和解の障壁 : 2008東アジア批判的雑誌会議をおえて
陳光興 台湾交通大学社会文化研究所教授、『インターアジア・カルチュラルスタディーズ(Inter-Asia Cultural Studies: Movement)』主幹。韓国語に翻訳された本に『帝国の目』がある。
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月曜日(2008年5月26日)、みんなで台湾大学の向かい側にあるベトナム料理屋で昼食を終えたあと、私は車を走らせてお客さんたち(『創作と批評』主幹の白永瑞、『けーし風』編集委員の鳥山淳、『現代思想』編集長の池上善彦)を桃円空港まで送っていった。
その日は一日中、雨が降ったり止んだりして、人々はどの時点で傘を買うべきか迷っていた。車から降りた長年の友、池上善彦が私に言った。この傘を置いて行くから使ってくれ、と。私は笑ってありがたく受けとった。彼が台湾に来るのは三回目だ。今回は3、4日を過ごしたのだが、車に乗る時に見ると鞄が見当たらない。意外にも今回は荷物が少ない、と笑うのだった。私が、着替えはどうしたのかと聞くと、彼は自分の体を指して、これで全部だ、と言った。日本の左派浪人の伝統か。気の向くまま足の向くままに生きていく。彼は人間関係が広い。お堅い学者から公園の路宿者に至るまで、東京に行けばどの業界の人に会うにしても、この人さえ通じれば問題ない。彼と知り合ったのは多分1996年だったと思う。その後、私が東京に行く度に、彼は自分の仲間たちを呼び出した。〈竹内好を読む会〉の友人を呼び出して、新宿駅の近くの寿司屋に集まって日本酒でほろ酔い気分になり、そのまま群れて歌舞伎町を歩き回った。彼は17年前から『現代思想』の編集長をしている。一年に12号を出し、その他にも5~6号ほど臨時増刊号を出す。日本の小規模会社がそうであるように、休みの日などめったにない。そんな彼を見る度に、ダメな気がしてならない。台北に呼び出したのも、この時を使って彼をちょっと休ませるのが狙いだったのだ! 自身の東アジア化をいっそう進めるために何年か前から彼は韓国語と中国語を勉強しはじめた。今回、彼は特有のアクセントを帯びた北京語〔普通話〕で私にこう言った。オレも年をとったなぁ、オレたちみんな年取ったなぁ!
今回台北に来た沖縄の隣人、鳥山淳は皆から愛された。発言する時も積極的で、弱小地域から来た人の縮こまった姿は見せなかった。元々は『けーし風』のもう一人の編集委員、岡本由希子を呼ぶ計画だったが、臨時で彼が代わりに来た。以前、彼のとても粋な文章を読んだ事があり(英語に翻訳された)、彼の思考には慣れていたはずだった。個人的に、私は沖縄についてあまり知らない。二度行ったことがあるだけだ。しかし、私は沖縄に特別な思いをもっている。その風土と人々の心は日本と違う。人々は皆、アジアの大都市に住む人より自由で飾り気がなく、そこはまるで故郷のような感じを与え、経済が発展する以前のマカオのような場所である。野心を抱く人々は香港、台湾を立ち去り、残った人々はもっぱら優しくて親しみやすい人々だ。特に記憶に残っているのは、なんでも混ぜて(卵あるいは肉と炒めたり、凍らせてスライスにしてサラダにしたもの)料理した沖縄名物のゴーヤー(苦瓜)、そして一風変わった味の強い酒だった。東京、台北などでも私は少なくない沖縄の友人と会った。『エッジ(EDGE)』の編集長である仲里効は、その地域で尊敬される思想家であり作家であり、またカメラマンでもあった。新城郁夫は比較的若手に属する人物で、台北にも来たことがあった。前に阿部小涼を呼んで上海で開かれる『インターアジア・カルチュラルスタディーズ(Inter-Asia Cultural Studies: Movement)』会議に一緒に参加したこともある。つい最近、沖縄から東京の国際基督教大学に行った田仲康博も、カルチュラル・スタディーズ関連会議でたびたび会う友人だ。鳥山とは初めて会ったこともあり、少々よそよそしかった。出発の日の朝食の時にようやく福華文教会館食堂で、一言二言交わすことができた。日本、韓国と同じく、言語コミュニケーションの面で自分の考えを完全に伝えることはできなかったが、心のコミュニケーションは精神と感覚、そして情熱の相互感染を通じてなされのが常、遂に考えが通じあう仲間であることを互いに発見したのだった。何日間も昼食をともにしたので、出発前になって彼に台湾の食べ物はどうかと聞くと、彼はこう答えた。「ハオツー(好吃)」。このイントネーション、どうやら池上から学んだようだ。
白永瑞〔ペク・ヨンソ〕とは、2001年前後に知り合った。当時、台湾中央研究院の客員研究者として台湾に半年間来ていた彼とは、私が主管するアジア連帯シンポジウムのとき偶然に知り合い、ほどなく親しくなった。今回も彼にはかなり助けられた。先週火曜日(5月22日)に白楽晴〔ぺく・なくちょん〕先生と一緒に来てインタビュー、講演、討論をした。池上や鳥山と違い、白永瑞は台湾の常連客だ。6月初めからは、漢学センター(漢学中心)に3ヶ月間の日程で再び滞在中である。彼は真の「東アジア人」だ。韓国語、中国語、日本語、英語に長けているだけでなく、常に東アジア各地を歩き回っている。日本と中国大陸の各地で比較的長い間滞在した経験もある。彼の幅広い人間関係の力を借りようと、『台湾社会研究季刊(臺灣社會研究季刊)』は、2004年から彼を編集委員として正式に迎え入れた。ソウルでも彼は多くの場にかかわっている。延世大学史学科教授のほかにも、2006年から『創作と批評』の主幹を担って雑誌および単行本の編集をしているし、延世大学国学研究院の院長でもある。文章もそうだし、会議もそうだが、大変だろうにめったに疲れた気配を見せない。一般的な韓国の男性と違ってよそよそしさもなく、自由で、私の学生たちとも冗談を交わしながら笑って歌って踊ったりもする。ここ何年か、彼はインターナショナリズムの精神を遺憾なく発揮してきた。『インターアジア・カルチュラルスタディーズ』の隔年会議は常に経費が不足がちだが、そのたびに彼が現われて力になってくれた。この前、上海で開いた時にも彼が東奔西走して力をつくしてくれた結果、初めて南アジア、東南アジア、西アジアの友人たちを呼ぶことができた。台湾にもたびたび来るせいか、あちこち美味しい所をよく知っている。彼はよく食べるし、酒もよく飲む。会議初日の夜に三種類のワインをチャンポンで飲んで、翌日頭痛でフラフラだった私に比べて、ビールから始めてワイン、そして二鍋頭(白酒)で仕上げた彼は、翌日、何事もなかったかのように起きてきたのだ!
