[インタビュー] 人文学の / に道を問う
白永瑞主幹がこうして対話をともにしてくれるのは非常に意義深いことです。火花も花火も大歓迎です。
白永瑞 ありがとうございます。おっしゃられたように、火花を散らしていきましょう。まず、人文学特集の対話というと荷が重いですね。「人文学の危機」を語ることがすでに食傷気味なほど多いし、なぜ創批が今、このような企画を準備したかが問われます。創批は昨年〔08年〕の冬号で「文学とは何か」という手あかのついた問いを、しかし挑発的に投げかけました。その延長線で、この時代に文学をはじめとする人文学に何ができるのか、この時代が人文学に何を求めているのかを考えてみようという趣旨から、今回の特集を準備しました。本格的な議論に先立って、人文学は危機だといわれつつも、同時に人文学に対する社会的要求は依然多いという、この乖離や矛盾をどのように整理すればよいのか、ということから口火を切っていただければと思います。私なりに解釈すると、制度としての人文学、大学という制度内にある人文学は人気がない反面、人文学の理念というか、人文精神に対しては、今、韓国社会が大きな期待と要求をもっているのではないかと考えはじめています。まず、人文精神あるいは理念としての人文学と、制度としての人文学を区別する必要があるのではないでしょうか。現時点のこのような乖離と関連付けて、人文学の意味を整理するところから始めるのはいかがでしょう。
昨今の人文学現象の意義と落とし穴
崔元植 私も最近メディアで「人文学に夢中なCEO」または「野宿者のための人文学」などをよく目にしますが、人文学精神というか、そういうものが大きく注目されている現象をきちんと読み解かねばならないと考えていました。まず、人文精神、人文学、人文主義といったものが改めて関心をひいている風潮とは、昔風にいえば民衆的というよりはブルジョア的要求に近いと思います。確かにその中に新たな要求が含まれているだけに、過去のルネッサンスのようにひとつの巨大な思潮として新時代を作り出す革命的駆動力へと発展するかもしれないけれども、今言われている人文主義は社会的実践や行動と緊密につながっていた往年の運動的学問の要求とは少し違ったものではないか、と。昨今の人文主義論には革命以後を狙うポスト的な側面があるということを確認して――
崔元植 行動や実践と密接に結び付いていた往年の知から、主知主義あるいは個人の感性としての教養への転換を称揚する側面がなくもない、ということです。創批がこの企画を準備した趣旨は、近年のこのような事態をただ肯定したいがためではないでしょう。人文精神論が往年の「行動」を批判する拠点になりうると肝に銘じつつも、この局面をかつての行動論が達成し得なかったところまで作り変える場としてきちんと活用し、新たな人文学、あるいは新たな実践を模索する人文学へともっていこうという趣旨でしょう。
白永瑞 新たな人文学に向かうべきだという点にはもちろん同意しますが、往年の行動と実践とは具体的に何を指すのでしょうか?
崔元植 1930年代、韓国の評壇に教養論・知性論が登場しました。崔戴瑞(チェ・ジェソ)評論集『文学と知性』(1938年)の序文で李源朝(イ・ウォンジョ)は主知主義の台頭がもつ意義と落とし穴を鋭く看破しています。文学が「知性と関係を結ぶ代わりに行動の道具として」機能した20年代のカップ(KAPF、Korea Artista Proleta Federatio)時代とは違って、行動の拘束から脱却し「ただ知性のみをもって白日の下に自分自身を曝さねばならない」30年代の進軍の前でなされた彼の模索は暗示的です。私はその時とのアナロジーを見ているのです。30年代の知識人たちはとても深刻な悩みを抱えていました。20年代式の行動や実践が陥った内外の限界を超えて新たな方法を模索すべきときに、教養または知性といった人文精神の洗練された洗礼を経なくてはならないという悩みです。ところがご存じのように、この過程に入ると、普通、内面的な強さなくして行動と実践へと向かう出口を探すのは簡単ではないという、もう一つの悩みがあります。韓国には70年代の民族文学論とその後の複雑な過程がありましたよね。最近の人文主義の新しい模索も似たような文脈にあります。
韓国の大学と学問の植民地性
