危機以降の対案、「韓半島経済」
1. 果たして対案はあるのか
歴史は終わらず、世界経済は激変の最中にある。1980年代末以降、レーガノミックスの登場により、保守的で通貨主義的な経済政策が主導権を握ってきた。市場経済の回復のため、財政政策を擁護してきたケインズ(J.M. Keynes)さえも経済学の教科書から姿を消そうとしていた。ところが、2008年のアメリカの金融危機により状況は一変した。1930年代の大恐慌以来の最悪の経済沈滞に対する恐怖が全世界を脅かしている。世界的に当分の間は、福祉・租税政策による調整と介入の必要性に対するコンセンサスがなされるだろう 。しかし、新自由主義が完全に没落したとは言いがたい。商品と資本の移動は一時的に縮小されるが、アメリカが主導権を握っている国際貿易や金融秩序に対する新自由主義の影響力は当分は維持されるであろう。 林源赫(イム・ウォンヒョク)「新自由主義、本当に終りを告げたのか」、『創作と批評』、2009年春号参照。
全世界的にも市場万能主義が限界に直面し、国内では李明博(イ・ミョンバク)政府の執権以降、失政が繰り返されている。にも関わらず、新たな代案を提示できるような勢力も見当たらない。このような状況の中で、社会民主主義の対案や進歩的自由主義の対案には関心が持たれる。民主労働党の分党以降、民主労働運動に基づいた進歩政党実験が失敗に終わったという評価が下され、社会民主主義が知識人運動の一つの流れとして登場した。もう一つの流れは進歩的自由主義であるが、政権再創出の失敗要因やその対案に関する論議が多方面においてなされている。
自主派対平等派という昔ながらの対立構図に比べると、社会民主主義対進歩的自由主義の対案競争は、一歩進んだ感がある。しかし、このような論議の構図もやはり、結局は「国家か、市場か」という過去のフレームへと戻ってしまう。これでは我々の抱えている分断と冷戦という現実を解決することもできず、新たな大衆と運動の志向性に追いつくこともできない。
我々が直面している現実と解決すべき課題はかなり複合的である。他の国家と同様に、資本・国家・世界市場といったレベルでの一般的で近代と関連した問題も存在するが、一方では分断の克服という特殊な課題が、もう一方では地域形成というポスト・モダン的な課題が 横たわっている。自由主義とか社会民主主義といった枠組みではこのような課題に立ち向かうことは到底できない。新たな世界には新たな対案で対応すべきである。従って、筆者は、世界的・東アジア的・韓半島(朝鮮半島)レベルでの移行期に適用可能な「韓半島経済」という対案を考えてみる。それは、国家、地域、多様な経済組織の三つの車輪で前進する三輪車(tricycle)である 。 李日榮(イ・イルヨン)「混合経済体制へと向かう三輪車」『創批週刊論評』、2008.12.24。韓半島社会経済研究会『韓半島経済論:新たな発展モデルを求めて』、創批、2007参照。
2. 世界体制の再編
まず、韓半島を規定している基本環境の変化を見てみたい。20世紀末、世界はアメリカ主導の下、爆発的な金融膨張を経験したが、金融市場での競争激化は、世界経済に対するアメリカの金融的支配力を強化した。しかし、2008年の金融危機とそれに伴う大不況により、金融資本主義に基づいて行使されていた世界経済におけるアメリカのヘゲモニーは事実上、崩壊してしまった。
アメリカが主導した金融膨張の主人公は投資銀行であった 。全鋹煥(ジョン・チャンファン)「2008年、アメリカの金融危機と金融資本の再編」『動向と展望』、2009年夏号、111~15頁。 投資銀行とは、一般的には証券会社とも呼ばれている。アメリカの投資銀行はイギリスから取り入れられて、9世紀初から始まった。普通、投資銀行は法人を相手に資本市場においての資金調達を手伝うのだが、20世紀初に至っては商業銀行の業務までも行うようになった。1930年代のニューディール政策の核心は投資銀行を中心をした巨大金融資本に対する統制であったが、その中で代表的なものが銀行業務と証券業務を分離させたグラス・スティーガル法(Glass-Steagall Act)であった。ゆえに、1960年代末まで、アメリカの投資銀行は小規模なものにとどまった。
投資銀行が大規模化し、資本市場の業務が飛躍的に増加したのは、1980年代以降のことである。情報通信技術の発達により、大規模な金融取引きが容易となり、特に小売取引きの場合、規模の経済(Economy of Scale)が作用したが、これは、大型投資銀行にとって有利な環境を作り出す結果となった。従って、既存のパートナーシップの形が解体し、企業公開がなされ、買収・合併が行われた。規模拡大のための熾烈な競争の中で、投資銀行の資金調達構造は悪化した。通貨当局の政策的な援助を受けることの出来ない投資銀行は、貸借対照表を最大限拡大し、資産規模を極大化した。
