창작과 비평

大韓民国、60年の内と外、そしてアイデンティティー

特集│韓半島における近代と脱近代

 

 

 

洪錫律 (ホンソクリュル) srhong@sungshin.ac.kr

 

誠信女子大史学科教授。著書に『統一問題と政治社会的葛藤:1953~1961』、論文に「1968年、プエブロ(Pueblo)事件と韓国北韓米国の三角関係」などがある。

2008年、大韓民国は還暦を迎える。建国60周年を迎え、過去の歴史を省み、記念するという作業は意義のあることであろう。大韓民国の歴史を語る上での特徴のひとつは、民族的な統合と近代国民国家の建設、産業化、民主化などの近代の様々な課題をそれぞれ切り離して先後関係をもって語る傾向があるということである。「先建国、後統一論」や「先産業化、後民主論」などがそうである。

我々はなぜ近代の多くの問題をそれぞれ切り離し先後関係をもって定立することに慣れてしまったのであろうか。それは建国が民族の統合と共に成し遂げられたものでも、そして産業化が民主主義と共に成し遂げられたものでもないという我々の歴史的現実を反映していると言えよう。また日帝(大日本帝国)の植民地化により、近代的な文物と制度の導入が近代国民国家と民主主義の成立へと結び付かなかった我々の歪んだ近代が現在も進行形であることを物語っている。勿論、近代の様々な課題を同時に、そして完璧に成し遂げた国家は現実の歴史上において存在しがたい。けれども近代の一つの課題を他の課題から切り離して先後関係をもって定立し、特定な場合にはそれだけが可能であると他の課題を排除してしまい、その結果「産業化勢力」と「民主化勢力」が依然として対決し続ける我が社会の現状は我々に省察の必要性を呼びかけている。

国家の年齢と人の年齢を単純に比較するのは無理ではあるが、人の年齢でいうと、大韓民国は今60歳を過ぎ、還暦を迎えたところである。一段落をつける成熟さと完成の求められる年齢である。このような意味において大韓民国の内と外を共に振り返り、近代の完全な成就を期し、それと同時に近代以降の可能性も共に語りあう必要があると思われる。

 

1. 大韓民国の隙間、分断と戦争の形成

「今日は政府樹立、明日は南北統一。」1948年8月15日、大韓民国の政府樹立記念行事を主管した「国民祝賀会準備委員会」が主催した懸賞募集で1等なしの2等に輝いた標語である。大韓民国を建国した主勢力はこのように建国と民族統合を同時に成し遂げることができず、統一が未完の課題として残されていることを認めている。けれども政府樹立は殖民統治と米軍政の占領統治から抜け出し、取り合えず「自主独立」という課題を解決したもので、究極的には民族統合への有利な局面をも助成するであろうと主張した。『資料大韓民国史』7, 国史編纂委員会 1974, 811~39頁.

しかし近代国民国家の形成と民族統合が切り離されたその隙間には単に埋めることのできない物足りなさだけが残されたわけではなかった。その隙間には大爆発を引き起こす火種が飛び散っていたのである。

韓半島(朝鮮半島)の分断危機が表面化した1947年の秋頃には多くの人々が分断は同族互残(同じ民族同士の殺しあい)の戦争を呼び起こすだろうという懸念を抱き始めていた。韓半島には長い間統一した中央集権的な王朝が存在し、植民地時代にも分割統治などはなかった。分裂の原因となるような深刻な人種言語宗教的な違いも葛藤もなかった。またドイツとちがい、敗戦国でもなかった。建国と民族統合が切り離されるという状況は不可避的で自然な結果であるというよりはむしろ想像もしがたい最悪の破綻的な状況であった。

大韓民国の政府樹立作業が進められた1948年の7月、南側の知識人330名は声明書を発表、「統一と自主は別々のものではなく、ひとつ」であり、そこに「先後というものは存在しない」と述べ、両者が切り離された場合「徐々に同族互残の惨事へと向かう実態に直面」するであろうと警告した。「330名連名声明書:祖国の危機を闡明する」(1948.7)、都珍淳(ドジンスン)『韓国の民族主義と南北関係』, ソウル大学出版部 1997, 394~96頁から再引用。

さらに「<戦果>と表現される済州島(ジェジュド)の<討伐>」に対しても懸念を意を表した。済州島43抗戦の鎮圧過程において既に「同族互残」の惨事の兆しは見え始めていたのである。