白永瑞 既に今日の議論の中心に触れてくださいました。私は歴史学徒なので、歴史的変遷に少し触れたいと思います。70年代に新しい人文学に対する議論がすでに出ていたというご指摘についてですが、だとすればそれ以前は「閉ざされた人文学」があったということになりそうです。その背景をまず検討していきましょう。70、80年代の人文学において、なぜ新しい人文学を要求する状況が生み出されたのでしょうか。私は個人的には近代学問の成立と植民性〔コロニアリティ〕をつなげて考えてみたい。近代性と植民性が錯綜する過程、たとえば京城帝国大学から制度の中の人文学は植民性と結びつき、朝鮮半島の社会的要求と大きく乖離したまま出発したのではないでしょうか。その植民性がその後の分断時期にもずっと、冷戦構造の中で人々の生の要求にきちんと応えられずにきた。それを克服しようとする動きが70年代に多様な学問的潮流になりました。そのうちの一つがまさに民族文学、民族史学なのでしょう。そのように大学の外で新しい学問への要求が生産され伝播し、その軸となっていた世代が制度の中に入っていきました。私もその一人といえますが、崔先生の指摘によれば、その人々が現状況において変化に十分に対応できていない。とすると、今の変化した状況とは何なのか、なぜ70、80年代の新しさがもはや新しくなくなったのかをお尋ねしたいです。ここには二つの側面があります。ひとつは分野別学問の制度、すなわち統合的な人文学に向かいにくいという問題があり、もうひとつは新自由主義、すなわちあらゆることを大学間の競走へと駆り立てているという問題があるでしょう。
人文学のエリート主義を越えて
白永瑞 今の学者たちに対してかなり批判的な意見をおもちのようです。伝統時代の学者たちの肯定的な面と否定的な面を分けて、肯定的側面の一つとして通-学問性を強調されました。私も同意するところですが、実際に突き詰めてみると、だからと言って伝統時代、学問が各分科学問に分かれる以前に戻ろうということではありませんね。分野内にきちんとした専門家でもいればいいのに、とおっしゃったことに表れているように、単に以前の統合的学問に回帰しようという意味ではないでしょう。新しい人文学とは、分科学問間のスムーズな交流にとどまるものではなく、新しい学問への要求、新しい教養への要求、知識論への要求ではないでしょうか。このような分野を越える新たな統合的学問への要求が存在しているようです。これはただ単に東アジアの伝統の連続性に限った問題ではなく、西洋でも同じでしょう。西洋でも古代・中世には人文学こそ学問そのものだったのですが、近代に入る中で自然科学と人文学に分かれ、そこからまた社会科学が離れていってさらに狭くなり、今の制度の中の人文学が残ったといえます。ところが私は学問の伝統に対する話を聞くたびに、人文学のエリート主義、貴族主義的趣向のようなものが頭に浮かびます。伝統時代の学者の風貌が消えたとのご指摘でしたが、もちろんそのような意図はないにせよ、エリート主義や貴族主義が連想されるのも事実です。こんにちの人文学の価値を強く主張する人のうち、保守的性向をもつ側には、貴族主義的態度が多く見られます。彼らは非常に悲壮に、人文学は社会変化と関係なく優秀な個人が孤独の中で堅く守るものであると語りますね。伝統時代にも人文学は上流層、士大夫〔身分の高い人〕の領分であり、一般人にまで及ばない領域でした。支配層が持つべきものとしての教養、高い身分に合った文化的装飾だったという側面をどのように克服すべきか突き詰めて考えねばならないようです。私は大学でそのような態度を多く見かけながら、正直言っておぞましさを感じるために、人文学を強調する類の議論にはそのような傾向もあるということを言っておきたいです。
崔元植 そうですね。人文学が孤独なものであるという昔のソンビ〔文人。学識のある人〕を持ち出して悲壮に語る人々は正直言って滑稽です。というのも、それは伝統的な学者の態度ではないからです。先ほども言いましたが、自己的人格と社会的人格の結合に向けて不断に刻苦するのが学者の姿勢ではないでしょうか? しかしその基本は自己のためです。昔の学人たちは自分のために勉強しましたが、最近の学者たちは他人のためにするのだと言って大騒ぎしている(笑)。私の指針のうちの一つが「為己之学」です。孔子いわく、儒教は「為人之学」ではないのです。社会のために何かするとわめき立てる学者たちの勉強がまさに為人之学ですが、学問とは基本的に自分を磨き自分の気づきを追求し、自己の自由を追求することです。それが結局は社会的人格とともに進む。社会的人格を高めるために自己の人格を高め、自分の人格を高めるために社会的人格を高めるというように、好循環があってこそ本当の勉学です。西洋との類似性を先ほど指摘されましたが、本物の学者なら「統摂」だとか何とか言うまでもなく普くすべてを突き詰めていくしかないのです。先ほど言われていた趣旨には同意しますが、東アジアが分野横断的で西洋はそうでなかったというより、きちんとした学者の道を進もうとする人なのかどうかという問題だと思いました。孤独に人文学をするという発想は、その好循環が壊れた、いうなれば貧しい学者先生の発想です。社会民主化が進むことに対するエリート的な悲嘆のようでもあります。人文主義への新たな要求が既存の人文主義がもっていた限界を突破するとしながらも、ふとしたところで貴族主義またはエリート主義に流れていく危険に対して、私は、だから初めにあのような話をしたのです。
白永瑞 昨今の人文主義の議論が、ですか?
