大国と小国の相互進化
1. 名づけの戦争
日本政府が、久々に静かな東アジアの湖に石を投げいれた。2008年7月14日、文部科学省は中学校の社会科の新学習指導要領の解説書に独島〔日本名、竹島〕領有権論争を記載することを決定し、それにより日韓新時代を宣言した韓国政府としては、信じたウサギの後ろ脚で蹴られた状態になってしまった。実際、アジアの隣人との不和を躊躇わなかった前々総理とは違う姿勢を見せた福田康夫元総理に対して、韓国でも密かな期待がないわけではなかった。福田総理の就任後、日韓関係は久々に平和を謳歌した感もあったが、彼は劇的な反転の礫を選んでしまった。いったいなぜ、そのような無理手を打ったのか。外交は内治の延長であるという言葉を借りるまでもなく、彼は日本の国内政治が行きついた、ある危機から逃げ出そうとした、といったところだろう。「短期的には『支持率低迷の歯止め』という分析が有力である。ただでさえ支持率が底についた状況で、右翼勢力の集団的な反発を買って国政掌握力を完全に喪失する危険を避けるために、韓国との関係悪化を甘受したという解釈である(『東亜日報』2008年7月15日)。今になって考えると、同年6月11日に日本の参議院で民主党が提出した総理問責決議案が可決されたことが、今回の事態を引き起こした火種であったのだろう。法的拘束力こそないが、憲政史上初のことという象徴性が、急激に落ちた支持率と重なって、ついにそのような一大事となって現れたという点で、むしろ哀れな気さえする。
独島事態は、一波動けば万波生ずるかのごとく広がっていった。韓国と日本、両政府の綱引きが展開されるとともに、両国の市民らもオフライン・オンラインの双方の戦線で戦闘に突入する。ついには日韓両国の外にも飛び火した。すぐさまロシアが強い抗議を示したのは当然のことであるが、中国もことさら快哉を叫んだ。「中国が攻撃材料として使用できる論理を日本が自ら提供したためである」(『東亜日報』2008年7月17日)。周知のように、中国/台湾と日本は米軍が1972年に沖縄を日本に返還したことで、それとともに譲渡された釣魚島(日本の名称は尖閣諸島)の領有権をめぐって葛藤中である。日本が実効的に支配している尖閣諸島を、中国が日本を真似て中国領であると明記したとしても、日本がこれに対して言えることは少なくなったのである。
領土紛争地域を対象に沸き立つ東アジア各国の民族主義の衝突は「名づけの紛争」ともいえるだろう。韓国では独島で日本では竹島、中国では釣魚島で日本では尖閣諸島、韓国では白頭山で中国では長白山など、接境する特定の場所に国ごとに違う呼称をつける競争の中で、ふたつの名前の平和共存ではなくひとつの名前の独裁へと突き進む傾向、すなわち単一言語を夢見る欲望の政治が沸き起こっている。民族主義は、このようにして辺境または接境の場をめぐる名前の戦争、政治的無意識が激突するその焦点で強烈に爆発してきた。
2. 無名へと向かう道
無名天地之始 有名万物之母無名(名分のない混沌)は天地の始まり 有名(名前で分別すること)は万物の母同上、3頁。本文の翻訳は奇世春の『老子講義』を参考にした。
大国者 下流 天下之交; 天下之牝 牝常以静勝牝 以静為下大国は下流がゆえに天下が似合う所だ。天下の雌、雌は常に静かなるをもって雄に勝ち、静かなるがゆえに謙譲だからである。同上、372頁。
故大国以下小国 則取小国 小国以下大国 則取大国故に大国は小国に下れば、すなわち小国を取る。小国は大国に下れば、すなわち大国を取る。 同上、375頁。
原理的に考えれば、実際、道家と儒家の距離は遠くない。儒家が道家よりも権力に対して寛容だといえるとしても、儒家もまた小国主義的であるという点に留意すべきである。漢の武帝による帝国の支配イデオロギーによって祝聖〔聖化〕されてからの儒教を儒家と混同してはならない。もちろん、儒家には儒教に姿を変える種子が内在されていたということもまた、忘れてはならないが。この点で、大国と小国に対する孟子の思弁を、道家と比較してみよう。