大韓民国の隙間は建国(自主)と統一の間にだけ存在するものではなかった。制憲議会によって制定された憲法には農地を農民に分配し、親日派処罰のための特別法を制定することが可能であると示されていた。さらに憲法の経済関連の条項には社会主義的な要素が濃厚に含まれていた。建国の主導勢力の多くは資本家や地主、親日派などを主な支持層としていた政治集団の構成員たちであった。それにも関わらずこのような条項を憲法に含まざるえなかったのは自らが排除した改革的進歩的政治集団の要求と下からの圧力を意識せざるえなかったからである。このような事実は国家がその主導集団の単なる道具としてだけ存在するものではなく、様々な政治社会的集団が葛藤しあう場であり、それぞれの集団の関係を反映していることを物語っている。

けれども、憲法上に示されていた民主共和国の理想と大韓民国の現実との間には大きな隙間が存在していた。政府樹立が民族統合と切り離される跛行的な過程の中で大韓民国の民主的な合意基盤は非常に貧弱なものであった。左翼と中間派の政治勢力は勿論、1947年まで大韓民国の建国の主導勢力と共に反託運動(信託統治反対運動)を繰り広げた金九(キムグ)や臨時政府勢力などもこれに参加しなかった。このような不安定な基盤のもとで誕生した政府は民主主義の実現は勿論、憲法に規定されていた社会改革さえもまともに実行することが困難であった。その隙間にもまた火種が生まれた。

火種が飛び散る状況を作り出したのは勿論韓国人だけではなかった。ここには外的な規定力も大きく作用した。開放(終戦)は米ソ両軍の分割占領をもたらした。当時米国とソ連はファシストに対抗する同盟国であったが、徐々に覇権対立を繰り広げる敵となっていった。韓半島は最も早くから冷戦の始まった地域である。韓国での左派右派の理念葛藤や親日派清算など、民族問題を取り囲んだ葛藤は米ソの分割占領及び彼らの韓半島において進められた占領政策の結果と密接に関わっていた。ブルースカミングス(Bruce Cummings)『ブルースカミングスの韓国現代史』, 金東魯(キムドンノ)他訳, 創批 2001, 261~306頁.

分断と戦争の原因を語る時、内因と外因のどちらが重要であるかという論争が行われてきが、このような両者の区分はさほど意味のないものと思われる。米ソの分割占領と占領政策は我々の間に葛藤をもたらし、また反託運動の過程で表面化した韓国人の内部の葛藤は米ソ対立にも影響を与えた。内因外因を区別し、その序列を決めることは開放直後の複雑な状況を総合的に理解するにおいてさほど役に立つものとは思われない。国家の歴史は孤立し独立的に存在するものではなく、国際関係の中に、さらにはこれを規定する世界体制の中に横たわっているものであろう。

民族分断は大爆発の可能性が潜んだ火種の飛び散る隙間を作った。しかし分断以降、南北分断国家と米ソの強大国がこのような火種を消し、大爆発を抑える方向へと向かったならば戦争は食い止めることができたであろう。しかしそのような状況へとは向かわなかった。南北の両政権とも「北伐論」と「南征論」を公式的に主張し、各自の同盟国に支援を訴えた。米国とソ連が38度線を管理していた際には主な道路を遮断し、哨所を設けるほどであった。38度線の管理権が南北両政府に引き渡されると南北は防壁と塹壕を建設し、高地に陣地を設けた。鄭秉埈(ジョンビョンジュン)『韓国戦争』, ドルベゲ 2006, 267頁. 38度線では多くの戦闘が相続いた。米ソの冷戦は一層激化し、そしてついに1950年6月25日、北韓(北朝鮮)軍の先制攻撃を皮切りに韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発した。多くの人々が早くから懸念の意を抱きながらも決して望んでいなかった大爆発が起こったのである。

 

