現代韓国の抵抗運動とキャンドル抗争
特集 李明博政府、このまま5年を續けるのか
1. 韓国現代史の予測不可能性
大衆の気持ちが正確に読み取れない人々にとって大衆の変化は常に唐突であるしかない。韓国現代史の予測不可能性という言葉は知識人が大衆の変化を予想できなかったことに対する弁解であろう。金洙暎(キム・スヨン)が最後の作品「草」の中で歌っていたように、大衆は風よりも早く倒れるが風よりも早く起き上がる。風よりも遅く泣き、風よりも先に笑う。我々はいつも草が倒れるという事実に挫折しながら再び起き上がる草を忘れていたのではないだろうか。
2. 大衆の驚くべき復元力
4月革命は翌年の朴正熙(パク・ジョンヒ)の5・16軍事クーデターによって未完の革命となった。朴正熙は1969年の三選改憲を通して1971年4月27日の大統領選挙で辛うじて当選したが、就任前から不正選挙糾弾運動や教練反対デモ、国立病院及び国立大学付属病院の研修医のストなど、強力な抵抗に直面した。3度目の任期に就いた朴正熙政権の最初の六ヶ月間は7月1日の就任直後である7月28日の司法騒動、8月10日の広州(クァンジュ)大型団地事件、8月18日のソウル大学物理学部の教授らを筆頭とする大学教授らの大学自治宣言、9月15日の韓進(ハンジン)商社のベトナム派遣技術者らのKALビル放火事件、10月5日の首都警備司令部の武装軍人の高麗(コリョ)大学乱入事件、10月15日のソウル逸院(イルウォン)洞に対する衛戍令発動、引き続く学生に対する大規模な除籍と強制入隊、11月12日の中央情報部のソウル大生内乱陰謀事件発表、そして12月6日には国家非常事態が宣布されるなど目まぐるしく過ぎていった民主化運動記念事業会研究所編、『韓国民主化運動史年表』、 2006。。乱脈な政権運営や国民の強力な抵抗など、李明博政権初期に劣らない状況であった。永久執権の野望に取り付かれた朴正熙はこのような危機を逆利用し、1972年、10月維新を断行して憲法を踏みにじり国会を解散させた。全権を掌握した独裁者朴正熙は10月維新からちょうど7年経った1979年10月26日中央情報部長の金載圭(キム・ジェギュ)によって射殺された。
朴正熙が射殺された後、彼の政治的養子とも言える全斗煥(ジョン・トゥファン)が先頭に立って朴正熙のいない朴正熙体制を引き継いでいった。全斗煥は光州(クァンジュ)市民を虐殺し政権を握り、その惨憺たる虐殺の夜が明けるとこれもまたちょうど7年ぶりに6月抗争が始まった。1990年2月、保守大連合による3党合党の結果民自党が発足した。216席の巨大執権党の出現は日本の自民党政権がそうであったように数十年間の長期執権を予約したかのように見えた。しかし大衆はその3党合党からちょうど7年目の1997年に初の水平的政権交代を実現させた。
韓国の歴史を振り返って見ると重要な選挙の度に大衆は新たな転機を生み出してきた。1967年6・8不正選挙により構成された第7代国会において第1野党の新民党は僅か44席に過ぎなかった。しかし4年後の1971年の第8代国会議員選挙において新民党は議席数を二倍以上に伸ばして89席へと躍進し、また大統領選挙では投票では勝利を収めたが開票で敗れたといわれるほど朴正熙を脅かした。このような状況の下、朴正熙は10月維新を断行したが、大衆は諦めずに起き上がった。緊急処置の暴圧の中で行われた1978年の第10代国会議員選挙では野党の新民党が共和党を得票率で1.1%上回った。全斗煥は執権後、全ての政党を解散させ、新たな基盤を作った。与党の民政党は保安司(「国軍保安司令部」の略称)が組織し、第1野党の民韓党は安企部が作った。民政党の第二中隊と皮肉を言われていた民韓党は1985年の2・12総選挙で正統野党の復元を標榜した新民党ブームに跡形もなく吸収統合されてしまった。1992年の第14代総選挙でも大衆は保守大連合という人為的な政界改変を拒絶し、再び両党制を復元させた。
このように大衆は常に再び起き上がった。如何なる暴圧も如何なる人為的な工作も大衆を一時的に倒すことはできても眠らすことはできなかった。我々が忘れてならないことは大衆が起き上がる支点が何の変化も期待できないような最も暗澹な瞬間であったということだ。1979年、維新体制が崩壊される6ヶ月前の状況を振り返って見よう。緊急措置が公布され、学生運動はかなり萎縮されていた。最近のような街頭デモは勿論、校内デモすら許されなかった。学生5人が一つのグループになってスローガンを叫び、印刷物を振りまき、同調者を集めていると、校内に常駐しているバスの中から私服警察と戦闘警察隊が出てきて鎮圧されるというのが学生デモの典型的な姿であった。このような学内デモもあまりなく、1学期に2、3回程度であった。1979年度の1学期にソウル大ではデモが一度もなかったほどだ。デモを主動する学生すら集めることができなかったのである。そのような暗澹な状況から6ヶ月も経たない内に絶対権力者の朴正熙が射殺されたのだ。YH事件以降、急速に展開していった民主抗争と釜馬抗争がなければ、朴正熙が自分の片腕であった金載圭の銃で射殺されるようなことはなかったであろう。