孟子曰 以力假仁者霸 霸必有大國。以德行仁者王 王不待大。湯以七十里 文王以百里孟子曰く「力によって仁のふりをする者は覇であり、覇は必ず大きな国を置き、徳で仁を行う者は王であり、王は大きなものを待たない。〔殷の開祖〕湯は七十里、〔周の〕文王は百里を治めた。『懸吐具解 孟子』巻二、公孫丑、上、18~19頁。
齊宣王問曰、交鄰國有道乎。孟子對曰、有。惟仁者爲能以大事小。是故湯事葛、文王事昆夷。惟智者爲能以小事大。故大王事獯鬻、句踐事吳。以大事小者、樂天者也。以小事大者、畏天者也。樂天者保天下。畏天者保其國。齊の宣王問うて曰く「隣国に交わるに道有りや」と。孟子答えて曰く「有り。ただ仁者のみ能く大を以て小に事うることを為す。是の故に湯は葛に事え、文王は昆夷に事う。ただ智者のみ能く小を以て大に事うることをなす。故に大王は獯鬻[くんいく]に事え、句踐は呉に事う。大を以て小に事うる者は、天を楽しむ者なり。小を以て大に事うる者は、天を畏るる者なり。天を楽しむ者は天下を保んず。天を畏るる者は其の国を保んず」 同上、巻一、梁恵王、下、30~31頁。
3. 中型国家の役割
とすれば、小国主義をいかにしてこの地域の現実に合わせて再構成できるだろうか? まず、日中韓の三つの国がもつ小国主義の伝統を改めて点検することが要求される。中国は小国主義論の最初の発信者だ。また、それだけに、帝国として君臨していた時もそうできなかった時を不問に付し、奇妙な受動性を維持していた。私は先に、中国の歴代帝国が事大よりも事小の方を重視した儒家の国際主義を事大中心に再編し歪めたことを指摘したが、それでも中華体制は事小的側面を痕跡として残していたのである。もちろん、例外的な時期もなくはなかったが、無限に膨張する欲望へと突き進むことはないという稀有な自足性を誇っており、周辺諸国が中華体制の傘の下に入って来ればそれらの内政にはほとんど干渉しない放任主義を採ったこともまた、儒家の小国主義または事小の伝統によるものであったと判断される。この痕跡は近代にも継承される。アヘン戦争後、長く続いた半植民地状態と断絶し、新たに出帆した中華人民共和国こそまさに小国的大国に近いものではなかっただろうか? この点で、改革開放以降の中国が歩んできた道は、それまで節制されていた大国主義が伝統的小国主義に勝利する過程であったと考えられる。はたして中国は大国主義へと突き進むのだろうか?
中国は無謀な国では決してない。古い帝国はもちろんのこと、近代以降に形成された新興帝国も消え、そうしてその最後を飾るであろうアメリカでさえ斜陽を迎えたこの時期に、再び忽然と復活した「持続の帝国(empire ofduration)」が体得した知恵と策略は手ごわいものだが、アメリカの牽制とはまたどれだけ鋭利なものだろうか? アメリカの封鎖が結局ソ連の崩壊を引き起こしたという伝説を未だ記憶している中国は、今なおアメリカに対して韜光養晦光を隠して薄暗い所にうずくまるという意味で『旧唐書』が出典である。弱者が強者へと上昇するための冷徹な戦略であり、劉備が曹操のもとにいた時、わざと間違ったことをして疑心を晴らし脱出した故事はその代表的な例だ。鄧小平は改革開放後の1980年代の中国対外政策の基本方針として韜光養晦を提示した。中国の位相が高まった近年、この指針は廃棄されたという判断が中国内外で提起されてもいるが、特にアメリカに対しては相変らず有効だと見るのが合理的だ。の最中にある。ところで、ここで考慮すべき点がもう一つある。中国はすでにアメリカに深く依存している。すなわちアメリカの危機を中国が助けねばならないという反語的状況が演出されるのである。アメリカを助ける一方で、アメリカを追い越す機会を窺う両面戦術を駆使する中国が、大国主義へと突き進む可能性はそれだけ低いと考えてよい。
しかし、ここで核心となる問題は、中国にアメリカ以降を耐え抜く準備ができているのか、である。「急速な市場化」を核心とする「ワシントンコンセンサンス」の破産と「国家主導の漸進的市場開放」に要約される「北京コンセンサンス」が勢いを増すにもかかわらず「中国モデル」が新たな国際的スタンダードになりうるか疑い恐れる雰囲気は並々ならない(『ハンギョレ』2009年1月22日)。この点で宋鴻兵の指摘は吟味する価値がある。