投資銀行が主導した金融膨張は、下降線を辿っていたアメリカの世界的ヘゲモニーを回復させた。第2次世界大戦以降、黄金期を謳歌していたアメリカは、1960年代末から70年代初にかけて危機局面にぶつかった。ベトナム戦争での後退により、アメリカの威信が失われると、経済危機は第3世界の国家にとって有利な方向へと展開していった。しかし、1980年代以降、アメリカの投資銀行が推進した金融市場での競争激化は、アメリカの支配力を再び強化させた。競争による莫大な資金の吸収は第3世界や社会主義圏国家への資金供給を枯渇させてしまったのだ。結局、旧ソ連は解体し、アメリカだけが軍事力を合法的に行使する独占体制が成立した。
しかし、アメリカの金融資本主義は持続的に発展することの出来ない構造的な問題を抱えていた。アメリカの投資銀行の度の過ぎた危険買収は、2008年、破綻に至った。投資銀行は、不動産関連の担保貸付の証券化の過程で莫大な収益を上げたが、証券化商品の価格が低下すると、投資銀行に預託していた資産の引き出し要求が飛躍的に増大した。支払い能力の限界に直面した投資銀行は破産、もしくは買収され、商業銀行体制へと再編された。すると危機は商業銀行や産業にまで拡大され、結局アメリカ政府は、金融と産業の破産を食い止めるために莫大な公的資金を投入せざる得なくなった 。これまでアメリカ政府が約束した不良金融機関への支援規模は7.8兆ドルに上るが、これは、名目GDPの60%に当たる規模である。全鋹煥、前掲書、133頁。
大規模な公的資金の支援と景気浮揚策の実行、さらに、社会保障改革を推進するとしてもアメリカ経済が従来のような威信を取り戻すことは容易ではないだろう。最も問題となるのは国家財政である。アメリカが2040年以前に財政均衡を達成させるためには、次の三つの条件の内、一つでも満たさなければならない。連邦支出を 60%減らすか、連邦租税を現在の2倍に引き上げるか、もしくは、実質GDPが75年間毎年、二桁数の増加を見せるかである。しかし、いずれも現段階では不可能な状況である 。鄭建和(ジョン・ゴンファ)「アメリカの経済危機とオバマの経済政策」『動向と展望』、2009年夏号、94~96頁。
アメリカ経済の根本的な問題は、過剰消費と過剰投資に頼る既存のシステムにある。これらを改造するためには、政府が先頭に立って莫大な家計負債と企業負債を調節しなければならない。これは非常に苦痛の伴う構造調整の時期が必要となる。しかし、アメリカ政府に構造調整を主導できる能力はあるのか、そして、国民がこれを推進する国家に対して信頼感を持ち続けることができるかどうかは疑問である。2010年の下半期からは中間選挙を狙った共和党が至上主義の反撃を組織化させるだろう。今後、「国家」と「市場」の両支持者の間に熾烈な対立が再現され、そのような世界観の衝突がアメリカの新たな発展モデルの樹立を妨げる可能性が高い。
危機以降、アメリカ経済の下降は確かな現実となった。では、危機以降の世界はどうなるのだろうか。資本主義の危機を資本主義の崩壊と見なす単純な論理は現実とは合わない。寧ろ、現在の金融資本を新たな資本主義体制へと移行するシグナルと見なす見解の方が説得力があろう。
ジョヴァンニ・アリギ(Giovanni Arrighi)は、資本主義の世界体制の全生涯(長期持続)を分割し、金融膨張を主要資本主義の発展の最終局面として把握している 。ジョヴァンニ・アリギ『長い20世紀: 資本、権力、そして現代の系譜』、白承旭(ベク・スンウク)訳、グリンビ、2009。 彼によると、これまで、資本主義は4度の体制的な蓄積循環を経過しており、それぞれの体制にはジェノバ、オランダ、イギリス、アメリカなど、集積された資本主義の権力(国家と資本の独特な融合)があった。そして4度目の循環、即ち「長い20世紀」は、① 19世紀末~20世紀初の金融的膨張(アメリカ体制の誕生)、② 1950~60年代の実物的膨張(アメリカ体制の優位)、③ 1980年代以降の金融的膨張(アメリカ体制の破壊)によって構成されているという。
1980年代以降の金融的膨張は、見方を変えれば新たな体制誕生の準備期間とも言える。アリギは、これを体制の根本的再編成の過程と見ている。この時期に東アジアでは、連鎖的な経済「奇跡」が起きた。これによって、世界的レベルにて軍事的パワーと経済的パワーが分岐されたが、これこそ、変化の最も重要な特徴であるとする 。韓国での金融膨張は通貨危機の克服以降進行したが、その起源は1980年代以降のアメリカ中心の金融膨張、東アジア主導の実物膨張にある。
さらに彼は、今後の世界体制展開に関する三つのシナリオを提示した。一つ目は世界帝国である。もしアメリカとヨーロッパ同盟国が、東アジアから保護に対する見返りを得ることができれば、史上初の全地球的な帝国として存在できるということである。二つ目は世界市場社会である。これは東アジアが、軍事力ではなく、文化・文明の相互尊重によって支えられた世界体制の中心地となる可能性である。三つ目はカオスである。これは「冷戦世界秩序の清算がもたらした暴力の拡大という恐怖(又は栄光)の中で人類愛は燃え尽きてしまう」というシナリオである。