1987年の6月抗争勃発の6ヶ月前も同様であった。1986年のアジア競技大会を成功させた軍事政権はオリンピックを控えて在野運動勢力を完全に弾圧してしまおうと意気込んでいた。1986年の下半期には○○党、○○同盟などの多くの公安事件が立て続けに起こった。10月28日に始まった建国大事態の際は200人の大学生が一度に拘束されたりもした。その頃筆者は民主化運動青年連合の機関紙『民衆新聞』の記者であったが、一週間おきに発行されたこの新聞の一面には二週間の間の抗争記事が掲載された。ところが朴鍾哲が死ぬ2、3日前に開かれた編集会議の時には一面に載せられる記事が殆どなかった。その時編集長をしていた先輩が、室内で百人だけでも集まってくれたら一面に載せてあげるのにと嘆いていた姿が今もくっきりと目に浮かぶ。ソウル市庁広場を百万人の人々が埋め尽くす6ヶ月前の話である。2008年、キャンドルが点された直前の状況もこれと同じような状況ではなかっただろうか。
3. 民主化の結果としてのキャンドル集会
多くの人々がキャンドル集会に驚きと賞賛の気持ちを表している。十代、特に女子中高生らが中心になって始まったキャンドル集会の驚くほどの自発性と想像力は全く新たな現象であった。果たしてこの十代はどこから現れたのだろうか。これまでの民主化に対する成果がなければ、キャンドル少女たちは決して生まれなかったと思う。彼女らの出現は民主化運動40年と民主政権10年の間、積み立て続けていたが満期を忘れていた「民主積立金」を給与されたものと喩えてもいいだろう。
過去の民主化運動に身を捧げた人々からすると、今の青少年が民主主義には全く関心も興味もない情けない若者として写るかもしれない。1987年の6月抗争と比べると、当時道端で壮絶に民主主義を叫んだ人々は実際には一時も民主主義を味わったことのない者達であった。建国以来最も本をたくさん読んだ世代と言われている386世代は民主主義について熱心に勉強した。彼らは頭では切実に民主主義を望んだが、身体は軍国主義の教育に慣らされていた。今のキャンドル世代は過去の386世代のように民主主義について勉強したりしない。もしかすると彼らには民主主義に対する概念自体しっかりと定立されていないかもしれない。けれども民主主義は彼らの身体に身についている。70、80年代の抵抗が一度も手にできなかった念願としての民主主義への渇望とするなら、今のキャンドル抗争は体質化された民主主義を奪おうとする時代錯誤的な政権に対する身体から発散された抵抗であろう。
彼らは386世代よりも民主主義に関して深くは知らないだろう。しかし彼らは民主主義において必ず知るべき一つの重要なことを知っている。こんなやり方は間違っているということを、李明博のようなこんなやり方は間違っているということを。キャンドル少女たちが見せてくれた行動は享有された民主主義、体質化された民主主義から滲み出たものである。これは過去の「手段」としての民主主義を切実に要求した人々とは本質的に違っている。80年代の民主主義は身についたものでもなく、民主主義自体が目標でもなかった。民主主義とは統一のため、民族自尊のため、そして民衆解放のために必ず必要な踏み台であっただけだ。
キャンドル少女たちの出現は民主化に対する再評価を要求している。多くの人々が民主化に冷笑的だ。私自身も例外ではなく、あらゆる講演会で權永吉(クォン・ヨンギル) 議員風に「民主化によって生活が楽になりましたか。」といった冷笑的な質問を投げかけたりした。多くの人々がそのような反応を示すのはもしかすると当然のことかもしれない。果たして民主化によって得をした者がいるだろうか。一般市民が民主化のもたらした果実を味わえなかったとは言えないが、民主主義により得をしたのは財閥や大手新聞社、官僚、私立学校、大型教会などであった。政権交替が可能となることによって政治権力の有限性が証明されたが、これは逆に交替されない世襲権力の位相を高める結果ともなった。三星(サムソン)共和国から三星王国と言われるほど、民主化された社会の中で財閥の影響力は大幅に拡大された。三星秘密資金事件をみると財閥が国家権力よりも優位に立って国家権力を操ってきたということが分かる。全斗煥政権時代の1985年に国内財閥順位8、9位であった国際グループは全斗煥の一言で空中分解されてしまった。
