창작과 비평

日本の金融危機とネオリベラリズム

特集│日本の金融危機とネオリベラリズム

 

2009年 春号 (通卷 143号)

 

 

芳賀健一 新潟大学 経済学部 教授。著書に『グローバル資本主義と企業システムの変容』(共著) 『国民国家システムの再編』(共著)などがある。

 

二〇〇七年夏に始まったアメリカ合衆国のサブプライム危機は、〇八年夏に金融恐慌として激発しグローバルに拡大しつつ実体経済に及んでいる。本稿は、今回の金融恐慌に先行して生じた日本の金融危機とその衝撃に起因する資本蓄積体制の変容を考察する。これら二つの金融危機に共通する現代的要因は、一九八〇年代に興隆したネオリベラリズムであり、その一環としての金融規制緩和である。

 

日本の金融危機は、八〇年代後半のバブル期に預金取扱機関(以下では時に銀行に代表させる)が土地関連融資を増大させたことに起因する。この銀行戦略は金融規制撤廃に強い影響を受けて形成された。九一年以降、地価が下落していくと、この膨大な貸出債権が不良化し、預金取扱機関はその「最も弱い環」から順次破綻に追いやられたが、金融恐慌の激発は大蔵省の先送り政策と裁量行政でかろうじて封じ込められていた。また政府は九六年に初の金融危機管理システムを構築して、不良債権問題を解決したと誤認した。しかし九七年末に金融恐慌が激発し全面化した。


金融恐慌の過程で、日本銀行は「最後の貸し手」機能を発揮して潤沢なベースマネーを供給し、また政府は九八年に本格的な金融危機管理システムを構築し、七〇兆円の公的資金枠を準備した。ただしシステム構築は、激しい政争やアメリカの圧力に曝されたから、順調に進行したわけではない。政府が金融「正常化」宣言を発表したのは〇五年五月であった。バブル崩壊から実に一五年にわたって金融不安定性がつづいたことになる。

 


他方、九七年末に勃発した金融恐慌は金融システムの内部に限定されなかった。実体経済を直撃し、企業の戦略的行動の変化をつうじて日本の資本蓄積体制を変質させた。とりわけ雇用システムは大きく変容し、景気回復のメカニズムを破壊した。こうしたミクロ・マクロ両面の変調を政策面から支えたのが小泉「構造改革」であった。今回の金融危機が規制撤廃の落とし子であり、また「大きな政府」が金融危機を管理した事実は全く反省されないまま、ネオリベラル政策が不況脱出策として提示された。しかし構造改革は高度成長期に確立した資本蓄積体制の社会的枠組みを破壊し、資本蓄積を停滞させ、デフレの恒常化に貢献しただけであった。

 


本稿は九〇年以降の日本の金融危機を今回のアメリカ合衆国の金融危機と直接に対比するものではない。しかし日本の経験が今後のアメリカの危機進行に、またアメリカの危機が日本の金融規制システムに示唆するものも大きい。
 
 
 
 
 

1. 日本型ネオリベラル政策の登場と金融規制緩和の開始

 
 
 
一九七三年の第一次石油危機をきっかけに戦後高度成長は終焉し、先進国は総じてインフレと失業率が同時に高騰するスタグフレーションに襲われた。原因がケインズ政策を柱とする福祉国家に求められ、代替策としてネオリベラル政策が採用された。ネオリベラリズムは小さな政府・民営化・規制緩和を手段として政府の極小化と市場の極大化を目指す政策思想である。具体的にはイギリスのサッチャー政権(七九~九〇年)、アメリカ合衆国のレーガン政権(八一~八九年)で実施された。

 


日本では中曽根康弘政権(八二~八七年)が日本型ネオリベラル政策の嚆矢である。その国内的課題は七五年以来累増する赤字国債の解決にあった。赤字累積は国内の景気対策に加えて、内需拡大で世界経済を牽引する国際的要請に応えた結果でもあった。財政赤字削減策は増税か歳出削減かのいずれかしかない。消費税は七九年の総選挙での自民党惨敗で封印され、赤字削減はもっぱら「行財政改革」に求められた。また国鉄、電電公社、専売公社の民営化も実施された。

 


中曽根政権期のネオリベラル政策にはもうひとつの狙いがあった。八六年四月の「国際協調のための経済構造調整研究会」報告書(いわゆる前川レポート)と八七年四月の「経済審議会経済構造調整特別部会報告」(新前川レポート)に示される「構造調整」である。小泉「構造改革」とは全く異なり、これは対外不均衡を是正し、外需依存型から内需主導型への蓄積体制の転換を意味していた。「構造調整」には内需拡大策の一つとして生産性上昇に見合った賃金引き上げや労働時間の短縮も掲げられていた。

 


このネオリベラル政策は、資本蓄積体制の社会的枠組みの全面改変を企図してはいなかった。八〇年代のアメリカ合衆国はマネタリスト型金融政策で八〇~八二年に大恐慌期以来の大不況に陥り、その後も財政と経常収支の「双子の赤字」に苦しみ、さらに八九~九二年には多数の銀行とS&L破綻を伴う金融危機に襲われた。他方、日本は第一次石油危機に激しい打撃を受けたが、七八年からの第二次石油危機は比較的順調に乗り越えた。とりわけ製造業大企業は革新的戦略を構築し、マイクロエレクトロニクスを組み込んだ新製品を創出し、資本蓄積体制を輸出主導型に転換した。この成功が欧米との貿易摩擦を激化させ、上記の「構造調整」政策を立案させることになった。経営者も官僚も日本的労使関係やメインバンク制などの蓄積体制の社会的枠組みへの自信を強め、逆にアメリカの「荒れる」労使関係や金融危機を結果した拙速の金融緩和策を反面教師としていたように見受けられる。

 


結局、この時期の「行財政改革」はバブル景気による内需拡大、税収増加、八八年末の消費税法成立等があって尻つぼみになり、政治の焦点は、八八年に発覚したリクルート事件をきっかけに政治改革とくに選挙制度改革にシフトしていった。
 
 
 
 
 

2. 金融規制緩和とバブル経済

 
 
 
八〇年代の米英主導のネオリベラル政策が日本の蓄積体制に与えた影響は概して限定的であったが、金融規制についてはそうではない。

 

 
2-1 高度成長期の金融システムと金融規制
 

 

まず従来の金融規制を概観しなければならない。高度成長期(五五~七三年)に確立した戦後日本の金融システムは金融当局による厳しい規制のもとに置かれていた。具体的には、外為法による内外市場分断規制であり、この鎖国体制のもとで金利規制(預金金利、貸出金利、公社債発行利回りなど)・業務分野規制(長短金融の分離、銀行・証券の分離など)・参入規制が敷かれた。規制の目的は金融機関の競争を制限し、金融システムの安定性を維持することにあった。規制による市場機能の抑制は非効率的で不生産的な金融システムの形成を予想させるが、実際には安定した銀行中心型金融システムが形成され、豊富に形成される家計貯蓄が銀行を経由して企業に融通され、資本蓄積を増幅した。企業は負債依存型財務戦略を採り自己資本比率を低下させたが、この金融脆弱性が銀行危機を引き起こすことはなかった。高度成長それ自体が企業の潤沢なキャッシュフローを保証したからである。
 

