[卷頭言] キャンドル抗争を乗り越え、前進しよう (2008 秋)
李南周(イ・ナンジュ)
振り返ってみると、昨年の大統領選挙において李明博候補が圧倒的な票差で当選され、総選挙でハンナラ党が圧勝した時、進歩の没落と保守の強勢は逆らうことのできない流れとしてみられた。本誌と「創批週刊論評」では機会がある度にこのような変化を決して保守の勝利のみとみることはできず、韓国の民主主義が持つ力動性に注目する必要があると主張してきたが、敗北主義を克服する程度の力を持つことはできなかった。ところが、2ヶ月を超えるキャンドル抗争は、李明博政府の先進化言説の虚構性と保守の無能力を赤裸々に暴露し、我々内部の敗北主義を一掃させた。これだけでも我々はキャンドル抗争の勝利を宣言することができる。
それだけではなく、キャンドル抗争の渦中に絶え間なく行われてきた言論統制の試み、キャンドルを無力化させるための公安弾圧等は、キャンドル抗争がなかったら我々の民主主義がいかに後退したかを如実に見せるものである。キャンドル抗争が大運河、公共サービスの民営化等の試みを一時中断状態にさせ、民主主義に対する李明博政府の攻撃に攻勢的に対応することのできる動力を作り上げたという点も、キャンドル抗争の勝利を物語れる理由である。
もちろん今後の課題を考えれば、このような成果に自足することではない。李明博政府が、キャンドル抗争が積み上げた成果を崩すために、放送、市民団体、ネチズン等のキャンドル抗争を触発した主体に対する緻密な反撃に出始めている状況の中で、より多くの民主主義を実現しなければならない苦難の課題が目の前に置かれている。そして急進している米朝関係と北東アジア情勢の変化によって漸次現実的な目標となっていく分断体制の克服を急ぐことも、相互牽制の中で後退している南北関係をみると、これ以上遅らせることのできない課題である。そのための実践の中で、我々は新たなキャンドルを作り続け、または持ち上げざるを得ないのである。
しかし、今は、全民抗争としての「キャンドル抗争の局面」が終わろうとしている点を冷静に認め、積極的に受け入れなければならない。そして大衆は、これまでキャンドルが燃え上がったところを空き空間として残すのではなく、運動の新たな芽を開かす創造の空間にしていくという信念を持ち、各自の役割を模索しなければならない。新たな局面を準備する中で忘れてはならないのは、我々が進むべき道はとても遠く、新自由主義の攻勢の前で我々は依然として弱者の位置にいるという現実である。このような現実との緊張を耐えることができず、性急に取り組もうとすると、また別の敗北主義へとつながってしまうであろう。現在必要なものは、キャンドルを通して我々の前に置かれている課題をより明確に認識し、この問題を解決するために多数の力を集めつつ、一歩一歩前進する態度である。
多くの人々が今回のキャンドルデモがいかに新しいものであるかに注目してきた。キャンドルデモにおいて提起された議題、活気あふれる主体、そして彼らがネットワーキングされる方式は少し前までは考えられないものであった。これまでの運動方式に大きな変化が求められていることを否定することはできない。しかし、我々がキャンドル抗争を乗り越え、前進するためには、変わらないものに対する認識も重要である。
何よりも進歩というのは、大衆とともにある時に可能となるという非常に単純な真理を再び心に刻む必要がある。これまで危機に陥った進歩の進路を議論するという「進歩論争」があったが、果たしてこのような論争が大衆の要求と理解をどれくらい反映しているか、または反映しようとしたかについて疑問を提起せざるを得ない。韓国の民主主義は、理念によって裁断される時は、大衆の即自的要求として看做されたこともあった独裁打倒、直接選挙制度の改憲、民主労働組合の設立、南北和解と統一、そして弾劾反対等を叫びながら、街に出た大衆によって少しずつ、しかし持続的に前進してきた。「すべての理論は灰色で、生命の輝く木は緑だ」というゲーテの格言が最もよく表現された歴史であるといえよう。今後も進歩は市場と分配、環境と欲望のあいだの均衡点を探し、あまりにも異なる生活をしている南と北の民衆が力を合わせる、決して鮮明ではないが、現実では決して背けることのできない課題に臨む時にだけ大衆と会うことができよう。
キャンドル抗争を乗り越え、前進するというのは、キャンドルの火を消すことではない。まず、キャンドルにすべての荷を負わせるのではなく、キャンドルを自由にさせなければならない。そして各自キャンドルからもらった分、キャンドルに何かを返すためにより奮発しよう。