2. 冷戦反共の安保国家と419民主抗争

国家と国民が戦争を通して形成されるのは例外的というよりは普遍的な事実である。敵との命をかけた戦いにおいて国民的アイデンティティーは個人の体と意識の中に染み込んでゆく。さらに国家の形成は外部の敵だけではなく、内部の敵に対する排除の中でも成される。張文碩(ジャンムンソク)『民族主義慣らし』, 知識の風景 2007, 200頁. 韓国戦争での保導連盟員の虐殺をはじめ、大韓民国の軍と警察が自国の国民を虐殺するという事件は広範囲にわたって行われた。このような虐殺を引き起こした冷戦反共イデオロギーは「パルゲンイ(赤い人/共産主義者の俗な表現――訳注)」という言葉が示しているようにその言葉自体に人種主義的な要素が含まれている。「パルゲンイ=非檀君(タングン)血統=非民族」という論理と結びつく「左派狩り」は冷戦反共イデオロギーに基づいた国民的アイデンティティーを形成する過程のひとつであった。金東椿(キムドンチュン)『近代の影』, ダンデ 2000, 185~88頁.

ところが韓国戦争を通して形成された大韓民国の国家的アイデンティティーは「自由陣営の最前線」という冷戦陣営のアイデンティティーに圧倒され、制約されるという限界があった。当時の大韓民国は韓半島の共産化を防ぐことが主な目的であった米国の対外援助に絶対的な依存をしながら生存していた。李承晩(イスンマン)大統領の北進統一論も大韓民国が主導する統一というよりは自由陣営が共産陣営を撃滅するための過程の中で自然と統一されるという状況を前提としたものであった。

李承晩政権の反共論理はこのように「自由陣営の最前線」という冷戦陣営の論理に圧倒されていたため、それとは切り離された大韓民国という独自的な単位でのアイデンティティーとその発展方向への形成は困難であった。また極端的な冷戦論理に基づいた反共イデオロギーは極右反共勢力以外の政治集団の存在を認めず、その他の可能性をも許さず、民主的な政治的競争を制約した。このような状況のもと、ついに1960年、419民主抗争が起こり、李承晩政権は崩壊した。

419民主抗争は李承晩政権の没落と北進統一論のような極端な冷戦論理の清算をもたらした。419直後、韓国の外交政策に対する座談会で、ある国際政治学者は「我々は自由陣営の光端的な位置に置かれているため、その運命から抜け出すことはできないと仮定し、外交政策を樹立しているようであるが、(…) 韓国の純粋な立場から今一度考え直す必要があると思われる」と述べた。思想界』、1960年11月号の座談「韓国外交の条件と課題」中、趙淳昇(ジョスンスン)の発言。このように419は冷戦陣営の論理とは区別される独自的な韓国社会の発展方向を模索するきっかけとなった。419直後、政治社会集団はそれぞれの発展可能性を示しながら葛藤したが、その主なる争点は統一と経済建設の問題であった。

419直後の張勉(ジャンミョン)政権をはじめとする保守政治勢力は外国資本の導入を通して経済建設を優先的に行い、韓国社会の繁栄を成し遂げた後に統一を模索しようという「先建設、後統一論」を主張した。419以降保守政治勢力は北進統一論を公式的に廃棄し、南北の共存を事実上認めた。しかし極端な冷戦反共イデオロギー自体はそのまま残っていた。彼らは南北交流と協商のどちらも不可能であるとみていた。それは結局、北韓との「敵対的共存」の中、「体制競争」において勝利をおさめ、北韓を韓国体制へと吸収するという形での統一を想定したものであった。ところが当時、北韓は韓国よりも経済建設の成果において上回っていたため経済建設を優先するしかなかったのである。これは過去の「先建国、後統一」の段階論と相通じるものであった。ただ既に建国が成功し、冷戦対立においても生き残ったため、最優先的な課題が経済建設及び産業化へと移ったことが特徴である。

一方、民間の統一運動勢力は中立化統一論、南北協商論を主張した。このような主張も経済建設の展望と関連していた。中立化統一論はその内部に西欧的な福祉国家をモデルとした民主社会主義的な発展志向を内包していた。即ち、北韓は共産陣営の中で独自性を追求するチトー(Tito)式の社会主義方向へと向かい、韓国は民主社会主義的な発展を遂げながら徐々に体制を整えて、対外的にはスイスやオーストリアなどをモデルとした永世中立化を通して韓半島周囲の強大国との妥協を導き出し、統一を成し遂げようというものである。これは統一と経済建設の同時推進、妥協的漸進的観点での統一と言えるだろう。一方、南北協商論者は反外国勢力反封建反買弁などの民族改革を主張し、統一こそがこのような民族革命を成し遂げると強調した。彼らは経済建設も「統一=民族革命」が成されてこそ可能であると主張した。「北は米、南は電気」、「失業者の仕事場は統一にある」といった当時の統一運動のスローガンはこのような意味での論理を反映している。