3. 分断体制の行方
新たな世界体制は、アメリカの軍事的・金融的優位と、中国の実物経済における優位が競争するか、もしくは調和を図るか、どちらかであろう。このような環境の下、韓半島においてはどのような可能性がもたらされるのか。
第2次世界大戦以降、形成されたアメリカ中心の世界体制は、東北アジアにおいては冷戦体制へと、韓半島においては分断体制へと具体化された。分断体制は一つの体制でありながら、その下位に南北各々の体制を維持している。世界体制は分断体制へ、分断体制は南北の各体制へ、影響を及ぼす。勿論、上位体制が下位体制を機械的に、又は同一的に規定するとは限らないが、下位体制が上位体制と照応しない場合、下位体制には不安要因が内在化する。
韓半島の分断体制は東北アジアの冷戦体制と上手く照応していた。しかし、旧ソ連の解体と中国の世界化によって、分断体制を安定的に再生産できる上位体制は解消された。さらに、韓国では民主化と経済発展が、北朝鮮では制限的ではあるが、市場化が進むなど、南北それぞれ、分断体制と照応しがたい変化を迎えている。分断体制は、新たな変化と適応なくして、長期的に持続することは困難になった。現時点において、分断体制は、表面的には強固に維持されているが、世界体制や南北の各体制の変化の成り行きと要因などによってその地盤は軟弱化すると思われる。
揺れる分断体制は、如何なる方向へと変化するであろうか。先述したように、世界体制の変化には三つのシナリオ、即ち、アメリカ中心の軍事的秩序、中国中心の経済的秩序、そしてカオスが挙げられる。これらのシナリオ全てから、南北の各体制は変化の圧力を受けることになろう。秩序を追求するならば、スピードや比率の問題はあるが、「混合的な秩序」への移行は避けられないだろう。 基盤を新たにし、古い家屋を建て直し、外部からの衝撃に対応しなければならない。累積的な変化をゆっくりと進めるならば、比較的順調に漸進的な移行を行うことが出来るであろう。けれども、ただ突っ張っているだけでは家屋は崩れてしまう。適応を拒否すれば、破局的な危機を迎え、急進的な移行がなされるであろう 。 北朝鮮の核実験はカオスの段階への突入危険を高める効果を誘発する。従って、韓半島の民衆の生活の場を崩壊する核の拡大に反対し、断固たる非核化を主張することは基本原則である。また、衝撃と葛藤の拡大再生産を防ぐために、圧力と制裁が適当な線で調節されなければならないだろう。
韓半島レベルでの新しい家屋は、南北における各体制の漸進的な移行と南北間の妥協がその基礎となるべきである。基礎がしっかりしていれば、世界体制の環境変化からの影響を最小化させながらも、分断体制を南北連合体制へと転換できる可能性が高くなる。仮に、世界体制がカオスに陥ったとしても、漸進的な移行の中で南北間の平和と連合の秩序を設けることができれば、混乱を勝ち抜くことができるのである。しかし、南北対決の中、急進的な移行がなされた場合は、軍事的衝突の可能性が高い。衝突が避けられたとしても、吸収統一に莫大な費用を費やすか、もしくは南北統合の機会を失ってしまうといった状況に陥るかもしれない 。急進的な移行の場合は、不確実性が非常に高い。そうなれば、韓国による吸収統一という状況へと展開する可能性は然程高くないと思われる。吸収統一を主導できる程、韓国の吸収力やアメリカの影響力が大きくなる可能性は低い。南北当事者よりは、国際環境、特に中国の影響下でカオスを管理する体制が登場する可能性が高い。
勿論、最も望ましい状況は安定的な世界体制の形成、北朝鮮体制の漸進的な移行と南北連合の結合である。しかし、偶然的な要素の介入も排除できない。世界体制がカオスに陥った場合、分断体制という慣性の下、南北間に混乱が発生する可能性が高くなり、南北連合を不安的にするかもしれない。何れにせよ、確かなのは、急進的な移行が行われた場合、抱え込まなければならないリスクは非常に大きくなるという事実である。たとえ、世界体制が協力的な秩序を形成するとしても、急進的な移行は分断体制を破局的な状況へと追い込む可能性があるのだ(表を参照)。
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世界体制 |
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アメリカ中心の |
中国中心の |
カオス |
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南北の |
漸進的移行 |
南北連合 |
南北連合 |
南北連合、又は衝突 |
急進的移行 |
衝突、又は吸収統一 |
衝突、又は 中国の影響力の 極大化 |
衝突 |
4. 新たな経済モデルの模索