今回の特集では、キャンドル抗争をどのように継承するかという問題意識の下で、すでに虚構性が明らかになった李明博政府の先進化言説を乗り越えることができる展望と課題を提示しようとした。韓洪九は、韓国の抵抗運動の歴史においてキャンドル抗争が持つ意味を整理する。韓は、キャンドル抗争を通して希望が挫折されたところで希望を創っていった大衆の力、1987年以降の民主化の成果、「韓国的」民主主義の可能性を見出す。金鍾曄は、87年体制に内在している政治的民主化と経済的自由化との緊張関係が今回のキャンドル抗争にも投影されていることを指摘し、キャンドル抗争が民主主義の意味を新たに認識し、87年体制を民主的に再編する契機をつくったと主張する。アゴラ(agora:韓国最大のネット上の討論の場――訳者注)のID「クォンテロウン チャン(倦怠なる窓)」とインターネット同好会である82cookのID「Pianiste」による文章は、韓国民主主義の力動性がどこから出ているかをリアルに見せている。
残りの二本の論文は、キャンドル抗争が転換点を迎えている現時点において、我々が直面している主要課題を取り扱う。河昇秀は、韓半島大運河は水面下へと沈んだものの、土建国家化は依然として地域の民主主義と環境に深刻な脅威を加えていると批判し、これを克服するために地域住民の参加に基づいた民主主義を強化することを提案する。李日榮は、キャンドル抗争が経済行為に新たな変化の契機を提供しており、協同組合と社会的企業等の新しい経済組織がキャンドル抗争の成果を制度化する主な媒介になれると主張する。
今号「論壇と現場」においては様々なテーマを扱う。営利法人の許容、民間医療保険の拡大を中心に医療民営化の問題点を指摘する李昌坤の論文は、特集と一緒に読んでも無理がないと思われる。地球温暖化に対するマイク・デイビス(Mike Davis)の論文は、温暖化を防ぐためのこれまでの努力はあまり効果がなく、温暖化が社会的・地政学的不平等を深化させているという暗い絵を描きながら、この問題に対するより根本的な検討の必要性を喚起させる。
また、他の二本の論文は新しい希望が創られている東アジアの現場を提供する。去る5月、台湾で開かれた『台湾社会研究』創刊20周年記念シンポジウムのあとがきである陳光興の文章は、東アジアの批判的知識人の会合をリアルに描いている。アメリカと日本の戦略的利益追求によって沖縄に強要されている構造的差別についての鳥山淳の分析は、東アジアの連帯、とくに下からの連帯のためには周辺からの視角が大事であるということを認識させる。何よりもこの会議が、2006年に創批40周年を記念して開かれた東アジアの批判的雑誌の会議を引き継いだものであるという点に、大きな喜びとやりがいを感じる。
本誌が常に真心を注いでいる創作欄も盛りだくさんである。詩壇においては久しぶりに姿を現す詩人と新人の詩人が読者を待っており、小説では申京淑の長編連載が感動を与える。さらに劉在炫、李相燮、李載雄等の小説が暑い夏を過ごしている読者に読む喜びを提供する。
「対話」欄には登壇50年を迎えた詩人の高銀氏をお招きした。若い詩人である李章旭氏との対話構図が興味を増し、また解放後わが近代文学の歴史とともに生きてきた元老詩人特有の、落ち着いていながらも、かつ熱い回顧が盛り込まれている。詩人の去る半世紀は一人の「問題的」個人の文学的旅程であると同時に、韓国の現代文学が歩んできた道でもある。
具謨龍は、楽山・金廷漢の誕生100周年を記念した評論において、金廷漢が描写した民衆の具体的な生活は今も下位主体と生態問題に対する関心として再解釈されることのできる拡張性を持っているという点に注目する。
文学欄を強化し、現場の流れと密着度を高めるために新設した「文学焦点」は、少し定着してきている感じである。「視線と視線」には、南北の文人が共同に作業した初の成果である『統一文学』の成立についての二本の論文を載せた。その他にも最近発表された詩、小説、評論の中、注目できる作品を豊富に盛り込んだ。いつもそうであるが、創批の誌面を豊かにしていただいている寸評の筆者の方々にもお礼を申し上げる。
サバティカル等の一身上の都合により、今号から4人が編集委員から退ける。一定の期間が過ぎ、復帰する人もいるが、まずこれまでの労苦に感謝したい。なお、これを契機に、雑誌に変化を引き起こす新しい顔を積極的に受け入れる計画もお知らせする次第である。