창작과 비평

大国と小国の相互進化

論壇と現場

 

 
崔元植(チェ・ウォンシク)  ps919@hanmail.net

 

仁荷大学人文学部教授。著書に『民族文学の論理』『韓国近代小説史論』『文学の帰還』、編書に『帝国の交差路で脱帝国を夢見る』などがある。また、日本語に翻訳されている著書として『東アジア文学空間の創造』(青柳優子訳、岩波書店)、『韓国の民族文学論――東アジアの連帯を求めて』(青柳優子訳、御茶の水書房)がある。

 

 

1. 名づけの戦争

 

日本政府が、久々に静かな東アジアの湖に石を投げいれた。2008年7月14日、文部科学省は中学校の社会科の新学習指導要領の解説書に独島〔日本名、竹島〕領有権論争を記載することを決定し、それにより日韓新時代を宣言した韓国政府としては、信じたウサギの後ろ脚で蹴られた状態になってしまった。実際、アジアの隣人との不和を躊躇わなかった前々総理とは違う姿勢を見せた福田康夫元総理に対して、韓国でも密かな期待がないわけではなかった。福田総理の就任後、日韓関係は久々に平和を謳歌した感もあったが、彼は劇的な反転の礫を選んでしまった。いったいなぜ、そのような無理手を打ったのか。外交は内治の延長であるという言葉を借りるまでもなく、彼は日本の国内政治が行きついた、ある危機から逃げ出そうとした、といったところだろう。「短期的には『支持率低迷の歯止め』という分析が有力である。ただでさえ支持率が底についた状況で、右翼勢力の集団的な反発を買って国政掌握力を完全に喪失する危険を避けるために、韓国との関係悪化を甘受したという解釈である(『東亜日報』2008年7月15日)。今になって考えると、同年6月11日に日本の参議院で民主党が提出した総理問責決議案が可決されたことが、今回の事態を引き起こした火種であったのだろう。法的拘束力こそないが、憲政史上初のことという象徴性が、急激に落ちた支持率と重なって、ついにそのような一大事となって現れたという点で、むしろ哀れな気さえする。

 

日本政府はしかし、韓国に配慮しようと努力したと弁明する。実際、その表現があまりに穏健であるとして日本の右翼らは批判しているようだ。ここで〔社会科新指導要領の〕解説書の該当部分を見てみよう。北方領土は我が国固有の領土であるが、現在、ロシア連邦によって不法占拠されているために、その返還を要求していることなどについて的確に扱う必要がある。また、我が国と韓国のあいだに竹島をめぐって主張の違いがある点などにも言及し、北方領土と同じく我が国の領土・領域に関して理解を深めさせることも必要である(『東亜日報』同上)。独島を日本の領土と明記はしなかったが、それでよかったということか?この一節の中心が北方領土紛争にあることははっきりしている。クリル列島(KurilIsland、千島列島)南側にある4つの島、すなわちエトロフ(択捉、Iturup)、クナシリ(国後、Kunasir)、シコタン(色丹、Shikotan)、ハボマイ(歯舞、Khahomai)を指す北方領土は、第二次世界大戦後にソ連が占領したのち、現在はロシアが実効的に支配している島々である。もともとはアイヌ(Ainu)の地であるという点はさて置いたとしても、この4つの島の事情には、独島とは比較できない複雑さがある。にもかかわらず、ここに独島を滑り込ませることは、公正なやり方とは程遠い態度である。このように巧妙に迂回することで、実際には独島問題を北方領土とほとんど同格に押し上げる日本政府の狙いならぬ狙いに、韓国の世論が沸騰したのである。

 


独島事態は、一波動けば万波生ずるかのごとく広がっていった。韓国と日本、両政府の綱引きが展開されるとともに、両国の市民らもオフライン・オンラインの双方の戦線で戦闘に突入する。ついには日韓両国の外にも飛び火した。すぐさまロシアが強い抗議を示したのは当然のことであるが、中国もことさら快哉を叫んだ。「中国が攻撃材料として使用できる論理を日本が自ら提供したためである」(『東亜日報』2008年7月17日)。周知のように、中国/台湾と日本は米軍が1972年に沖縄を日本に返還したことで、それとともに譲渡された釣魚島(日本の名称は尖閣諸島)の領有権をめぐって葛藤中である。日本が実効的に支配している尖閣諸島を、中国が日本を真似て中国領であると明記したとしても、日本がこれに対して言えることは少なくなったのである。

