々もベルリンに来てかろうじて電話だけして帰って行く程度でした。私に会えば大変なことになりますからね。ある国家や社会に属さず、といって確固とした亡命者でもなく、指名手配の期間をベルリンやニューヨークで5年近く過ごしましたが、本当にさびしかったです。その時わかりました。私は南も北でもなく国家の構成員でもない。あの時国家からいじめられたという実感とともに国家主義や民族主義を放棄してしまったようです。

そして社会に戻って来て作品を書き始めながら ― これはもちろん過去の記憶を整理したものですが ― また世界を確認したくなりました。なぜならそのときは冷戦解体と世界史的な変化がちょうど始まっていましたが、当時は追放された者として自由でない時代に西欧を見たとすれば、今はどうだろうか? 必ず再確認する必要があると思いました。それだけでなく、心理劇の用語に「役割変え」というのがあるじゃないですか。また自身の居所を離れて眺めることを「距離感」ともいいますが、今、西欧の作家らの中で私の友人を見ると、ほとんど住む場所としての都市を変えながら生きています。たとえばベルリンに住んでいた作家はローマに行っていて、ロンドンに住んでいた作家はギリシャに行っていて、パリに暮していた作家は南米に行っていて、ニューヨークに住んでいた作家はバルセロナにいてという具合にです。このようにみな居所を変えて暮らしています。これがまたとても新鮮な面があります。なぜならそこへ行けば誰も自分のことを知っている人がいません。いわば自らが不慣れなところで他人になるという創造的な緊張ができてきます。また大きな出来事が起こる西欧の大都市に暮らしているので、何というか、時代精神が波打っていくのを捉えることができます。本当によく見えるんです。反対の場合もありますが、結局、動機は似ています。友人のル・クレジオ(Le Clézio)に、おまえはどうしてパリが嫌なのかと聞いたら、自分はパリにいると逆にヨーロッパが見えなくなるからだといいます。奥地へ行くとヨーロッパがきちんと見えるのだそうです。

 

 

 

作家の祖国は母国

 

沈真卿  他の角度から見れば、先生の海外亡命時代は、まさに南でも北でもない、第三国での生だといえます。北朝鮮訪問以後、南北双方に距離をおくことになる先生のお話しのように、韓半島の状況をとてもリアルに眺められる契機になったのではないかと思います。

黄皙暎  亡命時代に北と南をともに脱出したわけですが、耐えられませんでした。私が当時、精神的に国籍がなかったということは、ひっくり返していえば、私は大韓民国の人間でもなく朝鮮民主主義人民共和国の人間でもないということです。ル・クレジオが教えてくれた言葉があるのですが、私も以前考えたものがあって対等交換することにしました。つまり作家という存在は「民族や国境にかかわらない。作家の祖国は母国語だから」というすばらしい言葉でした。

 

このようなエピソードがあります。ベルリン滞在時代、腰痛になって尹伊桑(ユン・イサン)先生の勧めで北朝鮮に行って5か月以上、物理治療を受けました。そして金日成(キム・イルソン)主席に何回か会います。私が普段から少し面白い話をよくするじゃないですか(笑)。晩年のあの方はかなり退屈されていたんでしょう。いつも座っていて、外交使節が来れば写真を1枚撮って戻ってきて、テレビドラマを見てという具合ですから、私が行くと話相手になると喜んでいました。この人がある日「黄さんはアメリカへ行くというが、キャング団も多いというのになぜアメリカに行くのか? 私と暮らさないか」と言うんです。そして民村・李箕永(イ・ギヨン)先生の話を始めて、「私が碧初・洪命憙(ホン・ミョンヒ)先生に手伝ってくれと言って頼んだら、碧初先生は党に入って私たちをずいぶんと手伝ってくれました。民村先生にも手伝ってくれと言うと、いや物書きに専念したいというんだ。さびしかったけれど、物書きに専念するというのを誰がどうできますか。だから「先生、私が何をお手伝いすればいいでしょうか?」と聞いたら、果樹園をひとつくれと言うんだよ。それで少し調べろと言ったのさ。すると、あの順安(スナン)方面の道路沿いに桃の果樹園が約3千坪あると言うのさ。民村先生がそこへ行って物書きに専念されたよ。でも1年で農業をやめてしまったらしいのさ、文人は本当に怠けものだなと思ったよ」。私が「なぜです?」と聞いたら、「桃を一かご取ってきたら半分腐ってしまったからだと言うんだ」と言うんです(笑)。

 

その話の要旨がどういうものかというと、執筆をするのならそのままここで住む方がいいのに、どうして出て行こうとするのかということです。それで側近らが全て気づいたのです。黄皙暎をつかまえておかねばならない。それでパスポートやら何やらみなすべて隠されて出られないようにされたんです。これはいかんと思いました。そして北朝鮮の主要幹部に言いました。私の考えでは越北者や南へ越境した人は結局は両方で分離主義に傾くようになる。私は自分の文学から見ても、筆を折ることがあっても断じて分離主義にはならないだろう。だが私が北に残れば、結局は「食客」ではないだろうか? 私と私の文学は、南韓の歴史と社会の産物だ。私が私の読者のもとに戻ってこそ統一に貢献できるのであって、ここで食客として滞在していても何の足しになるだろうか? 私は行きますよ、と言ったところ、「それはおっしゃる通りです。私が言ってみましょう」と言われ、それでようやく出られることになりました。その話を後で崔元植(チェ・ウォンシク)先生にしたら、うさぎが竜宮城に行って来たようなものだと言っていましたが(笑)、とにかくその時、長期で滞在している間に、南韓の軍事独裁時代に劣らないほどの、北朝鮮の硬直した国家主義を目撃しました。ベルリンにいる間に、さきほど脱国家の話も出ましたが、あのとき一応とても冷静になりました。冷静になって自らがどのようなイデオロギーからも自由になったという感じがします。

沈真卿  面白い話です。外部からの視線が、韓半島の状況をもう少し冷静で客観的に近付けさせるという先生のお話しに全面的に共感します。そのような点で最近、先生が「伝」や「巫歌」「クッ」(祓)のような伝統的な物語様式を持ち出してきて、小説創作につなげている作業は、外部の視線で韓半島の様式を新たに理解しようという試みのように思えます。たとえそのような物語様式が韓半島の内部ではなじみのものであっても、「世界の中の韓半島」という観点からは新たに構成され評価されうるでしょう。ですがそのような形式や内容が「世界の中の私」という観点では目新しいものがあるかもしれませんが、韓半島にずっと住んでいる私にはあまり新鮮味のない、おなじみでお手軽な方法に見えたりします。そのうえ「世界の中の私」という観点で新たに占有された伝統的な物語様式が、意図に反して韓半島に対するおなじみのクリシェを繰り返す恐れもありそうです。たとえば植民地朝鮮が帝国日本の雑誌に紹介される時、水車や韓服を着た女性など、いくつかのお決まりのイメージばかりを描くような結果をもたらす危険もあるのではないでしょうか?

黄皙暎  私が監獄から出た時に受けたインタビューでも明らかにしましたが、旧韓末の「東道西器」を「西道東器」に変えて考えてみようという、冗談半分、本気半分の言葉にも見られます。金芝河(キム・ジハ)はこれを再び「東道東器」という言葉に置き換えましたけれどね。ここでもちろん私が考える物語やそれまでの作品が、日帝統治下の郷土主義や検閲下の中国現代文学の一分野のような民俗指向に属さないということくらいは、黄皙暎に対する最低限の尊重として、読み方に間違いがないようにお願いします。過去の時代に大学街で仮面舞(タルチュム)や農楽(ノンアク)の公演をすれば、それだけで不穏なことでした。すでに当時の大学街は西欧教育の殿堂でしたし、西欧的な消費文化の第一線だったからです。現在は20数年前よりもっとひどくはなっていても、よくはなっていないと思います。私たちはみな現代西欧の人間だといえます。沈先生にはおなじみで安易に見えるかもしれませんが……。いつか李文求(イ・ムング)の小説を大学で読ませたら、逆にポストモダンとして受け入れられたという誰かの冗談が思い出されます。『ドン・キホーテ』が最近になってまた記憶されるのは、中世から近代へと移行した当時、古典を形式的にパロディー化した観点が画期的だったからです。言ってみれば一つの戦略でもあります。

西欧人が自らの生の方法通りにやっていって私たちに投げ出したものを、近代文学になって私たちが一方的に受け取ったんです。西欧で作家懇談会のような行事に行ってみると、人々が客席で足を組んで座っていて、「あなたは西欧のどんな作家の影響を受けたのか?」と聞いてきますが、これは本当に生意気なことです。そう聞かれれば私は「あまりにも昔のことなので思い出せない」と答えます(笑)。私たち同僚作家らが外国に出るときも無数にあう質問の1つです。このように韓国は言語と文化がマイノリティなのですが、これにどう対処していくべきでしょうか? 全く予測できない方向で、彼らがこれまで固守してきた小説的な叙述や方法論、このようなものとは異なる方式で示さなければなりません。それがまさに自分のスタイルです。