分断体制移行の過程は南北連合、衝突と吸収、新たな分断・孤立など、様々な可能性がある。どのシナリオが実現するとしても、南北の各体制は新たな環境に適応する発展モデルを作り出さなければならない。では、どのようなものが分断体制以降のモデルとして適用可能であり、適切であろうか。
韓国の進歩的知識人の間で好まれているモデルの一つに社会民主主義対案がある。これは、民主主義と決別し、市場の失敗を矯正する国家の役割を認め、普遍的な福祉と議会・参与民主主義の拡散を内容とする政治的企画である 。 最近の韓国の社会民主主義運動に関しては、次の書を参照すべき。福祉国家SOCIETY 政策委員会『福祉国家革命』、ミム、2007。社民+福祉企画委員会編『韓国社会と左派の再定立』、散策者2008。
しかし、社会民主主義を可能にする条件と韓国の現実との乖離に対して多くの指摘もある。福祉国家の内部には、連帯賃金による賃金格差の縮小、同質的な産業構造、程よく組織化された事業者組織と労働組合、そして社会的妥協などが存在する。ところが、韓国は市場も国家も上手く作動しておらず、独占と寡占、不公正取引き、消費者と下請け企業に対する略奪、公共部門における利益集団化などが横行している社会である。社会民主主義では問題が上手く解決できないということである 。 田炳裕(ジョン・ビョンユ)「韓国の労働市場構造と福祉国家の形成」、ジョン・ムゴン編『韓国福祉国家の性格論争II』、人間と福祉、2009。金大鎬(キム・デホ)「北ヨーロッパ産の思想理念の貿易商たちの宴会を見て(1)」『よい政治フォーラム』、ニュースレター、2009.1.21。
社会民主主義の企画は分断体制を克服する対案にはなり得ない限界を抱えている。福祉国家のモデルのジレンマは制度運営の柔軟性が弱いという点である。失業率が高くなると、賃金協約の保障範囲から除外された人々が増加し、失業者に投入される財政需要が増加する。政府は財政を考慮し、出来るだけ、移民者への補助金支給を避けようとする。南北の経済統合の過程において北朝鮮から韓国へと移住する人は増加するであろう。ところが、社会民主主義のモデルを適用すれば、北朝鮮の制度移行、南北間の労働市場、及び社会保障制度の統合に所要される財政負担は増加するしかない。移行と社会民主主義は上手く噛み合わないと思われる。
社会民主主義や福祉国家の形成過程の「第一歩」を見ると、幾つかの流れが存在する。ドイツの場合、「労働者兄弟団」(1848年に設立されたドイツ初の政治的労働団体)の自治行政の経験と期待、労働を国家に包摂しようとしたビスマルクスの国家社会主義の企画、ブルジョア民主主義と市民社会から離脱した労働者だけの独自的な階級政党などの、幾つかの流れが統合し、「社会民主主義」を形成した 。パク・クンガプ『福祉国家造り:ドイツ社会民主主義の起源』、文学と知性社、2009。 この中で国家社会主義や孤立前線のような要素は経済的に非効率的で、政治的にも議会や政党体制においてなかなか承認されない。韓半島の統合過程で吸収すべきものは、社会民主主義全体ではなく、過去の協同体から受け継がれた自治精神に基づいた参与や共同決定の議題、国家行政・中央行政・官治行政に対立する自治行政の要素である。
市場の役割は重要である 。 市場を資本主義と同一視するのは再考すべきである。 ブローデルは経済を三層構造と見なし、一番下に基礎的で自給自足的な「物質生活」が、その上に需要と供給と価格を水平に繋ぐ「市場経済」が、そして、その隣、もしくは上に、最もずる賢く強力な者が支配する反市場の「資本主義」が存在すると主張した。 しかし、市場自体が目的となってはいけない。アリギは、アダム・スミスの理論を衝撃療法、最小政府、自己規制的市場に対する新自由主義的な信条とは関係ないと再解釈している。彼によると、スミスの「市場に基づいた発展」という概念は、政府が規則の手段として市場を利用し、貿易自由化において、公共的な安定性を損なわないため漸進的に行動することであるとする 。 アダム・スミスの時代は、市場による調節だけを語ることはできなかった。スミスは政府の役割を否定せず、政府の役割は資本家間の競争促進、生産単位間の労働分業の奨励、労働人口の知的レベルの低下を防ぐための教育投資などであるとした。また、政府は国内市場と農業の発展に重点をおくべきであるが、これが暴力と侵略から社会を保護する国家の第一課題と衝突した場合は、産業と外国貿易に優先権を与えることができるとも主張した。G. Arrighi, Adam Smith in Beijing: Lineages of the Twenty-First Century, Verso 2007、 42~44頁、358頁。
このような意味で、中国の改革をスミス的な特徴が典型的に観察される事例として高く評価したりもする。中国では、特定段階において、市場化が集中的に推進されたが、社会的労働分業の拡大と深化を目的とした漸進主義改革と政府行動、教育の莫大な膨張、資本家の利益の国家利益への従属、そして、資本家間の競争の実質的な促進なども共になされた。さらに、中国の改革では、国内市場の形成と農村の生活水準の改善という目的も重要に取り扱われた 。 Arrighi、前掲書、361頁。