 


領土紛争地域を対象に沸き立つ東アジア各国の民族主義の衝突は「名づけの紛争」ともいえるだろう。韓国では独島で日本では竹島、中国では釣魚島で日本では尖閣諸島、韓国では白頭山で中国では長白山など、接境する特定の場所に国ごとに違う呼称をつける競争の中で、ふたつの名前の平和共存ではなくひとつの名前の独裁へと突き進む傾向、すなわち単一言語を夢見る欲望の政治が沸き起こっている。民族主義は、このようにして辺境または接境の場をめぐる名前の戦争、政治的無意識が激突するその焦点で強烈に爆発してきた。
 
 
 

2. 無名へと向かう道

 
 
この難局から自由になる道はどこにあるだろうか? ユートピアには名前がないのかもしれない。名前こそが紛争の母体なのだから。名前を正す〔パルヌン〕「正名」を根本にすることで、名前を分ける〔ナヌヌン〕「名分」の争論に陥りがちだった儒家とは違い、根本的な次元で名前の彼方を思考する道家は、だからこそ無名を夢見た。「夕刻に暗くなり誰なのか見えなくなる時、口で呼ばれること(口)を象形奇世春『老子講義』バイブックス、2008年、672~73頁。し、名という文字が作りだされたというところからありありと推し量れるように、名前は創造の秩序の混沌を分化する文明の論理である。名と実、最近の言い方をするなら、記表〔能記、シニフィアン〕と記意〔所記、シニフィエ〕の間の恣意性と強制性となろうが、道家が「正しい名前の世界」ではなく「名のない世界」の原初像を「古い未来」として先取りしようとしたのは、自然と言えば自然である。もちろん、道家も名前自体を完全に軽視していたわけではない。「道にはそもそも名がない(道常無名)」蔣錫昌編著『老子校話』成都古籍書店、1988年、32章、214頁。と幾度となく強調しながらも、有名をその対として挙げていた。よく知られた『道徳経』の第一章の、その一節を見てみよう。
 
 
無名天地之始 有名万物之母
無名(名分のない混沌)は天地の始まり 有名(名前で分別すること)は万物の母同上、3頁。本文の翻訳は奇世春の『老子講義』を参考にした。

 

現実として存在する有名の世界と、その彼方で静かに光り輝く無名のユートピア。有名を軸とする儒家に対して、道家にあっては無名が中心である。有名を対に無名を思弁するという点で、有名を看過しているわけではないが、道家はアナーキズムらしく、一挙に無名へと飛躍する。飛躍という華々しい、しかし安易な道ではなく、「骨の折れる成功」へと向かう困難な道を、有名と無名の間として練り出すことができたらどれほどいいだろうか!

 

 道家は、もちろんただ飛躍しただけではない。それは、無名のユートピアに合った社会モデルとして「小さな国、少ない人民(小国寡民)」同上、80章、459頁。を提示していたところからわかる。善の権力であれ悪の権力であれ、権力とは根本的に魔性を噴き出すものであり、富国強兵を追求する覇道はもちろん仁政にもとづく王道を主唱した儒家にも反対した道家は、早熟なアナーキズムとして不足するところはない。しかし、小国主義を志向した道家が大国を看過しなかったという点にも留意する必要がある。大国に対する興味深い思弁を詩的に表現した第61章は、次のように始まっている。
 

 

大国者 下流 天下之交; 天下之牝 牝常以静勝牝 以静為下
大国は下流がゆえに天下が似合う所だ。天下の雌、雌は常に静かなるをもって雄に勝ち、静かなるがゆえに謙譲だからである。同上、372頁。

 

大国をすべての水の流れが合流する長江の下流になぞらえる想像が美しい。この柔らかい比喩には、「大国」が喚起するであろう強力な能動性が欠如している。小国を飲み込む大国の雑食性の代わりに、際限のない包容性が前景化されているのである。すなわち、道家のいう大国は、男性ではなく女性である。女性のなかでも、母性である。よって大国は「天下の雌」として賛美されるのである。

 

 このような夢想のなかでは、大国と小国の関係もまた非散文的である。
 

 

故大国以下小国 則取小国 小国以下大国 則取大国
故に大国は小国に下れば、すなわち小国を取る。小国は大国に下れば、すなわち大国を取る。 同上、375頁。

 