私が見るところ、東アジアの作家の大部分は、いわゆる「大家」の手前の水準にも達せずに終わった人が多いと思います。なぜなら西欧の近代文学は自らが近代を達成してきた当事者たちで、私たちは受動的にそれを受け入れただけだからです。ドストエフスキーやバルザックのことを語りながら、あれほどの作家がどこにいるかと専門家たちに聞いてみると、「そうですね、魯迅は大家以前で、夏目漱石もそうですし、谷崎潤一郎もそうで……」といいます。物語の内容もそうですが、それにふさわしい物語の形式、それを編んでいく方法論、このようなものをうまく形成していけば、私の文学がもう1つの世界を作れるのではないかと思います。これは刑務所から出てきたときの話ですが、もちろん私のこのようなプロジェクトがいつまで続くかはわかりません。一応出発はしましたが、いい感じではないかと思います。

 

 

 

詩的物語としての『パリテギ』

 

沈真卿  ならば先生が最近いくつかの文章で軽めの長篇が世界的な傾向だとおっしゃったのも、このような世界的な文壇の流れで把握すべきかと思います。そのためか『パリテギ』は、物語空間の移動、時間の進行、数多くの登場人物など、そのスケールの面で大河小説に劣らない規模を備えていながら、実際は軽めの長篇くらいの分量です。前作の『沈清』だけでも相当な分量ですが、物語の規模の面で『沈清』に劣らない『パリテギ』は、『沈清』の3分の1にもならない、文字通りの軽めの長篇にしあげられました。ですが実は分量が少ないせいか、最初の方のパリの北での生活に比べ、中国やイギリスでの生活が相対的に軽いような印象もありますし、また北朝鮮を脱出して以後に出会った人物らも充分に性格化されているようではありません。いくら軽めの長篇が世界的な傾向だとは言っても、このような規模の物語ならば、その傾向を拒否すべきだったのではないかと思います。

黄皙暎 「軽めの長篇」という言葉もまた韓国のジャーナリズムが作り出したものですが、私は最近「詩的物語」という言葉に変えて使っています。いわゆる「軽めの長篇」というのは、現代の生活パターンや余暇文化などから出たものかもしれません。ですがもう一つの側面があります。私たちはわずか数年前まで、10数冊にもなる「大河小説」を先を争って書き出した時代がありました。いわゆる19世紀的なリアリズムの時代でした。私は現代世界の消費市場が長い物語に耐えられないだろうと思っています。また一方で詩が出版市場から消えています。現在、西欧のどこに行っても、書店に詩集が置いてある国は見当たりません。韓国はまだ少し特別ですが。詩はすでにマニアらの世界に自閉してしまいました。数十部、または数百部を、大学や研究所、財団などの後援を受けてパンフレットのように印刷して、同人同士配って読むような感じになってしまいました。詩的メタファーや隠喩、あるいは抒情的な詩情は、広告コピーや詩的な映像のイメージに取って替わりました。まさに詩的イメージの洪水とでも言いましょうか。

過去の叙述では、ある男が馬車から降りて家の中や居間に入って行くのに数十ページさくことができました。庭園の石や木について、あるいは家の中の明かりや雰囲気、門の形、玄関や客を迎える召使いの表情や服装、風貌、またマホガニーやボルネオ、アフリカなどの原木で作ったあらゆる家具、机の上の文房具や書斎に座った人々の過去と現在、このような感じで数十冊が書かれました。ですが、たとえば映画は、レンズの中に入って来たものを見せるだけで、他の方式の叙述で筋書きを継いでいきます。ディテールをすべて書かずに場面と場面を配置します。これをモンタージュとも言い、ミザンセンとも言いますが、ふと見えた小品一つで伏線を準備したりします。その前の長くて雑多な叙述を被写体を通して象徴的に含ませていかねばならないのです。

私は私たちが青年期に交わした話のことを思いました。話を展開させながら詩的な緊張を維持するような形式はないだろうかと思うのです。西欧文学史に叙事詩や散文詩というジャンルがありますが、それは気に入りません。ある友人が「詩+小説、つまり「詩説」と言ったらだめだろうか」といっていましたが、自己出版したらまったくだめでした。金芝河は風刺的に「大説」という言葉を使いました。私の表現では「詩的物語」と言っていますが、これはむしろ過去の小説的な世界というよりは、演戯の台本やシナリオに近いといえます。

沈真卿 『張吉山』のような長篇大河小説を書いた先生が、詩的物語の大切さに対して語られると、一方では絶えず自己更新の努力を怠らない作家だという気がしますし、また他方では果たして詩的物語という新しい様式は可能なのだろうかいう疑問もわきます。先生は巫俗詩歌の主人公である霊媒の「パリテギ」を、移民や移住が頻繁な今日の現実を代弁する人物に変貌させました。そのために小説の主人公「パリ」は、霊的な能力を持って生まれた、神異した存在でありながらも、深層的というよりは表層的であり、死よりは生の方に近い現実的な人物として描かれています。ですが、北朝鮮脱出と難民の現実を示すリアルな人物でありながらも、パリテギという神話的なキャラクターを完全に払拭できていないために、結果的に小説において、パリを通じて描かれる現実の問題がやや抽象化されているのではないかと思います。

 


そしてそれは、詩的物語というやや曖昧な様式的追求ともかかわるようです。むしろ女性巫歌である「パリテギ」を現実の中で完全に解体し、小説的に再構成したならば、もっと具体的で実感ある物語になったのではないかと思います。たとえば詩人の金恵順(キム・ヘスン)はパリテギのことを、現実において自らの詩的領土を持つことができず、幽霊の声をもって生について語る、女性詩人のもう一つの名として解釈し、神話が持っている豊かな象徴性を女性的·詩的に再構成しています。「パリテギ」という作品は、女性詩というジャンルで最後まで押し通したと言えるでしょうか? 先生の『パリテギ』も、詩的物語という曖昧な名称にすがるよりは、むしろ小説というジャンルで完全に押し通すべきだったのではないでしょうか?
 

 

黄皙暎  私が19世紀の「沈清」と21世紀の「パリテギ」を続けて書いたのは、2つの時代に世界体制の再編が起きた様相が似ていたからで、新自由主義が新帝国主義の他の呼称であることを知っているからです。先年、スコットランドのキャノンゲート(Canongate)という出版社が全世界の作家たちに「神話を小説で書くこと」を提案した「世界神話叢書」シリーズがあります。ですがあちらの企画は神話をそのままにして書こうというもので、私の意図はまさに当代の現実との関連のもとで神話を再考するというものでした。出版社側の意図とは異なり、主要な作家らがずいぶんと抜けて、私もつねづね考えていたこととは違っていたので抜けました。神話や説話、民譚に対する関心が高まっていたのは、90年代に社会主義圏が崩壊して、過去の世紀に対する反省が起こり、すべての人文·社会科学的な体系や思想に対する懐疑が起きたからです。いわば人間が作ったものがみな不確実で予測できないので、文明の代案を考えながら人類の原初的な思考を見てみようとしているのです。私はただ、単なる神話探求は還元主義だと思いました。「パリテギ」を国家や国境がなかった時代の移住の典型として考え、主人公が女性であっても男性であっても、主要な点は違うところにあると思いました。

 

「パリテギ」という物語巫歌が、文化侵奪が頻繁だった韓半島のようなところで重要な意味を持つのは、口碑で伝承されたからです。まただからこそ数千年間生き残ったんです。すべての語り部たちには話術に対する懐かしさがあります。だから私は形式的なレベルで口碑伝承されたということに大きな意味を置きます。また私が『沈清』や『パリテギ』で書いたのは、ウーマンリブをしようとしたわけではなく、当代の現実を反映しようとしたんです。女性であれ男性であれ「苦痛を受けた苦痛の治癒者」としてのパリに注目したのです。作品の巻末の対談にも出ていますが、世界体制以後、適応することができなかった、捨てられた数多くの国の民衆の顔が「パリ」です。

また私は、深層と表層、死と生を分けて語ったのではありません。死と生、現実と非現実、これらが共有されているんです。朴玟奎(パク・ミンギュ)という作家が、最近、若い作家同士で座談していてなかなかいいことを言っていました。小説は物質だ ― これはいいですね。私は最近、リヨンに行って話をしましたが、あるフランスの女性作家が人気絶頂で何十万部も売れているというのですが、彼女が常に自分の私生活を作品に書いているのだそうです。誰かが「作品をどのように書いていますか?」と聞いたら、その作家が言うには、内面が血だらけになってどうしたこうしたと言うので大騷ぎになりました。私は「文章は左から右に書きます。そして尻で書きます」と言いました。それはどういうことかというと、小説創作は80、90パーセントが労働で決まるんです。まず長く座っていなければなりません。プロの作家は文章が思いつかなくても 机の前に座っていなければなりません。いい文章が出てこなければどうするでしょう? それで私は物を書く行為を物質的行為と見て、世の中に表出されたものもその物質の部分と考えます。最近は作家がどうしてあのようにデリケート過ぎるのかわかりません。天から天刑、天罰を受けたように語っています。
 