 

2-2 金融構造の変化と金融規制の緩和
 

 

この高度成長型金融システムは七三年の第一次石油危機をきっかけに国内要因から解体しはじめる。まず金融構造が大きく変化した。企業部門は投資停滞によって外部資金への依存を低下させ、資金不足部門は赤字国債を発行する政府部門に移行した。主要行(都市銀行・長期信用銀行・信託銀行)は優良な貸出先である製造業大企業を失い、新たな貸出先を求めて相互にまた地方銀行と競争を激化させていった。また七五年度からの国債大量発行にともない、銀行が国債ディーリングを認可され、証券会社が預金類似の中国ファンドを認められるなど、銀行と証券の垣根も低くなった。従来の業務分野規制は残されたが、金融機関の競争は激化していった。さらに国債の市中消化のために、大蔵省は七七年に国債流通市場を解禁した。「金利自由化元年」である。さらに国債流通市場に並行して国債の在庫金融を担う現先市場が拡大し、有利な金利を求めて銀行の大口定期預金が流出したため、大蔵省は銀行に譲渡性預金(CD)を認めた。預金金利自由化第一号である。

 


以上のように第一次石油危機以降、国内の金融構造が変化するなかで、金融規制が部分的に緩和され、あるいは規制の効果が減退していったが、この規制緩和は八〇年代に加速した。第一に、八一年に新銀行法が成立した。第一条の目的規定には「この法律の運用に当たっては、銀行の業務の運営についての自主的な努力を尊重する」ことが明記された。日銀も都市銀行の貸出量を管理する貸出増加額規制を事実上撤廃した。

 


第二は、一九八四年に「日米円ドル委員会報告書」が発表され、規制緩和が本格化した。アメリカ合衆国側の意図は、日本の金融自由化を加速させて、当時アメリカの「双子の赤字」を支えていた日本の資本輸出を拡大すること、アメリカ多国籍銀行の日本進出を容易にすることにあった。大蔵省も八〇年代にイギリス・アメリカ主導で進行する金融自由化に抵抗しえないと判断していた。本来的に貿易自由化と金融自由化は非対称的な効果をもつ。一方的に貿易を自由化すれば、自国市場は輸入品に蚕食されるが、一方的な金融自由化は自国の金融市場に外国資金を引き寄せ、金融業を興隆させるからだ。金融グローバル化が英米の国家戦略に由来することはHelleiner[1994]参照。 むしろ大蔵省はこの「外圧」を利用して国内の反対勢力(とくに中小の金融機関)を押さえ込んで金融自由化を促進し、また円を国際化して東京をロンドン、ニューヨークに並ぶ国際金融市場に育てる意図があった。

 


このように国内要因と対外要因が合流して金融規制緩和が進行する環境のもとで、銀行は「攻めの融資」戦略を構築した。すでに八〇年までに住友銀行は予想される競争の激化と利鞘圧縮を融資拡大で乗り切る戦略をたて、支店に「青天井」の与信権限を委譲し、審査部を事実上廃止するといった組織改変を行っていた(住友銀行行史編纂委員会[一九九八]、四〇八~一六頁)。他の主要行もこれに倣って戦略と組織を改変した。銀行にとってバブルの準備は発生の五年前に整っていたのである。

 


その後の展開は、この戦略を強化するインセンティブとして作用した。上述の「日米円ドル委員会報告」に沿って各種預金金利がほぼ半年ごとに自由化され、最低預金額が小口化されていった。また八八年にいわゆるBIS(国際決済銀行)規制が設けられた。原因の一つは、低利鞘で融資拡大路線をひた走る邦銀の国際銀行業であった。その際に、大蔵省は、イギリス等の反対を押し切って株式含み益の四五%を自己資本(の補完的項目)に組み入れることを認めさせた。八八年末にBIS規制の国内適用の通達を発出した(実施は九三年三月)。これは新たな規制の賦課であるが、銀行にとっては収益拡大のインセンティブとして作用した。自己資本比率が八%であれば、一〇〇億円の貸出拡大には八億円の資本増加が必要になる。資本を増やす常道は銀行の内部留保の拡大すなわち収益の拡大である。かくして銀行は、本業ではリスクプレミアムを上乗せできる中小企業・個人に、また新本業は国際銀行業務に融資戦略目標を定めた(川野[一九九五]、八、二七~八頁)。

 


金融自由化の国家戦略は不在であった。第一に、八一年銀行法の主眼は銀行による国債取引の認可にあったが、大蔵省原案には情報開示と経営不振銀行への経営改善計画の命令が含まれていた。しかし旧銀行法(二七年制定)でも銀行の証券取引が認められていることを理由に、銀行業界が新法に猛反対したため、大蔵省は妥協策として上記の規定をそれぞれ訓辞に格下げし削除した。大蔵省は旧来の規制に代わる新たな規制の賦課を真剣に構想していたわけではない。第二に、金融制度審議会は八二年から「金融自由化」への対応策を検討しはじめたが、結論は「規制」を「最小限」にすること、「漸進的に対応」することだけであった。「漸進的」に規制緩和を進めれば金融機関は最適の行動をとるはずだという信念の表明にすぎなかった。Vietor[1994]は八〇年代に「規制なき競争」から「規制された競争」へ転換したアメリカの経験を分析して、「規制当局者は、規制される企業を、個人と資産からなる経営組織としてよりも、ブラック・ボックスとして眺めているように見受けられる」(p.328)と指摘した。日本の銀行も「経営組織」であり、長い競争制限的規制のもとで新しい環境に革新的に対処する組織能力の育成を阻まれてきた。競争的環境のもとで新たなリスク管理方式や適正な利鞘を確保できる金利設定方式を案出する能力に乏しく、「攻めの融資」という最も安易な戦略を構築して、バブルにのめり込んでいくことになる。「政府の失敗」であり「銀行の失敗」である。

 


ただし金融自由化の過程で小規模な金融機関が破綻する事態を想定して、八六年に預金法改正が改正され、資金援助制度の導入、預金保険限度額の引き上げ(三〇〇万円から一〇〇〇万円)、保険料率の引き上げが行われた。その後、九六年までの金融危機管理の手段は、この預金保険法改正、昔ながらの日本銀行の「最後の貸し手」機能、そして大蔵省の行政指導だけであった。

 

 
2-3 資産価格バブルと実体経済
 

 

(1)地価と株価の高騰

 

日本のバブル経済は八六年第4四半期から九一年第1四半期まで五一か月つづいた。バブルと呼ばれる所以は、地価と株価の高騰を特徴としたからである。地価は六大都市商業地で八五年から九一年までに約五倍に急騰し、土地投資年額も同期間に一一兆円から二五兆円に膨れあがった(九五~九一年の総計一一二兆円)。純計での土地の売り手は家計、主たる買い手は不動産業と建設業であった。当初の土地ブームは東京圏のオフィスビルへの実需に起因していたが、すぐに高値で転売するだけの投機に転化した。銀行の「攻めの融資」戦略が土地投機に資金を供給して、地価高騰を金融面から支えた。

 