ここまで長々と書いたが、すべて酒の席の話だ。東アジアの男性文化と思われがちだが、実は必ずしもそうではない。台湾、〔中国〕大陸、韓国、日本などにいるフェミニストで女性の友人たちは皆、男たちより酒をよく飲む(悪口を言われるかもしれないから名前は挙げないでおく)。ただ、ここで言いたいのは、酒を媒介にした付き合いの歴史は、えてして隠され、論じられることはないが、知識、感情、信頼、相互理解と互いに対する愛情は、実はどこででも飲酒の歴史と密接につながっている。こういった性格をもつ会議の組職が可能になる基礎は、会議の中身や構造自体のみにあるわけではないのだ。普段、忙しい日常にかまけて二、三日の暇を得ることさえ非常に大変なこの編集者たちに、飲酒の歴史という情緒的連帯がなかったら、今回の会議の動力も得られなかったであろう。会議に参加するすべての人が会議のテーマと関係を結ぶようになったところには、互いに異なる歴史があり、そこには不均衡で非均質的な情緒的要素が介入する。しかし、まさにそれゆえに私たちは、私たちが見ることになる結果を予測することは永遠にできない。経験からいうと、明確な目的を持とうとすればするほど、そして全体の構造を整えようとすればするほど、結果は悲観的な方に行く。枠組みは持ちつつも、ゆるやかに維持して、オープンにしておけば、会議はむしろ期待以上の効果を得ることになる。今回の会議もそうだった。
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見送りを終えて新竹に帰って来る途中に、バケツをひっくり返したようなどしゃ降りに遭った。一週間の疲れがすっきりと洗い流されていくかのようだった。今学期のもっとも重要な仕事を終えて緊張がとけたのか、頭の中がぐるぐる回った。午後のうちずっと、心と体が別々に遊離しているかのように全身がだるかった。しかし、大脳の休息を邪魔するかのように、脳裏の一方では会議の一幕一幕がまるで映画の場面のように休みなく巡っていた。
これは私にとって組織するのが二回目、参加するのは三回目のアジア刊行物会議であるこれ以外にも2005年8月のICAS第4回会議が上海で開かれ、シンガポール国立大学アジア研究所のミカ・トヨタ(Mika Toyota)がアジア刊行物円卓会議を組織してThe International Journal of Asia Studies (浜下武治)、Asian Journal of Women Studies (金用實)、Journal of Southeast Asian Studies (Paul H. Kratoska)、中国大陸曁南大学の『東南亜研究』そしてInter-Asia Cultural Studies (筆者)が招かれた。この会議はアジア研究のコンテクストのなかで進められたものだった。。2000年12月に『インターアジア・カルチュラルスタディーズ』会議の一環としてARENA(AsianRegionalExchangeforNew Alternatives、新しいオルタナティブな社会建設のためのアジア交流)の支援の下で開催された福岡の九州大学会議の時には、雑誌連帯論壇部分を担当した。それはとても切実で重大な任務だった。アジア各地の知識界をつなぐもっとも確かな方法は、各地の雑誌を一つにつなぐことであろうが、それは、大概の場合、各雑誌周辺にはそれぞれの知識人集団があり、雑誌は実のところ彼らの重要な戦略的基盤となっているために、主幹〔編集人〕同士が互いに知り合うだけでもアジアの批判的知識界の連合は速度を増すからだった。