 

沈真卿  ならば先生は表層的なもの、物質的な行為を最後まで押し通す態度こそが小説家の美徳だと考えるのですね。表層だけでもある種の深さを得ることができれば、それこそ先生のおっしゃる詩的物語が可能かもしれません。だとすれば『パリテギ』で獲得できる詩的な深みは、パリの霊的能力から来るのではなく、むしろ物語的な表層の深化から始まるものと見てもいいかもしれません。そのように見るならば、『パリテギ』で描かれる多様な難民の状況こそは、終局には詩的深みという形質変化を起こしてしまう表層的かつ物質的なものだと考えられるでしょう。

 

 黄皙暎  いい表現です。これからその言葉を少し使わせてもらっていいでしょうか(笑)。たとえば『沈清』の場合にも、「沈清」をパロディー化して原典の沈清が主になるのでなく、現実が主になって沈清を借りてくるのです。なぜなら沈清という物語は誰もが知っているからです。面白いのは、これは私だけが書いたのだと思っていたら、日帝末期に蔡万植(チェ・マンシク)も書いているんです。彼が『太平天下』の作家であるということを忘れて、蔡万植はこれほど近代的な作家だったのかと自ら驚きました。誰かから『客人(ソンニム)』〔邦訳は岩波書店刊〕と『パリテギ』について、ラテンアメリカのマジックリアリズムとの関係を聞かれました。ですがあれと私のものとでは方式が違います。アストリアス(Asturias)やガルシア・マルケス(García Márquez)、イサベル・アジェンデ(Isabel Allende)、その前にボルヘス(Borges)などを見ると、自らのインディオ文明に蓄積された民譚、伝説の要素を活用していますが、それらがそのまま登場したり無茶に割りこんでいって別々になっている場合が多いと思います。登場人物らは現実には珍しい奇人たちです。だからいわゆる怪異効果を与えますが、私はいつも現実と妥当な関係を作ろうと努力します。

 

たとえばベルリン亡命時代にこのような体験があります。1990年に第1次汎民族大会を板門店(パンムンジョム)で開催することになりましたが、私たちが海外文化チームとプログラムを組む際に、「南北合土祭」を執り行なおう、そして平壌(ピョンヤン)の愛国烈士陵にある土と、光州の望月洞(マンウォルドン)にある土を合わせて、板門店に松を1本植えようと言いました。ですがその合土祭の祭祀に使う豚の頭が、時間になっても現われないんです。聞いてみると開城(ケソン)市の党委員会で問題が起こったそうです。テレビにも出て民族の問題を議論するというのに、どうして人民らに迷信を見せることができようか? どうして豚の頭を載せて、それにお辞儀をしなければならないのかというのです。どんなに待っても豚の頭が来ないので怒っていると、党幹部の1人がこう言いました。「これは大変なことになりました。私たち若い人たちが反対して大騷ぎになりました」「いや、中央で押さえつけてはだめですか?」 ― だめだというのです。それで私がそこに行ったんです。行ったら本当に大騷ぎになりました。それで少し知恵をはたらかせたんです。私が思い出したのが金日成主席のエピソードです。休戦直後ですが、金剛山(クムガンサン)の峰、「観音峯」「菩薩峯」「彌勒峯」 ― このような名前を軍部が全て「戦闘峰」「勝利峰」「統一峰」のような名前に変えたそうです。ですがこれがあまりよくなかったのです。それで金主席が社会科学院の院長をしていた洪起文(ホン・ギムン)先生を呼んだんです。碧初先生の息子ですね。「洪先生、今これを「戦闘峰」「勝利峰」「統一峰」のようにすることについてどう考えますか?」と聞いたところ、「その昔、偉い首領様が出てくる前は、人民らに信じられるものがなかったから、「弥勒様」「菩薩様」というように名付けたのですが、そのときの人民が付けた名の通りにしておくのも重要です」と言ったんです。そして名前を変えようという話がすっかり消えたのです。そのことを思い出して私が言葉を変えたんです。「あなたたちの金日成主席は、迷信も革命化すれば科学になると言いました。豚の頭は分断された南北の国土の主に捧げる礼儀であり挨拶ですが、何が問題でしょうか?」。そういうと結局、開城市の党委員会で豚の頭を煮て来ました。鬼神とは何かというと、身体が社会化される過程が鬼神なんです。私はそのように考えます。
 
 
 

非現実的存在と当代の現実の接点

 
だから私は『客人(ソンニム)』の時もそうでしたし、今もそうで、現実との接点をずっと探しています。もちろん私にもっと余裕ができれば、自信を持って蹴飛ばして出て行って、形式の拘束を脱してふわふわと浮遊しながら自由に出入りします。ですが一方で考えて見ると、まだそれが私に残っている、若き日の科学的習性の限界というやつです。とにかくそのことを、熾烈に散文を書く過程でやってみようと思います。

 

沈真卿  そうすると最近の先生の作品に登場する鬼神や霊媒は科学的習性との闘争と言えるでしょうか? でも先生はそのような非現実的な存在を現実と結びつけて現実の中で接点を準備しています。だから『客人(ソンニム)』や『パリテギ』に登場する非現実的な存在は、むしろ現実にもう少し細密に近づいてのぞかせる、非常に現実的なキャラクターだという気がします。そのような脈絡で先生がおっしゃった科学的習性との闘争というのは、現実という領域を科学的に再現可能な世界だけでなく、非可視的な夢や夢想の世界にまで拡張しようとする試みのように読めます。それは異質で矛盾したものが混淆して共存するポストモダン的な現実のように見えたりもします。

 

 黄皙暎  こんな経験もあるんです。光州抗争が終わって人々が死に、すべてが消えてしまいました。私は逃亡して数か月ぶりに姿を見せたら、生き残っていた後輩らが私に『張吉山』を終わらせるべきだ、光州の郊外に居所を1つ用意するというのでした。30分郊外に行ったところの潭陽(タミャン)に寺があるからそちらに行けというので、荷物をまとめて行ってみると、 そこは栄山江(ヨンサンガン)の上流です。村の中に小さな橋がひとつかかっていて、小さい坂のような丘があって、そこにお寺がありました。入って行って入口を見ると名前が護国寺(ホグクサ)となっています。国を守護する寺 ― 「寺の名前があやしいな」と思って寺に入りました。前にお坊さんたちと菩薩が主にいるところがあって、本堂があって、左側に寺の人たちが住む建物があって、部屋が7、8つありました。試験準備の学生なども受け入れてやれば、食いはぐれることもなかろうものなのに、なぜかしらがらんと空いているんです。そちらの部屋一つに机をおいて仕事を始めましたが、夜明けの2時か3時ごろだったでしょうか、便意をもよおして部屋の外に出て、板の間から石段に足をおろした瞬間、急に目の前が真っ暗になったんです。そうやって倒れてながらあたふたと歩きました。足を引きずって行って仕事をして戻ってまた寝て朝起きると足がずいぶんとむくんでいたんです。到底動くことができません。タクシーを呼んで光州市内の病院に行ってレントゲンを撮ったら足首が折れていたんです。ギブスをして松葉杖をついて部屋に上がってご飯を食べるのですが、そこのお坊さんが晩覚(マンガク)という方でした。後で聞くとこの人は陸軍一等上士出身なんですが、霊光(ヨングァン)の仏甲山(プルガプサン)というところで共産ゲリラの討伐をしていたんです。ですがこの人が結婚すると必ず妻が死ぬんです。そうして妻を3人失って、40歳を過ぎて頭を剃ったそうです。それで法名が晩覚なんです。そのお坊さんとご飯を一緒に食べていると、「黄先生は運が強いんですね。その程度で幸いでした」というんです。「どうしてですか?」と聞くと、「ここは土地の気が強いんです」「ええ?」と聞いたところ、「あの下の建物に一度行って来なさい」というので、行って戸の穴からのぞいてみると、位牌が3列になってずらっと並んでいるんです。どうしてですかと聞くと、その寺の場所が朝鮮戦争の時に激戦地だったらしいんです。すべて機動隊の位牌でした。私がそこに数か月いて見てみると、潭陽郡顯忠日の行事をそのお寺でやっています。だから「護国寺」なんです。ですがこのお坊さんの話が面白いんです。自分がそこに初めて赴任した時、寝室に風呂敷を置いて寝ていると、自分は討伐をしたからわかるんです。そして自分の心の中にも記憶が残っていたんです。山の人 ― パルチザンがやってきたんです。「白菜頭」とか言われていたとか。剃った髪が山の中で伸びるともじゃもじゃに生えるので、パルチザンたちのことを「白菜頭」と言ったそうです。その「白菜頭」が門をぱっと開いたと思うと、「坊さん、飯をくれ!」と言ったといいます。「台所に行けばいいのに、どうしてここに来てそんなことを言うのだ?」と言い返したところで目が醒めたんですが、それが現実のように鮮かなんです。だから恐ろしくもあって気分が変だったんでしょう。それで庭先に出て木魚をたたいて庭を歩き回ったりしたそうです。そして翌日になったのですが、その男がまた来たんです。今度は門を開けて入ってきて、坊さんに馬乗りになって飯をくれと言って首を締めるんです。「あああ……」と言って振り放したら全身が汗だらけです。それでこの寺は自分がいるところではないと思ったのです。ですがそこに昔からいて80歳近くになった腰の曲がった飯炊きのばあさんのところに行って、「ばあさん、私、出て行きます。この寺は私には合わないようです」というと、「どうしてだい?」というのでその話をしたんです。「お坊さんがそんなことでどうするんだね? 私は日が悪くて雨が降ったりする時、飯を炊いていると、年若い女が子供をおぶってやって来て、「お婆さん、ご飯を少しください」っていうのよ」と言うのです。「こいつ、消えてしまえ」と思っているとこっそりと消えているというんです。それでお坊さんはわかったんです。これは一方にだけ飯をやったのでそうなったんだ、機動隊にばかり祭祀をやっていたのです。その場所が何度を奪われて、また取り戻して……そこが智異山(チリサン)から白羊山(ペギャンサン)の方に下りていった出口のところなのですが、そこを占領すれば潭陽が占領できて、潭陽を占領すれば光州外郭まで占領できるんです。だから有利な高地を奪うために常に争ったんです。私がいた寝室の建物の両方の戸を開けると、白羊山から下りてくる風と川の風がぶつかり合って、どれほど気持ちいいかしれません。そこが主な抵抗線だったんです。そこの塹壕でずいぶんと人が死んだのです。それでこの晩覚和尚がどうしたかというと、顯忠日が終わるとその翌日は左側の人に祭祀をしてやろう。それでご飯をたっぷりと炊いて匙を40∼50ほど立てて一日中木魚をたたくのです。「心ゆくまで食べなさい、食べなさい」といいながらです。その次から恐ろしいことがすっかりなくなったそうです。気の強い土地というのは、このように韓国のどこにでもあります。話がわき道に反れました。さっきの話の延長ですが、だからすべての民譚や伝説は当代の現実との関連が重要だと私は思うんです。ですが人間の生が科学だけで成り立ちますか? ついにはそこからも自由になるんですから。