この銀行戦略を一挙に発現させたのは、日本銀行の低金利政策であった。八六年一月から金利を五回引き下げ、当時史上最低の二・五〇%の公定歩合を八九年五月まで維持した。大蔵省は財政再建を優先し、内需拡大のマクロ経済政策を日銀の金融政策に押しつけたからだ。また日銀の金融政策の目標は物価安定であるが、この物価に資産価格は含まれない。ただし現日銀総裁の著書、白川[二〇〇八]は資産価格を金融政策の対象に含めている[四一三~四頁]。 卸売物価は八五年以降の円高と逆オイルショックによる輸入原燃料価格の低下で安定していたから、金利引き上げを大蔵省に説得できなかった。「日銀の失敗」である。

 


株価も高騰した。株価は八二年を底にして上昇をつづけ、九〇年末に日経平均三万八九一五円の最高値を記録した。この過程で株式の時価発行、転換社債・ワラント債の発行も増加した。八六~八九年度のエクイティ・ファイナンス総額は総計約五五兆円に達した。製造業と金融保険業の二業種がその六四%を占めた。銀行の発行目的は上記のBIS規制のための自己資本充実と第二次オンライン化の設備資金調達にあった。製造業大企業は設備資金を内部資金で賄いえたから、エクイティ・ファイナンスで調達した資金を金融的投資に用いた。株価上昇がエクイティ・ファイナンスを増加させ、その発行代わり金が再び株式市場に流入し株価を押し上げた。株価バブルのメカニズムである。資本市場で調達された資金が生産的投資に充当されれば、再生産過程の収益が株価を実体経済面から裏付けるが、そうではなかった。

 

 
(2)バブル期の実体経済

 

バブル期は単に資産価格が高騰するだけの表層的景気ではなく、高度成長期以来ひさびさの設備投資景気であった。八五年のプラザ合意につづく円高不況で輸出産業は一時的に打撃を受けたが、内需に転換した。経営者の売上高増加の期待が回復し、また第一次石油危機後の投資停滞によるペントアップ・ディマンドも作用して、ほぼ全業種が設備投資を展開した。しかし製造業の多品種少量生産や製品の高付加価値化は生産コストを上昇させ、また競争激化によってコストにマークアップした価格を設定できなかった。損益分岐点は上昇し、また本業の利益を示す営業利益率の水準は高度成長期のそれを下回った。売上高がいったん下落するとたちまち赤字に陥るコスト構造になっていた。

 


賃金上昇は抑制された。第一次石油危機時に経営者は労働組合に「雇用をとるか賃金をとるか」二者択一を迫り、組合が雇用を選択したからだ。賃金は市場要因と制度要因で決定されるが、前者の有効求人倍率は高まったが、後者の労働組合の交渉力低下が賃金上昇の抑制に寄与したのである。また地価・株価高騰の資産効果が家計消費を誘発する現象も確認されていない。消費増加を支えたのは主として企業の交際費であった。
 
 
 
 
 

3. バブル崩壊と金融危機

 

 

 3-1 バブル崩壊のメカニズム

 

 
日銀はようやく八九年五月に金融引き締め政策に転じた。大蔵省も九〇年四月から不動産融資総量規制を開始した。七三年以来、一七年ぶりの発動であった。金融機関の融資が制限されれば、地価バブルのメカニズムは崩壊する。ただし総量規制には「抜け穴」があり、農林系統金融機関と住宅金融専門会社が対象外とされたため、前者の運用難の資金が後者に貸し出され、後者が不動産融資を拡大したから、地価下落は株価下落に一年遅れ、同時に後の「住専問題」がつくりだされた。また設備投資が九一年から急激に減少したから、地価は一貫して下落を続け、〇五年までにピーク時の五分の一にまで落ち込み、バブル前の水準に戻った。地価下落と土地取引の減少は不動産業者や建設会社が抱える土地資産を不良化させ、それに照応して銀行の貸出債権を不良化させていった。

 


他方の株価バブルは、外資系金融機関の裁定取引の解消をきっかけに破裂した。株価バブルのメカニズムは、株価がいったん下落しエクイティ・ファイナンスが停止すれば逆転する。さらに実体経済を担う企業の利益減少が株価下落を実体面から裏打ちした。

 

 
3-2 銀行の不良債権と金融危機

 

 
金融危機の経緯に立ち入る前に、銀行の不良債権とその償却法等を簡単に説明しておきたい。

 

 
(1)銀行の不良債権とその償却

 

銀行の不良債権とは、元本と利子の弁済が不可能または困難になったか、あるいはそうなる見込みの高い貸出債権である。不良債権が発生すると、銀行は損失見込み額に貸倒引当金を準備する。原資は三つある。第一に、業務純益である。第二に株式の「含み益」がある。銀行は安値で購入した株式を保有している。この取得原価と時価の差額が含み益である。ただし企業集団内の持ち合い株を売り切りにはできないから、銀行は年度末に株式を売ると同時に買い戻す「クロス売買」を実行して含み益を実現益にする。九〇年以降の株価下落の最大の問題は、銀行の不良債権処理原資と自己資本への算入額が減少することにあった。第三に、これら二つで不足すれば、資本(まず剰余金)が取り崩される。自己資本が減少する。このように、予想損失に備えて貸倒引当金を積むのが「間接償却」である。

 


その上で「直接償却」がなされる。銀行が貸出先を倒産させて、担保を処分して回収すれば、不良債権は銀行のバランスシートから落ち、貸倒引当金が目的使用され、担保を処分して得られる現金が借方に記載される。これで不良債権処理が完了する。

 


借入先企業の処理方式は三つに分かれる。一つは「清算型」であり、借入先が消滅する。もう一つは「再建型」であり、銀行が貸出債権の一部を放棄して、企業の再生を支援する方式である。第三は、不良債権のサービサー(債権回収業者)への売却である。銀行は売却時点で損失を確定できる。借入先の運命はサービサーが決定する。

 

 
(2)銀行の不良債権がなぜ問題なのか

 

そもそも銀行は二つの財務比率を守らねばならない。一つは預金準備率、すなわち日銀への当座預金残高と預金残高の比率である。これは銀行がいつでも現金での預金引き出しに応じる能力、つまり「流動性(liquidity)」の指標である。一%程度の法定準備率が課されている。もう一つが「自己資本比率」であり、資産に損失が発生しても預金を切り捨てずに処理しうる能力、すなわち「支払能力(solvency)」の指標である。国際基準行は八%以上、国内基準行は四%以上の維持が義務づけられており、それを下回れば金融当局が当該銀行に早期是正策を発動して、改善計画の提出命令から業務停止までの制裁措置を段階的にとる(後述するように九六年に法制化され九八年四月から実施)。

 


現在、預金保険制度によって、預金者(個人も法人も)一人当たり一〇〇〇万円プラス利子までの預金は保護されている。目的は情報弱者である少額預金者を保護し、併せて預金取付を防止することにある。七一年に政府・日銀・民間預金取扱機関が均等に出資する法人として預金保険機構が設立された。預金取扱機関は機構に預金保険料を払い込み、破綻した場合には積み立てた保険料からペイオフ(預金保険の支払)がなされる(年間の保険料収入は五〇〇〇億円程度)。限度額を超えた預金額は、破綻銀行の清算が済んだ後に支払われる。損失はまず株主責任が問われて資本金切り捨てで処理され、不足分は一〇〇〇万円超の預金の切り捨てで処理される。今回の金融危機では預金全額保護が実施され、ペイオフはなされなかった。