419直後の政治社会的葛藤は主に統一問題をめぐって展開されたが、単に一民族一国家を求める論理しかなかったわけではない。それは民族統合、産業化、民主主義などを実現するための多くの経路と可能性をめぐる論議と深く関わっていた。Seuk-ryule Hong “Reunification Issues and Civil Society in South Korea: The Debates and Social Movement for Reunification during April Revolution Period 1960-1961,” The Journal of Asian Studies, vol.61 no.4 (November 2002) 1247~53頁.即ち、近代の実現をめぐる多くの可能性の競合であったのだ。

 

3. 開発独裁、上昇する国家大韓民国

1961年5月16日、クーデターが起こり、朴正熙(パクジョンヒ)軍事独裁政権が登場した。 朴正熙政権は419直後に胎動した近代を実現しようとする多くの可能性の中で「先建設、後統一論」だけを残し、残りのものは全て軍隊の暴力を動員し排除した。それだけに自らの論理、即ち統一なしで経済成長が可能であるということを実現しなければならなかった。下からの圧力は419によって既に存在しており、また北韓との競争も意識せざるえなかった。当時の韓国は追撃者であった。その上、米国は第3世界近代化論を主張し、既に1950年代の後半から経済開発を強調していた。つまり大韓民国の内部、分断体制世界体制の全てからの圧力が存在していたわけだ。

朴正熙政権は経済開発のために「近代化民族主義」を主張した。これは血統と文化を強調する有機体的な民族観に近代化論、発展主義を結合したものである。大韓民国の国民は不均等な世界体制の中で地位上昇を追求する有機体的運命共同体の一員となっていった。このような民族主義は西欧の近代化論者たちが第3世界の抵抗的な民族主義を経済開発推進の動力として活用すべきであると主張したものと相通じるものであった。

朴正熙政権は経済成長を成功させた。韓国経済は幾度かの危機を迎えはしたが、全斗煥(ジョンドゥファン)盧泰愚(ノテウ)政権へと続く30年余りの軍事政権の間に急成長を成し遂げた。1950年から2000年の間に世界各国の一人当たりのGDP増加は平均2倍前後であったが、韓国は同じ期間に18倍増加し、一人当たりのGDP成長率は断然世界トップであった。許粹烈(ホスヨル)「植民地の遺産と大韓民国」, 参与社会研究所『再び大韓民国を問う』, ハンウル 2007, 56頁.

従って世界体制論者たちも大韓民国を例外的に周辺部から半周辺部へと上昇移動した国家として注目している。ジオバンニアリギ(Giovanni Arrighi)他, 果川(カチョン)研究室訳『発展主義批判から新自由主義批判へ』, 共感 1998, 109~12頁.

軍事政権期の韓国の経済成長は基本的に両面性を持っている。人々はこれを朴正熙大統領の「功と過」、「光と影」、そして「得と失」としてそれぞれ両者に分けて比較しようとする。しかしこのような両面性はそれぞれ切り離して比較できないものである。お互いに一体となっているのだ。経済成長の成功要因は、一方ではその過程で生まれた問題の原因でもある。

韓国の経済成長は国家の主導のもとで成された。国家が企業を指導し、市場を統制しながら資源や資本、労働などを統制して計画的に配置した。強力な国家は成功的に機能したが、その一方で肥大化して全てを独占してしまった。従ってその頂点にいる指導者が多大な政治経済的な権力を握るのは当然のことであった。その結果、政治発展は遅れをとっただけでなく、維新体制で見られたように却って後退していった。その過程において広範囲にわたり政治的抑圧と人権侵害が起こった。

国家は内的には市場を統制したが、世界市場には積極的に適応し、流れに従った。国家は選択と集中という市場論理に従って国際競争力のある分野に集中的に投資する要素攻撃的な不均等発展を目指した。勿論、このような政策が全て朴正熙政権の政策的判断と決断のもと行われたわけではない。1963年、米国が介入し、経済開発5ヶ年計画が主に労働集約的軽工業分野への投資という方向へと修正されたように、世界体制の規定力が直接的に作用していたのである。