グローバル金融危機のショックにより、今後、アメリカの主導していた市場主義のモデルが世界の標準として批判なく受け入れられることは難しい。従って、新たな歴史的対案、従来のヘゲモニーに代わる秩序のあるアナーキーの可能性への期待も徐々に高まっている。しかし、まだ、中国がアメリカに代わる対案のモデルになり得るとは断定できない。中国は、今までアメリカの対案というよりは、むしろアメリカのパートナーであったと言った方が適当であろう。
これまで中国の高度成長はアメリカの過剰消費に依存したものであり、中国は元価値をドル価値に固定させることにより、ドル体制による利益を高めた。 中国の一日の為替取引き量は、2007年4月基準で、90億ドルに過ぎなく、これは全世界の0.2%に当たる程度である。中国は当分の間、ドル体制に挑む意志も能力もない。中国の長期的な高度成長は、他の発展途上国の成長の機会を完全に奪ってしまう可能性もある。中国がアメリカに代わるためには、世界市場の役割を果さなければならないが、過去、中国の輸入品目は輸出のための中間材が殆どである 。中国の輸入品目の中で消費材の比重は、2007年、3.6%に過ぎない。ジ・マンス「世界経済危機の中の中国経済」、木曜フォーラム、2009.5.22。
言い方を換えれば、これまでの中国は「さらに圧縮された東アジアのモデル」であったと言える。これは、原料・中間材と市場を外部に依存し、企業・労働・農業・国家の効率を改善しながら、既存の政治体制を持続させようとする「中国特色」の東アジアのモデルであったのだ 。李日榮 『中国の農業、東アジアへの圧縮』、ポリテリア、2007、エピローグ参照。 従って、アメリカのような外部の市場が存在すれば、持続できるが、そうでなければ、安定的に成り立つことはできない。また、中国は東アジア型の高度成長をさらに圧縮することにより、労働関係、農民問題、民主主義などの内部的矛盾を拡大してきた。
しかし、東アジアのモデルの「改善」は避けられない。中国においても2000年代半ばからは、改革・開放による市場化の段階を終了し、「科学的発展観」という新たな発展モデルと調和的な社会(和諧社会)を模索している。これまで分断体制の下、歪んだ発展をしてきた韓半島においても、新たなモデルへの転換は避けられない。中国にとっても韓半島にとっても新たなモデルの核心は、公共的な安定性を維持し、市場発展と政府介入を調和させることであろう。
政府が規則の手段として市場を利用し、産業化・貿易・投資の基礎として国内市場と農業・農村を発展させることが「市場に基づいた発展」とするなら、我々は「市場に基づいた発展」を「より発展した東アジアのモデル」と言えるわけだが、その核心は市場と公共的な安全性を、そして開放的な国際環境と社会的な連帯性を調和させることである 。 東アジアのモデルの核心は、国家が「発展を目指す」ことであり、そのために「資源の分配に介入」する政策手段を使用することである。過剰な発展志向性や国家介入の方法に対する反省が東アジアのモデルの「改善」の骨組みである。しかし、発展志向性を完全に否定し、除去することは不可能であり、また望ましいことでもない。特に分断体制以降の北朝鮮地域に対しては、圧縮成長の時間と空間を一定に容認すべきである。
5. 地域の形成と発展
民族主義を拒否し、韓国単独で福祉国家モデルを追求しようとする試みは、分断体制の壁にぶつかり、挫折する可能性が高い。福祉国家モデルは、社会主義革命理論とはかけ離れたものであるにも関わらず、分断勢力は絶えず「赤」の恐怖を促し、福祉勢力を孤立前線へと追い込むだろう。分断体制の下で、福祉の向上を福祉「国家」を通して成し遂げることは容易ではない。分断体制を地域間の協力体制の中に溶け込ませ、地域レベルでの福祉を向上させる方が遥かに効果的な戦略である。
地域経済の統合は、世界的流れではあるが、東アジアの経済協力体の発展は北アメリカやヨーロッパと比較すると、かなり遅れをとっている。しかし、世界体制の再編は、東アジアの地域協力に新たな転機を与えている。アメリカなどへの輸出に依存した成長戦略の限界は明らかな事実である。自国通貨に対する低評価政策に基づいた重商主義的戦略への反省もなされている。最近に至っては、通貨危機の再発防止のため、800億ドル規模の共同基金の造成にも合意を得た。域内の外貨保有高を基盤にしたアジア通貨基金(AMF)を創設しようという声も上がっている。韓国・中国・日本を含む東アジア自由貿易地帯(EAFTA)の結成も、結局は実現するだろう。