 


ある銀行が破綻すると、他行への預金取付の波及や銀行間の決済システムの麻痺などのシステミック・リスクが発生する。また破綻行の正常債権の企業が借入を継続できなくなるなど実体経済への影響も大きい。そこで破綻金融機関が正常債権や預金を救済金融機関に事業譲渡し、後者に預金保険機構がペイオフ相当分を資金援助する破綻処理方式が工夫された。破綻金融機関の正常な借り手と預金を「生かし」しながら、当該機関を「殺す」方式である。また破綻金融機関の回収可能な不良債権は切り離されて、預金保険機構の協定銀行である整理回収機構に時価で譲渡される仕組みも整備された。

 


さらに、破綻していないが自己資本比率が低下した「健全」銀行は、早期是正措置を免れるために新規貸出を抑える「貸し渋り」や借り換えを拒否する「貸し剥がし」によって資産を圧縮する可能性が高い。これも実体経済への収縮圧力になる。対処策は公的資金による銀行への資本注入であり、九八年に制度化された。破綻や資本注入を認可するのは、現在では金融庁であり、預金保険機構はその実行部隊である。

 

もちろん預金保険制度の対象は預金取扱機関であり、証券会社や保険会社やノンバンクは対象外である。日本銀行の「最後の貸し手」機能も健全な預金取扱機関への一時的な流動性供給であって、原則的には証券会社や債務超過の銀行には及ばない。実際には日銀は後述する山一証券には政府保証付きで特別融資したし、また日銀の独自判断で特別融資をしたが当該銀行の債務超過が判明して損失になった事例もある。 ペイオフコストを超える預金の保護あるいは自己資本不足の銀行への資本注入は、日本銀行ではなく政府の任務である。金融危機だからといって、「何でもあり」ではない。

 


こうした破綻処理システムは金融危機のなかで整備されていく。九一年以降の金融危機のプロセスにもどることにする。
 

 

3-3 バブル崩壊前期(一九九一~九七年)
 
 
 
バブル崩壊後の金融危機と実体経済の動向は一九九八年を境に前後に大きく区分できる。
 
 
 
(1)金融システムの不安定化と「金融三法」体制
 
 
 
九二年夏に日本債券信用銀行と兵庫銀行が危機に陥った。両行ともバブル期に他行以上に不動産融資にのめり込んだためだ。前者の金融債利回りが上昇し、後者からは大口預金が流出しコール金利が上昇した。政府の初期の金融危機管理策は、九二年八月に大蔵省が発表した「金融行政の当面の運営方針」に示されている。不良債権の「計画的・段階的処理」を目指す〈先送り政策〉である。実際、上記二行に大蔵省が介入して、日債銀には頭取辞任を含む再建計計画の策定、兵銀には元銀行局長をトップに送り込むといった「裁量行政」で対処し、危機は一時沈静した。

 


先送り政策を採った理由の第一は、景気が回復すれば地価が持ち直し不良債権は自動消滅するという楽観論にあった。第二は、「不良債権」に関する政府の認識不足である。背後には、財政問題と違って金融問題は専門家に任せるべきだとする暗黙の了解事項があった。第三に、銀行保護政策への財界内部からの反発があった。九二年八月末に開催された自民党の軽井沢セミナーで、宮沢首相は銀行の不良債権の公的資金による買い取りを示唆したが、経団連・日経連の主流派は銀行の過保護に強く反発し、結局立ち消えになった。

 


他方、日銀は九一年七月に公定歩合引き下げに転じ、バブル潰しから金融機関救済に転じた。金利引き下げは自由預金金利を貸出金利に先行して低下するから、銀行の業務利益、したがって不良債権処理の原資を増やす効果があった。不動産融資総量規制も九一年末に解除された。

 


三年後の九五年八月に兵庫銀行が戦後初の銀行法に基づく破綻に追い込まれ、同時に木津信用組合が多額の不良債権を抱えて業務停止処分を受けた。前者は大蔵省が生保や銀行に兵銀への債権放棄と兵銀の事業を引き継ぐ新銀行へ出資を要請する「奉加帳」方式で処理されたが、後者は総資産一兆三一三一億円のうち正常資産が一一九一億円しかなく、裁量行政による処理限度を超えていた。また大蔵省は同年六月に「金融システムの機能回復について」を発表し、金融行政の方針を先送りから税金投入やむなしに転換していた。

 


これを承けて翌九六年六月に「金融三法」と「住専処理法」が成立した。初の金融危機管理システムの構築である。金融三法の一つで自己資本比率による早期是正措置が導入され、また五年間の特例措置として預金全額保護が打ち出された。ただしペイオフコストを超える預金への税金投入は信用組合に限定され、銀行については預金保険料の引き上げで賄いうると想定されていた。この法案を審議する「住専国会」(九一年一月~六月)で政府が住専処理に投入する六八五〇億円が強く批判され、その後政府が税金投入による不良債権処理を躊躇する一因になった。銀行は不良債権処理をようやく本格化し、九六年三月決算で「不良債権処理は山を越えた」と言い始めた。
 
 
 
(2)実体経済--設備投資の回復
 
 
 
実体経済は九三年第4四半期に底を打ったものの、回復ははかばかしくなかった。最大の理由は先行する旺盛な設備投資で資本ストックが増加したことにあった。通常の景気循環のパターンに沿った「反動不況」である(山家[二〇〇五]、九九頁)。しかし九五年第1四半期から設備投資が回復していった。一つの理由は資本ストック調整の進行である。先行する設備投資ブームから一〇年ほど経過して償却が進み、ジュグラー循環の上昇期にさしかかった。また多品種少量生産のぜい肉が部品点数の絞り込み等によってそぎ落とされ、第一次リストラで人件費が削減されて、損益分岐点も改善した。

 


これらの企業側の要因に財政・金融政策が合体した。阪神淡路大震災の復興や円高対策のために九五年四月から大型の財政政策が組まれ、日銀も一段と金融を緩和した。マクロ経済政策は「呼び水」効果があった。九〇年代は「失われた一〇年」と総称されるが、投資は九五年初頭から一度は回復したのである。
 
 
 
(3)金融危機管理から構造改革へ
 
 
 
橋本龍太郎政権(九六年一月~九八年七月)は、金融危機管理システムの構築と景気回復を承けて、九六年一一月にいわゆる「金融ビッグバン」を指示し、また一二月に五大改革、翌年一月に六大改革を打ち出した。長く中断していたネオリベラル政策の復活である。すでに九〇年代には規制緩和が経済の活性化や内需振興を図る経済対策の柱とされてきた。細川護煕政権のもとで九三年十二月に「経済改革について」(平岩レポート)が、また村山富市政権期の九五年十二月に「構造改革のための経済社会計画」が策定された。しかし両政権が短命に終わったため、ほとんど実行されなかった。

 


橋本六大改革の重点はまたしても財政再建に置かれ、九七年度予算を「財政構造改革元年予算」と位置づけ、九七年四月から消費税の五%への引き上げが実施され、特別減税が廃止された。さらに医療費負担も引き上げられ、国民負担は総計約九兆円増加した。回復しかかった家計消費を抑える「経済失政」である。さらに予算に上限を画する「財政構造改革法」が金融危機の勃発した九七年十一月に成立した。

