창작과 비평

新自由主義、本当に終りを告げたのか

特集新自由主義、本当に終りを告げたのか

 

 

林源赫(イム・ウォンヒョク) wlim@kdi.re.kr

KDI経済開発協力室長。著書に『経済危機10年:評価と課題』(共著)などがある。

自由主義が専制権力からの人間開放を唱えた思想だとすれば、新自由主義は政府の役割を最小化し、資本家の自由を極大化しようとする思想と言えよう。新自由主義の哲学は政府に対する不信と市場に対する信頼を基盤とし、市場自由化の対象を実物だけでなく、金融部門にまで大幅に拡大したことが特徴である。歴史的に、新自由主義は大恐慌以降、拡大した政府の社会・経済的介入を批判しながら、私有化、規制緩和、累進課税の撤廃、そして労組の無力化を擁護してきた。所得創出と分配に対して新自由主義は「減税を通して労働誘因を増進させれば、経済活動が活性化し、低所得層にもそのメリットが及ぶ」という、所謂、供給重視の経済学(supply-side economics)の立場をとっている。

 


1970年代末と1980年代初、英国のサッチャー(M. Thatcher)首相と米国のレーガン(R.Reagan)大統領により本格的に政策として取り入れられた新自由主義は、ソ連や東欧などの共産主義体制が崩壊し、世界経済の統合が急速に進められた1980年代末から数年間、その全盛期を迎えた。しかし、1990年代以降、貧富の格差が拡大し、金融危機が増幅すると、新自由主義の影響力は徐々に衰退し始めた。新自由主義政策が福祉国家の非効率的な部分の解消には寄与したが、幅広く持続的な経済成長を成し遂げることはできなかったのである。このような新自由主義の限界は、多くの国家において、再び進歩政治に主導権を握らせるという結果をもたらし、さらには金融監督の重要性を痛感させる要因となった。

 


2008年の米大統領選挙にて確認された進歩政治の台頭と世界金融危機の拡散は、政府の社会・経済的機能の強化と国際金融秩序の再編を促す動力として作用するだろう。しかし経済的な利害関係に忠実でない有権者の投票態度、世界化の進展に伴う政府の影響力の減少や国家間の規制緩和競争、そして金融市場の自由化をめぐる国家間の利害対立により、これらに対する抵抗もかなり大きいと思われる。新自由主義の没落をはっきりと断言できない理由もそこにある。
 
 
 
 
 

1. 新自由主義の歴史的背景と知的基盤

 
 
 
用語自体の意味を考えると、新自由主義は自由主義の復元を意味するものとして解釈できる。ところが、自由主義は抑圧的な中世の社会秩序に対する対抗原理として登場して以来、かなりの進化過程を歩んできたため、新自由主義が復元しようとしている自由主義が如何なる自由主義なのかという問題にぶつかる。

 

先述したように自由主義は専制権力からの人間開放を唱える思想から始まった。アメリカ独立とフランス革命を経て、自由主義は権力に対する統制という消極的な立場を超え、民衆の参加を擁護し、自由民主主義の政治体制を支持する思想へと発展した。このような過程の中で、自由主義は、単に絶対権力を打破し、権力の絶対化をけん制しながら、自らの階級的利益を求めるブルジョア思想の限界を克服しただけではなかった。全ての人間は生まれたときから平等であり、誰も勝手に犯すことのできない尊厳性を持っているという普遍性を強調するようになったのである。このように自由主義は自由だけでなく、平等をも重視する方向へと発展し、自由主義の理想は現実の変化を触発する精神的な基盤となった。人種や宗教、財産の有無とは関係なく、投票権と市民権が与えられ、政治的領域での自由主義は支配理念としての位置を固めていった。

 


一方、経済的領域では、自由主義は自由放任(laissez-faire)を唱えたが、貧富の格差拡大と恐慌発生という二つの問題を解決できなかったため、政治的領域でのように確固たる位置を占めることはできなかった。自由主義は、政治権力と結託した経済権力と重商主義を打破し、貿易と市場競争の促進に大きな役割を果した。 しかし、経済的領域での自由主義が政治的領域でのように、自由と平等を同時に尊重したわけではなく、機会均等の原則を主張するだけで、貧富の格差に対する実質的な解決策を提示することはできなかった。恐慌発生に対しても自由主義は傍観的な立場をとった。19世紀末、民主主義が定着し、実質的な機会均等を要求する声が高まると、積極的な福祉・租税政策や反独占など、競争・規制政策が一部導入され始めたが、貧富の格差は解決困難な課題であり、恐慌発生は市場経済の不可避的な側面であると見做された。