 この大国は小国を属国として従える覇者としての大国や、小国の自律性を破壊した一統帝国ではなく、実際態としての小国連合を指す名前、すなわち無名の記号なのかもしれない。もちろん、ここでいう大国が単数ではなく複数として存在するなら少し複雑にはなるだろうが、『道徳経』の大国とは、一種のユートピア的夢想なのだから、仮に複数だとしても大差はない。複数の大国が闘争しても「天下の雌」、その究極的な受動性の競争とは、協同に他ならないからである。

 


原理的に考えれば、実際、道家と儒家の距離は遠くない。儒家が道家よりも権力に対して寛容だといえるとしても、儒家もまた小国主義的であるという点に留意すべきである。漢の武帝による帝国の支配イデオロギーによって祝聖〔聖化〕されてからの儒教を儒家と混同してはならない。もちろん、儒家には儒教に姿を変える種子が内在されていたということもまた、忘れてはならないが。この点で、大国と小国に対する孟子の思弁を、道家と比較してみよう。
 

 

孟子曰 以力假仁者霸 霸必有大國。以德行仁者王 王不待大。湯以七十里 文王以百里
孟子曰く「力によって仁のふりをする者は覇であり、覇は必ず大きな国を置き、徳で仁を行う者は王であり、王は大きなものを待たない。〔殷の開祖〕湯は七十里、〔周の〕文王は百里を治めた。『懸吐具解 孟子』巻二、公孫丑、上、18~19頁。

 

ここには覇道に対する儒家の反対が、大国主義への拒絶であるという点が明らかに表れている。儒家の王道も道家のように小国主義である。近い場所からだんだんと遠い場所へと思考を拡張する近思を核とする儒家は、移行の手続きを重視する現実主義者なので、大国と小国の関係を実際のものとして考える。その要点が「事大」である。ところが事大が事小と対になっている点は、よく知られていない。再度『孟子』を見てみよう。
 

 

齊宣王問曰、交鄰國有道乎。孟子對曰、有。惟仁者爲能以大事小。是故湯事葛、文王事昆夷。惟智者爲能以小事大。故大王事獯鬻、句踐事吳。
以大事小者、樂天者也。以小事大者、畏天者也。樂天者保天下。畏天者保其國。
齊の宣王問うて曰く「隣国に交わるに道有りや」と。孟子答えて曰く「有り。ただ仁者のみ能く大を以て小に事うることを為す。是の故に湯は葛に事え、文王は昆夷に事う。ただ智者のみ能く小を以て大に事うることをなす。故に大王は獯鬻[くんいく]に事え、句踐は呉に事う。
大を以て小に事うる者は、天を楽しむ者なり。小を以て大に事うる者は、天を畏るる者なり。天を楽しむ者は天下を保んず。天を畏るる者は其の国を保んず」 同上、巻一、梁恵王、下、30~31頁。

 

 儒家の国際秩序を代弁する事大が、実際には事小であるという点を、この一節はよく示している。事大は事小に対する応答である。つまり、大国が小国によく奉じてこそ、小国が大国に帰依するということだ。孟子は大国主義を掲げた当代の覇道を否定するが、道家のようにユートピアへと飛躍する代わりに、大同へと向かう中間に小康私的なことの全廃に基づく天下為公の大同の世は儒家のユートピアだ。移行の手続きを重視する儒家は天下を一家にする(天下為家)小康社会を中間に残すことで混乱を防ごうとした。君主を父、王妃は母、民は子供にたとえる儒家の王道政治が小康社会の典型的表現であるが、最近、中国共産党は現段階の中国社会を小康(シャオカン)と規定してもいる。を置いたように、過渡段階としての覇道的大国を啓蒙し、王道的大国へと変化させようとしたのである。したがって、儒家が夢見る王道的大国は「天下の雌」と隔たりのないものだと考えていいだろう。

 

 孟子の小国主義にもとづく事小主義は、もちろん実現されなかった。一統帝国秦の出現に見られるように、覇道的大国主義が勝利したのである。すでに指摘したように、大国主義へと改宗した儒家、すなわち儒教が漢以降の帝国の国教に登りつめても、孟子が夢見ていた事小と事大の美しき輪は、実現されることがなかった。むしろ中国の歴代帝国は事小ではなく事大のみを強調した。要するに、道家より現実的な儒家の小国主義さえ、歴史においては単に美しい夢想として刻まれてしまったのである。
 