1992年に現代(ヒョンデ)財閥の鄭周永(ジョン・ジュヨン)が大統領選挙に出馬したことがあるが、彼は政界に莫大な政治資金を取られるくらいならそのお金で自分が大統領になると言って出馬したのである。このように民主化以前は政治権力が財閥の将来を操り政治資金を取り上げていたのは日常茶飯事のことであった。当時は政治権力が経済権力を圧倒していた時代であった。民主化以降は朝鮮・中央・東亜日報などのような保守新聞社が大統領を貶すことは日常の事となってしまったが、維新、第5共和国の下では「報道指針」に縛られて政権の定めたガイドラインを超えることなど決してできなかった。それは放送も同様であった。財閥、マスコミ、官僚以外に民主化の恵みを受けた人々を選ぶとしたら、民主化運動に身を投げた人々の中で政治家になったごく少数の人々を挙げることができるだろう。そして国会議員とまではいかなくとも、かなりの地位に就いた人々が数百人程いるだろう。その他の多くの人々は民主化を彼らだけの民主化、彼らだけの宴会として遠くで寂しく見つめるしかなかった。
70、80年代の民主化運動が民衆運動と切り離せない関係で結ばれていたとするなら、90年代以降の韓国の民主化の最も悲しい限界は市民運動と民衆運動が切り離されているという点である。多くの人々が民主化に冷笑的であった理由は単に自分自身に何の得もなかったからではない。1987年以降我々が成し遂げた「民主化」はなされたような、なされなかったような、喩えるなら「ギャグコンサート」の人気コーナー「・・のような」風の民主化であった。過去清算もやはりなされたようななされなかったような状態である。前職の大統領を二人も刑務所に送った国家も前代未聞であるが、旧時代の非民主的人物らがそのまま生き延び、自由自在に活躍している国もなかなかないだろう。
4. 民主化の再評価
民主化の成果の中で労働者の強力な分配要求が受け入れられた時代は長くは続かなかった。軍事独裁政権は自らの生存のために資本に対して強力な保護膜を提供することができなかった。しかし3党合党以降、保守大連合により国家権力がそれなりに安定を取り戻すと再び資本に対して保護膜を提供し始めた。さらに財閥らも3、4年の試行錯誤の結果、労働組合を相手する方法を見つけていった。大企業は労働組合を認めながらも労組の代議員らを買収した方が強盛労組の要求する労働者全体の賃金を大幅に引き上げるよりも遥かに企業には有利だということに本能的に気づいた。そして1998年新自由主義の構造調整が本格化されると分配の定義が実現できる範囲は縮小された。80年代の末から90年代初に実現された民主化の経済的成果を味わった人々の殆どは大企業の男性定期職(定期雇用)労働者であった。彼らは現在民主労総の中心基盤である。彼らはかなりの安定的な所得を得ており、殆ど会社を移籍したりしない。会社側もやはり欠員が出ても定期職で埋めるよりも安上がりの非定期職労働者を好む。現在の非定期職労働者は6月抗争から保守大連合の間の短期間で得られた分配の成果を味わうことができないでいる。既に20年もの年月が流れ、その意味が深刻なまでに色褪せてしまったが、当時は相当なレベルでの分配が行われた時期であった。しかし今は既にその効果がなくなってしまっている。
民主化がもたらした成果の一つにもう人が死なないという事実が挙げられる。民主化闘争や労働運動などの過程で命を落とした「烈士」や疑問の死を遂げた人々、又は警察の暴力鎮圧による犠牲者の数が減少したことだけを言っているのではない。注目したいのは軍隊でもはや人が死なないという事実である。50、60年代の韓国軍の死亡者数は毎年1500~2000人に上り、1970年代には1300人を超えていた。これはベトナム戦争で犠牲になった人を除外した数である。韓国軍の年間死亡者数は1980年代には8百人程度で、1990年代には3、4百人程に減少し、21世紀に入っては百人台となった軍隊内の死亡事故の統計は軍疑問死真相糾明委員会の資料集『軍内自殺処理者どうすべきか。』、2006、6頁参照。。イラク戦争の5年間に死亡した米軍の数は約4千人程で、年間では8百人程度である。果たして1980年代以前の韓国軍は人知れず戦争でも行ったのであろうか。毎年千人にも及ぶ若い軍人が戦争でもないのに死んでいったという事実は現代史の悲劇と言えるだろう。韓国軍の構造が大きく変わったわけでもないのに1990年代以降死亡者数が急減したのは民主化以外の理由はないだろう。軍独裁が終了してから軍はもう聖域ではなくなり、ごく限られた範囲ではあるが民間社会が軍内を覗くことができるようになったためである。我々は民主化の物足りない面ばかりを覗いているが、民主化のもたらした変化もまた相当なものである。李明博政権の登場によりその民主化が危機にさらされている。キャンドル集会は民主化の成果であるだけでなく、民主化の成果を守る役割をしっかりと果たしている。
5. 繰り返される街頭政治