いまだに中国は西洋の生産技術を大規模に模倣する方にのみ大きな進展があるだけで、思想や科学技術革新の面はずいぶん足りない。特に思想・文化の領域は文明の自信感がかなり不足している。これに……西洋にない新しい試みをする意欲を出すことができない。したがって新しい世界の規則を作り出そうと試みる度胸が足りない。宋鴻兵著、チャ・ヘジョン訳『貨幤戦争』ランダムハウスコリア、2008年、427頁。中国出身でアメリカで活動する金融専門家の宋鴻兵は、同書で陰謀論に立脚してアジアの復興を阻止する西洋資本の策略を暴露する。同書が中国の読者たちに強く訴える力を得ていったのは、まさに次の目標である中国の警戒心を呼び覚ましたからであろう。2007年に北京で出版されてから100万部以上売れたベストセラーである。
一角では日本の回心に悲観的な見解が沸き起こってもいる。もちろん、その内部には戦前の軍国主義への郷愁を捨て去ることのできない集団もなくはないであろうが、それに対しては戒めの心を鋭く引き締めねばならない。しかし、日本が敗戦後に平和憲法のもとで長きにわたる繁栄を謳歌してきた点を忘れ去ることはできない。それだけ民主と自治の根は浅くないのである。仮に日本が最終的には大国主義の夢を捨てることができなくとも、いや、であればこそ、さらに日本を誠実に説き伏せねばならない。ついに長い自民党支配の終わりが見える地点に来た。おそらく小国主義の再評価にもとづく実践の山道が日本に新たに開かれているのではないだろうか?
おそらく小国主義の優等生は韓国であろう。中華体制の忠実な一員として事大と交隣という二つの軸によって、中国と日本という手ごわい近隣諸国を相手にしてきた朝鮮王朝は、結局、植民地へと墜落することによってその酷烈な復讐を受けた。西欧の衝撃で中華体制が崩壊する近代の曲がり角で、大国主義者たちが登場したのは自然なことである。「貧しさを患えずして均しからざるを患え(不患貧而患不均)」をモットーに近代的小国主義を追求した雲養金允植(キム・ユンシク)と中立論によって朝鮮の活路を模索した矩堂兪吉濬(ユ・キルジュン)のような東道西器論者らの知恵もなくはなかったが、当時の開化派のほとんどは富国強兵を追求した大国主義者だった。「日本がアジアの英国になるなら、朝鮮はアジアのフランスにならねばならない」姜在彦『近代朝鮮の思想』紀伊國屋書店、1971年、102頁から再引用。と強調した古筠金玉均(キム・オッキュン)が代表的である。日本の力を借りてクーデターを強行してでも朝鮮を「アジアのフランス」として羽ばたかせようとした彼は、早熟な大国主義者だったのである。大国主義であれ小国主義であれ、近代と遭遇した最初の世代の開化派らの運動が失敗に帰すや、優等生たらんとする内なる熱望はさらに燃え上がった。
優等生と劣等性の違いとは何であろうか? 意外にも分断韓国が「四頭の龍」のうちの一頭として昇天する瞬間、小国主義の劣等性は再び優等生へと姿を変える。アメリカと日本を後ろ盾に弱小国から脱出しようとする開発独裁派と、政治的自由および経済的平等に基づく内部改革を何よりも優先した民主化闘争派との争いのなかで、韓国はひょっこりと民主化と経済発展を同時になした国へと上昇したのである。しかし開発派のゴッドファーザー朴正熙(パク・チョンヒ)が「復活した親日派」と「成功した金玉均」という二つの顔の複合性を見せたのは、その端的な例のひとつである。後者もまた複雑だ。改革を強調する点では小国主義だが、統一に対する意識がだんだんと強調される過程で民族主義が強力に発現するところでは大国主義である。