崔元植 そういう側面がなくもない。30年代の教養論・知性論の台頭を最近見返しながら、そう思ったのです。確かに30年代に入って西欧文学に対する理解の深さをベースに教養の蘊蓄(うんちく)であるとか知識を緻密に扱う訓練に長けた批評家が続々と登場したことで、批評の水準は高まりました。仏文学と伝統的教養のなかで滋養を吸い込んだ李源朝(イ・ウォンジョ)と英文学に糧を得た崔戴瑞(チェ・ジェソ)も、その時代の傾向を代表しています。ところが李源朝は崔戴瑞を高く評価しつつも、知性論を牽制しました。彼は、再び行動が要求される時代が来るとすれば、崔戴瑞の『文学と知性』はただの紙切れになってしまうかもしれないと追記しましたが、これは崔戴瑞の親日への転落を予告するものでもありました。李源朝は新しい言説の意義とその危険性を見抜いていたのです。
白永瑞 そのあたりのことをもう少し具体的に検討し、現在進行中の人文学関連の議論に適用するとどうなるでしょうか。今なされている、あるいは今後追求すべき人文学は伝統から引き継がれてきた統合的な学問そのものだという点が重要になりそうですが、最近おもに提起されている新たな学問の可能性として「統摂」という議論があり、またオルタナティブな実践に関するものもあります。なかでも先輩や私が共感するものとしての人文学は、分科各門間の疎通や学際的研究、または統摂学問とはどのように違うのでしょうか。いわゆる統摂学問とは、科学的文化と人文学的文化を一つの位階的システムのもとに大統合する大きなプロジェクトですが、現実には知識基盤社会が要求する付加価値生産を手助けする程度の疎通に縮小されてはいないでしょうか。しかし今日、ここで確認できたのは、私たちが追求する人文学とは、何よりも自己との疎通であり、新しい実践が重要な問題だということです。この点を整理して、最近のオルタナティブな議論と比較してみたいのですが。
崔元植 そうですね。勉強をしながら自己の自由を顧みることで、私たちが生きているこの社会をもう少し幸せで美しくする集合的過程にコミットする意味が重要であり、またその中で人類全体の価値へと離脱する何かを見出しうるならば、さらに良いことでしょう。人類全体の価値というのは、それに狙いを定めるというだけでなされるものではありませんから。韓国社会がよりよい段階へと進化することに勉強がどのように関連しうるのかと悩む過程で、新しい人文学が登場しうるのだと思います。
大学の外の人文学と大学の中の人文学
白永瑞 加えると、人文学の危機の主犯を分野別学問のせいにして大学の学際研究を統摂という名の下に制度化する方向を反省する必要があるでしょう。最近、韓国学術振興財団(以下、学振)から研究費をもらおうとすると、専門の分野では難しく学際研究をせねばならない風潮です。しかし私たちにとってより重要なことのうちのひとつは社会との疎通であり、もう一つは為己〔ウィギ、危機と発音が同じ〕の学問です。出発は自分のためのものだけれども、基本的には修己治人、すなわち個人修養と警世が同時に追求される学問ですね。だから自分のためのものと社会のためのものが一緒になされねばならないという伝統学問の徳目をよみがえらせる必要があります。統合的な学問への要求をこのような意味から突き詰めるために、オルタナティブな人文学として提起されているさまざまな流れを見てみましょう。たとえば研究空間<スユ+ノモ>の活動や、「野宿者のための人文講座」「在所者〔刑務所に収監されている人〕のための人文課程」などがあります。エリート主義の所産じゃないかとか、前衛部隊の新しい実践じゃないかとかいう問いが可能でしょう。<スユ+ノモ>は生活共同体でもあるというので、日本では新しい知識生産の拠点として注目する単行本が出るほどです〔『歩きながら問う』インパクト出版会、2008年〕。海外でも「クレメント・コース(Clemente Course)」を作ったアール・ショーリス(Earl Shorris)という人が「ラディカルな人文学」として野宿者のための人文学を主張したことがあります。彼は野宿者のような貧困層こそ人間らしさを実践せんとする欲求が強く、その道を拓けるようにすることが人文学の本領だとしています。こういった多様なオルタナティブな人文学の活動も、新しい実践の一種といえるでしょう。これらについてはどのように評価されますか?
崔元植 私はその方面に疎いので発言に気をつけたいですが、まずはそのような流れがもっと発展することを願います。しかしこれらの流れが意味ある思潮へと進化して人文学の核心をなすに至ろうとするなら、局地性を克服せねばならないのではないか、とも思われます。人文学の核心たろうとするなら、〔制度の〕内と外が手に手をとらねばならないのですが、より重要なのは、外部よりも内部、結局は大学という制度ではないでしょうか。その点で私は保守的なのかもしれませんが。大学という制度の内部からまず変化が起こらねばならないと思うのです。70年代の大学がそうだったように。ところが大学にいると、これまで社会民主化がかなり進展したにもかかわらず、民主化は大学の正門の前で停止していると感じられます。大学はまだ徹底して中央集権的です。白永瑞主幹のいらっしゃる延世(ヨンセ)大学はどうかわかりませんが、私の経験では、学部〔単科大学〕の自律性もほとんどないようです。先ほど言及されたラディカルな流れが出てくるのも、大学制度が非常に強固なために、その内部においては変化への希望を捨てたところから始まっている面がありそうです。<スユ+ノモ>も「哲学アカデミー」も、大学という制度に対する絶望から出てきたのではありませんか? 先ほど大学史を概観しながら見たように、韓国の大学には実際、理念がありません。大学が地域に根付き、民族の大学あるいは民衆の大学として発展し、それら独自の教風が生かされてこそ、学風も育つというものですが、存在するのはただ英語で研究して講義して、世界の名門大へと羽ばたくという滑稽な課程だけですね。
白永瑞 私も大学にどっぷり浸かっており、制度の内と外を行き来するとは言っても、そのようなオルタナティブな人文学の実践に積極的にコミットできてはいません。個人的には、実践の範囲として創批を中心にする程度
という限界がありますが、私もそれらの流れがうまくいって大学という制度に肯定的な衝撃でも与えられれば、と思います。ただ、制度の外の空間で知識と生を結びつけようとする新しい人文学のモデルを実践することが注目されていますが、制度の中の大学とは違って、知識の再生産において不安定なのは事実でしょう。不安定性を柔軟性の土台として活用できればいいのですが、それを乗り越えようとして制度を模倣する道を選ぶのなら、それ自体の新鮮な魅力やダイナミズムが失われやすいのではないでしょうか。できれば、そのダイナミズムが大学制度に影響を及ぼせるように、コミットする個々人が大学内外の双方で活動するのがよいのではないかと思います。私はそれらの流れを誇張も無視もしない程度の立場ですが、真の問題は大学の中にあります。大学という制度は、もっている資源に鑑みれば、今なお重要です。しかし私はズバリ問いたいのです。本当に大学が変化する可能性はあるのか。民族の大学、民衆の大学、地域とともにある大学と言われましたが、どんな名前をつけるのであれ、大学は変わりうるのか? 先輩は学長をされたこともありますし、今はBK(Brain Korea、日本でいうCOEのようなもの)の拠点リーダーもされています。大学内部から変化を引き出す位置と資源を確保しているともいえる立場ですが、そのような立場から見て、果たして大学は変わりうるのか、また、変化のダイナミズムはどこにあるのか。どうお考えでしょうか?