 
 

3. 中型国家の役割

 
 
夢路に幽閉された小国主義をいかにして現実へと呼びこむことができるだろうか? 近代の衝撃の中に忘れ去られた自尊を回復せんと大国掘起を夢見る中国、敗戦の廃墟から経済大国へとのし上がり「普通の国」を復活させんとする日本、分断と戦争の苦痛の中でも民主化と経済発展を同時に達成するという稀有な経験を糧に統一を志向する韓国、三つの国すべてに大国の夢が渦巻いている。また、この三つの国はすでに大きな国、あるいは小さくない国である。中国は最も侮辱された時代にも小国扱いされたことのない生まれながらの大国であり、領土的に遜色なくはないが先進国の身分となって久しい日本もまた実質的には大国である。韓国もまた往年の小国ではない。さらに、三つの国が属する東北アジアは、現在、最も躍動的な資本主義の動力として注目されている場ではないか? したがって、この三つの国の政府が真に小国主義を集合的綱領として掲げるとしても、東北アジアの台頭を直接・間接的に警戒する他地域の国家の反応が本気であるとは考えにくい。

 


とすれば、小国主義をいかにしてこの地域の現実に合わせて再構成できるだろうか? まず、日中韓の三つの国がもつ小国主義の伝統を改めて点検することが要求される。中国は小国主義論の最初の発信者だ。また、それだけに、帝国として君臨していた時もそうできなかった時を不問に付し、奇妙な受動性を維持していた。私は先に、中国の歴代帝国が事大よりも事小の方を重視した儒家の国際主義を事大中心に再編し歪めたことを指摘したが、それでも中華体制は事小的側面を痕跡として残していたのである。もちろん、例外的な時期もなくはなかったが、無限に膨張する欲望へと突き進むことはないという稀有な自足性を誇っており、周辺諸国が中華体制の傘の下に入って来ればそれらの内政にはほとんど干渉しない放任主義を採ったこともまた、儒家の小国主義または事小の伝統によるものであったと判断される。この痕跡は近代にも継承される。アヘン戦争後、長く続いた半植民地状態と断絶し、新たに出帆した中華人民共和国こそまさに小国的大国に近いものではなかっただろうか? この点で、改革開放以降の中国が歩んできた道は、それまで節制されていた大国主義が伝統的小国主義に勝利する過程であったと考えられる。はたして中国は大国主義へと突き進むのだろうか?

 


中国は無謀な国では決してない。古い帝国はもちろんのこと、近代以降に形成された新興帝国も消え、そうしてその最後を飾るであろうアメリカでさえ斜陽を迎えたこの時期に、再び忽然と復活した「持続の帝国(empire ofduration)」が体得した知恵と策略は手ごわいものだが、アメリカの牽制とはまたどれだけ鋭利なものだろうか? アメリカの封鎖が結局ソ連の崩壊を引き起こしたという伝説を未だ記憶している中国は、今なおアメリカに対して韜光養晦光を隠して薄暗い所にうずくまるという意味で『旧唐書』が出典である。弱者が強者へと上昇するための冷徹な戦略であり、劉備が曹操のもとにいた時、わざと間違ったことをして疑心を晴らし脱出した故事はその代表的な例だ。鄧小平は改革開放後の1980年代の中国対外政策の基本方針として韜光養晦を提示した。中国の位相が高まった近年、この指針は廃棄されたという判断が中国内外で提起されてもいるが、特にアメリカに対しては相変らず有効だと見るのが合理的だ。の最中にある。ところで、ここで考慮すべき点がもう一つある。中国はすでにアメリカに深く依存している。すなわちアメリカの危機を中国が助けねばならないという反語的状況が演出されるのである。アメリカを助ける一方で、アメリカを追い越す機会を窺う両面戦術を駆使する中国が、大国主義へと突き進む可能性はそれだけ低いと考えてよい。

 


しかし、ここで核心となる問題は、中国にアメリカ以降を耐え抜く準備ができているのか、である。「急速な市場化」を核心とする「ワシントンコンセンサンス」の破産と「国家主導の漸進的市場開放」に要約される「北京コンセンサンス」が勢いを増すにもかかわらず「中国モデル」が新たな国際的スタンダードになりうるか疑い恐れる雰囲気は並々ならない(『ハンギョレ』2009年1月22日)。この点で宋鴻兵の指摘は吟味する価値がある。