 

 
3-4 金融恐慌の激発から金融「正常化」へ(一九九八年~現在)

 

 
(1)金融恐慌の激発と全面化

 

九七年十一月に中堅の三洋証券、四大証券のひとつ山一証券、都銀のひとつ北海道拓殖銀行など金融機関が相次いで破綻し、バブル崩壊後期に突入する。三洋証券の会社更生法申請でコール市場とレポ市場で債務不履行が発生し、危機がゆっくりとインターバンク市場に伝播していった。システミック・リスクが発現した。山一や拓銀などの「危ない」金融機関が選別され、コール放出が激減し、資金繰り破綻に追い込まれていった。銀行取付も全国八か所で発生した。政府は預金保険対象外の外貨預金や金融債、さらにはインターバンク取引の全面保護を約束したが、金融危機管理能力への信認欠如のゆえに効力をもたなかった。

 


四月の「経済失政」は実体経済を低迷させたが、一一月の金融恐慌激発の直接的原因ではない。根本原因は金融機関が抱える大量の不良債権であり、金融危機管理レジームとしての金融三法体制の不備であった。

 

 
(2)金融危機管理システムの再編強化

 

経済政策はネオリベラル政策から危機管理体制の再編強化と大型の財政政策に再度転換した。まず九八年二月に「預金保険法改正」と「金融安定化法」が成立した。前者は破綻銀行への特別資金援助を、また後者は「健全」な金融機関への公的資金による資本注入を初めて可能にした。預金保険機構に三〇兆円の公的資金枠が準備され(預金保険機構への交付国債一〇兆円と二〇兆円までの借入への政府保証)、三月に主要行など二一行に一・八兆円が優先株や劣後債などの形態で資本注入された。目的は不良債権処理によって減少した自己資本を補充し、善良な借り手への「貸し渋り」を予防することにあった。

 


しかし金融不安定性は収まらず、九八年七月の参院選で自民党は惨敗し、小渕恵三政権(九八年七月~〇〇年四月)が成立した。「金融国会」(九八年七月~一〇月)の争点は「健全」な銀行への予防的な資本注入であった。アメリカのクリントン政権は経営不振銀行への資本注入を批判し、早急に破綻処理するハードランディング路線を主張した。民主党もモラル・ハザードを助長する資本注入に反対し、ソフトランディング路線の自民党と対立した。しかし八月にロシアが国債利払いを停止し、その影響で九月にアメリカのヘッジファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメントが破綻すると、クリントン政権は世界金融恐慌を怖れて態度を一変させ、ソフトランディング路線を支持した。国内でも妥協が成立し、九八年一〇月に「金融再生法」「早期健全化法」「改正預金保険法」等が成立した。金融機関破綻処理と金融危機管理を一元的に担う「金融再生委員会」が設置され、金融機関の「特別公的管理」(国有化)を含む破綻処理スキームもできあがった。公的資金枠も六〇兆円に増額された(〇〇年度に七〇兆円に増額)。一〇月に日本長期信用銀行が、一二月に日本債券信用銀行が国有化された。両行の株価はゼロ円と評価された(三月に両行に注入された公的資金もゼロ)。

 


この間に金融行政機構も再編された。それまで大蔵省が財政・金融双方の行政権限を掌握していたが、後者が九八年六月金融監督庁に、九八年一二月金融再生委員会に、さらに〇〇年七月金融庁に委ねられた。また、九七年六月には新日銀法が成立し、日本銀行の大蔵省からの独立性が高まった。

 


八〇年代半ば以降の、そして九六年「金融ビッグバン」に沿った規制緩和も金融危機管理システムの構築と並行して進展した。九六年一一月には当座勘定への付利禁止を除き預金金利が完全自由化された。業務分野規制の緩和は九八年六月の「金融システム改革関連二法」で総仕上げがなされた。また九七年五月の外為法改正により、「為銀主義」が撤廃されて、内外市場分断規制も撤廃された。

 


九六年・九八年に形成された金融危機管理システムは〇一年三月末までの時限措置であったから、〇〇年五月に預金保険法が改正されて恒久的システムが形成された。要点は金融危機が再来した場合には、首相を議長とする「金融危機対応会議」が内閣府に設置され、公的資金に基づく預金全額保護や資本注入が可能になったことだ。またペイオフも予定をやや繰り下げて〇五年四月から全面解禁されたが、問題は企業や地方自治体の大口預金である。これに対処するため利子無しだが全額保護される「決済用預金」がペイオフ解禁に合わせて創設された。
 

 

(3)銀行の不良債権処理の進行

 

九八年一〇月の金融再生法に基づいて不良債権の分類基準や引当率が整備され、執行も厳格化されて、銀行の不良債権処理が加速した。全国銀行の不良債権処分損は九九年三月期に二〇・六兆円を記録したが、不良債権残高は累増していった。銀行の甘い自己査定に対する金融当局の検査が厳格化したことに加えて、不況型倒産が増大していったからだ。銀行の赤字決算が九六年三月期から〇四年三月期までつづき、金融機関の破綻件数も〇一年度に最多の五六件を記録した(預金保険機構[二〇〇三]、三頁)。金融危機管理システムが整備されても、あるいは整備されたからこそ金融システムの動揺がつづいたのである。

 

〇一年度が不良債権処理のピークであったが、不良債権処理を「構造改革」の筆頭に掲げる小泉首相は、〇二年九月の内閣改造で金融担当大臣をソフトランディング路線の柳沢伯夫からハードランディング路線の竹中平蔵に交代させた。直後に公表された強硬な「金融再生プログラム」は金融不安を再燃させ、主要行の国有化にともなう株式没収を恐れて銀行株が急落し、日経平均株価は〇三年四月二八日にバブル後最安値の七六〇七円を記録した。主要行が破綻すれば多額の銀行株を保有する生命保険が破綻し、生保が破綻すれば銀行が生保に拠出している基金や劣後債が焦げ付く、銀行と生保の共倒れが懸念された。〇二年一〇月から〇三年五月にかけて〈株価恐慌〉が発生した。

 


この〈株価恐慌〉に起因する金融危機を終わらせたのは、〇三年五月、〈りそなグループ〉への資本注入に当たって株主責任を問わなかったことだ(この時に初めて「金融危機対応会議」が招集された)。投資家は「大銀行は国が救う」(Too Big To Fail)メッセージと受け止めた。外国人投資家の銀行株購入が始まり、株価全体を引き上げていった。竹中の「金融再生プログラム」はいたずらに金融不安を煽っただけであり、銀行経営者と株主のモラル・ハザードを公認したにすぎない。

 


〇五年五月、主要行の決算が出揃ったのを見定めて、政府はようやく金融「正常化」宣言を発表した。バブル崩壊から実に一五年にわたって金融不安定性がつづいたことになる。金融庁の「不良債権処分損等の推移(全国銀行)」によれば、〇二年度から〇七年九月期までの処分損累計は九八・六兆円(うち直接償却等の累計四六・八兆円)である。ここには一部の銀行と信用組合等が含まれないから、預金取扱機関の処分損総計が一〇〇兆円を超えることは確実である。また預金保険機構が交付国債を現金化した分は一〇・四兆円である。もし預金全額保護措置がなければ、切り捨てられていたはずの預金額である。また「金融安定化法」と「早期健全化法」によって〇一年度末までに公的資金で注入された資本額とりそな銀行への資本増強分を合計すると一二・四兆円にのぼる(竹内[二〇〇七]の図表2を参照)。〇五年度までの預金取扱機関の破綻件数は一八一、うち銀行は二〇行を数える。