 

 沈真卿  お話しを聞いていると、先生は魂の世界や霊魂の問題を現実と分離して思考するよりは、現実の範疇の中に引きこんで、現実との接点を見つけながら、それを通して当代の問題をもう少し多様に扱おうとされているようです。ですが先生の意図とは異なり、『沈清』や『パリテギ』において心と魂は、苦痛に満ちた現実とは分離した、もう少し堅固で不可侵のある種の領域として描かれているようです。そのためか現実との接点があまり指摘されていなかったようにも思えます。

 

 黄皙暎  現実との接点を探す段階がまだ粗雑なので、そう見えるのかもしれません。あまりにも近ければ、『客人(ソンニム)』のように無惨な骨組みだけを残して美学的な間隔をやや遠くにおけば、白日夢のようになってしまいます。だからこれからもっと追求しなければなりません。これは本当に簡単なことではありません。この時代の私たちの散文をどうすれば開拓できるかが私の悩みですが、途中で止めてしまったり、あるいは残念にも中途で死んでしまったりします。自分の形式を発見する前に、その入口で死んだ画家の呉潤(オ・ユン)や、あるいは李箱(イ・サン)のように格好だけつけて若死にするよりはましな方です。また、それができなければ、後輩たちが受け継いでやるでしょうし。とにかくそういうことをしようと思います。
 
 
 

しめられた苦痛の治癒者、受難させられた受難の救済者

 
沈真卿  先生は『沈清』と『パリテギ』で国境を越えて世界を放浪する女性を主人公にしました。それはディアスポラ自体が女性としてジェンダー化される現実を反映したものだと思います。ですが『沈清』と『パリテギ』は19世紀と21世紀の間の距離ほどに違います。『沈清』において「沈清」は「リェンファ」「ロータス」「レンカ」と変わっていく生の旅程の中でも、沈清という自らのアイデンティティを最後まで失わずに維持します。ですが『パリテギ』から「パリ」は故郷に帰りません。もちろん帰りたいと切実に望むこともありません。だから沈清とパリはともにディアスポラ的な人物ではありますが、沈清が近代的キャラクターならば、パリはポストモダン的なキャラクターだという印象を与えます。この2つの人物の間の距離を通じて先生は何を意図したのか、お聞きしたいと思います。

 

 黄皙暎 またそのディアスポラという用語を……私は嫌いなんですが(笑)。最近、若い人たちは本で読んだ用語に過度にとらわれているのではないかという気がします。新聞記者らがマクロな言説とかミクロな言説などというのも、状況や立場に対する苦悩もなくいい加減に使っています。とにかく『沈清』は前世紀の話ですから、一応完結した構造で終わります。15歳から80歳までですが、最後の最後にかすかに笑いながら終わります。泥濘の中の一生を受け入れて自足します。ですが『パリテギ』は泣きながら終わるじゃないですか。そしてそれに加えて子供に「ごめん」といいます。『パリテギ』は完結しない結末なんです。ですから結末を読者に投げたんです。今も進んでいる苦しい移行期がそうであるように、あなたの前で地獄は続いていると。開かれた構造とでも言いましょうか。歳月がさらに経てば付け加えてさらに一冊書くこともできますし、さらに一章を追加して書くこともできます。とにかくそのようにそこでぴたりと終わらせてしまったんです。言ってみれば後部を開いておこうというものです。今回『パリテギ』の結末が物議をかもしたのをみて、意表を突いた部分があるようです(笑)。

 

 沈真卿『パリテギ』は社会主義圏の崩壊と全地球的な資本主義化によって移住や脱走が頻繁になった21世紀を、「パリ」という北朝鮮を脱出した女性を通じて描いているのですが、その苦難の強度が思ったより強くないようです。そのうえ北朝鮮を脱出して以後、中国を経てイギリスまでやって来たパリは、パキスタン出身のイギリス人と結婚してそれなりに定着します。決してハッピーエンドとはいえない未完の結末であるにもかかわらず、「パリ」が思ったより簡単に先進ヨーロッパに安着したのではないかと思います。パリは果たしてこのような苦痛の現実に小説的に耐えられるキャラクターでしょうか?

 

 黄皙暎  荒廃した地を出て他の都会に寄り集まった移住労働者らが幸か不幸か、私たちの判断であえて言うものではありません。このような移住のことで言うならば、すでに私たちの中にも外国人労働者が100万人以上入って来ていて、中国には数十万、国内には五千人近い脱北者がいて、結婚移住も農村では新しい風俗になっています。つまりパリは捨てられた者であり、『パリテギ』のパリは象徴的典型にすぎません。写実的な写真ではない、ドローイングの被写体のようだとでも言いましょうか。

 

今は個人だけではなく全世界あちこちで格差による孤独化が進んでいます。アメリカが主導する体制に適応できなかった国はどの程度かというと……一国的に見れば昔の海南(ヘナム)のようなものです。1970年代に海南から若者たちが都会にすべて出て行ってしまって、村の空き家が1つの集落から100戸近く出た時のようなものです。周辺部は産業的な生産がますますできなくなります。さつまいも、とうもろこしなどを売ってどうやって暮らせますか? 生産力がなければどうなりますか? 購買力もなくなります。するとそのような国や地域は先進諸国にいじめられながらそのままなんです。すると共同体が崩れるだけでなく、部族が、いわば公害のために地球上の動植物が絶滅するように、その一帯は絶滅するんです。アフリカではこれが現在起こっている日常です。それに加えてエイズや各種疾病もありますし、このようにいじめられた人々すべてがパリです。私は北朝鮮の統治権の責任はもちろんのこと、南北の分断体制を支えてきた強大国の偽善的な人権論理を以前から批判して来ました。世界的な移行期の最大の特徴は、労働移住、あるいは移動現象だと思います。東欧が崩壊する頃に、おそらくデリダ(J. Derrida)がこう言いました。資本主義の悪と社会主義の無知蒙昧が混血すれば、新しい悪が誕生するだろうと。

 

 沈真卿  面白いのは、『パリテギ』でいじめられて捨てられた存在のパリは、むしろ捨てられた者の力で、そのように捨てられる状況を突破していくようです。

 

 黄皙暎  そうです。それを巫俗用語では「苦しめられた苦痛の治癒者」「受難させられた受難の救済者」としてのシャーマンと言います。だから最も苦しんで抑えつけられた者が他人の苦痛を治癒することができるんです。これはかなりそれらしい命題になりそうです。
 
 
 

『パリテギ』の夢幻性とリアリズム

 
沈真卿 『パリテギ』では凄惨でリアルな現実をやや非現実的に夢幻的に描いています。たとえば密航の場面を見ると、パリが強姦にあったのか、そうでないのか、少し曖昧に描いているようです。夢のようでもあり幻想のようでもあります。

 

 黄皙暎  悽惨な状況を焦点が曇った写真のように描いたり幻想で処理すれば、パリがその後に自ら打ち勝って日常を生きて行けるということです。物凄い経験をした後は、その出来事が身体の要求によって自然に記憶から消されたりするそうです。とにかく私はそれを昔やっていたように直接「実感をこめて」書くのが嫌いだったんです。そしてこれが一編の夢幻的な夢や現実と交差しながら読まれることを望んだのです。私が『客人(ソンニム)』を書いてから少し不満だったのは、『客人(ソンニム)』はあまりもリアリスティックです。血なまぐさい生を、もう少し生命本来の余裕で解いてやったらと思うようになりました。実際に「シッキムクッ」のお祓い劇として挿入されている「タシラギ」のような場面は、亡者についてあの世の川を一緒に渡ってしまうこともできる遺族らを、生活の場に戻してやろうとする「シンミョン」 ― つまり興趣のようなものを礼賛する部分です。

 

 沈真卿  だとしたら、『パリテギ』をリアリズム小説とは考えにくいということでしょうか?