要素攻撃的な不均等発展は低賃金の競争力を基本としたもので、労働者や農民などの犠牲と排除を引き起こした。当時、労働者は世界最長の労働時間と低賃金、過酷な労働統制のもとで苦しんでいた。また、地域間に大きな格差をもたらし、ソウルと地方の差も大きく開いた。

冷戦と分断の問題においても同様であった。韓国の経済成長が軌道に乗る過程において韓日会談やベトナム派兵は重要なきっかけとなった。米国の東アジア地域統合戦略のもと行われた韓日関係の改善は軍事的経済的レベルにおいて東アジアの反共同盟の強化と密接に関わり、またベトナム戦争は日本、韓国、台湾などの東アジアの資本主義国家全てに経済成長の機会を提供した。

韓国は基本的に開放型経済成長モデルを選択した。閉鎖的な経済体制も成長をもたらすことはできないが、産業化初期からの無分別な開放も成長の妨げになったであろう。しかし韓国は米国をはじめとする先進国市場に接近し、輸出主導型成長をしながらも内的には保護貿易政策を取り、輸入代替産業化を同時に推進した。李炳天(イビョンチョン)「反共開発独裁と突進的な産業化」, 『再び大韓民国を問う』, 125頁. 米国をはじめとする先進国がこのような政策を許容したのは自由陣営のショーケースでありながら北韓と体制競争を行っている韓国に対する配慮であったと言えるだろう。

韓日会談は過去の歴史問題に対する整理を行うことなく、韓日の保守反共勢力が連帯するという形で進められた。このような状況は韓半島の軍事的緊張感を一層激化させた。北韓は韓日会談の妥結を自国を包囲攻撃するための韓日の三国軍事同盟の構築として受け止め、さらにベトナム派兵により一層刺激を受けた。北韓の内部では軍事冒険主義が台頭し、1960年代の後半には青瓦臺(チョンファデ)襲撃未遂事件(121事件)やプエブロ(Pueblo)号拿捕事件などが相続き発生し、韓半島には軍事的緊張感が高まった。

南北の執権層はこのような軍事的緊張感を利用し、それぞれ維新体制唯一体制を構築しながら権力を強化し、1971年の南北対話以降も同じような状況が続いた。冷戦反共イデオロギーは軍事独裁政権の登場以降、副次化されたり発展主義に代わったりせず、却って発展主義と結合し再構成されながら一層強力化された。韓半島の住民に非民主的非自主的な生き方を強要する分断体制はこの時期に一層定着した。

 

4. 民主化、大韓民国のアイデンティティーの新たな可能性

朴正熙軍事政権は経済成長の成功により抑圧だけに頼ったものではなく一定の大衆的同意に基づいたヘゲモニー的な支配体制を構築することができた。しかしこのようなヘゲモニーは決して完璧で安定的なものではなかった。民主化運動勢力は政治的な抑圧と経済成長が生み出した多くの問題を指摘し、絶えず犠牲になりながらも軍事政権に挑戦し続けたため、これによる葛藤と政治的危機が繰り返された。朴正熙大統領の執権18年の間に戒厳令が3回、衛戍令が3回、政治的抑圧を内包した緊急処置が5回発動された。執権期間の間、非常事態の日がそうでない日よりも多かった。

民主化運動は政治的な民主化を主な争点と目標としていたが、1970年後半からは産業化の過程において疎外された基層勢力を代弁する民衆運動や民族分断を打破しようとする統一運動、韓国の経済軍事的従属性とこれを強要する近代世界体制の規定力を克服しようとする運動などと結合していった。民主化運動が提議した課題は近代的なものであると同時にそれを超えようとする意思を内包していた。開発独裁政権と民主化運動勢力の闘争は1980年518光州(クァンジュ)民主化抗争の武力鎮圧をきっかけに一層先鋭化した。結局1987年6月には民主化抗争が起こり、これをターニングポイントとして漸進的に民主化は花開いていった。

1987年以降、韓国の民主化は民主化運動勢力が開発独裁勢力を制圧し、既存の体制を清算するという形ではなく両者の妥協的な再編、漸進的な移行という形で行われた。従って内部的には両勢力の張り詰めたヘゲモニーの対立が進行しながら、政治的民主化や南北関係の改善などが漸進的に、時には壁にぶつかりながら進行していった。