 


1920年代末に起こった大恐慌は自由放任主義を再検討する転機となった。企業や銀行が連鎖倒産し、失業率が25%に達する状況において、貧富の格差拡大と恐慌の発生を自然な現象程度として取り扱うのは、知的には説得力に欠け、政治的には自殺に値する行為であった。実際に、自由放任政策によって大恐慌を解消できなかったため、ドイツや日本での民主主義の試みは失敗に終り、全体主義が拡散する要因としても作用した。一方、米国などの自由主義の伝統が強い国家では自由放任路線を修正し、大恐慌に積極的に対処する代案を選択した。米国のルーズベルト(Roosevelt)政権のニューディール政策がその代表といえよう。

 


自由放任路線から転換して進められた政策を具体的に見てみると、先ず、失業を救済し、貧富の格差を縮小するために社会安全網を拡充し、そして累進課税を強化した。米の連邦所得税の場合、最上位1%の所得階層に対する平均税率は1920年代の24%からルーズベルト政権1期には63%、2期には79%と、大幅に引き上げられた。さらに、大恐慌による金融危機を解消し、有効需要を創出するため、金本位制から離脱、膨張的な通貨政策を推進し、さらには金融監督の強化により金融システムを安定化する一方で、赤字財政の実施も行った。特に、銀行に対して預金保険制度を導入し、預金保険の対象とならない金融機関は、銀行から分離することにより、銀行が倒産しても預金者の預貯金は安全であるという信頼を与えたことが金融システムの安定に大きく寄与した。積極的な福祉・租税政策、及び通貨・財政政策の導入と共に、経済全般における規制が強化され、労働組合のパワーが高まったのも大恐慌以後の現象であった。

 


経済的領域での自由主義は大恐慌を基点にかなりの変化を遂げた。特にドイツのフライブルク(Freiburg)学派は、市場経済という秩序を維持するために政府の役割を強調する秩序自由主義を主張した。彼らはドイツ帝国とワイマール共和国時代の自由放任体制が競争制限や政財界の癒着を助長し、究極的に全ての経済権力と政治権力をナチ政権に集中させる結果をもたらしたと判断した。従って、政治・経済的な自由を保護し、社会の安定と発展を図るためには、私的な権力の勃興を抑圧できる市場経済秩序が確立されるべきであり、政府がこのような秩序確立の中心的な役割を果すべきであると主張した。フライブルク学派は、一定範囲内の累進税と社会安全網制度は市場経済秩序の維持に役立つが、政府が財政を恣意的に運営したり、過剰な福祉政策の繰り広げにより、資源配分に介入することは、却って市場経済秩序を損なうと見做した。政府の役割を財産権の保護に関する法制の整備、及び治安の確保に限定する自由放任主義に比べ、秩序自由主義は競争・規制政策の重要性を強調し、福祉・租税政策の必要性を一部認めるという面で、政府のより積極的な役割を支持するものと言えよう。これに加えて、財政運営による総需要の調節を正当化するケインズ理論と、積極的な富の再分配を目指す福祉主義を受け入れるなら、社民主義と似通った主張になるのである。

 