資本主義はアメリカ型一つしかないのではない。地域経済統合は、地域別に多様な資本主義の形を形成する制度の収斂過程を内包している。例えば、北アメリカのNAFTAはアメリカ型のモデルを、ヨーロッパのEUはヨーロッパ型のモデルを発展させ続けている。東アジアにおいても既存の日本型のモデルと、近来有力なモデルとして登場した中国型のモデルが、お互いに影響を与え合っている状況の中で、新たなモデル、「より発展した東アジアのモデル」が形成される可能性が見られる 。 望ましい東アジアの制度収斂協力の基本原則としては、調整市場経済体制、格差問題解決に有能な体制、民主的統制が可能な体制などが挙げられる。崔兌旭(チェ・テウ)「東アジア地域間協力体制の推進を主唱する」『創作と批評』、2009年春号。 これに域内の全ての国家の持続的な成長と国家間の格差の縮小、各国の内部格差の解消など、「東アジアの福祉社会」という議題が含まれるよう努力し、東アジア協力体制の中で、分断体制を南北連合の協力体制へと転換させることが最も望ましい。
ところが、問題は、既存の国家を単位として、新たな地域行為者を作り出すことが東アジアにおいて可能かどうかということである。又、東アジア経済統合が実現したとしても、中国と日本という絶対的な強者が存在する条件の下、ヘゲモニーでない、文明的な関係が形成できるかという不安もある。東アジア協力体制が成立するとしても、韓半島の分断体制の対立・葛藤構造は解消されないかもしれない。
だからこそ、国家を超えた地域形成が、域内の市民の生活の質を改善する善循環の仕組みを作り出すことが重要な課題となる。このような善循環を起こすためには、二つの契機が必要である。一つは各国家を単位として、その中での政治力を改善することである。もう一つは、国家よりも小さな規模の地域を活性化させることである。勿論、この二つの契機は相互補完的であろう。
世界化の進展、経済組織の再編、革新の重要性の増大などにより、資本主義が機能する領土は多様化した。伝統的な農業や職人中心の産業、先端製造業やサービス業などにおいて、一方では、革新と知識の重要性が高まりながら、空間の集中化が展開し、もう一方では交通・通信手段の発展と企業組織形態の再編による空間の分散化が進行した。信頼と協力の構築のためには、小さな空間が適切であるが、その一方で、規模の経済、範囲の経済を充足させるためには、大きな空間を必要とする。
このような要求に応じたものが、「多中心集積地」、「都市地域」、「広域地域」である。これらは、単一地域ではなく、多数の近隣地域間の機能的連係を伴う地域ネットワークである。広域地域は自生力の確保のため、圏域を拡大したものであるが、その本質は知識・関係・動機のようなローカル的なものに基づいている 。アメリカのシリコンバレー、オランダのラントスタット、日本の関西などがこのようなネットワーク型の空間構造を具えている。ジョン・ジュンホ「広域経済圏戦略の背景と推進課題」『都市問題』、2008年4月号、12~18頁。
世界化、技術の進歩に伴い、国家は超国家機構と国家内の広域的な地域機構へ、より多くの権力を譲ったり、分散させることとなった。もはや、中央政府が、多様で微妙な地域発展の問題を取り扱うことは困難となってきたのである。従って、地域レベルでの、下から形成された多様なガバナンスが、一層重要となってきている 。 李明博政府は広域経済圏構想を推進している。しかし、それが中央と地方の支配・従属関係をそのまま維持したまま、中央政府の主導により既存の行政区域を空間的に拡大するものであれば、地域自治の水準をむしろ後退させる結果をもたらすかもしれない。広域地域化の意味は地域の自立性を高めることにある。広域化された地域は、中央政府との水平的な分業関係、広域地域内の効果的な意思疎通システムを具備しなければならない。
農村地域も独自的・自生的な力だけでは、発展し難い。国家の主導の下、農業を保護する政策フレームは1930年代の農業恐慌以降に形成されたものである。保護政策が必ずしも産業としての農業の競争力を高めるわけでなく、グローバル化された貿易条件とも合わない。他の産業と分離された枠内で執行される農業補助金政策、都市と分離された農村の地域政策は、産業的・空間的に、規制と壁を築き、長期的には農業と農村の成長動力を失わせてしまう。農村地域が新たな自生力を作り出すためには、広域地域に参加し、都農複合体を形成し、国際的なネットワークへと繋がっていくべきである 。 李日榮 他『21世紀型農業・農村のための農政パラダイムの転換』、韓国労働研究院、2007、第2章。
6. 国家と混合型組織の役割
経済組織の側面から見ると、交換、もしくは取引きを組織する典型的な制度として「市場」と「企業」が存在する。市場では取引きの当事者が水平的な関係を保っているが、企業内では位階的な関係に基づいて、命令経済が行われる。理論的には市場での取引き費用が多額になると、企業という組織で対応する。取引き費用とは、簡単に言うと、交換のための探索・交渉・契約・執行にかかる費用のことである。一方、企業の管理費用が増加しすぎると、組織を解体し、市場取引きを選択することになる。国家は管理的な決定により、生産要素を使用できるという点において一種の超大型企業と見なすこともできるであろう。