我々は韓国現代史においてなぜ重要な局面に直面する度に運動政治又は街頭政治が登場するのかに注目すべきである。過去20年間を振り返っても1987年の6月抗争や1991年の所謂「焼身政局」、そして1997年度の労働法改悪阻止闘争などを通して大衆が街頭へと集まった。2000年代に入っては2002年のミンソン-ヒョスン追悼キャンドル集会、2004年の大統領弾劾反対キャンドル集会、2008年の米国産牛肉輸入反対キャンドル集会など、キャンドル集会が大々的に行われた。このような街頭政治は代議政治がまともに行われていなかったり、間違った方向へと向かう度に登場した。1987年の6月抗争は朴正熙の維新クーデター以降、国民が大統領を直接選択できる権利を奪われたことに反発して直接選挙制を要求したものである。2002年のキャンドル集会は二人の女子中学生が米軍の戦車にひき殺されたにも関わらず誰も罪を問われず、その上政府も米軍側に罪を問える権限を持たない現実に対して政治界が関心を持たず如何なる対処もしなかったために始まった。2004年のキャンドル集会は任期が一ヶ月ほどしか残っていない国会が民意に反して「議会クーデター」と言うべき大統領弾劾を敢行するなど、代議政治制度自体が間違った方向へと向かったために行われたと言えよう。
過去20年間、街頭政治の主な事例は全て代議政治がまともに行われていなかったために起こったものであるが、逆に代議政治の基本メカニズムに吸収され大衆は家へと戻って行き闘争は徐々に減少していった。1987年には軍事独裁政権が予想に反して大衆の最も直接的な要求であった直接選挙選挙制を受け入れた。大衆は直接選挙によって民主的な大統領を選び軍事独裁を終了させる機会を得たと街頭から家へと戻って行った。2002年のキャンドル集会が行われたのは年末の大統領選挙を控え、候補者たちが熾烈な戦いを繰り広げていた時期である。選挙の結果、「反米感情を持ってはいけないのか?」と言った盧武鉉(ノ・ムヒョン)候補が当選した。キャンドルに火を点した市民たちはこれで新たな大統領が不公平な韓米関係を正してくれるだろうと期待しながらキャンドルの火を消した。2004年には国民は全く新しい国会を作りあげた。その結果1988年民主化が始まって以来初めて与小野大の局面から脱し、執権与党が単独で過半数を占めた。さらに5・16軍事反乱以降脈の途切れていた進歩政党から10人の議員が出た。国民は大統領に次いで、議会までも民主改革勢力の支配下に置くことにより中央権力は全て委任したのである。当時市民たちは民主改革勢力が行政部と議会を掌握したため何か新たな政治が繰り広げられるだろうと期待しながら家へと戻っていった。
ところがその結果はどうだったろうか。1987年には金泳三(キム・ヨンサム)と金大中(キム・デジュン)の両金氏の分裂により民主陣営は敗れるはずのない選挙で敗れてしまった。「漁夫の利」という表現がぴったりの状況になってしまった。2002年には不公平な韓米関係を正す肯定的な変化を期待したが、状況は正反対となっていった。「反米感情をもってはけないのか?」と意気込んでいた盧武鉉候補は大統領に就任すると米国へと飛んで行き、「米国がいなければ自分は北朝鮮の収容所にいるかもしれない」という妄言を発した。イラク派兵、戦略的柔軟性の受容と駐韓米軍の性格変化、そして韓米FTAなどの問題からも分かるように韓米関係は従来の軍事同盟を超え、経済同盟、価値同盟によって一層深化された。盧武鉉政権の5年間韓米関係は過去50年間の変化よりも多くの変化が起こった鄭旭湜(ジョン・ウッシク)『21世紀の韓米同盟はどこへ?』、ハンウル、2008、21頁。。2004年、国民が弾劾の危機にさらされた盧武鉉大統領を救ったのはのは何か新たな政治を繰り広げてほしいという期待からであった。ところが盧武鉉政権は議会の支援を受けながらも期待に応えられるような改革を推進することができなかった。またウリ党はある意味においてはハンナラ党よりもハンナラ党らしかった。盧武鉉大統領は遂には「このままではハンナラ党と変わらないので大連政(与野党大連合政府)を推進したい」と言い放つハプニングを招いたりもした。このような歴史的な経験は我々に「早く家に戻るべきではない。」と語ってくれる。ある人は街頭政治は非常識なものであり、国会に任せて早く家に戻るべきだという。果たして今の国会と政党制度がキャンドルの意味をしっかりと受け止められるだろうか。そう思う人々もいるかもしれないが実際キャンドルを手にしている市民の多くは現在の国会や政党をそれ程信頼していない。