 


しかも「正常化」したのは主要行に限られる。不良債権比率は「大手行」ではピークの〇一年度末の八・七%から〇七年度末の一・四%に低下したが、「地域銀行」は八・一%から三・八%に低下したに過ぎないのである(日本銀行[二〇〇八b]、三九~四〇頁)。
 

 

3-5 金融恐慌下のマクロ経済政策

 

 
「大きな政府」が金融危機管理システムを構築した経緯は上記のとおりであるが、マクロ経済政策は一変した。小渕政権は九八年四月から大型の財政政策をとり、また一〇月には中小企業への融資対策として「中小企業安定化特別信用保証制度」(総額三〇兆円)を実施した。財政政策は景気回復効果がなかったと評価されているが、総需要の減少と中小企業倒産を食い止める役割は果たした。だが国債発行残高は九七年末の二七四兆円から〇一年末の四四八兆円に激増した。

 


短命の森喜朗政権に代わった小泉純一郎政権(〇一年四月~〇五年九月)は三度目のネオリベラル政策すなわち「構造改革」を政策課題に設定した。これが支持されたのは、深化する金融危機への不安感とモデルとされたアメリカ経済の「繁栄」であり、推進されたのは、制度要因としての中央省庁改革(〇一年)による内閣府の機能強化と小泉の特異な個性の相乗効果であった。構造改革のモデルとされたアメリカ経済がモデルの名に値しないことは、Pollin[2005]を参照されたい。 〇一年六月に閣議決定されたいわゆる「骨太の方針」はその筆頭に「不良債権問題を2~3年内に解決する」ことを掲げたが、前述のように不良債権処理は当時すでにピークを迎えており、翌年に無用な株価恐慌を引き起こしただけであった。

 


この「方針」は「日本の潜在力の発揮を妨げ」ている「規制・慣行や制度」を「根本から改革」すると宣言した。従来の社会的枠組みの解体策である。金融危機が規制撤廃の落とし子であり、また「大きな政府」が金融危機を管理している事実はまったく反省されないまま、ネオリベラル政策が主張された。五年にわたる小泉政権の「構造改革」はスローガンこそ派手であり、またマスメディアをつうじて〈ネオリベラルの言語〉を普及させたが、経済面の手法は旧来の規制緩和と歳出抑制による財政再建である。規制緩和の一環としての労働市場政策については次節で検討する。後者の歳出抑制は社会保障システムや地方財政を困難に陥れ、また内需拡大を阻んだ。唯一のマクロ経済政策は為替政策であり、〇三年一月から翌年三月までに三七兆円のドル買い介入を実施した。この円安誘導政策の恩恵に与ったのは製造業大企業だけである。

 


他方、日本銀行は九九年二月にコール・レートをゼロ%に誘導する「ゼロ金利政策」を決定し、一時情勢を見誤って解除したが、〇一年三月にベースマネーを潤沢に供給する「量的緩和政策」を採用した。〇六年三月に後者の解除を、六月にはゼロ金利政策も解除した。金融政策はドアのノブにつないだ紐に例えられるように、その効果は本来的に非対称的である。引いてドアを開けることはできるが、押しても閉めることはできない。資金需要の強い局面では金融引き締めは効果があるが、資金需要が乏しい局面では金融緩和しても資金需要を喚起する効果は限られている。ただし今回のゼロ金利政策や量的緩和政策は、インターバンク市場が不安定化した局面にあっては、豊富なベースマネー供給によって銀行の流動性への懸念を弱める効果があった。実際、マネタリーベースのうち日銀当座預金勘定残高(銀行の準備預金)の年平均残高は〇一年の六兆円から〇二年一六兆円、〇三年二七兆円、〇四年・〇五年三三兆円と急増し、ようやく〇六年に一七兆円に減少した。

 

 
3-6 金融恐慌と実体経済

 

 
実体経済は金融恐慌に災いされて、九八年と〇一年に物価下落と実体経済の収縮が同時進行するデフレ・スパイラルに陥った。二回の拡張期のうち九九~〇〇年は短く、また〇二年第1四半期以降も長くはあるが弱々しい。この拡張期は〇七年第4四半期に後退期に転じた模様である。九二~九七年のGDP年平均成長率は実質一・四%、名目一・八%であったが、九八~〇七年にはそれぞれ一・二%、〇・三%へと一段と低下し、しかも名目値が実質値を下回るデフレ状態にある。

 


金融恐慌が実体経済を収縮させた経路は二つある。第一は、金融危機が直接に企業と家計の投資・消費を収縮させる経路である。①九八年の金融恐慌と政府の危機管理能力への疑念は、ビジネス・コンフィデンスを動揺させ、企業は「様子見」から投資を手控え家計は消費を抑制して貯蓄率を高めた。②銀行は直接償却を加速した。倒産企業の負債額は九七年に前年の八兆円から一四兆円に増加し、その後一三兆円台をつづけ、〇〇年に二四兆円に激増した後、〇四年まで一〇兆円台を維持した(東京商工リサーチ、各年版)。倒産に加えて、生き残った企業も人員削減を加速し、完全失業率(完全失業者)は九七年三・四%(二三〇万人)から〇二年五.四%(三五九万人)に上昇した。その後〇七年の三・九%(二五七万人)に低下したが、依然として高水準を保っている。

 


③不良債権処理で自己資本を毀損した銀行は「貸し渋り」「貸し剥がし」を強めた。国内銀行の貸出金残高は九七年末の四九三兆円から〇五年末の四〇九兆円まで減少をつづけた。八〇兆円強の減少額はメガバンクが一行消滅したに等しい。公的資金による資本注入の効果は限定的であった。バブル期にも製造業大企業以外の企業は銀行借入依存型財務戦略をとったから影響は大きかった。とくに標的にされたのは中小企業であったが、上記の信用保証制度が貸し渋りを緩和する上で大きな効果を上げた。しかし、資金需要側の要因、すなわち企業が投資を減少させ外部資金調達を控えた効果も大きい。九八年以降、企業部門は投資をキャッシュフローの枠内に抑え、余剰資金を借金返済に充当した。五五年の資金循環統計の開始いらい初めて企業部門が資金余剰に転じ、また企業の有利子負債比率は急速に低下していった。

 