これに対し、新自由主義は、大恐慌以降に拡大された政府の役割を再び縮小させ、自由放任主義を復元しようという立場をとった。新自由主義の知的基盤を提供したハイエク(F.A.Hayek)は、カール・マルクス(Karl Marx)は勿論、ケインズをも批判しながら、政府の介入が個人の自由を脅かし、究極的には「隷属への道(the road to serfdom)」へと向かわせるだろうと主張した。政府の介入が自由主義の手順に従って正当化されたとしても彼の主張に変わりはなかった。ハイエクは人間の不完全な理性と知識により設計された制度では社会を改善することは不可能であり、結果の予想できない自生的で漸進的な進化を通してだけ、社会は発展すると主張した。彼は、情報と誘因問題が原因で、計画は市場メカニズムよりも劣った結果を生み出すしかないと判断した。価格機構を通した情報伝達と発見過程としての競争を強調した彼の見解は、市場経済の作動メカニズムを見抜いた卓見ではあったが、市場メカニズムの長所を過剰に強調した側面もある。一方、1930年代に企業理論を打ち出したロナルド・コース(Ronald H. Coase)は、取引費用という概念に基づき、経済活動を組織する原理として、市場メカニズムと計画、又は内部取引の長短所をより均衡的に分析している。このように新自由主義は反民主的偏向と知的極端性を内包しているため、一般大衆は勿論、知識人らも受け入れるには、かなりの時間が必要であった。
 
 
 
 
 

2. 新自由主義の華麗なる台頭と失望たる成果

 
 
 
大恐慌と第2次世界大戦以降、先進国はハイエクが唱えた新自由主義とは異なった、秩序自由主義、又は社民主義に基づいた社会的市場経済や福祉国家モデルを選択した。民主主義と市場経済を基盤とし、政府の役割を強調した政治・経済体制は、ハイエクの警告とは相反して、「隷属への道」へと向かうどころか、幅広く持続的な経済成長をもたらした。経済史学者のアンガス・マディソン(AngusMaddison)によると、西欧の一人当たりの所得は1950年から1973年の間に年間平均4.08%増加しているが、これは1870~1913年の 1.32%、1913~1950年の0.76%、1973~1998年の1.78%に比べ、遥かに高い。全体的な所得が増加しただけでなく、累進課税と親労働的政策は貧富の格差を縮小させ、堅実な中産階級の養成にも寄与し、所得階級間の「大圧縮」(great compression)現象が起こった。

 


しかし、このような成果にも関わらず、福祉国家モデルは労働と資本の両者からの政治的挑戦に直面することになる。これに関連して、1943年、ミハウ・カレツキ(Michal Kalecki)は、たとえ総需要の調節による完全雇用政策が利益の向上に役立つとしても、資本家は労働者への解雇の脅威を通した規律効果を重視して、完全雇用政策に反対し、経済危機という状況さえ乗り切れば、再び自由放任政策を支持するであろうと予想した。実際、第2次世界大戦以降、数年間持続した経済成長と完全雇用は労組の交渉力を強化し、賃金及び労働条件に対する過剰な要求へと結びついた。大恐慌と第2次世界大戦において労働者が強いられた苦痛に対する記憶が社会的に薄れ始めると、累進課税の負担に不満を抱いていた資本家は「福祉病」など、福祉国家の弊害を強調し、自分らの主張をし始めた。1970年代のオイルショックに引き続き起こったスタグフレーションは、福祉国家体制を一層脅かした。物価と連動した賃金引上げと通貨の膨張によりインフレーションが固着化し、成長率は衰えたため、福祉国家の繁栄はもはや持続不可能となった。一般大衆は失業と疾病の恐怖から自分たちを守ってくれる社会安全網を重要視したが、福祉国家の過剰な部分を縮小し、経済を活性化する代案にも関心を持ち始めた。

 


サッチャーやレーガンのような政治家は新自由主義的な政策を推進できる空間が既に確保されたと判断し、個人と企業の自由を擁護するレトリックと福祉国家に対する批判を前面に押し出すことにより、有権者の支持を得た。福祉を受けている立場の人が高級車を乗り回しているといったエピソード的な話も有権者を刺激し、またレーガンなどは、米南部の人種差別的な情緒を上手く利用して選挙で大勝利を収めた。サッチャー首相は、就任後、長期ストライキにより、国民の信頼を失った労組に対して強硬な態度を示し、累進課税を縮小、私有化と規制緩和を積極的に推進した。これと同様にレーガン大統領も航空管制労組のストライキを封鎖するなど、強攻策を繰り広げ、大規模な減税政策と規制緩和を通して、福祉国家を解体しようとした。レーガン政権時代のデービット・ストックマン(David Stockman)予算局長は政府を野獣に喩え、まるで「野獣を飢えさせる」(starving the beast)ように、減税策により税収を減らし、政府の役割を縮小するという方針を打ち立てて公言した。