 

 

いまだに中国は西洋の生産技術を大規模に模倣する方にのみ大きな進展があるだけで、思想や科学技術革新の面はずいぶん足りない。特に思想・文化の領域は文明の自信感がかなり不足している。これに……西洋にない新しい試みをする意欲を出すことができない。したがって新しい世界の規則を作り出そうと試みる度胸が足りない。宋鴻兵著、チャ・ヘジョン訳『貨幤戦争』ランダムハウスコリア、2008年、427頁。中国出身でアメリカで活動する金融専門家の宋鴻兵は、同書で陰謀論に立脚してアジアの復興を阻止する西洋資本の策略を暴露する。同書が中国の読者たちに強く訴える力を得ていったのは、まさに次の目標である中国の警戒心を呼び覚ましたからであろう。2007年に北京で出版されてから100万部以上売れたベストセラーである。

 

彼の言及は過度な単純化であるとしても、ある直情さがなくはない。中国がその体躯に合わせて世界の新しい規則を大胆に提出する姿を見せる時になったためである。「北京コンセンサス」が真実のものとなるためには、四川大地震(2008)以降、さらに新しくなった民主主義の問題を独自にでも説得力のあるやり方で解決することが鍵となる。北京オリンピックの成功をもとに民主化に対して一層大胆になることができれば、むしろ両岸問題とチベット問題の前向きな解決も可能であろう。近年、両岸関係が比較的順風に乗っている点はよしとしても、チベット問題が息苦しい膠着状態から脱せない点は惜しいことこの上ない。独立的地位で民主化と産業化をなした台湾もそうだが、チベットもまた中国の内政だけの問題ではない。かといって、チベットを普通の独立国家のように見なそうということではない。ラマ教が元や清のような遊牧帝国の中で特殊な地位にあった点に鑑みれば、チベットが中国の完璧な外部であると考えるのは難しいからである。このような両面性をきちんと考慮し、チベット問題を賢明に解決することが中国のためにもよいと思われる。小国主義もまた王道的大国の道を新たに活用することを願ってやまない。

 

 明治維新以降、日本は大国の道に邁進した。しかしアジアの盟主を夢見たその時代にも、小日本主義を主唱した先覚的な流れがあったという事実は、あまり知られていない。その中でも石橋湛山(1884-1973)は異彩を放っている。早くも1921年に日本を破滅へと追いやろうとしていた大国の幻想から目覚め、植民地全廃論に立脚して「迫害される者の盟主」へと生まれ変わろうとの主張を繰り広げた彼の小国主義論田中彰『小国主義』岩波書店、1999年、136~37頁。は、日本を戦犯国家から免除するラディカルな対策だった。ひとつのエピソードにすぎなかった小日本主義が「明治以降の大国主義の歴史的破産」たる敗戦によって決定的な契機を迎えたのは劇的である。復活した小国主義はすぐさま平和憲法に結実した。平和憲法は戦勝国アメリカによって強制された移植の産物というだけではない。日本の先覚的な知識人らが自ら練り上げてきた小国主義の理念が、敗戦という外圧を仲介に現実化したという、内発的成果こそまさに平和憲法なのである同上、194~95頁。。最近、日本の右派はこの平和憲法の根幹である小国主義を修正しようとしている。すでに破産した大国主義への回帰の道と、大国主義の誘惑を拒み自身と隣人をともに生かす小国主義への帰還の道の間で、はたして日本は、いや、日本の人民はどの道をえらぶのだろうか?

 


一角では日本の回心に悲観的な見解が沸き起こってもいる。もちろん、その内部には戦前の軍国主義への郷愁を捨て去ることのできない集団もなくはないであろうが、それに対しては戒めの心を鋭く引き締めねばならない。しかし、日本が敗戦後に平和憲法のもとで長きにわたる繁栄を謳歌してきた点を忘れ去ることはできない。それだけ民主と自治の根は浅くないのである。仮に日本が最終的には大国主義の夢を捨てることができなくとも、いや、であればこそ、さらに日本を誠実に説き伏せねばならない。ついに長い自民党支配の終わりが見える地点に来た。おそらく小国主義の再評価にもとづく実践の山道が日本に新たに開かれているのではないだろうか?