第二の経路は間接的である。金融危機によって投資・消費が急減するマクロ経済環境のもとで、企業は売上高確保のために価格引き下げ競争を強めた。高度成長期以来、企業はコストにマークアップして確実に利潤を確保するよりも、市場シェア最大化を重視して他社価格に影響されやすい価格設定方式を採ってきた。上述したようにバブル期にも価格競争が展開された。近年、価格硬直性の究明を主要な関心事としながら、各国中央銀行は企業の価格設定方式をサーベイしてきた。Alvarez et al.[2005]はユーロ圏内の各種サーベイを要約して、「マークアップによる価格付けが支配的戦略であり、また主要な競争相手の価格付けに従った価格設定も重要である」としている(p.6)。価格設定方式の二要因の比重が、日本企業では逆になっている。 だが、日本銀行調査統計局[二〇〇〇]によれば、九八年頃を境に企業はようやく低成長の定着を認識して市場シェア重視から利益重視に経営戦略を転換した。商品差別化による価格競争の回避を志向したが、急収縮する市場環境のもとで現実には価格切り下げで対処した。一社が価格を切り下げると他社も追随する。デフレのミクロ的基礎であり、九八年と〇一年にデフレ・スパイラルが発生した所以である。だが総需要が持ち直せば、つまり輸出や財政支出が回復すれば、企業は価格競争を手控えて「市場で許容される上限の水準に価格を決める」(七四頁)。デフレ・スパイラルが止まる所以である。

 


価格を引き下げながら利益を確保するために、企業はコスト削減に走った。主要な手段は「人件費の圧縮」と「調達先の見直し」である。後者は、納入価格切り下げであり、納入先はリストラを強制される。リストラの伝播経路である。

 


前者は、具体的には、新規採用の抑制、正規労働者の賃金抑制と長時間労働、そして非正規労働の拡大である。厚生労働省[二〇〇八]によれば、九七年から〇七年の一〇年間に「役員を除く雇用者」は四九六三万人から五一二〇万人に一五七万人しか増加していないが、内訳をみると正規労働者は三八一二万人から三三九三万人に四一九万人減少し、非正規労働者(パート・派遣・契約労働者等)は一一五二万人から一七二六万人に五七四万人も増加している(厚生労働省編[二〇〇八]、二七頁)。今や三人に一人が不安定な非正規労働者の地位にある。しかも〇七年の非正規比率は男一八・三%に対し女五三・五%と性差別を露骨に組み込んだ構成になっている。

 


企業が非正規にシフトとした理由は雇用調整の容易さと人件費削減である。常用の正規労働者の生涯賃金が二億七九一万円、常用の非正規のそれが約半分の一億四二六万円、パート労働者が四六三七万円と推定されている(風間[二〇〇七]、一二七頁)。しかも企業の人件費には現金給与だけでなく事業主負担の社会保険料も含まれている。『法人企業統計調査』によれば、全産業企業の〇五年度の「福利厚生費」は「租税公課」の二・四倍、人件費総額の一一・四%を占めている。社会保険料回避が非正規雇用の動機づけになっている。非正規労働者の社会的排除は社会保障システムからの排除でもある。

 


雇用戦略の転換はとくに若年層に打撃を与えている。〇七年に一五~三四歳の年齢層でフリーター一八一万人、無業者六二万人、失業者一一六万人(うち一年以上の長期が四七万人)、非正規労働者五七九万人の多くを数えており、重複するフリーターを除く総計は七五七万人に上る。

 


非正規雇用の拡大は企業が先行して実施し、労働者派遣法などの労働法制の改訂はそれを後追いした傾向が強い。「骨太の方針」が「労働市場の構造改革」を掲げて労働法政策を方向づける効果は大きかった。

 

ミクロ的・短期的には、人件費圧縮の雇用戦略は「成功」した。〇二年以降の企業利益率回復への最大の寄与要因がこの人件費削減であった。さらに輸出による売上高増大が加わって企業利益は増大してきた(しかし国際的には依然として低い)。非正規雇用増加はミクロの企業の組織能力、とくに人的スキルの低下を毀損して競争力を衰退させるが、その効果はゆっくりとしか現れない。

 


マクロ的には、この雇用戦略は景気回復メカニズムを破壊した。従来は輸出の増加あるいは金利感応的な住宅投資が需要回復を先導し、これが投資そして雇用者数・賃金の増加による家計消費増大をもたらして、息の長い好景気を実現した。この経路が破壊された。『国民経済計算』によれば、「雇用者報酬」のうち「賃金・俸給」は九七年の二四一兆円から〇三年に二一八兆円まで減少し、〇六年にも二二六兆円とわずかに回復したにすぎない。家計消費はGDEの六割弱を占めるから、〇二年以降の景気回復が弱々しく、デフレが持続する最大の要因になっている。

 


この雇用者報酬の低落動向から「なぜ景気がもっと悪化しないのか」を問うべきであろう。一つは直接に日本からの、そして東アジアを経由してのアメリカ向け輸出の増加である。この輸出主導型蓄積体制はアメリカの輸入が減少すれば崩壊するし、実際崩壊しつつある。

 


もう一つは、まがりなりにも構築されてきた日本の社会保障システムが内需を底支えしている事実である。国民経済計算レベルの消費概念は二つある。「最終消費支出」は「一般政府による医療保険給付、教育支出等の現物社会支出を除いた」概念であり、もう一つは「現実最終消費」であって、この「現物社会移転を含む」概念である(浜田129頁)。「家計最終消費支出」は九七年の二七九兆円から〇三年までに二七六兆円に僅かに減少し、〇六年には二八四兆円に回復している。家計消費の「底堅さ」は現金での年金給付等によるところが大きい。他方、「家計現実最終消費」は九七年に三二八兆円であったが〇六年には三四一兆円に着実に増加している。実際、社会保障給付費(医療費、年金、福祉その他)は九七年度六九兆円から〇五年度の八八兆円に増加している(うち高齢者関係給付費は四五兆円、六二兆円)(国立社会保障・人口問題研究所[二〇〇八]一〇二頁)。この社会保障給付に教育等への政府支出を加えた「家計現実最終消費」が、内需の底割れを防いだ一大要因である。

 


小泉政権が「構造改革」を推進できたのは、外生要因としての輸出が増加したからであり、また皮肉なことに、それが破壊しようと試みた社会保障制度が内需の底割れを防いだからだ。
 
 
 
 
 

4. 日本の金融危機の教訓、そして課題

 

 

 

日本の金融危機は「三つの失敗」――旧規制が効力を失った時に、新規制を構築せずに金融規制そのものを撤廃した「政府の失敗」、規制緩和による競争激化を融資拡大で乗り切る戦略を立てた「銀行の失敗」、八〇年代後半に超低金利政策を持続し資産価格高騰を放置した「日本銀行の失敗」――が合体して発生した現象である。政策過程に紆余曲折したが、「大きな政府」と「大きな(中央)銀行」が金融危機を管理した。日本銀行は「最後の貸し手」機能を発揮して潤沢にベースマネーを供給し、また政府は九八年に本格的な金融危機管理システム・金融機関破綻処理システムを構築し、預金保険機構に最大で七〇兆円の公的資金枠を与えた。また金融規制も再構築された。金融再規制の柱は自己資本比率による早期是正措置である。教訓は、金融市場を安定的に作動させるには、政府による実効性のある金融機関の規制、監視・監督が不可欠であることだ。日本の金融危機の原因が国家戦略なき金融規制緩和にあったことは、国際比較からも確証される。Brownbridge and Kirkpatrick[2000]は「一九八〇年代初めから一九九七年半ばまでに金融自由化を遂行した三四経済のほとんどすべてが、その後なんらかの形態のシステミックな金融危機を経験した」事実を上げ、「金融自由化は金融システムが金融危機に陥る可能性を高める」こと、および「プルーデンス規制と監督」はその可能性を低減させることを指摘し、「金融市場が自由化される際には、金融システムを保護する健全な金融規制と監督が必要である」と教訓を引き出している。また、Vogel[1996]は、政府規制を撤廃する「規制緩和(deregulation)」と市場の競争を高める「自由化(liberalization)」を区別して、「自由化」には「再規制(reregulation)」が不可欠であると主張する( p.3)。