崔元植 そういう質問は嫌ですね。できないと知りつつも、せねばならないことは何が何でも行うことが――
白永瑞 そうですね。支持します(笑)。
崔元植 先ほども言及しましたが、私は学長をしたこともあるし、そのなかで社会民主化が大学の正門で止まっていることを切に感じました。これはどうしても変えるべきだと思います。それができなければ、何というか、国の将来はないでしょう。人文主義が一つの巨大な思潮としてルネッサンスを作り出したように、私たちの議論もそのようなひとつの思潮、ひとつの運動になるべきです。確かに韓国の70年代には巨大な思潮がありました。その中で創造的な人文学が生み出されたと私は考えていますが。その人文学は今、思潮として存在しているのか、それが重要なのです。それが今あるとすれば、全盛期なのか退潮期なのか。私たちは現在、重大な岐路にあり、韓国社会がしかるべくあらんとするなら、その知的作業を遂行せねばなりません。そのために何か「学術運動」として大きくならねばならない。今、それをいかに作り出すかが問題です。
白永瑞 70年代に新しい人文学を追求する思潮と運動があったという興味深いご指摘をされましたが、こんにち、それが可能なのかを点検する前に、当時の時点で望ましい変化をなぜもっと多く作り出せなかったのかを振り返る必要があります。考えるに、重要な理由のうちのひとつは、当時の変化のダイナミズムが学生たちにあり、大学に職を得ることのできない若い研究者たちが主軸になっていた点です。彼らには自身が要求することを主流の思潮にしていくだけの力があったと思います。しかし次なる問題は――私の体験に基づいた話ですが――相当数が大学制度に吸収されたことで、むしろ変化の力を失ったようです。女性学を例にとると、制度の外部にいたときには批判的な学問だったのが、いざ大学に女性学科を作るとその他多くの学問分野のうちのひとつになるというケースではないかということです。資源を得て持続的な再生産は可能になるが、批判力は失われやすい。そのように制度の外側の力が大学という巨大な組織と機械の中に吸収されたのではないかと思います。
崔元植 非常に重要な指摘です。もうひとつ、その時に創造的な人文学をしていた人々は、創造的であるだけに少数であり、そのために大学制度全体を変えるほどの力にはならなかったのです。また、その時は大学が変化の時を迎えていました。たとえば私は教養課程部がソウル大学文理学部を滅ぼした主犯の一つだと思っています。当時、文理学部にいた人々はもちろんエリート集団でしたが、最後の学者のように生き生きとしていたし、連帯と疎通がそれなりになされ、独自の社会意識もあったようです。しかしとにかく、教養課程部が組織されてから、大学の大学化が――
白永瑞 大学の大学化、大衆化ですね。
崔元植 そうです。大型化と大衆化が重なりました。そうして大学が変わり、また一方では当時の運動はメタナラティブだったのです。伝統的な権力、巨大な国家権力だけを見ていた。そうしてそれぞれの分野、特に大学制度を変えることの切実さに対する意識が不足したようです。独裁の弾圧が非常に厳しくもありましたが、その時は政治権力さえ掴めばどうにかなるという風でしたね。
白永瑞 そのとおりです。70年代の新しい流れがなぜ制度の中に根を下ろしえなかったのかを考えるとき、国家権力の変革に集中しすぎたという理由もあるでしょう。たとえば、大学の学生会もそうでしたし、教授労組であれ民教協(民主化のための全国教授協議会)であれ、全国的な政治問題に集中しすぎたあまり、個別の学校の構成員の生活世界に関連する変化についてはあまり気が回らなかったのではないか。それとともに、構造的な変化の問題、先ほどおっしゃられた大学の大型化と大衆化についても、特に代案を見出せずに放棄してしまったのではないかということが気にかかっています。というのも、今、大学の変化はとても強力な動力、国家や市場によって作動していますから。
それを仲介する重要なエージェントが学振です。学振をつうじてBKやHK(Humanities Korea、人文科学系の研究助成)プロジェクトなどが推進され、教授個人の業績を管理する学術誌などもこのような変化に介入しています。特に若い教授らが多くのプロジェクトに参加し、与えられた評価基準に合わせようとして学問観を左右されている現実があります。この変化の軸がまさに競争力です。大学間競争をつうじて各大学の競争力を高め、そうすることで国家競争力を高めることが最も重要な学問的成果の基準となっています。先輩も私も大学でそのようなプロジェクトの責任を負っていますし、最近の大学の変化をどう見るのかに話を移しましょう。
国家主導の研究プロジェクトの限界と可能性
評価制度の改善、誰が乗り出すべきか
崔元植 私はその評価制度には一定の効率があると考えます。これまでが何しろいい加減でしたから。以前、ある大御所学者が逝去された時だったでしょうか、こういう冗談がありました。論文を書かないことで学界に寄与した最後の人物が亡くなった、と。学者は皆論文を書くために大騒ぎですが、果たしてそのうち優秀な論文はどれだけあるのかという疑いから、そんな話が出てきたのです。その意味で、学振の計量的評価制度は問題が多いけれども、学者たちが大学に任用されればそれで定年まで自動的に保障されるという構造においては、とりあえずそういう評価もある程度効果的だと思います。しかし今、きちんとした評価がなされるように要求せねばならない時です。今の評価制度の問題は深刻です。まず、人文学においては著書が論文1本よりも低く評価されます。それを、著書中心に変えるべきです。その次に、論文評価に質的方法を導入せねばなりません。じっさい、今の評価制度は学者の優秀さを見分ける力があまり出ているとは言い難い。