では、どうすればいいのか。一体いつまで街頭でキャンドルに火を点さなければならないのだろうか。過去、我々の母親や祖母は切実な願いがある度にろうそくに火を点し千日間祈ったものだ。現在多くの市民達は国会に任せるくらいなら道端でキャンドルを手に千日間の祈りをした方がましだという心情であろう。長くて4年6ヶ月である。大衆がキャンドルの火を消さない理由は1987年、2002年、2004年とは違い、キャンドルの火を消せる制度的なきっかけが見つからないからだ。過去3回の大衆的進出(一回は抗争として、二回はキャンドル集会として)と2008年現在のキャンドル集会との共通点は代議民主主義が十分に民意を反映できていないという点である。そして決定的な相違点は過去3回は全て大統領選挙(1987、2002)や国会議員総選挙が間近に迫っていた時期であったという点である。大衆は選挙で民意を伝えようと抗争を中断したり(1987)選挙の勝利に満足してキャンドルの火を消したりした(2002、2004)。しかし2008年の場合、大統領選挙はキャンドル集会の5ヶ月前に、総選挙は1ヶ月前に既に終わってしまった。大衆としても自らキャンドルの火を消せる制度的なきっかけをつかめずにいる。このような状況において李明博大統領は市民たちがキャンドルの火を消すきっかけを提供する代わりに検察と「白骨団(私服警察)」による過剰鎮圧など、強硬一点張りで対応している。キャンドル集会が長期化せざる得ないわけである。
6. 楽しいキャンドル抗争、愉快で自発的な抵抗
大衆はキャンドル集会が長期化して多少の疲れも感じてはいるが、非常に楽しみながら参加している。キャンドル集会のお祭り的な性格は徐々に強くなっている。1987年には静かにキャンドル集会を行っているような状況ではなかった。2002年は追悼集会という性格上、非常に悲壮で厳粛な雰囲気でキャンドル集会が行われた。2004年の弾劾初日には人々は怒りで興奮していたが、翌日からは「もうすぐ選挙の日だ。覚悟してろ」という勝利に対する確信で楽しくキャンドル集会に参加した。しかし今回のように徹夜をしたり家族で参加したりはしなかった。2008年のキャンドル集会はお祭りであり、国民キャンプであり、開放の場であった。「乳母車部隊」という言葉が象徴しているように遠足のような、ハイキングのような楽しい気持ちで集会に参加している。現在外見的にはキャンドル集会が下火になったように見えるが、市民たちはこのキャンドル集会がどうすれば一層日常的な空間や地域へと広がり、楽しくそして持続的に行えるかを模索しているのである。
2008年のキャンドル集会の主たる特徴は政党の影響力が皆無であり、市民運動や社会運動の影響力も急激に衰退し、大衆の自発性が驚くほど発揮されているという点である。1987年の6月抗争は国民運動本部という枠の下に結集された在野民主運動勢力が主導し、両金氏で代表される政治集団の加勢により大衆的な基盤も広げることができた。2002年のキャンドル集会も同様に女子中学生対策委の下に集結した運動勢力が主導的な役割を果たし、大統領選挙という政治的局面がキャンドルを燃え上がらせる重要な空間を提供した。2004年度は弾劾という問題自体が制度政治の領域を中心とするしかない問題であり、政界や市民運動、一般市民などが国会議員選挙により弾劾実行を妨ごうとした。
2008年のキャンドル集会は政党や市民団体などの役割や過去の経験からの影響などを考えると過去の街頭政治とも異なり、また西欧の「68革命」とも異なる。キャンドルは支離滅裂だった進歩陣営と民主改革陣営に希望の光を与えてくれたが、一方では解決しなければならない困難な課題も与えた。理由はともあれ集会の現場で大衆は運動勢力に対して冷たい視線や敵対的な態度を見せるなど全体的に不信の目を向けた。大衆にとって運動勢力はつまらなく型に嵌ったことばかりを言い、その上権威主義的な存在であった。このような運動勢力がキャンドル集会を主導しようとすると「もしかしてスパイじゃないか。」と露骨にやじった。時間が経つにつれて運動勢力とは何の関わりのないネチズングループも自分たちなりの旗を掲げて参加したが、キャンドル集会の初期には旗自体が退場の対象であった。21世紀の大衆の目から見ると運動勢力の感覚は未だに80、90年代のように悲壮で厳粛なものであった。まるで映画「アマデウス」の中のモーツァルトとサリエリとの違いとでも言おうか、軽快さと型に嵌った重さのような違いを表している。80、90年代の雰囲気から脱皮できない運動勢力にとってせめてもの救いは李明博政権や保守勢力が60、70年代の迷妄から抜け出せずにいるという事実である。
大衆のこのような反応は黙々と市民運動又は民主運動への道を歩んできた人々にとっては心苦しく薄情に思われるかもしれない。しかし大衆は運動勢力出身が主導的な役割を果たした「文民政権」5年間と「民主政権」10年間を経験しながら運動勢力と政治家を同一視してしまった。運動勢力出身は運動経歴を基盤として政界に進出した。政界に進出した彼らは大衆の期待に応えられなかった。彼らの一部は従来の政治家と同様に汚職事件に関連したりもした。このようなことが繰り返されると大衆は「運動勢力出身の人も同じじゃないか。」、「運動勢力出身の人の方がひどいかも」と思うようになった。政治家や運動陣営が何もせずにいた時、先頭に立ってキャンドルを手にした市民達は運動勢力がキャンドル集会の前面に登場することによりキャンドルの「純粋性」が傷つきはしないかと心配した。