 


だが今回のサブプライム危機を観察すれば明らかなように、自己資本比率規制は商業銀行に慎重な貸出行動のインセンティブを与えなかった。この規制は、市場がもつ銀行経営のチェック機能を「主」とし、金融行政にはそれを補完する「従」の位置づけを与えている。しかし、例えば株式市場が銀行の過度のリスクテイクを事前に察知して株価を下落させ経営者に警告するといった市場チェック機能は幻想だ。市場と政府は主従関係ではなく、相互補完関係にある。この新型規制論の背後には、金融市場は本来的に安定的であり均衡に向かって作動するという新古典派パラダイムがある。むしろ金融システムは本来的に不安定に向かって作動すると主張する、より現実的なミンスキー理論に従って金融規制が再構成されねばならない(ミンスキー理論についてはMinsky[1975][1982]を、またそれに基づく金融規制の代替策についてはCrotty and Epstein[2008]を参照)。

 


日本の不況の原因は「構造改革」が言う「構造」にあるのではない。「構造改革」は、戦略不在のゆえに低収益をつづける企業と銀行にこそ必要であろう。この点については別稿に譲る。 金融危機とそれに直接・間接に影響されたマクロ経済メカニズムの変調こそが不況の原因だ。とくに従来の雇用「構造」を破壊し、非正規労働者比率を高めたことだ。代替的労働策として示唆に富むのは、スウェーデンの労働組合経済学者によるレーン=メイドナー・モデルである。それによれば、低賃金の容認は、劣悪な経営の低生産性企業に社会的補助金を与えて、存続させるに等しい。賃金分散を縮小すれば、一様な賃金上昇は低生産性企業の利潤を圧縮し、その企業に生産性向上のインセンティブを与える。もし生産性上昇に失敗すれば、退出を余儀なくされる。他方、高生産企業にとって賃金上昇率は生産性上昇率を下回るから、利潤が増加し投資と雇用が拡大する。この賃金決定システムが経営者を規律づけ、産業構造の転換を促進する。ただし「同一価値労働同一賃金」ではあるが、「全労働者同一賃金」ではない。スキルに応じた賃金格差は、労働者にスキル向上のインセンティブを与えるから容認される。だが、これだけを切り取ると「柔軟な労働市場」論に悪用されかねない。当該モデルでは、この連帯的賃金政策は失業者への再訓練等の積極的労働市場政策と不可分の関係にある(詳しくはErixon[2008], Pontusson[2006]参照)。

 


当該モデルをそのまま日本に輸入することはできない。スウェーデンには強力な労働組合が存在するからだ。日本では政府の「労働規制」が代行せざるをえないであろう。今、非正規労働者がこれだけ増大してから初めての景気後退期を迎え、非正規労働者の調整の容易さが本領を発揮している。雇用者報酬が以前よりも急速に減少し、デフレス・パイラルが再発する可能性がある。五年余の「構造改革」は日本の資本蓄積体制を部分的に破壊し大きく変調させたが、幸いにもアメリカ型のネオリベラル資本蓄積体制に代置できなかった。短期的には積極的労働政策を構築し、中期的には社会保障システムを組み込んだ内需主導型資本蓄積体制が構築されねばならない。

 


この目標を達成する必要条件は、〈ネオリベラリズムの言語〉の克服である。ネオリベラリズムは日本の金融危機と資本蓄積体制の変容を貫く一本の赤い糸である。現在のアメリカ合衆国の金融危機は、金融規制の再構築にとどまらず、八〇年代以降拡大したネオリベラリズムの呪縛を解くグローバルな好機にならねばならない。

 

 

 

 

 

[参照文献] 

 

風間直樹[二〇〇七]『雇用融解』東洋経済新報社

 

川野克美[一九九五] 『金融自由化戦略の帰結』有斐閣

 

厚生労働省編[二〇〇八]『労働経済白書(平成二〇年版)』

 

国立社会保障・人口問題研究所[二〇〇八]『社会保障統計年報(平成一九年版)』法研

 

竹内俊久[二〇〇七]「預金保険機構の財務構造」『預金保険研究』二〇〇七年四月号、七頁。

 

白川方明[二〇〇八]『現代の金融政策――理論と実際』日本経済新聞出版社

 

住友銀行行史編纂委員会[一九九八]『住友銀行史』株式会社住友銀行

 

東京商工リサーチ『全国企業倒産白書』各年版

 

日本銀行[二〇〇八]「金融システムレポート」九月

 

日本銀行調査統計局[二〇〇〇]「日本企業の価格設定行動―「企業の価格設定行動に関するアンケート調査」結果と若干の分析―」『日本銀行調査月報』八月号

 

浜田浩児[二〇〇一]『93SNAの基礎』東洋経済新報社

 

山家悠紀夫[二〇〇五]『景気とは何だろうか』岩波書店

 

預金保険機構[二〇〇三]『預金保険年報(平成一四年度版)』

 

 

 

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Brownbridge, Martin and Colin Kirkpatrick [2000] “Financial Regulation in Developing Coutries.” The Journal of Developmment Studies, 37.1.

 

Crotty, James and Gerald Epstein[2008]“Proposals for Effectively Regurating the U. S. Financial System to Avoid Yet Another Meltdown.” Political Economy Research Institute, University of Massachusetts / Amherst, Working Paper #181. 佐藤良一訳[2009]「新たなメルトダウンを回避するために」(本誌所収).

 

Erixon, Lennart [2008] “The Swedish third way: an assessment of the performance and validity of the Rehn-Meidner model.” Cambridge Journal of Economics, 32.

 

Helleiner, Eric [1994]  States and the Reemergence of Global Finance. Cornell University Press.

 

Minsky, Hyman P. [1975] John Mynard Keynes. Columbia University Press. 堀内昭義訳[1988]『ケインズ理論とは何か―市場経済の金融的不安定性―』岩波書店

 

-----------[1982] Can “It” Happen Again? M. E. Scharpe. 岩佐代市訳 [1988]『投資と金融―資本主義経済の不安定性』日本経済評論社.

 

Pollin, Robert [2005] Contours of Descent: U. S. Economic Fractures and the Landoscape of Global Austeiry. Verso. 佐藤良一・芳賀健一訳 [2008]『失墜するアメリカ経済』日本経済評論社  

 

Pontusson, Jonas [2006] “Whither Social Europe?” Challenge, vol.49, no.6.

 

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Vogel, Steve K. [1996] Freer Markets, More Rules: Regulatory Reform in Advanced Industrial Countries. Cornell University Press.

 

 

 

 

 

*本稿の原題は『現代思想』2009年1月号にも掲載される予定である。――『創作と批評』編集者。

 

 

 

 

 

季刊 創作と批評 2009年 春号(通卷143号)

 

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