 


1970年代末以降、英米両国で進められた規制緩和と減税政策は、経済の活力向上に大きく寄与したが、かなりの副作用が生じたことも事実である。英国では、過去、国有化されていた産業分野の公企業を売却し、経営効率を向上させることにより、減税による税収減少を保全した。また米国では、新自由主義に従ったとは言いがたいカーター政権時代から政府によって厳重に規制されていた航空、トラック運送などの産業分野において、規制を緩和、競争を活性化することにより、料金は引き下げられ、サービスは向上するという成果を得た。しかし、1980年代以降、電力産業などの競争導入の困難なネットワーク産業分野において推進された規制緩和は、価格の急騰や供給の不安などの副作用を生み出した。又、米貯蓄貸付組合の例でも分かるように、健全性の監督が前提となっていない金融部門での規制緩和は、不良債権を生み出す結果をもたらすことにもなった。一方、供給重視の経済学を基盤として進められた減税政策は、期待ほどの経済活動の活性化をもたらすことはできず、財政に負担を与え、貧富の格差拡大の要因として作用した。特に米国においては、公企業の売却による財政収入もなく、福祉支出を大幅に縮小することもできず、ソ連との軍事競争による軍事費の支出も拡大する中、減税政策の推進により、大規模な財政赤字が発生した。規制緩和と減税政策全体を新自由主義と言うには語弊があるかも知れないが、福祉国家を解体し、自由放任主義を復元しようとする新自由主義の政策路線が、英米両国にもたらした経済的な成果は然程高くは評価されないだろう。

 


しかし、新自由主義の政策路線は、1980年代末以降、全盛期を迎えることになる。社会主義国家の崩壊により、政府縮小と市場拡大を主張する思潮は一層高まり、また、世界経済の統合が急速に進行し、労組が衰え、政府の影響力は減少したためである。こういった状況を背景に新自由主義の政策路線は開発途上国や体制転換国へと大々的に伝播された。財政収支、及び経常収支を調整してマクロ経済を安定させ、公企業の売却により、民間の参加を誘導し、規制緩和を通して市場競争を活性化させれば、経済成長を達成できるという政策アドバイスが続々と登場した。1990年、米国際経済研究所(IIE)のジョン・ウィリアムソン(John Williamson)は、「安定化・私有化・自由化」(stabilization, privatization, liberalization)を求める新自由主義の政策路線の優越性は、既に経済学者の間で合意を得たものであると宣言し、これを「ワシントン・コンセンサス」と名づけたりもした。

 


しかし、このような見解は、実際の経済開発過程にて直面する諸問題を見過ごし、政府の役割を縮小させる偏向を生み出した。経済開発の過程において直面する問題は大きく三つに分けられる。一つは、国家と個人、又は個人と個人の間の財産権侵犯により、生産的な活動への誘因が低下しないように、財産権を保護しなければならない。即ち、個人が自らの努力により得た成果を享有すべきであるということだ。二つ目は、見込みのあるアイテムに対する需要の適切な把握と共に、供給がスムーズに行われるように投資と生産の調整が行われるべきであるということ。調整の失敗(coordination failure)により経済活動に狂いが生じると、その分、経済開発は遅れをとることになる。三つ目は、知識の形成・蓄積・拡散に関連した公共財が供給され、学習、及び革新が持続的に行われなければならないということである。

 


自由放任主義や新自由主義政策路線は、三つの課題の中で財産権の保護に対しては、その当為性を強調しているが、調整の失敗や知識に関する公共財財の供給においては、政府の役割が如何に重要であるかについて、十分な認識を持ち得なかった。その理由は、新自由主義の政策路線が、開発途上国や体制転換国を相手に先進国の利益を追求しようとする誘因を持つだけでなく、既に市場経済の発達している先進国の立場から経済開発問題を見つめているからだと思われる。先進国では、市場経済が発達したおかげで、市場取引による各種の資材と部品の調達、経済活動の調整が可能であるだけでなく、民間企業が学習、及び革新を主導する力を持っている。それとは逆に、開発途上国や体制転換国では、市場取引による経済活動の調整は容易ではなく、企業の学習、及び革新力も限られているため、政府の主導の下で民官協力により経済開発を促進すべき部分もかなり多い。このように「ワシントン・コンセンサス」は、経済開発の過程における政府の役割を過小評価する一方で、市場自由化の便益は過大評価している傾向がある。特に群衆効果とシステムリスクにより、変動性の大きい金融市場を自由化した時に起こりうる副作用を予想することができなかった。金融危機と実物経済の冷え込みが結びつき、恐慌が起こりうる可能性を過小評価したのである。