大衆のこのような「純粋性コンプレックス」が運動勢力自らが招いた結果であろうが保守傾向のマスコミのせいであろうが、キャンドル集会は運動勢力に大衆とのコミュニケーションが切実であるという事実を気づかせた。「明博長城」程ではないが、運動勢力と市民達の間にもある種の壁が存在している。大衆はその壁をなくしコミュニケーションを取らなければならないという必要性を感じない。しかし運動勢力としてはこの壁をなくし大衆とコミュニケーションを取ることは重要な問題である。例えば、過去清算問題は進歩陣営全体にとって最も重要な課題であった。朴正熙記念館を建てると言いながら過去清算の核心問題を避けていた金大中政権とは異なり、盧武鉉政権は過去清算を試みた。ところが実際幾つかの過去史委員会が設けられるなど過去清算運動が制度化されると過去史問題に対する市民の関心はそれに反比例するかのように急激に減少していった。何人かの関連者以外には過去史問題に関して誰も関心を示さなくなったように見えた。カン・プルの漫画『26年』(2006)が連載されたのはこのような時期であった。時代遅れとなった「陳腐な」問題であった「光州」事件が5・18と8・15の違いもよく分からない若いネチズンたちを引き付けた。彼らは「漫画のあの全斗煥があの全斗煥なのか?」と驚き合った。2007年度の映画「華麗なる休暇」を見て7百万人の観客が涙を流したという事実は「光州」が決して時代遅れの問題ではないということを明らかにしている。進歩陣営の多くの主要アジェンダは時代遅れの問題ではない。どのような形で近づくかによって大衆の心に伝わるか伝わらないかの違いなのである。
キャンドル集会の現場で民主党は徹底的に背を向けられた。運動陣営も学校で喩えるなら校長にも担任にも学級委員にもなれない、日直程度の雑用係のような存在である。運動陣営の財産は献身性、創意性、闘争性と言えよう。ところがキャンドル集会においては大衆の方が遥かに献身的で創意的であり、徹夜で楽しく戦っている。運動陣営は過去圧倒的に優位であった分野において大衆に却って遅れを取っている。そのため専門的な活動家たちの指導力又は役割がこれまでの如何なる抵抗運動でよりも最小化されたと言えよう。
7. 自己利益のための闘争
去る数ヶ月間キャンドル集会に参加した大衆が運動勢力に距離をおき、過去の運動伝統や文化を拒否した理由は韓国現代史の展開過程において大衆自らが変わったためである。過去の運動陣営は「ガッチャマン」世代だったと言える。ガッチャマンの使命が地球を守ることであったように、1980年代の運動勢力は崇高で巨大な目的のために全てを犠牲にしなければならなかった。当時は「民主化」が目標だと言うと先輩たちに「お前は視野が狭すぎる。」と批判されたりした。民主化が実現しても民衆が開放されるわけでも民族の自主性が回復されるわけでも分断された祖国が統一されるわけでもないのに高が「民主化」が目標なのかと叱られたものだ。このようなガッチャマン世代を生きた若者たちは民主化、民衆解放、民族自主、祖国統一という大きな課題を実現するため命をかけ全てを犠牲にしなければならなかった。
21世紀の若者たちはある宣伝コピーが鋭く捉えたように「不義は我慢できるが不利益は我慢できない」世代である。彼らは正々堂々と自分の利益と権利を追求する。80年代であったなら、極度のエゴイストと批判されような若者たちが今キャンドルを手にしている。自分の利益や権利を追求することが果たして批判すべきことであろうか。これは彼らの追及している利益や権利が共同社会に得になるか害になるかによって違ってくるだろう。ガッチャマン世代が過去の方法から抜け出せず、正々堂々と自己利益を追求する若者たちを批判的に見つめるなら、これは自ら社会の除け者となる結果をもたらすだろう。
キャンドル集会の合間に決行された貨物連帯ストは恐らく韓国戦争以降の労働運動史上初めて市民の支持を受け相当な成果をあげて終了したストと言えよう。貨物連帯は政府が米国産牛肉協商の結果を発表すると素早く米国産牛肉の運送拒否を宣言しながらキャンドル集会と結合した。貨物連帯は市庁前の広場にテントを張り、牛肉輸入に反対する印刷物を回しながら、一方では自分たちのストを情熱的に宣伝した。集会に参加した市民達は自然と貨物連帯を味方として受け入れるようになった。高騰した原油価も一つの要因ではあったが、貨物連帯の積極的なキャンドル集会参加は韓国では稀にも「市民の支持」を受けたストを誕生させた。