 

 黄皙暎  従来のリアリズム概念ならばそうです。私は自分の散文が既存の小説ジャンルの中で自ら変化しているという感じを持っています。『パリテギ』ではこのように凄惨なことをむしろ荘厳な画面として描きたかったんです。たとえば山火事の場面もそうです。ある外国の大学の先生が耳打ちをして教えてくれました。最近、脱北者らのインタビューをしたらしいのですが、山火事の話をたくさんするそうです。どうしてかと聞くと、1990年代中盤からその頃まで、エルニーニョ現象のために全世界でずいぶんと山火事が起きたそうです。ですが北朝鮮が特にもっとひどかったのは、人々が火をつけたためです。火田を掘り起こそうという理由もありました。衛星写真を見ると一時はほとんど北朝鮮全域が燃えています。私の書いたものにもありますが、闇の中で助けてくれと言って救助要請のたいまつを燃やすように ― それで山火事の場面を主な場面として挿入したんです。そして死んでいった魂だけが残ったからっぽの村に入る場面 ― 私は実は中国に行って取材する時、言葉にできない無惨な写真も見ました ― ですが、それをどのように書けるでしょうか。それをすべて描いたものを自然主義小説と言います。私はその本質を語りながらも詩的に表現する方がきわめて重要だと思いました。その次に私が苦心した密航の場面は、巫俗のさまざまな類型として出てきます。横断の諸類型や諸方法、自らの魂や肉身の解体方法や浄化過程のようなものがすべて出てきます。 映画の白黒の画面のように、密航でさまざまなシーンが入ってきますが、それらはみな密航した人々を取材した新聞記事や回想資料に出てくる話です。

 

 沈真卿 『パリテギ』では、チルソンとばあさんの魂が、パリを魂の世界、西天旅行道に導く一種の仲介人として出てくるじゃないですか。ですがパリは霊媒ですから生まれつき生と死、現実と夢、現世とあの世を仲介する存在です。ならばあえてチルソンやばあさんのような仲介人を通じて魂の世界に導く必要があったんでしょうか?

 

 黄皙暎  これは韓国の国文学や民俗学の常識に過ぎませんが、巫子(ムーダン)にはみな肉神がいて、そういう霊が案内者になってくれます。霊媒は肉神や守護霊を通じて彼岸とつながります。またそれはパリの紐がここ韓半島であって、ここからつながって遠くの国まで行くんです。

 

 沈真卿  そうですか。私は忠実な犬や善良で慈悲深いおばあさんのようなキャラクターが、私たちになじみの伝来童話によく登場する人物とそっくりで、その部分が少し寓話的かなという印象を受けました。
 
 
 

夢から得た霊感

 
黄皙暎 イギリスに行ったからといって、黒人のおばさんやジプシーが出てきて案内すると変でしょう(笑)。死の世界もすべて自らの世界があるわけではありません。ならば鬼神も自らの伝統の根がある世界から来るべきでしょう。私は外国に出て夢を見ると、私が母国語にしがみついているからか、現地の話は一つもなく、必ず韓国が出てきます(笑)。実はさっき、ばあさんの話が出ましたが、この小説を書きながら元祖パリばあさんの夢を見ました。私がこのような話をすると「あれはまた大風呂敷を広げているんだ」と言われるかもしれませんが、私は昔から何かの小説を書き始めると必ず夢を見ます。

『張吉山』の時はさっきの護国寺の話もしましたが、そのようなエピソードがあまりにも多くて、自分の家に数百年住んでいた青大将まで出ましたから。その家が『張吉山』を最後に完成してなくなりましたが、その家の跡が今、光州芸術院の民俗広場になりました。それがあの家の運命なんです。海南に行った時は祠堂で暮らした経験もあるんですが、『客人(ソンニム)』を書いた時は本当に恐ろしかったです。トクサンの山あいに住んでいる時でしたが、鬼神が出てガラス窓を壊して、斧や鎌を持って入って来て、踊って、大騷ぎになりました。

 

 沈真卿  先生は全身でお書きになるんですね(笑)。

 

 黄皙暎  ですが今回、本当に面白いのは、私が『パリテギ』の原稿を出版社に送って、担当の編集者が追いこみの校正作業をしていた時のことです。坡州(パジュ)にある創批(チャンビ)の事務室は天井が高いんです。ですが何かがパタパタして大騷ぎだというんです。鳥が一羽、間違って入って来て事務室の中を飛び回っているのですが、よく見たらどうやら鷹らしいんです。それで窓を開けて逃がしてやったというんです。後で編集者が詩人の李時英(イ・シヨン)にその話をしたら、彼が「いい兆しだね。黄某が鷹なんだ」と言ったんだそうです。実は韓国の巫俗画や巫俗には鷹がいつも登場します。この小説では人間と近しく生活するので豊山犬を登場させたんですが、実はメッセンジャーは空を飛ぶものです。鴨とかカササギとか鶴とか、そのようなものですが、巫俗ではもともと神のメッセンジャーは鷹です。これは面白い後日談になりますね(笑)。

 

 沈真卿  そうですね。『客人(ソンニム)』の時は鬼神らと激戦しながら書いたとおっしゃいました。『パリテギ』の時もそのようなことがありましたか?

 


黄皙暎  平和で楽しく歌を歌って書きました。この小説に出てくる歌辞(カサ=定型詩)があるじゃないですか。あれは昔の巫俗歌辞を少しずつ変えたものです。そういうことは私が『張吉山』を書く時からうまかったから(笑)。それに曲をつけて、コンピューターの机に手の平でリズムを取りながら鼻歌を歌って作りました(笑)。とても高揚した状態でした。

 

 沈真卿『客人(ソンニム)』に登場する鬼神が、この世に傷ついた怨鬼に近いならば、『パリテギ』の鬼神ももちろん積もり積もった恨みが多いでしょうが、でもそのような恨みを晴らし、傷を治癒し、包んでくれる存在に近いようです。だから先生も楽しく作業されたのではないでしょうか?

 

 黄皙暎 そうですね。鬼神はもちろん人が作った業から出るので悪霊もいますが、大部分は私たちと一緒にいて、互いに手伝ったり癒してくれたりするようです。その方がはるかに人間的な観念のようでもあります。そのような面で私が世の中に対して少し寛大になったのではないかと思います。

 

 沈真卿  無惨で苦しい現実を誰より多く経験されたでしょうが、何かますますもっと楽天的で純粋になっていかれるようです。先生こそが苦痛を通じて初めて苦痛を治癒できるパリのような気がします。

 

 黄皙暎  私は実は運がいい方です。本能的に好奇心が旺盛で怖がりもせず楽観的です。私はいくら悩みができても10分以上悩みません。「えい、やめてしまえ」と、まず睡眠からとって、なんだかんだ言ったら、昨日のことはなかったことになってしまいます。その昔、安企部(現在の国家情報院)に捕まった時も、ちょうどひと晩寝てみると自分の家のようでした(笑)。よかったですよ。その人たちが敬語を使わなければ私も敬語は使わず、殴ろうとすれば、裁判に行ってみんな言ってやると、拷問するなとわめきちらし、相手が上着を脱いだら私も脱ぎました。
 
 
 

「女性」の視角から見た『沈清』と『懐かしの庭』

 
沈真卿 2000年代以後、先生の小説を語る時、女性というトピックがとても重要のようです。肯定的にであれ否定的にであれです。実は率直に申し上げれば否定的にかなり語られたようです。『懐かしの庭』〔邦訳は岩波書店刊〕以後の先生の作品の中で批判的な議論が最もなされたテキストが『沈清』だったようです。小説において「沈清」は売春女性です。だから当然、性行為の場面が頻繁に出てこざるを得ません。女性読者として私はそのような部分がかなりぎこちなく違和感がありました。特に沈清の初夜の場面がそうでした。誰かに無理やり引っ張られて来て強制的に服を脱がされる状況で、文字通り難に遭っているにもかかわらず、沈清はそのような状況自体を楽しんでいて、はなはだしくは「耐えられない苛立ち」すら感じる始末です。その状況はまるで、女性はレイプされる時でさえ性的な快感を感じるという非常識な俗説を連想させます。だから私の観点で沈清は決して女性人物ではありません。単に男性の観念の中で屈折し定型化された女性イメージに過ぎないものです。これに対してはどうお考えですか。
 