ところが、冷戦体制と分断体制の下、形成された発展至上主義は、国家と企業の歪んだ成長を促した。産業化の過程では、価格を歪曲する巨視的政策と統制的な管理体制が一般的に使用された。北朝鮮では、国家と企業が一体化され、位階の原理が支配的であった。韓国においては、国家や制度により保護される領域では、市場原理が過少適用され、その領域外では市場万能主義が横行していた。
分断体制の下、国家では歪んだ膨張が進み、南北共に、冷戦勢力が寄生し、さらには支配力を行使したりもした。国家は、軍事力、警察力、その他の法的強制力を持っており、市場取引きを回避する能力がある。国家は財産を徴発する権限を持っているため、低費用により産業を遂行することも出来るが、その管理装置に費用がかかり、時にはその費用が莫大となる恐れもある。国家による管理が効率の改善をもたらす場合もあるが、逆に国家よりも市場や企業に任せた方が効果的な結果をもたらす場合もある。しかし、南北においては合理的な計算と判断に先立って、分断体制維持の手段として国家を利用することが多かった。
分断体制以降は、国家の役割は再調整されるべきである。国家は規則の手段として市場を利用し、公共的な安全性を図るべきである。しかし、官僚制が直接資源を割り当てられて、直接運営するという方法には慎重になるべきである。市場、不完全な長期契約、企業、法的規制、官僚制などの多くの手段を慎重に比較した後、行動するという接近方法が最も望ましい 。国家の役割をあらかじめ信頼も不信もしないロナルド・コース(Ronald H. Coase)の次のような立場を参考とする。「私は経済学者、政策決定者らが、一般的に政府の規制の利点を過大評価する傾向があると信じている。しかし、私の考えが当たっているとしても、政府の規制を減らすべきだと言っているわけではない。また、私の考えが境界線がどこに引かれるべきかを教えてくれるわけでもない。これは多様な方法で取り扱われた実際の結果を具体的に調査することにより得られる。けれども、間違った経済分析により調査が行われたら、それは非常に不幸な結果をもたらすだろう。 Ronald H. Coase, “The Problem of Social Cost,” Journal of Law and Economics 3, October 1960。
国家は市場の失敗とシステムの失敗を補正し、戦略的な権能付与者としての役割を果す方向へと資源を集中させるべきである。大企業と中小企業の不均衡、地域間の不均衡、革新産業の過少供給などは、市場原理によって解決することは難しい。このような市場失敗には国家の役割が必要である。福祉など、公共サービス部門においても、支配的な直接的供給者となることには慎重を要する。最近は、公共部門や民間部門の行為者が必要とするサービスを提供できるような権限を与える国家の役割が必要とされている。
特に移行期の経済において、制度を構築するため、国家のすべきことは非常に多い。東ヨーロッパの場合、政治体制が最も早く変化し、法体系も比較的速やかに改善されたが、これには政府機構が大きく寄与した。しかし、形式的な制度の形成において、成果を得たとしても、制度が下部にて上手く作動しているとは限らないものだ。国家の管理層、特に中心に位置する官僚制は非常にゆっくりと変化し、企業の境界や内部構造も微々たる程度の変化しか見られなかった。衝撃療法により、大衆的な私有化を進行し、先進国の支配構造を取り入れたが、適正技術の移転はなされなかった 。 Peter Murrell, “Institutions and Firms in Transition Economies,” Claude Ménard and Mary Shirley eds., Handbook of New Institutional Economics, Springer 2005。
経済組織レベルでは漸進的な移行が避けられない。外部環境によって拘束されていた市場経済が作動すれば、企業の規模と境界も再構築されなければならないのだが、企業内の官僚制が一挙に変わるわけではない。何が適切な組織形態なのか、探索する過程も必要である。 従って、市場と企業の両者の中間に存在する経済組織が移行過程において登場することになる。現実では、経済組織は、市場と経済という二つの極端な形としてだけ現われるわけではない。普通は、市場の中に位階要素が、そして位階の中に市場の要素が混合する形で存在する。市場と企業の間に存在する混合的組織形態には、クラスターから統合体に近いパートナーシップに至るまで、非常に多くの形が存在する 。市場は最も分権化された組織形態であり、企業(位階)は内部での調整・統制の程度が最も強い組織形態である。市場と企業の間に集権化の程度が強くなる順として、トラスト、関係的ネットワーク、リーダーシップ、公式的統治機構などの組織形式が存在する。李日榮「ハイブリット組織モデルの修正と応用:格差問題への対応のために」『動向と展望』、2009年夏号。