一方キャンドル集会の現場において非正規職たちは相変わらず疎外されていた。Eランド労組委員長の言葉のように彼らは燃え続けるキャンドルを見つめながら絶望の中へと落ちていった。市民たちは李明博政府がもたらした暗闇を拒否するという象徴的な意味でキャンドルに火を点した。しかしその片隅で1年余りのスト闘争の末、電気もガスも途切れた暗い部屋で組合員の子供たちはろうそくの火を頼りに宿題をしていた。組合員は子供たちのことを考えるとどうしてもキャンドル集会に参加することができなかった「光化門を埋め尽くしたキャンドルの波を見ながら絶望した。」、「<インタビュー>ストライキ1年を迎えたキム・キョンウクEランド一般労組委員長」『プレシアン』、2008.6.24。。長い闘争に疲れ果てた非正規職の人々は自分たちが「招待されぬ客」になりはしないかと恐れてキャンドル集会に非正規職の問題を持って出て来られなかった。キャンドル集会の純粋性が強調された状況において非定期職問題を提議するのは論点をぼやかしてしまうのではないかと思ったのだ。
元々キャンドルとは暗闇を照らすものである。そして非定期職の問題は我々の社会において最も深い暗闇である。しかし去る数ヶ月間広場のキャンドルは健康権と民主主義のような普遍的ではあるが、生活の貧しさという問題に然程切実でない人々にとってより関心のある課題を中心に燃えている朴露子(バク・ノジャ)「キャンドルの中に存在する二つの社会」『オマイニュース』、2008.7.25。。今後キャンドルが我々の社会の隅々まで広がり持続的に点されるためには社会の最も暗い場所で苦しんでいる人々も自らキャンドルを手にすることができなければならない。「キャンドルと非定期職が結びつくか」は今後の韓国社会の未来を決定付ける重要な課題である。
キャンドル集会において役割が縮小されたのは進歩的な知識人も同様であった。著名な批判的知識人たちも巨大な大衆の中ではn分の1でしかなかった。狂牛病専門家や通商専門家、又は現場で直接自分の専門性をもって寄与した民弁(「民主社会のための弁護士会」の略称)の弁護士たち、「カラーTV」の司会者として活躍中の陳重權(ジン・ジュンゴン)教授など、ごく少数の専門家を除いて例外はなかった。キャンドル集会という全く新たな現象の前で進歩的な知識人たちはもしかして未だに大衆を指導したり彼らに方向提示をしようと焦せっているのではないだろうか。果たして進歩的な知識人たちにキャンドルを手にした大衆を導ける能力があるだろうか。キャンドルを予想することができなかった知識人たちは最初にキャンドルを手にした少女又は大衆たちに全てを任せるべきだ。焦らず大衆を信じるべきである。キャンドル集会に参加するとしたら大衆の一人としてそして大衆の言葉で「大衆に従い、迷わずに最後まで一歩一歩」前進すべきだキム・フォンジュ「狂牛病局面において運動勢力の成果は?」、慶南道日報ブロガ-記者団『キム・ジュワン、キム・フォンジュの地域から見た世界』(http://100in.tistory.com/220) 2008.6.12。。キャンドル集会が始まってから「集団知性」や「多衆」や「68革命」のような外国の社会科学概念や事例研究を適用して「キャンドル集会」という世界で類のない新しい現象を分析しようとする文が多く見られる。しかし彼らが比較対象としている68革命などは「歴史的背景において我が国とはかなり異なり、それぞれの国家ごとに特有の発展過程を辿っているため、そのまま比較するのは無理であろう。」柳在建(ユ・ジェゴン)「西欧の68革命を思いキャンドルを見つめる」『創批週間論評』、2008.7.16。この新たな現象を分析するにおいて西欧の社会科学の分析枠にばかり頼るのは歴史の具体性を逃すことになり兼ねない。キャンドル集会は逆に西欧の社会科学の巨匠たちに21世紀の韓国で起こっているこの新たな現象を分析するにおいて果して彼らの理論が有用であるかを問いかけている。韓国の社会科学者たちは今少し勇敢で積極的であってほしい。この新たな現象を韓国の歴史的脈略から分析しながらそのベースを貫く世界史的普遍性を掘り出す作業を試みるべきである。このような作業は韓国の社会科学のレベルを一段階アップさせ、さらに韓国の社会科学の世界化にも役立つであろう。
現在、キャンドル集会は治まったように見える。我々の周囲には疲れ果てた人も挫折した人も失望した人も確かにいる。しかし我々が焦る必要はない。歴史は元々そう簡単に変わるものではない。キャンドル集会は我々が予想した行動ではない。運動陣営や批判的知識人たちがキャンドルに火を点すのに何か特別な役割をしたわけでもない。キャンドル集会がなかったなら我々は今とは比べられないほど苦しい状況であっただろう。数十万の人々がキャンドルを手にしても李明博政権はやりたい放題であるのに、もしキャンドル集会さえもなかったならどうなっていたことだろうか。だからキャンドル集会であんなに多くの人々が訴えかけたのに米国産の牛肉も輸入され、李明博も全く変わらないと嘆く必要はない。