それぞれ違うルートと関係を通じて、私たちは互いによく知らない雑誌の主幹と代表たちを招待した。12月1日午後3時、会議は正式に始まった。 ピボプ・ウドミティポン(Pibop Udomittipong)はタイの『パチァラヤサラ(Pacarayasara)』の主幹で、池上善彦は『現代思想』の代表であり、長年の友人であると同時に日本「中生代」新左翼のリーダー格である崎山政毅は運動と思想そして国際連帯を結合した『インパクション』を代表して来た。『創作と批評』からは金英姫〔きむ・よんひ〕が出た。大陸から来た二人の主幹もまた私の長年の友人だった。中国社会科学院の社会学者・黄平は『読書(讀書)』の主幹であり、東アジアで最大の動力をもったという社会科学院文学研究所研究員の賀照田は『学術思想評論(學術思想評論)』の主幹だった。運動に長年の間参加してきた嶺南大学文化研究科の劉健芝はARENAの機関紙『アジア交流(Asian Exchange)』の代表として参加した。ラテンアメリカ知識界で活動する人物もいた。ベネズエラ中央大学グローバル化と社会文化変遷センターのダニエル・マト(Daniel Mato)もこの会議に参加したこれに対する比較的詳しい記録としては次のものがある。Inter-Asia Cultural Studies, Vol.2 No.3, 2001.。
司会を引き受けた私は、この会議がもつ歴史的・象徴的意味をよく分かっていた。言語の障壁のせいで、すべての発言がその場で日本語および英語に同時通訳されなければならなかっただけに、私の心理的負担はとても大きかった。甚だしくは意思疎通の任務をまともに遂行することができないのではないかと恐ろしくもなった。最初の出会いであることを考慮して、各雑誌は自分の歴史、立場、出版状況そして各社会での位置づけについて報告した。緊張した状態だったが、会場をぎっしり埋めた参加者たちの拍手と共に3時間後には円満に終わることができた。
最初は『インターアジア・カルチュラルスタディーズ』がこの会議の総合責任を負ったが、その後に各地で雑誌の中心的人物がそれぞれ会って、信頼を積み重ね、自然発生的関係がつくられ、また翻訳を通じた合作がなされれば、それ以上『インターアジア・カルチュラルスタディーズ』の助けは必要なくなるだろうという考えだった。しかし2000年以降、何年間か全面的発展がなかった。次の集まりの時まで個別の雑誌と比較的密接な関係を結んできたのはやはり『インターアジア・カルチュラルスタディーズ』だった。
2006年6月9日、ソウルのプレスセンターで『創作と批評』の創刊40周年記念会議が、白永瑞主幹の企画のもとに「東アジアの連帯と雑誌の役割」というテーマで開かれ、同月10日には延世大学に場を移しておこなわれた。招かれた雑誌は、沖縄の『けーし風』(岡本由希子)、『台湾社会研究季刊』(陳宜中)、『読書』(汪暉)、『民間』(朱建剛)、『現代思想』(池上善彦)、『インパクション』(冨山一郎)、『世界』(岡本厚)、『前夜』(徐京植)、『インターアジア・カルチュラルスタディーズ』(筆者)、そして韓国の『黄海文化』(金明仁)、『女/性理論』(高鄭甲煕)、『市民と世界』(李炳天)、『創作と批評』(李南周)だったこの会議に関するものとして「東亜批判刊物連帯」、『台湾社会研究季刊』2006年 9月号、とりわけ白永瑞の編集者注を参照。。『創作と批評』が韓国で占める位置のためか、この会議はソウルでも広範囲な注目を集めた。マスコミ報道のほかにも大統領直属東北アジア時代委員会委員長がコメンテーターとして参加したりした。
この会議では、いくつかの主な討論方向が提示された。第一、東アジアの平和は各地域の変革といかなる関係をもつのか?第二、各地域で「進歩」が何を意味し、今なお現実的意味を持っているのか? 第三、東アジアの統合のなかで韓国はいかなる位置を占めるのか? 特に南北分断体制の克服のための努力と地域はどんな関係を持つのか? 第四、何が東アジアの平和の障害物となっているのか? これらに対して批判的立場をもっている雑誌はいかなる役割を果たすことができ、またどのように連帯を形成することができるのか?