当時、開発派らをものすごい剣幕で断罪(?)していたにもかかわらず、民主派こそ、宿命のごとく遺伝された弱小国の悲哀から自由になるその日を熱烈に夢見た韓国の愛国者だったのであり、民主派が親日派の後継的地位にある開発独裁に対する抵抗運動の中で民族運動家らを再発見する過程をここで想起しよう。まず、不退転の抗日志士である丹齋申采浩(シン・チェホ)が歴史の中から歩み出てきた。単政〔1945年の解放後に行われようとしていた南側だけの単独選挙にもとづく単独政府の樹立〕に反対し決然と北朝鮮行きを敢行した白凡金九(キム・グ)はさらに広く共有された。当時の民主派が彼らを引き合いにしたのは、マルクス主義の革命家を立てることができなかったという制約を迂回した側面がなきにしもあらずであるが、一方でそのあいだに大きく深い共感が育まれたのであり、共有の進行がイメージ(像)の単一化を促進しもした。帝国を夢想した大朝鮮主義者の申采浩が無政府主義革命家の申采浩を圧倒した。南韓〔韓国〕の民主派の一角にしみ入った申采浩の夢は、ついに「強盛大国」北朝鮮で沸き起こる。無政府主義へと傾倒してからも大朝鮮主義が見え隠れする申采浩とは違い、金九は意外にも小国主義的だった。よく知られている「私の願い」は、その代表的な文献である。
私はわが国が世界で最も美しい国になることを望む。最も富強な国になることを望むのではない。私が他人の侵略に胸を痛めたのだから、自分の国が他人を侵略することを望まない。私たちの富の力は、私たちの生活を豊かにするだけのもので、私たちの強い力は他の侵略を防げればそれでよい。ただ際限なく手に入れたいものは、高い文化の力である。『金九主席最近言論集』(1948)、白凡金九先生記念事業協会、1992年、70~71頁。
私は老子の無為をそのまま信じる者ではないが、政治においてはあまりに人工を加えることを正しくないと考える者である。だいたいの人は全知全能たりえず、学説とは完全無欠たりえないものであり、ひとりの人の考え、ひとつの学説の原理によって国民を統制することは一時熟した進歩を見せるようであるとはいえ、畢竟は病痛が生じて、それこそ弁証法的な暴力の革命を呼ぶことになる。あらゆる生物にはすべて環境に順応し、自らを保存する本能があるのであり、最もよい道は静かにそのままにしておくものである。同上、66~67頁。
強者が弱者に講を施す時に自利利他の法を用いて弱者を強者に進化させることが永遠なる強者になる道であり、弱者は強者を善導者にしていかなる千辛万苦があるとしても弱者の位置から強者の位置に達するまで進歩していくことが、またとない強者となる道である。『円仏教全書』円仏教出版社、1994年、第1部正典第13章最初法語、85頁。
「論理的良心」この言葉はドイツの哲学者フリードリッヒ・パウルゼンからとった。「ナショナリズムは極端に至ると……倫理的良心のみならず論理的良心までも抹する」。フレデリック・マイネック著、李光周訳『ドイツの悲劇』、乙酉文化社、1984年、69頁から再引用。21)まで抹殺する民族主義の衝突を根本から抑止する小国主義を、平和の約束として回想することで、大国あるいは大国主義の破局的な衝突を和らげる中型国家の役割を韓国が忠実に果たすならば、東北アジアの平和も遠いものではないだろう。そうして日中韓の三つの国の政府と市民がともに、互いに奉仕する平和体制の構築に真に合意すれば、東北アジアの内部衝突を駐屯の口実としてきた米軍の名誉の撤収と、敵対的国際環境を理由に先延ばしにされてきた「北朝鮮」の変法自疆が、先にであれ後にであれ、なされる希望をようやく抱くことができる。東北アジア三カ国のあいだの協同を図るのみならず、東北アジアとアメリカの和解も引き出しうるこの相互進化の容易くない道のりが、霧を貫いて浮かび上がる時、韓国(または南北国家連合)・中国・日本の三つの国が文明的な資産を土台に人類の未来を照らす新たな社会モデルを集合的に探求し実践する本質的作業に邁進する条件が熟するであろうと切に予感される。
日中韓の三国みなが歴程の重大な峠に差し掛かっている今、東アジアの文学者の任務は重く、かつ大きいことを改めて心に刻み、植民地時代の朝鮮の小説家横歩(フェン・ポ)の発言をともに吟味したい。
我ら文学の徒は自由で真なる生活を求めて、これを建てることがその本領かと思います。我らの交遊、我らの友情がこれで結ばれなかったら嘘です。この国の民の、そしてあなたの同胞の、真なる生活を探し求めゆく自覚と発奮のために闘う信念なしには、我らの友情もうわべのものです。廉想渉『萬歲前』(1924)、創批、1995年、162頁。〔横歩は廉想渉の号である。白川豊訳『万歳前』(勉誠出版、2003年)として日本語に翻訳されている。ただし訳出に際して参照はしていない。〕 (*)