朝鮮・中央・東亜日報などの保守新聞社は「無能な進歩」と批判的な態度で進歩勢力を論争の対象とした。しかし3ヶ月も経たない内にあっけなく「保守本性」を曝け出してしまった。進歩運動陣営も大衆の変化についていけなかったが、保守派勢力は全くと言えるほど大衆の気持ちを読み取れなかった。振り返って見ると彼らが過去数十年間執権できたのは公安機関の物理力を前面に押し出したためであった。70、80年代には中央情報部や保安司のような情報機関が、90年代以降には検察が政権の盾としての役割を忠実に果たした。キャンドル集会を見ながらその背後を探り、誰があれ程多くのろうそくを買って渡したのかと疑う姿こそ国家保安法を自己アイデンティティの根本としている者たちの典型的な態度である国家保安法のアイデンティティに関しては、拙稿「21世紀の亡霊レットコンプレックス-国家保安法に縛られた大韓民国」『京郷新聞』、2008.8.1参照。。日本を訪問した際、「日本国民との対話」には快く応じた李明博大統領は「コミュニケーションの問題だ」としながらも決して国民との対話には応じない。[去る9月9日「大統領との対話」が行われたが、大衆の反応は冷たかった――編集者]自分のお金でろうそくを買い、敷物を敷いて徹夜でキャンドル集会に参加している市民たちと背後に誰がいるのかを疑っている李明博大統領の間に「明博長城」を築かなくてもコミュニケーションは難しいだろう。
我々の中には焦りだした人々もいるが本当に焦らなければならない人々は「明博長城」の向こうに隠れている保守勢力である。「失った10年」というスローガンを叫んだ人々は「苦労して取り返した政権なのに3ヶ月も経たない内に崩れそうだ」と大統領を恨んでいる。『朝鮮日報』さえも「勘違いだった」「騙された」などのような文句で一面を飾っている崔普植(チェ・ボシク)「果たして騙されたのだろうか?」『朝鮮日報』、2008.7.9。。7.4%にまで下がった李明博の支持率は一時的ではあるが20%台にまで上昇した。ところがそこまでだった。この程度の回復は民意を取り戻したとは言いがたい。第18代総選挙を通して背を向けた朴槿恵(バク・グンヘ)派勢力が「李明博も憎いがキャンドル集会も厄介だから取り合えず保守勢力側に付いて抑えてみよう」という態度を取ったため回復しただけのことである。68革命当時は抵抗勢力がバリケートを築いた。しかし東西古今の歴史を振り返って見ると長期戦になると分裂するのは常にバリケートの内側であった。2008年の韓国でバリケートを築いたのは李明博政権である。キャンドル集会が一時的に衰えたように見える今、「明博長城」の中は分裂の兆しが見え始めている。
民主国家と呼ばれる多くの国家は代議民主主義制度を採択している。ところが我々が慣れ親しんでいる代議民主主義とは大抵19世紀に基本枠が固まり、第二次大戦の終了間近に完成したものと言える。その後世の中は予想もつかないほど変わった。経済水準は驚異的に向上し、それに従って教育水準も1940年代とは比較にならない程高くなった。1940年代に全世界に1、2台ほどしかなかった高性能コンピューターを今は多くの人々がノートパソコンとして持ち歩いている。ところが代議民主主制度はこのような社会の変化に全く対応できないでいる。そのため世界各国は投票率の極端な低下により代議民主主義の危機を迎えている。キャンドル集会に対して「非常識な街頭政治」と批判する声も高い。しかし政党や選挙、そして議会が市民の意を円満に反映できない韓国の現実の中で街頭政治は非常識なものではなく、日常性を持つしかないだろう李南周(イ・ナンジュ)「<街頭政治>、非常識と逸脱ではない」『創批週間論評』、2008.6.18.。
多くの人々が指摘しているように韓国の世界最高の情報通信技術がなければキャンドル集会は不可能であったかもしれない。直接参加した大衆が討論により全てを決定するキャンドル集会は直接民主主義の新たな可能性を示している。勿論全国民が参加する直接民主主義というものは依然として不可能であるため、キャンドル集会のような直接民主主義や街頭政治などが代議民主主義を完全に取って代わることはできないであろう。しかしキャンドル集会は危機に陥った代議民主主義制度に活力を吹き込む役割が果たせると思われる。三ヶ月間続いている自発的な平和デモとしてキャンドル集会は今も世界的な事件である。必ず直接民主主義でなくても代議制を民意の変化に合わせて今少し弾力的に対応できるように変化させることは民主主義の発展において当面の課題である。長期化しているキャンドル集会はこの課題の解決策を模索しているとも言える。一時期ブームとなった「韓流」が大衆歌謡やドラマにだけ限ったものである必要はない。大衆の力動的な参加により我々は今「民主主義の韓流創出」という長い実験を始めたのである。(*)