会議というものがえてしてそうであるように、問題設定は、たいがいの場合、現場の優先的議題を反映する。会議を組織した白永瑞が評価会議で語ったように、会議過程で二番目の問題は充分に討論できなかった。おそらく「進歩」が韓国社会で(もしそれがあるとして)特定の知的文脈をもっているからであろう。2006年の初めに韓国の進歩陣営で「いかにして進歩を再構成するのか」に関する激しい論争が起こったが、1987年以来、「進歩」イデオロギーを掲げてきた民主運動が盧武鉉〔ノ・ムヒョン〕政権下でその改革性を挫折させられた状況のなかで、「進歩」の意味をどのように理解すべきかが問題として浮上していたということが、その主な背景としてあった。しかし、このような背景と切迫した危機意識が、他の参加者たちに共有されることはなかった白永瑞「関於形成東亜認識共同体的呼籲: 記〈東亜的連帯与雑誌的作用〉国際学術会議」、『台湾社会研究季刊』2006年9月号、223ページ。。率直に言って、会議に参加した私も三番目の問題である「分断体制」については極めて表面的なレベルでのみ理解していた。2008年、今回の会議を期して白楽晴教授の関連著作を充分に読み込んで、ようやく徐々にその思想的位相の深みを捉えることができるようになったのだ。
2000年の福岡会議が、ただ互いの存在を認識するのにとどまったとするなら、2006年の会議は少し前進した。雑誌がどのような進歩的役割を果たすことができるのかという共通の議題が討論され始めたのだ。そして、2008年の会議になってようやく三番目と四番目の問題が深く討論され始めたのである。
もっとも印象的だったのは、『創作と批評』の組織力だった。これもまた、各地域の雑誌の物質的基盤の巨大な格差を示すものだった。
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先立って開かれた二度の会議をもとに、参加した各雑誌は基本的に、すでに互いを認識していた。そのおかげで2008年の『台湾社会研究季刊』20周年記念東アジア批判的雑誌会議の時には、自己紹介段階を省いて、テーマについての討論をより進めることができるように企画した。20周年を記念するために『台湾社会研究季刊』内部で企画したいくつかの活動のうち、私が担当したのは、5月下旬の国際会議だった。それは瞿宛文が担当した9月下旬の会議のための準備会議として位置づけられていた。ところが問題が起こった。過去の会議にはすべて代表者だけを派遣したので、『台湾社会研究季刊』内部に参加経験のある人が少なかったのである。ほとんどの人が疑問をもった。このような状態で討論に入っていけるのか、台湾の批判的知識人たちはこの会議でどんなことを得るのか。しかし、この疑問を前提に、会議の総体的位相は相互「学習」、すなわち互いに異なる社会的背景をもつ雑誌が直面している矛盾の核心を理解することに置かれた。こういった問題を焦点化すれば、各地域の雑誌の主幹と会議に参加する台湾の友人および聴衆が、少なくともそれまでは疎かった地域の問題を学ぶことができるという算段だった。こんな考慮から、東アジアの和解の障壁に関連する、台湾海峡両岸、南北朝鮮、沖縄という三つの議題が討論の主軸に選定された。こうして2006年のソウル会議で提示されはしたもののきちんと討論されなかった四番目の問題が「和解の障壁――東アジアの批判的雑誌会議」というテーマで再構成されたのだ。
2007年12月初旬、私たちは白楽晴教授に基調講演を依頼し、各地の雑誌に招請状を送った。沖縄の『けーし風』(岡本由希子)、韓国の『創作と批評』(白永瑞)、大陸の『読書』(葉彤)と『南風窓』(寧二)、日本の『現代思想』(池上善彦)と『インパクション』(冨山一郎)、台湾の『思想』(銭永祥)および東アジアにまたがる『インターアジア・カルチュラルスタディーズ』。これらは招請を快諾してくれた。『台湾社会研究季刊』内部からは編集主幹の徐進鈺が発表を引き受けることになった。名簿だけ見ると、大部分がこれまでの会議に参加したことのある雑誌だ。比較的特殊なケースとしては、『台湾社会研究季刊』編集委員の白永瑞と賀照田がそれぞれ韓国の『歴史批評』と中国・広州の『南風窓』を推薦してくれて、広大な読者群を持った雑誌を台湾および東アジア知識界と接続した点だった。一般的には、会議の企画と実際に開催された会議との間には多くの調整と落差が存在する。しかし驚くべきことに、今回の会議は、招待を受けた雑誌が漏れ無く集まり、参加メンバーの面でも大きな変動がなかった。これはおそらく、これまでの成果の蓄積の結果だろう。参加メンバー間に相互理解と信頼があったからこそ、会議は比較的安定して組職できた。
もちろんもっとも興奮したのは、『創作と批評』の創刊者でありソウル大名誉教授でもある白楽晴が基調講演を引き受けてくれたことである。名声と公的発信力をもとに最近は6・15共同委員会南側代表として活動してきた彼は、南北朝鮮の和解過程に関して豊富な経験を持っていた。特に1990年代から「分断体制論」を提起しており、東アジア全体を見回しても私たちの会議の基調講演者として彼以上に相応しい人物はいなかった。私が個人的に白楽晴教授と知り合ってからは10年が過ぎる。前にソウルで何回か会ったことがあるが、遠くから仰ぎみるだけで、深い話を交わす機会はなかった。今回、彼の思想の深みと微細な肌理そしてほかの人からはめったに感じることのできない誠実さと、そのオープンマインドなところを初めて味わったわけだ。