 


おそらく小国主義の優等生は韓国であろう。中華体制の忠実な一員として事大と交隣という二つの軸によって、中国と日本という手ごわい近隣諸国を相手にしてきた朝鮮王朝は、結局、植民地へと墜落することによってその酷烈な復讐を受けた。西欧の衝撃で中華体制が崩壊する近代の曲がり角で、大国主義者たちが登場したのは自然なことである。「貧しさを患えずして均しからざるを患え(不患貧而患不均)」をモットーに近代的小国主義を追求した雲養金允植(キム・ユンシク)と中立論によって朝鮮の活路を模索した矩堂兪吉濬(ユ・キルジュン)のような東道西器論者らの知恵もなくはなかったが、当時の開化派のほとんどは富国強兵を追求した大国主義者だった。「日本がアジアの英国になるなら、朝鮮はアジアのフランスにならねばならない」姜在彦『近代朝鮮の思想』紀伊國屋書店、1971年、102頁から再引用。と強調した古筠金玉均(キム・オッキュン)が代表的である。日本の力を借りてクーデターを強行してでも朝鮮を「アジアのフランス」として羽ばたかせようとした彼は、早熟な大国主義者だったのである。大国主義であれ小国主義であれ、近代と遭遇した最初の世代の開化派らの運動が失敗に帰すや、優等生たらんとする内なる熱望はさらに燃え上がった。

 


優等生と劣等性の違いとは何であろうか? 意外にも分断韓国が「四頭の龍」のうちの一頭として昇天する瞬間、小国主義の劣等性は再び優等生へと姿を変える。アメリカと日本を後ろ盾に弱小国から脱出しようとする開発独裁派と、政治的自由および経済的平等に基づく内部改革を何よりも優先した民主化闘争派との争いのなかで、韓国はひょっこりと民主化と経済発展を同時になした国へと上昇したのである。しかし開発派のゴッドファーザー朴正熙(パク・チョンヒ)が「復活した親日派」と「成功した金玉均」という二つの顔の複合性を見せたのは、その端的な例のひとつである。後者もまた複雑だ。改革を強調する点では小国主義だが、統一に対する意識がだんだんと強調される過程で民族主義が強力に発現するところでは大国主義である。

 


当時、開発派らをものすごい剣幕で断罪(?)していたにもかかわらず、民主派こそ、宿命のごとく遺伝された弱小国の悲哀から自由になるその日を熱烈に夢見た韓国の愛国者だったのであり、民主派が親日派の後継的地位にある開発独裁に対する抵抗運動の中で民族運動家らを再発見する過程をここで想起しよう。まず、不退転の抗日志士である丹齋申采浩(シン・チェホ)が歴史の中から歩み出てきた。単政〔1945年の解放後に行われようとしていた南側だけの単独選挙にもとづく単独政府の樹立〕に反対し決然と北朝鮮行きを敢行した白凡金九(キム・グ)はさらに広く共有された。当時の民主派が彼らを引き合いにしたのは、マルクス主義の革命家を立てることができなかったという制約を迂回した側面がなきにしもあらずであるが、一方でそのあいだに大きく深い共感が育まれたのであり、共有の進行がイメージ(像)の単一化を促進しもした。帝国を夢想した大朝鮮主義者の申采浩が無政府主義革命家の申采浩を圧倒した。南韓〔韓国〕の民主派の一角にしみ入った申采浩の夢は、ついに「強盛大国」北朝鮮で沸き起こる。無政府主義へと傾倒してからも大朝鮮主義が見え隠れする申采浩とは違い、金九は意外にも小国主義的だった。よく知られている「私の願い」は、その代表的な文献である。

 


私はわが国が世界で最も美しい国になることを望む。最も富強な国になることを望むのではない。私が他人の侵略に胸を痛めたのだから、自分の国が他人を侵略することを望まない。私たちの富の力は、私たちの生活を豊かにするだけのもので、私たちの強い力は他の侵略を防げればそれでよい。ただ際限なく手に入れたいものは、高い文化の力である。『金九主席最近言論集』(1948)、白凡金九先生記念事業協会、1992年、70~71頁。

 

 金九の文化国家論は、脱植民地国家の指導者らが常に採る大国主義をはっきりと拒絶した稀有な知恵の建国綱領である。切実な体験から滲み出た発言がもつ限りなき威厳に輝く彼の小国主義が道家と連関している点は、さらに興味深い。