議論の方向を少し変えて、各分科学問を行き来する分野横断的であると同時に社会と疎通し新しい実践の道も提示しうるような人文学言説とはいかなるものなのか、考えてみましょう。私はそのうちの一つが東アジア言説ではないかと思っています。今年、崔先生は1993年以降に書かれた論文をまとめて『帝国以後の東アジア』を出版されました。新しい人文学の可能性を示す証拠として東アジア論についてお伺いします。新著を読みながら、今日の議論に関連して注目したことを申し上げると、まず、先輩の関心が韓国文学という領域や専攻に閉じられておらず、さまざまな分野を行き来している点、そして国境を横断するという点、すなわち東アジア全体の現象に注目されている点です。ある部分では時事的な問題までカバーしていらっしゃいます。そして「韓流」といった大衆文化をつうじて東アジアがどのようにつながっているのかを分析しつつ、東アジアの「共感覚」を作ろうと提案している部分が際立って見えました。そこから、今日語られたところですが、新しい人文学が生活世界や感覚の問題にまで引き下されて根付かねばならないという点を再び突きつけられました。ところで、創批の東アジア言説が語られる時、私たち二人が主に論じられていますね。それに対する批判の重要な論点が、朝鮮半島中心主義です。民族主義への態度を、すなわち脱民族主義なのか否かを問うています。また、分断体制に注目し韓国の現実に着目しようという方向性に対して、結局東アジア論は朝鮮半島問題を解くための言説であり、朝鮮半島を中心にするところから脱し得ていないというものです。これらの問題を検討し、乗り越えていくことが必要です。先輩の東アジア論の自伝的展開を示す文章が「天下三分之計としての東アジア論」でしょう。それを見ると、いくつかの段階が出てきますが、本を全体的にみると前半は文明論としての東アジアを語る傾向が強く残っているようです。詩人の金芝河(キム・ジハ)の影響も窺えます。そうして分断体制と出会いながら、それが運動論または変革論として根をおろしている面が見受けられます。この二つが時に衝突しているようでもありますね。
東アジア論批判に対する反批判と自己批判
崔元植 しかし朝鮮半島中心主義という批判には少し問題があります。東アジア論は雲の上を飛ぶ清談でもあるまいし、分断を当然視野に入れねばならないと強く考えますが、そうではない人が少なくない。東アジアを論じながら南北〔分断〕問題を取りこぼしてもいいのか?そうしていいはずがないでしょう(笑)。
白永瑞 そうです、私たちの現場ですから。
崔元植 私たちの周囲を見回すと、植民地時代を研究しながらも植民地という事実をすっかり忘れている人々がいなくもない。特に最近は「ポスト」主義が流行しているので、輪をかけてそうです。しかし植民地時代の文学運動においてさえそういう面が見られます。プロレタリア文学は、それゆえ崩壊したのです。植民地ということを度忘れして自分たちがソビエトにいるかのように、または先進資本主義社会に生きているかのように錯覚したのです。金斗鎔(キム・ドゥヨン)というマルクス主義評論家がいましたが、この人は30年代に社会主義リアリズムの導入に反対しました。というのも、社会主義リアリズムは社会主義の建設期の批評ですが、自分たちの朝鮮では社会主義建設はおろか、革命前であるために合わない、ということです。プロレタリア文学は結局、植民地的条件を具体的に検討した上で独自の議論を繰り広げられなかったがゆえに没落したのです。モダニストたちにもそういう面がありました。金起林(キム・キリン、モダニズム詩人)は「午前の詩論」を掲げて西欧的現代を夢見ました。植民地という条件を忘却したのです。その点で、プロレタリア文学とモダニズムは近代を越えて20世紀の思潮に歩調を合わせてついていこうとした情熱を共有しているという、双生児的な側面があります。金起林も植民地と真摯に向き合い、「午前の詩論」を修正するという自己批判のなかで全体詩へと進んでいきます。教条主義者だった林和(イム・ファ)が植民地的条件を熟考することで近代文学論および民族文学論へと前進したように、金起林も幼さの残るモダニズムから省察的モダニズムへと移行していきます。この両者が植民地という現実を改めてしっかり見据えることでなされた点に注目する必要があります。分断も同様です。分断時代に生きているのに、その事実をすっかり忘れ去る文学や研究が少なくありません。分断を意識しすぎることも問題ですが、分断を括弧に入れることのほうが問題です。両極端を越えることが重要でしょう。東アジア論がその点を忘れるなら、二の舞を演ずることになりかねない。しかし最近は私も朝鮮半島中心主義からもう少し自由になろうと努力しています。
白永瑞 第4の拠点に踏み込まれましたね。中華中心主義でも日本中心主義でもなく、朝鮮半島ハブ主義でもない、第4の拠点です。
崔元植 これまでは東アジア論が文明論へと飛躍しないために分断体制論を強調する方向でやってきたのですが、今後は私たちがそれを緩和する、解毒する努力もしていかないといけないのではないかと思っています。