 


ハーバード大学のダニー・ロドリック(Dani Rodrik)の指摘通り、「ワシントン・コンセンサス」を受け入れた開発途上国や体制転換国の経済的成果は自慢できるほどのものではなかった。中南米の国家においては、安定化・私有化・自由化政策が推進されたが、1990年代の一人当たりの所得増加率は1950年から1980年までの増加率に比べて、却って低下している。中南米の経済改革の象徴であったアルゼンチンにおいては、2002年に通貨危機を迎えたほどだ。「ワシントン・コンセンサス」を受け入れ、急進的な改革を進めた東欧の体制転換国も長期間にわたる恐慌に襲われた。一方、韓国、シンガポール、台湾、香港などをはじめ、中国やベトナムを含めた東アジアの諸国家は市場経済を基盤に、政府と民間の協力を適切に活用し、「高度の同伴成長」(rapid,shared growth)を成し遂げた。このように新自由主義の政策路線が失望的な成果を挙げると、過去、開発途上国や体制転換国を相手に「ワシントン・コンセンサス」を伝播した世界銀行さえも2005年度に発行した『1990年代の経済成長』(World Development Report-1990)という報告書にて「普遍的に適用できる最善の政策集合など存在しない」と明らかにした。
 
 
 
 
 

3. 新自由主義の危機と代案の模索

 
 
 
新自由主義の政策路線は英米だけでなく、開発途上国や体制転換国においても幅広く、持続的な経済成長の達成に失敗した。過去に自由放任主義がそうであったように、貧富の格差拡大と恐慌発生に対して、新自由主義もこれといった解決策を出すことはできなかった。そのため、代案を模索する試みがなされ始めた。

 


英米を始めとする先進国では、進歩傾向の一部の知識人と政治家が、福祉主義と新自由主義の間で「第3の道」を見つけ出そうとした。福祉国家の問題点を修正しながらも、一方的に政府の縮小を目指すのではなく、貧富の格差の縮小と社会安全網の拡充、競争・規制政策の執行と関連した政府の役割を重視する方向へと代案を模索したのであった。1990年代初に当選した英国のブレア首相と米国のクリントン大統領は、このような政策を推進させた代表的な人物と言えよう。彼らは、国民の税金をかき集めて使いまくる(tax and spend)という批判を避けるために財政規律を確立し、生産的福祉(workfare)の概念を導入して、社会安全網の提供が対象者の労働誘因を低下させないように調整した。競争・規制政策に関しては、急進的な措置を避けながらも、基本的には自由化を基調とする路線を選択した。例えば、クリントン政権は北米自由貿易協定(NAFTA)を締結し、商業銀行と投資銀行の分離を強制する措置を緩和した。このように「第3の道」路線は進歩傾向の知識人や政治家が、新自由主義の多くを受け入れたという意味を含んでいるため、新自由主義に対する十分な代案とはなり得なかった。却って、「第3の道」路線は、新自由主義に対して否定的であった進歩傾向の有権者の認識を変えた役割をしたと言えるだろう。

 


実際、米国の有権者はクリントン政権の8年を経て、より新自由主義に忠実な政策を打ち出したブッシュ政権を拒否感なく受け入れた。ブッシュ政権は「政府は解決策になれず、却って問題になるだけだ」という哲学に基づいて、「テロとの闘い」を遂行しながらも、大規模な減税政策を進める一方で、規制を緩和し政府の監督機能を低下させた。2002~2006年までの間に、鉱業活動が9%増加したにも関わらず、鉱産安全衛生庁(MSHA)は安全関連の検査要員の数を全体の18%である100人も削減したため、同期間、鉱山事故が頻発する要因となった。金融部門では市場の自浄能力に対する信頼を土台に各種の派生商品(デリバティブ)の導入を許可する一方で、投資銀行の資産-資本比率(レバレッジ)に対する規制を大幅に緩和することにより、金融危機の切っ掛けを提供した。科学技術分野においても5年間、国立保険研究所(NIH)の予算を凍結するなど、政府の役割を怠った。ブッシュ大統領は、まるで、政府は無能で腐敗の温床であるということを実現しようとするかのように無能且つ腐敗した人物らを政府の重職に就かせた。アラビアの競走馬審査官出身であり、連邦緊急事態管理庁(FEMA)の責任者として抜擢され、2005年のハリケーン「カトリーナ」の事態収拾に失敗したマイケル・ブラウン(Michael Brown)が、その代表的な例と言えよう。