 
 
黄皙暎 『沈清』で性的な場面があまりにも多く出てそう思われるのでしょうか(笑)。実ははじめ私はポルノよりもっと過激に再現したいと思っていました。ポルノはたとえば資本のような冷酷な物性があるんですよ。『武器の影』〔邦訳は岩波書店刊〕にすでにそのようなことが出てきますが、戦闘を終えて米軍基地に戻ると休み時間にバーでポルノを見せてくれます。大理石のように物化された肉身から精液が流れて大騷ぎになったじゃないですか。そうこうするうちに戦線に行くと、朝、夜が明けますが、夜の間の熱気にくわえてスコールが降って死骸はすぐ腐り始めます。足や腕が2、3倍にむくんで真っ黒に見えるんですが、そのような穴の中にトカゲやネズミの群れが出たり入ったりする場面が薄明の中で見えます。私はそういうものを何度も見ました。それとあれをつなごうとしたんです。ですがやはり小説ではあまりにもそういう方面に行った感がありました。だから今回、『沈清、蓮華の道』(改訂版、2007)を出して、あまりにも多くの資料に押さえ付けられたような後半部を少し落として、あまりにも性的な部分は遠回しに表現しました。

 

 沈真卿  私は性的なことは悪くないと思います。ただ自らの身体を、近代を突破する強力な道具のように対象化する沈清の自意識が問題ではないかと思うんです。

 

 黄皙暎  私は沈清を描く時、ボードリヤール(J. Baudrillard)が女性性について語ったことの中に、女性の身体や女性の持つ権力としての女性があるじゃないですか。それはもっともだと思いました。これを倒置させるのもいいという感じがしたんです。そして『沈清』では硝子の鏡が出てきますが、その鏡というのは近代的な産物です。沈清が蓮の花となって象徴的な死を果たして生まれ変わり、南京に売られていった時、最初に見るのが自らの裸になった身体です。それまで自分の身体を一度も見たことがなかったのです。そのとき鏡にいる身体と対話をします。「おまえは誰なの?」 ― これが意味深長な部分だと思います。その次にパリも沈清もそうですが、すべて幼い少女ですね。現在、ムスリムがヒジャブやブルカを着せるかどうかと言っているのもまったく同じ話です。たとえば村の外から見知らぬ異邦人が入って来たりして混乱が起これば、最初に女子供らが最も明らかな犠牲の標的になるじゃないですか。私はもちろんフェミニズムや女性運動を深く尊重しますが、だからといって私は女性運動のために小説を書いているわけではありません。

 

 沈真卿  話題を少し変えて、私は『懐かしの庭』がいろいろと考える余地の多い作品だったと思います。

 

 黄皙暎 『懐かしの庭』を見た評者たちは、それぞれ恋愛小説、歴史小説、後日談小説などと言っていますが、一言でいえばその当時の個人的な私生活の悔恨であり、世界を見る私の悔恨であり、暮れてゆく20世紀を見送る知識人らの悔恨だったと思います。「歴史と愛は時制が合わない」というのがこの作品の主題です。私たちはいつも過去に背いて時間に向かって全人未踏の道を行きます。いつか後日、振り返って見れば、自らの選択が間違っていたとか無茶な道に入ったということがわかります。愛も未熟な時にはわからなかったことが、時間がずいぶんと経ってようやく内面から少し遅く完成しているような感じを持つことになります。しかしもう振り返ることはできません。

 

私は2つの種類の作品を書いていますが、たとえば「客地」は冷たい頭で構成して織ってぎゅっと組んだ構成を作った作品であるならば、「韓氏年代記」は母から聞いたり幼年期に経験した内密な物語を胸の中から汲み出すように書いた作品です。『懐かしの庭』は長年の隔離と別離の果てに自らを治癒して作家に戻ろうとしていた頃の小説です。評論家らは「客地」の類が好きですが、同僚の小説家や一般読者らは「韓氏年代記」の方が好きなようです。率直にいえば、監獄から出て意欲的に最初に始めたのは、『懐かしの庭』ではなく『客人(ソンニム)』だったんです。『客人(ソンニム)』をあのとき200枚くらい書きましたが、5度くらい書き直して中断してしまったんです。

 

釈放されてから私はしばらく自閉症に苦しみましたが、寝る時、大きな部屋でも必ず壁の方に行ってうずくまって寝るのが楽なんです。そして不眠症やノイローゼで苦労していたところ「ああ、自分の話を先に書こう」と思ったんです。事実『懐かしの庭』はベルリン時代にすべて構想していました。監獄でさらにそれを膨らませました。はじめはベルリンだけを書こうと思ったんです。そうこうするうちにそれが肉付けされたんですが、実はそれを書きながら自分を治癒しました。およそ監獄後遺症は収監期間の3分の1の間は続くと言います。私は監獄に5年いましたから、ならば20か月は静養しなければならないのですが、作品は必ず1年ほど書きますから、いつの間にか回復しました。だから実は『懐かしの庭』を書きながら物書きに戻って来たのです。もちろん主人公は監獄で18年暮らし、留学生スパイ集団に入って行った後輩の話もモザイクしましたが、そこに出ている感受性やディテールはすべて私が直接経験したものです。はなはだしくはオ・ヒョヌは私の分身だったとしても、ハン・ユニが経験したベルリン体験や学生運動の後輩らを助けながら経験した主体の葛藤は、みな自分自身の経験です。

 

 沈真卿  私が読んだところでは、ベルリンの壁の崩壊以前までの先生の文学的な企画が単純に言って近代的な企画だとすれば、その後はポストモダン的な企画で物語を作っていらっしゃるようです。今の脱国家的な状況やポストモダンの状況にむしろ最も相応しいキャラクターが女性ではないかと思うんです。必ずしも生物学的な女性でないとしても、女性性を備えたキャラクターが現在の非均質的で複雑な現実に耐えられると思います。先生は確かにこのような世界史的な変化を感知していらっしゃったようです。そして何よりも、女性こそがこのような変化の流れを具体的に表現できる存在であるという事実を、誰よりよく把握していらっしゃったようです。

 

 黄皙暎  ベルリンの壁の崩壊以前とそれ以後の私の文学的企画に確実な違いがあるという点はその通りです。沈先生のポストモダンの眼鏡は気に入りませんけれど。実は前にも小説のあちこちに部分的な片鱗ではありますが女性の話をたくさん書いたんです。そのような感受性が『パリテギ』につながるんですが、実は『沈清』を書いてから少し充分ではありませんでした。それで何かもう一つ書いてみようと思って『パリテギ』に移ったのです。また何か新しいものを書かなければならないんです。今、女性性の話をしましたが、次の作品は歴史的に広く知られた人物のことを書こうと思っています。その重要な媒介が女性であることには間違いありません。とにかく世の中の半分は女性で、みな母親から生まれた子供なんですから。

 

 沈真卿 先生の近作をみな女性的物語と言うことはできませんが、今、お話しのように大きな流れは女性的物語に向かって進んでいるようです。ですが私はある意味で……。

 

 

 黄皙暎  まだマッチョ的でしょうか?(笑)

 

 

沈真卿  いいえ。マッチョ的というよりは、確かに作品は女性的物語の形態を持っているんですが、女性人物の性格描写、あるいは女性人物が物語で占める方式や役割を引き受ける部分が少し定型化されていると言えるでしょうか? 確かに先生の目は遠くから女性的物語の流れを眺めていますが、身体は相変らず既存の男性物語にとらわれているとでも言いましょうか。たとえば『懐かしの庭』のハン・ユニがそうです。とても自主的で独立的な人物なのに結局は母性に回帰するんです。母性こそ代表的な男性的女性神話ですよ。

 

 黄皙暎 それはこうなんです。偉人の名言のように言うならば、結局、女性的なものが私たちを救援するのだというようにです。その作品でケーテ・コルヴィッツ(Käthe Kollwitz)の絵に関する話が出てきます。日本にいる大学教授の友人が東アジアの近代について書いたものが思い出されます。タイトルがとても似合っています。もちろん日本を中心に思考しているものですが、そのタイトルは「独房の雄」です。自分たちはなんだかんだ言って独房に1人でいる雄ではないかというんです。東アジアの近代はまさに母を殺し妻を殺し娘を殺し、そうやって通り過ぎてきたのではないかという気がしました。ですがケーテ・コルヴィッツは母のことを語り、無数に母と息子を描いたんです。男たちが互いに殺しあった世紀が20世紀ですが、そのことを考えながら母性のことを思い浮かべました。女性運動をする人がすぐカッとなるのが何かといえば、最も偉い自然である母性を回復したいという話が出るとそうなります。いや、女性はたかだか母性にしかならないのか? ですが私はまず女性主義やフェミニズムの方で何か言えば本能的におとなしくなります(笑)。なぜなら申し訳ないからです。私は自分たちの年配の年代から見て、恵まれた長男であると同時に家父長的な夫であって、自分しか知らないという罪多き存在です。西欧社会にあてはめてみれば、韓国の男たちはまだ進化が足りない人間だと言うべきだろうか? 誰かが私に冗談を言います。いまや黄皙暎は両生類にでもなったように見える(笑)。老いて反省しきりというわけです。