民主化が進むと同時に大韓民国の国民のアイデンティティーも単なる国家権力の強要するものではなく下から自発的に形成されていく様子がみられた。これは2002年のワールドカップの時、街を埋め尽くしたサポーター達が「大韓民国」を叫びつづけていた姿からも確認することができる。この時生まれたアイデンティティーは経済成長と民主化の経験から生まれた独特のものであり、大韓民国を中心に形成されたプライドとアイデンティティーに基づいたものであった。だからといって、これは反北イデオロギーや統一に反対する情緒を促すものではなかった。そしてワールドカップでの熱狂的な応援に続く反米デモでも見られたように、外的規定力からの大韓民国の独自性自主性を追求する情緒とも結びついていた。朴明圭(パクミョンギュ)「21世紀の韓半島と平和民族主義」, 『再び大韓民国を問う』, 476~77頁.

金大中(キムデジュン)盧武鉉(ノムヒョン)政権の10年間、過去に民主化運動を行った一部の人々が権力を握ったが、民主化は期待通りの成果は得られなかった。政治的な民主化は一定の成果を得たが、社会主義圏の没落と新自由主義のグローバル化の高い波高のもと、社会経済的民主化はなかなか拡大されなかった。世界体制の規定力は「MF通貨危機」の中で依然として強力に韓国を圧倒した。韓国の民主化は南北関係の改善へと結びつき、南北首脳会談が二回も開催されるなど、画期的な変化をもたらしたが、未だに北韓の核問題という壁にぶつかり、休戦状態のままである。冷戦反共イデオロギーを規律する核心的な手段であった国家保安法も依然として残っている。

このような状況のもと、国民によって自発的に確立された大韓民国のアイデンティティーも動揺し始めている。今回の大統領選挙の過程で見られたように、過去の開発独裁時期の近代化発展主義の言説を受け継いだ「先進化」言説が強力に台頭した。これに対抗した勢力は「民主平和」言説を提議したが、過去の論理から画期的に進展した姿を見せることはできなかった。結局選挙の結果は先進化言説を主張した勢力側の勝利に終わった。

 

5. 段階論的大韓民国の成功ストーリーの危険性

先進化言説の主唱者たちは最近決定論的で進化論的な段階論に基づいて大韓民国の歩んできた歴史を語っている。開放直後大韓民国は共産化の危機と北韓の侵略に打ち勝ち、建国を成し遂げ、これを土台に目覚しい経済発展を導いた結果、民主主義の物的基盤が設けられ、中産階級の成長と共に民主化が得られたといった内容である。そして今後はこのような成果に基づいて先進国入りへのステップを踏み出すべきであると力説している。統一問題に関してもやはり段階論的な論理に基づいて「先先進化、後統一」を主張している。安秉直(アンビョンジク)「大韓民国の成就を土台としてこそ統一も実現可能となる」, 『韓国論壇』216, 2007.

このような段階論の問題点は強力な排除の論理を含んでいるというところにある。歴史は基本的に不可避的に決定され、既に決められた段階を踏むのではなく、多種多様な可能性をおいて各政治社会集団が葛藤する過程の中で形成されるものである。多くの可能性の葛藤とその力関係の中で或る一つの可能性が現実化されるということは他の可能性が犠牲になったということを意味する。犠牲になった多くの可能性とそれによる葛藤を最初から実現可能性のない無意味なものとして扱い、決定された可能性だけをもって機械的な段階論を適用して歴史を認識するのは、過去を現在に従属させることであり、歴史意識の狭小化をもたらすものである。鄭昌烈(ジョンチャンヨル)「歴史認識の主題と歴史認識」, 『明日を開く歴史』, 2001年春号, 43~44頁.