 


このような政策は災難同様の結果をもたらした。クリントン政権時代の1993~2000年にかけて、全ての所得階級の世帯所得は、最低15%増加し、中産階級の所得も7748ドル増加している。しかしブッシュ政権時代の2000~2007年にかけては、生産性は年間平均2.5%増加しているが、中産階級の所得は、寧ろ2010ドルも減少している。イラク戦争と大規模な減税政策により、財政が急激に悪化し、景気浮揚のための低金利政策を長期間続行した結果、不動産価格が急騰した。金融機関は各種の派生商品を導入し、資産-資本比率を高める一方、債務者に対する資格審査を疎かにしたまま、貸付を行い、不動産市場のバブル化を一層加速化させた。ところが、不動産の価格上昇は持続せず、2006年の7月を頂点に勢いを失い、深刻な金融危機を呼び起こす結果となった。ブッシュ政権が推進した新自由主義の政策も貧富の格差拡大と恐慌の発生という問題から逃れることはできなかったのである。

 


ブッシュ政権が引き起こした悲惨な結果により、進歩傾向の知識人や政治家は、より進歩的色彩の濃い政策路線を主張するに至った。『格差はつくられた』(The Conscience of a Liberal)の中で、ポール・クルーグマン(Paul Krugman)が指摘したように、世界経済の統合や熟練偏向的な技術変化よりは、政治・理念的な要因の方が貧富の格差により大きな影響を与えたという認識も広がり始まった。社会・経済部門において、オバマ陣営のシンクタンクの役割を果した米国進歩センター(Center for American Progress)は、2008年の米大統領選挙直後に公開された『アメリカのための変化』(Change for America)という報告書の中で、新自由主義に対する進歩的な代案を提示している。

 


この報告書は、所得不均衡の深化や経済不安により、社会が二分化されるのを防ぎ、米国民が繁栄を共有しながら同伴成長できるようにすることが、次期大統領の最も重要な経済政策の課題であると前提しながら、四つの重要な進歩的価値が実用的な政策として実現可能なものに設計する必要があると力説した。四つの進歩的な価値とは繁栄の共有、経済的尊厳性の確保、身分上昇のための実質的な機会の提供、出生身分を問わない均等な機会の提供などである。特に、現在の米国で職場と連帯している医療保険、年金貯蓄、子供の高等教育の機会を、職場と分離し、普遍的に提供することにより、中産階級の崩壊を防ぎ、基本的な社会協約を再建する必要があると強調している。さらには、気候変化に対する対処、エネルギー効率の改善、自動車などの主要産業の競争力の見直しなどを包括したグリーン成長戦略を推進すると共に、研究開発予算を引上げ、人材を補充し、国家の中長期的成長可能性を引き出すことを提言した。通商と関連しては、労働と環境に関する規範を確立し、互恵取引に基づいた「公正な」自由貿易を目指している。
報告書は新政府が金融危機に積極的に取り組み、金融だけでなく、保健・環境分野においても、ブッシュ政権が進めていた各種の規制緩和政策を再検討するように要求している。全体的に、社会・経済部門においての政府の積極的な役割を強調している一方で、その他の諸問題に対する政府の介入の正当性を確立しており、その強度を明確に規定するために努力している。
 
 
 
 
 

4. 新自由主義の行方

 
 