 

 沈真卿  『懐かしの庭』で描かれるオ・ヒョヌの帰還とハン・ユニの死という小説的情況は、私に1990年代女性文学の運命を連想させます。ちょうど先生の出獄と『懐かしの庭』の刊行の時点が、1990年代の女性文学ブームが終わりかかっていた時点と巧みに一致するからです。もちろん2つの間に不可欠な因果関係があるとは言えません。にもかかわらず、私にとってこの状況は韓国文学のある種の風景をアレゴリー的に示しているようです。それは『懐かしの庭』の刊行直後に某新聞の記事でこの小説を「大きな物語の復活」を知らせる信号弾であると言ったことともかかわっています。そのような点で『懐かしの庭』は皮肉にも女性文学以後の女性文学と見ることもできそうです。ならば2000年代以降のテキストで新たに試みられてきた先生の女性的物語の企画は、1990年代の女性文学の成果をそれなりのやり方で占有したものだと考えることもできると思います。『懐かしの庭』はその分岐点になります。以後『沈清』と『パリテギ』は、このような女性的物語への転換がもう少し本格化した形態と見ることができます。

 

 黄皙暎  世の中に女性の相手がいない男性がいるはずもなく、愛の物語は無条件に女性物語だと言えるでしょうか? 沈先生の多分に主観的見解と思われますが、ただケーテ・コルヴィッツやハンナ・アレント(Hanna Arendt)の省察のように、近代が男性的抑圧と葛藤で構築された世界であるという点では、私も反省の隊列に参加したい男性です。

 

私は『懐かしの庭』で、自分の個人的悔恨と過去の時代の私たちの過誤を指摘したかったのです。いわば80年代に私たちが守ろうとした共同体的な責任、組職、歴史、社会、革命などの一方で疎かにしたり忘れたり隠したりしていた個人的日常と、愛や幸福、内面などに加えられた抑圧について語りたかったのです。世紀末の社会主義圏の崩壊とともにそのような絶望的な世の中の本音が見えました。『懐かしの庭』は後記で明らかにしたように、歴史ではなくその裏路地でつかまって倒れた懦弱な個人に対する考察でした。それが監獄の中で過ごした熾烈な日常の結論だったんです。オ・ヒョヌがカルメの山を訪れ、そこを去るときに、これからの変革は日常とともに持続するだろうと確認する場面で、そのような点がもう一度強調されます。もはや社会主義的な観点は資本主義世界で批判的に内面化され、さらに手に負えない日常的な闘争の過程へと移ることになるでしょう。
 
 
 
率直にいって監獄にいる時、外部の清算主義的な雰囲気を反映する韓国文学に満足できませんでした。どうしてかというと、私が見たところ、1990年代は軍事政権の移行期でしたが、金泳三(キム・ヨンサム)政権になったら民主化はもう完成したという雰囲気でした。面会に来る人々もそのような表情です。そして面会から帰って言っているのは、「黄皙暎が楽しそうにやっていたよ」でした(笑)。私はおかしくなりそうなのにです。あのときはそうでした。私はそのなかで恨みが浸透したというほどではないですが、私が娑婆に出るのを待っていろと言わんばかりでした。悲しくもありました。そしてあのとき多くのことを整理することになります。外に出たら何か新しく始めなくてはと思いました。あのときも現在も放棄せずに続けているのは、これを強迫観念と言うのでしょうが、現実を見逃してはならないということです。

 

私が海外で亡命時期を送って十数年ぶりにロンドンに滞在する時、ニューヨークに行事のために行って外国の大学教授や作家の友人に会いましたが、その友人が何を言うかというと、「私たちはこれまで本当によく遊んだよ」というのです。「これまで」というのは、私たちがみな知っているように世界体制が転換して以後のことを言います。「これからはこれまで遠ざけていた現実に戻ろう」と言っていました。このように螺旋形で反動と反省を繰り返しながら戻るんです。
 
 
 

おかしな「近代文学の終り」

 
沈真卿  そろそろ最後の主題に行きましょうか。このごろ若い作家の作品の中で面白く読んだ作品について少しお話し下さい。

 

 黄皙暎  外国にいるせいですべてを詳細に読むことはできませんでしたが、去年、朴玟奎の『ピンポン』や李恵敬(イ・へギョン)の『隙間』、金愛燗(キム・エラン)の短篇を読みましたが面白かったです。私が『ルモンド・ディプロマティーク』(Le Monde Diplomatique)の韓国語版に「これらの小説を読んだら、私にも帰るべきところがまだあるということがわかって嬉しかった」と書きました。

 

 沈真卿  先生はベトナム戦参戦や民主化運動への参加、北朝鮮訪問など、文学外的なレベルでも現実の問題に積極的に介入しただけでなく、きわめて強い影響力を行使してきました。ですが柄谷行人は、もう文学が責任を負う社会的役割は終わったと言います。もちろんこのような近代文学の終焉の言説をただちに私たち文学の現実に適用することはできず、また少し誇張された面もありますが、それでもこの数年間、このトピックは韓国文学の現実を診断し予測するのに数限りなく語られました。近代文学の終焉の言説に対してどうお考えですか?

 

 黄皙暎  まったくもう ― 私が一言言いましょう。いきなり若い人々が柄谷行人あたりを持ち出して騷がしいです。それらはみな日本の話です。80年代にあったことです。先輩の大江健三郎と私が日本の岩波書店で初めて会って対談をしたんですが、あの時は光州抗争以後の政治的に非常に切迫して危なかった時なので、話が本当にいろいろとありました。ですが大江はよく知られている通りとても謙遜です。彼は私に「私はあなたがうらやましい、そして激動に包まれたあなたの社会がうらやましい」と言ったんです。自分は自らの文学的緊張を維持させる因子が自分の子供だったと言います。彼の息子は精神肢体障害者だったんです。だから子供を生んで育てる過程がとても大変だったと思います。とにかく私にあなたはどれほど闊達で作家として天恵の園にいるか、そのような話をするんです。実は私はその話を聞きながら、微妙にもなんとなく小憎らしかったです。「そうさ、君逹はそのように気苦労でもして、私たちはめちゃめちゃにやられて……」(笑)。第一世界の知識人が第三世界を受け入れるように言うのだから気分はよくありません。ですがその人がとても謙遜な方ですから、心から湧き出た言葉でした。今も本心の言葉だったと思っています。

 


柄谷とも関連がある韓日作家交流というのがいつできたかというと、まず60年代の韓日会談の時まで遡らなければなりません。あのとき裏で双方の橋の役割をしていたコネクションがありました。あのときまでは政治・経済的な癒着関係にとどまっていましたが、全斗煥(チョン・ドゥファン)政権になってから、このコネクションで文化部門が強化され始めました。これは維新時代に金芝河救命運動の以後から韓日民主化運動の連帯組職ができて、日本の市民運動が多方面に韓国民衆とつながろうという実践的な流れが出てきたからです。私は全斗煥政権期以降の文化運動の第一世代の後輩らを抱きこもうとする政権の工作を何度も見抜き、その人物らや脈絡に対しても詳細に把握している人間です。光州でこの間、別世した尹漢琫(ユン・ハンボン)を密航させた後、1985年にアメリカで会って彼の組織的活動を手伝いながら、海外の運動団体を通じて日本の進歩的知識人の市民団体と連携したのもその頃です。岩波書店の雑誌『世界』は「韓国からの通信」を数年間連載しながら韓国の民主化運動を組織的に助けました。

 


だから韓国の軍事政権は、これをひっくり返せるような日本の知識人または作家らとの交流が必要になったのですが、韓国と日本で雑誌も出て、そのようなことを全く表面的にはわからないようにつないでくれる人士も必要だったんです。政権側の許某や金某という人士と韓国の全某氏、日本の安某氏、そして日本の作家や評論家らが数人思い出されます。これらが最初に始めたのが、釜関フェリーが開通する時、韓日文化人の船上対談を準備したんです。私にも参加要請が来ましたが断ったので、その脈絡ははじめからよく知っています。その次に日本に私たちの作品を紹介する韓国の文芸紙が創刊され、日本では韓国文化を紹介する雑誌が日本人らによって創刊されました。資金はもちろん支援されました。このとき中上健次らが登場して、韓国の文人らも訳もわからず交流作品を書いていました。私はもちろんまた断わりました。柄谷はあのときそちらのグループとつながっていました。もちろん彼がこのような内幕を知っていたかはわかりません。韓国の文人らも純粋に動員されていましたから。