せっかくの機会を逃してはなるまいと、私たちは、公式会議の基調講演とは別に、2008年思想・歴史・文化高等講座の教授として彼を招き、二度の公開講演の席を用意した。一つは「グローバル化時代の第三世界と民族文学概念の含意」で、もうひとつは「西洋古典へのグローバルなアプローチに向けて」だった。その他に台湾の文化研究者たちとの対話の席も用意した。充分な準備の上で彼を迎えるために、私たちは清華大学大学院に一学期の課程を開設して彼の関連著作(韓国の現代民族文学における代表的作家・黄皙暎〔ファン・ソギョン〕の小説を含む)の数々を読んだのである。今回、彼と一週間、朝晩毎日顔を突き合わせたことで、私と私の授業を聞いている学生たちは、彼を身近に理解することができた。白教授は会議の開幕講演、つまり台湾を去る前日まで、私たちと友人のように付き合ってくれた。その時、彼は私たちにとって、もはやあの高みにいる「大先生」白楽晴教授のコメントを引き受けた馮品佳は後に彼の学問的風貌に「碩学(大儒)」という言葉で敬意を表した。ではなく、真の友人となっていた。
会議の方向性と発表者を決めた後、残る重要な問題は参加と討論の質をどのように高めるのかという問題だった。『台湾社会研究季刊』の20周年会議であるだけに、当然『台湾社会研究季刊』の同人たちが会議の参加主体にならなければならなかった。なので、だいたい各自の長所に合わせて役割を分担した。2人1組のコメンテーター指定という原則のもと、テーマに合わせて人員を割り振り、外部からもコメンテーターと司会者を招いた。企画当時もそうだったが、長年の準備過程で、私たちにはある共感帯が形成されていた。『台湾社会研究季刊』としては、集団的に外から客を迎えるということが初体験だったので、予想も出来ない問題にぶつかる可能性もあった。
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2007年、より安定した運営と同人の間の協力の拡大のために『台湾社会研究季刊』は世新大学と共同で台湾社会研究国際センターをつくり、同大学の社会発展研究所の黄徳北所長をセンターの主任に、『台湾社会研究季刊』社長の夏曉鵑を副主任に迎え入れた。センターの主要活動のうちの一つが国際会議の開催だったので、今回の会議の企画と進行は同センターが引き受けることになった。
5月24日の会議当日、牟宗燦〔世新大学〕総長の主導で開幕式が行われた。牟総長はちょうど海外にいたのだが、急遽この会議のために帰国してくれて、そのおかげで私たちは大きなサポートを得た。続いて白楽晴教授の基調講演。頼鼎銘教務長の司会で、陳宜中と私がコメンテーターをした。白楽晴の講演は第二次世界大戦後の東アジアの国際情勢からはじまって中国とその他の国々との関係に注目し、特に南北朝鮮、南北ベトナム、両岸の分裂にアメリカが加えた巨大な影響力を分析した。そして朝鮮半島に高度にシステム化された「分断体制」がどのような段階を経て固着化したのかを説明したのだが、その核心は、すべての体制が不断の自己再生産の運営論理を形成したというところにあった。
彼は、南北朝鮮の分断がもつ性格が、他の国の歴史経験とは一致しないと考えている。典型的な反植民地戦争をしたベトナムでは、フランスが退くなかでアメリカが介入し、遂にベトナム戦争でアメリカを退けることで分裂が終決した。また、分裂していた東西ドイツは冷戦の終息とともに統一を宣言することになった。中国の基本モデルは一国二制度〔一国両制〕を通じた前植民地(香港)の再統合だ。こういった経験とは違い、南北朝鮮の分断体制はかなり頑強である。1972年の時点ですでに自主・平和・民族大団結を原則とした7・4南北共同声明を宣言していたにもかかわらず、その後の具体的進展はなかった。2000年、二人の指導者の首脳会談が開かれてようやく、「終局的統一」を果たすためには必ず国家連合(confederation)あるいは「低い段階の連邦制」(low-stage federation)形式の過渡的中間段階を経るべきだとのところで双方が同意した。
白楽晴は、統一過程における民衆の参加が何よりもカギを握っていると考えていた。民衆の力量があればこそ、既存の頑固な構造を解体することができるというのだ。しかし目の前の段階は極度に遅れている。彼は目の前の危機が長期化することはないとし、その根拠となる三つのキーポイントをあげた。第一は、米朝間の強い敵対感が克服されていること、二番目は韓国が経済回復のためにも対北朝鮮関係を改善しなければならないこと、三番目は韓国を排除して米朝会談で朝鮮半島問題を処理する方式(通美封南)を、北朝鮮も最後まで固守することはできない、というものだ。南北朝鮮の経験から考えると、最悪の選択は現状維持(status quo)の試みであり、必ず地域という枠組みで現実の政治問題と向き合わねばならないと彼は指摘した。この地域的枠組みが「主権」問題を弱めると同時に、多角的協力過程のなかで分断体制が柔軟になってこそ、非暴力的局面への転換が可能になるというのだ。
最後に彼は大陸と台湾問題についての見解を提示した。まず彼は南北朝鮮の経験と分断体制論を両岸関係に直接的に適用することはできないとした。大陸の立場からみるなら、台湾は「未完の歴史的任務」であり、決して南北朝鮮のように対等な分裂状態ではない。よって、中華帝国の周辺として位置づけられてきた台湾は、1895年に日本に割譲されてから大陸政権の直接的統治を受けてこなかったために、平和的・漸進的方式がもっとも良い。一方、台湾としては、中国大陸との安定(settlement)局面にたどり着くことは必須であり、その安定局面は必ず高度の創意的過程を通じてつくられねばならない。その過程に広範囲な民衆の参加を得ることができれば、結局、東アジア地域全体にかなり肯定的な発展をもたらすだろう白楽晴の完全に整理された発表文は『台湾社会研究季刊』2008年9月号を参照。。
