창작과 비평

「韓国民主革命」という認識の必要性

和田春樹   東京大学名誉教授

 

* この文はインターネット コラム<創批週刊論評>2007年12月18日に掲載された日本語の原文であります。ー編集者

 

 

私は今年は例外的に多く韓国に招かれて、発表する機会を与えられた。5月には光州の全南大学の光州民衆抗争27周年記念国際会議にわが友ブルース・カミングスとともに招かれた。6月にはソウルでの6月民主抗争20周年会議でエド・ベイカーとともに開会講演を依頼された。10月には大邱での東北亜自治団体聯合の国際会議に招かれた。11月にはまずソウルでの日韓歴史家会議で金容ソップ先生とともに「歴史家の誕生」というテーマの講演をした。数日後に同じソウルで韓国国際政治学会と東北アジア歴史財団が共催した「東北アジアの領土問題」に関する国際会議で報告をした。それぞれ異なった主題の会議であったのだが、私は次第にある一つのことを重大なことと考えて、異なった会議でその点をとりあげたり、会議の合間に白楽晴氏をはじめ新旧の友人たちと話し込んだりしたのであった。そのこととは「韓国民主革命という認識の必要性」ということであった。

5月の光州で1980年の事件が国民的な記憶として確立されていることを感じ、道庁前広場での記念行事の人波の中に立ったことが出発点であった。帰途ソウルで、6月の会議の主催者、民主化運動記念事業会を訪問して,丁海亀研究所長と会い、本をいただいた。その中に『韓国民主化運動史年表』(2006年)という大きな本と徐ジュンソク氏の『韓国現代史60年』があった。報告を準備するのにまさに有り難い本で、帰国してからよく検討した。この年表は1954年3月5日のUCLA韓国人職員の賃上げ要求ストから項目をおこし、1992年12月18日、金泳三大統領に当選までで終わっている。この終わり方は一つの選択であるが、はじまりはどのような考えに基づくものかは分からなかった。この年表を見て、韓国民主化運動についての明確な概念がいまだ確立していないのだなと感じられた。

そこで私はいろいろ考えた結果、6月の会議のために「韓国民主革命の30年と日本」と題する報告を用意した。日本人が韓国における民主主義を求める運動を発見したのは、1973年8月8日の金大中氏拉致事件を通じてである。金大中氏が1972年の10月に宣布された朴正煕大統領の維新体制に従うことなく、それと闘争するために亡命した人であったことを知った。だから、それ以後私たちは韓国民主化運動を軍事独裁政権の最高の形態としての維新体制に対する闘争と理解し、それと連帯した。1980年の大きなドラマは市民が武器をとって抵抗するという事件を含むが、それは抵抗の意思の極限的な表現であり、韓国の運動の基本的な性格は非暴力闘争であった。

ついに1987年6月抗争の勝利によって、大統領直選制への復帰が実現すると、私たちは連帯運動の組織を終息させた。しかし、軍人大統領の出現は苦い思いをのこしたので、文民の金泳三大統領が出現した92年12月にいたり、これをより重要な区切りと受け入れた。そして、1997年12月、金大中大統領が実現したときに、私たちは長く待ち望んだその時が到来したと思うにいたったのであった。というわけで、私たちの気持ちからすると、1972年の維新クーデターに対する抵抗から1997年の金大中大統領の当選までが歴史的に個性的な韓国民主化運動の時期ということになるのである。

これなら25年になるのだが、30年と言ったのは、ノムヒョン大統領の当選までと考えた方がいいかもしれないという気持ちからだった。この長期にわたる運動をより個性的な事件としてとらえるには韓国民主化運動より「韓国民主革命」というのがふさわしい。革命を私は既成の国家権力の転覆、新しい国家権力の創出、それによってひきおこされる社会体制の変革の開始という三点で定義している。軍事独裁権力を打倒して民主国家を実現した韓国の運動はこの定義からして立派な革命である。それが長期にわたり、1987年までの非暴力革命期と、87年以後の大統領選挙を通じる革命期の二つの時期からなると考えることができる。

ロシアでは日露戦争の最中におこった1905年の革命を第一次革命とよんでいる。当然第一次世界戦争中の1917年の革命は第二次革命ということになるが、一般にはそう呼ばず、専制打倒の2月革命と社会主義へ向かう10月革命と呼んでいる。レーニンは1915年に20世紀の社会主義革命(社会革命)は新しい形をもち、「一回の戦闘ではなく・・・多くの戦闘よりなる一時代である」と述べている。維新クーデター、金大中拉致事件、民青学連事件、民主救国宣言事件、釜馬事件、朴大統領殺害事件、全斗煥クーデター、光州事件、金大中助命、6月抗争、金泳三大統領当選、金大中大統領当選とつづく韓国の民主革命こそむしろより新しい革命の形をつくりだしたものとみうるのである。

その韓国民主革命が日本に影響を及ぼし、1993年の河野談話、1995年の戦後50年国会決議、アジア女性基金の設立、村山首相談話が生まれたのだが、革命をした韓国と革命には無縁な日本では国民の態度に大きな差があるので、問題も生んできたということではないかということを私は指摘した。

同じことを自分が歴史家として成長していく過程として述べたのが、11月の日韓歴史家会議での講演である。その会議は「反乱か革命か」というテーマでおこなわれたので、当然に私は「韓国民主革命」という問題を日韓の歴史家たちに提起してみたのである。しかし、実は6月と11月の間に私は新しい発見をしていた。日本で私は10月に歴史教育のシンポジウムで南北朝鮮の現代史について報告することがあり、そのさい、韓国の民主化ということが日本の中学校の歴史教科書ではまったく取り上げられていないことを知って驚いていた。戦後の朝鮮の解放、朝鮮戦争、学生革命、日韓条約、戦後補償問題は出てくる。ときに南北首脳会談は出てくる。しかし、韓国の民主化は出てこない。高校の日本史の教科書では、韓国の民主化について書いている教科書もあるとの指摘があった。私をもっとも驚かせたのは、日韓の歴史家が協力してつくった歴史教育の副読本、補助教材の2冊、日本・中国・韓国共同編集の『未来をひらく歴史一一東アジア3国の近現代史』と『日韓交流の歴史 (日韓歴史共通教材) 』においても、韓国民主化ということが重視されておらず、この面での日韓連帯運動はまったくとりあげられていないことであった。

この点について金聖甫氏とも鄭在貞氏とも話したが、どこか歴史家の討論、努力に不足があったのかも知れない。私も歴史学界の外で仕事をしてきて、歴史家の同僚たちとの協力が少なかったことを後悔している。歴史教育のシンポジウムで話したとき、韓国の民主化ということを教科書にどう書くか、どう教えるかが難しいということが指摘された。韓国民主革命と言えば、概念は明解になる。白楽晴氏と話したとき、革命の起点は4・19だといわれたが、すでに教科書にも出ている学生革命を未完に終わった第一次民主革命と呼んで、韓国民主化の方を第二次民主革命、本来の民主革命だと説明したら、子どもたちの理解が助けられるだろう。

このように考えることがよいのか。韓国の同僚のみなさまとのさらなる討論を切望している。白楽晴氏からは分断体制に注目した時代区分と民主革命の関連についてうかがった。その点もさらに討論をお願いしたい。_M#]