白永瑞 その点がまさに脱民族主義に関連しています。最近、金興圭(キム・ホンギュ)教授が私的な場で、この頃の崔先生は脱民族主義へと流れていると批判したそうです。「韓日連帯21」に代表としていったん参加しつつもやめたのを見て、私も似たような感じを受けました。
崔元植 私は実際、民族主義などどこかに行け、というほどに国粋主義的な傾向の強い人ですが、自分の精神のバランスのためにそうしたのです。脱民族主義だと私がいくら言っても、なにせ生れながらの国粋主義者ですから。(笑)
白永瑞 そうおっしゃると、創批の東アジア論に対する批判の一つに民族主義の拡大というものがありますが、その疑惑の根拠をはっきり示す物証になってしまうかもしれませんね。(笑)
崔元植 「小国主義と大国主義の緊張」を掲げましたが、実際、私は根っからの大国主義者だったので、小国主義という言葉そのものが私自身にとっては痛いものでした。いうなれば、絶え間なく自分自身にワクチンを注射しながら毒を抜く過程とでも言いましょうか。朝鮮半島中心主義や民族主義が結局は朝鮮半島の将来のためにも良くないということを、だんだんと実感してきたために、わざと小国主義をしばしば口にしているのです。私自身のためにもそうしています。私たちが勉強をする理由は、究極的には、何も悩まなくていい自由の大河で羽を伸ばしたいからではないですか? そのためにも朝鮮半島中心主義はやはり解毒されねばならない。少し前にある弟子が来て、こう言うのです。私が以前書いたリアリズム-モダニズム回通論は結局のところリアリズム拡大論だったけれども、今回の文章を読むと拡大論ではなく真に回通へと向かっているようだ、と。(笑)
白永瑞 私も創批の春号に掲載された「大国と小国の相互進化」を読ませていただきました。新しい人文学の可能性を示す例になっているのではないかと思います。新しい発想を促し、既存の問題に対して異なる見方を提示する文章でした。同時に、補完する意味で言わせていただくと、その文章で中型国家について論じられていましたね。その議論に対して好意的ではない人々は、韓国がなぜ小国なのか、既に中型以上になっているのに小国主義に向かおうというのはロマン主義ではないかと批判しています。小国主義とは大国主義を前提とした発想ですよね。発想そのものは新鮮だが、それを現実に位置づけようとするなら、中型国家が具体的に何を指すのか、もう少し積極的に考えてみなくてはならないでしょう。これは私の課題でもあります。
時間がなくなってきましたので、東アジア論についてはこれくらいにして、話題を移しましょう。新しい人文学の可能性を示す道、すなわち制度の内と外を行き来する人文学的知識の生産を創批の活動と絡めて考えるとどうでしょうか。実際、現職の主幹がこう言うのもナンなのですが、先ほど話した70、80年代の知的な新しさ、新しい思潮として創批は一役買ってきたのではないでしょうか。季刊誌として言説の場を作り、それを広げてきました。当時「創批学校」という言葉もありました。しかし今、創批が新しい人文学の思潮をつくるにあたって中軸的な役割をなせているのかを検討してみたいと思います。私たちは最近、3巻本で「創批談論叢書」を出版し、特に2000年代以降の重要な言説のいくつかを提示しました(『二重課題論』『87年体制論』『新自由主義の代案論』創批、2009年――編集者)。私が叢書の発刊の辞で、創批はこれまで狭い意味での人文学と社会科学が文学的感受性や現場の運動経験と折り重なり交流する場だったがゆえに、このような言説の生産が可能だったのではないかと書いたのですが、東アジア論以外の言説の生産作業についてどのようにお考えですか?もちろん、70年代以来提起された言説のなかで、民族文学論やリアリズム論のようなものもありましたが。
創批が歩んできた道、歩んでいく道
崔元植 このように叢書にまとめてみると、言説と言説の間の連関関係もよりはっきりと見えるし、また、ひとつの言説が持つ多様な側面も比較できるようになって、いろいろとためになりました。おっしゃられたように、70年代の新しい人文学の創出において創批が担った役割は非常に大きかった。教科書や学校の外で、創批は知識と情報の強力な源泉だったし、創批を読んで討論し、積み上げた滋養が一つの運動へと発展したという点で、日常の武器庫だったといえます。知的な訓練が主知主義によって制限されずに行動と照応したという点で、30年代とは違って幸福な結びつきの時代だった。今回出版された叢書を見ながら感じた点は、昔の創批はこのようにまとめなくても、おのずから議論と行動の中心だったということです。私は今もなお私たちが70年代に新しく起こった思潮の中にいると思っています。その思潮が終わって新しい思潮へと移ったようには思えません。ただ、今がどのような局面なのかを冷徹に判断することが重要です。もし全盛期を越えたとするなら、何が必要なのか考えなくてはならないでしょう。全盛期を越えたということは、新しい思潮の始まりでもありますから。もちろん、70年代に戻ることはできません。すでに経験してきた場をどのように読み解き、新しい条件を作り出せるのかが重要です。
白永瑞 私はそのご意見にあまり共感できませんね。切り詰めていうと、以前はおのずと中心になっていたが、今はわざわざ中心になろうとしているという話に聞こえます。.