 


私は老子の無為をそのまま信じる者ではないが、政治においてはあまりに人工を加えることを正しくないと考える者である。だいたいの人は全知全能たりえず、学説とは完全無欠たりえないものであり、ひとりの人の考え、ひとつの学説の原理によって国民を統制することは一時熟した進歩を見せるようであるとはいえ、畢竟は病痛が生じて、それこそ弁証法的な暴力の革命を呼ぶことになる。あらゆる生物にはすべて環境に順応し、自らを保存する本能があるのであり、最もよい道は静かにそのままにしておくものである。同上、66~67頁。

 

道家にもとづく小国主義を夢見た金九の思想の核心に対する内的共感の広がりにもかかわらず、民主派も言説の進化の上でその実践的通路を探索する作業をきちんと行いきれなかったというのが現実だった。

 

 はたして韓国はいかなる道を進むのだろうか?私は「大国主義を反省し小国主義を再評価するが、国際分業の周辺部に安住する小国主義へと転落しないこと」すなわち「小国主義と大国主義の内的緊張を堅持すること」拙稿「世界体制の外部はない」『文学の帰還』創批、2001年、429頁。を韓国社会の課題としたいという主張を展開したことがある。ここではもう一歩だけ進めて、小国主義を彼方に見据えつつ大国と小国がともに集う中型国家として、現在の韓国の位置を調整する集合的才智を発揮すれば、と考える。小国主義の核心を中型国家論と組み合わせる作業とともに、私たちの中の大国主義を冷徹に意識化し、それを制御する実践的思考の枠組みを点検することが、まずもって課題となろう中型国家論は「小国主義と親和的な」複合国家論に通ずるところがある。これについては白永瑞「20世紀型東アジア文明と国民国家を超えて」『東アジアの帰還』創批、2000年、32~35頁。。朝鮮王朝の小国主義を再度検討しつつも、その失敗は厳しく評価する複眼が要請される。たとえば亡国の元凶として名指される鎖国でもよい。鎖国と表現された前近代の小国主義の内情を詳細に掘り下げつつも、今はむしろ活発な交流が小国主義のインキュベーターであるという点にも改めて着目することが不可欠である。この点で、合法/非合法の境界で運動の血路を開拓した開闢宗教である円仏教の知恵も重要な参照項である。とりわけ強者・弱者の進化に対する少太山朴重彬(パク・チュンビン)の法語(1916)が注目に値する。強者と弱者を排他的ではなく相互的に捉えるその思考は、しなやかである。

 


強者が弱者に講を施す時に自利利他の法を用いて弱者を強者に進化させることが永遠なる強者になる道であり、弱者は強者を善導者にしていかなる千辛万苦があるとしても弱者の位置から強者の位置に達するまで進歩していくことが、またとない強者となる道である。『円仏教全書』円仏教出版社、1994年、第1部正典第13章最初法語、85頁。

 

この一節は、先に述べた事大・事小と相通ずるところがあるが、強者の位置に立った中国ではなく弱者の位置に立った朝鮮から発信された点でさらに切実である。「ただ自利他害にのみとどまれば、どれだけの強者でも弱者になってしまうもの」(86頁)という暗黙の指摘によって、朝鮮の独立のためであるという名分を掲げ朝鮮を植民地化した日本をはじめとする帝国主義を批判する一方で、「ただ強者に対抗するだけにして、弱者が強者へと進化する理知を見出せないならば、また永遠なる弱者になってしまうもの」(同上)であると警告することで、私たちの内部の二分法的思考の克服を提起する。朴重彬の会通的〔複数の矛盾している教えを和して会し、一つの趣意に帰せしめることで、あらゆる分派を一つにまとめること〕な思考は、主人と奴隷の弁証法が斜陽を迎えた今日、特に有効である。またもや弱小国の悲哀を反芻することのないように、小国主義の内と外を冷徹に分析する一方で、大国・小国の差別が暴力的位階へと転落しないように後天の世を準備する集合的努力が切実に求められる。

 