 


私は1985年にアメリカを経て日本に行き、東京や大阪、京都などで「ウリ文化研究所」と文化チームを組織するために6か月間滞在しながら、日本の進歩的知識人や作家、芸術家らと会い、これを韓国側とむすびつけました。このように互いに水が違っていたのです。私が会った友人には、和田春樹先生を含めた「日韓連帯委員会」の知識人らや、当時、総評や社会党系列の出版社の編集者、朝日新聞や読売新聞、共同通信などの良心的なジャーナリストたち、演劇団体に属した文化人たち、評論家の伊藤成彦、作家の野間宏や大江健三郎、安部公房、小田実、画家の富山妙子、評論家で岩波書店の社長だった安江良介など、そのほかにも多くの方々が思い出されます。彼らは安保闘争世代でありながら、その下に新しく若い知識人たちがいました。私が彼らと私たちをつないだ張本人です。

 


私が見るところ、日本の私たちの友人が現実の中に立っていたとすれば、柄谷や中上などの文人たちは、いわば一種の文芸サロンに属しているようでした。彼らが安某氏とつながって韓日作家交流が始まります。韓国の文芸誌と連携して何回か往来がありました。私としては彼ら日本の文人らはかなり下に見えました。彼らの文芸理論や世の中を見る目が限られていたからです。私は若い進歩的な評論家らを後で知ることになりましたが、たとえば小森陽一は柄谷よりは数段上でしたし、 ちょっとしたことで大袈裟なことは言いません。柄谷が近代文学の終りとか何とか言ったのはもうずいぶん前の話で、日本の文壇のだらけた雰囲気を反映したものだったのでしょう。少し滑稽なことです。
 
 
 

文学は自閉の道から脱するべき

 
私はこの間、記者懇談会で「今年が韓国文学の中興期だ」などと言いましたが、韓国文学を励まそうと思ってそう言ったんです。事実そうでもあり、いや、記者という人々がたかだか2、3年を耐えられず、この数年、韓国文学は終わったの何だのと騷いでいます。韓国文学があまり売れないので翻訳小説などが売れていたので、そのような気味がまったくなくはありませんでした。ならば、編集者や評論家、記者らがいい作品が出るだろうと言い、昔の作品のこともまた話して、そうして待ちながら引き立ててくれなきゃなりません。今年を見てみましょう。これまで韓国の作家らがそれぞれ書いていたんです。私も書いていましたし、言葉では言いませんでしたが、みな書いていたんです。今年出る本がこれからも列をなして待っているというのにです。どんどん出ますよ。金愛燗のも秋に出るというし、千雲寧(チョン・ウニョン)のも出ると言います。また金英夏(キム・ヨンハ)も出ますし、金衍洙(キム・ヨンス)も準備中です。現在、重鎮から若い新人に至るまで、続々と力作を出しています。だから私は、もちろん韓国文学が危機でなかった時はありませんが、現在は決して悪くないと思います。そして私たちはまだ社会変革が進行中で分断が持続しているので、これからも語るべきことはあまりにも多いんです。文学をやっているという人々すら文学が現在「文化の最下位」だなどと言っていますが、自虐におもむかず自らを尊重すれば他人も尊重してくれます。

 

ですが私は最近、気分が悪いのは、どこかに行って大声でどなれればと思います。いや、わがままな国会議員たちが自分たち同士で争っていて、相手が嘘つくと「小説を書くな」と言います。すると若いネット愛好者たちも、誰かがそのようなことをいえば「小説を書いているんですね」と言います。外国では当代の小説、文学書籍のようなものがその社会の教養の尺度です。いや、このようにゴミのような扱いをされるなんてもってのほかです。だからもう少しプライドを持つべきです。なぜなら社会で私たちがなすべき役割がなくなったから近代文学の終りなのではなく、そのような役割を忘れれば忘れるほどゴミになって終わってしまうんです。

 

 沈真卿  柄谷行人は『近代文学の終リ』でアルンダティ・ロイ(Arundhati Roy)を例としてあげながら、今のポストモダン状況で社会的なメッセージを伝え、社会に対して批判的な発言をすることは何らの意味もない、むしろ他のメディアの方がずっと説得力もあるし、現実の矛盾を暴露して批判することができると言いました。

 

 黄皙暎  それは日本の状況から出た話です。ポストモダニズムを後期資本主義のイデオロギーとして使って駆使しようとする論理です。日本は小説だけでなくメディア自体がすべて資本や権力に食われていて、どのような進歩的・先進的な集団も天皇主義に対しては言及もできません。天皇主義ひとつ解決できないのに、近代以後100年が過ぎていますが、自分たちのどこがまともに争って来た知識人なのかと言いたいです。口だけ達者で、また大げさで、一言で言って「弱い」です。

 

日本の小説がこのようになったのは、市場でベストセラーをかかげて列に並んで、本格文学と大衆文学の壁を崩して、文学の価値が崩壊したので本格文学の作家らが自閉的になってしまいました。みなドアを閉めてしまいました。あきらめて暮らしているのです。その次にどうなるかというと、市民運動の方に所属して、そちらでたまに物書きをして、大学で講義などしながら暮らしているんです。

 

 沈真卿  そのようになった決定的な契機があったんですか?

 

 

黄皙暎  およそ20世紀初頭から西欧文学は危機論を語っていました。昨日、今日のことではありません。特に日本が1970年代の経済的特需を享受して、文学が現実から遠くなり、危機が始まったと考える人が多いと思いす。柄谷の言説に限っていえば本格文学の沈滞はおよそ80年代から始まります。日本の出版界がいくつかのメジャー出版社に統合され、群小出版社がすべてだめになってしまいます。私たちもそのようになるのではないかと心配しますが、買い留めをして列を作らせるところで資本の力の大きい方が生き残るだろうということです。群小出版社は死にます。考えても見てください。現在、1、2万部売れる若い作家たちはすべて忘れられますよ。文学すら一緒に淘汰されるんです。数人のブランド作家は名前があるから生き残れます。ですがデビューしたての新人、5千部くらい売れる、新しくて可能性のある作品が、ベストセラーの隊列の中で痕跡を残すことができるでしょうか。そのまま埋もれてしまいますよ。ならば読者との接点をどう引き出せるでしょうか。そう考えていると自暴自棄になってしまいます。だから本当に文壇の内部でキャンペーンでもしながら、このような問題を解決して、評論家や編集者は交通整理や案内をしながら、正当な価値評価を通じて作品と読者をつなげなければなりません。

 

 

 沈真卿  では先生は韓国文学の未来がそう暗くはないとお考えですか。

 

 黄皙暎  明るいとか暗いとの問題ではなく、それが結局は才能の問題であり、作家らがどれほど文学に全力投球できるかにかかっています。文学に自らのすべての人生を捧げなければなりません。ですが最近はその点がどこか弱いようです。

 

 沈真卿 最近、何人かの作家たちは、小説を個人ブログのようなもので見たりしています。

 

 黄皙暎  それが自閉への道です。資本主義社会において市場でなければどこで大衆との接点を探しますか? 市場で出会えないならば大衆を変化させることもできませんし、世の中も変わりません。そして評論家や編集者らは絶えず本格文学の価値評価をして引き立てながら、読者たちに案内する役割を負担に考えてはならないと思います。私は近代に適応して飛び越えるという言説を憶えています。「新しい」ものは自分自身の読者らと一緒に作り出すのであって、他から借りて来るものではないということです。

 

 

― インタビューの間じゅう、私は彼が本当に若いと思った。政治と文学に対するニヒリズムに陥った私のような人間が見ると、彼は度外れに世の中に対して、生に対して楽観的で肯定的なように見えた。もちろんよく知られているように彼の生は決して平坦ではなかった。ベトナム戦や光州抗争、また北朝鮮訪問や投獄などの経験は、彼に深い精神的な外傷を残し、それはかなり長い間、彼を苦しませた。しかしその渦中にあっても彼は絶えず何かを新しく企てて自らの文学的変化を切望した。苦痛は彼をさらに活気に満ち寛大にしていくようだった。個人的に彼が言った言葉の中で一番印象的なのは、今の若い作家たちを「自分の帰るところ」と言った部分だった。もちろん彼にも若い作家らに対する批判的な見解がなくはないだろうが、それでも特有の柔軟性と包容力で若い作家らの長所や可能性を評価するのは意外に驚きだった。そこには同業者としての連帯感や義理が働いて いたが、他の一方では自らの文学を常に現在進行形で作ろうという彼の意志も重要に作用していたと思う。それは黄皙暎という名の神話を彼自らが崩しながら、新しい創造を模索しようとする意志である。そのような意味で彼は「若い作家」である。

 

 

訳 : 渡辺直紀

季刊 創作と批評 2007年 秋号(通卷137号)
2007年9月1日 発行
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