崔元植 栗谷(ユルゴク〔朝鮮中期の学者である李珥(イ・イ)の号〕)先生の言葉に、創業期、守成期、更張期というものがあります。タイミングを合わせねばならないということです。創業期にあるのに守成期の戦略をとってはだめです。更張期には-
白永瑞 更張を誤れば滅びるという-
崔元植 かといって更張をしないのもだめなのですが。私がみるところでは、今が更張期のようです。これは創批だけではなく、70年代に新しく起こったさまざまな思潮すべてに当てはまります。現在、私たちはいろいろな主観的・客観的変化の中にいますね。その変化に能動的に応答してこそ、私たちも生きられるし私たちの社会も生きるでしょう。その点で中心なのか、中心になろうとするのかどうかではなく、創業期、守成期、更張期の三段階で考えればいいのではないでしょうか。
白永瑞 歴史循環論に鑑みれば、創業期、守成期、中衰期、中興期といいますね。中興があまりうまくいかなければすぐに滅ぶのです。中興はすなわち改革を意味しますが、改革は矛盾があるから行うもので、それを間違えれば没落します。歴史循環論は運命論的な雰囲気のある比喩なので、あまり好きではありませんが、創批が中興期にあるのか否かといった問いは両刃の剣だと思います。その比喩に従えば、第二の創業期にもなりうるし、滅ぶこともあります。私は中興期が進んできたと思います。しかし、その問題を最近の言説と関連付けて振り返ってみると、現実と密着して発言するところには、かなり成功していると思われます。時事問題に介入することから情勢分析に至るまで、成功した面がありますが、これを普遍的に疎通させるところは弱かったのではないか。国内でもそうだし、国外向けにもそうです。疎通するという部分で十分ではなかったようです。この議論を、果たして他の人々とどれだけ疎通し討論しているのかという点をもう少し真剣に考えねばならないと思います。たとえば、叢書の最初の巻のテーマ「二重課題論」では、分断体制に関して韓国の現実に根ざした議論はされていますが、それをもう少し押し広げるという面では、本来は疎通範囲の広い発想にもかかわらず、十分になされているとは言い難い。
疎通の問題が出てきたので、突き詰めて考えて乗り越えたいことがあります。昨年の蝋燭デモ以来注目されているものに、無数の個人がネットワークを通じて知識生産の主体として浮上したという現象があります。その人々が自ら人間らしい生のために問題提起をすると同時に、自分たちが解決者として乗り出し、これは「大衆知性」とも呼ばれましたね。創批の言説がそれらとどのように疎通の通路をつくり、その過程で自ら変化していくのかが問題です。また、大衆知性だとか何とか名付けられていなくても、大学の授業で出会う普通の学生たち、就職活動に悩まされている若者たちの日常的な生の悩み、これこそ人文学的な問題提起とどのような通路で出会わねばならないのか、ということも無視できません。
崔元植 非常に重要な点です。実際、BKやHKが後続世代の危機から始まっただけに、後続世代をどのように育てるのかは核心的な問題です。すなわち、先達がどのように後続世代と疎通し、後輩らが自分のやり方で自分の時代の人文学をつくることに成功するようにサポートするのか、という問題です。ある者はこの局面で疎通の危機を云々しますが、私は鈍感なせいか悲観的ではありません。学校に戻って久しぶりに学部の授業をしたのですが、やはり大学の先生は学部の授業をしてこそのものです。今学期は朴泰遠(パク・テウォン)生誕100周年でもあるので、彼の長編小説を一緒に読んでいます。学生たちから多くのことを学んでいます。朴泰遠はリアリストを批判しモダニストを擁護したと言われますが、このような既存の議論の枠組みを超えて、学生たちは実感に即して自分なりに読解しているようです。はっと目を開かせるレポートに出会うこともあり、本当に楽しいです。疎通の危機は誇張ではないかと思います。むしろ大人の問題ではないでしょうか? 子どもたちはそれほど侮れたものではない。言葉にも気をつけねばなりません。少し前に映画「殺人の追憶」(2003年)についてきちんとした評論がないと講義中に何かの折に言ったら、次の時間にはすぐにインターネット上に出回っている文章をもってきてくれました。私の知らない人の文章でしたが、素晴らしかったです。その文章を見ると、新軍部のもとで屈従していた80年代の二重性、ともすれば独裁よりも恐ろしい都市化の荒波が最後の農村を飲み込むその時代の表情を本当によく読み解いていました。集団知性または大衆知性を実感しました。
白永瑞 授業をつうじた疎通の楽しみを聞いて思い出した話があります。今回の対話の準備過程で、地方の私立大で英文学を教えている創批の同僚の編集委員が、実用的な英語教育の時間に最も人文(学)的なテーマについてディベート授業をした経験を話してくれました。その学生たちにとって人文学的な教育とは、贅沢や単位ではなく絶対的に必要なことであり、それも面白さと結びつきうるということを発見したとのことです。私にもそのような経験があり、また、新学期には「史学入門」という教養科目を担当して自叙伝を書くことを中心に「歴史とは何か」について討論し、就職準備の自己紹介書を書く実用性とも結びつけることを試みています。しかし大衆と疎通の通路を広げていく一方で、情報技術の急速な発展のおかげで知識生産者としての地位と達成感を得るようになった大衆の集合知性や直接行動が持つ問題にも注意せねばなりません。往々にして追従現象のようなゆがんだ民衆主義に陥ることがありますから。だから私は新しい主体として最近注目されている大衆や多衆〔マルチチュード〕が70、80年代の民衆とどれだけ違うのかを見据えねばならないと思います。創批としては、深く悩まざるをえない部分ですね。