自利他害する強者が自利利他する強者に、自害他利する弱者が自利利他する弱者に進化するその謙虚の軸に中型国家があるのであれば、問題は統一論の方向である。「北韓」の崩壊を前提に吸収統一を目指す大韓国主義的統一論が、「南朝鮮」を武力で解放する大朝鮮主義的統一論とともに、今やいったん水面上からはほとんど消え去り、よかったといえばそうであるが、とりわけ統一問題においては、大韓国主義の放棄をはっきりと宣言するに至らないことは問題だ。「南韓」と「北朝鮮」が一つの国となる劇的な出来事ではなく、緩やかな連邦または国家連合が統一の最終段階でも構わないという小韓国主義を、国民的合意のもとで内外に宣言する作業が緊切である。しかし小韓国主義はいかなる統一にも反対する、または統一に冷淡な小国主義ではない。分断体制の克服過程で出現するであろう社会とは、「ひたすら貧しさを分かち合う社会であるというよりは、各自が豊かでありつつも倹約と節制を体得した社会、そして社会次元では人間の多様な欲求を満たす物質的豊かさを蓄積するが、その処分が民主的になされる社会」すなわち「共貧」よりも「中庸」あるいは「中道」に近い白楽晴「近代韓国の二重課題と緑色言説」『創作と批評』2008年夏号、462頁。小国主義とでも言おうか。

 


「論理的良心」この言葉はドイツの哲学者フリードリッヒ・パウルゼンからとった。「ナショナリズムは極端に至ると……倫理的良心のみならず論理的良心までも抹する」。フレデリック・マイネック著、李光周訳『ドイツの悲劇』、乙酉文化社、1984年、69頁から再引用。21)まで抹殺する民族主義の衝突を根本から抑止する小国主義を、平和の約束として回想することで、大国あるいは大国主義の破局的な衝突を和らげる中型国家の役割を韓国が忠実に果たすならば、東北アジアの平和も遠いものではないだろう。そうして日中韓の三つの国の政府と市民がともに、互いに奉仕する平和体制の構築に真に合意すれば、東北アジアの内部衝突を駐屯の口実としてきた米軍の名誉の撤収と、敵対的国際環境を理由に先延ばしにされてきた「北朝鮮」の変法自疆が、先にであれ後にであれ、なされる希望をようやく抱くことができる。東北アジア三カ国のあいだの協同を図るのみならず、東北アジアとアメリカの和解も引き出しうるこの相互進化の容易くない道のりが、霧を貫いて浮かび上がる時、韓国(または南北国家連合)・中国・日本の三つの国が文明的な資産を土台に人類の未来を照らす新たな社会モデルを集合的に探求し実践する本質的作業に邁進する条件が熟するであろうと切に予感される。

 


日中韓の三国みなが歴程の重大な峠に差し掛かっている今、東アジアの文学者の任務は重く、かつ大きいことを改めて心に刻み、植民地時代の朝鮮の小説家横歩(フェン・ポ)の発言をともに吟味したい。

 

 

我ら文学の徒は自由で真なる生活を求めて、これを建てることがその本領かと思います。我らの交遊、我らの友情がこれで結ばれなかったら嘘です。この国の民の、そしてあなたの同胞の、真なる生活を探し求めゆく自覚と発奮のために闘う信念なしには、我らの友情もうわべのものです。廉想渉『萬歲前』(1924)、創批、1995年、162頁。〔横歩は廉想渉の号である。白川豊訳『万歳前』(勉誠出版、2003年)として日本語に翻訳されている。ただし訳出に際して参照はしていない。〕 (*)


 

* 本稿は2008年9月30日、ソウルで開かれた第1回韓日中東アジア文学フォーラムでの発表「小国主義の再構成のために」を改題・改稿したものである。発表時の時事性はそのままに議論を少し補完する折衷を選んだ。改稿の勇気を後押ししてくれた白楽晴先生の論評に感謝する。
 

 

* 訳者注記

 

①〔  〕内は訳者による補足説明等である。

 

②「韓中日」「中日」など、国名を略して列挙する場合には、日本の慣行に従い「日中韓」「日中」などとした。ただし固有名詞はそのままにした。

 

③著者の文意を尊重し、「北韓」「南韓」「北朝鮮」「南朝鮮」などの用語は(それぞれ朝鮮半島の38度線以北・以南を指し、日本では「北朝鮮」「韓国」などと表記されるが)そのまま用いた。

 

 

 

訳=金友子
 
季刊 創作と批評 2009年 春号(通卷143号)
2009年3月1日 発行
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