白樂晴の発言は会議の方向を決定づけた。以後、各セッションの討論は彼が提出した各種の問題へと戻っていった。
午後のセッションのテーマは、全体会議のクライマックスである沖縄だった。沖縄は台湾のすぐそばにあるにもかかわらず、第二次世界大戦後、ほとんど私たちの視野に入ってこなかった。しかし、沖縄が直面する困難な状況に対する認識と米軍基地に反対する力強いエネルギーは、地域関係の変化を駆動する強力な潜在力だ。この機会に沖縄問題を台湾の批判的知識界の問題意識のなかに持ってくることは、今回の会議を組職した動機のうちの一つでもあった。このセッションは鳥山淳と池上善彦が発表、何春蕤の司会で進められ、コメンテーターに『台湾社会研究季刊』の陳信行、そのほかにも台湾の民衆史作家であり夏潮連合会1976年に台湾社会各層で政治の民主化・経済の民主化・社会の民主化という目標を実現するために組職された団体「夏潮」〔シャチャオ〕の後身で、1986年には雑誌『夏潮』の編集者、作家、読者たちを基盤に夏潮連誼会が発足した。1990年に正式名称を「夏潮連合会」に改称した。(韓国語訳者註)の会長でもある藍博洲を招待した。藍博洲は沖縄についてかなりの理解を持っている人物だった1990年代中盤、在日韓国人の徐勝〔ソ・スン〕と台湾の陳映真、大阪大学教授の杉原逹などを主軸に「東アジアの冷戦と国家テロリズム」というテーマで何回かの学術会議が開催されたが、そこでも沖縄問題は重要な位置におかれ続けてきた。ゆえに、台湾の左翼および進歩団体の中でも夏潮連合会は沖縄問題に対して少ないが基本的な認識をもっていた。 。鳥山の発表は、1972年、いわゆる沖縄の日本「復帰」論争を基点にして1879年の日本政府による琉球王府強制解体および沖縄県としての編入について論じたうえで、1995年に沖縄内部で(内地との)社会構造的な差異と変化に対する認識が形成され、米軍基地の持続的占有に抵抗するにいたるまでを分析した。彼の論点の核心は、歴史的観点からみることによって、沖縄問題は、一般的な理解とは異なり、日本国内の問題ではなく、植民地支配の問題であると同時に日米連合の沖縄占領および侵略の問題である、というところにあった鳥山の発表文は参加の感想とともに本誌今号の 159~69ページに掲載されている。(編集者註)。池上の発表は主に1995年に起こった米軍による沖縄少女暴行事件の後、日本の知識界がどのようにして沖縄問題を批判的に認識するようになったのかを軸に、その過程で『現代思想』が踏み台的な役割をしたこと、たとえば具体的には沖縄地域の知識人の論文を載せて、東京と沖縄の知識人の連帯を駆動した過程について報告した。
続くセッションでは『インパクション』を代表して沖縄社会史を研究する大阪大学教授の冨山一郎が沖縄近代史と地域経済問題を発表し、『台湾社会研究季刊』主幹の徐進鈺が両岸経済統合過程で現れる複合的問題が将来の両岸和解にもたらす困難さについて発表した。台湾の重要な政治学者であり台湾大学政治学科教授の朱雲漢が司会をし、『台湾社会研究季刊』瞿宛文と魏玓がコメントした。
1970年代、すなわち日米安保条約反対運動の後半につくられた『インパクション』は、運動性の非常に強い隔月刊行誌である。職業活動家と大学の運動圏知識人を結び合わせて現実的争点を論じることで既存の言論空間にも介入し、「思想の運動化と運動の理論化」を試みる、アジア全体でもかなり特色のある雑誌だ。多くの編集委員が京都大学で前後期の学生運動を担っており、雑誌の編集は東京と京都が交替しながらおこなっている。冨山自身は1980年代から沖縄社会史を研究しはじめて、1990年に『近代日本社会と「沖縄人」』という重要な著作を出版し、2006年には第二次世界大戦当時の沖縄を論じた『戦場の記憶』を出した〔初版は1995年。2006年に出たのは増補版である〕。日本と沖縄知識界の連帯において重要な役割をする人物だ。彼の発表はまず『インパクション』が1982年に沖縄特集号を出すなかで、沖縄を日本国内の植民地と定義していたことを報告した。今回の発表で彼は沖縄の近代史を地域経済の資本運動という枠組みで分析したが、核心となる論点は次のようなものだ。すなわち沖縄は日本の植民主義の歴史的操作を通じて大東亜共栄圏の地域経済に編入されたのであり、戦後には米帝国主義が、沖縄がそもそももっていた地域戦略的地位を接収して冷戦体制下の世界資本主義の陣営に編入した。沖縄の経済生活はそれによって帝国の軍事戦略に従属させられてきたのであり、さらに沖縄の現代経済史は日本の民族経済(nationaleconomy)に従わざるをえず、まさにこのような理由から沖縄の解放は民族(種族集団、ethnicgroup)の解放であると同時に世界資本主義に対する挑戦だというのだ。この位相から見れば、冨山の結論と白楽晴の朝鮮半島分断体制克服論は、実際に論理的にも一致する。