実現されなかった可能性と葛藤は歴史において無意味なものではない。犠牲になった可能性は政治社会的な圧力として作用し続け、抵抗運動を通して表面化したりもする。権力を握った集団は自らが主張した可能性を現実に実現したとしてもこのような圧力を完璧に排除することはできなく、一定部分は受け入れざるを得ないだろう。従って歴史の中で現実化されなかった可能性も歴史の発展に影響を及ぼすことになる。大韓民国の60年間はこのような多くの可能性の葛藤の中で作られたものであった。そしてこのような葛藤が存在したがゆえに、如何なる国家の歴史よりも力動的であり、多くの成果を得ることができた。

決定論的進化論的な段階論に基づいた歴史認識のもう一つの問題点は近代の課題としてお互いに結びついている国民国家、産業化、民主化をそれぞれ引き離して先後関係をつけ、一方をもう一方の前提条件として見なしているという点である。鄭泰憲(ジョンテホン)『韓国の殖民地的な近代省察』, ソンイン 2007, 259頁.お互いに結びついているものを引き離して序列化し、先後関係を決定するのは政治闘争のためのレトリックとしては効果的であるかもしれないが、歴史を認識するには望ましくないものであろう。

このような問題点は民主化運動の過程で見られた「先統一、後民主論」や「先民主、後統一論」などにも同様に指摘できる。また1980年代の急進的な民主化運動の大きな二つの潮流であったNL(民族解放)論とPD(民衆民主)論の対立も同様である。民族解放と民衆解放はお互いに切り離せない関係であるにもかかわらず、NL-PD論争においても両課題が関連性を失い、切り離される状況となった。崔章集(チェジャンジプ)『民主主義の民主化』, フマニタス 2006, 271頁.

またこのような論争は社会主義圏の崩壊と新自由主義のグローバル化の過程の中で現実に対処する具体的な実践代案として発展できず、急速に解体され、最近に至っては単なる政派的な対立の根拠となっている状態である。

最近論争となっている近代と脱近代の問題も同様である。脱近代の問題は近代が完成されてから考えようという論理も問題であるが、完全な近代を成し遂げようとする努力自体を近代に埋もれてしまったものとして見なすのも問題である。完全な近代を成し遂げようとする作業と脱近代の課題は基本的に切り離せないものである。

これは分断克服の問題を考えてみると理解しやすいだろう。南北のどちらかが武力や経済力によってある地域の領土を他の地域にまで拡大するという方法ではなく、平和的で妥協的な方法によって統一されれば、国家連合であろうが違った体制をとる地域間の連邦制であろうが、少なくとも既存の国民国家体制の変形が求められる。朴明圭(パクミョング)「複合的な政治共同体と変革の論理」、『創作と批評』2000年春号参照。この問題は近代的な問題であるが、一方では国民国家を超え、新たな政治共同体を目指そうとする脱近代的な思考がなければ解くことのできない問題である。民主化運動も同様である。韓国の民主化運動は早くから民衆運動と結合し、単なる政治的な民主化だけでなく、社会経済的民主化への拡散を目指したものであり、さらには世界体制の規定力にも挑戦してきた。これは近代的な課題でありながらこれを飛び越える課題でもある。

近代の完全な内容を成就し、これに適応するものと近代を克服する作業は両面的な性格を持っているが、先後関係では切り離せない単一課題であるのだ。白楽晴(ペクナッチョン)「韓半島での植民性の問題と近代韓国の二重課題」、『創作と批評』1999年秋号参照。白楽晴は他の論文で自身の提議した近代適応と克服の二重課題は「二つの同時的な課題でない両面的な性格を持った単一課題」であり、「適応と克服の間に先後はない」と明らかに主張した。従って「二重課題」を自身の英文の原稿には「a double project」と、単数形として表記していることを指摘した。白楽晴「再び知恵の時代のために」, 『韓半島式の統一、現在進行形』, 創批 2006, 115頁の注13。国民国家、産業化、民主化などの近代の課題が切り離されたまま先後関係を形成しお互いに排除しあい、また近代の完全な成就と脱近代論がお互いを排除しあう思考が我々の社会の中に依然として根付いている。大韓民国の隙間が今も我々の現実と意識の中に生きているのだ。

大韓民国の60周年が建国、富国、民主国家、先進国へと向かう段階論的な観点での成功ストーリーだけで記念されるというのは残念なことである。 還暦を迎え、これまで歩んできた歴史の内と外を共に省み、実現されたものと犠牲になったもの、そして未来の歴史へと向かう多くの可能性を共に語り合えることを期してやまない。 (*)

 
 
訳=申銀兒
季刊 創作と批評 2008年 春号(通卷139号)
2008年3月1日 発行
発行 株式会社 創批
ⓒ 創批 2008
Changbi Publishers, Inc.
513-11, Pajubookcity, Munbal-ri, Gyoha-eup, Paju-si, Gyeonggi-do 413-756, Korea