崔元植 先輩や大人ではなく後輩や若者の立場に立とうと努力するなかで、彼らと疎通する道を見出すことは創批をはじめとした70年代以降の思潮の流れを決定する核心だと私も思います。しかし、私の判断では、それらをいわゆる民衆でもなく大衆でもない多衆として評価するところには留保をつけたい。私は以前から民衆と大衆をはっきりと区分することに批判的です。西洋では大衆は受動的な客体かもしれませんが、私たちにとってはそうではない。大衆とはそもそも仏教用語で、比丘(男性僧侶)、比丘尼(女性僧侶)、優婆塞(男性信徒)、優婆夷(女性信徒)をまとめて四部大衆と言います。僧侶と信徒が同じ大衆なので、エリートによる大衆支配という西欧の図式は私たちにはあまり当てはまらない。なので、平等の目で見れば大衆が民衆であり民衆が大衆といえましょう。蝋燭デモとして集中的に表現されたこの新しい集団こそ、民衆と大衆の間に道を作った民衆的大衆または大衆的民衆ではないでしょうか。先達が厚かましくも新時代に介入することは自制すべきですが、どのような名で呼ぼうとも、それらといかに疎通するのかは思潮の運命を決定する鍵です。ただ、彼らの時代の責任は彼らにあるという点を肝に銘じることは、どれだけ強調してもしすぎでないと思います。
新しい人文学としての社会人文学
白永瑞 私たちが追求し、この時代が求める新たな人文学の課題を討論してきましたが、それを整理しつつ、別の名前を付けるとすれば、私は「社会人文学」という言葉を使いたい。これは私がおこなっているHKプロジェクトの課題名であり、新造語でもありますが、この名前を付けるときには多くの問いが寄せられました。単に社会科学と人文学を合わせたものではないか、と。私は、私たちが語る人文学は本然の人文学、実際は学問自体であり、総体性の人文学であるがゆえに、本来持っていた社会性を回復するものであって、それゆえ社会の諸問題を学術の課題として持ってくることが重要であり、学問の社会性を回復するために学術史的な自己省察が第一段階として必要だと答えています。だから、社会人文学という時にはまず省察を挙げます。二番目が疎通です。分科学問間の疎通と同時に社会との疎通も必要であり、何より知識と生の疎通、学問の遂行を通じた生の変化を期待しています。最後に、実践が挙げられます。このように省察と疎通と実践をつうじて、人文学の社会性を回復するものが社会人文学だと考えています。その意味での人文学を創批は今までやってきたし、今後もしようとしていますが、以前と違うのは、編集陣のメンバーのうち相当数が制度の中にいるという点でしょう。むしろ制度内にいる人のほうが多いといえますが、制度の内外を行き来する試みが必要です。だから運動性を回復するとか、現場に密着した論争的な文章を書くとか、いわゆる「創批印の文章」を試みているのです。それにどれだけの成果があるのかは読者諸氏が評価する問題です。それが人文学の本来の役割であり、現在の制度としての人文学の危機を乗り越える道だと整理することができるでしょう。
白永瑞 ルネッサンス人ですね。
白永瑞 重要な点を指摘してくださいました。あまつさえ今創批の実務に責任を負っている主幹として、骨身に染みるお言葉です。今、天文と人文についてお話されましたが、西洋でもヒューマニティ(humanity)と単数でいうと人間らしさ、ないし人間性ですが、複数形にするとヒューマニティーズ(humanities)、人文学となります。すなわち人文学というのは英語からみても人間性の探究です、時にヒューマニズム(humanism、人文主義)も人文学と訳してこそ正しくもあり、さらに適切な場合もあります。人間性は分けられるものではなく、人間こそその総体だという意味ならば、当然、人文学も総体的学問になります。私たち創批編集陣の内部でも、専門領域を深めることはよいけれどもさまざまな領域を行き来するところにもっと力を入れるべきだとの意見が提起されます。このように言うと、天才やルネッサンス人にはできるけど一般人にはできないという風に受け取られるかもしれませんが、核心にあるのは人間性に対する探求そのものが分割不可能なものだということです。そのうえ、最近はポスト-ヒューマニズムとして人間と非人間の境界まで行き来する研究がなされている状況で、人間に対する総体的な探求をするためには、70、80年代の遺産に再度目を向け、反省する点があるのではないかと締めくくりたいと思います。
最後に一言、今日の対話を崔先生の還暦祝いとして開いたので、締めもそのようにしたいと思います。私がきちんと花火を打ち上げられたか不安なところですが、この対話をひとつのプレゼントとして受けとめてくだされば、と思います。また、『帝国以後の東アジア』の序文で私を指して創批内外で東アジア論を具現する同伴者だとおっしゃってくださいました。それだけでなく、今後追求する新しい人文学でも先頭に立って下さるなら、その作業でも喜んで同伴者になりたいという点を読者とともに約束することで、この対話を終えたいと思います。ありがとうございました。(*)
季刊 創作と批評 2009年 夏号(通卷144号)
2009年6月1日 発行
発行 株式会社 創批
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