『台湾社会研究季刊』代表の徐進鈺の発言は、現実への挑戦を内包していた。彼は、両岸の和解は政治的位相を超えて経済とも直接的な関係をもつとした。実際、両岸の経済統合は急速に進んでいる。むしろ政治家の統制によって社会的・政治的分化が生じたのだ。これをどのように解釈すべきか? これに対する徐進鈺の解釈は次のようなものだ。すなわち、経済統合の利益は台湾の少数の大企業にほとんど完全に集中し、大多数の中小企業と労働者たちはその恩恵にあずかることができない。また、地域の発展レベルにしても、北部の技術集約的産業は成長が早かった一方、中南部は相対的に遅い。この構造的問題が、台湾を格差社会化していく物質的基礎である。言い換えれば、国家の資本促進政策は少数の産業を育成するだけであって、公平な利益再分配の機制を欠いている。こういった状況は、両岸情勢が政治家によって独占される経済的基盤を造成した。どのように両岸の和解を維持すべきかという問いを前提に、国家に再分配機制およびすでに造られてしまった格差社会の問題を解決するように求めることが、『台湾社会研究季刊』が当然にして注目せねばならないアジェンダだ。
会議がもっとも盛り上がったのは、もちろん晩餐だった。大変な一日を送った後に腰を落ち着けてビールとワイン、そこに白酒まで加わった。雰囲気は熱かった。食後も若い友人たちはそのまま飲み続けた。聞いてみると、夜もかなりふけてから終わったとのこと。
翌朝、当初は両岸の三つの雑誌の代表が発表することになっていたが、『歴史批評』の朴明林(パク・ミョンリム)教授が急にソウルに帰らねばならなくなり、彼の発表を一番最初に前倒しした。彼の発表は東アジア共同体の想像と企画に焦点があてられていた。台湾の参加者たちには最も疎い議題だった。国際社会での地位が曖昧な台湾にとっては、国際組職のレベルで問題を考えるための条件がそろっていなかったからだ。事実上、韓・中・日の三カ国の政府はかなり前から東アジア共同体の運営を議論してきたが、大部分の予算が官僚システム間の協力会議に投入されており、そこに民間が介入する余地はほとんどなかった。これもやはり地域共同体形成過程であらわになった危機である。朴明林の立論の基点は東アジアとその他の地域共同体との違いを比べることにあり、特にEUを参照した。そこから、互いに異なる位相におけるそれぞれの運営機制を分析した。もちろん、特に注目を集めたのは、民衆の参加と知識人集団の役割に関する部分だった。
次の発表者は『南風窓』編集人の寧二と『読書』編集人の葉彤だった。世新社会発展研究所所長の黄徳北の司会で、『台湾社会研究季刊』からは呂正恵と馮建三が出て、この三つの雑誌が東アジア問題を扱ってきた歴史に焦点を合わせて討論を進めた。1985年に創刊された『南風窓』は、中国政府の積極的外交政策に歩調をあわせて2002年から「国際」欄を開設した。主にアメリカと西欧世界を扱い、東アジア問題にはたまに関心を向ける程度だった。これはおそらく「大国心理」として理解できるだろう。台湾問題は「時事」欄で扱っており、その大部分が選挙と両岸政治に関することだったが、彼は概してそれが外在的描写に過ぎず、台湾民衆の視点で実際の内部の状況を理解しようとする試みはできなかったと反省した。こういった認識にもとづき、『南風窓』は2006年から台湾特集をつくり、台湾社会に対する大陸人民たちの認識を深めるために努力しているという。葉彤は『読書』で東アジア問題を意識的に討論したのは1996年からだったとし、主要動力は西欧中心主義を超えてアジア、アフリカ、ラテンアメリカを繋げる世界地図を再構成することにあったと回顧した。ここ10年あまりの間、日本、韓国、台湾、香港、インドなどの地域についてかなりの量の論文が蓄積されており、なかでも相当部分が現地の学者たちによって執筆されていることから、『読書』は大陸知識界で名実ともにアジア問題を探求する拠点となったと語った。続けて葉彤は『読書』がどのように日本と朝鮮半島、沖縄そして台湾を表象してきたのかを分類し分析することで、東アジア問題に対する大陸知識界の認識の版図を描いて参加者たちに示してくれた。
午後の最後の発表者は『思想』主幹の銭永祥と『創作と批評』主幹の白永瑞だった。今回の会議には参加できなかったが孫歌の論文「東アジア視角の認識論的意義(東亜視角的認識論意義)」が討論の過程で注目され回覧された。このセッションは出版人の林載爵が司会をおこない、『思想』編集委員の沈松僑と『台湾社会研究季刊』編集委員の寗應斌がコメントした。銭永祥の提起した問題はかなり挑戦的で、彼は、現在、台湾に進歩的雑誌は存在しえないし、進歩の志向があるといっても、過去に対する単なるノスタルジーでしかないと語った。進歩的刊行物の存在を不可能にさせる歴史的条件として、彼は台湾において左派の伝統が樹立されなかった点をあげた。左翼的観念はもっぱら知識人に限定されており、その社会的力量がないという点、すなわちエリートはいても民衆はいないということだ。 特に台湾で左派を自負する知識人たちは、中国革命の歴史を説明するための筋道をまだ掴むことができていない。その他にも、台湾の左翼思想が成したことは非常に微々たるものだ。他の思想的潮流との対話ができずに、ずっと自己閉鎖的な道を歩んできたせいで、外部の世界の発展を理解することもできていない。このような彼の論旨は、その後、激しい論争を引き起こした。