韓半島レベルでは、南北の経済の統合過程において、効率化と格差解消を同時に進行することが重要な課題となる。北朝鮮ではインセンティブ改革、支配構造改革、所有制改革などが結合して行われるべきであり、農業やサービス業、一部の先端産業においては混合型組織を上手く利用すれば、より一層効果的あろう。さらに、格差の問題、貧困の問題、環境の問題においては、国家の役割が重要であるが、国家が全ての問題を解決することは不可能である。 このような問題には、協同組合、社会的企業、 非営利組織などが、却って効果的な場合もある 。 共同組合は、企業形態に比べて、統制の程度は低く、当事者間の高い信頼を追及する混合型組織の一つの形態である。社会的企業とは、企業と組織構造は同じだが、利潤極大化の代わりに社会的恩恵優先の原則によって運営されるものをいう。非営利組織(NPO)は、本質的に交換の純利益の最大化に関心を持たないという点で共同組合や社会企業とは異なる。李日榮、前掲書。
7. 「美しい国」の基礎、「韓半島経済」
アメリカ発の金融危機は、アメリカのヘゲモニー時代が完全に終了したことを物語っている。既にアメリカの支配的な地位から分かれて、東アジア、特に中国の経済的上昇の勢いが強化される世界体制が形成されつつある。20世紀の産物であった韓半島の分断体制は徐々に力を失いつつある。新たな秩序を作らなければ、我々はカオスへと陥ってしまうであろう。そうなれば、恐慌、失業、貧困、難民、伝染病などが我々に襲いかかり、さらには、戦争と殺戮の惨劇を目の当たりにするかもしれない。
60年前、白凡(ベクボム)金九(キム・ク)は、分断のカオスの中で消え去ってしまった。しかし、彼の残した「美しい国」の夢は新たに生まれつつある。彼は「私は、我が国が世界で最も美しい国となることを望む。最も富強な国になることを望むのではない。(・・・)ただひたすら手に入れたいものは、高い文化の力である」と語った。幼く弱い生まれたばかりの祖国への年老いた闘士の夢は分断体制以降の新たな秩序の種となった 。 李日榮「美しい国」、韓国日報、2009.6.29。
白凡は、「我々の強い力は他の侵略を防げればそれで充分である」とした。これは老子の「小さな国、小さな人民」(小国寡民)のユートピアの姿と相通じる。また、孟子は「 ただ仁者のみ能く大を以て小に事うることを為す。だた智者のみ能く小を以て大に事うることを為す」という「事小」と「事大」の結合を主張した。崔元植(チェ・ウォンシク)は、これを「小国主義を彼方に見据えつつ、大国と小国が共に集う中型国家」とする 。 崔元植「大国と小国の相互進化」、『創作と批評』、2009年春号。 中型国家は、国家主義を反省する国家であり、国家を超えた「地域」、国家の下で国家の外部と繋がる「地域」により矯正される国家である。
白凡は、さらに「我々の富の力は我々の生活を豊かにすればそれで充分である」と語った。これは、成長至上主義を超えた持続可能な発展の経済モデルを先駆的に示している。新たな経済モデルは、ミクロ経済の視点から言えば、資本と労働中心の生産主義から抜け出し、消費者の観点を積極的に混合したモデルである。また、マクロ経済の視点から言えば、成長一辺倒から抜け出し、公共的な安定性を共に追及する混合モデルである。そして、経済組織の視点から言えば、極端化された市場と企業モデルの中間に多様な混合組織が発展できる生態界を設けることだ。
「韓半島経済」は「美しい国」の基礎である。それは国家と共に、「地域」と「地域」が繁栄する国、市場と企業、そして市場と国家の中間に多様な組織が共存する経済である。孔子の言う「和而不同」での「同」は支配・吸収・合併の論理である一方で、「和」は、多様性を認める寛容の論理であり、共存と平和の原理である 。 申榮福(シン・ヨンボク)『講義:私の東洋古典の読み方』、ドルベゲ、2004、160~64頁。 韓半島経済は「和」の論理に従い、平均値や最大値などの抽象世界から抜け出そうとしている。それは、生命の究極的な実体としての多様性と変異に焦点を合わせた「フルハウス(Full House)」のモデルだ 。進化生物学者であるスティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould)によると、「(生物進化の)教訓は多様性と変異、それ自体を尊重すべきだということだ。優秀性は特定な点ではなく、広く広がっている違いである。我々は、変化に満ちたそれぞれの位置で優秀になるために奮闘しなければならない。」スティーヴン・ジェイ・グールド『フルハウス』、サイエンス、2002、321~22頁。(*)
訳=申銀兒
季刊 創作と批評 2009年 秋号(通卷145号)
2009年9月1日 発行
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