新自由主義が幅広く持続的な経済成長の達成に失敗し、進歩的な代案の模索が活発になされてはいるが、新自由主義が終りを告げたとは言いがたい。歴史的に振り返って見ると、確かに新自由主義が貧富の格差拡大や恐慌の発生に対する解決策を出すことはできなかったが、資本家と労働者の利害関係は異なったものであり、さらに各国家間の利害対立も存在するため、政府の社会・経済的機能の強化と国際金融秩序が再編される過程には多くの障害物が存在する。このような問題を体系的に把握するためには、一国単位の民主主義の動き、国境を越えた世界化の波及効果、国際秩序をめぐる国家間の対立に対する分析が必要である。

 


政治的な領域において、自由主義が支配理念として確立されている国家では、自由民主主義の政治体制が有権者の選好を伝えるメカニズムとして作用している。中位投票者理論(median-votertheory)によると、投票で有権者の選好を順番に並べた場合、中間に位置する有権者が全体の結果を決定することになる。もし、民主主義体制下で、有権者が人種や宗教など、経済以外の理由に影響を受けず自らの利害関係に忠実な投票を行うならば、福祉・租税政策は中位有権者が受け入れられるレベルで調整されるということである。所得の少ない多数の有権者が所得の多い少数の有権者との争いで勝ち、高額所得者に重課税を行い、福祉を享受するという結果を想定することもできるが、重課税は労働誘因を低下させ、全体の国民所得を引き下げる結果を生み出すこともあり、裕福層もこのような可能性を主張し、有権者の選択に影響を与えるだろうということを考慮する必要もある。

 


世界化グロ―バリゼ―ション)は 企業の移住を円滑にし、政府の影響力を縮小させ、国家間の規制緩和、及び減税競争を促し、福祉国家の基盤を損なわせる可能性がある。その一方で、世界化は福祉国家の亀裂の要因となっていた労組の過剰な要求を遮断する役割も果すだろう。

 


もし、有権者が自らの利害関係に忠実な投票をするなら、世界化の進展による国家間の規制緩和競争を考慮しながらも、失業、及び疾病に対する不安を和らげ、貧富の格差を縮小するレベルでの福祉・租税政策の調整が可能である。有権者の合理的な投票と共に、労働条件などに関する国家間の調整や国際規範確立も、謂わば「底辺への競争」(race to the bottom)を防ぐのに重要な役割を果すだろう。税金も少なく、規制も少ない所へ移住すると企業が政府を圧迫した場合、一定レベルの福祉・租税政策の確立は、優秀な人材と投資環境の確保を可能とし、国際規範にも一致するという点を政府が強調できるということである。このように経済的な利害関係に忠実な有権者の投票や労働条件などに関する国家間の調整が前提されるならば、福祉・租税分野においての新自由主義の影響力は相当減少するであろう。実際、2008年の米大統領選挙において人種や価値など、経済以外の要因が有権者の選択に及ぼした影響は低下し、比較的、有権者が経済的な利害関係に忠実な投票を行うことにより、進歩的な代案がパワーを得ることとなった。進歩的代案は、繁栄の共有、経済的な尊厳性の確保、実質的な機会の均等などを強調すると同時に、「公正な」自由貿易のもと、労働・環境分野の国際規範も確立させようと努力している。

 


福祉・租税政策の調整に比べて、国際金融秩序の再編は、より一層困難な課題となるだろう。基軸通貨を保有している国家とそうでない国家、金融部門での競争力を備えた国家とそうでない国家の間に、根本的な利害対立が存在するからである。確かに、今回の金融危機が新興市場だけでなく、欧米諸国にもかなりの打撃を与えはしたが、だからと言って、欧米諸国が基軸通貨国としての既得権までも諦める方向へと国際金融秩序の再編を行う可能性は少ない。金融取引に関する情報公開と監督を一部強化し、また国際通貨基金(IMF)の機能を補完し、金融世界化の副作用を縮小させる程度に止まる可能性が高い。従って、金融市場において、新自由主義の影響力は大幅には縮小されないと思われる。オバマ政権において、経済分野の要職に就いた人々に、過去、金融監督の緩和を積極的に推進した前歴のある人物が多いという点は、こういった可能性を示唆していると言えるだろう。(*)

 

 

 

 

訳=申銀兒

 

季刊 創作と批評 2009年 春号(通卷143号)
2009年3月1日 発行
発行 株式会社 創批
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