白永瑞は東アジア共同体が目下形成中であるという問題意識のもとで議論した。まず人文学者たちの議論が文化と価値の領域に集中する一方で、社会科学者たちは政策の実現という側面に注目しているという点を指摘しつつ、彼は、必ずこの両側面を統合してこそ東アジア共同体の発展の動向を明らかにすることができるとした。最も注目されたのは、朝鮮半島の分断体制を克服する国家形式として「複合国家(compoundstate)」論をあげたことだった。簡単に言うと、複合国家とは、南北朝鮮という二つの国家の存在の異なる形態を認めつつ両者を結合することであり、一方では元々の民族国家の作用を維持しながら、他方ではその限界を超えるというものである。ここで核心となるのは、朝鮮半島複合国家の形成が最終目的なのではなく、それは東アジア共同体に向けた過程であり、またそれが世界資本主義体制の克服を試みるものだという点である。寗應斌は白永瑞の論旨から、社会をいくつかの社会で構成されたものとみなす「複合社会(compoundsociety)」のイメージを演繹することにより、強い社会がその周辺部の諸主体に加える圧力を解体しようとした。このような論理的拡張に対して白永瑞は、まだそこまでの考えに至らなかった部分だとして、大きな知的刺激を受けたとした。
会議のエンディングパーティーは連経出版社の編集人・林載爵が主催し、豪華で余裕のある晩餐を皆で楽しんだ。席が終わってから、海外から来た友人たちのうちの何人かは過去の歴史を感じるために馬場町日帝時代の台北市の行政区域で、戒厳期の刑場で有名な場所。現在、そこには馬場町記念公園がある。(韓国語訳者註)を見学しに行った。
5
今回の会議で得られた成果はいったい何だろうか? 最後の整理討論が終わる頃だった。 池上が、討論過程で沖縄が南北朝鮮や両岸のように相互に参照できる対象となりえなかったことに不満を感じた一方、鳥山は沖縄の存在形式自体に意味があり、東アジアの隣人たちの参照項に充分なりうると語った。ふたりの発言から、突然、インスピレーションを受けた。最初は考えられなかったことだが、東アジア各地域の経験の違いが、二日間の討論で相互参照の体系を形成しうるという事実だった。
確かにそうだった。今回の会議を2006年のソウル会議と比べて見ると、あの時の討論は相互認識と相互学習の段階だったし、相互参照の条件はまだ整っていなかった。ところが今回の会議を見ると、たとえば意識してもいなかったが、白楽晴の分断体制論が両岸関係を厳然と理解する主な参照点になっていたし、白楽晴も両岸と朝鮮半島の経験の違いを討論の議題に入れていた。会議の終わりに白永瑞は、次回は分断体制と丁乃非が言った分裂国家(partition)との違いをテーマに会議を組織できるかもしれないとした。もしかすると、これは私たちがアジア間の相互参照の方法を深化させていっていることを示しているのではないか。インド-パキスタン、シンガポール-マレーシアの分裂、そして南北朝鮮および南北ベトナムの分断の経験は、両岸問題に新たな知的生命力をもたらしてくれるかもしれない。沖縄の状況は、池上が考えたほどには悪くないと思われる。沖縄についてよく知らないままにむやみなことを言うことはできなかったが、一部の参加者たちにとって今回の会議の最大の収獲は、沖縄が彼らの視野に入り、これからも重要な位置を占めるようになったことだった。二日間の会議に参加した清華大学台湾文学研究所の大学院生・陳運陞は、沖縄の状況を聞いて、思考の窓がぱっと開かれたようだとの感想を述べた。『台湾社会研究季刊』の李尚仁も沖縄に強い関心を示した。
個人的に私はずいぶん前から、去る1~2世紀のあいだの植民地帝国主義者による第三世界地域の参照体系は、ひたすら西洋(欧米)の経験にあり、このような荒唐さに近い単一化が知識界の最大の危機であることを再三強調してきた。その意味でアジアは、実体であるとか重大な問題であるとかいうことを超えて、アジアにコミットしている、それぞれに異なるさまざまな主体に、ある想像の停泊地を与えることができるような、そして停泊した地の歴史の中に入り込むことを可能にするような参照点であり線であり面である。そして遂には私たちの主体性をはるかに多元的に認識させるような、自我転換の媒介である。同一視の対象および参照座標の多元的転移を積極的に追求する時、私たちは初めて憎悪に満ちた脱植民化の運動から抜け出すことができるのであり、もはや過去に否定的に向き合うことも、強固な帝国主義的アイデンティティに閉じこめられることもなくなる。しかしこのようなことを声の限り叫んでも、聞いている人々にとってはスローガンに過ぎない。去る10年あまりの間の限りない会議の中で、こういった問題が具体的に体現された会議は極少数だった。会議の組織者としては、これがまさに今回の会議で最大の成果だった。
実際、どんな会議であれ、その人ごとに、そのテーマに入り込んだ歴史時間が異なり、入り込む速度と自分の中にもっている資源も異なるので、期待値もまた違って当然だ。会議を終えた後、いい気分になって、個人的にも時間の無駄ではなかったと思うなら、それだけでも実りある会議だったというものだ。そのうえ、会議場を出る瞬間にもう次の出会いに対する新しいアイディアをエネルギッシュに思い浮かべて、今後の活動の方向を描き始めたのならば、よほど成功した会議だったといえる。しかしやはり、率直に言おう。それはあくまでも予想の外の成果でしかないのである。(*)
*本稿の原題は「和解的路障:二〇〇八東亜批判刊物会議後記」であり、本紙とともに『台湾社会研究季刊』にも掲載される予定である。――『創作と批評』編集者。** 〔 〕内は日本語訳者による註または韓国語訳および陳光興の原文の原語である。訳出に際しては基本的に韓国語の訳文に従い、陳光興の原文は参照程度にとどめた。
- 韓国語への翻訳: 白池雲(ペク・チラン)/仁荷大学韓国学研究所研究教授
- 韓国語から日本語への翻訳: 金友子(キム・ウジャ)/立命館大学コリア研究センター研究員